カテゴリー「 7.小説、批評はどこに」の211件の記事

2017/10/07

「境界紀行(六・七)水俣 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 その土地をまるごと損なってしまうような災厄に見舞われると、語られること考えられることは、その問題に集約されてしまい、それ以前の美しさや豊かさは、回復されるべきこととして言挙げされるものの、それが深められることは無くなってしまう。ぼくたちはそういう光景をそこかしこで見てきているのではないだろうか。

 今回の「境界紀行」は、「水俣病の水俣」ではなく、「水俣病より大きい水俣」という叔父谷川健一の言葉を実際に感じるべく書かれている。

 谷川ゆにがそこで出会うのは、いまも生き生きと語り継がれる河童の伝承であり、その河童を支える「水」の存在だ。河童は川をつたい、川のもとにある水源はこの世ならぬ「水の空間」だった。

 谷川は琉球弧で、水が「人の生と死に大きく関わる霊的なもの」として捉えられていることを思い出し、書いている。

天から降り注ぎ、地からも湧出する水は、めにみえない(この世ならぬ)場所から、こちら側に生まれ出てくる。そしてまた空へと上がり、地下へ染み込み、あちら側(あの世)へと向かう。その循環が、人間の魂の、生と死の往来と重なって感覚されることがあるのではないでしょうか。

 この感覚は、都会育ちの谷川が生まれて初めて「ふるさと」の意味を伝えた水俣から感じゆされるものの奥に控えているものかもしれなかった。

 谷川の視線は山だけでなく海にも向けられる。すると、すぐ近くに恋路島が見える。

 伯父の谷川健一は、身近な小さな島がかつては「あの世」だったことを幻視した人だった。そのことを引きながら、姪は恋路島に、不知火海に浮かぶ小さな島々に「目に見える身近なあの世」を幻視するのだ。

やはり人は、茫漠とした「死後の世界」ではなく、懐かしい「ふるさと」であるところの「あの世」に還って行きたいのではないでしょうか。母のような温かい存在に、自分の魂を優しく受け止めてほしい。小さい島の一つ一つが、どこか感情をもった生命体のような雰囲気を醸し出しているのも、人間にとっての「あの世」たりうる条件を備えているということなのかもしれません。

 谷川は、水俣あるいは不知火海に「湧き出す豊かな自然な力と、人間の生自体が有機的につながる風景」を見ている。それは、「水俣病より大きい水俣」の姿のひとつにちがいない。

 しかし、谷川はそれを幻視しても苦しい立場に立とうとしている。「水俣病」を脇に置くことはできない。

つまり、人間が生きることにともなって必然化され続ける破壊や均質化と、その一方で繊細に自然と結ばれなければ生きられない人間本来のありよう、その矛盾の中に、自分をどう立たせてゆくのかということです。それはとてもハードな問題で、正解への糸口など簡単には見つからないように思える。

 それでも、ここで踏みとどまっている。

時代が進むにつれて本来あったはずのものが消えてゆく喪失感はあるのですが、それと同じくらい、私の身体にひっそりと宿る古代が、思いがけず賦活されていくような感覚がある。失われ続ける荒野に生きる自分の中にこそ、青葉が芽吹いてくる。

 著者は苦しんでこれを書いている。ものごとにはくぐり抜け方がある。さっと通り過ぎることもできるだろう。けれど谷川はそうしない。そこに生まれざるをえない抵抗を一身に浴びて発生する熱量を引き受けようとしている。そこに「水俣病より大きい水俣」が貌を出す。いつもそうだが、今回はとくに「はじまりのはじまり」というべき胎動を送って寄越すようだった。


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2017/09/10

「情動の文化理論にむけて-「感情」のコミュニケーションデザイン入門」(池田光穂)

 情動のコミュニケーションは、「どうやら身体を介したコミュニケーションと深い関連性を持つ」。「情動は身体経験と切ってもきれない関係にある」(池田光穂「情動の文化理論にむけて-「感情」のコミュニケーションデザイン入門」(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター,2013.3)。

