カテゴリー「 2.与論・琉球弧を見つめて」の82件の記事

2009/12/13

「奄美自由大学」

 ぼくは参加も関与もしているわけではないけれど、この間、「奄美自由大学」が奄美、沖縄で開催されたのを知った。備忘として書いておく。


 奄美自由大学と『群島-世界論』シンポジウム(Saudade Books)


 巻かれて舞いて奄美自由大学(ことば鉄道のホーボー by A.Daidow)

 一部だけの引用だけれど、

珊瑚礁の宮殿・ユンヌ(与論島)から沖縄ヤンバルへ

 「珊瑚礁の宮殿・ユンヌ」の表現は素敵だ。初耳。

 「<群島-世界>波打ち際」(MON PAYS NATAL)

 高良勉も紹介文を寄せている。

 言うまでもなく、与論・沖永良部と奥・辺戸とは、北山王国時代以前から歴史と文化において一つの群島地域を形成している。現在の、沖縄県と鹿児島県という人為的な「県境」は、日常に於いて越えられている。奄美自由大学の参加者は、それらの群島でどんなヴィジョンを視てきたのか。

 日常において越えられているなら、なにより。

 与論では、awaさんが案内したんですね。余人をもって代えがたし。

 「奄美自由大学」


Panari

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/12/09

「奄美と山原船で交易」

 南海日日の11月29日に、「ゆいまーる琉球の集いin平安座島」の記事。同日の一面は、「琉球・山川港交流400周年事業」の記事だが、ぼくにはこの記事のほうがはるかに意味があった。

つながる琉球弧を実感
琉球に住む人々が自治を自分たちの問題として考える「ゆいまーる琉球の集いin平安座島」(特定非営利活動法人=NPO法人=ゆいまーる琉球の自治主催)が13~15日、平安座島であった。島民が戦前、戦後、山原船で奄美諸島と交易をしていたこと、親せきも多いことを報告。琉球弧の島々のつながりの深さを実感させた。

 こうしたつながりの発掘や掘り下げから分かることのほうが、政治的に上空をかすめる交流宣言よりはるかに大切に思える。


Yanbaru1129_2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/11/17

国際琉球沖縄学会(IAROS)

 ウィルヘルム(Johannes Wilhelm)さんからメールをいただき、国際琉球沖縄学会(International Association of Ryûkyûan/Okinawan Studies)、IAROSを教えていただいた。

 国際琉球沖縄学会(IAROS)

 IAROS、ウィルヘルムさんにお聞きしたら、イアロスと呼んでいるそうだ。すでにこのブログのリンクを張って、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの紹介もしてくださっていたので驚いた。嬉しいですね。他、琉球系のイベントも見落としがちなので、助かる。

 ウィルヘルムさんは、ヨーゼフ・クライナーさんと一緒に、IAROSの活動をしてらっしゃるとのこと。

 国際琉球・沖縄学会の設立へ向けて動き出した、とある。ご覧ください。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/10/25

「しほの生命(いのち)を守る会」

 沖永良部島の和泊小学校一年生の内山詩穂ちゃんが、「拡張型心筋症」により心臓移植が必要と診断された。「しほの生命(いのち)を守る会」が、募金を呼びかけている。

 「しほの生命(いのち)を守る会」

 振込み口座
 QRコードで、口座番号を送れるようにもなっている。

 ぼくもこれからしっかり読んで、できることをしたいと思う。

 ※「和泊の小1・内山さん米で心臓移植へ 支援団体が募金活動」

 ※追記。朝日新聞でも報道されている。「心臓病の女の子を救え 鹿児島・沖永良部島に支援の輪」

 ※追記2。読売新聞に掲載。「沖永良部の小1、心臓移植で募金よびかけ」

 

Shiho1
Shiho2

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/08/21

『沖縄文化はどこから来たか』

 与論には旧い日本が残っていますよね(この場合、奄美、沖縄と入れ替えても同じ)と言われると、半共感を覚えてきた。反感、ではない。確かにそうだと言える面ともちろんその圏外のことがあるわけだ。そこで、そう言われたときは、何を指して旧い日本と呼んでいるのかを、その都度、聞いていくのだった。

