カテゴリー「 5.琉球弧の地名」の35件の記事

2015/09/01

『しまくとぅばの課外授業』

 石崎博志の『しまくとぅばの課外授業』(2015年)は、コラム集の装いをしているけれど、なかなかハードですらすらと軽く読み進められる本ではない。

 ぼくも地名に興味があるので、そこを取っかかりにすることにして、「保栄茂(ビン)」のコラムを見る。

 『海東諸国紀』(1501年)の発音体系に照らすと、「保栄茂」は、ポエモ[poemo]だったと考えられる。

 『おもろさうし』では、「ほゑむ」と表記されているが、

 ・当時は半濁音表記が存在しない。
 ・『おもろさうし』では、しばしば濁音が省略される。

 『おもろさうし』の発音を17世紀と仮定すれば、この時代には、ポエム[poemu]、ボエム[boemu]になる。

 ここで、p音→h音という変化、濁音はそのままということを踏まえれば、「おもろ」時代は、ボエム[boemu]だということになる。

 16世紀か17世紀にかけて、ポエモ[poemo]→ボエム[boemu]、あるいは、ボエモ[boemo]→ボエム[boemu]になった。

 ここから「ビン」までまだ距離があるけれど、その過程では、狭母音化が起こる。要するに三母音化だ。石崎は、「首里・那覇」の母音が三母音になるのは、1800年代前後と見ている。

 先史からの時代の長さを考えると、1800年前後というのは、ずいぶん最近のことだし、しかも急激な変化に見える。ここからは素人の推論に過ぎないけれど、この三母音化は、歴史的には、三母音に戻ったことを意味しないだろうか。グスク時代以降の大和からの移住と大量の大和言葉の流入により、琉球語は五母音化されるが、それが再び1800年前後に、三母音へと回帰したと捉えてみるのだ。

 この本から刺激を受けて得た着想としてメモしておく。

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2009/07/04

「サンゴの川」

 中村喬次による、宮古の地名ウルカ理解。

 同姓で真っ先に思い出すのは宮古のウルカ集落である。「あそこは村の8割方が砂川姓だよ」と聞いた。30年前の話である。今はどうなんだろうと、友利研一自治会長に電話で聞いた。
 ウルカは旧城辺町の海寄りの集落。砂川と書いてウルカと読む。現在冊用260世帯。宮古島市の集落では大きい方だ。その6割方が砂川姓だという。(中略)
 ところで、このウルカという集落名、最初聞いたとき、ピンと来るところがあった。ウル石とかウル墓、ウル割りといった言葉は、子どものころ耳になじんだ。同じウルなら、サンゴの川! なんとすてきな名前かと思った。
 ウルカ集落に砂川という川が流れているわけではなかった。宮古は全島真っ平らで山と呼べる山がないから、生活用水はもっぱら洞窟の地下水に頼っていた。「ウリガー」とか「カー」と呼ばれる。ウルカには「アマカー」と呼ぶ洞窟があるが、それを称してウルカと言っているのでもない。集落の前に横たわるサンゴ礁こそウルカの由来だった。サンゴが砕けて白砂になり、それが川のように延びている、そんなイメージが、僕を詩的興奮にいざなうのだった。(中村喬次「南海日日新聞」6/24)

 これは素敵な理解だと思う。ありうると思うけど真偽を判断しきれない。けれど、そうあってほしいと思う地名意味だ。珊瑚の川のウルカ。地勢の特徴を言うことが、詩にも通じた稀有な例だと思う。

 ぼくのいとこ叔父は、夜空の星を皆既日食という太陽と月の交わりが生んだ子どもたちだと言っていた。こちらは正真正銘のロマンテシズム。

 明日は、カルチュラル・タイフーンだ。


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2009/01/31

「沖の島」七つ

 二年あまり前、加計呂麻島と波照間島は地名として同一だと気づいて(思い込んで)以来、「ぱてぃるま」という方音と「沖の島」の意味に惹かれて、折にふれ、「ぱてぃるま」とつぶやくうちに、いくつかの「沖の島」を見つけて(思い込んで)きた。