 「だ・である」調と「です・ます」調は、常体、敬体と呼ばれることを初めて知ったが、論考が敬体で書かれていることについて、著者は書いている。

・この論考に違和感を感じる人がいるとしたら、論文は常体で書かれるべきだし、感情(情動)は、抑制すべきと考えているのではないか。
・しかし、講演では敬体も多い。口頭では常体だとトゲのある表現だと思われることもある。
・「なるほど」「嘘っ?」「すばらしい」という感想を抱くとき、正邪を含む情動判断が働いている。それは思考を邪魔することはない。

 この論考は入門だからか、触れられることはないが、ぼくも感情のコミュニケーションデザインという視点には関心がある。というか、思考を喚起されるキーワードだ。


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2017/09/07

『プロカウンセラーの共感の技術』(杉原保史)2

 「分からない」ことをありのままに感じるのは、すでに共感である。それは「相手とつながろうとする姿勢の表れだから」と、杉原は書いている。それは相手の求めているものを手探りで探っていこうとする作業のスタートラインであり、むしろすぐに分かろうとしないほうがいい。

「分からない」と分かったこと、「ギャップがある」と分かったこと、それがすでに接近の動きを作り出しています。だから、関心を持ってそこに注目するだけでいいのです。

 また、「淋しいね」とコメントすることについて。

 淋しいという言葉を身につけるためには、「その人が淋しいと感じている場面でぴったりと「淋しいね」とコメントされることが必要なのです。

 だから、著者がカウンセラーとして、「淋しいね」とコメントするのは、相手が淋しいという感情に触れるのを促進したいからだ。そこに行きたいのじゃないかと思う場合。

 「心の深い層」の内容は、本人にとっても非常にあいまい。それは、

話を聴いている人の反応によってもかなりの部分が形成されていくような類のものなのです。

 それはだから、「話し手と聴き手との共同作品と言ってもいいほどのもの」だ。

 「共感」はときに闘い。それが避けられないときはそうする。「穏やかに、落ち着いて、力強く、そして、温かく」。

 共感は相手を信じる行為を含んでいる。

相手が自分の言うことをきっと受けとめてくれると信じて、ジャンプするのです。

 その人を信じてジャンプして怪我をすることになってもいい。それでもいい。「そう思えることが共感なのです」。
 
 
『プロカウンセラーの共感の技術』

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2017/09/06

『プロカウンセラーの共感の技術』(杉原保史)1

 杉原保史は書いている。誰かに頼りたい欲求を自然なこととして受け入れれば、依存の欲求を真剣に考える道が拓かれる。必要なときに援助を求める行動をとることができれば、頼りたい気持ちは確実に和らぐ。依存の欲求が現実的に満たされるからだ。満たそうと思えばいつでも満たせることが分かれば、欲求は和らぐ。

 「悲しい」という相手に対して、「悲しいんだね」と答える、いわゆる反射。反復だとぼくは捉えてきたが、杉原はそう単純ではないとしている。

 「もう頑張れない」と言っている人への反射。

 「もう頑張れないんだね」
 「限界まで頑張ってきたんだね」

 「一度始めたことは途中でやめちゃいけないんですか?」と言っている人への反射。

 「一度始めたことを途中でやめてもいいのかどうかが疑問なんだね」
 「やめられるものならもうやめてしまいたいという気持ちなんですね」

 杉原は、反射には無限のバリエーションがあるとしている。ぼくの方へ引き寄せれば、反射にも、ポジティブな返し方があるということだ。

 このことは相手に気づきをもたらすという意味でも用いられているように見える。

 交際中の彼に対して、「どうしてあなたはもっと私と一緒にいたいって思わないの?」と責め口調になってしまう女性に対して、「あなたは、彼に『私はあなたともっと一緒にいたいよ』『もっと一緒にいようよ』って言いたいんじゃないかな」、と返す例がそれだ。

 葛藤の両面に触れる際には、「そして」「それと同時に」「その一方で」と接続詞でおだやかにつなぐ。逆説の接続詞にしない。これはよく分かる。

 
『プロカウンセラーの共感の技術』

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2017/08/30

「「覚悟」の自己心理学的考察:蒼古的自己愛空想への執着と諦め」(富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』)

