『「危機の時代」の沖縄』
『「危機の時代」の沖縄』からは、簡潔に語ることの驚きがやってくる。薩摩の琉球侵略400年を踏まえて1609年のことを対象にするのだが、その侵略の理由。奄美に触れているのがうれしい、その箇所。
幕府・薩摩の思惑
明朝との貿易
ではここで、そもそもなぜ薩摩は琉球に侵攻したのかということを、薩摩や幕府の視点から見ていきましょう。
当時の日本は、徳川家康が江戸幕府を建て、以後二六〇年に及ぶ「江戸時代」がスタートした時期に当たります。江戸時代は、大きな戦乱がなく、政局も比較的安定していたという意味で平和が長く続いた時代です。しかしその最初期においてはまだ、国内・国外双方の面で治安が安定しておらず、安定への模索が続いていました。
とりわけ中国との関係については、日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵があったせいで、明朝に非常に危険視されていました。そのため、日中間でまともに国交を開ける状態ではありませんでした。しかし幕府は、何とかして明朝との国交を復活させたいと望んでいました。室町幕府が行ない大きな利益をもたらした、日明貿易を復活させたかったのです。
ところが、自明貿易の復活を願っていたのは、幕府だけではありませんでした。時を同じくして、薩摩も朝鮮出兵による財政悪化の打開策として、明朝との貿易に目をつけていたのです。このことから薩摩は、明朝との貿易復活という点で、幕府と共通の意見をもっていたことがわかります。
そこで両者は、琉球に明朝との仲介役をさせ、貿易をしようと企むのです。
さらに、薩摩には琉球が支配している奄美大島の土地を手に入れ、朝鮮出兵で活躍した武将に分け与えたいという野望もありました。薩摩はこの頃、奄美大島の土地ほしさから、しきりに琉球への出兵許可を幕府に願い出ています。しかし、幕府としては何の理由もなしに薩摩の出兵を許可するわけにはいきません。安易に許可すれば、明朝に対して幕府の印象が悪くなり、朝鮮出兵の二の舞となるからです。「日本は野蛮で危険な国」であるという明朝の日本に対するイメージを、認めてしまうことになります。
そこで幕府は、琉球が幕府へ挨拶の使者を送ることを拒んだのを大義に、薩摩の琉球出兵を認めることにしたのです。
琉球侵略の前に、実は奄美を狙う過程があり、それゆえ、実際に決行されたとき、奄美の直轄地化は当初から目論まれていたことだと推察してきたのだが、それがあからさまに語られる。「薩摩はこの頃、奄美大島の土地ほしさから、しきりに琉球への出兵許可を幕府に願い出ています」、と。
ことの経緯について、これ以上簡潔に語られたものをぼくは知らない。「薩摩には琉球が支配している奄美大島の土地を手に入れ、朝鮮出兵で活躍した武将に分け与えたいという野望もありました」。なるほど、単純にいえば確かにそうだ。けれど一方で、「奄美大島」は、「大島出兵」と当時、表記されていて、それは大島だけを指すのか、奄美の島々を指すのか、そのニュアンスが分からないと思うのだが、その部分は飛んで奄美大島のことだということになる。そうかもしれないが、ちょっと気になる。そんな印象が残る。
例の、「七島人」を使った琉日関係の隠蔽についても同様だ。
七島人
琉球に到着した汪楫は、冊封の儀式を行なった後、帰国するための風を待つ間、琉球に滞在します。当時の船は、現在のようにエンジンが付いている訳ではありません。専ら風を利用しての航海なので、渡海や帰国には、特定の方向に吹く季節風を待たねばなりませんでした。
この風待ちの期間を利用して江梓は、琉球・日本の国家間関係への疑問を持ちつつ、琉球の当時の色々な様子を書いています。その中で、七島人というのが出てきます。七島人に関して汪楫は、
よく知られているように、琉球と日本はそう遠くない。しばしば行き来して商売などもするが、しかし琉球国の人々はみな、このことを隠したり、言いたがらない。その様子はまるで、日本が存在するということ自体、全く知らないかのようである。ただ、七島人と往来があるとは言っている。
と書いています。
実は、この七島人とは本当は存在しない「架空の地域の人々」のことです。そして、七島は当時、薩摩が琉球との関係を隠そうとした中で、その政策の一環として作り上げられたものだったのです。
薩摩は、現在のトカラ列島のことを 「七島」と呼んでいて、領土としていました。これを用いて、薩摩は架空の話をでっちあげました。そして琉球には、こちらが事実であるように清朝側に振舞うよう指示したのです。
その話とは、
この地域は琉球が支配している。そしてそこに住む人々は「七島人」と言う。しかし、七島は琉球とは違い日本と交流があるため、日本の影響を受けている。そのため、七島人は 「ちょんまげ」 をしていたり、日本人の服装をしていてもいい。
というものです。
汪楫一行が琉球に到着した時、彼らを迎えた役人の中には、ちょんまげを締めた日本人のような役人が混ざっていました。これについて質問された琉球の役人は、あれは七島人であって、彼らは薩摩と琉球の仲介役を果たすのだと、薩摩に指示されたように、汪楫達に語ったのです。
汪楫と会ったのは、本当は琉球に駐在している薩摩の役人です。しかし彼らは、この方策に則って、薩摩人ではなく「七島人」 と名乗りました。
これに対して、江稗も少なからず疑問を持ちました。一行の中には七島人を指して「あれは日本人だ」という人がいたり、日本と琉球が比較的近いという点から考えて、お互いの行き来があると考えたほうが自然なのに、琉球の人々は変に日本のことを隠そうとして、そのことにふれたがらないからです。
結局、汪楫はいくつか日本の存在を臭わせる事には出会いましたが、最後まで、琉球と日本の国家間の交流が現在でも存在する、という事実の確信は掴めなかったようです。
なぜなら、このことについて、皇帝に言われたような部署への報告はしていませんし、後に作られる汪楫の伝記にも、これについての記載は特に無いからです。
この偽装についてもこれ以上、簡潔な説明を知らない。そのうえこれは、「七島人とは本当は存在しない「架空の地域の人々」のこと」と解説されるのだが、ぼくはトカラという列島の存在に当て込んだもので、架空の地域の人のことだとは考えていなかった。こうした細かなニュアンスは疑問が残るところだ。
また、これを薩摩の強制だという解釈にしても、これを唱えてきた紙屋敦之自身が、今年、実は琉球主導のものではないかと、琉球の主体性を強調するに至っている。このことについて、著者は注で、この本では従来の説から論じることにすると、触れている。
このように、『「危機の時代」の沖縄』は、気になる点を残しつつも、歴史を簡潔に語ることの効用を伝えている。歴史に簡単に語れることなどないのではないかという問題意識が首をもたげてくるが、それにしても、理解しやすい。奄美の歴史について副読本の制作が発表されたが、この本はその企画にとっても刺激ではないだろうか。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)








































最近のコメント