カテゴリー「10.自然の懐」の42件の記事

2013/10/11

台風受難、ふたたび

 昨年、一ケ月のうちに三回も連続した台風の直撃に対して、「特異な年」と書いたが、そうは言えなくなってしまった。10月7日に通過した台風24号は、台風の目がすっぽり与論島を包むように進行し、去年に比べればたった一回で、去年と同規模の被害を出してしまった。

 今回は既に1000棟以上の建物被害と速報されているが、去年は、住宅、非住宅合わせて1185棟。島からは、「去年より酷かった」という声も聞こえている。

 なぜ、一回で去年並み、あるいはそれ以上の被害になるのだろう。台風の中心点が通過するということはそれだけエネルギーが違うのだろうか。専門家の説明がほしいところだ。

 九州電力の応援隊により、台風通過後三日目の10日には電力復旧。しかし、ネットがつながらない住宅はまだ多く、ツイッター、ブログ、Facebookでいつもの声が聞こえないのは、気がかりでもありさびしくもある。また、それ以上に、建築資材の到着と屋根のはやい補修が待たれる。

 そして南洋にある26号の進路も気がかりだ。でも、いくらなんでももう接近しないでもらいたい。


「台風経路図2013年」

Typhoon24_2

「デジタル台風:2013年台風24号(ダナス|DANAS)」

201324

「台風26号 進路予報」

26

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2012/12/29

少なくとも二度、珊瑚礁は産まれた

 吉成直樹が、管浩伸の「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」(2010年)を引いて整理しているのが次の内容。

 南琉球(石垣島周辺)と沖縄島などで約八五〇〇年前に現海面下一五~二〇メートルから、沖永良部島で約七九〇〇メートルから礁形成が始まる。活発に隆起する喜界島では完新世珊瑚礁が約二五メートルの層厚を持ち、形成開始も九九〇〇年前と古い。また、珊瑚礁が海面に到達した時期は、石垣・西表間の石西礁や沖縄島南部で約六五〇〇年前、久米島で約五五〇〇年前、沖縄島北部や与論島で約三五〇〇年前と地域差がある。その後、地形が成熟していく過程が数千年続く。縄文後期並行期には遺跡数が顕著に増加するが、この頃、珊瑚礁の発達が砂州や浜堤列など海岸平野をつくる地形の形成と海浜の安定をもたらし、人類の居住に適した土地をつくったこと、そして浅く穏やかな浅礁湖の形成によって資源を利用する環境が整ったことが要因である。また、沖縄島の野国貝塚群から出土した貝類相から、縄文早期並行期には珊瑚礁環境が成立していたとする見解も傾聴に値するという。(『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』p.69)

 ぼくは今年ずっと勘違いしていたが、与論島が海面に到達したのが「約三五〇〇年前」とされているが、これは島自体ではなく、現在の珊瑚礁の礁嶺のことなのだった。考えてみれば当たり前なことで、珊瑚礁の内側にはその内円のように島は既にあったのだ。 ぼくはそれを、「ミナタ海岸の漁港から1,800m、ピシバナ外水深35mのところに海中洞窟があり、第二ピシバナ(あるそうで)の落ち込み口のところにあり、鍾乳石が下がっている」 という基昭夫さんの指摘で気づいた。うかつなこと、はなはだしい。

 たとえば、喜界島の百之台のサンゴ礁段丘は10万年前に形成されたという。10万年前は現在より14メートル海水準が低く、百之台の標高は200メートルだから、10万年のあいだに214メートル、喜界島は隆起したことになる。ただ、この間、平均的に隆起しているわけではなく、

「過去7000年間に少なくとも4回の隆起イベントが1000~2000年周期で起こっていたことが分かります(Sugihara et al., 2003 など).約1400年前に起こった隆起イベントを最後に,喜界島は隆起をせず,安定な状態が続いている」。(「喜界島の隆起速度に関する最新の研究成果を教えてください」

 過去7000年以前の隆起イベントについては言及されていないので不明だが、隆起は不断にではなく断続的に起こっていると見なして差し支えないだろう。

 喜界島と比較してみれば、与論の標高は100メートル弱なので、喜界島の約半分の隆起に止まり隆起速度も大人しい。ただ、喜界島と同様に言えるのは、珊瑚礁の島としての与論は、珊瑚礁が形成の後、隆起して島となり、その外周にふたたび新たな珊瑚礁が形成されて現在の姿になったということだ。少なくとも二度、珊瑚礁は産まれたわけだ。