 『沖縄文化はどこから来たか』は、そこに11~12世紀の日本だよ、と答えている。沖縄文化はどこから来たの? それは11~12世紀ごろ、日本からだよ、と。

 ぼくはこの本の感想を、自分の身体性、身体感覚に照らして書こう。

 高梨修は、琉球弧では考古学の年代メジャーとなる土器編年が確立していないという課題を前に、丹念に土器動態を辿りながら、喜界島の城久遺跡群をはじめとした複数の遺跡から類須恵器が大量出土していることに着目し、仮説を立てている。

 ①もしカムィヤキ古窯跡群の生産陶器(類須恵器)や外来容器類が南方物産交易の対価として琉球弧で広範に用いられたと仮定するならば、それらの大量出土が認められる拠点的な消費地遺跡が、沖縄諸島・先島諸島にも複数認められてもよいのではないか(あまりにも数量的に少ない)。
 ②類須恵器の大量出土が認められる消費地遺跡がほとんど喜界島と徳之島に限られるという分布状態、そして城久遺跡群に認められる遺構・遺物の非在地的、拠点的様相から考えるならば、やはりカムィヤキ古窯跡群の生産陶器(類須恵器)は、喜界島に供給する目的で生産された可能性が強いのではないか。
 ③沖縄諸島・先島諸島では、類須恵器をはじめとする外来容器類が十分に入手できないので、その代替措置としてそれらの模倣土器群が製作されたのではないか。
 ④中世前半段階に、沖縄諸島・先島諸島に成立した土器文化は、城久遺跡群に認められる外来容器類の模倣土器群であると理解できる。特に先島諸島は、長期間にわたり無土静文化が営まれてきたのであるから、突然の土器文化成立は、やはり人間集団の移動を伴わなければ発生しないのではないか。

 類須恵器が大量出土するのは、喜界島と徳之島に限られ、かつ、喜界島の城久遺跡群の建造物の痕跡やモノが、もともと喜界島にあったものではなく、にもかかわらず規模が大きく拠点性を持っているのを踏まえると、徳之島のカムィヤキ古窯跡群から生産された類須恵器は、喜界島への供給を目的にしていたのではないか。現に、沖縄、先島では、出土量があまりに少ない。むしろ、沖縄、先島では、類須恵器をはじめとする外来容器類があまり入手できないので、模倣土器が製作された。そしてその土器文化が突然成立しているのは、そこに人の移動があったからではないか。

 ぼくたちは、出現したモノとしての事実から、人やモノの動きを見ようとする高梨の視線を追うことができるが、ここから導かれる結論はこうである。

 琉球弧では、一一世紀代~一二世紀代にかけて、喜界島の城久遺跡群を機軸とする人間集団の南漸が発生していた。これが本稿の結論である。城久遺跡群に関して付言しておくならば、中世を遡る段階から、おそらく威信財交易を契機とする活動拠点が点的存在として局部的に営まれていたと理解されるのである。そして交易形態の変化に伴い、その活動が一挙に拡大した時期が一一~一二世紀代であると理解できるのである。(中略)
 この結論から思量されるのは、内的発展による琉球王国形成という歴史的理解に基づいた従前の「沖縄学」の研究常識に対するさまざまな疑問である。

 この「人間集団」を大和人と見なせば、11~12世紀に喜界島を拠点として大和人が南漸した。そして類須恵器がこのとき人間集団の移動とともに一気に琉球弧に普及したのだとすれば、琉球弧に共通の軸を通したのも大和人、というところまで類推できることになる。

 ぼくたちはここで伊波普猷の大和人南漸論を思い出す。そういう意味ではこれは南漸論第二波なのかもしれない。ただ、伊波が日本の近代民族理念に吸引されるあまり、ときに南漸以前に人っこ一人いないかのような錯覚をもたらすものだったが、ここでは、南漸以前には共通する文化は無かったとしている。いわば、科学としての考古学からの南漸論、である。

 ぼくは亜熱帯自然と島人への自分の身体感覚からいえば、もともと琉球弧には国家を形成する内在的な必然性は無かったと考えている。「内的発展による琉球王国形成」ではないだろう、と。高梨の考察はそこに照明を当ててくれるようだ。


