カテゴリー「 7.小説、批評はどこに」の187件の記事

2017/07/18

「自己拡張動機と他者を自己に内包すること」

 翻訳が読みにくいのだが、ようやく「自己拡張理論」の提唱者の論考を読むことができた。

 自己拡張モデルが提案しているのは、「人間の中心的な動機づけは自己拡張であり、おのおのがパートナーを自己に内包している親密な関係を通して自己拡張は求められる」ということ。

 自己の重なりあい。内包した後に、「広がった自己は親密な関係の非常に利他的な特質を作り出している」。

 自己拡張のメタファーは、「他人を犠牲にして不足している資源を得ることを意味する」ようにも見える。他方、「自己拡張は広がったアイデンティティや意識を意味するので、拡張は実質的に無制限であるといえ、ふつう、より強い利他主義へと導く」。提唱者のふたりのアロンは、後者のメタファーが広がることを望んている。

 自己拡張は、個人のアイデンティティの喪失ではなく、むしろ豊富化。初期のカップルは、激しいやりとりのなかで急激に自己を拡張する。

一緒に自己拡張的な活動を行なうことに時間が費やされているならば、一緒に過ごす時間が増えたことは満足感を増やすことになるだろう。

 自己拡張的活動にあるのは、「新奇さと覚醒」。

 メルロ・ポンティは、「親密な関係を"二重存在(double being)"」と表現。

 ふたりは、「関係を発展させることは、他者を自己に内包することによって自己を拡張するということである」と書いている。

 図解も載っているので、挙げておく。

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 このモデルを提案しているアーサー・アロンとエレイナ・アロンもクリエイティブ・ペアのようだ。

 "Creating love in the lab: The 36 questions that spark intimacy"


『パーソナルな関係の社会心理学』

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2017/07/17

「境界紀行(四)宮古島・前編 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 御嶽はプロト神社とも言うべき場であり、聖域や禁忌といったイメージがつきまとう。とくに、御嶽(ウガン)が神社に合祀されて、知る人ぞ知るという場に過ぎなくなった与論生まれのぼくには、そうなってしまう。けれど、今回谷川ゆにが訪れた宮古島川満の御嶽はそういうイメージからはちょっと離れている。たとえば、祭りの日、神役の女性たちは、御嶽で料理を供えて神と共食する。

 小屋の隅には、直径が六十センチくらいある大きなクワズイモの葉の上に、やはりお供えの米、塩、煮干し、饅頭などが、一握りずつ、可愛らしく並べてあった。おそらく葉っぱは神さまのお皿なのであろう。お供えの台の下にも大きなのが数枚、何も乗せずにしかれている。その横に座り込んでテンプラを頬張る私たちは、まったく、精霊や神々と一緒におままごとかピクニックをしている幼児のようである。

 これは来訪神と対極的な高神の鎮座する御嶽とは位相を違えている。ここでの神は祖霊に近いと言ったほうがいい。あるいは、神事によって御嶽が位相を変化させている。その違いを、谷川は「特に今回のミイマ御嶽での祭りは、やはり産土神か氏神のような身近な神さまをもてなし感謝することで、この小さな集落を守護してもらうという意味合いが強いようであった」と書いている。

 原理的には、死者の場である「あの世」を放逐することで成立する御嶽が、むしろ祖霊との交流を感じさせるとしたら、それはプレ御嶽の感覚を失っていないことを意味するだろう。それは、「この世」と「あの世」の境界、である。

 谷川は、そこに老人と幼児が似た存在にみえる「現世から抜け落ちたようなイノセントな雰囲気」を見出している。

 つまり、時間を遡って子供に還る、ということは、古代的な感性からいえば、死者や神々のいる世界の側に限りなく近づいていることに他らなない。

 境界というのが、どういう場なのか。ここにひとつの回答があり、ぼくは、ふだん何気なくいう、子供に還るという言葉の奥行きを教えられるようだった。

 ところで谷川は、この項を、佐藤さとるの作品に出てくる「自分だけの秘密の遊び場所」の引用から書き起こしているが、それは子供にとっての「秘密基地」を思い出させる。秘密基地は秘密でなければ意味がない、安心と冒険心とが入り混じった何ともいえない魅力的な場所だ。子供はそこでは精霊的な存在になり、自分の固有の心を養いながら、「この世」へ出立することを繰り返す。「秘密基地」はたましいの養成所のような場なのだ。

