カテゴリー「 2.与論・琉球弧を見つめて」の98件の記事

2014/07/04

国民の承認

 7月1日の首相官邸前のデモに参加した。これはちょっとやばいのではないかという身体的な反応からだった。永田町駅は交通止めされていて、国会議事堂をぐるりとまわったが、総理官邸前の交差点は既に人で満ちていて、先へ進むのを諦めた。教条的ではないコールとしなやかないでたちを期待する気持ちがあったが、それは半分は満たされたように思う。夕方、6時近い頃、閣議決定がされたという報が現場に伝わるとシュプレヒコールの声に緊迫感が増した。

 日本人という自認が自然な形ではやってこないので、大和は異国という感覚は、次第に弱まっているが、消えていない。沖縄の米軍基地にしても、異国である日本とアメリカが酷いことをしているという認識に傾きがちだ。けれどそれでは傍観的な態度に終始してしまう。やばいという身体的反応はそれも理由だったかもしれない。

 その手前にあったのは、基本的な人権や生活権を損なう恐れがあるという認識だった。その可能性のある決定に従う気はないという意思表示。そして、憲法、とりわけ9条を空文化する決定には反対だ。それを、国民の信を問うことなく決定することに、なお反対だ。

 「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」の5項目。

また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。

 少なくとも、これは「国会の承認」ではなく、「国民の承認」とすべきところだと思う。

 閣議決定の報せが現場に届いた時、ふと村山富一の、「自衛隊合憲、日米安保堅持」という発言を思い出した。考えてみればあれから20年、決定のひとつひとつは何も変えないように見えても、ことは忍び足でやってくるというのはこういうことかと合点する。

 70年間、他国と戦争をしていないという資産を生かし、東アジアと信頼関係を構築する。かつ、対米従属を相対化し、日米安保条約を解消する。そのことにより基地を経由した戦争協力も解消する。しかも、それをアメリカとの信頼関係を構築するなかで行う。という、ビジョンを腹の底に据えた政権を、ぼくは望む。

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2014/01/30

徳田虎雄・田中角栄・西郷隆盛

 徳田虎雄の二世議員が公職選挙法違反に問われた時、ロッキード事件の渦中にいた田中角栄のことを思い出した。当時、挑発的なメディアの取材に対しても新潟県の人が、田中角栄を悪く言わなかったことが強く印象に残っていた。2013年の事件でも、奄美の島人は、二世議員に対してはともかく、徳田虎雄のことは誰も悪く言わないのではないか。離島にとって深刻な問題だった医療について、各島に病院を置き、いまも島人はその恩恵を受け取っているからである。田中角栄の時は外から新潟を眺めていたが、今回はそれを内側から体感することになった。

 吉本隆明は、田中角栄をアジア型の最後で最大の政治家と評していた。

(田中角栄は-引用者注)アジア型の政治家で最後で最大の人物とおもわれた。アジア的な政治理念は、根拠地観(論)を第一の特徴にしている。郷党の衆望を背中にしょいこんで中央におもむき、中央政治に参画する。失脚するようなことがあると郷土に帰ってゆく。郷土にいったん帰ると郷土の人たちが守ってくれる。まかり間違って中央政府と武力衝突をやっても、この郷土出身の政治家を守りぬく。明治でいえば西郷隆盛が典型的にアジア的であった。(p.169、『わが「転向」』

 西郷隆盛は日本におけるアジア型の政治家の最初で最大の政治家になるが、しかし最後は、故郷で政府軍によって死を余儀なくされたように、それはアジア型の政治家の終りの始まりでもあった。田中角栄は、終りの終りを任じたのだと思う。

 西郷は、流罪で奄美大島、徳之島、沖永良部島にいた期間があることで琉球弧との接点を持っている。奄美大島では荒れていた西郷は、島人への蔑視を隠さなかったり、逆に薩摩からの代官を懲らしめたりと両面を見せるが、沖永良部島では落ち着き、学問や経済の知恵を施して、島に好印象を残している。

