カテゴリー「 7.小説、批評はどこに」の216件の記事

2021/06/12

「沖縄における〈非時間性〉」(具志堅邦子)

 副題に「国民年金納付率と参与観察をもとに」とあって、「国民年金」の話ならと避けそうになったが、読んでみるととても面白かった。

 具志堅によると国民年金納付率の低いワースト10の自治体はすべて「沖縄」(奄美を含む)が占めている。これは都市化や経済的格差が原因とは見なされない。そうでないとしたら何か。ここで具志堅は、「夫来という時間意識自体が未成熟なのではないだろうか。そのために未来へ投資することが了解不能なのではないのか」という仮説を立てる。国民年金の納付率は、「沖縄の社会に横たわる非時間性を露出させてしまった」のだ。

奄美諸島から八重山諸島にいたる沖縄の社会は、非時間性を内包した社会であるというこ とがいえるであろう。そのために、未来という時間意識の形成は、未成熟なままにとどまっているのである。

  たとえばバス停では、

地元の利用客たちは行列を作らずベンチで待っているだけだった。通常、並ばずともそれなりの秩序があって、先に乗る者、後に乗る者が暗黙のうちに決定されている。この日は長蛇の列がすべて乗り終えてから、地元客が乗った。

 「白保の旧盆行事」でも非時間性は露出する。

獅子はメタモルフォーゼのための媒体であった。獅子に入るとき、彼らは変身する。獅子を通過することによって、日常性から非日常性の存在へ変身するのである。

 エイサーもそうで、「国民年金納付率の低い地域ほど芸能としてのエイサーの〈切れ〉は鋭く深いのである」。「エイサーという芸能が来訪神信仰を根強く残している芸能ではないだろうか」。

 わたしには、これはどれもそうだと思えた。それと同時に短めの文章でもあり、飛躍も感じられる。ただこれは批判ではない。わたしもよく「飛躍」を指摘されるが、飛躍しているつもりはないので小さく驚くことがあり、具志堅の物言いがわたし自身の飛躍を照らしているように感じられてくる。言ってみれば、飛躍は非時間性への即接続のことだ。

 この小論は、彼我の距離を言い当てていると思う。これは「近代の側から沖縄が語られるのではなく、沖縄の側から近代を語る試み」ともされている。「沖縄の側から」というのはわたしもそうだ。わたしの場合、「沖縄の側から」彼我の距離を無化する言葉を探っていると言えばいいだろうか。

 参照:「沖縄における〈非時間性〉-国民年金納付率と参与観察をもとに」(2008年)

 

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2021/06/04

『モーアシビからエイサーへ』(井谷泰彦)

 「モーアシビからエイサーへ」。与論でもはまるで自然発生であるかのように定着したエイサーを面白く思っていたが、「モーアシビから」、なるほどそういうことだったのかと合点した。

 それとは別に驚かされたのは、鳥越憲三郎が鳥居の建立を提言したことだった。島にある不似合いに巨大な鳥居は近代の傷痕のように見える。しかし、それは「鳥居を立てることによって、神殿もない御嶽が壊されるのを防ごうとしたのである」、「鳥居を立てるという、一見同化主義を思わせるやり方が、結果的には琉球神道(御嶽信仰)を守ったのである」。

 まだ原典に当たっていないが、もしそういうことなら、苦々しさが和らぐというものだ。ないものねだりは分かっているが、「方言」もそういうようにやれたらよかった。共通語の習得を方言の禁止なしに行えれば。共通語を習得することが、方言を守ることだという筋道で。鳥越の発想はそういうことを気づかせる。

 もうひとつ、立ち止まらせたのはこういうくだりだ。

 南洋に恋い焦がれたゴーギャンがタヒチの男を描けなかったように、また疫病により人口が三分の一にまで減少して苦しむタヒチを描くことができなかったように。そして未開社会へ向かう文化人類学者たちが、悪霊と戦う神がかりの女性の「参与観察者」として留まり、客観的な合理主義的視点を外すわけには行かない為、呪術に生きる神女の思考を内在的に辿ることができない姿にも似ている。「内側からの眼」の不在である。

 ここは、まだこういう声を聞くことはできるのかという小さな驚きがあった。ちょうど先日も、あるイベントで、本土に持ち帰る研究に対して、ときに白々しくときに厳しい眼を向けていると発言したばかりだった。それは引用のような自問のかけらもない壇上の人の発表に呆れたからだった。

