カテゴリー「 7.小説、批評はどこに」の125件の記事

2009/12/13

『「危機の時代」の沖縄』

 『「危機の時代」の沖縄』からは、簡潔に語ることの驚きがやってくる。薩摩の琉球侵略400年を踏まえて1609年のことを対象にするのだが、その侵略の理由。奄美に触れているのがうれしい、その箇所。

    幕府・薩摩の思惑

明朝との貿易
 ではここで、そもそもなぜ薩摩は琉球に侵攻したのかということを、薩摩や幕府の視点から見ていきましょう。
 当時の日本は、徳川家康が江戸幕府を建て、以後二六〇年に及ぶ「江戸時代」がスタートした時期に当たります。江戸時代は、大きな戦乱がなく、政局も比較的安定していたという意味で平和が長く続いた時代です。しかしその最初期においてはまだ、国内・国外双方の面で治安が安定しておらず、安定への模索が続いていました。
 とりわけ中国との関係については、日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵があったせいで、明朝に非常に危険視されていました。そのため、日中間でまともに国交を開ける状態ではありませんでした。しかし幕府は、何とかして明朝との国交を復活させたいと望んでいました。室町幕府が行ない大きな利益をもたらした、日明貿易を復活させたかったのです。

 ところが、自明貿易の復活を願っていたのは、幕府だけではありませんでした。時を同じくして、薩摩も朝鮮出兵による財政悪化の打開策として、明朝との貿易に目をつけていたのです。このことから薩摩は、明朝との貿易復活という点で、幕府と共通の意見をもっていたことがわかります。
 そこで両者は、琉球に明朝との仲介役をさせ、貿易をしようと企むのです。

 さらに、薩摩には琉球が支配している奄美大島の土地を手に入れ、朝鮮出兵で活躍した武将に分け与えたいという野望もありました。薩摩はこの頃、奄美大島の土地ほしさから、しきりに琉球への出兵許可を幕府に願い出ています。しかし、幕府としては何の理由もなしに薩摩の出兵を許可するわけにはいきません。安易に許可すれば、明朝に対して幕府の印象が悪くなり、朝鮮出兵の二の舞となるからです。「日本は野蛮で危険な国」であるという明朝の日本に対するイメージを、認めてしまうことになります。
 そこで幕府は、琉球が幕府へ挨拶の使者を送ることを拒んだのを大義に、薩摩の琉球出兵を認めることにしたのです。

 琉球侵略の前に、実は奄美を狙う過程があり、それゆえ、実際に決行されたとき、奄美の直轄地化は当初から目論まれていたことだと推察してきたのだが、それがあからさまに語られる。「薩摩はこの頃、奄美大島の土地ほしさから、しきりに琉球への出兵許可を幕府に願い出ています」、と。

 ことの経緯について、これ以上簡潔に語られたものをぼくは知らない。「薩摩には琉球が支配している奄美大島の土地を手に入れ、朝鮮出兵で活躍した武将に分け与えたいという野望もありました」。なるほど、単純にいえば確かにそうだ。けれど一方で、「奄美大島」は、「大島出兵」と当時、表記されていて、それは大島だけを指すのか、奄美の島々を指すのか、そのニュアンスが分からないと思うのだが、その部分は飛んで奄美大島のことだということになる。そうかもしれないが、ちょっと気になる。そんな印象が残る。

 例の、「七島人」を使った琉日関係の隠蔽についても同様だ。

 七島人

 琉球に到着した汪楫は、冊封の儀式を行なった後、帰国するための風を待つ間、琉球に滞在します。当時の船は、現在のようにエンジンが付いている訳ではありません。専ら風を利用しての航海なので、渡海や帰国には、特定の方向に吹く季節風を待たねばなりませんでした。
 この風待ちの期間を利用して江梓は、琉球・日本の国家間関係への疑問を持ちつつ、琉球の当時の色々な様子を書いています。その中で、七島人というのが出てきます。七島人に関して汪楫は、
 よく知られているように、琉球と日本はそう遠くない。しばしば行き来して商売などもするが、しかし琉球国の人々はみな、このことを隠したり、言いたがらない。その様子はまるで、日本が存在するということ自体、全く知らないかのようである。ただ、七島人と往来があるとは言っている。
と書いています。

 実は、この七島人とは本当は存在しない「架空の地域の人々」のことです。そして、七島は当時、薩摩が琉球との関係を隠そうとした中で、その政策の一環として作り上げられたものだったのです。
 薩摩は、現在のトカラ列島のことを 「七島」と呼んでいて、領土としていました。これを用いて、薩摩は架空の話をでっちあげました。そして琉球には、こちらが事実であるように清朝側に振舞うよう指示したのです。
 その話とは、
  この地域は琉球が支配している。そしてそこに住む人々は「七島人」と言う。しかし、七島は琉球とは違い日本と交流があるため、日本の影響を受けている。そのため、七島人は 「ちょんまげ」 をしていたり、日本人の服装をしていてもいい。
というものです。