 阿部美菜子は、大和語から、「おもろそうし」に接近している。

 まず、第2節「オモ口語と大和古語」では、かなり機械的な方法であるが、オモ口語と大和語に関する辞書の比較を通して、『おもろさうし』に採録されている言語年代の調査を試みた。
 大和語と共通しているオモ口語のうちの八割以上が、大和室町期において行われた言語(必ずしも室町期独自の言語ではない)であるという結果が出た。さらに、「しなう(撓)」や「あがなう(贖・購)」等の具体的な語例から時代を絞り込むと、『おもろさうし』は十一世紀~十二世紀頃の大和語を積極的にとり入れていると推測することができる。

 「おもろ」に見られるのは大和の古い言葉、というより、「大和室町期において行われた言語(必ずしも室町期独自の言語ではない)である」。面白いことに、大和語を積極的にとり入れたのは、高梨が南漸の時期として想定した11~12世紀ごろと同じである。

 しかも、取り入れる過程では、

(前略)「沖縄固有の語」と「大和にも見られる語」の組み合わせでは、「オモロには謡われているが、後世の首里、今帰仁方言には残らなかった沖縄古語」と「オモロに謡われた後も、首里、今帰仁方言に残った大和古語」が対を成す傾向にあるということになる。
 推測の域を出ないが、大和古語は日常的に用いられる口語的な表現で、沖縄古語は王府の祭祀や儀礼で用いられた、呪術的で特殊な言葉なのではないだろうか。意味の近い日常語と祭祀語を組み合わせることで、首里王府内部だけではなく、本土から見てもある程度わかりやすいものに整えたのではないかと考えることができると思う。

 というように、琉球内部と外部への言葉を対にした可能性を指摘している。

「対語」の中でも特に、「沖縄固有の語」と「大和にも見られる語」の組み合わせは、翻訳・語釈という役割が強くあらわれており、その上「琉球語」と「大和語」といういわば異国の言葉の組み合わせが、「文選読み」における「漢語」と「和語」の関係と非常によく似ている。

 阿部は推測の域を出ないと言っているが、ここは「おもろ」編纂者の意識構造が垣間見える点で興味深く、こんごの追究が楽しみなところだ。

 「おもろそうし」は「沖縄の万葉集」と呼ばれたりするが、自然と心の動きを詠じたものとしては、万葉集に比べ、相当に素朴な域にとどまる。阿部の言うように新しい言葉も多い。しかし、日常的に接していた与論言葉から分かる単語などを頼りに、阿部も指摘する対語の流れをたどっていくと、呪術的なリズム感に囚われ、次第に祭儀のなかに迷い込むような感じがやってくる。その古代的な感覚まで研究が及んでくれたら、というのはぼくの願望だ。


 中本謙は琉球のp音について書いている。「琉球方言のp音は文献以前の姿か」。
 伊波普猷の「p音考」に対する仮説である。

 兎に角琉球語に於いては、

 P → F → H
 ↓
 B (→) W

  の如く変遷して、今日に至ったのであらう。
 そして、
  日本文化の影響を蒙ることの少ない山地や島嶼には、今なほp音が盛につかはれてゐる。これも亦天然が時間を場所に現はして吾々に示してゐる一例である。(伊波普猷「p音考」)

 「天然が時間を場所に現は」すという表現は胸に残るが、とにかく、「p音」については与論言葉にも多いのだが、なんというかそれらは、いつまで経っても「F音」にも「H音」にもなりそうにないのだ。「真面目」があっという間に「マジ」と言われるようになたり、「ヤバイ」が「ヤベー」となり次いでに意味まで、あれよあれよという間に逆転する様を眺めていると、およそ「p音」は不変に見える。もちろん、昨日の顔と今日の顔は同じ見えても十年経てば違いが分かるのと同じように、南の時間速度で変化していると考えるということなのだろう。しかし、それにしても、ぼくの身体感覚としては、「花」(パナ)はいつまで経っても「パナ」であり、これが「ファナ」や「ハナ」へと変化するとは感じられない。むしろ、「P → F → H」は、必然の推移ではなく、異文化や異集団との接触を物語ることも考えられるのではないか。

 ところで中本が書いているのはこのことではない。

本論では、強い呼気による南琉球方言の/'w/>/b/ とパラレルに考えて、/hw/>/p/ の蓋然性も否定できないのではないかということを示した。つまり、南琉球方言のハ行子音p音の中には、φ>pの変化を遂げているものもあるという可能性も否定できないということである。そして、八重山竹富島方言のφ>pの例や浜比嘉島比嘉方言、恩納真栄田方言等のφ>pの音声変化の傾向にある語は一つの傍証となりうると考える。

