逞しいもんだね、奄美の島人は。滅多に味わうことのない誇らしさだが、そういえば「ありがとう」を表すオボコリ(御誇り)、プクラシャ(誇らしゃ)は、こういう感覚を言うのかもしれない。奄美にオボコリ。そんな言葉がやってくるこの本は、奄美大島の宇検での「石油基地」建設への反対運動と徳之島へ「核のゴミ」の受け入れを拒否した「MA-T計画」反対運動を軸に、復帰後の学校統合へ反発した「同盟休校」と、地元の産物に適った企業誘致を行うも失敗した瀬戸内の事例をもうひとつの軸にして、奄美の住民運動の推移が丹念に辿られている。
宇検の枝手久島の「石油基地」建設計画は、1973年にことが持ち上がり、1984年に断念される。「MA-T計画」も1973年に表面化し、1984年に下北半島の六ケ所村に建設候補地が絞られたことでひと段落している。どちらも11年の歳月を要したわけだ。この間、島は分断されながらも反対を持続し、企業や政府の狙いを断念させている。「MA-T」って何だ?と思うが、これはコードネームで、「Masterplan Atomic 徳之島」、「Mitsubishi Atomic 徳之島」の略だという説があるが確実な証拠はないという。そのことに驚くが、その実態は六ケ所村を見ればわかるように、放射性廃棄物の再処理工場だ。あの六ケ所村は、強い反対がなければ見ることになったかもしれない島の姿なのだ。
ここで安堵といっしょに嫌な気持ちもやってくる。候補地から外された直後、徳之島の伊仙町議会の議長が、「しかしむなしさが残る。なぜなら闘いが下北に移っただけだからである」と言うように。
他方で、瀬戸内の企業誘致が、島の産物を元にしているのに失敗しているのは、大規模な工場に対して、生産地は山と海に囲まれた狭隘な集落の集合であることがミスマッチを起こしている。生産量の増加がそれほど見込めず、増加しても集荷手段が乏しい、というような。事例から学ぶのは、島の環境に高負荷をかけない企業を誘致するにしても、島の実状に即さなければうまくいかないということだ。当然のことのように思えるが、こうなる背景もある。
それは、「石油賛成」だった島人が村長選への落選後、態度を転じて、「産業基盤が非常に遅れていた」ので工業化や自由貿易を推し進めようとしてきたが、「本土並みの所得ということにまやかされているのではないか」、「とくに遠隔地である奄美の場合、自給自足の体制をある程度とりながら、”換金行政”、商品に向かった考え方を持つようにすべきだとしみじみ考える」、という語りのなかに表れている。
こうしたことは終わった問題ではない。進出は常に向こう側からやって来る。そこに急激な人口減少が伴えば、追い詰められて「反対」から「賛成」への態度変容も起きる。現在の人口減少は急激ではないにせよ、奄美のそれは進行中である。どのような企業をどのような形で誘致するのかが焦点であるにしても、ことが起きたときに先人たちはどのように処したのか、それを学ぶのにこれは格好の一冊だと思う。
そして「誘致」ということで言えば、ここでは「大学」も言及されている。長期に名瀬市長の立場にあった人も、ゴルフ場の誘致には熱心でも大学にはそうでもなかった。しかし、大学があれば「群島からの人口流出は多少は押しとどめる効果もあっただろう」、と。わたしはこのところではっとした。人口の観点から大学を捉えたことはなかったからだ。というより、大学という視点自体がなかった。
もともと大学に職を求めることを想像したことがない。生活は別の方法で立てながら、その余白で考えることは進めるしかないと当たり前のように思ってきた。だが、それは身近な大学がないので身に着けた、ある意味できわめて奄美的な態度の少数類型なのかもしれない。
しかし奄美には大学がないために、歴史研究に専念できる人は少なく、研究者のよりどころとなる機関が十分でない。
著者のひとり斎藤がこう書くところで、うかつなことだけれど、初めて大学があることの価値に気づかされるようだった。それは斎藤のこういう指摘にも重なってくる。