 汪楫一行が琉球に到着した時、彼らを迎えた役人の中には、ちょんまげを締めた日本人のような役人が混ざっていました。これについて質問された琉球の役人は、あれは七島人であって、彼らは薩摩と琉球の仲介役を果たすのだと、薩摩に指示されたように、汪楫達に語ったのです。
 汪楫と会ったのは、本当は琉球に駐在している薩摩の役人です。しかし彼らは、この方策に則って、薩摩人ではなく「七島人」 と名乗りました。
 これに対して、江稗も少なからず疑問を持ちました。一行の中には七島人を指して「あれは日本人だ」という人がいたり、日本と琉球が比較的近いという点から考えて、お互いの行き来があると考えたほうが自然なのに、琉球の人々は変に日本のことを隠そうとして、そのことにふれたがらないからです。
 結局、汪楫はいくつか日本の存在を臭わせる事には出会いましたが、最後まで、琉球と日本の国家間の交流が現在でも存在する、という事実の確信は掴めなかったようです。
 なぜなら、このことについて、皇帝に言われたような部署への報告はしていませんし、後に作られる汪楫の伝記にも、これについての記載は特に無いからです。

 この偽装についてもこれ以上、簡潔な説明を知らない。そのうえこれは、「七島人とは本当は存在しない「架空の地域の人々」のこと」と解説されるのだが、ぼくはトカラという列島の存在に当て込んだもので、架空の地域の人のことだとは考えていなかった。こうした細かなニュアンスは疑問が残るところだ。

 また、これを薩摩の強制だという解釈にしても、これを唱えてきた紙屋敦之自身が、今年、実は琉球主導のものではないかと、琉球の主体性を強調するに至っている。このことについて、著者は注で、この本では従来の説から論じることにすると、触れている。

 このように、『「危機の時代」の沖縄』は、気になる点を残しつつも、歴史を簡潔に語ることの効用を伝えている。歴史に簡単に語れることなどないのではないかという問題意識が首をもたげてくるが、それにしても、理解しやすい。奄美の歴史について副読本の制作が発表されたが、この本はその企画にとっても刺激ではないだろうか。

   『「危機の時代」の沖縄 ―現代を写す鑑、十七世紀の琉球― 』

Kikinozidainookinawa_2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/12/04

『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

 上里隆史の『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』は、同じく今年の4月に出版された上原兼善の『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』と比べると、その新しさがわかりやすい。

 上原の『島津氏の琉球侵略』は「もう一つの慶長の役」と副題がつくように、秀吉の朝鮮出兵との対比で琉球出兵(侵攻)を捉えようとしている。内容も、「慶長の役」の延長に「もう一つの慶長の役」が起こる過程の全貌を解き明かそうとするものだ。これに対して、上里の『琉日戦争一六〇九』は、海洋王国としての琉球に起点を置き、島津の九州制覇から琉球侵攻の過程へと接近している。この出発点と遠近感が違う。もっと違うのは、上原が琉球の軍事的準備を虚弱と捉えているのに対して、上原は琉球の軍事的防備を一定程度、認めている。それが、書名にも「琉日戦争」と、「戦争」を強調することになっているし、なにより、侵攻における戦闘の過程が詳しい。

 実際、奄美大島から首里城まで、薩摩軍との戦闘の様子は、これまで以上に詳細に知ることができた。ぼくは『奄美自立論』では、航路は与論島の西、東シナ海側にあるようなので、西の沖に軍船が通過した様を想像して、与論の島人の恐怖を感じ取ろうとしたのだが、『琉日戦争一六〇九』ではそれは、沖縄島北部からの眺めとして語られている。

 夜を徹して船を進めた島津軍は翌二五日午後六時頃、沖縄島の属島である北部の古宇利島に到着した。古宇利島は北部地域の玄関口・運天港の入口付近にあり、本部半島の運天と屋我地島に挟まれた内海、それをふさぐように位置する。古宇利島の海上にびっしりと停泊する八〇隻もの大船団を見た琉球人たちは戦慄したにちがいない。かつてない規模の「戦争」という津波が沖縄を襲おうとしていた。

 こうした想像は、上里が戦闘の過程を丹念に追った結果やってきたイメージだと思う。読んでいて気づいたが、戦闘過程が詳細化されると、薩摩兵や琉球人の動きがわかる。するとその分、島人が感じただろう恐怖感もほのかに伝わってくるが、そのリアリティは戦没者を慰霊する気持ちにつながる。それはこの本の効用だと感じた。

 戦闘の過程以外にも新たに知ったことは多かったが、あの謝名親方が、明への救援を認めた密書を取り戻したのは、薩摩ではなく琉球だったことにはショックを受ける。

 密書を買収した一人の嘉数親雲上は、その功績により翌一六一一年に比志島国貞・樺山久高から感状を与えられた(『愈姓家譜』)。琉球を救援するための書が琉球人によってにぎり潰される。島津氏の命とはいえ、彼らは見て見ぬふりもできたはずである。戦前から謝名親方を快く思わない勢力は確実に王府内に存在していた。戦後、尚寧政権を支えていた謝名・浦添親方らの一派は失脚し、代わって江洲・摩文仁親方ら講和に積極的だった人物が三司官の座に就いていた(後述)。こうした路線対立と人事の一新が密書奪取の背景にあったかもしれない。