 それは西郷から島が受け取ったものだが、島から西郷が受け取ったものもあるはずだ。南方的なおおらかさ、ゆったりした構えは本来、薩摩まで伸びるものだが、こと政治の面ではそれはやせ細ってゆく。明治の小林雄七郎は、幕末の薩長土肥について、薩摩の「実際的武断」、長州の「武人的知謀」、土佐の「理論的武断」、肥前の「文弱的知謀」と評したが、薩摩についてはその通り、内省への侮蔑と否定からくる武断的な構えが強い。「議を言うな」という言葉に象徴されるように、充満したはこわばりがある。西郷が醸し出した、おおらかさ、ゆったりした構えは、生来の南方的な面を持っていたのだろが、それに重心を与えたのが、琉球弧の作用かもしれなかった。

 このアジア型の系譜は、田中角栄で終ったとぼくも考えてきたが、二世議員の事件で、徳田虎雄もこの系譜に連なっていることに思い当たる。少なくとも、琉球弧では、特に奄美ではこの系譜は終わっていなかった。あるいは徳田虎雄は奄美におけるアジア型の最後の政治家であるのかもしれない。

 唐牛健太郎は、晩年、徳田虎雄に協力する場面もあって、唐牛が与論に滞在したことのあるのを知っている島人を驚かせたが、両者の柄の大きさを思えば、不思議ということはなかった。この、柄の大きさということもまた、アジア型の政治家の特徴に挙げられると思う。

 しかし、徳田を奄美におけるアジア型の最後の政治家と見なせても、故郷を背負うということや柄の大きさが必要で無くなることを意味しない。農村の縮小とともに、アジア型ではなくなるにしても、その根拠地を背負うことは政治家に求められるからだ。琉球弧という根拠地は、それぞれに境界を持った島々の集まりであり、内地の交通・経済圏には内包されない位置にある。



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2014/01/28

琉球弧の「ありがとう」分布・補足

 中本正智の『図説琉球語辞典』(1981年)に依って、「琉球弧の「ありがとう」分布」を補足する。

ニヘー nihe: は本来、「*御拝」であるから、目上に対することばであったが、最近では目下にも使う。  ニヘーが目上に対してなら、カフー(果報)は目下に対してのことばであった。カフーシ(果報をして)のように用いた。平民同士は、目上に対してもシディガフー デービル(*孵果報でございます)という(p.418)

 分布図(p.419)では、シディガフー系は、宮古、多良間島、そして沖縄島の中城湾近くの新里にある。

ウボラハ系は徳之島に、ウブクリ系は喜界島に、フクラサ系は宮古と八重山に分布している。徳之島ではウボラハ ダレンといい、喜界島ではウフクン データ、宮古ではプカラッサ、八重山ではプコラーサ ユーのようにいう。この三系は、一つの系から派生したものにちがいない。これらは、*pokosa∫isa(誇らしさ)にさかのぼる。この語は『おもそろうし』では「ほこらしや」となるが、歓喜に満ちた心の状態を表すのである。

 「誇」系が、「歓喜に満ちた心の状態を表す」ということは、「孵」系と同じだということになる。

(「誇」系の-引用者注)次にニヘー系が沖縄を中心に分布している。北は沖永良部島まで延び、南は宮古を飛び越して八重山に分布している。八重山ではミハイ系を用いる。例えば、沖縄ではニヘー ヤイビータン、沖永良部島ではミヘ デーロ、八重山ではミハイ ユーのようにいう。琉球では「ほこらしや」が、喜びを表す語であったが、これが相手の御機嫌を伺う語へ発達し、北と南の全域に波及した。これは、15世紀以後のことである。

 なぜ、15世紀以後と断定できるのだろう。知りたい。

次にニヘー系は沖縄を中心に発達し、沖永良部島や八重山に波及した。ニヘーとミヘーは、二拝と三拝といわれるが、これは誤りで、「*御拝」が正しい。mihai →miΦe: →niΦe →nihe: のように変化した。ニヘーが首里王朝文化圏の広がりをもっていることから、恐らく15世紀前後に広がった語であろう。

 これはぼくたちの見立てと違わないが、ニヘーが15世紀前後で、「ほこらしや」が15世紀以後というのはなぜだろう。分布からいえば、「誇」系を先と見るのが自然に思える。