 約2万年前の最終氷期には現在より海水準は120~140メートル低く、当時、どれだけ島が隆起していたかは分からないが、現在の与論島も120~140メートルプラス100メートル未満、つまり、120~140以上220~240メートルの標高を持っていたことになる。島はもっと高くもっと広かったのだ。

 管によれば、縄文時代後期並行期、約4,500 ~3,300年前には琉球列島の「遺跡数が顕著に増加」するが、この頃に「珊瑚礁の発達が砂州や浜堤列など海岸平野をつくる地形の形成と海浜の安定をもたらし、人類の居住に適した土地をつくったこと、そして浅く穏やかな浅礁湖の形成によって資源を利用する環境が整ったことが要因」に挙げられていて、与論の遺跡の上限が3500年前を遡らないことと符合している。

 ただし、これは与論にそれ以前に島人がいたと仮説することを妨げない。海面下120~140メートルのどこかに、与論でいえば、「第二ピシバナ」と呼ばれるどこかに遺跡が残っていないとも限らないからだ。けれど仮に奄美や沖縄島の例のように数万年前に島人がいたとしても、それは3500年前の遺跡人と同じとは言えないだろう。現在の島人(ゆんぬんちゅ)との連続性もうろんなことだと思う。


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2012/11/17

与論島、2012年の台風受難

 わずかひと月の間に三度も台風が島を直撃した2012年は、3500年を超える与論島史のなかでも特異な年だったに違いない。与論を通過した日に焦点を当てれば、台風15号・ボラヴェンが8月26日。その21日後の9月16日に台風16号・サンバ。さらにそのわずか8日後の9月29日の台風17号・ジェラワット。三つの台風はわずかひと月余りの間に次々と島に襲来した。

 しかも、気象庁の台風経路図を並べてみると、三つともがことごとく、欠かせない寄港地であるかのように与論島近くを通過しているのが分かる。いくら台風に慣れっこの島と島人であってもこれにダメージを受けないはずがなかった。

T1215_2

T1216

T1217

 台風15号は島の砂浜の形を変えるほどの力を持っていたが、当初、最大瞬間風速が70m/sにまで達すると予想されていたのと異なり、40m/s超程度で収まった。ここでぼくたちが耳にしたのは「壁雲」という言葉だった。風がそれほど強くなかったのは島から発せられるツイッターの様子でも伺い知ることができたが、その理由を気象庁は「壁雲」で説明した。台風中心の外側に、輪を描くように「壁雲」(積乱雲)が発生し、外からの風がその雲の壁に阻まれたため、中心付近で風が予報ほどには強まらなかったというのだ。1977年に日本の陸上での最低気圧を記録した沖永良部島台風並みの勢力を恐れた島人にしてみたら、これはほっとする事態だった。

 しかし本格的な被害はその安堵の後にやってきた。9月16日の16号で、島の道路標識は倒され電柱は傾き、倒れた木が道を塞ぎ、民宿の屋根は飛ばされ倒壊した家屋も出てしまった。そして泣きっ面に蜂で、片づけにいそしんでいた矢先の29日には17号が再び島を直撃し、サッカーゴールを倒し、屋根を飛ばされた家も後を絶たず、島には瓦礫の山ができた。この後、にっぽん丸の寄港など、台風後の静かな世界を取り戻したかに見えたが、のろのろして島の東の海上を去らなかった21号の影響で15日には島のガソリンが底をつく。物資も当然、不足したわけで島への供給はその5日後の20日を待たなければならなかった。

 ぼくは改めて、「離島苦」という言葉を思い出さざるをえない。

T1221

◇◆◇

 鹿児島県のサイトによれば、16号、17号の被害状況は次のようにカウントされている。

1. 人的被害
軽傷1名

2. 住家等被害
1)住家被害(棟)
全壊 30
半壊 128
一部損壊 723
床上浸水 5
床下浸水 1
――――――
合計 887(棟)

2)非住家被害(棟)
公共建物 
全壊 2
半壊 2
その他  
全壊 133
半壊 161
――――――
合計 298(棟)