 こともあろうに、樺山久高から「感状」をもらうことになるとは。


 この他に感じたのは、やはり奄美からの視点になる。上里の『琉日戦争一六〇九』は、400年の契機が反薩摩の怨恨ばかりになってはならないという内省も込めて、島津の出自や九州制覇の経緯も詳述している。そこで、追い詰められた島津が琉球に活路を見出すという、島津の背景が見えるようになっている。

 これを奄美からみるとどう見えるか。島津の詳述は、鹿児島のなかでは露骨に大仰にほめそやされ紙面を費やして語られ、その分、奄美はネグられるという経験を積んでいるので、沖縄の人にとって、島津詳述は新鮮かもしれないが、ぼくたちにはそうではない。ただ、事大主義がかってないだけ、反発なしに読めるという点がありがたい。

 そして、その分に見合うように、奄美に対する記述が手薄になるのを感じ、ほんの少しさびしく思う。そのことに、上里は無自覚ではなく、あとがきで触れている。

 本書では深く突っ込むことはできなかったが、奄美もまた沖縄の歴史を考える際には不可欠な地域であり、二〇〇九年を機会に新しい関係を築くことができればと願っている。本書が少しでもその一助になることができれば幸いである。個々の島単位ではなく琉球全体としてみた場合、奄美地域は王府にとって島津軍侵攻を阻止するための戦略上の拠点となった。古琉球における奄美の位置づけを考える一つの手がかりをこの侵攻事件は提示しているように思う。

 ぼくたちは、奄美をオーバーヘッドして鹿児島に行ってほしくないと感じる。しかし一方、島津詳述だが奄美手薄になるという帰結は、現在のところいたしかたない面も含んでいる。なぜなら、奄美自身に、詳述されたり論じられたりするための事実の発掘や仮説の展開が充分ではないからである。言い換えれば、奄美を記述してほしいと思うより、自分たちが奄美の記述を拵えてゆく課題を見出すべきだと受け止めたい。


 ところでぼくがこの本でもっとも強い印象を受けたのは別のところにあった。薩摩の琉球侵略を「琉日戦争」と捉え、琉球王国に戦争主体を見出したことにより、「琉球はなぜ敗れたのか」という視点を、内在的に取り出している。上里はこう書いている。

 こうした抵抗にもかかわらず、琉球はなぜ敗れたのだろうか。
 「島津軍が圧倒的に強かったから」と言ってしまえば身もふたもないが、この戦いから琉球側の軍事戦略をみてみると、ある事実が浮かび上がる。琉球王府は王国全域に均等に兵を配置していたのではなく、奄美の徳之島、そして那覇に軍勢を集中させていたことである。
 徳之島には王府中央より直接、軍司令官(番衆主取)が派遣されており、徳之島では湾屈・秋徳などの港湾部に一〇〇〇人以上の兵が防御していた。しかも王府からの派遣は一六〇八年冬の時点で行われており、島津軍の来襲に備え事前に防御体制を構築していたことがわかる。これは奄美大島で行われた在地勢力による抵抗とは質が異なる。
 王府は一五九二年の秀吉侵攻に備えた対応も奄美地域に役人を派遣しており、今回の島津軍の侵攻への対応と共通している。王府の基本戦略は、奄美(徳之島)を「防波堤」として敵軍を沖縄島に到達させずに阻止する方針だったとみられるのである。

 防波堤としての奄美。しかもその拠点は徳之島であったということは何を物語るか。ぼくは、時に、奄美大島から発せられる琉球王国に対する反発の声のひとつとして、琉球が見捨てたという声が強く出てくるのを不思議に感じてきたが、軍事力を徳之島に用意したのであれば、奄美大島は無防備に近い状態にされたわけであり、そこから、見捨てられたという感情が生じるのは無理ないことだ。ただ仮にそうでも、「琉球、薩摩、アメリカ」という並置や「薩摩も琉球もどっちもどっち」という観点は自己抑圧的で、もっと自己分析せらるべきものと思うけれど、見捨てられの気持ちにはこれまで思いいたることはできていなかった。


 そして、もうひとつ。琉球にとっての防波堤としての奄美、というフレーズは、もうひとつのフレーズを想起させずにいない。それは、日本にとっての防波堤としての沖縄、という、あの戦争のことだ。この連想はさまざまなことを考えさせるが、どう受け止めればいいだろう。大は小を、中心は周縁を、自らの存立の手段とみなしがちである、ということだろうか。もちろん、常にこれからもそうだと言いたいのではなく、そうありがちな歴史を超えようとして、ぼくたちは食いしばっているのだと言いたいわけだ。


 上原は、古文書の訳を書いていたので、意味のよくつかめない者には助けになった。上里は、古文書を踏まえて消化したものを書き、必要な個所だけ、訳と原文を載せる。わかりやすさはこの本の身上とするところだ。


Rywar_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/29

神谷バーで『南島旅行見聞記』、出版祝賀会

 昨日は、浅草は神谷バーで、酒井卯作さんの『南島旅行見聞記』の出版記念祝賀会だった。

 『南島旅行見聞記』は、柳田國男の『海南小記』のもとになった手帳のメモに酒井さんが丁寧な注釈をつけ、また柳田の素顔のわかるエッセイを添えたものだ。

 神経を張り詰めるようなことの多いこの頃、ゆったり構えること、歩くこと、無駄をすること。そんなことの大切さを、もう自身のオーラとして放ってらっしゃる酒井さんに触れることができるのはありがたかった。