 もちろんわたし自身にしてもそうした視線を向けられる側面を少し持っている。そこでは普遍性に至る深度があるかを自分に問うが、それでも『ハジチ』に取り組んだとき、これは書いていいのだろうか、島の秘密ではないかとためらう個所があった。

 他方で、人類学者のインゴルドが「他者を真剣に受け取ること」(『人類学とは何か』)と書いていて、まだしてなかったんかいと突っ込みを入れたくなったが、こと琉球弧についていえば、現在では「内側からの眼」がすでに希薄化していて、島の自然のように鮮やかなネタを提供するフィールドではなくなりつつある。そこでは、観察される側も、変換の果てのような状態しか見せられない。このとき「参与観察者」が、ともに探究を行う参与の形がありうるのではないかと思う。

 本書では、刺青の消滅についても触れられている。

 刺青の習俗が廃れていった大きな理由は、時代に目覚めた女性たちの意識の変化が介在している。刺青習俗への禁止は、生活習慣の合理化という近代化政策としての要素も大きい。女性が刺青をするには、大変な苦痛を伴った。場合によっては、術後1ヶ月間も手が腫れて仕事ができなかったという。すべての沖縄女性が、喜んで刺青を彫っていた訳ではないのである。「針突をしていないと、ヤマトへ連れて行かれるよ」と脅されながら、彫っていたのが実情である。近代に入り、自分たちの習俗を相対化する眼を獲得した女性たちが、刺青を彫る必要性について疑いを抱きはじめたのである。

 同様に、映像記録のなかでも、嬉しくて見せに行ったという女性の述懐を見ることができる。彫る彫らないの選択の前に、彫った女性のその後に消失への過程は胚胎している。比喩的に言えば、人見知りは他者の視線を過剰に意識する。方言を喋れることは見えないが、刺青は視線に晒される。辛かったろうと思う。

 モーアシビする女性の手にも刺青はあった。モーアシビを継承するのはエイサーだけではきっとないのだと、本書を読んで連想が広がった。

 

『モーアシビからエイサーへ―沖縄における習俗としての社会教育』(井谷泰彦)

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2020/11/10

『帝国の島』

 久しぶりに松島さんの本を読んだ。こんなハードなテーマに正面から向き合い続けていることに、まずは敬いの気持ちを表したい。

 けれどここから先、独語のようになってしまうが、いつも感じるのは松島さんの優しい気持ちに、政治的な概念を被せると概念の連なりが優勢になって、まるで違う表情になるようなちぐはぐさを感じてならない。それは島人も標準語を使っている制約なのかもしれないと思うこともある。島人には、それにふさわしい語法と論理を編み出す必要があるのではないか。という困難を思う。

 もっともそこまででなくても、感じるちぐはぐさはある。

 「自由」ということだろうか。ふつうの人が自由に振るまい表現し信仰を持てるという基本的な自由のこと。もちろん、松島さんも国家によって「自由」が著しく制約されていると感じればこそ、日本国家を批判する。そうであれば、この本は国家としての日本を批判すると同時に、帝国主義的な振る舞いを隠さない中国に対しても向けられなければ説得力を持たないのではないだろうか。この本が脱稿されたとき、「国家安全法」はまだ施行されてなくても、それは言いうることだ。

 もうひとつは、この本で詳しく触れられているわけではないが、琉球とはどこであるかということ。ぼくにとってもそれは切実だから、本土とのあいだに明確な差異を引くことができるのかという探究を続けてきた。そして、先史時代に遡れば、トーテムの段階においての違いを見出すことができた。それは時にトカラを含み、奄美から八重山まで共通している。おぼろげには本土のなかにも微差異があり、その向こうに北海道・アイヌとのあいだにも差異があることも見通しとして持っている。

 もちろん、「琉球」というとき、松島さんも奄美への視線は持っている。けれど、奄美北部での拒否感に会い、そこは自己決定権よろしく奄美の人に委ねられる格好になっている。けれどそこに問いは残る。奄美北部では「琉球」という言葉に拒否感があるが、それを解きほぐすことが琉球独立論にとって重要な課題だと思う。そこを自己決定権と投げて終わってしまえば、国家がやっているのと同じ、大は小を兼ねる、あるいは小の無視をなぞってしまう落ちになりかねない。