 波照間島、加計呂麻島、鳩間島、多良間島、来間島、慶良間(諸)島、そして昨日の、古宇利島。計七つだ。

 もちろんぼくの仮説なのだけれど、ぼくはまだ「沖の島」はあるのかもしれない、と思うが、音韻の変化を軸に整理してみる。


◆五母音化

◇加計呂麻島
patiruma > hatiruma > hakiruma > kakiruma

◆語頭の脱落

◇多良間島
patiruma > atiruma > tiruma > tarama

◇来間島
patiruma > atiruma > kiruma > kurima

◇慶良間(諸)島
patiruma > atiruma > kiruma > giruma

◆語中の脱落

◇鳩間島
patiruma > patiuma > patuma

◆語中、語尾の脱落

◇古宇利島
patiruma > pitiruma > piiruma > pii > pi: > fi:


 ぼくの勘違いに過ぎない可能性を棚に上げると、色んな連想が過ってゆく。波照間島に近い鳩間島は、語中を脱落させることで差異化を図った。それから琉球弧に添って北上した宮古島、沖縄島周辺では、語頭を脱落させるという共通性を持ちながら、差異化を図っていった。その存在を意識してか、沖縄島の北部では、極限まで脱落を進め、自然音にまで近づけた音で「沖の島」の系譜をつくった。そして興味深いことに、琉球弧北部に北上した地点では、音の脱落なしに波照間をやや五母音化させた島名が定着する。

 なぜ、加計呂麻は語音を脱落させずに、波照間と同じ音節を保ちながら、五母音化と転訛で島名を成り立たせたのだろうか。加計呂麻島の存在感のなせる技だろうか。

 ここには、琉球弧の南と北をつなぐ物語の気配が漂っていて、心躍らせてくれる。そう思いませんか?


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2009/01/30

古宇利島は究極の「沖の島」か!?

 一昨年、古宇利島の方音は、「フイ・フイジマ」、「クイ・クイジマ」なのを知った。「向こうの向こうの島」という意味であるらしいことも分かったが、これはひょっとして、これも、波照間系の地名ではないだろうか。

 古宇利島がウチナーグチで「フイ・フイジマ」「クイ・クイジマ」などと呼ばれていることを知った。フイやクイは「越えた」のウチナーグチということであった。(『海と島の思想』 (野本三吉)

 例によって、「沖の島」の本源地である波照間(ぱてぃるま)から始める。

patiruma

> pitiruma(a>i 同一行内の転訛)

> piiruma(母音に挟まれた t の脱落)

> pii(母音に挟まれた r の脱落、語中の m の脱落、それに伴う母音の脱落)

> pi: > fi: > kui

 南が、「pai > pe: > fe:」と変化する音の近くに、「fe:」と同一になるのを避けるように、「fi:」ができた。それは、「patiruma」の縮退形としては極限の言葉だろう。けれど、何か、「fe:」というこれも極限の言葉が、「南」となるように、「fi:」という極限型を採りうるということに、「沖の島」という地名の普遍性を見るような気がする。そういうところに、この地名の信憑性を見たくなる。もちろん、信憑の第一は、「古宇利島」のたたずまいが、屋我地という沖にある島のさらに沖にあり、「沖の沖の島」というにふさわしいことだ。


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2009/01/29

なぜ、「竹」なのか

 「てぃーどん」は「竹しげるところの港」という仮説を続けてみる。
 この仮説の特徴は、「竹」を音に似せて字を当てただけでなく、意味も同義のものを当てたと見なしている点だ。これまで地名の基本としてきた考え方からいえば、「竹」が、竹富島の地勢・地形を特徴づけるものとみなしていることになる。

 竹富島に「竹」は豊富だろうか。でもそういう特徴は聞いたことがない気がする。だいたい竹富島は、「武富島」と記されたこともある。するとやはり、「竹」は当て字に過ぎないだろうか。

 当て字にすぎないかもしれないけれど、「竹(タギ)」から出発すると、「てぃーどん」にたどり着いたことに一分の理があることを踏まえて、言いうることはないだろうか。

 そうやって考えると、ぼくたちは崎山毅の考察を思い出す。それは、八重山の島名が、大隅・奄美の島名に「似ている」ことだ。

地図を開いて大隈群島の種子島、屋久島と、八重山群島の石垣島、西表島を見較べると、島の形、両島の位置的関係並びに地勢がよく似ている。種子島は北から南へ細く延びた島で割に耕地に恵まれており、島の北部を御岬といい、西海岸には西ノ表の良港がある。