 帰りの電車では、奄美での不思議な出来事のいくつかを聞かせてもらった。奄美はまだ人智を超えたものを感じさせてくれる、と。


   『南島旅行見聞記』

Nantouryokou













Kamiya1
Kamiya2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/21

『月桃夜』

 読み進むにつれて引き込まれ、一気に読み終えてしまった。遠田潤子の『月桃夜』である。

 兄と妹の物語に妹として苦悶し、なかば死を覚悟して海を漂う茉莉香(まりか)が、二百年前に、同じ兄と妹の物語に、兄として苦悶し、いまは鷲として空を飛びながら、「この世の終わり」で妹との再会を待っているフィエクサの話を聞いて、生の世界へ帰還するまでの、これは小説だ。

 茉莉香はわざとパドルを海に放ち、カヤックを漂流させ、死か生かの裁きを受けようとするのだが、そこでマブリ(魂)が抜けかかっている状態なので、鷲と話すことができる。鷲もまた生と死のあいだを彷徨っている存在だからだ。

 その舞台が奄美大島の海だというのは、最適だと思う。奄美もまた、どちらでもありどちらでもない、というあわいの歴史と地理を生きてきた島だからである。この、生と死のあわいの世界を奄美に見たとき、遠田は奄美の世界を内在的に描く鍵を手にしたのだと思う。現に、歴史も民俗も、『月桃夜』は、ぼくたちに身近なところまで迫ってくる。たとえばそれは、

 「アンマの手にはきれいな模様があった。それで、機を織っていた」
 「針突(ハヅキ)か」

 と、「針突(ハヅキ)」を憧れとして、島の民俗の内側から描いている点などに現れている。ぼくたちは奄美の物語としてこの作品を読むことができるだろう。もちろん、史実へのアプローチや、たとえば、山の神が西洋の女神に思えてしまうようなところなど欲を言いたくなった箇所もあった。しかしそれは贅沢というものだろう。奄美ならではの舞台設定で奄美を感じさせてくれる作品にまずは感謝したい。

 途中まで読んで眠りについたが、夜中目が覚め、眠れそうになかったので続きを読みだしたら、終わるまでやめることができなかった。『月桃夜』は深夜に向いている。


   『月桃夜』

Gettouya_3

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009/11/10

「不分明の文化」

 甲東哲(きのえとうてつ)は、奄美の文化の特徴を「堺がはっきりしないこと」と捉えている。

「この境がはっきりしないということは、奄美の文化の特徴ではないかとぼくは思うんだ」
「もっと具体的に言ってくれ」
「第一に自然がそうだ。夏は格別として、春、秋、冬はけじめがはっきりしない。例えば、島の一月末は冬であると同時に、秋の終わりであり、春の初めである。寒さにふるえた翌日、額に暑さを覚えるほどの好天気が突然訪れることもある。庭の隅では菊も咲き、すみれも咲いている。本茶峠などを通ると、はぜの木が真赤に紅葉している近くで桜が咲いている」
 「なるほど」
「それからあの珊瑚礁だ。ある時間ふと気がつくと、広大な平地が海中に出現している。三月頃は人だって大勢出ている。そこは島民の大切な蛋白源でもある。珊瑚礁があることによって、海と陸との境界がぼかされているとも言える」

 「境がはっきりしない」ことの根拠が珊瑚礁に行きつくのは、ぼくにはとても自然に思える。それは松山光秀のコーラル文化圏の思想にも共有されているものだ。

「要するに、けじめがないということなのか」
「けじめがない、ということばには、それはいけないことだという決めつけがあるような感じがする。けじめのないことの気楽さ、温かさだってあるし、けじめをつけることの窮屈さ、冷たさだってない訳ではない。ここでは、良いとか悪いとかということからは一応離れて見ていきたいと思う。そのためには、価値判断の付いていないことばを探さなければならない。ぼくは、境界がおぼろだという意味で『朧界性の文化』と名付けたのだが、これは残念ながら字が難しい。それで『不分明の文化』と秘かに命名している。これで奄美の事象の大半は説明できるような気がする」

 甲は、境がはっきりしないことを、「不分明の文化」と命名している。甲はこれを価値判断として言わないよにしたいと言っているが、よくわかるにしても、ぼくたちは不分明さを奄美の困難と捉えているわけだから、それを固定化してしまわないかという危惧はよぎる。

 そこで、というわけではないが、ぼくは「不分明」をさらに進めて、境界無化の力を与論島クオリアの極限に思い描いてきた。これは直感の言葉で、「朧界性の文化」というのと同じようにわかりいいとは言えず、課題として持ち越したままだ。「境がはっきりしないこと」を積極的に見ようとしている、と補足することはできるけれど。