 奄美北部で顕在化する「琉球」アレルギーはひとつの例だが、かつて松島さんが取り組んでいた各島の自治という、小さな声を聞き落とさない姿勢からすれば、ここに琉球独立論を鍛える素材のひとつがあると思う。

 

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2019/04/21

『現代説経集』(姜信子)

 言葉が身体に染み入るようだった。「八百比丘尼の話」はyoutubeで流しながら台詞を追ってみた。お気に入りのフレーズは声に出して読んでみた。

 このところ、論考めいた言説の文体からの剥離感が強い。さりとて新しい文体がやすやすと出てくるわけでもないのだから、さてどのように書いたものかと戸惑いある者には、この声、この語りが、身体に入ってくると気づかされる。だから、作品のことを書く代わりに、心に留まるいくつかを引用しておこう。

 

 

「だから、私は、命をはぐくむ水だけを信じて、国家の内も外も境もなく脈々とのびてゆく命の流れをたどってゆく者です、この世をめぐる水の声に耳傾けて、水とともに流れて生きてゆく者です(後略)」

「(前略)歌は水のように変幻自在にこの世をめぐり、生きることの渇きを癒し、命をつないでゆく、それは私の祈りであり、私の旅である、歌を盗み、物語を盗み、記憶を盗み、この世の中心はただひとつとうそぶいて、水を澱ませる者たちへの、それは私の闘いである、と水のアナーキストは小声で呟いている(後略)」

「そもそも、基本的に、私のうちの九十九パーセントは死者たちの記憶や言葉や声でできあがっております、そして私のうちの私固有の領分は残りほんの一パーセントにすぎません、しかもこの一パーセントは空白、過去の無数の死者たちと未来の無数の生者たちとのつなぎ目となる空白です、かけがえのないものです、私は空白で、空っぽで、果てしない穴で、すべてを受け容れる水路で、同時に私はそこを流れる水で、それゆえにかけがえのない私は、私の中の死者たちの記憶を盗む者や死者たちの声を封じる者たちに、おのずとひそかに静かに抗するひとりの生者なのです、私は過去の無数の死者たちであり、未来のひとりの死者であり、未来の無数の生者なのです。」

「この世には旅をしなければわからぬことが無数にある。本当に大切なことは、旅の先に待っている、長い旅をして、ようやく出会って、つながったときに、そのつながりは未来へと延びてゆくだけでなく、かつてはつながりそこねた過去にものびてゆくものなのでしょう。」

「さて、「旅するカタリ」、と私はたったいま語りだしたばかりの物語を名づけているのですが、「カタリ」は「語り」でもあれば「騙り」でもある、私たちの生きる場所はいつでも嘘と真の間、善と悪の間、正と邪の間、記憶と忘却の間、あらゆる間を揺れ動くその揺らぎの中にあるものだから、何を語ろうともそれは騙りであろうし、その騙りのうちには実もあろうし、なので何事も黒だの白だの断じて畏れも恥も知らぬ輩とこの私をどうか一緒くたにしないでください、私が語るは、有象無象そんなこんなのすべてをのみこんだ「カタリ」。私自身が「カタリ」なのです、私は旅するカタリなのです。」

「物語とは旅する体が運ぶもの、道ゆく声が語るもの、という思いが私にはある。」

「すべての道に小さき神々。すべての道に人々のひそかな物語。物語は旅するカタリたちによって結ばれ、生きることより生まれいずる呪詛も祈りにかえて、祈りとともに増殖する。」

「あらためて。私は旅するカタリです。旅するカタリの声は無数の小さな中心をこの世に立ち上げる。語りとは声のアナーキズムなのだ。と、これは勢い余った私のひそやかな宣言。」

「旅するカタリはこう考える、植民地とは記憶を盗まれた者たちのいる場所、そんなところでは人間は生きているんだか生殺しなんだか・・・、そう、植民地とは、自身の記憶を自身の物語として自身の声で語る場を失くした者たちの場所、根も葉も芯もない宙ぶらりんの空虚な場所。」

「(前略)道をゆく、呼び合う声を結び合わせる、行く先々で人々が地声で自由に物語する治外法権の場を拓いてゆく、それが旅するカタリなのですよ(後略)」

 

『現代説経教集』

 

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2019/04/03

『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島』(斎藤憲・樫本喜一)

