カテゴリー「 9.音楽・映画・絵画」の53件の記事

2017/03/09

「誰かとうまくいかないのは、本当に相手のせいだろうか」(宮国優子)

 浜辺に行くと、蟹たちは一斉に、そこここに掘ってある白い穴のなかに逃げ込んで姿を隠す。そのままじっと待っていると、もう大丈夫かなというように、おもむろにまた姿を現す。人見知りとはこういうことだと、よく思う。

 礁池(イノー)の波はゆるやかだから、水切りをするにはもってこいだった。砂山もつくった。トンネルも掘って、満ち潮の波がトンネルを通過するのを眺めた。でも粘質はまるでないから、ほどなくそれは洗われてゆくのだけれど。

 そういえば、波打ち際の砂に少しだけ足を潜らせて、すり足で進みながら、何か真っ白なゲンゴロウのような生き物を捕ってたこともある。砂色にあまりに溶け込んでいるので、姿は捉えにくいのだけど、足先からスススと動き出すので、形が浮かび上がってくるのだ。集めていたのだから、食べたんだじゃないかな。あれは、なんていう生き物だったか。

 「誰かとうまくいかないのは、本当に相手のせいだろうか」を読んで、そんな風景を思い出した。きっと、「その土地から成り立つ自然の一部のような人間性」という言葉に刺激されたんだと思う。

 ここで紹介されているのは、「下川凹天」という人だ。「ほこてん」と読む。「おうてん」とも呼ばれたらしい。

日本アニメーションの始祖で、名前通り、凸凹な人生を歩んだ人でもあります。

日本のアニメーションは、今や「クールジャパン」の代表選手のひとつ。
そして、今年は、日本アニメ制作から100年目にあたります。
これから彼を知っていく人は格段に増えると思います。

彼は、宮古島出身で、日本で初めてアニメを作りました。

 この人のことをつい最近まで知らなかった。しかも宮古出身というから、驚く。仰天と返したくなる。

 幼少期に島を離れて、その後戻ることはなかったらしい。淋しかったろうな。恋しかったろうな。ぼくも少年期に島を離れた。恋しくて恋しくて。恋しいという感情を、島相手に覚えてしまった。でも、凹天は幼年期だから、それほどでもなかったのかな。

 「凹天」はもちろんペンネームだ。なんでまた、と思うが、師匠の名前が「楽天」というから、そこにあやかったんだろう。そう教えられて、「楽天」と「凹天」を並べてみていると、「浄土」に対して、宮古の他界を置いたようにも見えてくるから面白い。

 ところで、どうしてアニメ始祖の紹介なのに、「誰かとうまくいかないのは、本当に相手のせいだろうか」というタイトルなのかは、凹天がそういうことを書かせる人だからだ。ただ、ここでは「皮肉屋で、世の中を斜めに見ていて、作品も物によっては、とても感じが悪い」凹天も、包み込まれるようにいて、居心地がよさげだ。だって、「嫌いな人をつくることは難しい」と書いてもらっているのだから。この文章は、礁池(イノー)より広い。けれど、礁池(イノー)のようにやわらがせてくれる。

 島立ちは宿命。その後どうするかは選択。凹天の場合、帰るわけにもいかないという意味では、残ることを余儀なくされたというのが正確かもしれないが、それはまた自分のことでもある。「離島で生まれ、大正デモクラシーを生き、戦争に加担し、昭和の世を孤独に生きた」凹天が、「凹天」の他界に行く前に、この世をどんな風に歩き、作品を残したのか、知りたいものだ。「今年は、日本アニメ制作から100年目」というから、機会が巡ってくるのを待ちたい。

 
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2017/01/15

『変魚路』(高嶺剛)

 映画を観終わると、「島ぷしゅー、ぷしゅー」と口にしていた。「ぷしゅー、ぷしゅー、島ぷしゅー」とつぶやき続けると、今の「世」に置かれた琉球弧の島人の気分と重なり合ってくる気がした。

 「島ぷしゅー」というのは、「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世から大和世」のような「世替わり」に起きた、苛烈な出来事のことだ。「ぷしゅーっ」は爆発音のことだと説明される。でも、音そのものは、缶ビールを開けた時を思い出させる。ただ、それほどにも威勢よくはなく、どちらかといえば、浮き輪の栓を抜いてぺしゃんこにしていくときの脱力的な気抜けた感じだ。「大主(うぷしゅう)」の語頭母音を脱落させた言葉にも聞こえてくる。もちろんこれは監督の造語で言葉遊びなのだが、それは単なる遊びではなく、もともとの意味を離れて身体性に引き寄せる琉球語感覚の本領なのだ。