『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/07

『月桃夜』の装丁です

 遠田潤子の『月桃夜』、アマゾンでは予約可になっている。

 新潮社のサイトをみると、「月桃夜」の装丁が見られる。黒と赤、どきどきする配色だ。楽しみですね。


Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/05

『昇曙夢とその時代』4

 『昇曙夢とその時代』には、著者の田代俊一郎に資料を提供した長縄光男の「跋」が寄せられている。

 ただ、コンパクトな著作だけに言い落としたこと、言い足りないことが多々見て取れることも否めない。
 ロシア学者の立場からいえば、翻訳者として曙夢の働きについてもっと深める必要があるだろう。曙夢は明治期にあっては二葉亭の後継者として、大正期にあっては米川正夫、原久一郎、中村自業といった所謂「御三家」の先人として、ロシア文学の紹介の歴史に一時代を画した人なのである。
 また、第1次から4次にわたる日露協商の時代(1906~1916年)にあって、政論家として活躍した曙夢の姿が措かれていないことにも恨みが残る。
 この他、「正教徒」であるはずの曙夢が無神論を国是として信徒を迫害して止まぬ「ソ連」と、内面的にどう折り合いを付けたのか、これも疑問として残る。
 さらに、奄美の復帰運動家の側からは、曙夢流の復帰のあり方に異論を唱える向きもあるのではないか。折りから、本土にも沖縄にも帰属することのない、独自の歴史と文化を持つ島として、「奄美自立論」が語られ始めた今日、曙夢の業績はこうした側面からも光が当てられることになるだろう。
 ともあれ、田代氏のこの度の曙夢伝がこれからのこうした議論の土台として、あるいは出発点として、大きな意義を持ち続けるであろうことは疑いがない。

 ここに挙げられた課題、特に奄美にからめた課題はほとんどぼくたちにものであると言わなければならない。理学者の斎藤憲は、高名なロシア文学者にしては『大奄美史』の歴史認識はあまりにナイーブだが、そこには理由がなければならないと、指摘してくれたことがあるが、トルストイやドストエフスキイなどを昇はどう通過したのかということも、まだぼくたちには見えない。本格的な「昇曙夢論」が待たれていると思う。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/04

『昇曙夢とその時代』3

 もちろん、『昇曙夢とその時代』には、昇直隆の素顔も映し出されて、それもこの手記の魅力のひとつだ。

 特に印象的なのは、癇癪持ちだったという昇を伝えるエピソード。手記のはじめから藤子は、ランプ磨きが苦手だと書いているのだが、あるときもうお払い箱にしてもよさそうだと感じて売ってしまう。

この頃ようやく宅の室内に電燈がつくようになりましたが、昇の書斎だけは相変わらずランプを使っておりましたので、毎日毎日ランプのお掃除をしながら、このお役目はいつになったらなくなるのだろうかと思って居りました。その後二度目の引越しの頃にはどうやらランプをあきらめたように思われましたので、引越しの時がらくた道具と一緒に昇の許可も受けないでくず屋に売ってしまいました。ところが移転後間もなく大暴風雨がありまして停電となりました。早速二階から「ランプを持っておいで」とさけばれました。私は豆ランプを持って行って、ランプを売ってしまったことを話しますと、さあ大変、昇は目をつり上げて「ああいう記念の品を粗末に扱ったばかりでなく、両も僕に相談もせずに安々と売ってしまったというのは人間のすることではない」と暴風に劣らぬ声で叱られました。その声をきいて、婆やが自分の使っていたランプを持って来てくれ ましたので、やっと助かりました。

 「この頃」というのは結婚四年目、明治44年のことだが、藤子の内心の冷やっとする気持ちが伝わってくる。「さあ大変」なんて、童謡のような言葉に、ぼくたちはつい、微笑ましい場面のように受けとってしまいそうになるが、明治を背にしたときの昇の気質を知らせる一幕だ。

 奄美を背にしたときの昇のことで、書いてくれて本当によかったと思える箇所がある。

その翌年の秋、昇は久し振で郷里の大島へ帰りましたが、その留守中に西川松子さんが逝去なさいました。御良人と共に長い間御苦心なさってお建てになりました工場がますます栄えて行くことを稲村ケ崎へおいでになります毎にお話し下さいまして、共にお喜び申して居りましたのに、と電報を拝見いたしました時には三十年前からの事をいろいろと思い出しまして悲しみに堪えませんでした。その頃から昇は翻訳の仕事にあきまして、郷里の奄美大島の事に夢中になってしまいまして、その揚句に代議士になって大島の為に働くのだと言いはじめました。そのことをちらりと聞いた大島出身の若い人達が「昇先生是非是非」ということになり、昇はそれを本気にして、明日保証金を持って行くからお金の支度をしておけと私に申しました。その時私は、「法律も分らない者がロボット代議士になって議会に列席するなんて正気の者には出来ません、絶対に反対です」と怒りまして、早速に大審院長の泉二新熊博士と親友の佐藤さんとに電報でお知らせして、すぐに宅へ来て頂き、昇を説得して頂きました。そこでようやく正気にたちかえり、それから大島史と、中断していたロシア文学史とを書きはじめました。

 これは昭和11年のことだ。ぼくは昇が奄美の復帰のとき、「奄美大島日本復帰対策全国委員会」の委員長に就任し、東京における運動の先頭に立ち、参議院外務委員会の公聴会で参考意見を述べるというような行動に対して、文学者らしからぬ違和感を感じてきたのだが、もともと政治家への志向があったということだ。昭和22年には、『ロシヤ知識階級論』という書物もものにしているから、知識人として先導するという想いもあったに違いない。