 逞しいもんだね、奄美の島人は。滅多に味わうことのない誇らしさだが、そういえば「ありがとう」を表すオボコリ(御誇り)、プクラシャ(誇らしゃ)は、こういう感覚を言うのかもしれない。奄美にオボコリ。そんな言葉がやってくるこの本は、奄美大島の宇検での「石油基地」建設への反対運動と徳之島へ「核のゴミ」の受け入れを拒否した「MA-T計画」反対運動を軸に、復帰後の学校統合へ反発した「同盟休校」と、地元の産物に適った企業誘致を行うも失敗した瀬戸内の事例をもうひとつの軸にして、奄美の住民運動の推移が丹念に辿られている。

 宇検の枝手久島の「石油基地」建設計画は、1973年にことが持ち上がり、1984年に断念される。「MA-T計画」も1973年に表面化し、1984年に下北半島の六ケ所村に建設候補地が絞られたことでひと段落している。どちらも11年の歳月を要したわけだ。この間、島は分断されながらも反対を持続し、企業や政府の狙いを断念させている。「MA-T」って何だ?と思うが、これはコードネームで、「Masterplan Atomic 徳之島」、「Mitsubishi Atomic 徳之島」の略だという説があるが確実な証拠はないという。そのことに驚くが、その実態は六ケ所村を見ればわかるように、放射性廃棄物の再処理工場だ。あの六ケ所村は、強い反対がなければ見ることになったかもしれない島の姿なのだ。

 ここで安堵といっしょに嫌な気持ちもやってくる。候補地から外された直後、徳之島の伊仙町議会の議長が、「しかしむなしさが残る。なぜなら闘いが下北に移っただけだからである」と言うように。

 他方で、瀬戸内の企業誘致が、島の産物を元にしているのに失敗しているのは、大規模な工場に対して、生産地は山と海に囲まれた狭隘な集落の集合であることがミスマッチを起こしている。生産量の増加がそれほど見込めず、増加しても集荷手段が乏しい、というような。事例から学ぶのは、島の環境に高負荷をかけない企業を誘致するにしても、島の実状に即さなければうまくいかないということだ。当然のことのように思えるが、こうなる背景もある。

 それは、「石油賛成」だった島人が村長選への落選後、態度を転じて、「産業基盤が非常に遅れていた」ので工業化や自由貿易を推し進めようとしてきたが、「本土並みの所得ということにまやかされているのではないか」、「とくに遠隔地である奄美の場合、自給自足の体制をある程度とりながら、”換金行政”、商品に向かった考え方を持つようにすべきだとしみじみ考える」、という語りのなかに表れている。

 こうしたことは終わった問題ではない。進出は常に向こう側からやって来る。そこに急激な人口減少が伴えば、追い詰められて「反対」から「賛成」への態度変容も起きる。現在の人口減少は急激ではないにせよ、奄美のそれは進行中である。どのような企業をどのような形で誘致するのかが焦点であるにしても、ことが起きたときに先人たちはどのように処したのか、それを学ぶのにこれは格好の一冊だと思う。

 そして「誘致」ということで言えば、ここでは「大学」も言及されている。長期に名瀬市長の立場にあった人も、ゴルフ場の誘致には熱心でも大学にはそうでもなかった。しかし、大学があれば「群島からの人口流出は多少は押しとどめる効果もあっただろう」、と。わたしはこのところではっとした。人口の観点から大学を捉えたことはなかったからだ。というより、大学という視点自体がなかった。

 もともと大学に職を求めることを想像したことがない。生活は別の方法で立てながら、その余白で考えることは進めるしかないと当たり前のように思ってきた。だが、それは身近な大学がないので身に着けた、ある意味できわめて奄美的な態度の少数類型なのかもしれない。

しかし奄美には大学がないために、歴史研究に専念できる人は少なく、研究者のよりどころとなる機関が十分でない。

 著者のひとり斎藤がこう書くところで、うかつなことだけれど、初めて大学があることの価値に気づかされるようだった。それは斎藤のこういう指摘にも重なってくる。

 筆者は、半ば冗談だが、戦後に奄美がなしとげた最高の成果は復帰であり、最悪の失敗は鹿児島県に復帰したことではないかと思うことがある。大島県が一九五三(昭和二十八)年に成立していれば、現在の奄美には大学があり、名瀬測候所もとっくに気象台に昇格していたはずである。

