カテゴリー「 1.与論島クオリア」の130件の記事

2015/04/25

十年一日

 ふと気がついて確かめたらはたしてそうだった。ブログを開設して十年経つ。

 十年一日。島に対する思慕の念は何も変わらない。何を感じているのか、いくぶん言葉にすることができた分だけ、恋煩いのように何も手につかなくなるような激しさは治まってきたというべきか。もともと、島のために何かをしたいという思いだけはあったものの、その何かがわからなかった。

 もたもたしてるうちに、祖母が「あの世」への支度をはじめてしまった。まだ何も報告できることがないと焦ったぼくは、ずっと眠っている祖母の横で、電話線にジャックをつなぎ、ブログを開設してせめてもの報告にしたのだった。その二日後に、祖母は「あの世」へと旅立った。

 はじめの頃は、それこそ精神安定剤として書いていたのだが、この十年のあいだには書けないときもあった。精神安定剤なのに書けないということは、社会によほど適応しているか、その逆かだけれど、ぼくの場合、前者はあまり考えられないので、後者のほうだった。ここに向かっていられるということは、大丈夫ということで、精神安定剤という意味も、変わらないらしい。

 ただ、ブログに対する構えは変わった気がする。ブログの立ち位置が変わったので、それに合わせたというべきか。開設した2005年、まだブログは新しいツールだった。それ以降、ツイッターやFacebook等、新しいソーシャルメディアが次々に生まれて、ブログの影響力は相対的には小さくなった。でもこの間は、ネットに流通する言葉の劣化も進行したように思う。現在版の呪いのように、匿名の言葉の投げ捨てが常態化している。しかも、スライスされた薄っぺらな呪い。それを思うと書く気も失せる。

 ただ、ブログの佇まいが落ち着いてきたのは好都合だった。なるべく多くの人に読んでもらいたい、というのとは逆の、読みたい人の目にだけ触れてほしいというのには、ふさわしいツールになってきた。ブログがそう見えてきたことで、ふたたび書きやすくなった。いつまでここに書き続けるのか、それは分からない。書き続ける場は必要だということ以外は。

 目下は、琉球弧の精神史、しかも文字以前のそれに夢中だ。この手応えは大きくて、そうか、そうだったのか、ぼくはこれを探究したかったのか、と分かった。このなかから、祖母に報告できることも掴めそうだ。それがこの十年で得たいちばんの光明かもしれない。

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2013/11/10

与論島一週間

 与論に一週間もいた。「も」というのは強調したくなるポイントで、八日を超えて島に滞在したのは学生の頃以来だから、25年ぶり以上になる。格別だった。

 その割に、盛窪さんの案内の浜巡りに時間を費やしたので、お会いした方は多くなく、それぞれに話せた時間も長くなかった。そこはいささか心残りで、申し訳なさもあるのだが、他日を期したい。これからもっと島に帰る頻度を増やし島に関わることも増やしたいと思う。どこまで果たせるか、分からないが、そのなかで不義理を解消したいというのが、今の心づもりです。

 二年続いた台風のダメージは大きく、島は色をなくしていた。樹々の緑と花の色が消え、赤茶けた裸の大地は、痛々しかった。台風は人工物を破壊するが、自然も破壊していくのだ。けれども、だ。島の人は途方にも暮れているだろうし、疲労困憊でもあるだろう。それなのに、その表情からはその気配を感じることはなかった。あくまで明るい、穏やかな表情を返してくれるだけだった。ほんとはこれはとても驚くべきことなのだと思う。

 どうにかなることなら怒りもしよう。悲嘆にも暮れよう。けれど、どうにもならないことはある。それもしばしばある。それを受けることが避けられないのであれば、黙って受け取り、あとは淡々と取り戻すことを続けるしかない。

 亜熱帯の自然とイノーは、この小さな島に人々が住むゆとりを与えてきたが、自然の猛威に対して被害が大きくなりやすいある虚弱性もあわせ持ってきた。その両端を与件として受け止めてきた島人の、これは島民性なのではないだろうか。驚きとともに敬意を覚える。