 中本正智の『図説琉球語辞典』は、琉球弧オタクにとっては、願ってもない一冊で手元に置きたくなるが、中古で23000円からとなると手が出ない。

 しかし、発見もあるが不足も目につく。「ありがとう」の項目では、与論の「とーとぅがなし」を拾い落としている。そして与論は、「ウダーヌミチ」とされている。初耳だが、どこで使われているのだろう。


◇◆◇

 これらによって、「琉球弧の「ありがとう」分布」を加筆、補足しておこう。


 「誇」系 ウフクンデール(喜界島)、フガラッサ(与那国島)、(フコーラサーン)石垣島、オボラダレン(徳之島)、オボコリダリョン(奄美大島)
 「拝」系 ミフェディロ(沖永良部島)、ニフェーデービル(沖縄島)、ニ(ミ)-ファイユー(八重山)
 「尊」系 トートゥガナシ(与論島)
 「頼」系 タンディガタンディ(宮古島)
 「孵」系 シディガフー(宮古島、多良間島)

201401


『図説琉球語辞典』


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2013/11/27

琉球弧の「ありがとう」分布

 琉球松さんの示唆を助けに、琉球弧の「ありがとう」分布をみると、確かに方言周圏論で説明できる部分がある気がしてくる。


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 琉球弧の北と西に、「誇」系が分布し、その内側に「拝」系が分布している。そして、その中間域に、「尊」、「頼」、「孵」が来るが、中間域に位置する語は、他には分布していない。

 「誇」系 喜界島(ウフクンデール)、与那国島(フガラッサ)、徳之島(オボラダレン)、奄美大島(オボコリダリョン)、石垣島(フコーラサーン)
 「拝」系 沖永良部島(ミフェディロ)、沖縄島(ニフェーデービル)、八重山(ミ(ニ)-ファイユー)

 「尊」系 与論島(トートゥガナシ)
 「頼」系 宮古島(タンディガタディ)
 「孵」系 宮古島(スィディガフー)

 大和言葉が琉球弧に流入して、その受容と創造のなかに、最初に生まれたのは「誇」系であり、最後に生れたのが「拝」系だった。「拝」系は琉球王府の近傍から生まれたのかもしれない。そして、琉球王府近傍からの言葉の伝搬が及んでも、それがその間に生まれた言葉を代替しなかったのが、「尊」、「頼」、「孵」の言葉たちになる。

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2013/11/26

「とーとぅがなし」の島から琉球弧の「ありがとう」へ

 与論島のことをひと言で表現するとしたら、与論民俗村の菊秀史さんが主張するように、「とーとぅがなし(尊加那志)」の島と言うのがいちばん相応しい気がする。日常的な感謝の言葉に「とーとぅがなし」を使っている島は、琉球弧の他島にはないからだ。

 しかし、「とーとぅがなし(尊加那志)」という言葉自体がないわけではない。それは、琉球弧の島々の、神への祝詞のなかに、しばしば使われている。けれど、祝詞のなかでは感謝の言葉ではなく、尊いお方、つまり神様そのものを指している。だから、島の個性でいえば、「とーとぅがなし(尊加那志)」それ自体ではなく、神様の呼称そのものが、神への感謝も同時に表すところから、それを日常的な感謝の言葉に使うところに与論らしさはあると言っていいい。

 聖なる言葉のなかで、その最たる聖なる存在そのものの呼称を、最も日常的な言葉のひとつ、感謝の「ありがとう」に転換する、この肩の力の抜けた、リラックスさ加減が与論らしい。そういう意味でも、「とーとぅがなし(尊加那志)」の島は与論島を言い表すのにもってこいだ。

 けれども、聖なる言葉を感謝の言葉にしているのは、与論だけではなく、琉球弧に共通している。


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 それぞれが「全く違う」ことが強調されがちな「ありがとう」の言葉たちだが、その意味を示す漢字一文字を軸にすれば、これらは五つに類型化してみることができる。

 「拝」系 沖永良部島(ミフェディロ)、沖縄島(ニフェーデービル)、八重山(ミ(ニ)-ファイユー)
 「尊」系 与論島(トートゥガナシ)
 「誇」系 喜界島(ウフクンデール)、与那国島(フガラッサ)、徳之島(オボラダレン)、奄美大島(オボコリダリョン)
 「頼」系 宮古島(タンディガタディ)
 「孵」系 宮古島(スィディガフー)