 ここで、「名瀬測候所」が取り上げられているのは、しばしば気象台昇格が陳情されながら実現していないからであり、「県」であれば当然ある施設の例だからだ。それはとりもなおさず、「群島全体の産業流出と人口減少は、今よりはゆるやかであっただろう」ことにつながる。

 しかしそのこと以上に、最高の成果が復帰であり、最悪の失敗は鹿児島県復帰であるという指摘にどきりとさせられる。言われてみれば、まっとうな判断なのに、今まで島人からこの言葉を聞くことはなかったからだ。それはもちろん、奄美の北へ行けば行くほど、鹿児島との関係は日常的な人間関係に重なり、何より行政にかかわってくるから口に出せないということがのしかかっている実状がある。わたしにしても、十年前の『奄美自立論』でもそこまでは書けなかった。奄美が「県」になったとして、そこでは大きい島の小さな島への差別が露わになると考えたことと、与論の地勢的心情が沖縄に傾くために、こういう文脈で「奄美」を主語に立てることはわたしにはできないという心も働いた。そこで展開されている、鹿児島に顔を向ければ島であることによって疎外(差別)され、沖縄に顔を向ければ県が違うことによって疎外されるという「二重の疎外」が述べられている。それは、三十年近く前に個人的に辿り着いた考えが、後に奄美の人々にも共有された悩みだと気づくことがあり、そこでなら、「奄美」を主語にして書くことができると考えたためだった。

 本書では、補足的に、「与論空港建設反対運動」や喜山康三が主導した与論島の「与論島百合が浜港建設反対運動」も取り上げられている。これまたうかつなことだが、こうした住民運動の共通性を通じて、「奄美」への連帯を感じることともなった。そして、本書を通じて、自分の何気ない判断や行動が「奄美」的であるのに気づかされたという場に立てば、斎藤の言を、自分に引き寄せて考えることができる。

 斎藤は、「はじめに」でも書いている。

 つまり奄美は、かつての薩摩の圧政を記憶したまま、薩摩がその成立に大きく関与した近代日本を祖国と規定して、「祖国日本」への復帰を求めたのである。これは実に複雑な事態である。そして、この事態の本当の複雑さは、復帰関係の資料や語りに、この事態を問題や矛盾として指摘するものがほとんど見当たらないことである。

 一方では求め、他方では拒絶するという二つの態度を、斎藤は、stateとしての日本を求め、nationとしての日本(ヤマト)には属することはしないと整理している。「二重の疎外」論から言えば、近代理念の「自由、平等、博愛」のうち、「博愛」は実感にそぐわないので「相互扶助」と言い換えれば、それはもともと島にあるので省くと、「stateとしての日本」とは、「二重の疎外」からの脱出として、「自由、平等」を求めたということになる。

 それでも、「現在、警察官や教員の鹿児島弁を聞くたびに複雑な気分になり、奄美が独立した一県でないことを嘆く人々も、鹿児島復帰を当然のこととしてとらえていて、それを復帰運動の失策とは見ていない」という疑問に答えるには不十分だ。あっさりは答えられないし、また答えてもいけない気がするが、少なくともここには島人の心性が横たわっている。

 約3000年前、九州北部を起点に本土は弥生化していったが、奄美や沖縄が本土の言葉でいえば縄文期を終えたのは約1000年前だ。この2000年の懸隔は、仏教や文字や鉄器といった文物の時間差という以上に、大きな意味を持っている。琉球弧ではっきり分かるのは、縄文相当期とそれ以降では心の構造に断絶のようなものがある。グスク時代以降には、一神教の神ではないにしても、人間とは非対称的な神が存在しているが、縄文相当期、神はカミと書くのがよいような人とそう隔たっていない精霊的な存在だ。そこでは、「あの世」は死者の行くところだけではなく、それ以上に生命の源泉と捉えられている。生命は「あの世」からやってくる。いわば、向こう側からやってくる。奄美でも沖縄でも、復帰運動は「親子」関係で語られることが多かったが、復帰元は「親」という以上に「祖」なのだ。この心性は、自分を主体に立てようとしない。それが向こう側からやってくるものの自明視になり、そこに選択という思考が働かない。沖縄では復帰運動のさなかから、主体化の動きが始まったが、奄美の場合、それが顕在化するのが、ここで取り上げられている復帰後の住民運動なのではないだろうか。それでも、わたしはしばしば思うのだが、奄美も沖縄も、自分のことを含めて、心底には近代に直面していないのではないだろうか。書名の「日本を求め、ヤマトに抗う」というのは、近代以前どころか縄文相当期の古層のこころを持ったまま、自由・平等を求めると言い換えてもいい。