 ただ、「どうにもならない」は習い性にもなって、すべからくどうにもならないと思いこみやすい。どうにかなることはどうにかしたほうがいいに決まっているのだから、そこが島民性の美質とは別に課題になるのだと思う。もちろん、自分のこととして、そう思う。

 帰省のきっかけになった「ゆいまーる琉球の自治」で話した「ゆんぬの冒険-五つの謎に迫る-」は、研究者ではないけれど、今まで全く語られたことのないことを口にしたつもりだ。それは、与論の歴史を緻密にするというより、その手前で、与論の歴史をつくることに眼目があった。少なくとも意気込みとしてはそうだった。

 それをきちんと届けることができたか、心もとないが、これからも考察を続け、表現の形を工夫しながら、歴史づくりをやっていきたいと思う。砂漠で待つ雨のように、ずっとずっと渇望してきたことだから。

 浜名調べも段落をつけることができた。場所も名前も不確かになっている時は、そこで海生活をしてきた島人に聞くしかない。聞くべき人への出会い方から話しの引き出し方まで、盛窪さんのインタビュー技術は一級品で、敬服する思いだった。

 ありがとう、みなさん。とーとぅがなし、与論島。

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2013/11/01

ただいまフバマ

 島に着いて作業を済ませて、いつものようにフバマに帰島の挨拶をした。

 夕闇迫る時刻。子供の時分はこのくらいの暗がりになるまでは遊んで、慌てて帰った。暗闇になってしまうと、帰り道の森の中はムヌたちの世界に早変わりするからだ。いや、そんな気がして怖かった。

 風は強く波はいつもより勢いがあって、潮の音を響かせていた。

 台風のダメージで廃墟のようなホテルからは照明もなく、久しぶりにここで味わう純粋な闇の訪れだ。浜も海も雲も蒼に染まる怪しいひと時。

 台風で緑を取られた浜の光景が、隆起したばかりの島の姿に戻ろうとしているかのように見えた。

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2013/10/22

台風24号災害に対する義援金受け付け窓口

 与論町も義援金の受付を始めたので、付記します。


1. 義援金の名称
与論町台風24号災害 義援金

2 受付期間
平成25年10月15日(火)から
平成25年12 月31日(火)まで

3 義援金の募集方法
(1)義援金受入口座(専用口座)

金融機関名

1)奄美大島信用金庫
与論支店
(普) 0304428
与論町台風 24 号災害義援金

2)あまみ農業協同組合
与論支所
(普) 0047904
与論町台風 24 号災害義援金

3)ゆうちょ銀行
00990-9-234192
与論町台風 24 号災害義援金

2.全国の JAバンク振込手数料が下記の 受付期間中は無料となります。
[受付期間:
平成 25 年10 月15 日( 火)から
平成 25 年12 月30日( 月)まで

3.全国の ゆうちょ銀行からの 振込手数料が受付期間中は無料となります。
[受付期間:
平成 25 年10 月21日( 月)から
平成 25 年12 月30日( 月)まで

(2) 現金書留による送金の宛先
〒891-9301
鹿児島県大島郡与論町茶花 32 番地 1 町民福祉課内
与論町台風24号災害義援金係 宛


◇◆◇

 台風24号の被害に対して、「日本赤十字社」と「ゆうちょ銀行」が窓口を設けてくれた。

【日本赤十字社】

鹿児島県奄美南部台風第24号災害にかかる義援金

1.義援金名称
「鹿児島県奄美南部台風第24号災害義援金」

2.振込先金融機関
(1)銀行
鹿児島銀行 鴨池支店 
普通預金「664155」
口座名義 日本赤十字社鹿児島県支部長

(2)郵便振替
郵便振替口座については現在開設手続き中のため、決定次第ご案内いたします。

3.問い合わせ先
〒890-0064
鹿児島県鹿児島市鴨池新町1-5
日本赤十字社鹿児島県支部 組織振興課
TEL:099-252-0600/FAX:099-258-7037