 主人公のタルガニは琉球弧の古典的な名前だが、相棒のパパジョーは英語名ながら、琉球語でp音は頻出するし、ジョーも井泉の意味を持つのだから、パパジョーもありそうな琉球語っぽく聞こえてくる。

 実際、「島ぷしゅー」後の「世」は奇妙な世界だ。そこでは、人は脱皮をして再生するのに、石膏を肌に塗って身体模型を作ってもらいそれを爆破することですっきりするというややこしい手続きを踏まなければならない。石膏を剥がすときに皮膚ごとはがれてしまう場合もあるが、それが気持ちいいという人もいるところに脱皮の記憶はようやく保たれている。化身も整形をしなければできないし、それもせいぜい他人になることしかできない。

 あらぬ嫌疑をかけられて逃避行することになるタルガニとパパジョーは、トンネルをくぐって、いわば「あの世」へと抜けるのだが、「この世」も「ぷしゅー」だから、「あの世」も「ぷしゅー」な世界でしかない。「たいした必然性も感じないまま、パタイ村を脱出するのであった」とナレーションが入るように、「この世」と「あの世」の断絶感もない。しかもパタイ(死)村を脱出すると言っても近所をウロウロするような逃避行なのだ。いわば、「この世」と「あの世」は重なり合って、ことが前に進まない。ふたりが生活の糧にしている芝居も、同じところで止まってしまい、「忘れてはいないが、セリフが出てこない」。いわば「大主」不在の世界なのだ。

 けれど、そこで時は反復モードが優勢になってくる。そうやって映画が進行するなかで出てくるのが、琉球原人や蛇やトカゲやヤドカリ、渚やサンゴ石やサンゴ礁の岩場だ。反復する時間は過去に遡行して、島人を生んだ動植物や自然物と交感するところまで、ここは「ぷしゅーっ」とではなくすっと行ってしまう。三人で行動していつも濡れていないといけないビビジョーは、魚の群れにも見えるが、濡れてないと燃えてしまうところは貝の化身としての女性そのものだ。そして観ている方は、そんな解釈を抜きにしても、折り畳まれた無数の映像断片から次第に人の夢の世界に入りこんだような感覚に囚われていく。

 高嶺剛監督が、愛着を持った沖縄方言や沖縄芝居、そしてその方法を通じて、浮かび上がらせるのは、やはり琉球弧らしさというか、古層の琉球弧の空気や雰囲気だ。一方、観る者は、不思議な夢をみるように『変魚路』を愉しむことになる。

 夢の自立あるいは分離、あるいは夢自体という言葉が浮かぶ。また観る機会があれば、さらに愉しみを見つけ出せるだろうけれど、その機会があるか分からない。ただ、もっと夢を自立させて、脱皮も化身も自在な琉球弧のサンゴ礁の神話世界を観たいし作りたいという想いを膨らませることになった。 

 

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2016/11/05

『母ぬ島 - Mother Islands』(仲程長治)

 仲程長治の写真に出会ってから、自分の眼で島を見るのを止めた。もういっそそう言ってしまいたくなるのが彼の写真だ。

 それは、彼が石垣島という特権的な場所を持っているからという意味ではない。彼が撮るのはありふれた光景だと言ってもいい。仲程自身が、帰省するたびに人工化されてゆくのを島を目の当たりにして、何も撮りたくないと思う。それを思い直して、撮り始めたのは島人には見慣れた光景だった。でもそこには、見たこともないようなふんだんな野生にあふれている。

 どうしてそうなるのだろう。仲程と一緒に歩けば、こちらがすたすたと何も感じずに前へ進むところで、彼は立ち止まり、カメラを向けているはずだ。気づいていないだけなのだ。ぼくの身体と目は当てにならない。

 そしてここには、島の野生の美があるというだけではない。色や香り、風や光と翳の織り成すゆらめき。ページをめくるうちに、ああ人工物に覆われていなかったころ、島人には、島はこう見えていたんだなあという嬉しさが湧き上がってくる。

 『母ぬ島』には、仲程の母光子の詩も引かれている。

母親に紡たぼれる スクイぬ苧麻
(ウヤヌウミタボオーレール スクイヌブー)
唾ぬかざぬんどゥ 肝に思い染り
(ツィツィヌカザンドゥ キィムニウムイスマリ)
 がさつに訳せばこうなるだろうか。