 本書では取り上げられていないが、同じ住民運動の系譜に「アマミノクロウサギ訴訟」がある。ゴルフ場建設の反対をめぐって、こともあろうに、島人はアマミノクロウサギ等の動物を原告主体に立てた。わたしは、この島人の仕草には自分に大いに連なるものを感じる。『奄美自立論』以降は、斎藤が投げかける疑問の根にもかかわる島人のこころを言葉にしたくて、古層の探究へと向かうことになった。その途中は、『珊瑚礁の思考』としてひと段落つけたが、それで終わらない。古層のこころは想像以上に深くかつ魅力的だ。特定の動植物や自然物が生命の源泉(トーテム)である世界は、夢見がちな島人をよく照らすもので、「アマミノクロウサギ訴訟」にもそれが露出している。

 わたしは目下、神話や伝承だけではなく貝塚や遺跡を報告書を通じて、この世界にどっぷり浸っている。そうしていると、既存の人類学や民俗学の文脈からの剥離感がやってくる。それは脱皮のように心地いいのだが、ここからどのように言葉を紡げばいいのか戸惑いものあるので、本書が読後感を書かずにいられない気持ちを喚起するのがよいリハビリになる気がしてくる。別の言い方をすれば、こうした島人の心性があらかじめよく分かっていれば、本書の取り組みは『奄美自立論』以降に、取り組んだかもしれないテーマとして共感を覚えるのだ。

 そしてこうした労作が出るたびに、これは本来島人がしなければいけないことではないかという情けなさも過ぎるが、けれども指摘されないと分からないことがあるのも確かだ。斎藤は、奄美の住民運動にある意味で魅了されるが、このことが忘却の淵に沈みつつあるのに気づく。

 これが忘れられてよいはずがない、起こったことを調査し、将来へ記憶をつながなくてはならない。筆者は頼まれたわけでもない使命感を感じてしまった。

 この「頼まれたわけでもない」ところから生まれた本書は、島人への大きなギフトだ。「奄美」というマイナーなテーマを地域研究や戦後史の専門家ではない人が取り上げる労力を思えばいい(著者のひとりの斎藤は「古代ギリシャ数学史」の専門家だ)。住民運動の記事を追い、資料を読み、関係者への取材を経るという丁寧な取り組みがなければ(樫本が担当している「MA-T計画」は原子力にまつわる国家の動きを追わなければ把握できない問題でもある)、復帰後の住民運動は、事実としては忘却され、島では名物の人を軸に語られる伝承と化していくだろうことは容易に想像できる。それはそれで島らしくて面白いのだが、ことはまだまだ続くことを思えば、そして奄美でも文字化することでしか共有できなくなっていることも多いことを踏まえれば、頼みにできるものをプレゼントされたのだ。

 斎藤と樫本の取材は、手柄取りのための過去暴きになっていない。過去を隠蔽することをしていないが、記述のそばに島人への気遣いがある。それは特筆されてよいことだと島人として思う。

 

『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島―復帰後奄美の住民運動―』

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2017/10/07

「境界紀行(六・七)水俣 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 その土地をまるごと損なってしまうような災厄に見舞われると、語られること考えられることは、その問題に集約されてしまい、それ以前の美しさや豊かさは、回復されるべきこととして言挙げされるものの、それが深められることは無くなってしまう。ぼくたちはそういう光景をそこかしこで見てきているのではないだろうか。

 今回の「境界紀行」は、「水俣病の水俣」ではなく、「水俣病より大きい水俣」という叔父谷川健一の言葉を実際に感じるべく書かれている。

 谷川ゆにがそこで出会うのは、いまも生き生きと語り継がれる河童の伝承であり、その河童を支える「水」の存在だ。河童は川をつたい、川のもとにある水源はこの世ならぬ「水の空間」だった。

 谷川は琉球弧で、水が「人の生と死に大きく関わる霊的なもの」として捉えられていることを思い出し、書いている。

天から降り注ぎ、地からも湧出する水は、めにみえない(この世ならぬ)場所から、こちら側に生まれ出てくる。そしてまた空へと上がり、地下へ染み込み、あちら側(あの世)へと向かう。その循環が、人間の魂の、生と死の往来と重なって感覚されることがあるのではないでしょうか。