 伊波の表記に倣って書くと、伊波は、B→Wと見なしたが、現在では、W→Bと言われるようになっている。それとパラレルに考えれば、P→Fとは別に、F→Pという変化を遂げているものもあるのではないか、ということだ。

 中本の主張は控えめなものだけれど、琉球のp音は「文献以前からの古音の保持」と考えられているが、実は比較的、新しいものではないかという問題意識を下敷きにしていると思える。

 中本は事実の採集の上で語っているので、ここで身体感覚を持ちだすのは気が引けるのだが、ぼくはp音は古語っぽいと感じる。赤ちゃんがあわわ言葉を経て、母音と子音を発声するとき、最初に現れるひとつにp音はある。与論言葉でいえば、祖母を「ぱーぱー」と呼ぶ、あの音声には、そうした最初の言葉の初源の感覚にあふれている。古代感ある言葉に思えるのだ。

◇◆◇

 ぼくは、琉球王国に依らない琉球弧の根拠は何かという自分の課題を確認するように、『沖縄文化はどこから来たか』を読んだ。ただ、この本はここで終わらず、ぼくの課題に重なる考察も添えられていた。吉成直樹の「グスク時代以前の琉球の在地集団だ」。

 考察は、DNA、神話にも及ぶのだが、ここではぼくも重要だと思う「アマン」という言葉への考察を引用したい。

 ところで、崎山理によれば「ヤドカリ、非食用カニ」を波照間島amang、宮良(宮古)amam、首里amang、名瀬amangと呼ぶが、これらの語彙はミクロネシア語(南島語族)の二次的再構形である**əmaŋに由来するという(崎山、一九八五[一九八二〕、二三五)。つまり、崎山が指摘するよぅに、神話のなかで自分たちの祖先であるやどかりを「アマン」と呼ぶのは南島語の語彙に由来することになる。自分たちの祖先を南島語の「アマン」という言葉で呼ぶことの意味は、決して軽くはないはずである。南島語の影響が琉球列島に及んでいたと考えるのが自然である。

 ぼくも「アマン」という言葉は重要だと思っている。ハジチ(針突)にアマンを記し、それを祖先であると見なす行為には、人間と動物が等価であり、身体は霊魂の衣装であるという人間・世界観を示している。ぼくは、この人間・世界観に琉球弧の根拠を朧げに見るものだ。

 この他、与那国島などに残るアイヌ語地名を朝鮮語を通じて説明されているのも興味深かった。堀下げるべきテーマは尽きない。

 
 最後に。大きなテーマに大胆に切り込み、その摩擦面から刺激波が次々に飛んでくる。そんな本だ。



    『沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期』

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/09

コンセプトとしての「船倉」

 syomuさんが、カルチュラル・タイフーンの懇親会の濃くて深い感じ(Deep Reef)を、

名瀬港まで二泊三日も時間がかかる船中では二等船室の至る所で酒盛りやおしゃべりが繰り広げられ、ゴロンと横になって聞こえてくる島口に、あの人のなまりは大島だな、あの人はバアさんの島口に近いから徳之島だな、ん?沖縄の人かね?などと想像をふくらませたり。船旅はあまりにも時間があるので、隣の人と二言三言話しているとどこかで知り合いが重なっていたり、親と昔付き合いがある人だったり、とそういう経験は二回や三回ではおさまりません。

思えば、私は小学校に入学する前の一番楽しい夢のあった幼い時間だけ島の空気を吸い、島の自然を見て、島の人と触れ合って過ごしたので、感傷的になり、島への感情がほとばしりがちなのかもしれません。

島に向かう船に揺られているようなそんな居心地の良さでパネルも懇親会も楽しませていただきました。(カルチュラル・タイフーン2009『薩摩侵攻/侵略400年を考える』