 母が紡いでくださった籠の苧麻
 唾の匂いこそ心に染み入る

 素朴だけれど、母の想いだけではなく島の生命観までが充分に折り畳まれている。苧麻(ブー)は、トーテム(祖先)だった。それは母の身体であれば、子の身体を生み出したものでもある。それだからこそ、苧麻は自分の身体でもあるように内臓に染みわたる。唾という霊力も媒介している。感じるべきことを感じ表現することができるのは、どうやら仲程のトーテム系譜の力でもあるようだ。あまり神話のまといを着せるものではないだろうが、母の名も太陽の子として途切れずに継がれたものがあることを教えている。

 仲程にとって、苧麻(ブー)とこの一片の詩があれば、もう充分、母というか母系のつながりを感じることができるのではないだろうか。すばらしいし、うらやましい。

 この本は、「写真集」としてではなく「コンセプト・ブック」として提示されているのがいい。そう、ぼくたちは『母ぬ島』を味わうだけではなく、ここから考えていくことができる。これを元に島の表現を生み出していくことができる。『母ぬ島』は大事に取っておきたい作品でもあれば、使いこなしたい素材でもあると思う。

『母ぬ島(写真集)』

Hahanushimafix


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2015/06/12

『与論島慕情 YORON BLOOD』(川畑兄弟)

 与論の島人が口ずさめる島唄がほしい。与論(ユンヌ)の島人なら、誰でもそう思っているのではないだろうか。もちろん、与論の島唄ならいくつもある。けれど、最初の一節から鳴るやいなや、あああれだと誰もが心ほぐれる一曲は、ないと言っていい。

 「与論島慕情」があるじゃないか。そう思うかもしれないけど、これは与論島の観光ソングで、島人のための島唄ではないのだ。けれど、ぼくは批判したいのではない。面白いことに、にもかかわらず「与論島慕情」は、与論ではもはや島唄の地位を占めているのかもしれない。かく言うぼく自身も、この曲のイントロが流れただけで、涙する準備ができてしまうくらい、やられてしまう。帰島や離島の際に、客船クイーン・コーラルでいつも聴いていたので、その時のたまらない気持ちが蘇ってしまうのだ。

 与論の島人は、高校を卒業すれば一度は、島立ちをする。ほとんどの島人は、帰島や離島の際に「与論島慕情」の洗礼を受けることになる。そこで、観光ソングであるにもかかわらず、まるで島人のための曲のような顔つきをして、島人(ユンヌンチュ)の琴線に触れ続ける。これは、そういう特別な曲なのだ。

 だから、川畑兄弟が「与論島慕情」をカバーするのはよく分かるし、これはカバーされるべき曲だった。同じように、「与論島慕情」の前に、その地位にあった「与論のサンゴ祭り」がカバーされているのも頷ける。

 「YORON BLOOD」。与論の血とはどんな血だろう。お茶目で、万事にこだわりなく、大人しい。長いものに巻かれるんじゃなくて、長いものに巻かれるものにくっついていく。放っておかれることは常なので、諦念はそれと気づかないほどの習い性。これも皮肉ではなく、小さな島の、それでいて過酷ではなかった自然がもたらした性分だ。ヌガ、ナユンマーニ。

 けれど、血が騒ぐ。そういうことはあるものだ。「川畑兄弟」という、よく響くユニット名を得て、川畑アキラの血も騒ぐのだ。こうして生まれたのがこの作品だと、ぼくは当て推量した。ウトゥショー。

 この試みがもっともっと続けられ、いつか、島言葉を含んだ、琉球音階メロディの島唄誕生まで、辿り着くといいなぁと思う。ションシ。


『与論島慕情 YORON BLOOD』

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2015/03/31

『日曜日、すずは口笛を吹いた』(古勝敦監督)

 すずが口笛を吹くのは、ガジュマルに棲む精霊、ケンムンと心を通い合わせるためだ。けれど中学二年になるすずは、はじめは「迷信」とみなしていたのだから、ここには手ほどきが必要だった。野生の琉球弧を感受するための手ほどきが。

 手ほどきをする一人は、すずの祖母で、彼女は家を訪ねたすずに、文字のなかった時代には、唄で心を通い合わせたし、恋もしたのだと語って聞かせる。祖母がちゃんと島言葉で語って聞かせるのがいい。