 この感覚は、都会育ちの谷川が生まれて初めて「ふるさと」の意味を伝えた水俣から感じゆされるものの奥に控えているものかもしれなかった。

 谷川の視線は山だけでなく海にも向けられる。すると、すぐ近くに恋路島が見える。

 伯父の谷川健一は、身近な小さな島がかつては「あの世」だったことを幻視した人だった。そのことを引きながら、姪は恋路島に、不知火海に浮かぶ小さな島々に「目に見える身近なあの世」を幻視するのだ。

やはり人は、茫漠とした「死後の世界」ではなく、懐かしい「ふるさと」であるところの「あの世」に還って行きたいのではないでしょうか。母のような温かい存在に、自分の魂を優しく受け止めてほしい。小さい島の一つ一つが、どこか感情をもった生命体のような雰囲気を醸し出しているのも、人間にとっての「あの世」たりうる条件を備えているということなのかもしれません。

 谷川は、水俣あるいは不知火海に「湧き出す豊かな自然な力と、人間の生自体が有機的につながる風景」を見ている。それは、「水俣病より大きい水俣」の姿のひとつにちがいない。

 しかし、谷川はそれを幻視しても苦しい立場に立とうとしている。「水俣病」を脇に置くことはできない。

つまり、人間が生きることにともなって必然化され続ける破壊や均質化と、その一方で繊細に自然と結ばれなければ生きられない人間本来のありよう、その矛盾の中に、自分をどう立たせてゆくのかということです。それはとてもハードな問題で、正解への糸口など簡単には見つからないように思える。

 それでも、ここで踏みとどまっている。

時代が進むにつれて本来あったはずのものが消えてゆく喪失感はあるのですが、それと同じくらい、私の身体にひっそりと宿る古代が、思いがけず賦活されていくような感覚がある。失われ続ける荒野に生きる自分の中にこそ、青葉が芽吹いてくる。

 著者は苦しんでこれを書いている。ものごとにはくぐり抜け方がある。さっと通り過ぎることもできるだろう。けれど谷川はそうしない。そこに生まれざるをえない抵抗を一身に浴びて発生する熱量を引き受けようとしている。そこに「水俣病より大きい水俣」が貌を出す。いつもそうだが、今回はとくに「はじまりのはじまり」というべき胎動を送って寄越すようだった。


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2017/09/10

「情動の文化理論にむけて-「感情」のコミュニケーションデザイン入門」(池田光穂)

 情動のコミュニケーションは、「どうやら身体を介したコミュニケーションと深い関連性を持つ」。「情動は身体経験と切ってもきれない関係にある」(池田光穂「情動の文化理論にむけて-「感情」のコミュニケーションデザイン入門」(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター,2013.3)。

 「だ・である」調と「です・ます」調は、常体、敬体と呼ばれることを初めて知ったが、論考が敬体で書かれていることについて、著者は書いている。

・この論考に違和感を感じる人がいるとしたら、論文は常体で書かれるべきだし、感情(情動)は、抑制すべきと考えているのではないか。
・しかし、講演では敬体も多い。口頭では常体だとトゲのある表現だと思われることもある。
・「なるほど」「嘘っ?」「すばらしい」という感想を抱くとき、正邪を含む情動判断が働いている。それは思考を邪魔することはない。

 この論考は入門だからか、触れられることはないが、ぼくも感情のコミュニケーションデザインという視点には関心がある。というか、思考を喚起されるキーワードだ。


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2017/09/07

『プロカウンセラーの共感の技術』(杉原保史)2

 「分からない」ことをありのままに感じるのは、すでに共感である。それは「相手とつながろうとする姿勢の表れだから」と、杉原は書いている。それは相手の求めているものを手探りで探っていこうとする作業のスタートラインであり、むしろすぐに分かろうとしないほうがいい。