4.受付期間
平成25年10月18日(金)から
平成25年12月17日(火)まで


【ゆうちょ銀行】

台風24号による災害に対する義援金の無料送金サービス

振替口座名称(加入者名)
与論町台風24号災害義援金

口座記号番号
00990-9-234192

取扱期間
2013年 10月21日(月)から
2013年 12月30日(月)まで


 被害状況は、16日まとめのもので、住宅786棟にのぼる。昨年は、一ケ月に三度の台風の直撃を受けた結果だったが、今回は24号一回のみの被害だ。比べるのも嫌だが、被害は昨年と同等だ。

16日

住家被害(棟)
全壊     62棟
半壊    149棟
一部損壊 575棟
-------------------
合計    786棟


昨年(2012)

住家被害(棟)
全壊     30棟
半壊    128棟
一部損壊 723棟
-------------------
合計    881棟

 全壊、半壊が昨年を上回っているが、島内から聞こえてくるのも、去年以上だったという声だ。早く通過する方が勢力は強いという見解を読みもし、また島内からは台風に伴う竜巻にやられたという声も聞いた。正確なことは分からないけれど、どれもある一面を言い当てているのだと思う。しかも、これが続けて起こったのだ。

 近代以前であれば、祭祀を怠ったからだと祭りごとを復活させただろうし、近代初期であれば、集団移住を検討するような事態かもしれない。祭祀復活の代わりに対策は腰を据えて考えなければならないとして、集団移住のずっと手前で、相互扶助をお願いする次第です。

 被害状況は、下記のブログでその一端を知ることができる。

 「台風24号被害」(さすらいの風来簿)

 「☆台風24号の話☆」(☆釣れた魚は与島論☆)

 たったいまも、27号フランシスコ接近の不安なさなかにいるが、もともと、与論の島人(しまんちゅ)は大人しい。声を挙げるということをしない。何もなかったような顔しながら、黙していることに慣れていて、メディアでも入ってこなければ、ありさまが広く知られるということもない。被害家屋を写真に撮るのだってはばかられる。上のブログはそこを押して、撮り、書いてくれたものだということも汲み取っていただけたら幸いである。

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2013/01/24

旅人 森瑤子

 鴨志田のように自滅旅の寄港地としてではなく、唐牛の身を隠すような滞在でもなく、与論に別荘地として居を構えた旅人もいる。作家の森瑤子だ。記録によれば、森は1987年に与論島を訪れ、その翌年には島に別荘地を建てている。それどころか、探訪しただろう島と山田実の『与論島の生活と伝承』をもとに、別荘を建てた年には与論を舞台にしたファンタジー『アイランド』も書いている。

 思い立ったが吉日とばかりの即決と行動は、森の気性を問わず語りに伝えるが、彼女は与論の何に魅入られたのだろう。それは『アイランド』のなかにも垣間見えるかもしれない。

 しかし、沖縄ではない。沖縄ではないが、その近辺の島だ。彼の脳裏にエメラルドグリーンの珊瑚礁が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜が弓なりの曲線を描いて横たわるのが一瞬ありありと見えた。(森瑤子『アイランド』1988年)

 『アイランド』が、与論に残る羽衣伝説に素材を採ったように、島の伝承は作家の想像力を刺激しただろうが、森が別荘を構えたのは、与論の珊瑚礁美、それが最初の一撃だったのではないかと思う。「エメラルドグリーンの珊瑚礁が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜」という色の演じる美しい光景は着陸寸前から森の心を捉えたのではなかったか。