 祖霊と交流し、集う人々が子供に還ってしまう宮古島の御嶽は、秘密基地のような胞衣的な雰囲気を失っていない場として、ぼくたちの前に現れる。


 「波 2017年7月号」

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2017/07/12

「自己拡張理論」メモ

 『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク)で、「自己拡張理論」を知って、吉本隆明の「対幻想」を思い出させる。というより、吉本の対幻想の議論は、アメリカでは90年代に出現したということだ。

 この「自己拡張理論」が面白いのは、ふたりの融合が高まるにつれ重なりも増えるが、同時に自己自体も拡大していることだ。重なりによって拡張するだけではなく、自己自体も拡張しているということ。

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 起点の円と終点の円の大きさを比べてみれば一目瞭然だ。

 これはこう解説されている。

個人がパートナーとの関係を説明する際に 1 人称複数形の“we”“us”を使用する頻度と、IOS 得点との間に正の相関が見られることが報告されている。これらの知見から、親密な関係では、親密さが増すほどに他者の資源を自己の資源として捉える自己拡張が生じ、同時に自己と他者をひとつの存在と見なすようになると考えられる。(中村祥子「対人関係におけるコミットメントに影響を及ぼす要因:研究ノート」)

 ぼくたちの視点からは、自己の「拡張」だけではなく、「変成」「変容」、つまりメタモルフォースという性格も入れたいところだ。

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2017/07/09

『対人関係の心理学: 親密な関係の形成・発展・維持・崩壊』

 こんなことに頭を使うのもなんだかなだが、へーと思ったことがあった。

 友人関係や恋愛関係のケミストリーでは、「態度の類似性」が魅力を生み出す。態度が類似していると、「合意による妥当性確認」が得られ、「自分が大丈夫と安心したい欲求が満たされる」。

 ちょっと驚いたのはこれではなく、「自分の持っていない性質を持つ相手に魅力を感じる」という相補性仮説は恋愛関係では否定されていることだ。研究のうえでは、ということだが。

 ただし、

双方が関係の質の高さを同様に認知しているカップルに限り、一方が支配的でもう一方が従属的という、パーソナリティがもたらすカップルの役割分担が互いの魅力に影響を与えるというものである。

 つまり、クリエイティブ・ペアの場合がこの例ということになる(参照:『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク))。

 この解説も説得力がある。

相補性仮説と類似性
相補性仮説というのは、お互いに共有した価値観と満足度をベースにして初めて有効なものであるから、相補的な役割分担を重視する共通の価値観という類似性があってこそのものと考えておいた方がよいだろう。

 「愛の四天王」というのもある。それは、「熱愛」、「愛着の愛」、「慈愛」、「友愛」で、四者の関係は、(熱愛)⊃(愛着の愛)、(友愛)⊃(慈愛)。「慈愛」はここでは、「自分のパートナーを助けたい」という気持ちのこと。

 

『対人関係の心理学: 親密な関係の形成・発展・維持・崩壊』

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2017/07/04

「神に守られた島(新連載)」(中脇初枝)

 沖縄戦の始まったころの沖永良部島という舞台設定が面白いのだが、まず登場人物がすべてエラブの童名なのに目が行く。

 トラ、マチジョー、カミ、ハナ、ヤンバル、ユニ、マチ、ナーク、ナビ。

 カミには「瓶」の字が当ててあり、ユニは男性だ。ユニという童名は沖永良部島にもあったわけだ。ヤンバルが童名になっているのも興味深い。

 「こんなになっても、痛くないんだな」。標準語であっても言い回しは島のそれを再現しているので、知らず知らずのうち、島風アクセントで読み進めることができた。中身より先に民俗的事象に関心が行ってしまったが今後の物語展開が楽しみ。


「小説現代 2017年 07 月号」

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2017/06/12

「恋愛関係嫉妬時の情動とコミュニケーション反応-嫉妬の強さおよび性との関連-」(和田実)

 何もこういうことに冷徹な視線を向ける気はないのだが、こういう研究があることに驚いた。

 和田実は、嫉妬時のコミュニケーション反応について、四つの因子を仮説している。

 1.非難・喧嘩
 2.所有(自分のもの)の表示
 3.相手の反応確認
 4.否認・回避

 「相手の反応確認」というのは、「不安そうに振る舞う」、「傷ついたように見せる」ことで、「否認・回避」は「平気なふりをする」「嫉妬していない」と「自分の感情を否定する」ことだ。検証の結果では、この4つの仮説は支持されたと著者は言う。