 現在、2454世帯があるから、およそ3分の1以上に及ぶ家に大小の被害があった。これに牛小屋や事務所を含めると、全部で1185の建物が傷んだのだ。

 16号の後からは島の外で義援活動が起こり義援金の募集も始まった。テレビの取材も入り、いくぶん窮状は外にも伝わった。けれど、ぼくたちに印象深いのは、疲労や疲弊の大きさよりそれらのを胸に抱えながらそれでも淡々としている島と島の人たちの姿ではないだろうか。これには、これだけの規模の直撃に襲われながら、死者や負傷者が、軽傷者1人のみに収まっているので、大きな哀しみを生まずに済んでいることも寄与しているだろう。けれど、それにしても島は淡々と静かでいるように見える。

 ブログ「地球征服はご陽気に!」では、そんな島人たちのありようを、

僕は知ってる...まず相手のことを思う与論人 他の人を思い黙して状況を訴えない慎み深く誇り高き人達(「与論島 約1週間ぶりにガソリンの販売再開」

 と書いてくれている。出身者のぼくは、そんな上等なものではないと思いながらも、この激励には深く感謝するし、それとともに、「黙して状況を訴えない」島人のありようには目を奪われる。ぼくは深い諦念に包まれた島人となりをここにも見るように思う。他人事ではないこととして、そう思う。

 義援金活動は年末まで続いている。現在も受け付け中だ。

[以下、引用]

●ゆうちょ銀行
口座番号:01720-3-184
名義:与論町台風16号災害義援金
※全国のゆうちょ銀行間の振込手数料が受付期間中は無料となります。
[受付期間:平成 24 年10月3日(水)~平成 24 年 12 月 28 日(金)]

●奄美大島信用金庫
与論支店
口座番号:(普)0301535
名義:与論町台風16号災害義援金
※全国の信用金庫からの振込手数料が受付期間中は無料となります。
[受付期間:平成 24 年10月1日(月)~平成 24 年 12 月 31 日(月)]

●あまみ農業協同組合
与論支所  
口座番号:(普)0045748  
名義:与論町台風16号災害義援金
※全国の JA バンクからの振込手数料が受付期間中は無料となります。
[受付期間:平成24年9月25日(火)~平成24年12月31日(月)]

●現金書留による送金
〒891-9301  
鹿児島県大島郡与論町茶花 32 番 1 総務企画課内
与論町台風16号災害対策本部
※ 宛名のところに「義援金係」と明記して下さい。
受付期間中は料金が免除となります。
[受付期間:平成 24 年 10 月3日( 水 )~平成 24 年 12 月 28 日(金)]

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2012/01/24

リーフとしての琉球弧

 中国大陸を下に置くと、台湾や日本列島は離れで、琉球弧はリーフに見える。


Ryukyu


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2012/01/01

2011年暮れの東北行

 2011年の暮れ、東北に行ってきた。東北といっても、一泊しかなかったので気仙沼と石巻に限ってのこと、そして物資を運ぶでもなくボランティアでもなく、ただの旅人としてだけれど。東京から正味四時間、気仙沼はもう日も陽も陰っていた。とにもかくにも港へ向かう。信号が復旧してだいぶ元に戻ったと街の人は言う。ただ、海が近づくにつれ、一階が消失したままの家屋や、根こそぎ無くなった更地が点在している。瓦礫は自衛隊とボランティアのおかげで見るみるうちに無くなったそうだが、あったはずのものがない廃墟感があたりに漂う。

 港は当然のことだけれど、空気が冷たい。寒いというのは、冷たさが肌に直接当たる感覚を言うのだなと思った。「日差し」に、この字ではなく、「陽射し」と当てたくなるのは、太陽が直接当たる感覚を表わしたくてそうするのだけれど、それと同じ感覚が「寒さ」にもあるわけだ。手が一気に冷たくなる、いや痛くなる。気仙沼大島へ向かうフェリーの横には、暗くてよくは見えなかったが、折れて漂流した桟橋が港の端に傾いたまま放置されてあった。

 近くには十一月にオープンしたばかりの仮設店舗の屋台村「気仙沼横丁」があり、そこで腹ごしらえのお世話になることにした。混んでいる店は気後れするので、ひっそりとした佇まいの店に。女将と弟が営むその店は、津波で家屋を海に持って行かれたと教えてくれた。二人とも気仙沼を離れていたが、これを機に戻ってきたのだと。そこへほろ酔いの初老の男性が入ってくる。そして店を出ようとするぼくを引きとめて、少し話を聞いてくれと言う。