 富樫公一は、「蒼古的自己愛空想の脱錯覚プロセス」として「覚悟」の重要性を指摘している。

1.「覚悟」には「自己の断片化の痛みを積極的に予測し、運命や時と呼ばれるような大いなるものの中で生きる自分を思い描くこと」が含まれる。

2.クライエントは、痛みに積極的に向き合うプロセスの中で、セラピストと共有する間主観的空想を必要としており、脱錯覚を伴う覚悟はイントラサイキックな空想の場より、間主観的な場で展開するプロセス。

3.間主観的空想をオーガナイズするプロセスでは、クライエントの空想水準で、セラピストが先にその間主観的空想に参加しようとしている、と体験されることが重要であった。

4.間主観的空想には、「一緒に生きてくれる人がいる」という体験が含まれており、それは世界に対する基本的な信頼感の形成と関係する可能性が示された。

5.「一緒に生きてくれる人がいる」という体験は、「一蓮托生」などの言葉で表されるもので、これまでのこれまでの自己心理学の枠組みでは、双子自己対象体験の中に位置づけられると考えられた。

 ここで「大いなるもの空想」とは「自己の存在を越えた時間や空間の流れの中で存在するものとして自分を見ること」とされていて、「全能的対象や全能的存在を仮定する」「理想化空想」とは異なる、とされている。

 紹介されている症例で印象的だったのは、最初、クライエントの怒りを恐れて情緒的な関係から引きこもった治療者が、腹をくくったことが脱錯覚を進める契機になったことだった。

 

富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』

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2017/08/28

「「意地」の自己心理学的考察:蒼古的自己愛空想への執着と諦め」(富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』)

 コフートは伝統的精神分析と自己心理学を区別するのに、「罪悪の人」と「悲劇の人」という言い方をした。

 悲劇の人とは、

私たちが他人の鏡映なしに自己の安定感を獲得することはできず、恋に落ちても相手が応えなければ何も進まない世界に生きていると考え、私たちが他者とのつながりの中でしか、自分を一つのまとまりを持った存在(全体的存在)として体験できないことを、この言葉で表現したのである。

 その「悲劇の人」が、「蒼古的自己愛からの脱錯覚」を進めるうえで、富樫は「意地」を重視している。

 「意地」は、「自滅的行動や執念深い敵意と破壊につながる攻撃性を内包するという見解」が見られるが、そうではない。

1.意地は「悲劇の人」の葛藤の中で、自己の美的統一性・連続性を維持するための心性であり、それが自滅的・破壊的に見えるのは、意地の中核に破壊性があるからではなく、蒼古的自己愛空想に執着することが許されず、なおそれを諦めきれない状況で自己愛的怒りが表出される場合があるからである。

2.意地が自滅的・破壊的になるか建設的になるかは、蒼古的自己愛空想の「諦め」にかかわる。蒼古的自己愛空想を諦めないための意地は自滅的・破壊的、諦めるための意地は建設的である。

3.「意地」は、受動的に体験する脱錯覚を内的に能動化し、脱錯覚に伴う痛みを積極的に予測し、リスクに立ち向う動機づけとなる。

 ここでも症例が挙げられている。

 クライエントがセラピストを蒼古的な理想化ニードを高めれば高めるほど、セラピストは強大な力でクライエントを無力にしてしまう脅威と感じられた。

 そこで、セラピストが自分に魅了されれば制御可能と感じる万能幻想的空想を維持することだけが、セラピストを脅威と感じなくて済む方法だと理解される。

 驚くのは、このことを、セラピストはクライエントとともに、理解し合意に至っていることだ。理解はセラピストの手にだけ握られているのではなく、合意されているのだ。

 やがて両者は、クライエントの万能幻想的空想と意地の重要性、背景の無力感を理解するのに合わせて、緩やかにセラピストへの「理想化転移」が発展し始めた、とされている。

 この経緯の詳細はともかく、繊細な理解が施されているのに驚く。
 


富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』

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2017/08/26

「私の中にあなたを見つけて欲しい」(富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』)