 興味深かったのは、次のことだ。

相手の反応確認というのはこれまで見出されておらず、日本人特有のものかもしれない。というのは、日本文化の中で嫉妬を表明すること自体抵抗があるので、直接的な行動ではなく、間接的な行動で訴えて相手の反応を窺うのである。

 そんな日本文化があるのか知らないけれど、これはそういうより、個人が明確には区別されていない、ということではないだろうか。

 それから、こうした研究に関係をよりよく育むという視点は盛り込めないだろうか。そうしたものを読みたいと思う。

 
 

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2017/06/05

「境界紀行(三)与論島 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 風葬という言葉が好きだ。風葬が好きだと言ってもいいかもしれない。それは死者を風に晒すという原義を持つだろうけど、死者が風になると受け止めることもできる。与論では、近代化の過程で風葬を禁じられ、土葬へ移行した経緯があった。しかし、それはスムーズに行われたのではなく、島人の気持ちは抗った。埋葬は「このうえもない不人情」だと感じたのだ。

 谷川ゆには、そこをこう掬い取っている。

 棺を密閉して土中に埋めては、死者はひどく息苦しいであろうし、なんといっても一人きりで闇の中にい続けるのは寂しいであろう。しかし、風葬ならば、そんなことはない。

 ここで谷川が見ているのは、「死者をどこか生者のように扱ってきた」ということ、もっと言えば、死者は生きているということだ。

死は生に緩やかに連続しており、そこに、現代人である私たちの考えるような、はっきりとした断絶はない。

 谷川の感じ方に触発されて、風葬とは死なない葬法なのだと位置づけてみると、見えてくることがある。オーストラリアでひろく観察された樹上葬も、やはり言ってみれば風に晒す。そして彼らの多くが再生信仰を持っていた。つまり、樹上に置かれて身体が朽ちていくのは、再生するまでの過程に過ぎないと見なされたのだ。

 ぼくの考えでは、樹上葬を行なってきた種族が、定着生活に入ると樹上葬は台上葬に転換される。琉球弧の風葬も台上葬のひとつだと見なされるものだ。そして、琉球弧でもかつて再生は信仰されていた。

 樹上葬と台上葬では、地上に置かないことがポイントになる。そしてそれは一見、地上に置いているようにみえる風葬でも同じなのだ。典型的には洞穴近くに置くには違いなくても、「四個の平たい石を置き、その上に死体の棺を載せ」(山田実『与論島の生活と伝承』)る。注意深くみれば、直に地面に触れることが避けられている。

 どうやら再生を信仰した人々にとって、地面とは死を意味していたようなのだ。樹上葬にしても台上葬にしても、大事にされていたのは、死なないことだった。死者は生きているのだから、ということだ。


 さて、与論人にはなじみ深いハミゴーにも、谷川は足を運んでいる。

 ハミゴーは「神壕」とされているけれど、インジャゴー、シゴー、ヤゴーが湧水地であることを考えれば、「神泉」なのではないだろうか。とはいえ、語感は神の泉ではなく、死者(カミ)を迎える泉とでも言えばいいだろうか。

 ここは島人の死生観をたどるうえでもとてもシンボリックな場だと思うのだが、「ハミゴー遊び」の勢いに押されて、もっぱら風俗として、あるいは歌垣の舞台のような紹介のされ方に留まってきたように思う。

 けれど、谷川はここでも浅く掬い取っていない。

 ここに眠る骨となった人たちも、生前はやはり三線にのせて恋の歌を掛け合い、二人きりの洞窟で甘い接吻を交わしたのであろう。そして、亡くなって骨となって納められた後も、歌や踊りに誘われて、生者とともに遊びに参加するのだ。

 生者に加わる死者たち。あるいは死者たちの輪に加わる生者。そうなのだと思う。そういう場がハミゴーだ。ハミゴーを象徴する西向棚(イームッケーダナ)は、琉球の船を迎えた場と言われている。しかし、もっと遡れば、ムッケーダナとは、カミ(死者)を迎える棚、なのではないだろうか。