 しかしここはランプ事件の意趣返しではないが、藤子はよく止めてくれたと思う。代議士昇より、『大奄美史』のほうがはるかに永続した仕事に違いなかったからである。ぼくは、ここの藤子の「正気の者には出来ません、絶対に反対です」という叱責とそれを記してくれたことは余人にはできないことで、感謝したくなる。

 ただ、昇の「大島の為」という想いは痛いほどわかる。こと大島のこととなると、自分を見失うほどに猛進してしまいそうになるのだ。「その頃から昇は翻訳の仕事にあきまして、郷里の奄美大島の事に夢中になってしまいまして」という「飽きた」という観察は、昇は怒りそうな気がするが、翻訳では満たされない想いも切実だ。奄美とは、時の経過が和らげてくれない痛切さのことだからだ。

 その意味で手記を読んでいちばん気になったのは、昇の帰省の回数だ。年譜や手記に頼ると、昇は父の他界を虫の知らせでわかったように帰省した明治44年と、大正12年と昭和11年の、計3回しか奄美大島へ行った形跡がない。たった3回である。一回ごとの帰省はいまのように世知辛くはなく、3回目は40日間、奄美の各島を巡ったようだが、それにしても、16歳で加計呂麻島を離れて以来、たった3回しか故郷の島の土を踏めなかったのだろうか。そして、記述の範囲内では、妻の藤子は一度も大島を訪れていない。

 時代の制約があるだろうが、これほど想っている場所へたった三回というのはやるせない。逆に、この少なさは昇の奄美への想いをいやましに強くさせたに違いない。もっと帰りたかったことだろう。同情を禁じえない。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/03

『昇曙夢とその時代』2

 『昇曙夢とその時代』の価値をことのほか高めているのは、ここに昇藤子の手記が収められているからだ。

 「思い出の記」と題された手記は、「私が昇と結婚いたしましたのは明治四十年一月二十日のことでございます」と始まるように、昇の妻、藤子によって書かれたものである。

 実際、この手記はとてもいい。それは、昇曙夢の妻という形容を除いてもひとつのエッセイとして読みたくなるものだ。島尾敏雄の妻、ミホの作品が島尾敏雄の妻という形容がなくても独立した優れた作品だというようにとまではいかないとしても。

 まず、やってくる印象は、家の懐の深さというようなものだ。

 私が昇と結婚いたしましたのは明治四十年一月二十日でございます。昇は三十歳、私は十九歳でした。鎌倉、江の島の旅行から帰って、いよいよ東京の新居に住むことになりましたが、その家は牛込区の市ヶ谷町で、裏は八幡宮、庭の向うは陸軍士官学校の馬場でございました。六、四半、三、二の四室でしたが荷物の少ない二人にはこの四間の家でも広いように思われました。時々お馬の稽古を夢中で見ていてお魚を黒焼にしたことなど度々でございました。たしか五月頃だったと思いますが、士官学校へ天皇陛下が行幸されましてお馬のいろいろな技術を御覧になった事がございました。その時、陛下の御座所が宅の庭先から二間ほど離れたところでしたので、座敷に坐って拝見して居りますと色々の事がすっかり見えましてお馬の見事な行進や様々な技術がとても面白く、夢中で見て居りましたところ、突然巡査が庭へ入って来まして 「もしもしすぐに戸を閉めて下さい、こんなにまる見えじゃ困るからな」と申しましたので、「今私一人で静かに拝見して居りますのですから障子を閉めるだけではいけませんか」と聞きましたら、お巡りさんはうす笑いしながら「まあよいじゃろ」と申して帰りました。私はそのあと障子の中ガラスからそっとのぞいて居りました。

 ここにいう天皇陛下とは、明治天皇のことだと思うが、天皇のために見せている「お馬の見事な行進や様々な技術」が、家の中から見物できたというのである。これはすぐに家の懐とはつながらないが、家から見える景色がなんというか、広いのである。巡査の態度も、まだ牧歌的なものだ。

 この印象を入口にして、家の懐と思うのは、当たり前のように何度も引っ越しを繰り返しながら、そこには多くの人が訪れ、奄美からは親戚がしばらく居候をしたり、島から連れてきたりということが自然に行われている。出産もふつうになされる

 或る日庭の銀杏の葉があまり美しく色づいたので、須美子を抱いて眺めて居りますと、お客様の声、お玄関にまいりますと、「小杉です」と天外先生が微笑して立っていらっしゃいました。小杉先生には昇が学生時代から大変お世話様になっておりまして、いつもその話を聞いておりましたし、先生の御著書も拝読して居りましたが、お目にかかりますのは初めてでした。私はしどろもどろに御挨拶いたしましたが、折あしく昇が不在でしたので須美子をあやして、すぐお帰りになりました。

 こんなささやかな日常のひとこまにも、懐の深さを思わずにいられない。いや、島にはまだこんな生活はあると思うのだが、いまの生活はそこから隔たってしまっている。その遠さに気づかされる。家が様々な関係を内包する豊かさを持ったいた、それを伝えてくれるのはこの手記のよさだと思う。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/02