 もうひとつの手ほどきは、すず自身が異界に紛れ込み、実体験として得るものだ。すずは、そこでハブ(蛇)の化身であるワタリ先生と交流する。異界といっても、現実世界から離れるのではなく、ありふれた日常のなかに異界がしみだしてくる。教育実習にやってきたワタリ先生は、中学校に生物部がないのに気づき、にわか仕込みの生物部を拵えて、生徒たちを夜の動物探しに誘い出す。そこでルリカケスやオオトラツグミ、アマミノクロウサギなどに出会い、すずは生き物たちにはまってゆく。

 祖母に恋しているねと指摘されても自覚のなかったすずだったが、やがて夢のなかのガジュマルの木陰で、アマミノクロウサギの化身となったすずは、蛇の化身であるワタリ先生とのふたりの物語を察知することになる。

 教育実習を終えるころ、ワタリ先生は、この出会いに感謝して、すずの手を取り、片方の掌を合わせるのだが、そのとき、合わせたすずの左手には、文様が浮かび上がる。渦巻きと十字を象ったシンボリックなデザインなのだが、それは、二十世紀までは老女の手の甲に見ることのできた針突(入墨)の残影だ。すずは、そこで動植物と心を通い合わせる霊力を授かった、というより、思い出したと言うべきなのだろう。

 奄美大島には、まだ自然との交流が可能な気配が濃厚に残っている。古勝監督は、それを、あまねく美しい大きな島、と暗示していた。ナレーションを借りて、古勝監督は、「かつてわたしたちは文字が必要でなかった民族」と語っていた。「文字がなかった」ではなく、「文字が必要でなかった」という形容が、的確だ。文字を受け入れ、文明化することで、唄が人間と動植物とをつないだ通路は見えなくなってしまった。けれどそれは塞がれてしまったのではない。その気になれば、そこにいつでも通路を開くことはできる。『日曜日、すずは口笛を吹いた』は、そんなメッセージを伝えている。

 大島紬の機織りが懐かしかった。すずはただしい少女で、すずの両親役の元ちとせと山口智充も、演技とは思えない自然体でよかった。三十分で終わるのが物足りなくて、このテーマを掘り下げた古勝監督の本格的な作品を観たいと切に思う。

 cf.「映画『トテチータ・チキチータ』-頬を撫でる霧雨」

 


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2014/11/18

『セデック・バレの真実』

 『セデック・バレ』に心を動かされた勢いで(cf.『セデック・バレ』)、映画『セデック・バレの真実』も観てきた。この映画は、セデック族の家族が神話の地プスクニを訪ねるのを主軸に置いて、モーナ・ルダオの生き残りの末裔、同化政策のなかで警察官とその妻になった夫婦の末裔、先住民の一人を妻にした日本人警察官の子のことと、霧社事件の関係者の証言を集めたドキュメンタリーだった。

 事件にしても、霧社事件だけでなく、その後、収容所に送られたセデックらの人々を対立しあっていた部族の人々が、日本の教唆を受けて襲撃したこと、その教唆を告白した日本人警察官のこと、太平洋戦争では高砂義勇隊として徴兵されたことなどにも取材は及んでいて、関係者の声を広く収集したものだ。『セデック・バレ』の背景というより、映画の題材となった霧社事件の事後譚である。

 また、史実を残すというだけではなく、警察官になった先住民出身者が事件の首謀者と目されていたことがあること、モーナ・ルダオの末裔はいないとする風評のあることなどの、もつれた糸をほぐす役割もひとりでに担っていた。

 印象に残るのは、いまは土地を追われたセデック族がかつて対立していた部族の人に、事件の舞台のひとつになった洞窟を案内してもらいながら話す互いの関係のこと。セデック族が追放された後に、セデック族の狩り場をもらいうけた部族の案内人は、ここはいまは自分たちの狩り場だとしきりに言う。自分たちが追い出したわけではない、と。セデック族の洞窟の訪ね人は、それはそうだ、いまはあなたたちの狩り場と認めてやる、その応答はやるせなく響いた。

 また、山中のゆかりの地に行き着いた二人の年長者の方が、この子はセデック語は話せないけど、ご先祖様に会いに来ましたと紹介し、酒を先祖と酌み交わす。墓碑に刻まれたセデック族の人たちの名が中国語で記されているのを、仕方ないよな、子供たちは読んでくれると頷く。名を譲り受けた末裔の人が、自分の名を嫌に思い、霧社事件に触れるのを避けるように生きてきたものの、周囲の勧めもあってのめり込んでゆく。そうしたひとつひとつの場面が、ちょっと変換すれば、自分たちのことに思え、またほとんど同じことに悩み、突き当たるものだということが伝わってくる。そういうドキュメンタリーだった。

