カテゴリー「11.抒情のしずく」の60件の記事

2009/11/16

詩穂ちゃんのご冥福をお祈りします

 めぐみさんから内山詩穂さんが亡くなられたと連絡をいただいた。

 恐れていたのはこのことだと今ごろ分かったようで言葉が見つからないと、めぐみさんは書いていたけれど、ぼくもほぼ同じ気持ちだ。ささやかな縁だったけれど、隣島の小さな命のことを覚えていたいと思う。

 ご冥福をお祈りします。



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2009/10/31

釘づけ

 都心でよくもまあと思うくらい、素直な子たちだ。古い土地柄には強い地域性が残っているので、それがシールドを張っているのかもしれない。いつもながら合唱も吹奏楽も懸命に向き合っている。でもって水準が高いものだから、見守るより純粋に鑑賞する気分でいられる。最優秀の金賞には体育館が割れんばかりの拍手が起きて、受賞したクラスも誇らしげなことこの上ない。

 思い出せば、自分のときは、校内暴力が激しく、校舎も教師も生徒も荒んでいて、こんな文化祭など想像もできなかった。中学のときに、この水準の達成を体験できるのは、これから生きていく中で大きな励みになるだろうなと思う。

 ときに、あるクラスのとき、指揮者をやっている子が息子のガールフレンドだと聞いて、目が釘づけになってしまった。踊るような指揮を眺めながら、なんというか、切ないような懐かしいような何ともいえない気持ちになるのだった。なんだろう、これはと不思議に思ったが、子どもが生まれたときの感情に似ていた。


Chitochusai2009

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2009/10/06

廣野さんとの別れ

 廣野さんとのお別れに、藤沢に行ってきた。いまとなっては晩年の、一年余の短いお付き合いだった。冥界に彷徨っているような苦しい時に、知りあう機会があり、誘われるままに、品川駅近くの高層のオフィスにお邪魔した。そのとき、ケータイ・メールで少しも迷う心配のない案内を書いてくださったのを覚えている。オフィスでは、異業界の方たちとのビジネス・ミーティングに参加させてもらった。

 「ぼくは止まり木なんですよ」と廣野さんはおっしゃった。「元気が無くなるとぼくのところへ来て、元気になると飛び立っていくんです」と。まさに、ぼくにとってもそう感じられた場面だった。

 自分の窮状に負けそうになって相談したことがあった。そのとき、オフィスのある高層ビルの谷間の中庭のベンチで話しを聞いてもらった。廣野さんは、経営者は孤独であること、状況と仕事をするのではなく「天と仕事」すべきであることを話してくれた。ぼくの気力は委縮していて、廣野さんのアドバイスのように行動することはできなかったけれど、聞いてもらったことで肩の荷がずいぶん軽くなる気がした。肌寒い夜だったけれど、樹々を照らす街灯のオレンジが温かだった。

 新しいサービスの顧客の紹介をお願いしに伺うと、「俺をそんな安っぽいことに使うな」と叱られたこともある。身体は年輪を刻んでいるが、その眼光はあくまで鋭かった。何回かビジネス・ミーティングに参加させてもらった。SEのメンタル・ヘルスをテーマにしたセミナーに参加したこともあった。けれど、この間に浮上したビジネス構想を、結局どのひとつも実現することはできなかった。急ぐ廣野さんに、ぼくの生命力は追いつかなかったのである。ひょっとしたら、そのとき廣野さんは、自分の残された時間が念頭にあったのかもしれなかった。

 独自の商品開発モデルがあり、多くのヒット商品の実績を持ちながら、それによって報酬を要求したことはないとおっしゃっていた。会社に入ろうと思ったことは一度もない、とも。廣野さんの生き方には、武士道、いや彼の好みにしたがえば、騎士道と呼ぶべきスタイルがあって、それを堅持することは廣野さんの矜持だったと思う。

 ほんとうは、こうして廣野さんのことを書くには、ぼくの交流はあまりに短く、淡い。けれど、そうした者にも、やってくる生き様の強さはあり、それはぼくの中に残る。

 「ばんばん受注している報告を聞かせてくれ」と言われ、それができないまま残りの時間を過ごしてしまった。いまようやく別の形の報告ができることになったとき、突然のように廣野さんは逝ってしまった。ご冥福をお祈りしたい。(通夜の帰り、薫陶を受けた人たちに合流させてもらった。ありがたかった)。



 

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2009/09/05

最後の決勝戦。惜しかった。

 決勝戦。ゼロ・ゼロのまま緊迫した試合は最終回を終了。こういう場合はサドンデスをするらしい。

 ワンアウト1、2塁の状況からゲーム開始。4番バッターは最高の当たりだったが、センター正面のライナー。走り出していた2塁走者が、刺されてダブルプレイ。ものにできずにチェンジ。重苦しい空気が漂う。