 そして結論として、こう書いている。

1.西表島は、大隈群島の種子島の西ノ表から
2.竹どん島の御岬は、同じく種子島の御岬から
3.マギ島は、同じく馬毛島から
4.竹どんは、同じく竹島から
5.黒島は、同じく黒島から
6.西表島の八重岳は、同じく屋久島の八重岳から
7.石垣島のヤラブ岬は、同じくの口ノ永良部から
8.波照間島は、奄美群島の加計呂麻島から
9.与那国島(ユノン)は、同じく与論(ユンヌ)から
10.西表島の古見は、沖縄諸島の玖美(久米島)から
由来した名前であると考えた方がより合理的である。

 琉球弧の人なら、これ一度は、あっと思ったことがあるのではないだろうか。ぼくも、十代のころに、あれ、と感じたことがあったと思う。この相似説には、誰もが何気なく感じることを踏まえた説得力がある。

 崎山は、「八重山諸島は立派な日本語名である」と書くように、この相似説を、八重山が日本であることを根拠づけるものとして持ち出している。しかもそのモチーフは痛ましいほどに絶対化しているため、島名の字を方音に先立つものとみなしてしまっているのだ。たとえば、与那国があって、そこからの「どぅなん」への転訛が起きたと見なすように。

 しかしそれでは方音をあまりに浅く掬い上げてしまう。同時に、浅いものに深刻な根拠が与えられてしまっている。言うまでもなく、島名の字は、方音を根拠に字を当てたものだ。だから、島名は、八重山の島名が日本語であることを証拠づけるものではなく、漢字を携えて南下した人々が方音をもとにして当てた文字というに過ぎない。

 ここから想定すると、「竹富島」はもともと「どぅまい」(港)と呼ばれていた。そこに、大隅・奄美の島に文字を当てた勢力が南下したとき、そのポジションから、「どぅまい」を「竹島」と同位相にあるとみなした。そこで、「竹」は、三母音化して「たぎ」となった上で「どぅまい」と併記され連称された。青森の三内丸山(さんないまるやま)が、アイヌと和人の共存を示しているように、「どぅまい」と名づけた人々と「竹」と名づけた人の出会いをこの地名は保存しているのかもしれない。それが島名が、「たきどん」と呼ばれ、また「竹どん」という字を当てられることの背景に当たっている。

 まだアイデアだが、ひとつの視点として提出しておきたい。



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2009/01/28

「てぃーどん」とは「竹しげるところの港」か。

 竹富島の方音である「てぃーどん」は、どういう意味か。
 「竹しげるところの港」と解してみる。
 
 「港」は、「諸鈍」の「鈍」を「港」と解したのと同じ根拠であるとする(「『鈍』は『港』か」)。

 「竹」はひとまずそのまま受け取ってみる。少し前まではでたらめだとしか思っていなかったが、そう字を当てたということを尊重してみたい。

 竹富島(竹どん、と呼んでいる)は石垣島の南西二浬、西表島の東方五浬の所に位する平坦な小島であって、古成層の園を珊瑚礁が取り巻いているため、先島の小島には珍しく甘水(井戸水)が得られ、マラリアもなく、また島の東・南・西の太平洋に面する側には、石垣島から起こって、黒鳥・離れ・西表島へと続いている外廓のリーフに囲まれ、海が穏やかで船着場がよく、昔八重山へ渡った神々の足場であり、八重山部落の草分けだと言い伝えられている。(『蟷螂の斧―竹富島の真髄を求めて』

 「てぃーどん」の「てぃー」を「竹」と解してみたいのは、崎山毅のこの文章にも依っている。「てぃーどん」は「竹どん(たきどん)」と呼ばれており、この音の取り方、字の当て方にも「竹」が残っているからだ。

 崎山のこの文章はもうひとつ大事なこと、竹富島が良好な「船着場」で八重山のシマの草分けと呼ばれているということだ。それは、「どん」が「港」であるという理解を支持してくれる。

  そういうわけで、「てぃどん」は「竹しげるところの港」であるとすれば、その本源は次のように、再構できると思う。

 tagi dumai

 「tagi」は、三母音化した「竹」であり、「dumai」は、「どぅまい」のことだ。

 tagidumai > takidumai(gを五母音化してk)

 tagidumai > takidumai > taidumai (母音にはさまれたkの脱落)
 
 tagidumai > takidumai > taidumai > tidumm > tidun
 (aiの長母音化と、語尾の撥音便化)

