2011年の暮れ、東北に行ってきた。東北といっても、一泊しかなかったので気仙沼と石巻に限ってのこと、そして物資を運ぶでもなくボランティアでもなく、ただの旅人としてだけれど。東京から正味四時間、気仙沼はもう日も陽も陰っていた。とにもかくにも港へ向かう。信号が復旧してだいぶ元に戻ったと街の人は言う。ただ、海が近づくにつれ、一階が消失したままの家屋や、根こそぎ無くなった更地が点在している。瓦礫は自衛隊とボランティアのおかげで見るみるうちに無くなったそうだが、あったはずのものがない廃墟感があたりに漂う。
港は当然のことだけれど、空気が冷たい。寒いというのは、冷たさが肌に直接当たる感覚を言うのだなと思った。「日差し」に、この字ではなく、「陽射し」と当てたくなるのは、太陽が直接当たる感覚を表わしたくてそうするのだけれど、それと同じ感覚が「寒さ」にもあるわけだ。手が一気に冷たくなる、いや痛くなる。気仙沼大島へ向かうフェリーの横には、暗くてよくは見えなかったが、折れて漂流した桟橋が港の端に傾いたまま放置されてあった。
近くには十一月にオープンしたばかりの仮設店舗の屋台村「気仙沼横丁」があり、そこで腹ごしらえのお世話になることにした。混んでいる店は気後れするので、ひっそりとした佇まいの店に。女将と弟が営むその店は、津波で家屋を海に持って行かれたと教えてくれた。二人とも気仙沼を離れていたが、これを機に戻ってきたのだと。そこへほろ酔いの初老の男性が入ってくる。そして店を出ようとするぼくを引きとめて、少し話を聞いてくれと言う。
ダンボール二枚敷いてよ、こんな薄い毛布あてがわれてよ。どうすっぺって身体震わせてよ。「眠れないですね」。眠ったら凍死すっぺさ。仮設住宅ってそんなとこよ。オレは経験したから分かる。この屋台村だってみんな借金だよ。どうすっぺ。女房がいたって子どもがいたって一人になったら辛いよ。お兄さんも経験したら分かる。一人旅と違うんだから。仕事があったらまた別だよ。毎晩、テレビ見てそれでもたまらないからここにこうして呑みに来るわけ。財布と相談しながらよ。お兄さん、今日の日記に書いといてよ。
彼の話をまた聞きたいと思うけれど、その機会はあるだろうか。
翌朝、タクシーの運転手さんに頼んで少し走ってもらうと、辺り一画のほとんどが基礎だけ残して更地と化しているのに驚く。鹿折(ししおり)と呼ばれる場所。でもその向こうに巨大な漁船の姿が見えてさらに驚いた。第十八共徳丸。港から百メートル以上は離れているそこに一隻の漁船が目立った傷もなく、そこに置き場所を間違った展示物のようにぽつんと立っている。更地と漁船と。これが津波の威力というものか。いやそれはもう津波というより、海そのものの力だ。
あの日、漁に出た漁船は津波に向かって真っすぐに進んで助かっているけれど、休んでいた漁船は持って行かれるか打ち上げられたそうだ。小さな漁船はほとんど撤去されたが、第十八共徳丸はまだ手つかずのまま残されている。これをモニュメントとして残すか、それとも撤去するかは、地元でも議論がまだ分かれているのだという。
更地と化した一画に接するように、ひしゃげた旅館、ガタガタのサービスステーション、L字のビルの角にあって難を逃れた蔵(いやそれは難を逃れたとは言えないのだが)、時を止めたように凍った毛布。それらがあの日の証言者のように孤立した姿を晒している。
近くの高台には神社があり、そこからの気仙沼湾の眺めはあくまで静かだった。あの日、この高台からは周りが海と化していく様子がまざまざと見えたのに違いない。GoogleMapで見ると、ここからすぐ北に陸前高田がある。
気仙沼と石巻を結ぶ気仙沼線は津波で駄目になってしまっているので、気仙沼から石巻へ向かうには一度、内陸へ向かい、南下して東へ向かう迂回路を取る必要があった。乗り継ぎも東京のようにはいかない。途中、北上川を横切る。やはらかに柳あをめる北上の岸辺。実際に見る北上川は水彩の黄緑に鈍く光っていた。大きな川だ。結節点の小牛田(こごた)では、食べログで饅頭屋、「山の神まんじゅう村上屋」を見つけ、立ち寄る。かつては何軒もの饅頭屋で賑わったが今はこの一軒を残すのみになったそうだ。鉄道の結節点としてそこに従事する人と行き交う商売人とで賑やかった一時期があったのだろう。遠くに山を見通して田畑が広がる風景のなかではどんな物語が生まれ、人はどんな自己形成を果たしていくのだろう。
石巻は、駅の改札でこの街が何を売り物にしているか教えている。街中も、サイボーグ009や仮面ライダーやロボコンの像があちこちに立っているので、何だか守られている気分になってくる。もちろん、守ってくれたわけではなく、ここでも海へ近づくにつれ、がらんどうになった一階や更地が目立った。いやそれでも、「倒れなかった、仮面ライダー」と新聞記事が伝えたように、彼らは歯を食いしばっているこの街を今こそ象徴しているのかもしれない。旧北上川の中州にある石森漫画館は一階部分が津波に洗われ今も休館中だった。けれど、入口付近の壁には板が張られ、幾重にも寄せ書きが記されていて、訪れた人の想いが詰められていた。
ここでもとにかく港へ行きたかった。石巻出身の作家、辺見庸の「死者にことばをあてがえ」という詩が気になり、彼が遊んだという石巻の海を見たかった。
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを 百年かけて 海とその影から掬え
「かれやかのじょ」というのは、津波による死者たちのことだ。
28日に操業を終えた漁港は静かだった。そしてきれいだった。その静けさと美しさは、まるで何事も無かったかのように時代を進もうとする世相を思わせて少し辛くなる。漁港の向こうには、津波を真っ先に引き受けた地域のひとつである牡鹿半島が見渡せた。けれど、何も無かったということはありえない。振り返れば、できたばかりの市場の壁が骨組みだけ残し、そこに冷たい風が吹いていた。
海に向かって手を合わせた。気仙沼でもそうした。そうしてやっと、これがしたくて来たのだと思いいたった。





(この角度で撮りたくなるのは、「宇宙戦艦ヤマト」を観て育っているからだろうか)












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