 これらの感謝の言葉をもともとの意味から捉えようとすると、沖縄島のニフェーデービルを始めとした「拝」系は、祈願の所作、与論島の「トートゥガナシ」の「尊」系は、神そのもの、喜界島のウフクンデールなどの「誇」系は、神や、按司、王などの統治者への畏敬、宮古島の「タンディガタンディ」は、神や、按司、王などの統治者への依存、同じく宮古島のスィディガフーの「孵」系は、祈願からもたらされる豊穣や喜悦であると考えられる(cf.「琉球弧の「ありがとう」は、「拝」、「誇」、「尊」、「頼」!?」「スィディガフウ(孵で果報)は、予祝的な「ありがとう」)。どれも聖なる言葉の周辺にあるもので、神との関係と、それが現世化されて統治者との関係のなかから生まれ出ている。

 また、これらは、大和言葉の漢字を根拠にしながら、もともとの意味通りに添うのではなく、むしろそれを踏み台にして、美称、尊称化した琉球語感覚にあふれている。ただし、宮古島のスィディガフー(孵で果報)の「スィディ、スデ」だけは、もともとの琉球語に「孵で」に漢字を当てたものではないだろうか。「果報」は新しく流入した大和言葉であったとしても。

 琉球弧の感謝、「ありがとう」は、共通語化されることはなく、神や統治者への関係のなかで、相手を尊重する気持ちを軸に、そのことを示す言葉たちをそれぞれの島が、感謝の意味として形成していった軌跡が、正直に残っている。それは言葉の意義に添うのではなく、多様に展開していった琉球語感覚の見事なサンプルにもなっていれば、琉球弧の多様性の象徴的なサンプルにもなっている。

 それぞれの島が、与論の「とーとぅがなし(尊加那志)」の島のように、自分の島を表すことができるほどに、それは豊かなのではないだろうか。

 


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2013/11/23

スィディガフウ(孵で果報)は、予祝的な「ありがとう」

 宮古島のありがとう、「スィディガフウ」を考えようとすると、柳田國男が思い出される。

育つ・育つるという日本語の方は、凪く展開を停止したようであるが、西南諸島のスダテイン(育つる)等は、別に原形のシデイン・シデイルンがあって、人の生まれることから卵のかえることまでを意味し、スデミヅは産井のミヅ、スデガフーは大いなる喜悦の辞、さらにこの世の衆生をスヂャという語も元はあった。旧日本の方でも、方言にはまだ幾つもの痕跡があとづけ得られる。たとえば、育てるというかわりに、大きくするという意味のシトネル、または成長するという意味のシトナルなどは、人を動詞にしたようにも考えられていたが、実際にはこの南方のスデル系と同系の語らしい。(「稲の産屋」『海上の道』

 シトネルは、シネリキヨと音が似ているのか似ていないのかが別の連想で気になるが、今は置いておくとして、柳田の言うとおり、「シデイン・シデイルン」が古い言葉だとすると、「スィディガフー」の「スィディ」は、他の「ありがとう」系列の、拝系、尊系、頼系、誇系とは異なり、語が先にあって、「孵で」の漢字を当てていったものだと思える。

 「産井のミヅ」の「スデミヅ」は、おもろでも頻繁に表れ、世界を蘇らせるという含みを与えられている。

あおりやへが節
一 あかわりぎや おもろ
  安須杜(あすもり)の
  世持(よも)つ孵(す)で水(みづ)よ みおやせ
又 今日(けお)の良(よ)かる日(ひ)に

(255 巻五)

 「大いなる喜悦の辞」と解している「スデガフー」は、ニフェーデービルが、祈願の所作、トートゥガナシが神そのものに由来するとすれば、祈願によってもたらされる状態に焦点が当てられていると思える。これが感謝の意味になるということは、相手に対する予祝を含意して使われるようになったのだと思える。

 また、カフー(果報)は、新しい言葉だが、ニフェーデービル、トートゥガナシ、フガラッサ、タンディガタンディとは異なり、スデ、スィディのなかに、古さを宿した「ありがとう」なのかもしれない。



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2013/11/22

琉球弧の「ありがとう」地図

 ありがたいことに、琉球松さんから、宮古島のありがとう、「スィディガフウ」を教えてもらった。考察は追ってするとして、地図に加えておく。それにしても、多彩だ。この多彩さは、琉球弧のある豊かさを示していると思う。


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2013/11/19

琉球弧の「ありがとう」は、「拝」、「誇」、「尊」、「頼」!?