 富樫公一は、双子自己対象体験には、「自分たちが似ているとい感じたい」というニードとは別に、「私の中にあなたを見つけて欲しい」というニードがあると主張している。

 双子対象体験のこの次元は、子どもが「人間の中に存在する人間」だと感じることができるようになるための、自己対象環境の中核的要素なのである。言い換えれば、この環境は個人が自分を人であると感じるための最も基本的な要素である。

 この体験は、「異質性と同質性の相互認識」のプロセスでもある。

 富樫はまた、「個人が蒼古的自己愛空想から離脱し、自己対象空想を展開させるプロセス」である「脱錯覚」は、

「一蓮托生」の間主観的空想に含まれる異質性と同質性の相互認識が、二者関係の感情調制プロセスを進め、その結果、自己対象空想が発展すると理解することができる。

 富樫は「一蓮托生」について、近松の「曽根崎心中」を引きながら、徳兵衛とお初の場合、「同質性と異質性の相互認識ではなく、異質性の否認による同質性の強調」が自滅を招いたと述べている。「一蓮托生」が建設的にならない場合のケースを述べるために。

 


富樫公一『蒼古的自己愛空想からの脱錯覚プロセス』

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2017/08/25

「現実の臨床的意味」(富樫公一『不確かさの精神分析』)

 詳述する暇がないのだが、治療者と患者とのやりとりが興味深い。

 患者:しばしば「先生は私を嫌っている」と主張。数回のセッションの終わりに「溜息をついた」、と。
 治療者:「ため息なんかついたかな?」
 治療者:「私があなたを嫌っているというように見えるのは、あなたの中で私がどんな存在になっているということなのでしょう」。
 患者:「先生は私の認識がおかしいというのですか」

 治療者は、内と外の二分法でものを考えていたことになる。

 患者:「結局先生は、私の言うことはおかしいと思っているのです。私のことを嫌いなので、私の発言は真剣に考えるつもちがないのです」。

 関係は膠着状態。こののち患者と治療者は、彼がいかに敏感に治療者の顔色を気にしていたかについて話し合う。

 「どうやら、そうやってお互いに誤解しつつ、相手の顔色をうかがっていたらしい。別に二人とも相手が嫌いではなかったらしいが、不安と不安でぶつかり合っていたらしい」という理解が、「強い確かさをもって迫った」。

 患者:「毎回のセッションで、先生が本当に自分のことを嫌っていないことを証明してほしい」と言うようになる。彼は何か方法があるはずだという。

 何度も話し合ううちにお互いに理解できたのは、治療者の気持ちを証明する手段は存在しないことだった。

互いの現実にはズレがあったが、二人はそれを認識したままやっていくしかないと結論を出したのである。最終的に治療者と患者は、その話し合いのプロセスについて話し合い、彼は、母親とはそのようなしっかりした話し合いを持ったことはなかったが、今回は違うと、治療者と折り合いをつける作業の体験の新しさに感動を覚えたようだった。

 富樫は、どちらが正しいという議論ではなく、「二人が二人の間で現実が扱われるプロセスをどのように見ることができるのかという議論である」と書いている。

 
富樫公一『不確かさの精神分析: リアリティ、トラウマ、他者をめぐって』

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2017/08/24

「自伝的記憶と心理療法 記憶に触れることの困難と意義」

 富樫公一司会の「公開シンポジウム報告」がとても面白かった(「心の危機と臨床の知」2014)。トラウマに触れることをめぐっての議論だと言っていい。

 森茂起「トラウマの記憶に触れることの治療的意義」。

 生まれてから現在までの人生を時間にそって語ってもらい、その自伝を文章として仕上げる。文章化は治療者が行っている。

 トラウマ性記憶に意図的に徹底的に直面して記憶を活性化すると、不安は上昇する。しかし時間の経過とともにそれは低下する。気持ちが落ち着くところまで語りきれた体験をすると、触れても大丈夫な経験になる。