 セデック族には、木と一体になった岩プスクニから生まれてという神話がある。映画でも彼らはしきりに祖先といい、それは直接的には親や祖父母を辿ることを意味していたが、そこには、ありありとした力を感じる巨岩と巨木(大地)から生まれたという神話時代の意味も失われていなかった。古代の息吹を知っている民なのだ。彼らはプスニクにたどり着いて泣く。そこには生き残ったことへの喜びも含まれているはずだ。

 生き残った人しか語ることはできない。自殺を含めて、それができなくなりそうな事態の時に、生き残ることを説く人がいる。そういう人がいたから、生きて証言を語ることができた人も少なからずいる。また、証言するにはそのために語る言葉が要る。それは事件直後に可能なのではなく、傷が全て癒えることはなくても、少なくとも発語することができるまでの時間も必要だった。

 マイノリティのそのまた生き残った者の声は、その意味でとても貴重なものであるには違いない。しかし、観る者は、そこに死者の声も聴き取ることを求められているのではないだろうか。

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2014/11/17

『セデック・バレ』

 セデック族を中心に先住民部族が武装蜂起した時、リーダーのモーナ・ルダオは、「文明が我々に屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の誇りを見せてやろう」と仲間に檄を飛ばす。しかし、彼はここで「野蛮」というけれど、彼らは「首狩」を行なっていたから「野蛮」なのではない。それは、文字以前の段階の習俗のひとつと言ったほうが妥当な内実を持っている。現に、セデック族でも、「首狩」は成年儀礼に欠かせない要素になっているし、主人公が日本に対する武装蜂起を「祖先に血を捧げる儀式」とも言うように、それは共同儀礼という見立てがなされているのだ。

 棚瀬襄爾の探求を元にすれば、「首狩」は、近親死者の頭蓋崇拝を行なっていた種族に、他界を持たない種族の思考が混融し頭蓋崇拝が出来なくなったのを契機に、それが喪明けの共同儀礼へと転化したものだ。それは初期農耕を行った種族に見られる近親死者の頭蓋崇拝の変形であり、その意味では台湾先住民に関わらず起こり得た儀礼だった。成人儀礼のひとつとして行われる「入墨」に至っては、もう琉球弧も同じだ。それが「野蛮」の証とみなされた点でもそうだ。

 台湾先住民の「首狩」がどんな位相にあったか、ぼくは知らないが、ニューギニアのマリンド・アニム族では「首」は新しく生まれる子に名を授けるとされ、カリマンタン(ボルネオ)のイバン族では頭蓋が出産を可能にし、「首」を捕ったことのない男とは結婚しようとしない女性もいる。そのように、捕られた首は丁重に扱われ、宥められ、共同体を守護する神への変身を期待される。作中の冒頭に挿入された習俗としての「首狩」において、頭蓋がどう扱われるのか、というところまで描かれていたなら、「野蛮」という言葉が近代的な意味から離れやすかったのにと思う。

 「首狩」はいずれ消滅するし、消滅しなければならないだろう。しかし、実際に武装蜂起を招いたように、それは「文明」によって禁止されるということでは、消滅の必然性を持たない。ぼくは「首狩」がどのように変形されうるものかを知らないが、たとえば、琉球弧では近親者の食人が行なわれていた痕跡がある。食人は、レヴィ・ストロースによれば儀礼的な異性装として弱化され、変形されうるし、ぼくの考えでは琉球弧では、死者に添い寝することで、霊力の転位を図るという変形態を持った。そのような道筋が辿られえたのだ。

 それには、生業の変化が必要であったかもしれないし、たぶん、「しのびない」という声が発せられる必要もあった。けれど、「文明」の名の元に禁止を強いても、そこにある儀礼の意味は表現の行き先を求めざるをえない。鎮圧に臨む日本の部隊の司令官は、「お前らに文明を与えたのに、反対にわれらを野蛮にさせよって」と言うが、言葉の本来の意味で野蛮なのは、「首狩」の儀礼が表出したいものを塞いだ文明の強制のほうにあるし、それが武装蜂起を招いた一端をなしている。

 映画では、支配者である近代国家の威を借りた日本の警察官の姑息さや嫌らしさは、良心的な日本人警察官によって相対化され、武装蜂起に臨む部族の男たちは、女たちの嘆きによって相対化されていた。また、教育を受け警察官になり「文明」の側へ入ることで「野蛮」を抜けようとするものの、「文明」の側からは蔑視の視線を受け、「野蛮」の魂も失っていないという立ち位置で、両者の狭間に悩む部族出身の青年も描かれていた。作品は多様な相対化の視線を繰り込んでいる。けれど、文明と日本への同化による、支配する側と支配される側の関係は絶対的なものだ。そこに、彼らへの共感が生まれる。