 ダンボール二枚敷いてよ、こんな薄い毛布あてがわれてよ。どうすっぺって身体震わせてよ。「眠れないですね」。眠ったら凍死すっぺさ。仮設住宅ってそんなとこよ。オレは経験したから分かる。この屋台村だってみんな借金だよ。どうすっぺ。女房がいたって子どもがいたって一人になったら辛いよ。お兄さんも経験したら分かる。一人旅と違うんだから。仕事があったらまた別だよ。毎晩、テレビ見てそれでもたまらないからここにこうして呑みに来るわけ。財布と相談しながらよ。お兄さん、今日の日記に書いといてよ。

 彼の話をまた聞きたいと思うけれど、その機会はあるだろうか。

 翌朝、タクシーの運転手さんに頼んで少し走ってもらうと、辺り一画のほとんどが基礎だけ残して更地と化しているのに驚く。鹿折(ししおり)と呼ばれる場所。でもその向こうに巨大な漁船の姿が見えてさらに驚いた。第十八共徳丸。港から百メートル以上は離れているそこに一隻の漁船が目立った傷もなく、そこに置き場所を間違った展示物のようにぽつんと立っている。更地と漁船と。これが津波の威力というものか。いやそれはもう津波というより、海そのものの力だ。

 あの日、漁に出た漁船は津波に向かって真っすぐに進んで助かっているけれど、休んでいた漁船は持って行かれるか打ち上げられたそうだ。小さな漁船はほとんど撤去されたが、第十八共徳丸はまだ手つかずのまま残されている。これをモニュメントとして残すか、それとも撤去するかは、地元でも議論がまだ分かれているのだという。

 更地と化した一画に接するように、ひしゃげた旅館、ガタガタのサービスステーション、L字のビルの角にあって難を逃れた蔵(いやそれは難を逃れたとは言えないのだが)、時を止めたように凍った毛布。それらがあの日の証言者のように孤立した姿を晒している。

 近くの高台には神社があり、そこからの気仙沼湾の眺めはあくまで静かだった。あの日、この高台からは周りが海と化していく様子がまざまざと見えたのに違いない。GoogleMapで見ると、ここからすぐ北に陸前高田がある。

 気仙沼と石巻を結ぶ気仙沼線は津波で駄目になってしまっているので、気仙沼から石巻へ向かうには一度、内陸へ向かい、南下して東へ向かう迂回路を取る必要があった。乗り継ぎも東京のようにはいかない。途中、北上川を横切る。やはらかに柳あをめる北上の岸辺。実際に見る北上川は水彩の黄緑に鈍く光っていた。大きな川だ。結節点の小牛田(こごた)では、食べログで饅頭屋、「山の神まんじゅう村上屋」を見つけ、立ち寄る。かつては何軒もの饅頭屋で賑わったが今はこの一軒を残すのみになったそうだ。鉄道の結節点としてそこに従事する人と行き交う商売人とで賑やかった一時期があったのだろう。遠くに山を見通して田畑が広がる風景のなかではどんな物語が生まれ、人はどんな自己形成を果たしていくのだろう。

 石巻は、駅の改札でこの街が何を売り物にしているか教えている。街中も、サイボーグ009や仮面ライダーやロボコンの像があちこちに立っているので、何だか守られている気分になってくる。もちろん、守ってくれたわけではなく、ここでも海へ近づくにつれ、がらんどうになった一階や更地が目立った。いやそれでも、「倒れなかった、仮面ライダー」と新聞記事が伝えたように、彼らは歯を食いしばっているこの街を今こそ象徴しているのかもしれない。旧北上川の中州にある石森漫画館は一階部分が津波に洗われ今も休館中だった。けれど、入口付近の壁には板が張られ、幾重にも寄せ書きが記されていて、訪れた人の想いが詰められていた。

 ここでもとにかく港へ行きたかった。石巻出身の作家、辺見庸の「死者にことばをあてがえ」という詩が気になり、彼が遊んだという石巻の海を見たかった。

類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを 百年かけて 海とその影から掬え

 「かれやかのじょ」というのは、津波による死者たちのことだ。

 28日に操業を終えた漁港は静かだった。そしてきれいだった。その静けさと美しさは、まるで何事も無かったかのように時代を進もうとする世相を思わせて少し辛くなる。漁港の向こうには、津波を真っ先に引き受けた地域のひとつである牡鹿半島が見渡せた。けれど、何も無かったということはありえない。振り返れば、できたばかりの市場の壁が骨組みだけ残し、そこに冷たい風が吹いていた。

 海に向かって手を合わせた。気仙沼でもそうした。そうしてやっと、これがしたくて来たのだと思いいたった。


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(この角度で撮りたくなるのは、「宇宙戦艦ヤマト」を観て育っているからだろうか)

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2009/07/22

嗚呼、日食

 これは、前利さんに送ってもらった沖永良部の日食。

Erabueclipse

















 これは、「あまみ便りblog」さんの大島の日食。

 皆既日食、当日!