 と、書いているのを読んで、そうだ、あの Deep Reef クオリアは、黒潮づたいのあの、船の底に似ているのに気づいた。

  道之島といえばおりおり思い出すことがある。昭和十三年から十七年まで大島通いの上り船は名瀬港を夕方出航した。三等室船内の中央部の下は船倉になっていて夜は船倉の上を舞台にして、各島自慢の競演になった。
  与論島の人は沖縄民謡の「上り口説」、沖永良島の「永良部百合の花」、徳之島の「ちゆつきやり節」、大島の「野茶坊節」、喜界島の「池治長浜節」などつぎつぎ繰り出され、指笛の噺子で調子がますます高まる。
  大島各島上り船に乗っていた沖縄の中年の方が二人で「鳩間節」や「四季口説」を歌い踊った手ぶり口ぶりは忘れられない。
  船員の中には芸達者な人がいて三味線、片面太鼓を持ち出し、また洗面器の底をたたき、あるいは変装して踊る人気者もいた。
  「上り口説」、「下り口説」は音痴の私でさえ暗唱しおかしく歌えるが、道之島の部分だけ挙げてみる。

 上り口説(前を略す)

七、伊平屋立つ波押し添ひて
  道の島々見渡せば
  七島渡中人なだやしく
八、立ちゆる煙は硫黄が島
  佐多の岬もはいならで
  あれに見ゆるは卸開聞
  富士に見まがふサクラ島
 下り口説(前と後を略す)
  風やまともに 子丑のは
  サダの岬も あとに見て
  七島渡中も なだやすく
  波路をはるかに ながむれば
  あとや先にも 友船の
  帆をひきつれて 走りゆく
  道の島々 はやすぎて
  伊平屋渡たつなみ おしをひて

 船が少し揺れ始めるころ、船酔い恐怖症の人は二段になった寝ぐらであお向きになり、横向きになり、洗面器を枕もとに寄せて上り口説、下り口説の「七島渡中もなだやすく」と念ずる気持ちになる。
 船倉の上の舞台も一人去り二人去り遂に静かになる。このあたりは七島灘に入る手前である。そのころ三等室に柱時計はなし、ラジオも、もちろんテレビもなし、各人の腕に腕時計も巻き着いていない。おそらく二十二時のころであったであろう。各島回りの定期船は笠利岬灯台の光源の届かぬ闇の海を北に進む。
 早朝、前方に「ご開聞」の薄い姿を拝み、三時間かけて「富士に見まごう桜島」の姿に安堵して身回りの品々を手もとに寄せ、下船の準備をしたのである。(『道之島紀行』)

 この、栄喜久元の述懐を借りると、船倉の舞台、なのだ。

 「船倉」をコンセプトとして捉えると、それはいまぼくなどが欲しいと思う場を表してくれる。琉球弧の島人が集い、ある島のことだけではない、どの島の人も主役になる場面を持ち、しかも、一緒に乗り合わせている旅人を排除しない。一緒に場を共有できる。「船倉」はそういう場だ。

 コンセプトとしての「船倉」。育ててみたい。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/05/27

「死者へのはなむけ」

 酒井卯作の話が南海日日新聞に載っている(5月19日)。「死者へのはなむけ」。

 岩手県の猟師の話によれば、狼は獲物をくわえたまま死ぬといい、鷹は獲物を掴んだまま死ぬといいます。野生の動物の生きざまはすさまじい。それなら人間はどうした仕方で死ぬのでしょう。金もうけに血眼になっている時代ですから、たぶんお金を掴んだまま死ぬのかもしれません。「地獄の沙汰も金次第」と言いますし、実際に死衣裳に小銭を縫い付けたり、三角袋に小銭を入れて、三途の川の渡し賃にします。あの世もこの世も金次第です。

 狼や鷹と比べた人間の姿。風刺が効いている。

 ただし、これは主に日本本土での話で、世界各地ではこんながめつい送り方はしません。もっとやさしい方法があります。
 例えば、南方熊楠翁によれば、西洋では涙壷というものがあって、人が死ぬと親戚中の者が集まって、銘々の涙をこれに入れ、白粉でふたをして墓に収めたといいます(「南方熊楠全集」月報2)。奄美だって似ていました。「南島雑話」(2)には一升泣き、二升泣きという風習がありました。一升か二升かの米の報酬高に応じて、泣き方が違うのです。そうして死者を送りました。