 谷川は、印象的にこう続けている。

 人はひとりでは生きられない。しかし生きている者同士がつながるためには、死者が必要である。今亡き人のおもかげを抱くことで(あるいはそれに包まれることで)人はやっと個人の輪郭を放擲することができる。

 民族誌は、ふたたび生まれる再生信仰が断念されたところでは、死者は孫のなかに入って孫の成長を助けるとか、兄弟のなかに入るとか考えた種族の存在を教える。これを「記憶」として霊魂の根拠とみなす西洋の人類学者もいる。しかし、「記憶」というのはいかにも「個人」概念の所産だ。観察された種族は、「記憶」として祖父や兄弟を語ったのではなく、まさにいる者として、生者として語っているだろうから。

 記憶、ではなく、「今亡き人のおもかげを抱く」、「あるいはそれに包まれる」ということ。それは、「個人の輪郭を放擲する」回路であるとともに、個人の手前にとどまる回路なのだと思う。

 与論島も風葬もハミゴーも、こんな風に深く触れられたことはなかったように思う。感謝。


『波 2017年 06 月号』

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2017/05/05

「境界紀行(二)日野 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 カフェで同僚と仕事の打ち合わせをしていたとき、急に電話に出ると、「いやそれ以上は知らないんです。通りがかっただけなので、本人のことも知りません」と話している。

 何のやりとりか想像がつかなくて、電話を終えたあとに尋ねてみたくなった。

 「いや、このカフェの角を曲がったところに駐車場があるじゃないですか。そこで、おじさんが倒れていたんですよ。大通りだから人はたくさんいるんだけど、みんなまわりを囲むようにして見ているだけだから、かけよったら意識があったので、その場で救急車を呼んだんです。で、ここに遅刻したくなかったので、駐車場の警備員さんに後を頼んできたんですけど、救急車を呼ぶときに電話番号を伝えたから、それでかかったきたんです」。

 いいことしたね、伝えると、彼は「たまに、そういうことに出くわしてしまうんですよ。それもあってか、今日もすぐに身体が動きました」と、こともなげに話してくれた。

 助ける行動を起こした彼と、すぐに救急に委ねられることになったおじさんは知己でもなければ役割関係があるわけでもない。たまたま通りかかったというきっかけがあるだけだ。けれど、これを偶然と言って済ますよりは、小さな縁を言ってみたくなる。とくにそんな場面に出くわすというのであれば。

 困った人がいれば、助けるべき人が助けるということの他に、助けられる人が助けていい。費用が発生すれば、払うべき人が払うということの他にも、払える人が払っていい。それでいいじゃないか。そこで、契約とか役割とか言う必要ない。そんな風に思う心持ちに、谷川ゆにの「境界紀行(二)日野」が響いてくる。

 もっとも谷川は、小さな縁どころか、もっと積極的に、「生まれ変わり」という縁を見出している。もちろん、唐突にそうしているわけではない。前世で家族だったという縁で、年齢もばらばらなのに束の間、たがいを気遣う家族のような関係を結ぶ人たちを描いた映画『トテチータ・チキチータ』(参照:「映画『トテチータ・チキチータ』-頬を撫でる霧雨」)、19世紀に実際にあった生まれ変わりをめぐるエピソード(生まれ変わりを名乗った勝五郎を、国学者の平田篤胤も追っている)を手がかりに引き寄せている。谷川は書いている。

 いま現在に生きている自分と、かつて生きていた自分ならぬ自分。「生まれ変わり」が孕んでいるこの不思議な二重性には、近代以降、私たちが身につけてきた、唯一無二の「個人」とか、揺るぎない「主体」や「自己」といった人間認識を、やんわりと手放させる力があるのではないだろうか。と同時にそのことが、私たちが他者と繋がって生きるための新たな世界像をゆっくりとひらいてくれるのではないだろうか。

 「生まれ変わり」にまで踏み込まれた縁を梃に、谷川はぼくたちがともすれば囚われる窮屈さを解放しようとしている。個人や主体を放棄するというのではない。「生まれ変わり」が、それを「やんわりと手放させる」のだ。そしてただ手放すだけではない。そのことは、新しい関係を「ゆっくりとひらいてくれる」のではないか。開いて結んで。この手つきは優しい。

