カテゴリー「11.抒情のしずく」の67件の記事

2013/12/13

四十にして惑々。五十にして天命を知る、か?

 十年に一度の区切りだから書いておこう。

 四十代が終わるのだけれど、それが嬉しいときている。

 四十になる直前は、ジョン・レノンより年上になってしまうことをうまく受け入れられずにいた。浮かない感じで始まったわけだけれど、次第にそれでは済まずきつくなっていった。

 自分で長期の呪いをかけてしまったのかもしれないが、四十代はきついと呟くやうになっていった。そして、実際、きつかった。

 思えば、四十代のどこかで、無条件の肯定力を持っていた祖母と父を亡くした。それもきつさが増し、続く理由にもなったろうが、このブログもそういう目でみれば、それをしのぐために書いてきたようなものかもしれない。そもそも書きはじめたきっかけが、天寿を全うしかけて眠る祖母の横で、与論のためになることを何もしていないのにうろたえて、あわてて立ち上げたことだった。これから書いていきます、という所信表明のようなことがせめてもの報告だった。

 不惑どころでは全くない。惑惑だった。その四十代が終わろうとしている。

 何の根拠もないのだけれど、終わるというだけで、ことの他嬉しい。劇的に何かが変わるわけでもなく、引きずるものは引きずると分かっていても、ただ終わるという、そのことにほっとする。四十代はきつかったと、先取りして言ってしまう。

 四十を前にして不惑の予感はまるでなかったのに比べ、天命を知ることは、不惑よりは分かるところがあるような気がするのも救いだ。

 長かった。

 さようなら四十代、さようなら色をなくした日々。

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2010/03/08

南米ですか?

 南米ですか?と言われた。
 イラン、イタリア、マレーシア、東南アジア、アイヌは言われたことあるけど、南米は初めてだった。
 まあどこも自分のルーツの一部と思えてならないところばかりなのではあるが。

 と、今日はツイートのようなブログ。


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2010/03/03

ツイッターをやるようになって

 ツイッターは初期と前期とで印象が変わる。ぼくも初期、なぜこの人の一日をぼくが追わなければならないのだろうと腹立ち紛れに思っていた。ところが、つわものに言わせれば、100人をフォローするまではそのよさは分からないとのこと。そこで、フォローしてくれた人に返すという消極的なやり方でフォロワーを増やしていった。

 どれくらいだろう。やはり100人くらいだったのか、あるときからタイムラインを眺めるのが楽しみになった。さまざまな人がさまざまな情報や、どちらかといえばポジティブな気分を伝えてくれるのが面白いのだ。情報についてはもはや、地震も天気も電車遅延もスポーツの結果もビジネス情報もツイッターで真っ先に知るようになっている。それは、気づくよりも早く気づくというようなスピードで時間差がなく、リアルタイム上に並んでいる相当の人の数を思い浮かべることができる。

 また、自分がフォローした人は何らか、関心を共有しているので、届く情報やメッセージの中身にすぐに入っていくことができる。ここで共有している心地いい気分は、高橋源一郎の言葉を借りれば、

「誰かの「つぶやき」を聞いたり(見たり)するのは、その「つぶやき」の意味を知りたいというより、自分とその相手の位置の違いを知りたいからなのかもしれない。あるいは、自分が(相手が)どこにいるのかを知りたいからなのかも。」(「日本文学盛衰史」「群像」高橋源一郎)

 ということかもしれない。

 mixiからツイッターへ流れてきた人は、mixiウザイと言い、ツイッターの関係のゆるさを歓迎し、ブログからツイッターへ流れてきた人は、その文字数制限にブログより楽とつぶやく。ぼくはにとってブログは、日記ではなく読書録や考えたことを記す場所だから、ツイッターはブログの代替物にはなりえないが、それでも、ニュースや感情を共有したいときはツイッターを頼るようになってきた。

 ぼくは、メール、ブログの延長戦にツイッターを見つめ、テキスト文化の行方に関心があるが、メールやブログと相違があるとしたら、ツイッターがヤポネシアに受容されているのは、問答歌や相聞歌の歴史と響き合っているのではないかということだ。