 西洋の涙壺はいつの話なのだろう。意外な気がする。

 死んでいく人はこれを聞いて安心してあの世に旅立っていくわけですが、何しろ生きている側でも安心して旅立ってくれないと困ります。化けて出て来られたら大変ですから。
 その点、奄美を含む琉球列島の入棺の風習は情がこもっていました。徳之島では死控、娘たちは手サジ(手拭)を形見として棺の中に入れたと、故松山光秀氏は語っていました。だから娘たちはこの時のために平常から手サジを織っておくそうです。
 手サジが恋の申し込みにも使われていたことは以前にもこの欄で述べたことがありますが、人との別れにもまた手サジは必要だったようです。奄美の有名な島唄に「別れてや行きゅうりぬば形見おきゅみ汗肌ぬ手さじうりど形見-というのがあります。ちょっと考えると「なんだ、使い捨ての手拭一枚か」とお考えの方もいると思いますが、これが問題です。真意は、自分の肌の臭いが染み込んだ、汗の臭いのする手拭を自分の身代わりとして棺に入れて送ろうとするもので、私はこれほど情のこもった死者へのはなむけはないと思います。

 こういう話は落ち着く。少し前に読んだ『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』に詳しかった。酒井はこの後、宮古島の話に触れるなどして、こう結ぶ。

日本の本土では失ったものが南の島々ではまだ余韻を残している。やっぱり奄美は面白い。(東京都練馬区、民俗学者)

 これを、南島に日本の原像を押し付けるイデオロギッシュな視点と解したら、酒井のゆったりした遠視眼を受け取り損ねてしまうと思う。こういう文章が新聞で読めるのは、地方紙の贅沢ですね。


 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/05/16

「琉球弧の音楽」

 早稲田で、新城亘の「琉球弧の音楽/概説-奄美・沖縄・宮古・八重山の歌を聴く-」を、聞いた。

 音楽を通じて琉球弧を縦断できることは滅多にない。琉球弧の音楽の全体像を体感する絶好の機会だと思ったのだが、新城は、三線を弾き歌を歌い解説も行うので、一気に伝わってくる。なんとも贅沢な時間だった。

 八八八六調の琉歌を主体にし、ドミファソシドの琉球音階からなる沖縄島とその周辺の島の音楽は、宮古、八重山では、五四五四、五七五七と詩型は琉歌を離れ、ドレミソラドの音階をとる。宮古、八重山ではP音が頻出するのも特徴。

 奄美については、レジュメに詳しいので引用する。

1.奄美大島・加計呂間島・請島・与路島・喜界島
 音域が広い/大胆な音の跳躍がある/裏声を使う/マゲやコブシ/こまやかな装飾音の入った三味線の奏法
 《行きゆんにや加那》

2.徳之島
 裏声や三味線の装飾も少なく、大島ほど技巧的ではない。素朴で骨太な印象の旋律。集団の掛け合い歌がある。口説は多種類うたわれており、琉球文化がグラデーションのようになっている。

3.沖永良部島・与論島
 沖縄本島と文化的、音階的にも同一で、沖永良部は琉球音階北限の島といわれている。奄美の歌、沖縄の歌の双方が入っていて、レパートリーは多彩。ただし奄美の歌は琉球音階化しており、元歌とは大きく変化している。三線も沖縄と大島の中間的な奏法になっている。
 《いちか節(いきんとう節)》

・特徴
 音階はほとんどすべて5音階。徳之島以北は本土にある民謡音階・律音階はあるが、琉球音階はなく、音階的にみたときには徳之島と沖永良部島の間に、本土圏と琉球圏とのボーダーラインを引くことができる。沖永良部と与論は琉球音階が支配的。
 歌詞は「八八八六」型の琉歌形式が主体。三線はほぼ同型であるが、より細い絃を使って、高く調弦する。撥(ばち)は竹を使い、装飾音を多用。シマ(集落共同体)の歌である。→歌掛けが近年まで残っていた。
 5つの「ない」(小川学夫)→楽譜、歌詞の固定、流派、プロ、正調がない。

 《稲すり節》《畦越い》など、奄美諸島から沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島にかけて、同一の歌が広く伝わっていることから、古層で琉球弧の島々はつながっていることがわかる。

 この要約は、奄美の幅をよく教えてくれる。奄美が、琉球と大和の幅のなかにあるということを。奄美のコーナーは持田明美が解説と三線と島唄を担当。四百年の歴史的背景とともに奄美を解説し、説得力があった。