 それに「生まれ変わり」を荒唐無稽と言って済ますわけにはいかない。柳田国男が日本人の思想としてずっと追ったのも「生まれ変わり」だった。また、民族誌をひも解けば、人類はたしかに「生まれ変わり」を生きた段階を持っている。それがしっかり息づいている種族であれば、同じ母系の霊の流れを汲む者として「同じ肉体」を感じたのだし、やや崩れたところでも、死者は兄弟に宿るとか、孫の成長を助けるなどと信じられていた。こう書けば分かるように、死者の記憶と言っては物足りない、死者との対話や助けを得て、いまの自分も生きているといえば、思い当たる節も出てくる。

 そのうえで、谷川の、そこに「他者と繋がって生きるための新たな世界像」の可能性を見るという視線の向け方が、ぼくには魅力的だった。

 これは新潮社が発行している「波」という雑誌に掲載されている(「波 2017年5月号」)。ぼくは池袋東武百貨店の旭屋書店で買った。


 

 

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2017/04/24

『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク)

 以前、ビートルズの魅力をレノン-マッカートニーという創作クレジットに求めたことがある。ビートルズの魅力の核心は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーというふたりの稀有な才を持ち合わせた個人にあるのではない。ふたりとも音楽の才に恵まれていたにはちがいないが、もしふたりが出会わなければ、それぞれの輝きは半減していただろう。ふたりの個人というわけではない、彼らの曲をあれだけのものにしたのは、レノン-マッカートニーという創作クレジットがもたらす場の力にあるのではないかと、そう考えた。

 それはとても不思議なことだ。だってそれは、ふたりが今後どちらが曲をつくっても作詞作曲「レノン-マッカートニー」とクレジットしようという合意に過ぎないのだから。たったそれだけの取り決めなのだ。しかし、そこには不思議としかいいようのない場の力が働く。実際、レノン-マッカートニー・ナンバーでのふたりの融合の度合いに分ければ、harmony型, collaborate型, help型, spice型, advice型とでもいうような五つの類型が見い出せる。(参照:『ビートルズ:二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』

 協力の仕方には、ふたりの色合いが溶け込んで、もはや一方のみの要素を取り出すことができないharmony型から、あきらかに一方が作っていて、他方はadviceを加えたに過ぎないものまで幅は広い。にもかかわらず、ここにはレノン-マッカートニーというクレジットの力はどれにも生き生きと作用しているのだ。ある意味でそれをもっとも示すのは、cover型と言うのも変だけど、誰かが作った曲をカバーしたものを見るのがいい。カバーしたものにすら、レノン-マッカートニーという場の力はありありとしている。それはアレンジのどこかにレノン-マッカートニーの作用が働いているからだし、カバーにしても二人の声のハーモニーはどこかで入っている。たったそれだけでも、カバー曲というより、レノン-マッカートニー・ナンバーとして聴く者の耳に響いてくる。

 そして、次々に新しい曲を生み出していく推進力になったのは、曲づくりの応答にある。たとえば、ポールが「私を愛して(love me do)」といえば、ジョンは、「俺を喜ばせろ(please please me)」と応えるわけだ。それはまるで、相聞歌だ。そしていちどそう聴いてしまうと、彼らの曲はそのようにしか聴こえなくなる。この応答こそが、タフなスケジュールと環境のなかでも、絶えることなく曲を産み出す力になっていった。

 ところで、12年前はこうしたレノン-マッカートニーという創作クレジットを滅多に起きることのないものとして捉えていたが、そうではないという手応えがやってくるのが、この本『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』だ。偉大な業績は「孤高の天才」がもたらすと思われているが、それは神話にすぎない。それは、「クリエイティブ・ペア(創造的な2人組)」が行うものだ。とまで言い切ろうとする勢いでこの本は書かれている。

 そこには何があるのか。著者は、魅力的なフレーズをいくつも書き出している。

真のクリエイティブ・ペアは、2人そろえば、どちらか1人で創造できることを超えて文化に貢献する。

クリエイティブな人間関係には典型的なストーリーがあることがわかった。創造的な関係には1本の弧を描き、2人が進む道を照らすテーマがある。

私たちは人生を変える人に出会うときがある。この瞬間から人生が変わるのではないかという可能性を感じる。地球上にいながら、自分たちだけが新しい軌道に飛び込むような感覚だ。