 森が与論をどう評していたのか、ぼくは詳しくない。ただ、『アイランド』の解説を担当した女優、浜美枝の文章はそれを代弁しているようにも読める。

 ある日、私は島にいた。そこは与論島の森瑤子さんの別荘だった。彼女とはもちろん東京で会っているのだが、出会いの記憶はどうしても与論で始まる。私はその夜、別荘からそっと抜け出して、瑤子さんのプライベートビーチに向かった。家から小道をぬけていくと月に照らされた美しい砂とヒタヒタと穏やかに寄せる波の可愛いビーチがある。昼間なら遠くを行く船から見えもしようが、夜の海に人の視線を気づかう必要はない。
 私はTシャツもショートパンツも脱ぎ捨ててそのビロードのような海に身をまかせた。裸の皮膚に海水はなめらかにまとわりつき、その心地よさは水着をつけての戯れなどに比べるべくもない。ゆるやかに波が私を包み、その波に私も律動し、寄せては返しするうちに、私はあたかもこの海と一夜を過ごしてしまいそうな誘惑にかられた。(同前掲)

 浜の解説は、与論の愉楽をよく捉えている。あの海を前にすれば人は裸になりたくなる。そうしてどうするのか。一夜を過ごすというのは、海と一体化して自然と溶けあうということだ。あの愉楽を森も知っていたに違いない。

けれど森は与論と一夜を過ごすのではなく、永遠の伴を選択した。彼女は与論に別荘を建てた五年後の93年に没するが、島に墓を作ることを決め、今も与論島に眠っている。

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2013/01/23

旅人 唐牛健太郎

 1960年安保を主導した全学連委員長の唐牛健太郎が与論島にいたことがある。1969年の2月から7月までのことだ。唐牛はなぜ与論島を訪れたのか。

 唐牛を全学連委員長に抜擢し自身も全学連の書記長として60年安保を闘った島成郎は、自身を含めた安保以
後の困難について書いている。

 ところがこの実社会での再出発という最初のとばぐちで、唐牛は生涯ついてまわった「六〇安保闘争の全学連委員長」という称号の負の力をまず味わわねばならなかった。  唐牛ならずとも、若き日革命を論じた左翼運動に走ったものならば誰でも、社会の報復の厳しさに一度は身を晒さなければならないだろう。(島成郎『ブント私史―青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ』 2010年)

 唐牛ならではの辛さについても、島は突っ込んで書いている。

 彼が真剣に心を痛めたのは「たかが二十歳の若造が東京に出てきて、一年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ何度か豚箱に入った位のこと」が何時の間にか「戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長」というシンボルとなって一人歩きし自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされていることを初めて自覚したことにあった。  また「安保も全学連もブントも、今のあっしにゃ関わりのないことでござんす」といってしまうには、まだあの体験はあまりにも生々しく、そして彼も若かった。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 「全学連委員長」という称号が「負の力」を持つことが今では想像もつかないかもしれないが、日本の組織は今でも非寛容であることには本質的に変わりないと思う。それは、個人を襲い、ひとり辛酸をなめることになる。唐牛とて例外ではなかった。

 そして齢三十をこえ自分の生を見つめて一つの跳躍を考えていたのであろう。一九六九年、彼は私にも一言もなく忽然と東京から姿を消したのだった。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 東京から姿を消した唐牛が向かったのが与論島だった。これを推して考えれば、唐牛は彼を知る人のいない場所に行きたかった。そしてひっそりとしていたかったに違いない。そこで、沖縄が復帰する前の最果ての地として与論は選ばれた。しかも北海道出身の唐牛にとって国内で行ける範囲で故郷から最も遠い場所という意味でも果てだった。そうではないだろうか。だが、数年後に沖縄復帰を控える与論島は日本の社会に組み込まれつつあり、最果ての地を脱色しはじめていた。唐牛は与論でも旅人によって発見されてしまい、数ヶ月で与論を後にしなければならなかったのだ。