 琉球弧の「ありがとう」表現は多彩だ。

 島名は煩雑なので、省略してマップにしてみる。各島々、発音の微妙な違いや別の言い方がきっとあるのだが、そこまで及ばないのはご容赦ください。教えてもらえると嬉しい。


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 これらはよく「全く違っている」と言われるけれど、神への儀礼の場面を元にしているとみれば、捉えやすい。これも仮説のひとつに過ぎないが、それらは漢字一文字を軸に表すことができる。

 「拝」 沖永良部島、沖縄島、八重山
 「誇」 喜界島、徳之島、与那国島
 「尊」 与論島
 「頼」 宮古島

 沖縄島を中心にした「ニフェーデービル」、沖永良部島の「ミヘディロ」、石垣島などの「ミ(ニ)ーファイユー」は、御拝、二拝、三拝などの言葉に相当していると思う。

 奄美大島は、「アリガタサマアリョン(タ)」としたが、「オボコリ」を採れば、喜界島の「ウフクンデール」、徳之島の「オボラダレン」、与那国島の「フガラッサ」と同様で、誇り、を原型にしていると考えられる。

 与論島の「トートゥガナシ」は、尊い、になる。

 また、宮古島の「タンディガタンディ」は、頼る、と捉えてみた。(cf.「タンディの元」

 儀礼を伴うということは、「おもろそうし」の儀礼歌を思い起こさせるが、「誇り」は、そのままでも使われている。

うらおそいおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらゑ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)
又 かゑふたに 降(お)ろちへ
  厳子達(いつこた)に 取(と)らちへ

(237、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)

 また、該当する漢字が一対一対応で容易く想起されるということは、これらの言葉が、比較的新しい言葉ではないかと思わせる。もっと言えば、「おもろそうし」に見られる、大和言葉を、その意味を踏み台にして、多彩な美称の接尾辞、接頭辞に展開した琉球語の語法を感じさせる。

 そう思うのは、宮古島の「ありがとう」、「タンディガタンディ」は、与論島では謝罪の「ごめんなさい」へと反転して使われている。それだけでなく、与論島の「タンディ」は、他の意味でも使われる(cf.「タンディの元」)。これは、「ありがとう」を示す言葉たちが、もともと琉球弧にあった言葉ではなく、流入した大和言葉を、琉球語の語法でアレンジしたものだと見なすと理解しやすい。

 祖先であり神であるものとの関係が第一義的にある。それが現世にくだれば、支配者や強者、他者との関係にも現れる。「感謝」の言葉はそれも最も正直に、それを反映するだろう。すると、「拝」系の二フェーデービルは、祈願の所作に、「尊」系の「とーとぅがなし」は、神そのものに焦点を当てていることが分かる。また、「誇」系の喜界島の「ウフクンデール」は、神や支配者への畏敬を、「頼」系の宮古島の「タンディガタンディ」は、神や支配者への依存を示したものだと見なすことができる。

 しかし、こう書くともっともらしいが、「感謝」の言葉が統一せずに、それぞれの島のバリエーションを持っているのは、それぞれの島に、その言葉を選択する必然性があったのではなく、ここには多分に、偶然性が寄与していると思える。

 「今日(けお)」を、立派な、素晴らしいの意に拡張させる琉球語感覚をもってすれば、祈願の対象や所作であれ、支配者や強者への畏敬や依存であれ、「感謝」を示す気配があれば、そこにある象徴的かつ肯定的な言葉を選択すると、感謝を意味させることも、自然な流れだったろう。それが、島人の語感に委ねられた結果が、四つの系列を生み出し、そのなかでも、与那国島の「フガラッサ」から、徳之島の「オボラダレン」、喜界島の「ウフクンデール」までの広がりを持った言葉として、定着する余地、というより、幅を持たせたのだ。