 同様にワンアウト1、2塁から開始で守備につく。あれ、なんだったかな。何かあって満塁。次のバッターの打球は1塁側へファールで横にそれて飛んでいったが、わが子が横っとびで忍者のようにキャッチ。思わず拍手で、重苦しい雰囲気から流れを一気に引きこんだ。

 のだが、次のショートゴロが深く、間一髪、判定はセーフ。

 あまりに一瞬の出来事で、選手も応援しているぼくたちも呆然。試合終了してもまだ呆然としていた。惜しかった。ぼくたちもそうだが、選手たちはもっと悔しかっただろう。

 ん~、残念。だけど、みんなこれを糧にしていってほしい。と、思う。


 これで息子たちのスポーツ観戦も最後かもしれない。ちょっとさびしいが前を向こう。少なくとも、忍者飛びで捕球したあとの子どものはにかんだ表情はずっと記憶に残る。宝物だ。


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2009/08/21

縁があれば世間も狭く

 学年が一つ違う高校の同校生が、日本語学校の校長先生をしているので、高田馬場で飲みながら日本語のレクチャーをしてもらった。仕事で必要性に迫られたテーマがあるからだったが、とかく目線が枝葉になりがちなので、もっと幹を捉える方法を知りたかった。

 で、主題を立てる/まとまりをつくる/つなぐ、などの視点で、高文脈依存と言われる日本語の文章を組み立て方を教えてもらい、すっきりしたし、そういう書物があればいいのにと思った。最近、文法や敬語の本を漁って気づいたのだが、日本人のために説明された本より、日本語を学ぶ外国人のために書かれた本の方がはるかに分かりやすかった。もっとも、『日本人の知らない日本語』は学んでいるより、笑っていることのほうが多かったのだが。この本にある類のエピソードは彼にも豊富にあって、生徒に飲みに誘われたとき断ると、「無念」と返されたそうだ。愉しい。この、日本語教育の領域は、いずれ逆輸入が起きるんじゃないかと思う。

 ブログを書いて以来、20年ぶり30年ぶりの再会に恵まれるようになった。それはブログのおかげということもあれば、そうしてもいいと思える歳月を積み重ねがあるということでもあるだろう。どちらにしても不思議で感慨深い。ところで彼との再会縁は、ブログではない。山手線である。30年近く経っての再会。青豆と天吾は強く望んでも20年ぶりほどの再会に苦労したけれど、ぼくたちは会えた。縁があれば世間も狭くなる、ということか。


『日本人の知らない日本語』

Nihongo

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2009/08/19

何もしなくていい時間

 お見舞いに行ったつもりが、思った以上に元気で、思わず長居させてもらった。静かな場所で何もしなくていい時間が流れた。何もしなくていい時間は、今のぼくには得ようと思っても得られるものではなく、そうできる条件が整ったときだけ訪れる特別のものだ。しかもそれは一人ではできない。ぼくのほうがミニ入院したように、治癒されに来たみたいだった。

 採れたての葡萄。洗わなくてもいいそうで、甘く素朴な味を堪能させてもらった。昔、ずっとむかし、父がお客さんと島の言葉で談笑し、母はその横で裁縫をしながら相槌を打ったりしている。思い出か想像か。とにかく、そんな場面を思い出した。いやそういうより、その場にいるようだった。あったかく、居心地がいい。お酒の入らない長話も格別だった。


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〈白〉幻想

 中村喬次の「ちんだみ随想」が懐かしいエピソードで愉しかった。<白>幻想である。

 沖縄人にしては色が白く大和人にしては色が黒い。ならばその中間色かというと、そうではない。白と黒の淡い、やや黒よりの白、と話はややこしい。とにかく、それが沖縄人の目に映る大島人らしい。僕にもいくつか覚えがある。「眉の濃いのと日はうちなあだが、色は確かに大島だな」と。亡くなった作家、森瑶子さんが最初、「オッ」、と少しおどけた調子で背を反らせ、「いかにも南島人、つて感じね」と笑った。南島人といって沖縄人と分けたところがみそである。
 誰が見ても典型的な「ウチナージラー」している友人のアナウンサー、上原直彦氏(昭和13年生まれ)が、地元紙に面白い話を書いている。
 彼によると、ヤマトゥージラー(本土人の色白さ)を、沖縄人はこう表現したというのだ。
 「ンーチクーガンーチャンねぇ(ゆで卵をむいたような色白)」。さらには「ゆで卵に目・鼻・ロを描いたよう」とも喩えたそうだ。言い得て妙とはこのことか。喩えは皮肉も嫌みでもなく、羨望を込めてそう言ったというのだから、なんだか切ない。
 島んちゅの色白コンプレックスは、ひところ猛威を振るっていた。稀に色白がいたりすると「大和人みたい」と呼ばれ、同性たちの熱い眼差しを浴びることになる。色白と美人は同義語であった。
 (白)の威力は絶大であった。復帰前、こんなジョークがささやかれたと聞く。
 「復帰したら何かいいことがあるかい」「大島にも雪が降るチ。女も色は白くなるチ」あえて「切ない」と書いたゆえんだ。(中村喬次「ちんだみ随想」「南海日日新聞」2009年8月7日)