 唐牛は与論で土方をしていたという以上の消息をぼくは知らない。けれど、来た当初なのか、赤崎近辺の海辺の岩場を、唐牛が住んだことがある場所として案内されたことがある。岩場のほら穴のなかは白砂が敷き詰められて広さもあり潜伏という言葉が似合う。あるいは与論に最初に来た島人はここを拠点にしたかもしれないと思わせた。ほら穴は真っ暗なのではなく、陽の加減によって小さな穴から陽射しが差しこみ、それが白砂をほのかに照らしていた。唐牛もこの光を見ただろうか。

 ただ、今になって分かるのは唐牛は単独行ではなく、奥方を伴っていた。そう考えると、ほら穴生活は長くはできなかっただろうし、ひょっとしたら唐牛らしい伝説なのかもしれなかった。

 島の唐牛健太郎像が深い友情に支えられながら、その記述が客観的なものに終始するのに比べて、妻の島ひろ子の描く唐牛は肉感的でこちらの方が素顔の唐牛を描写してくれている。

 一九五八年頃、唐牛氏が上京の際我が家に来てから、上京の度に家に顔を出すようになった。この頃、島は留守の時が多く、自ずと唐牛氏と接する機会は私の方が多かったこともあり、また最初から私とは波長があって、よlく話しをした。会話がめちゃくちゃ面白くて、未だにあれだけ豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男には出会ったことがない。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 「豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男」は、晩年、徳田虎雄を支援して奄美にふたたび縁を持った。しかしその最初の機縁は与論島にあり、与論は、政治運動とその余波に苦しんだ男を束の間でも許容して受け容れたのだった。酒好きだった唐牛は与論献奉をしたろうか。あの星空をどんな気持ちで眺めたろうか。
 

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2013/01/21

旅人 鴨志田穣

 「家内」に「どこでもいいから早く出てゆき」と言われ、「売り言葉に買い言葉」、「わかったよ、よそでガブガブ飲んで来てやるよ」と家出したはいいが、行く当てとてない。ひょんなことから、西の端っこまで行ってやろうと思い決めた鴨志田は与論島に立ち寄る。この、男ならではかもしれない退路につぐ退路、落ちることに歯止めの効かない、つげ義春にも似た自滅行の行く先に与論島も選ばれた。

 奄美本島へ着岸し、車のスピードを上げ、空港へと向う。
 与論島への最終便に乗る事が出来た。
 与論に観光客は全くと言っていいほどいない。
 日本の端は沖縄に変ってしまったからだった。
 どうしよう。鹿児島の先っぽまでは来てしまった。
 それにしても寂しい。
 メシもことごとくまずい。(鴨志田穣『日本はじっこ自滅旅』2005年)

 鴨志田が島に立ち寄ったのは、2003年ごろだと思われるからそう昔のことではない。島の名誉のために言っておけば、「メシもことごとくまずい」ことはない。最近、ずいぶん美味しい店が増えたと思う。

 茶花では、郵便局近くの「ふらいぱん」、イタリアンの「アマン」にフランス料理の「地中海」、美味しい珈琲を淹れてくれる「Cafeチカ」に「海カフェ」。ベトナム珈琲が飲める「みじらしゃん」、映画『めがね』の舞台になったビレッジの食堂。プリシア・リゾートの「ピキ」、空港近くでもずくそばを出してくれる「蒼い珊瑚礁」、島の北部の「たら」。昔に比べたら素直に美味しいと思える店が増えたのだ。

 まぁ、けれど、鴨志田の「メシもことごとくまずい」、この言い切りは好きだ。
 鴨志田は居酒屋で「おやじ」に絡まれるが、絡まれるだけでなく、「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」と本質的な問いをぶつけている。

 居酒屋の壁に三匹、やもりがテロチロと虫を捕らえようとうごめいている。 「チチチッ」  と鳴いた。  声を聞いていると日本なのか、東南アジアのどこかにいるのか判然としなくなってくる。  おやじに聞いた。 「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」  しばらく宙を見つめるおやじ。 「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」  どうやら無辺際まで来てしまったようだ。  もっと西まで行くしかないのだな。(同前掲)