 まだしばし、観察していきたい。

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2010/01/03

ゆんぬんちゅになれた気が

 大事なことを言い忘れてた。

 今回、お世話になった島のみなさん。みっしーく、とうとぅがなし。うかぎさまん、ゆんぬんちゅになれた気がしました。


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2009/12/25

ココログ6周年に寄せて

 ココログが6周年を迎えて白書を公開している。

 ココログ白書2009

 ブログを開設した日は、2005年2月27日とある。けれどこの日は書き始めた日ではない。心から敬愛していた百四歳の祖母が意識を失うようになったのを聞いて慌てて与論に帰った。ぼくは昔から与論のために何かをしたいと思い続けてきたし、周囲にも言ってきた。けれどその時点で何もなにもしていないのに気づいて焦った。何も報告できないまま祖母が逝ってしまうかもしれない。ぼくは何かできることはないかと考えて、メールアドレスを持っていたニフティでブログを開くのを思いついた。たしか、祖母の家のダイヤル回線を拝借してインターネット接続して開設の手続きだけした。それからもしばらく祖母は生き、百五歳の誕生日の次の日に書き起こした。その三日後に祖母は旅立った。

 それからぼくはブログを書き始めた。

 少し書く動機が違うかなと思うところがあるとしたら、アクセスをアップさせるなどの方策は何もしないと決めていた。読みやすさのために最初は短く文章を切っていたが、それがまだできてもいない自分の文体を育てることになっていないと思ってそれも止めてしまった。もう少し分かりやすくしてほしいとときどき言われる。ぼくもわざとそうしているわけではない。難解にしたいのでもなく、短い時間で直観的に感じていることを言葉に封じ込めるので精一杯なのだ。

 誰にも見せたくないから、アクセスアップなどの方法を採らないのではない。多くの人に見てほしいのではなく、出会うべき人に出会いたい。そういう想いだった。不思議なもので、そうするとゆっくりと与論縁、奄美縁、琉球縁と縁は広がり、自分のように感じる人は自分だけではないということも分かったし、本を書くという機会にも恵まれた。本にするときは、まともな文章にする場をいただいたと思った。

 白書では、あなたにとってブログって結局何ですか?という問いがある。このブログについていえば、ぼくには、精神安定剤だ。これが、与論や奄美、琉球へとつながる通路なのだ。

 「もしあなたが天国に召されたとき、自分のブログをどうしたい?」。

 ぼくに望みがあるとしたら、大きくなったら、子どもたちに読んでほしいということだ。それだけである。

 少し感傷的なのをお許しください。子どもの誕生日に、白書の問いかけが合って、つい、書いてしまった。


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2009/12/23

さようなら、吉田慶喜さん

 昨日、森本さんから吉田慶喜さんが亡くなられたとお聞きした。

 吉田慶喜さんは、『奄美自立論』を書く際に、知りたいことがあり、電話で長い時間、取材をさせてもらった。

 吉田慶喜さんの『奄美の振興開発』の、次の記述がぼくには重要だった。

また、吉田慶喜の『奄美の振興開発』(一九九五年)によれば、一九五四(昭和二九)年、復帰後の奄美に鹿児島県の知事重成を迎えた郡民大会では、奄美の復興に対する声に加えて、「さらに、いまもなお、アメリカ軍政下におかれ、祖国復帰達成のために困難なたたかいを続けている沖縄の 復帰促進のために、全力を尽くされんことを強く訴える」という発言がありました。

 その他にも、奄振の成立過程でお聞きしたいことがあった。取材のなかで、これは自分の推測に過ぎないが、という現場にいた方ならではのエピソードも知ることができた。偶然だが、ぼくの親戚も吉田さん宅に下宿したことがあったとのことで、最初から打ち解けて話してくださったのが嬉しかった。

 交流といえば、それだけだ。会うべき人には無理してでも会うべきである。そういうことが悔やまれる。戦後の奄美でよく闘ったこられたのだと思う。ご冥福をお祈りしたい。


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2009/11/16

詩穂ちゃんのご冥福をお祈りします

 めぐみさんから内山詩穂さんが亡くなられたと連絡をいただいた。

 恐れていたのはこのことだと今ごろ分かったようで言葉が見つからないと、めぐみさんは書いていたけれど、ぼくもほぼ同じ気持ちだ。ささやかな縁だったけれど、隣島の小さな命のことを覚えていたいと思う。

 ご冥福をお祈りします。



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2009/10/31

釘づけ

 都心でよくもまあと思うくらい、素直な子たちだ。古い土地柄には強い地域性が残っているので、それがシールドを張っているのかもしれない。いつもながら合唱も吹奏楽も懸命に向き合っている。でもって水準が高いものだから、見守るより純粋に鑑賞する気分でいられる。最優秀の金賞には体育館が割れんばかりの拍手が起きて、受賞したクラスも誇らしげなことこの上ない。

 思い出せば、自分のときは、校内暴力が激しく、校舎も教師も生徒も荒んでいて、こんな文化祭など想像もできなかった。中学のときに、この水準の達成を体験できるのは、これから生きていく中で大きな励みになるだろうなと思う。