 奄美のことがきちんと語られるというだけで、和む気持ちになるのだった。なんといっても圧巻は、「稲すり節」が、沖縄と奄美でどう演奏されているかを披露したところで、奄美と沖縄の差異と同一性が浮き立った。思わず、引き込まれて聞き入った瞬間だった。


 終わった後は、高田馬場の紅梅に同席させてもらう。なんか、琉球な場で、居心地よくいさせてもらった。野菜と焼うどんもとても美味しかった。みなみなさまに感謝です。

◇◆◇

 持田さんの解説を聞きながら、奄美の二重の疎外は、「似ているのに入れてもらえず、似てないのに一緒くたにされる」という言い方もできると思った。前者が沖縄で、後者が鹿児島。ただ、こうした言い方を続けていると、なにかいつも自分を被害者にしているような座りの悪さが伴う。であるがゆえの動きをせねば、と思う。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/05/09

「第5回ゆいまーるの集いin沖永良部島」

 松島さんの「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」で、「ゆいまーるの集い」の案内が出ている。参加したいと思いつつ、なかなかできずにいるものだ。

 第5回ゆいまーるの集いin沖永良部島への招待

沖永良部島の前利さんから16日の集いの内容が届きました。多くの方のご参加とご発言を希望します。私は、ひとりの琉球人として、400年の意味、島の自治について真剣に議論するために、沖永良部島の土を踏ませていただきます。

 「踏ませていただきます」なんて、そんな遠慮する必要ないのにと思うが、そこはお人柄、でも、「ひとりの琉球人として」というあたり、清々しくて格好いいなと思う。

 ぼくは、こうすっきりと、「琉球人」と自称できない感じがどこかでしている。ぼくは自分のこととして主張したい唯一のことであるかのように、与論島生まれと言っているのだから、「琉球人」であるに違いない。ただ、奄美から沖縄を通じて、琉球と総称するというのは地理として定着してないから、自称しにくいのかもしれない。

 ただ、松島さんの言う「琉球人」は、出身ではなくアイデンティティのことだろう。この場合でも、すっきり自称する感じになれないところがある。この場合は、「琉球人」に込められる理念が気になっている気がする。これが琉球王国を根拠にしているようなら、カウント・ミー・アウトしてほしいという気持ちが働く。もちろん、松島さんは琉球王国を根拠にしているわけではない。

 「琉球人」が、非「日本人」というニュアンスを伴うかもしれないことを気に病むからではない。そういうことはない。ぼくなど、ずいぶん長い期間、自分を日本人だとは感じられないできたので、それはない。感じられなかったのは、イデオロギーからではなく、なんとなくの皮膚感覚からだ。皮膚感覚なら、「琉球人」の方に親近感はある。

 なんだか自分の日和見感覚を告白している感じだが、では、何なら言いやすいのかと自問すると、琉球弧人なら、と思ったりする。しかし、これでは地理概念ぽくなり、アイデンティティの言葉になりにくい。

 けれど、こういうことはある。先日、徳之島を訪れた島津修久は、奄美の文化を指すのに、「沖縄とも九州本土とも異なる」という言い方をしている。この場合、奄美は地理概念としては、奄美は、沖縄ではない九州本土ではない、本土ではない九州として指示されていることになる。別に島津でなくてもそう言うわけだが、こういうとき、いつも悪い冗談のように感じてしまう。九州に悪感情はないけれど、与論島が九州?というのはまるで実感がないし、強引に過ぎる感じがするからだ。それなら、奄美が、九州、沖縄と並んだ呼称としてあればいいのかという話になる。そうかもしれないが、九州と奄美では面積尺度がまるで違うから、こういうとき、地理概念として、九州、琉球として言えるならすっきりするし座りもいい。

 沖縄県ではない以上、沖縄人とは自称できない。とはいえ、奄美人という自称は育っていない。この二つよりは、琉球人という自称のほうが自己感覚には近い。けれど、松島さんのようにすっきり言えないのはなぜだろう。と、つらつら書いて思うのは、日本人をめぐった自称に思いわずらわされてきたので、~人という自称をするというテーマ自体に距離を置きたいという気持ちが働くからかもしれない。

 ここをもう少し突っ込むと、ぼくなりの解決案が出てきそうだが、つまらない前置きが長くなってしまった。本題は、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部島」である。