 そして、わが与論の日食。(by あんとに庵さん)

 [島日記]日食写真撮ってみた


 ため息です。悪石島などで見れなかったのが何とも残念だけど。



 

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2009/04/10

降灰一過になりますように

 桜島の噴火と降灰は鹿児島の風物詩みたいなものだけれど、最近は聞いたことがなかった。久しぶりなんじゃないだろうか。

 桜島 爆発的噴火、鹿児島市街地に大量の降灰

 高校のとき、自転車通学したりしたが、火山灰が降る日はやっかいだった。それに雨が加わると目も痛かった。洗濯物も外に干せない。

 島は台風に悩まされてきた。火山灰は直接的には台風のように人命を奪うことは滅多にないが、鹿児島はそれに悩まされてきた。島は赤土の土壌が農のハードルを上げたが、シラス台地も農のハードルを高くしてきた。雪は滅多に降らないけれど、火山灰はよく降る。鹿児島の風土を考えるとき、降り積もる灰の持つ意味は重い。

 早足の台風のように、降灰一過になるといい。


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2009/03/21

「ウミガメが教えてくれること」

 「ウミガメが教えてくれること」を観た。与論も産卵場所のひとつだし、海でよく会えるから、海亀は親近感いっぱいだ。

 でも、沖永良部の光景はすごかった。「沖永良部島ウミガメネットワーク」の方が案内して高台から下を覗くと、海亀の群れが見えるのだ。与論でもダイバーの人たちは見ているかもしれないけれど。珊瑚の窪みを使って寝ることも知らなかった。珊瑚礁とは相性がいいいわけだ。産卵の場所で台風を知らせることも知らなかった。

 日本の浜辺で生まれた海亀が太平洋を渡り、メキシコの海で成長し、ふたたび太平洋を横断して日本の浜辺に産卵にやってくる。その生態と数が少なくなっている背景を知り、メキシコの漁師が海亀がかからないように網を変えたり食べるのをやめたりしているのに驚かされた。

 海亀は産卵のとき涙を流す(ようにみえる)が、それは人間にそう見せることで昔から大切にされてきたのではないかと解説されていたが、そんな風に大切にしようと思わせる力が海亀にはあるのかもしれない。浦島太郎の物語しかり。

 元ちとせのナビゲーショjンは優しかったが、出演者としての彼女は島のアクセントそのままでしゃべっているのがよかった。「遠い海へ旅に出た私の友達」もいい感じだった。

Umigame

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2009/01/27

キノボリトカゲの大和のぼり

 宮崎県で、そこにいないはずの生物が発見された。

そしてわが目を疑うほどに驚いた。ガラスケースの中にいたのは、奄美諸島から八重山諸島、台湾北部にかけてが生息域で、本土にはいないはずのキノボリトカゲだったのだ。

 【生きもの異変 温暖化の足音】(52)ある日、見慣れぬトカゲが

 このキノボリトカゲ。温暖化の影響で繁殖し、すでに数万匹いるのではないかと推測されている。

 生態系を壊すなら駆除しなければいけないが、いま調査中とのこと。それというのもキノリトカゲ、

 市の慎重姿勢には訳がある。実はこのトカゲは、奄美・沖縄で、マングースの食害を受けて激減し、環境省のレッドデータブックで「絶滅危惧(きぐ)II類(絶滅の危険が増大している種)」に指定されている。

 からなのだという。

 まるで、マングースのせいで居場所を失ったキノボリトカゲが、移住先を決めたみたいだ。

 キノボリトカゲ


 あるいは、日本の琉球復帰のメタファーのような、不埒な空想も思い浮かぶ。


 

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2008/12/07

木の葉みたいなわが与論

 昨年夏の与論島。望郷の念からの投稿です。はい。

 左下には滑走路近くにプリシアがあり、左端からちょっと北側にいったところは、「めがね」の舞台であり、与之島でも唯一、現地の撮影なのが分かった墓地があり、入り江奥にはわがフバマも見えます。

 ♪ 木の葉みたいな、わが与論。

 こうやってみると、ほんとそうですね。


Yunnu2007

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