 「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という「おやじ」の呟きは与論心情をよく言い当てていると思う。このひと言を呼び寄せただけでも、与論に立ち寄ったと言える台詞だ。「チチチッ」とヤモリの鳴き声も捉えて聞くべき音も逃していない。

 この、「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という与論心情は、鴨志田が奄美大島で聞いた台詞と対比させると、その背景がよく浮かび上がってくる。

 客が誰もいなくなった店で、三人でウィスキーのロックを飲み乾した。
 「じゃあ、もう一つだけ質問。自分達は鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」
 「奄美人です」
 と母親はきっぱりと答えた。
 「でも沖縄の人の心は判りやすい」
 とも言った。(同前掲)

 奄美大島では、「鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と問い、与論島では「日本ですか、それとも琉球ですか」と問う、この問い方のセンスには感心するのだが、ぼくが与論心情と言いたいのは、「鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と聞かれ、大島の「母親」のように、「奄美人です」のように、「与論人」と言うよりは、「どちらかといえば沖縄人でしょう」と答えるだろうことにある。もちろん、「与論人(ゆんぬんちゅ)」という強固な確信は持っているのだが、「鹿児島」、「沖縄」と同列に並べたときに、そこに「与論」を対置するのにためらいが過ぎる。それだけの大きさ多さはなく、主張するほどでもないという気持ちに傾くのが与論だろうと思う。

「旅人 3」

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2013/01/20

与論献奉

 苦肉の策ということでいえば、旅人(たびんちゅ)という言葉以上に、「与論献奉」がそうだと思う。与論といえば、と旅人に問えば「蒼い海」の次に挙げられるのが、あの酒の酌み交わしの儀礼である「与論献奉」だ。与論献奉は、まず親役の人が口上を述べて杯に注がれた黒糖焼酎を飲みほし、次は座に集っている隣りの人が同じく口上を述べて飲み干す。これを座の一堂が一巡するまで繰り返す。よせばいいのに場合によっては、次は隣りの人が親役になってまた同じことを繰り返す。かくして、酔いは一挙にまわり翌日、身動きできないほどの二日酔いになるのも惜しまずに延々と続く。それが人気もあれば悪名も高い与論献奉なのだ。

 悪名高いのになぜ、無くならないのだろう。やるにしても少しは節度をもってすべきだろう。ぼくもそう思う一人ではあるけれど、腑に落ちる理由が思い当たらないこともない。

 民俗学者の柳田國男は、明治になって酒の用途が増えてきたとして書いている。

 手短にいうならば知らぬ人に逢う機会、それも晴れがましい心構えをもって、近付きになるべき場合が急に増加して、得たり賢しとこの古くからの方式を利用し始めたのである。明治の社交は気の置ける異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければならぬような社交であった。
 常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者が、抑えられた自己を表現する手段として、酒徳を礼賛する例さえあったのである。
 酒は飲むとも飲まるるなということを、今でも秀句のごとく心得て言う人があるが、実際は人を飲むのがすなわち酒の力であった。客を酔い倒れにしえなかった宴会は、決して成功とは言わなかったのである。(『明治大正史世相篇』柳田國男、1930年執筆)

 それまで藩内の人と藩に流通する言葉で話し、仕事をすればよかったのに、それができなくなったのが、明治という近代化の意味だった。「異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければなら」ないとき、日本人はどうしたか。「客を酔い倒れ」にするしかなかった。酒の酩酊のなかで打ち解け、気心を通じ合わせ、明日から共に仕事ができるようにしたというのだ。

 こう補助線を引いてみると、与論献奉の意味も自ずと知れてくる。島人は「常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者」というより、極度の人見知りだ。打ち解けるには共に過ごす時間が要る。けれど、観光に訪れた旅人はその時間をふんだんに持っているとは限らない。むしろ、船旅の時間の方が長いにもかかわらず与論を訪れ僅かな時間を島を楽しむことに費やすのが、飛行機以前の与論旅だった。しかも、相手は旅の恥はかき捨てと思いかねない若者たち。