ゆいまーる琉球の自治in沖永良部島
【日時・会場】
2009年5月16日(土) 知名町中央公民館 10:00 ~ 17:00
【開催形式】

 主催:NPO法人ゆいまーる琉球の自治 協力:知名町中央公民館/知名町職員労働組合
 挨拶:藤原良雄(NPO法人ゆいまーる琉球の自治副理事長/(株)藤原書店社長)
 司会:前利 潔(同事務局長/知名町中央公民館)

 助言者:松島泰勝(同理事長/龍谷大学教授) 著書に『沖縄島嶼経済史』『琉球の「自治」』他

【目的】
特定非営利活動法人ゆいまーる琉球の自治では、琉球に住む人々が自治を自らの問題として考え、住民一人一人が自治の担い手として実践することを目的としています。また、琉球の人々が自治について互いに学び、励ましあうための車座の集いを定期的に催します。久高島、奄美大島(宇検村)、伊江島、西表島に続く、5回目の開催。

【テーマ】
(1)沖永良部島の歴史(前利 潔) 10:00 ~11:30
(2)農業(宮内茂喜) 13:00 ~ 14:00
(3)移住(多田 等) 14:00 ~ 15:00
(4)商工業(東山栄三) 15:00 ~ 16:00
(5)道州制(皆吉龍馬) 16:00 ~ 17:00

【参加方法】
参加は無料。車座方式の自由参加、自由討論、興味のあるテーマだけの参加もできます。

【懇親会】 18:00 ~21:00
同じ会場で懇親会を開催します。会費1,000円。翌日のシンポジウムの講師・パネリスト、奄美大島、沖縄、鹿児島、関西、京都、関東からの参加者と語りあいませんか。

【問い合せ先】 知名町中央公民館 TEL:93-2041

 発表者のプロフィールは「第5回ゆいまーるの集いin沖永良部島への招待」に詳しい。

 ちなみに、翌日の17日には、「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」が、同じく沖永良部島で行われる。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/04/16

「沖縄学の形成と構築」

 早稲田の沖縄学。気になる講座が多い。

 早稲田大学 琉球・沖縄研究所(2009年度 早稲田大学総合講座「沖縄学」スケジュール)

 5月だけでもこんな感じ。

5/8  東 良和 沖縄における地域主導型観光の構築とグローバル化への対応
5/15 新城 亘 琉球弧の音楽概説──奄美・沖縄・先島の唄を聴く
5/22 上里隆史 古琉球と海域アジア 琉球・沖縄研究所客員研究員
5/29 紙屋敦之 薩摩の琉球侵攻400年 早稲田大学教授


 紙屋さんの「薩摩の琉球侵攻400年」はぜひ、聞いてみたい。誰でも聞けるのかなあ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

0.プロフィール | 1.与論島クオリア | 2.与論・琉球弧を見つめて | 3.与論の地名 | 4.奄美の地名 | 5.琉球弧の地名 | 6.地域ブランドをつくる | 7.小説、批評はどこに | 8.島尾さんの作品 | 9.音楽・映画・絵画 | 10.自然の懐 | 11.抒情のしずく | 12.祖母へ、父へ | 13.超・自然哲学 | 14.沖永良部学との対話 | 15.『しまぬゆ』との対話 | 16.奄美考 | 17.『海と島の思想』 | 18.『ヤコウガイの考古学』を読む | 19.与論砂浜 | 20.「対称性人類学」からみた琉球弧 | 21.道州制考 | 22.『それぞれの奄美論』 | 23.『奄美戦後史』 | 24.『鹿児島戦後開拓史』 | 25.「まつろわぬ民たちの系譜」 | 26.映画『めがね』ウォッチング | 27.『近世奄美の支配と社会』 | 28.弓削政己の奄美論 | 29.奄美自立論 | 30.『ドゥダンミン』 | 31.『無学日記』 | 32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 | 33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』 | 34.『祭儀の空間』 | 35.薩摩とは何か、西郷とは誰か | 36.『なんくるなく、ない』 | 37.『「沖縄問題」とは何か』 | 38.紙屋敦之の琉球論 | 39.「島津氏の琉球入りと奄美」 | 40.与論イメージを旅する | 41.「猿渡文書」 | 42.400年 | 43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 | 44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 | 45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」 | 46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子) | 47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す | ★奄美と沖縄をつなぐ(イベント)