 ときに、あるクラスのとき、指揮者をやっている子が息子のガールフレンドだと聞いて、目が釘づけになってしまった。踊るような指揮を眺めながら、なんというか、切ないような懐かしいような何ともいえない気持ちになるのだった。なんだろう、これはと不思議に思ったが、子どもが生まれたときの感情に似ていた。


Chitochusai2009

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2009/10/06

廣野さんとの別れ

 廣野さんとのお別れに、藤沢に行ってきた。いまとなっては晩年の、一年余の短いお付き合いだった。冥界に彷徨っているような苦しい時に、知りあう機会があり、誘われるままに、品川駅近くの高層のオフィスにお邪魔した。そのとき、ケータイ・メールで少しも迷う心配のない案内を書いてくださったのを覚えている。オフィスでは、異業界の方たちとのビジネス・ミーティングに参加させてもらった。

 「ぼくは止まり木なんですよ」と廣野さんはおっしゃった。「元気が無くなるとぼくのところへ来て、元気になると飛び立っていくんです」と。まさに、ぼくにとってもそう感じられた場面だった。

 自分の窮状に負けそうになって相談したことがあった。そのとき、オフィスのある高層ビルの谷間の中庭のベンチで話しを聞いてもらった。廣野さんは、経営者は孤独であること、状況と仕事をするのではなく「天と仕事」すべきであることを話してくれた。ぼくの気力は委縮していて、廣野さんのアドバイスのように行動することはできなかったけれど、聞いてもらったことで肩の荷がずいぶん軽くなる気がした。肌寒い夜だったけれど、樹々を照らす街灯のオレンジが温かだった。

 新しいサービスの顧客の紹介をお願いしに伺うと、「俺をそんな安っぽいことに使うな」と叱られたこともある。身体は年輪を刻んでいるが、その眼光はあくまで鋭かった。何回かビジネス・ミーティングに参加させてもらった。SEのメンタル・ヘルスをテーマにしたセミナーに参加したこともあった。けれど、この間に浮上したビジネス構想を、結局どのひとつも実現することはできなかった。急ぐ廣野さんに、ぼくの生命力は追いつかなかったのである。ひょっとしたら、そのとき廣野さんは、自分の残された時間が念頭にあったのかもしれなかった。

 独自の商品開発モデルがあり、多くのヒット商品の実績を持ちながら、それによって報酬を要求したことはないとおっしゃっていた。会社に入ろうと思ったことは一度もない、とも。廣野さんの生き方には、武士道、いや彼の好みにしたがえば、騎士道と呼ぶべきスタイルがあって、それを堅持することは廣野さんの矜持だったと思う。

 ほんとうは、こうして廣野さんのことを書くには、ぼくの交流はあまりに短く、淡い。けれど、そうした者にも、やってくる生き様の強さはあり、それはぼくの中に残る。

 「ばんばん受注している報告を聞かせてくれ」と言われ、それができないまま残りの時間を過ごしてしまった。いまようやく別の形の報告ができることになったとき、突然のように廣野さんは逝ってしまった。ご冥福をお祈りしたい。(通夜の帰り、薫陶を受けた人たちに合流させてもらった。ありがたかった)。



 

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2009/09/05

最後の決勝戦。惜しかった。

 決勝戦。ゼロ・ゼロのまま緊迫した試合は最終回を終了。こういう場合はサドンデスをするらしい。

 ワンアウト1、2塁の状況からゲーム開始。4番バッターは最高の当たりだったが、センター正面のライナー。走り出していた2塁走者が、刺されてダブルプレイ。ものにできずにチェンジ。重苦しい空気が漂う。

 同様にワンアウト1、2塁から開始で守備につく。あれ、なんだったかな。何かあって満塁。次のバッターの打球は1塁側へファールで横にそれて飛んでいったが、わが子が横っとびで忍者のようにキャッチ。思わず拍手で、重苦しい雰囲気から流れを一気に引きこんだ。

 のだが、次のショートゴロが深く、間一髪、判定はセーフ。

 あまりに一瞬の出来事で、選手も応援しているぼくたちも呆然。試合終了してもまだ呆然としていた。惜しかった。ぼくたちもそうだが、選手たちはもっと悔しかっただろう。

 ん~、残念。だけど、みんなこれを糧にしていってほしい。と、思う。


 これで息子たちのスポーツ観戦も最後かもしれない。ちょっとさびしいが前を向こう。少なくとも、忍者飛びで捕球したあとの子どものはにかんだ表情はずっと記憶に残る。宝物だ。


So0So1_2So2So3So4Team1Team2Team3Team4

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