多くのペアは、自分たちにしかわからない「私的言語を持っている。(中略)2人だけに通じる言葉は、絶え間ないやり取りから有機的に生まれる。

偉大なペアは大きく違う2人であり、かなり似ている2人でもある。

ペアを組む2人が似ていることは(中略)、共通の関心と感覚が、未来のパートナーとの出会いを演出するからだ。

将来のペアの1人が磁石になり、もう1人を引き寄せるときもある。

クリエイティブ・ペアになる2人は、不思議なくらい似ていることが多い。そのような相手に出会うと、類似点が心に強く刻まれる。

果てしのない会話が続くことも、最初の出会いを象徴する。

クリエイティブ・ペアに発展する2人は、自ら創造に挑む。

 クリエイティブ・ペアの特徴には、「創造的な習慣の基礎」があって、著者はそれを「儀式」と呼んでいる。決まった時間に会う、決まった場所でつくるなどだ。そうして距離が縮まると、二人は自分たち以外の世界から切り離される。そして、レノン-マッカートニーのような2人(だけ)の約束が生まれる。

 こうした「ペアの創造的な活動と深い愛情は、区別できない場合も多い」。「創造的なペアは、創造的な活動を追求する」。著者が引用しているキュリー夫妻の言葉もいい。「私たちは夢を見ているように完全に没頭している」。

 レノン-マッカートニーについての言及も多い。というか、終始、主要な参照先になっている。著者によれば、ポールは、「ジョンが自分に差し出した挑戦的で大胆な素材を、ときにはさりげなく、ときには凝った技法で、ポピュラー音楽の言葉に乗せた」。一方、「退屈になりそうな歌をジョンが複雑な趣で生き返らせると、ポールには手も足も出なかった」。そして、ジョンとポールがそうであったように、ペアの関係は「役割の交代を通じて発展するときもある」。

 さらに「創造的な前進と同じくらい重要なのが感情のマネジメント」だ。あるアーティストと作家の組み合せでは、「どちらか一方の感情が悪化すると、もう1人の決断力が強まる」。意思しているわけではない。2人同時に落ち込まないように意識しているわけではない。単にできないのだ。

 著者のジョシュア・ウルフ・シェンクは、クリエイティブ・ペアの道程を六つのステージで捉えている。

 1.邂逅
 2.融合
 3.弁証
 4.距離
 5.絶頂
 6.中断

 興味深かったのは、6番目が終焉ではないことだ。著者は書いている。「ジョンとポールが明確に決別した時期を特定できない理由は、明確な決別がなかったからだ」。「クリエイティブなパートナーシップの場合、2人の関係から抜け出す決定的な方法がないからだ」。幕切れはある。しかし火花は消えていない。「たいていは周囲の状況に決定的な変化が起こり、バランスが失われるだけだ」。

 ただ、ジョンとポールの成り行きを追ったことのあるぼくには、著者の掘り下げに追加したくなることもある。ビートルズは少年の友情の物語のようなものだから、成熟した異性愛の場を持つようになれば、恋愛の準備としての友情は終わる。そうした成長の物語として見ることができる。しかし、よく考えてみると、恋愛したからといって、友情を終わらせる必要はないわけだ。

 それならなぜ、レノン-マッカートニーというクレジットは終わらざるを得なかったのか。それはやはりジョンが、ポールとのパートナーシップよりもオノ・ヨーコとのパートナーシップを選んだということだ。それはポールの立場からすれば残酷ですらあった。けれど、恋愛はしても友情は終わらなくていいということからすれば、やはりジョンとポールの友情にも終わりはなかった。だから、レノン-マッカートニーは終焉がなかったというだけではなく、再開へと開かれていたといっていい。

 それでもそれはなかった。その可能性は点滅しながらも、火花を散らすことがなかったのは、レノン-マッカートニーがどれだけ偉大だったとしても、ビートルズはジョージ・ハリスンとリンゴ・スターを加えて四人で成立するものだったからではないだろうか。ビートルズは、レノン-マッカートニーというクリエイティブ・ペアを軸にした共同体だったからだ。レノン-マッカートニーは、二人揃えば成り立つが、ビートルズは四人いなければならない。そこにはさらに複雑な要因がからむことになる。それに、いつも夢見がちに前を向いていたジョンは、そうそうに死者と化してしまった。