 この容易ならざる事態に人見知りをもってする島人はどのように対処したか。明治人と同様に、「客を酔い倒れ」にするほど飲むことだった。二日酔いになっては翌日の観光に差しさわりがあるだろうと冷静には考えられたとしても、やはり酔い倒れにしてこそ「成功」なのだった。そうであればこそ、翌日から仲良くできるからである。

 幸か不幸か島人は酒に強い人が多い。かくて、与論献奉は極度な人見知りが観光を生業として成り立たせるために編み出した苦肉の策であるというのがここでの見立てである。黒糖焼酎の力を借りて酩酊し、島人と旅人の垣根をほぐして溶かし、あいまみえる融合のひと時を持つ。与論らしい、これも身ぶりのひとつに数えよう。

「旅人 2」

 

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2013/01/19

旅人(たびんちゅ)

 旅人(たびんちゅ)

 島人同士の会話で使われる与論方言のことを島では与論言葉(ゆんぬふとぅば)と呼んでいる。与論言葉は琉球方言の言葉で、風を意味する「はでぃ」は琉球弧で広く使われているものもあれば、正確には知らないけれど、猫を意味する「みゃんか」など、与論ならではの言葉もある。

 与論言葉では旅人のことを「たびんちゅ」と言う。旅人にはふた様の意味があって、文字通りの旅人、観光客を指す場合と、大和から移住して与論に住んでいる人のことを指す場合がある。琉球弧でよく使われる大和人(やまとぅんちゅ)という言葉がないわけではなく、局面によっては使うのだけれど、日常的には大和人と呼ぶのを控えるように、「たびんちゅ」と言うのだ。

 「たびんちゅ」という言葉がいつ頃から使われているのか、定かではない。けれど、「旅」と現在の標準語を引用しているようにその使用は古いものではなく、近代以降のことではないかと思う。与論では大和人を使わずに旅人と言う。その使い方には与論らしい身ぶりがあるというのが、ぼくの見立てだ。

 旅人という呼称には、大和人という言葉が否応なく招く、大和vs島という対立の契機が抜き取られている。いや、正確には対立することのニュアンスで使われることもあるのだけれど、なるべくそれを招かないように旅人と呼んでいる気がするのだ。島人と旅人は対立関係にあるわけじゃない。そのことへの気遣いを、旅人という言葉は背負っているのではないだろうか。

 もちろん、そうは言っても、島人と区別するときに使われるものであれば、島には厳然と島の者とそうでない者とに区別する意識が働いているのであり、そのことで苦労している移住者の話も耳にしないわけではないし、目の当たりにすることもしばしばだ。それでも、その区別の垣根が他の島に比べると低いように感じられる。山のない島姿のように風通しがいい。

 与論が観光名所として東京を始めとする大和から島の規模に比べたら大量の観光客を迎えた時期があり、その時代を潜り抜けることができたのは、「大和vs島」という対立の構図が浮かび上がりにくかったからだと思う。そしてその歓迎の気持ちを担ったのが旅人(たびんちゅ)という言葉だった。もちろん、垣根が低かったから招くことができたのか、大挙して押し寄せてきたから苦肉の策として垣根を下げたのかは本当のところは分からない。けれど、多くの旅人たちと接するなかで、「大和vs島」という対立の垣根を下げてきた努力があったことは確かだと思う。

 ここにある身ぶり。既存にある大和人という言葉を使わずに、旅人という言葉を使う。そこにも、「大和vs島」という境界を消し去ろうとする与論ならではの振る舞いを感じるのだ。