 それは、宮古島の「タンディガタンディ」と与論島の「タンディ」を見れば、分かる通り、ひとつの言葉が選ばれたとしても、それは「感謝」の意味に転がることもあれば、反転して「謝罪」の意味に転じる自由さも持っていた。

 言い換えれば、琉球弧の島々には、ここに表記されていないさまざまな「ありがとう」が、四つの系列の流れを汲みながら、さまざまに口にされているに違いない。

 琉球弧の「ありがとう」はそれぞれが全く違うのではなく、言葉の心を等しくしながら、その表現において自由だった結果なのだと思える。
 

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2013/11/18

タンディの元

 与論で、タンディは、謝罪の「ごめんなさい」の意味になる。けれどそれだけではなく、与論茶花では、別れの「さようなら」の意味になる。まだあって、依頼を強調する時に、「タンディドーカ」と「タンディ」を添えることもあり、「どうぞ」のような意味になる。

 しかも、タンディは、宮古島では、感謝の「ありがとう」の意味になり、タンディガタンディと強調される。タンディは広がりのある言葉だ。

 別れの意味の「タンディ」は、与論では茶花のみで、ふつうには「ナーヤー」が使われる。茶花は新しい集落であってみれば、タンディ自体が、16世紀以降の首里近傍から訪れたグスクマ・サークラの集団によって、言葉自体か使われ方が持ち込まれたか、茶花と他島との交流によって生まれた言葉だという可能性を持つ。いずれにしても、別れの意味として使うのは新しいだろう。

 多様な意味の広がりを持つのは、「おもろそうし」での言葉の使い方に似ている。たとえば、「京」、「今日」の漢字を当てられる「けお」などは、「素晴らしい」の意味になり、「意地気」も「立派な」の意味になり、「搔い撫で」も、「撫で慈しむ」の意味になっていた。「かなし」には「加那志」の字が当てられるが、「愛し」あるいは「哀し」を元にした同様の用例だと考えることができる。

 仮説的に書けば、十数世紀に大和あるいは朝鮮経由の集団が大量に琉球弧に流入し、琉球弧に統一性をもたらす契機になる。その際、大和言葉も持ち込まれるが、琉球弧は、言葉を単純に摂取したのではなく、その使い方において、肯定的な意味を持つ言葉を、その本来の意味を離れてでも、形容的な美称、敬称、尊称として使ったのだ。

 タンディの多様な意味の広がりを踏まえると、これを琉球語の語法のなかに位置づけるのは無理のないことだと思える。

 タンディの元になった言葉は何だろう。タンディは、「ごめんなさい」、「さようなら」、「ありがとう」の意味を離れて、続く言葉を補う「どうぞ」、「なにとぞ」の副詞的な意味まで持つ、その広がりのなかから、元の言葉を辿ろうとすると、「頼」の言葉が浮かんでくる。

 「おもろそうし」では、「大和 頼(たよ)り 成(な)ちへ」(96)と、時折、使われる言葉で、この場合は、「大和を縁者にして」と、やはり意味は拡張されている。

 「頼」が、「たる」に当てられている場合も一例だけ、ある。

あんのつのけたちてだやればが節
一 吾(あん)のつのけたち
  吾(あん)のおやけたち
  越来(ごゑく)のてだ
  頼(たる)です 来ちやれ
又 今日(けお)の良(よ)かる日(ひ)に
  今日(けお)のきやかる日(ひ)に
又 たう(/\)は 走(は)ちへ
  坂々(ひらひら)は 這(は)うて

(83、巻ニ)

 「頼(たる)です」、「頼みにして」と訳注は解説している。「る」に注目するのは、与論にも、タルディの言葉はあって、タルディからタンディとなったと解したくなるからだ。

 元の語を、「頼」に置くと、相手を頼みに思うことが、感謝や謝罪、そして別れや依頼の強調に使われる琉球語の語法に適っているように思えてくる。

 

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2013/10/01

与論のヤブは金比屋武から?