 メールや手紙でやりとりしながら自伝を書く方法もある。

 北川恵「アタッチメント臨床における記憶の扱い」。

 本能。誰かとともにいる、誰かとくっついてそばにいるというアタッチメント欲求。この視点を持って臨床に臨んでいる。

わかりながら、気持ちに寄り添うことを続けていると、防衛が緩むときがあって、おそらく非常につらい思いが蘇って、苦痛な思いを味わうことがあるかもしれません。そのときにこそ回避的な方略、「大したことない」という方向に向かないように、関係性の中で落ち着く体験を持ってほしい。

 福井義一「記憶に触れることは援助的か : 身体志向心理療法の立場から」

 トラウマ症状は、精神症状であるのはもちろんだが、相対的にみて身体症状だという合意ができつつある。言語化や物語化を重視しない。その理由は、

 1.再外傷化のリスク。
 2.想起困難性。
 3.「自伝的記憶への再編入は自然なプロセスなので、治療段階の後期で勝手に起こる」。

 どれも示唆的で、気づきを得ることができた。


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2017/08/23

『驚くべき乳幼児の心の世界』(ヴァスデヴィ・レディ)

 分かったような分からないような感じなのだが、「二人称的アプローチ」には心惹かれるものがある。

 「二人称的アプローチ」の核となる仮説の三つの特徴。

 1.二分法的仮説としての「ギャップ」を否定する。他者の心は不透明で知覚できないから、推察、モデル化して憶測するしかないという考え方を。

 2.他者を複数化する。他者とは多様なかかわり方を持つことができるし、多様に知覚できる。二人称の他者は、「特別な他者として、情動的な反応をもって経験することを可能にしてくれる他者である」。

 3.人と人との間の能動的で情動的なかかわりこそが、心を構成し創造するものである。

二人称の様態は、根本的に個人的かかわりをとらえるもので、それは語り手が聞き手に対し、単に「あなた(You)」という言葉を使うこと以上のこと、つまり心理的に配慮し心を開いていること-さらに、親密であること-を意味している。

 「人をありのまま知覚することができるのは、その人と積極的に関係を持つときに限ってのことだ」。

 もっと突っ込んだことも書かれている。

それが能動的で情動的なかかわりになると、あなたの他者知覚は常に〈他者へ向けて自己が感じていること〉の自己受容感覚的な経験を含んだものであり、あなた自身の自己受容感覚は、常に〈あなたに向けて他者が感じていること〉の知覚を含んでいる。

 これについて著者は、「何か新しい用語を考え出さねばならないかもしれない」と書いている。

 他者を感じるときには、そこにすでに自分固有の受容の仕方を通じた経験を含んでいて、自分自身の固有の受容の仕方には、他者が自分を感じていることが含まれている。かかわるということは、すでに個別存在ではありえなくなっているということを、語っていると思える。特に後者の理解は、改めて言葉にすると、気づかされる面もある気がする。

 「非・かかわり(dis-engagement)」という概念も出されている。これは非関与のことではない。それは避けられない。著者は、「新しい愛の完璧なハーモニー」が「ちょっとした心の乱れ」などのときに「経験する悲しみ」のようなものだ。

 充分な理解には届かないのだが、もうひとつ大事だと思えるのは、「二人称的アプローチ」が「一人称的アプローチ」とちがうのは、類似性の認識にあるのではなく、「他者の行為への互恵的応答の経験の認識」。

心と心の間にあるとされるギャップは、このような身体性と状況埋め込み性を取り戻すことで、ほとんど解消してしまう。

 「状況埋め込み性」の意味が分からないが、まじりあう領域がギャップを溶かすというイメージはやってくる。


 また、「文化」へのアクセス不可能性の問題は、文化を「プロセス」ではなく、「産物」として捉えている。

あなたはそれを所有しているか所有していないかであり、それは生まれ出るのが何処であるかに依存して「獲得する」ものとされる。

 しかし、文化は開かれてあるものだ。そうであるなら、と、二人称的アプローチの主張が続く。
 

ヴァスデヴィ・レディ『驚くべき乳幼児の心の世界』

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