 鎮圧後、司令官は「我々大和民族が百年前に失った武士道の精神を見たのだろうか」と述懐するが、もちろん、「野蛮」はそれに回収されるものではない。ぼくは身近なシンパシーもあってか、彼らに感情移入して観ていた。その跳ね返りに、中世人や近世人が骨抜きにされたような演技によるサムライ物語には感情移入していないことにも気づかされた。映画『セデック・バレ』は、「霧社事件」という、蜂起というだけでなく、その鎮圧に部族間の対立を利用したやりきれない史実に、よく肉迫しえた作品だと思う。


『セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋』


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2014/11/12

「イメージの力」展、見聞記

 国立民族博物館の「イメージの力」展を観ることができた(cf.「参照用「仮面儀礼」一覧」)。なにはともあれ、写真画像でしか見たことのない仮面たちを目の当たりにしたかった。画像では伝わらないものを体感したかった。

 さすが現物はすごい迫力で、目的はなかば果たせた。残るのは、展示は人類の仮面の一部であるため、お目当ての仮面たちの半分にも出会えなかったことだ。けれど、これは当たり前のことで、失望ということにはならない。実際、満足したし、もう一度、行けるものなら行きたいとさえ思う。

 写真は、電池の残量が気になって、特に関心の高い太平洋をめぐる地域に偏ったが、見渡して、それぞれの地域の癖(身体性)のようなものは感じることができた。うまい形容が見つからないが、アフリカは無骨、オセアニアは植物的、南アジアは曲線的。北アメリカはデザイン的で、南アメリカは色彩豊か、オーストラリアは高密度の線。

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 名前は知っていたものでいえば、イアトムル族のアバン(ニューギニア)。アバンは、成人儀礼であるワニ儀礼のなかに登場して、少年たちを棒で叩いたり、耳たぶに穴を開けたりして、試練を与える。また、子供が駄々をこねて親の言うことを聞かないと、両親が相談して、アバンに頼んで、子供を脅したりもする。きめ細かく作られているのが印象的だ。

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 同じくイアトムル族の神像つきの椅子「カワ・トゥギトゥ」。

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 イアトムル族のサアヴィ。どういう役割を果たすのかは知らない。

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 同じくイアトムル族のカプダマ。象?

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 シャチの背びれがついた仮面。オウェキーノ族(推定、カナダ)。陸の王が熊なら、海の王はシャチだということにかかわるのだろう。シャチ風なのは背びれだけでなく、顔も魚類化している。

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 これは愉快な仮面。病気治療儀礼だというから面白い。しかも嘔吐向けと来た。(サンニ・ヤクマの仮面。シンハラ族、スリランカ)。

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 似た感じのある、クニャー族(マレーシア)狩猟神の像。動物の上に人間が乗っている。

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 ニューギニア、ニューアイルランド島の神像マランガン。左は神像「クラブ」。マランガンは、葬送儀礼や成人儀礼に用いられる。何ヶ月もかけて制作されるというのがよく分かる。

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 ニューギニア、カプリマン族。精霊像タジャオ。怪獣メトロン星人に似ている。メトロン星人のもとはダジャオかもしれない。

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 同じくカプリマン族の精霊像付き机。

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 硫黄島のメンドン。これも巨大だった。こうしてみると、バイニング族のカヴァットに似ていると思う。

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 ミクロネシア。タプアヌの男女。アンガマを思い出させる。

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 ニューギニア。セピック河流域。ワニの彫像。ワニの口は大きく開いていた。5メートルほどだろうか、長い彫像だった。三枚目はその後部。両端でワニと人間がひとつながりになっている上に、顔と背にも人間が埋め込まれている。「ワニ-人間」だ。

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 アベラム族の祖先像「ングワルンドゥ」(パプアニュービニア)。ワニの彫像もそうだが、この祖先像も男根が巨大なのが特徴的だ。日本でいえば、縄文の時代精神に近いのだと思う。

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 ニューギニアのセピック河流域。割れ目太鼓。成人儀礼を行う小屋に置かれている。太鼓というから、叩いてみたくて仕方なかった。

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 両端の人間像の部分も精巧に作られている。

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 右のこれはたしか、バヌアツ、マレクラ島の加入儀礼用精霊像。

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 インドネシア。アスマット族の祖先像。これは女性を象っていた。逆さまの鳥と一体化している。