 また、著者が提示する六つのステージは、「邂逅」「融合」などの状況の他に、「弁証」や「時間」などの方法にかかわるものが混ざっていて混乱しないでもない。そこで、別のものを対置したくなる。

 1.火花
 2.融合
 3.方法化
 4.継続
 5.受容

 説明は要らないだろう。5の「受容」については、「中断」にせよ再スタートにせよ、それまでとは異なるものを受容することを指している。生き証人であるポール・マッカートニーの足跡をみれば、彼のなかでレノン-マッカートニーは終わっていないが、そこでは、ビートルズの解散、つぎにジョンの死という深刻な受容を経なければならなかった。そしてここ数年のことで言えば、これまであくまでパートナーとして向こう側に置いてきたジョンについて、「ジョンになる」という受容をし始めているというのがぼくの見立てだ。

 12年前、ただただ仰ぎ見るように羨ましく憧れたレノン-マッカートニー・クレジットは、この本を通じて、誰にでも開かれた、起こり得る関係として見えてくる。そしてもし自分にそのチャンスが訪れたなら、それにはきっと乗らずにはいられない。
 

『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』

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2016/12/01

『シャイニング・ガール 凛と輪廻と幻獣龍』(吉行ギズモ)

 先日、知人に「わたしは現実的な人間だから、『君の名は』とか観ても、こんなのあるわけないと思っちゃうんですよ」と言われ、あるわけなくもないということを説明するのは難しいかなと思った。でも、「ひとりで妄想するのは好きなんですけどね。それはあくまで妄想だから」と、続けるのを聞いて、意外に接点はあるぞと思い返した。

 時間は直線的に一方向に進むという考え方と、反復するという感じ方がある。一方向に進むととらえれば、自分は生誕から今まで生きてきて、死に向かっていることになる。そして生んでくれた母や自分の子供は別の時間軸の過去と未来をたどっている。でも反復と捉えれば、亡くなった、たとえば祖母のいくぶんかはぼくのなかで生きているし、また、これから生まれる誰かの生を生きていることにもなる。

 時間が一方向に進むというとき、覚醒が重視され、睡眠はその断絶あるいは休止として軽視されている。せいぜい、無意識の発露として分析の対象になるくらいだ。でも、反復する時のなかでは、夢はもうひとつの現実としてリアルだ。

 夢のなかでは、覚醒している現実のなかでは荒唐無稽な出来事も平気で進行していく。まるで物語みたいに。しかし、それもリアルとみなせば、現実と夢は相互に浸透しあって、物語と現実はメビウスの帯のように、いつの間にか入れ替わったりする。

 いまは一方向に流れる時間のとらえ方が圧倒的に強いから実感が湧きにくいが、反復する時に権利を与えれば、それが支配的だった文字なき時代の思考のなかへ入ってくことができる。そこでは、反復を繰り返して、自分をさかのぼれば、祖先崇拝でいう「先祖」にたどり着くのではなく、人間を成り立たせていると考えられた精霊に行き着く。

 だから、この作品のタイトルの「輪廻」も「幻獣龍」も、反復する時間のなかではリアルなのだ。ふつうファンタジーと呼ばれている作品は、ふだん感じられなくなっている反復する時間の流れのなかにいることを生き生きと感じさせてくれるジャンルだということなのかもしれない。

 それは、非現実的でありながら、どこか思い当たる節がある、リアルだという感触としてやってきて、そしてほんのちょっと現実を見る目が優しくなったり、別の見方を促されたりするようになる。この作品もそうだ。でも、この作品は徹頭徹尾フィクションとして描かれているのではなく、あくまで日常の延長にファンタジーが接続されているところが、返って反復する時間を生きることをよく伝えているのではないかと思えた。言い換えれば、著者はファンタジーはただの空想世界ではないと言っているのだと思う。

 これで件の人を納得してもらう自信はないけれど、時間を反復と感じることがあるのは誰でもそうなのだから、そのことだよと言えば、この作品の入り口まで連れていくことはできるかもしれない。

 この作品はシナリオとして書かれている。ぼくは「脚本」というものを見たことがなかったので興味深かったし、スラスラ読めるのも心地よかった。中身の魅力は、「シャイニング・ガール: 凛と輪廻と幻獣龍」過去と未来を行き来する巫女」で紹介されている。


『シャイニング・ガール 凛と輪廻と幻獣龍』








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