 神事を司るノロと民間の巫女であるユタ。与論では、ノロはノロ(ヌル)と呼ばれるが、ユタはヤブと呼ばれる。琉球弧広しといえども、ヤブと呼ぶのは与論だけじゃないだろうか。

 なぜ、ヤブと呼ぶのか。これも分からずにきたことのひとつだ。野口才蔵先生に、「藪のなかにいるからか」と頓珍漢な質問をして苦笑されたこともある。なぜ、与論だけヤブと呼ぶのだろう。

 その関心から見ると、アマミキヨの足跡は意味を帯びてこないだろうか。

先ズ一番ニ、国頭ニ辺土ノ安須森、次ニ今鬼神ノカナヒヤブ、次ニ知念森、斎場嶽、 藪薩ノ浦原、次ニ玉城アマツヅ、次ニ久高コバウ森、次ニ首里森、真玉森、次ニ嶋々国々ノ嶽々森ヲバ、作リテケリ(「琉球開闢之事」『中山世鑑』)

 二番目の「今鬼神ノカナヒヤブ」である。カナヒヤブは御嶽であり、今も今帰仁グスクにある(「御嶽信仰は自然崇拝 ―今帰仁グスクのカナヒヤブ―」)。

 その「今鬼神ノカナヒヤブ」は、「おもろそうし」にも登場する。

一 東方の大主
  今帰仁(みやきせん) 金比屋武
  按司襲いす
  掛けて 栄(ふさ)よわれ
又 てだが穴の大主(『おもろそうし』巻一三-八ニ九)

 今帰仁のカナヒヤブ(金比屋武)を根拠にした按司を讃えたものだと思うが、今帰仁のカナヒヤブは「おもろ」に登場し、琉球王国の開闢神話のなかでも重要な御嶽だったということだ。

 今帰仁や北山との関係抜きには歴史を云々することはできない島の位置を思えば、与論は今帰仁のカナヒヤブ(金比屋武)の強い影響を受けた時期があったということではないだろうか。与論が北山の版図にあったとされる時期に、今帰仁のカナヒヤブからも神女は派遣され、島にやってきた。その由来の地を指したヤブという言葉が、与論の民間の巫女の呼称として、ユタに取って代わったのではないだろうか。与論でユタを指すヤブという言葉は、今帰仁のカナヒヤブ(金比屋武)と最も響き合うと思う。一視点として提示しておきたい。


 

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0.プロフィール 1.与論島クオリア 2.与論・琉球弧を見つめて 3.与論の地名 4.奄美の地名 5.琉球弧の地名 6.地域ブランドをつくる 7.小説、批評はどこに 8.島尾敏雄 9.音楽・映画・絵画 10.自然の懐 11.抒情のしずく 12.祖母へ、父へ 13.超・自然哲学 14.沖永良部学との対話 15.『しまぬゆ』との対話 16.奄美考 17.『海と島の思想』 18.『ヤコウガイの考古学』を読む 19.与論砂浜 20.「対称性人類学」からみた琉球弧 21.道州制考 22.『それぞれの奄美論』 23.『奄美戦後史』 24.『鹿児島戦後開拓史』 25.「まつろわぬ民たちの系譜」 26.映画『めがね』ウォッチング 27.『近世奄美の支配と社会』 28.弓削政己の奄美論 29.奄美自立論 30.『ドゥダンミン』 31.『無学日記』 32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』 34.『祭儀の空間』 35.薩摩とは何か、西郷とは誰か 36.『なんくるなく、ない』 37.『「沖縄問題」とは何か』 38.紙屋敦之の琉球論 39.「島津氏の琉球入りと奄美」 40.与論イメージを旅する 41.「猿渡文書」 42.400年 43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」 46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子) 47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す 48.奄美と沖縄をつなぐ(イベント) 49.「近代日本の地方統治と『島嶼』」 50.「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ 51.『幻視する〈アイヌ〉』 52.シニグ考 53.与論おもろ 54.与論史 55.「ゆんぬ」の冒険 56.家名・童名 57.与論珊瑚礁史 58.琉球弧の精神史 59.『琉球列島における死霊祭祀の構造』 60.琉球独立論の周辺 61.珊瑚礁の思考イベント 62.琉球文身 63.トーテムとメタモルフォーゼ