『昇曙夢とその時代』1

 『昇曙夢とその時代』には、「大奄美史」を読んでいるのに、その人となりや来し方をほとんど知らなかった昇曙夢(のぼりしょむ)について、その来歴を教えてもらった。

 昇曙夢は、本名、昇直隆。1878年、明治11年に加計呂麻島で生まれている。明治11年といっても、その前年に西南戦争があり、11年はあの大島商社が解体される、そういうタイミングだから、奄美にとって近代の意味が始まろうとしているときだ。昇は、奄美近代の起点でその生を受けている。

 16歳のとき、鹿児島に行き、ギリシャ正教の洗礼を受けているが、鹿児島で初めて出会ったのではなく、加計呂麻島に訪れた商船会社のキリスト教徒に教示されていた。その紹介で、昇は鹿児島の協会に行く。岡程良の依頼を受けてカトリックの神父が大島を訪れるのが明治24年だから、昇もその時代の流れを受けていたのだ。ただ、昇が出会ったのは、カトリックでもプロテスタントでもなく、のちにロシア正教と呼ばれることになるギリシャ正教会だった。これが、昇がロシア語の世界に入っていく契機にもなっている。

 昇は、すぐに上京。ニコライ正教神学校に入学。卒業後、同校の講師になるが、そのときにはすでに論文を発表していた。明治40年、29歳で結婚。

 日清、日露戦争が起こるなか、昇は非戦論者の内村鑑三に傾倒。「内村先生の思い出」のなかで、こう書く。

 この文章の中で、昇はペンネームの「曙夢」の由来についても書いている。内村の西洋詩人の訳詩集『愛吟集』の中の「詩は英雄の暁の夢なり」の一句が「ひどく気に入って、曙夢というペンネームはその中の『暁の夢』という語から思いついた」。後年、このペンネームについて「ロマンチックな筆名であるが、先生に傾倒していた時代の一つの記念」と回想する。

 曙夢、それは「暁の夢」のことだった。

 昇の年代であれば、柳田國男との接点も気になる。

 ただ、昇と柳田は師弟の間柄ではない。すでに、昇はロシアの文学と民俗の分野で一家を成していた。農務官僚でもあった柳田とは少し距離があったようだ。昭和十五年、東京で文化、民俗を研究する「奄美大島文化協会」の発足の際、顧問就任要請に対して柳田は 「外出困難」とやんわりと断りの手紙を昇に出している。柳田の中では軽重でいえば奄美より沖縄だったこともありそうだ。柳田、折口といった本土人の「南島の発見」は奄美人の昇にとっては刺激とともに焦燥感も混じった悼惜たる思いもあっただろう。また、大正末期に起こったこの南へのまなざしはその後のアジア植民地路線に向かう「南進論」の政治的な文脈につらなる面もあった。

 柳田の真意は知らない。けれど、さもありなんと思えるリアリティはある。そしてこの、ありそうだという信憑は、「軽重でいえば奄美より沖縄」という事態は、いまも変わらないと思うからだ。もちろん、沖縄より奄美と主張したいからでは毛頭なく、奄美も、であってほしいと思うからだ。

 そして昇にとっても、「大奄美史」は大きな意味を持っていたようだ。

 「まるで喜びの三重奏だ。もう、これで死んでもいい」
 七十七歳になった昭和三十(一九五五)年は、昇曙夢にとって幸福な年であった。シベリアに抑留されていた長男の隆一が無事に帰還した。加えて、大著『ロシャ・ソヴエト文筆史』を刊行し、これが芸術院賞、読売文学賞を受賞した。ただ、昇のライフワークは昭和二十四年に刊行した奄美諸島の民俗誌『大奄美史』(奄美社刊)だった。
 『大奄美史』は先史時代から説き起こし、昭和二年の奄美への「天皇陛下の行幸」までを記した歴史、民俗誌だ。「方言・宗教・土俗・風習・歌謡・伝説等」が盛り込まれた奄美の百科全書でもある。もちろん、六十年近く経った現在から見れば事実誤認の個所もあるが、昇は「後進のために道を開く先駆者としての役割に過ぎない」と次世代に書き継ぐことを託している。(中略)

 「渡された原稿は何千枚という分厚い資料であった…東京で刊行会までできながら出版の運びに至らなかったものだが、郷土のためにぜひ完成しておくべき仕事と思って、奄美の人々に呼びかけ、千二百部を予約出版した」
 昇一人の力ではなく、奄美の人々の支援によって初めて日の目を見た。

 驚くのは、「大奄美史」を発表したとき、昇はすでに77歳であったことだ。たしかにこれはライフワークと言うべきものだった。そしてそれを奄美の島人も待ち焦がれていた。ぼくは、奄美の二重の疎外による空虚感満たす役割をカトリックは担ったと考えてきたけれど、それだけはない、「大奄美史」もそうなのだと知る。

 明治、大正、昭和の三代を生きてきた昇の人生はこの『大奄美史』を書くための苦難の長い旅路であった。奄美-東京-ロシア-奄美。『大奄美史』は見事な昇の人生の円環を示す遺書ともいえる。
 昇にとって『大奄美史』は単なる民俗誌ではない。それは聖書であり、叙事詩であり、長編小説だった。近代の旅路の中で交錯した西郷隆盛、内村鑑三、二葉亭四迷、柳田囲男、ニコライ、トルストイ、ドストエフスキーなどの文章、思想などを血肉化することで初めて完成することができた。くじけそうなときには彼らの戦いを思い浮かべたに違いない。