筆者は、半ば冗談だが、戦後に奄美がなしとげた最高の成果は復帰であり、最悪の失敗は鹿児島県に復帰したことではないかと思うことがある。大島県が一九五三(昭和二十八)年に成立していれば、現在の奄美には大学があり、名瀬測候所もとっくに気象台に昇格していたはずである。
ここで、「名瀬測候所」が取り上げられているのは、しばしば気象台昇格が陳情されながら実現していないからであり、「県」であれば当然ある施設の例だからだ。それはとりもなおさず、「群島全体の産業流出と人口減少は、今よりはゆるやかであっただろう」ことにつながる。
しかしそのこと以上に、最高の成果が復帰であり、最悪の失敗は鹿児島県復帰であるという指摘にどきりとさせられる。言われてみれば、まっとうな判断なのに、今まで島人からこの言葉を聞くことはなかったからだ。それはもちろん、奄美の北へ行けば行くほど、鹿児島との関係は日常的な人間関係に重なり、何より行政にかかわってくるから口に出せないということがのしかかっている実状がある。わたしにしても、十年前の『奄美自立論』でもそこまでは書けなかった。奄美が「県」になったとして、そこでは大きい島の小さな島への差別が露わになると考えたことと、与論の地勢的心情が沖縄に傾くために、こういう文脈で「奄美」を主語に立てることはわたしにはできないという心も働いた。そこで展開されている、鹿児島に顔を向ければ島であることによって疎外(差別)され、沖縄に顔を向ければ県が違うことによって疎外されるという「二重の疎外」が述べられている。それは、三十年近く前に個人的に辿り着いた考えが、後に奄美の人々にも共有された悩みだと気づくことがあり、そこでなら、「奄美」を主語にして書くことができると考えたためだった。
本書では、補足的に、「与論空港建設反対運動」や喜山康三が主導した与論島の「与論島百合が浜港建設反対運動」も取り上げられている。これまたうかつなことだが、こうした住民運動の共通性を通じて、「奄美」への連帯を感じることともなった。そして、本書を通じて、自分の何気ない判断や行動が「奄美」的であるのに気づかされたという場に立てば、斎藤の言を、自分に引き寄せて考えることができる。
斎藤は、「はじめに」でも書いている。
つまり奄美は、かつての薩摩の圧政を記憶したまま、薩摩がその成立に大きく関与した近代日本を祖国と規定して、「祖国日本」への復帰を求めたのである。これは実に複雑な事態である。そして、この事態の本当の複雑さは、復帰関係の資料や語りに、この事態を問題や矛盾として指摘するものがほとんど見当たらないことである。
一方では求め、他方では拒絶するという二つの態度を、斎藤は、stateとしての日本を求め、nationとしての日本(ヤマト)には属することはしないと整理している。「二重の疎外」論から言えば、近代理念の「自由、平等、博愛」のうち、「博愛」は実感にそぐわないので「相互扶助」と言い換えれば、それはもともと島にあるので省くと、「stateとしての日本」とは、「二重の疎外」からの脱出として、「自由、平等」を求めたということになる。
それでも、「現在、警察官や教員の鹿児島弁を聞くたびに複雑な気分になり、奄美が独立した一県でないことを嘆く人々も、鹿児島復帰を当然のこととしてとらえていて、それを復帰運動の失策とは見ていない」という疑問に答えるには不十分だ。あっさりは答えられないし、また答えてもいけない気がするが、少なくともここには島人の心性が横たわっている。