「分からない」と分かったこと、「ギャップがある」と分かったこと、それがすでに接近の動きを作り出しています。だから、関心を持ってそこに注目するだけでいいのです。

 また、「淋しいね」とコメントすることについて。

 淋しいという言葉を身につけるためには、「その人が淋しいと感じている場面でぴったりと「淋しいね」とコメントされることが必要なのです。

 だから、著者がカウンセラーとして、「淋しいね」とコメントするのは、相手が淋しいという感情に触れるのを促進したいからだ。そこに行きたいのじゃないかと思う場合。

 「心の深い層」の内容は、本人にとっても非常にあいまい。それは、

話を聴いている人の反応によってもかなりの部分が形成されていくような類のものなのです。

 それはだから、「話し手と聴き手との共同作品と言ってもいいほどのもの」だ。

 「共感」はときに闘い。それが避けられないときはそうする。「穏やかに、落ち着いて、力強く、そして、温かく」。

 共感は相手を信じる行為を含んでいる。

相手が自分の言うことをきっと受けとめてくれると信じて、ジャンプするのです。

 その人を信じてジャンプして怪我をすることになってもいい。それでもいい。「そう思えることが共感なのです」。
 
 
『プロカウンセラーの共感の技術』

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2017/09/06

『プロカウンセラーの共感の技術』(杉原保史)1

 杉原保史は書いている。誰かに頼りたい欲求を自然なこととして受け入れれば、依存の欲求を真剣に考える道が拓かれる。必要なときに援助を求める行動をとることができれば、頼りたい気持ちは確実に和らぐ。依存の欲求が現実的に満たされるからだ。満たそうと思えばいつでも満たせることが分かれば、欲求は和らぐ。

 「悲しい」という相手に対して、「悲しいんだね」と答える、いわゆる反射。反復だとぼくは捉えてきたが、杉原はそう単純ではないとしている。

 「もう頑張れない」と言っている人への反射。

 「もう頑張れないんだね」
 「限界まで頑張ってきたんだね」

 「一度始めたことは途中でやめちゃいけないんですか?」と言っている人への反射。

 「一度始めたことを途中でやめてもいいのかどうかが疑問なんだね」
 「やめられるものならもうやめてしまいたいという気持ちなんですね」

 杉原は、反射には無限のバリエーションがあるとしている。ぼくの方へ引き寄せれば、反射にも、ポジティブな返し方があるということだ。

 このことは相手に気づきをもたらすという意味でも用いられているように見える。

 交際中の彼に対して、「どうしてあなたはもっと私と一緒にいたいって思わないの?」と責め口調になってしまう女性に対して、「あなたは、彼に『私はあなたともっと一緒にいたいよ』『もっと一緒にいようよ』って言いたいんじゃないかな」、と返す例がそれだ。

 葛藤の両面に触れる際には、「そして」「それと同時に」「その一方で」と接続詞でおだやかにつなぐ。逆説の接続詞にしない。これはよく分かる。

 
『プロカウンセラーの共感の技術』

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2017/08/30

「「覚悟」の自己心理学的考察:蒼古的自己愛空想への執着と諦め」(富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』)

 富樫公一は、「蒼古的自己愛空想の脱錯覚プロセス」として「覚悟」の重要性を指摘している。

1.「覚悟」には「自己の断片化の痛みを積極的に予測し、運命や時と呼ばれるような大いなるものの中で生きる自分を思い描くこと」が含まれる。

2.クライエントは、痛みに積極的に向き合うプロセスの中で、セラピストと共有する間主観的空想を必要としており、脱錯覚を伴う覚悟はイントラサイキックな空想の場より、間主観的な場で展開するプロセス。

3.間主観的空想をオーガナイズするプロセスでは、クライエントの空想水準で、セラピストが先にその間主観的空想に参加しようとしている、と体験されることが重要であった。

4.間主観的空想には、「一緒に生きてくれる人がいる」という体験が含まれており、それは世界に対する基本的な信頼感の形成と関係する可能性が示された。

5.「一緒に生きてくれる人がいる」という体験は、「一蓮托生」などの言葉で表されるもので、これまでのこれまでの自己心理学の枠組みでは、双子自己対象体験の中に位置づけられると考えられた。

 ここで「大いなるもの空想」とは「自己の存在を越えた時間や空間の流れの中で存在するものとして自分を見ること」とされていて、「全能的対象や全能的存在を仮定する」「理想化空想」とは異なる、とされている。

 紹介されている症例で印象的だったのは、最初、クライエントの怒りを恐れて情緒的な関係から引きこもった治療者が、腹をくくったことが脱錯覚を進める契機になったことだった。

 

富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』

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