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 インドネシア、ジャワ族。右から影絵人形「ワヤン・クリット(ナロド神)」、彫像「ハンプトン」。

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 これも彫像「ハンプトン」。物憂げさに引き寄せられた。メラネシアの祖先、精霊像や仮面の表情は恐ろしくなく、どちらかといえば物憂げに見えるものが多い。古代の種族が、物憂げさを表現したとは限らないが、苦悶を読み取りたくなる。

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 バヌアツ、アンブリム島の木生シダ製精霊像。「マゲ・ニ・ヒウィル」。これもなんとも言えない表情。というか、樹木のなかに人間が埋め込まれているように見える。

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 ニューギニアの装身具と櫂。

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 トロブリアンド諸島の波きり板付き船首。クラで活躍したのだろう。

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 カナダ、クワクワカワクゥ族の早変わり仮面。ポトラッチの説明意画像でとく使われていると思う。なんと形容すればいいのか分からないが、相当にデザイン化されている。

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 これがあの、オーストラリア、アボリジニのグレート・スピリット、虹蛇。

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 同じくオーストラリア、アボリジニのカンガルーと蛇。

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2014/07/27

ゴジラよ、ふたたび日本だ。

 加藤典洋が言うように、1998年にニューヨークがゴジラに襲われたのは、アメリカ人の原水爆使用に対する「後ろめたさ」が呼び寄せたものだとしたら、2014年のゴジラ(『GODZILA』)では、水爆実験は、ゴジラを倒すためのものだったと、冒頭で解説されて肩すかしを喰らう。というか、正当化をするつもりかと、反発心が起きそうになった。

 けれど観続けるうちに、そのことに端を発して別の感想がやってきた。ゴジラを倒すためという「正当な」理由で水爆を使ったが、それでゴジラは倒されずにアメリカの都市を破壊したというなら、サンフランシスコを襲ったのは広島、長崎の死者たちではないのか、と。映画はもちろん、そのようなプロットを組んでいるわけではない。使われたのは水爆で、水爆実験の犠牲者といえば、ぼくたちに思い起こされるのは第五福竜丸であり、どれも広島、長崎を直接的には指示していない。けれど、それが対象を倒すために使われたという正当化がなされる場面といえば戦争なのだ。

 映画のオープニング・クレジットでは、一瞬、広島、長崎をカバーした西日本の地図が映し出される。また、作中、積極的な動きを終始見せないものの、怪獣の解読を行う日本人、芹沢猪四郎(この芹沢という博士の名は、日本の初代ゴジラを倒した博士の名であり、そこには日本ゴジラへのオマージュを充分に感じさせるものでもある)は、広島に原爆が投下された8月6日8時15分で止まったままの懐中時計を、父の形見として持っている。こうしたことも暗示として響いてくる。アメリカは、広島、長崎での原爆使用に対し、いまに至るも公的に謝罪していない。その「後ろめたさ」が、このたびのゴジラを呼び寄せたのではないか。ゴジラや別の怪物、ムートーが引き寄せられたのは講和条約が結ばれたサンフランシスコだった。

 昆虫の怪物のようなムートーは、日本の原子力発電をメルトダウンさせ、その放射能を吸って成長し、これもまたゴジラとともに、というか、ゴジラと闘うことによってさらにサンフランシスコの都市を破壊する。原子力発電崩壊の事故後、退避区域として市民を立ち入らせず、ムートーに放射能を吸わせ、そのことを隠し続けるさまは、3.11の事故にも関わらず、原子力の武器利用への転化の潜在的能力を捨てようとしない日本政府を否応なく連想させる。日本の旧原発からのムートーの出現は、日本政府の姿勢に対するアメリカの潜在的な不安を示しているようにも見える。つまり、原爆使用について謝罪をしないアメリカに対し、日本がいつか報復するのではないかという恐怖心が、そこに潜んでいるのではないか。そうも思わせるのだ。その恐怖は、ラストに近い場面のなか、朦朧とする意識のなかで、主人公の目にかすかに映る。従来の原水爆とは比較にならない規模のメガトン級の爆発として、サンフランシスコ沖に。

 ただ、穿った観方をすれば、同じサンフランシスコを破壊したゴジラとムートーであっても、二体のムートーを倒した後、都市を去るゴジラに対して、「救世主か」という報道がされるのであれば、原爆投下の「後ろめたさ」より、日本の報復の可能性の方に、不気味なリアリティを感じているのかもしれない。たしかにその意味では、今回のゴジラは都市の破壊をムートーに譲っていた。