「旅人 1」

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2013/01/17

境界を溶かす珊瑚礁

 境界を溶かす珊瑚礁

 珊瑚礁の海は死滅が危惧されている珊瑚が母胎となって、さまざまな生物を育む。ふだんでも、青さが採れ、ベラやハゼなどの魚を採れる。ニモが愛称のクマノミも場所を選べば海亀に出会うことも稀ではない。六月になれば、不思議な魚、アイゴの稚魚(与論ではイューガマ)が外海から大挙してやってくる。珊瑚礁大潮で潮が引いて珊瑚礁が陸地として浮上すると、ウニや貝も採れる。その場で食べるウニは鮨屋のウニではなく、命をいただいている敬虔な気持ちにさせてくれる。礁湖(礁池)は琉球弧の島ではイノーと呼ばれるが、イノーは別名、海の畑と呼ばれる所以だ。珊瑚礁が発達して人が住める環境が整ったというのはその通りだと思える。

 人類学の高宮広土は狩猟採集の生活が成り立つためにはそれに見合う土地の面積が必要だけれど、「沖縄のような島々で狩猟採集を糧として生きてきた人々がいたという事実は世界的に大変珍しいと思われる」(「沖縄タイムス」2012年2月13日)と書いているが、そうだとしたら、イノーの恵みがどれほど大きかったが分かる。

 驚くことに与論には数多の地名があるけれど、地名が存在するのは陸地だけではない。イノーにだって、地名が名づけられていて、所有者がいたこともあった。畑と呼ぶにふさわしいのはこうしたことでも言える。

 与論は珊瑚礁でできているというだけでなく、与論にとっては格別の意味を持っている。与論島の礁湖は琉球弧のなかでも「最も幅が広い」と言われていて、それだけ珊瑚礁の海を堪能できるしその恩恵に預かってきた。その上、砂浜は南岸の一部を除いて島全部を囲っている。与論は砂浜に恵まれた島だ。

 砂浜の向こうには珊瑚礁が控えている。白砂があるということは、海は遠浅に連なる。外海との距離が大きければ大きいほど、浅い穏やかな海が広がる。黒潮の流れる外海とは違う。珊瑚礁の湛える海は礁池や礁湖とよばれるように静かなときは池や湖のように穏やかなのだ。

 白の砂浜に立てば、穏やかにさざ波が足を洗ってくれる。波は透き通っていて砂浜をそのままに見せている。波がどこまで届くか目をやれば、波の線を描いてまた引いていく。次に寄せる波はまた違う波の線を描く。そこに陸地と海とを区別する境界線を引こうとしても、実はそれは定かではない。そのときどきの波の線が違うというだけではなく、引き潮のとき満ち潮のときでそれは違うからだ。

 ことは汀だけではない。珊瑚礁が海で浸っているとき、そこは海だけれど、大潮のときは陸になって、海の境界はリーフの外になる。浜辺とリーフと。二重の意味で、海と陸の境界はあいまいにされ、境界はその都度変わる幅を持つ。ここに明確な境界を引くことは、本当はできない。

 徳之島の民俗学者、松山光秀は珊瑚礁の地域の文化を「コーラル文化」と呼んだが、その文化圏の基本構造をます珊瑚礁について、三段階に分け、それを沖のコバルトブルー、干瀬のブラウン、砂浜のホワイトと色合いの変化として言い当てている(『徳之島の民族2』2004年)。与論ではこの三段階の色の変化が島を覆っている。いや、コバルトブルーは、それにとどまらず、陽の加減で淡い青や緑も鮮やかに放つ。

 与論は島の周りのほとんどがこの浜辺とリーフによって境界を振幅させる。汀に立つだけでも、寄せては返すさざ波の安らかな音色に耳を澄ませていると、心は次第に心身を離れていく。あれこれ悩んで囚われている身体を抜けだして、心ここに非ずになるだろう。自分が動物や植物だった頃に戻っていくような気がしてくる。それは懐かしい感覚だ。懐かしいから怖くない。与論ではほとんどどの海辺でもこうした放心を味わうことができるだろう。これが与論ならではの、あの感じ、与論島クオリアのひとつだ

「島のはじまり 4」

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