国民の承認
7月1日の首相官邸前のデモに参加した。これはちょっとやばいのではないかという身体的な反応からだった。永田町駅は交通止めされていて、国会議事堂をぐるりとまわったが、総理官邸前の交差点は既に人で満ちていて、先へ進むのを諦めた。教条的ではないコールとしなやかないでたちを期待する気持ちがあったが、それは半分は満たされたように思う。夕方、6時近い頃、閣議決定がされたという報が現場に伝わるとシュプレヒコールの声に緊迫感が増した。
日本人という自認が自然な形ではやってこないので、大和は異国という感覚は、次第に弱まっているが、消えていない。沖縄の米軍基地にしても、異国である日本とアメリカが酷いことをしているという認識に傾きがちだ。けれどそれでは傍観的な態度に終始してしまう。やばいという身体的反応はそれも理由だったかもしれない。
その手前にあったのは、基本的な人権や生活権を損なう恐れがあるという認識だった。その可能性のある決定に従う気はないという意思表示。そして、憲法、とりわけ9条を空文化する決定には反対だ。それを、国民の信を問うことなく決定することに、なお反対だ。
「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」の5項目。
また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。
少なくとも、これは「国会の承認」ではなく、「国民の承認」とすべきところだと思う。
閣議決定の報せが現場に届いた時、ふと村山富一の、「自衛隊合憲、日米安保堅持」という発言を思い出した。考えてみればあれから20年、決定のひとつひとつは何も変えないように見えても、ことは忍び足でやってくるというのはこういうことかと合点する。
70年間、他国と戦争をしていないという資産を生かし、東アジアと信頼関係を構築する。かつ、対米従属を相対化し、日米安保条約を解消する。そのことにより基地を経由した戦争協力も解消する。しかも、それをアメリカとの信頼関係を構築するなかで行う。という、ビジョンを腹の底に据えた政権を、ぼくは望む。
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