 大島は奄美の意味になることもあるが、ここでいう「大島人」は奄美大島のことだと思う。与論人は黒い、からである。いや黒かったと言うべきか。そういえば、鹿児島に転校したとき、「こんな黒い人は見たことない」と言われた(笑)。その厚黒?の少年もところ変わればしばらくしてやや白い少年になった。

 自分が先に白くなったくせに、島に帰ったとき、めーらび(娘さん)のなかには色白の人がいるのに気づいてびっくりした。いったいどうやったら与論で白くいられるのだろう、と不思議だった。「色白と美人は同義語であった」信仰がきっとあったのですね。

「復帰したら何かいいことがあるかい」「大島にも雪が降るチ。女も色は白くなるチ」あえて「切ない」と書いたゆえんだ。

 「雪」への憧れは大和信仰とは別にしてもあった。正月には、海から砂浜を運んで(重かった!)庭にまいた。清めるということだったと思うが、子どもには、雪が降ったときの光景のようにわくわくした。でも、この文章はなんといっても、語尾の「チ」が懐かしいのである。ぼくも弟が生まれた日の日記(「きょう海からかえったらおかあさんが赤ちゃんをうんでいました。」)に、「だっこをしていたら三かいもおかあさんがつかれたちききにきて」と書いている(苦笑)。


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2009/08/15

ヒットらしいヒットでたくましくもなったです

 区営大会の準決勝戦。息子は6番ファーストで出場。1本、センター前のタイムリーヒットで役目を果たして、観ている方も嬉しくほっとした。

 息子は必ずしも強力打者ではない。今日も、監督は息子の出塁後の次のバッターに、「喜山が打ったんだからお前も打て」と、言われるほうがちょっと気の毒だった(苦笑)。まあでも、以前、イチローもどきの内野ゴロを足で稼いでヒットにしていた頃に比べたら、ヒットらしいヒットでたくましくもなったです。

 代わりにというか、声も低くなって、以前は、あんなに響いていたかけ声が聞き取りにくくなった。変わりゆく姿だ。ともあれ、決勝進出おめでとう。


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2009/08/11

「何もかも吹き飛ばしてくれ」

あー暴風よーこの小汚いオッサンの何もかも吹き飛ばしてくれーーっ!!赤ちゃんになりたい!!

 オッサンでなくてもそう思うときはあり、しかし赤ちゃんになりたいかは人それれぞれだとしても(笑)、「何もかも吹き飛ばしてくれ」という想いは、台風のとき、一瞬過ぎる。

 「吹けよ風、呼べよ嵐!! 地震は遠慮します。」を読むと、台風のときの、あの高ぶる感じが蘇ってくる。

 

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2009/08/09

再会の vivo!

 先日、池袋の vivo! で飲んだ。ここはビア・バーといえばいいのかな、世界中のビールがよりどりみどり。泡盛や黒糖焼酎になだれこむことが多いけど、もともとビール好きでもあるのでこれもアリだと思った。

 日経の「「帰属しない」奄美史に脚光」を偶然読んだ友人が連絡をくれたのがきっかけだった。百貨店時代の同期で、会うのはほぼ20年ぶり。

 当時、ぼくが童名(やーなー)を持っていることや風葬のことを話したのをとてもよく覚えていてくれて、それもあって記事が目についたのだと思う。とても衝撃的でもうひとつ名前があるなんて素敵と言ってくれたものだった。

 でも、あの時、言葉にできなくて、今できることがあるとしたら、それは歴史的な負荷をある程度、説明できることだった。それは今回の驚きだったと思う。

 ただ、ぼくの想いとしては、歴史的な負荷を知ってもらうことは大事だけど、童名(やーなー)や風葬は面白いというほうで覚えてもらえたら嬉しい。そっちのほうがいいな、と。

 友人自身も自然体でほとんど変わらず、すぐに20年前に戻ることができた。3年以内に子どもを連れて与論島に行きたいと言ってもらえるのがどれだけ嬉しいか。こういう再会は得難いことで、心の底から感謝だ。公私ともに順中満帆でありますように。


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