 これをアメリカの監督が描いたとしたら、大きな変化なのではないかと感じたが、監督はイギリスを母国とするギャレス・エドワーズだった。その意味では、イギリス人だから描けた映画なのかもしれない。作品にはハリウッドらしいエンタテイメントの要素が散りばめられていて、上記のような受け取りを一笑に伏すだけの作りにもなっている。しかし、まさにそんな装飾をはぎ取っても小さく届く声はある。この映画がアメリカでもヒットしたということは、アメリカの不安や後ろめたさに響いたということはありえるように思える。

 だが、ゴジラよ。あなたは再び日本へ来なければならない。そういうときが、残念だが巡ってきている。加藤典洋は、ゴジラについて、かつてこんなどきっとすることを書いていた。

 しかし、もしもう一作、ゴジラが作られるなら、筆者はぜひその脚本制作陣の一角に加えてもらいたいものだと思っている。筆者の考えからすると、ゴジラにはまだ、し残していることがある。それを行わないことには、成仏できないのである。筆者のアイディアは以下の通り。ゴジラが再びやってくる。品川沖から東京に上陸する。夜であってほしい。そのゴジラはこれまで行かなかったところに行く。
 行き先は、靖国神社。
 ゴジラは、靖国神社を破壊する。(『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』

 2014年ではこう附け加えなくてはならない。ゴジラは、靖国神社に行く前に、首相官邸を破壊する。



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2014/05/23

『殯の森』

 奄美大島を舞台にした『2つ目の窓』で、河瀨直美監督に関心を持ち、作品歴に『殯の森』とあったので、観てみた。なにしろ、「殯」をめぐるテーマにこのところ親しんでいる。

 映画『めがね』が、忙殺を是とする生き方をしている主人公が、霊魂(マブイ)抜けするような島の環境に浸かって、ゆるやかに生に帰還する物語だとすれば、映画『殯の森』は、子を亡くして自失している主人公が、老人の死への道行きに随行することで、ゆるやかに生に帰還する物語だった。

 両映画は、ひとつの共通する道具立てで交錯している。それは、携帯がつながらないということだ。そのことによって、両作品は、現実からの接点を亡くした世界を目指している。もっとも、『めがね』はそれはフィクションであり、ユーモアとして設定されているが、『殯の森』の場合は、カメラの動きがドキュメンタリーのそれを模したように、リアルさを追求しており、中身もあくまでシリアスだった。『めがね』の舞台は海であり、『殯の森』は森と、両極と言ってよいほど対照的だ。

 けれど、つながらない携帯以外にも、時代の負荷を背負った女性が主人公であることや、途中で寝てしまうかもしれない点は、とても似ていた。心動かされるという点でも。

 『殯の森』の主人公は、子を亡くしたことで自責の念にかられている。そのことがあって、どう生きていったらいいか、分からない。介護施設に勤めながら、半分、痴呆化しているかもしれない老人にもどう接していいか、分からない。けれど、ひょんなきっかけで茶畑のなか、かくれんぼしたことから親しみを覚えて行く。主人公は、無意識に、亡くした人を忘れられず、生に帰還できない似姿を老人に見ているのだ。

 老人は、妻の三十三年忌を迎えるが、まだ妻のことが忘れられない。坊主に、もう仏さんになって、ここへは帰って来ないと言われる。老人もまた、どう生きていったらいいか、分からないままなのだ。老人が誘ったのだろう、主人公にどこかへ連れていってもらうのだが、車を道脇きでスリップさせたのを機に、老人は森のなか入っていく。ためらいものなく、どんどん進んでいく。しっかりした足取りで突き進む。主人公は、当惑しながらもついて行く。途中、携帯につながらなくなり不安を募らせたり、雨で急流になった川でパニックを起こしたりしながらも歩みを止められない。

 しかし、森の中で、淡いエロスを含んだ一夜を経た後は、実質、他界の世界に入っていった。老人は若いままの妻と出会いダンスを踊るし、救助を思わせるヘリコプターが上空を過っても、助けを求めようとはしない。老人が、納得できる場所まで赴いて、はじめて老人は、そこに浅く土を掘り、妻の元へ旅立とうとする。そこで死に触れることで、主人公は生へと帰還する契機を掴み取っているのだと思う。

 映画の最後、スクリーンに「殯(もがり)」の説明として、「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと」と字幕が出る。でも、琉球弧のその世界を見ていると、この説明は物足りない。「死者の傍にしばし寄り添うこと」と加えてほしい。


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