 『大奄美史』について、日本国家への帰属意識が強く出た皇国史観だ」と否定的な人たちもいる。確かに周縁の奄美に住むことで国家を相対化する視点を持った本土の作家、島尾敏雄は「ヤポネシア論」を提示した。東京も奄美も地方の一つにすぎない、とする集権的国家を解体する思想だ。
 ただ、日本という国家から疎外、抑圧されてきた奄美の人々の恋い焦がれるような帰属意識は奄美人でなければ理解できない感情だろう。とりわけ、明治維新後の天皇制国家の形成の波に洗われた明治の男、昇にとっては、ある意味、無理からぬことだった。
だからといって奄美の空白の歴史を掘り起こし、記録した『大奄美史』の価値が損なわれ、失われることはない。出版されたとき、「本を抱くようにして眠った」という奄美人にとっては、自負と誇りを確認するバイブルだった。

 確かにぼくも、「大奄美史」については、戦後に出されたものにもかかわらず、戦争体験を通過していないことを批判している。それは第二次世界大戦の意味を受け取っていない。しかし、奄美の近代の起点に生を受け、「明治、大正、昭和の三代を生きてきた昇の人生」にとっては無理からぬことかもしれないとも思う。奄美の近代の向こう側へ視線を伸ばすことはできなかった、それを昇への不満として言うことはできないかもしれない。

 しかしだからなおさら、当時の奄美にとってこれがバイブルであったとしても、現在のぼくたちが、これをバイブルとし続けるわけにいかない。古典としなければ。それがぼくたちの課題である。

 奄美諸島は本土の鹿児島と沖縄を結ぶ「道の島」と呼ばれる。美しい呼び名である。昇は自著『大奄美史』の中で「薩摩と琉球との中間を占め…古来交通の要衝であった」と書く。ただ、それは鹿児島と国境の島として位置する沖縄を結ぶ「架け橋」のイメージともいえる。言ってしまえば、どちらにも所属しない中ぶらりんの「橋」である。その「橋」という位置が中央集権国家の中で歴史的、地理的な空白、疎外を生んだ。それだけに昇は「暗い心理より島民を解放して、明るい希望の生活に向け直したい一心から」自らを鼓舞しながら精力的に仕事に取り組んだ。新聞、雑誌に自分の名前を刻むことは、日本という国家への帰属意識を確認、アピールし、空白の地図を埋めていく孤独な戦いであった。

 この「孤独な戦い」はいまも継続している。

  『昇曙夢とその時代』は、彼の来歴を教えてくれる。しかし、駆け足の足取りのせいか、いささか表層的な物足りなさも残る。

 この本は西日本新聞紙上で二十六回にわたって連載したものをまとめた。これまでいくつかの長期の連載をしてきたが、この連載が私の中で印象深いのは九州近代史をライフワークに決めてからの第一弾であることだ。残りの人生を逆算して仕事を考える年齢になった。過日、宴の席で「星を決めた奴は振り向かぬ」といった言葉を口にしたことがあるが、それに近い思いを抱いている。ただ、九州近代史、人物史と取り組むにはその才が見合わないとの自己認識もあり、今回の昇曙夢も人物、時代が描けたかどうか自信はない。それでも、九州という風土の中で生きて死んでいった人々の骨を拾う孤独な作業を私なりに続けていきたいと思う。

 著者はあとがきにこう書くのだが、物足りなさは新聞連載の限界なのかもしれない。けれど、昇が生きたのは「九州という風土」のなかではない、と注意したくはなってくる。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

0.プロフィール | 1.与論島クオリア | 2.与論・琉球弧を見つめて | 3.与論の地名 | 4.奄美の地名 | 5.琉球弧の地名 | 6.地域ブランドをつくる | 7.小説、批評はどこに | 8.島尾さんの作品 | 9.音楽・映画・絵画 | 10.自然の懐 | 11.抒情のしずく | 12.祖母へ、父へ | 13.超・自然哲学 | 14.沖永良部学との対話 | 15.『しまぬゆ』との対話 | 16.奄美考 | 17.『海と島の思想』 | 18.『ヤコウガイの考古学』を読む | 19.与論砂浜 | 20.「対称性人類学」からみた琉球弧 | 21.道州制考 | 22.『それぞれの奄美論』 | 23.『奄美戦後史』 | 24.『鹿児島戦後開拓史』 | 25.「まつろわぬ民たちの系譜」 | 26.映画『めがね』ウォッチング | 27.『近世奄美の支配と社会』 | 28.弓削政己の奄美論 | 29.奄美自立論 | 30.『ドゥダンミン』 | 31.『無学日記』 | 32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 | 33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』 | 34.『祭儀の空間』 | 35.薩摩とは何か、西郷とは誰か | 36.『なんくるなく、ない』 | 37.『「沖縄問題」とは何か』 | 38.紙屋敦之の琉球論 | 39.「島津氏の琉球入りと奄美」 | 40.与論イメージを旅する | 41.「猿渡文書」 | 42.400年 | 43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 | 44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 | 45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」 | 46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子) | 47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す | ★奄美と沖縄をつなぐ(イベント)