約3000年前、九州北部を起点に本土は弥生化していったが、奄美や沖縄が本土の言葉でいえば縄文期を終えたのは約1000年前だ。この2000年の懸隔は、仏教や文字や鉄器といった文物の時間差という以上に、大きな意味を持っている。琉球弧ではっきり分かるのは、縄文相当期とそれ以降では心の構造に断絶のようなものがある。グスク時代以降には、一神教の神ではないにしても、人間とは非対称的な神が存在しているが、縄文相当期、神はカミと書くのがよいような人とそう隔たっていない精霊的な存在だ。そこでは、「あの世」は死者の行くところだけではなく、それ以上に生命の源泉と捉えられている。生命は「あの世」からやってくる。いわば、向こう側からやってくる。奄美でも沖縄でも、復帰運動は「親子」関係で語られることが多かったが、復帰元は「親」という以上に「祖」なのだ。この心性は、自分を主体に立てようとしない。それが向こう側からやってくるものの自明視になり、そこに選択という思考が働かない。沖縄では復帰運動のさなかから、主体化の動きが始まったが、奄美の場合、それが顕在化するのが、ここで取り上げられている復帰後の住民運動なのではないだろうか。それでも、わたしはしばしば思うのだが、奄美も沖縄も、自分のことを含めて、心底には近代に直面していないのではないだろうか。書名の「日本を求め、ヤマトに抗う」というのは、近代以前どころか縄文相当期の古層のこころを持ったまま、自由・平等を求めると言い換えてもいい。
本書では取り上げられていないが、同じ住民運動の系譜に「アマミノクロウサギ訴訟」がある。ゴルフ場建設の反対をめぐって、こともあろうに、島人はアマミノクロウサギ等の動物を原告主体に立てた。わたしは、この島人の仕草には自分に大いに連なるものを感じる。『奄美自立論』以降は、斎藤が投げかける疑問の根にもかかわる島人のこころを言葉にしたくて、古層の探究へと向かうことになった。その途中は、『珊瑚礁の思考』としてひと段落つけたが、それで終わらない。古層のこころは想像以上に深くかつ魅力的だ。特定の動植物や自然物が生命の源泉(トーテム)である世界は、夢見がちな島人をよく照らすもので、「アマミノクロウサギ訴訟」にもそれが露出している。
わたしは目下、神話や伝承だけではなく貝塚や遺跡を報告書を通じて、この世界にどっぷり浸っている。そうしていると、既存の人類学や民俗学の文脈からの剥離感がやってくる。それは脱皮のように心地いいのだが、ここからどのように言葉を紡げばいいのか戸惑いものあるので、本書が読後感を書かずにいられない気持ちを喚起するのがよいリハビリになる気がしてくる。別の言い方をすれば、こうした島人の心性があらかじめよく分かっていれば、本書の取り組みは『奄美自立論』以降に、取り組んだかもしれないテーマとして共感を覚えるのだ。
そしてこうした労作が出るたびに、これは本来島人がしなければいけないことではないかという情けなさも過ぎるが、けれども指摘されないと分からないことがあるのも確かだ。斎藤は、奄美の住民運動にある意味で魅了されるが、このことが忘却の淵に沈みつつあるのに気づく。
これが忘れられてよいはずがない、起こったことを調査し、将来へ記憶をつながなくてはならない。筆者は頼まれたわけでもない使命感を感じてしまった。
この「頼まれたわけでもない」ところから生まれた本書は、島人への大きなギフトだ。「奄美」というマイナーなテーマを地域研究や戦後史の専門家ではない人が取り上げる労力を思えばいい(著者のひとりの斎藤は「古代ギリシャ数学史」の専門家だ)。住民運動の記事を追い、資料を読み、関係者への取材を経るという丁寧な取り組みがなければ(樫本が担当している「MA-T計画」は原子力にまつわる国家の動きを追わなければ把握できない問題でもある)、復帰後の住民運動は、事実としては忘却され、島では名物の人を軸に語られる伝承と化していくだろうことは容易に想像できる。それはそれで島らしくて面白いのだが、ことはまだまだ続くことを思えば、そして奄美でも文字化することでしか共有できなくなっていることも多いことを踏まえれば、頼みにできるものをプレゼントされたのだ。
斎藤と樫本の取材は、手柄取りのための過去暴きになっていない。過去を隠蔽することをしていないが、記述のそばに島人への気遣いがある。それは特筆されてよいことだと島人として思う。
『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島―復帰後奄美の住民運動―』


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