 こうして、「たぎどぅまい」は、「てぃーどん」になりうる。

 「竹しげるところの港」としての「竹富島」は、「たぎどぅまい(tagidumai)」を本源として、「てぃーどん」への進展を想定することができる。

 こう考えてくると、「dumai」は、単独で地名になった場合は、「まい」の語尾を保存するが、その前に言葉を持つと、「どぅまい」が「どん」へ縮退するように見える。「諸鈍」しかり、「花富」しかり。


   
 

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2009/01/27

「鈍」は「港」か

 「どぅなん」、つまり「ゆなん」とのアナロジーから、「諸鈍」を、「汐」が「寄る」と解したら、琉球松さんに「鈍」は「港」では?とアドバイスされ、なんかそれがいい意味で引っかかっている。

 「どぅなん」と「諸鈍」 

 琉球松さんの指摘は、

「鈍(トン・トゥン・ドゥン・テン・ティン・ティヌ・テム・ etc 」は牧野哲郎さんの仮説を参考にすれば「港」ではないかと思います。

 「鈍」は「港」だろうか?

 与論島で、「港」を意味するのは、「供利」と『めがね』の浜の「トゥマイ」だ。

 供利は、方音:トゥムイだから、

 トゥムイ:tumui
 トゥマイ:tumai
 
 両者の「u」「a」は、同一行内の転訛として理解できる。

 母音は重合すると、長母音化するから、

 ui > u:, i:. ai > o:, e:

 であり、すると、

 tumui > tumu:, tumi:
 tumai > tumo:, tume:

 これが、母音の重合として、こんどは促音便化すると、

 tumui > tumu:, tumi: > tumm
 tumai > tumo:, tume: > tumm

 となり、

 tumm > tun

 と撥音便化すると想定してみると、トゥムイ、トゥマイは、「トゥン」になりうることになる。

 もうここからは、琉球松さんの挙げた「鈍(トン・トゥン・ドゥン・テン・ティン・ティヌ・テム・ etc 」は射程圏内だ。
 この考え方が魅力的なのは、

喜界「嘉鈍」、奄美島「宇天・一屯(イットン)・屋鈍・管鈍・花天」、加計呂麻「諸鈍」、沖縄「汀間・天仁屋・一名代(ティンナス)・運天・天願・馬天」

 の意味が分かるとともに、大久保さんに教えてもらった加計呂麻の「花富(きーどぅん)」にも通じる。
 そして、竹富島(てぃーどぅん)の意味に届くのではないかと思うのだ。



 

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2009/01/19

「どぅなん」と「諸鈍」

 「山 十山(だま とやま)」(「雨乞いの歌」与那国島)など、与那国島ではy音がd音に変わる例が見られる。代表的なのは、「どぅなん」で、これは「ゆなん」と同じである。「ゆなん」は三母音化すると「どぅなん」になると解してみる。

 この、y音がd音に変わる例は与那国島でしか見られないと、沖縄言説で言われるけれど、そうではないかもしれない。

 加計呂麻島の諸鈍は、三母音化して読めば、「しゅどぅん」だが、これは、「しゅゆん」ではないだろうか。「しゅゆん」、「汐が寄る」という意味だ。


仮説メモ
 
 与那国/どぅなん/ゆなん/砂
 諸鈍/しょどん/しゅどぅん/しゅゆん/汐寄



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2008/06/07

アイヌは先住民族

 アイヌは先住民族。

 そう、日本国家は認めたのですね。
 琉球弧にとってもインパクトのあるニュースです。

 「アイヌは先住民族」と認定…官房長官談話
 
 琉球弧はこのメッセージをどう受け取るのか。ぼくたちの課題です。



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2007/12/25

地名への接近 2007

沖の島としての琉球弧

 2007年は、何といっても図らずも、地名に夢中になってしまった。
 去年の暮れ、琉球弧の島名の呼称を声に出して読んでみたとき、パティルマ、カキルマと言ってみて、あれ、「加計呂麻は波照間?」じゃないかと思ったのがきっかけだった。波照間島と加計呂麻島は地名として同じだ。そして金関丈夫の仮説通り、パティルマが「沖の島」の意味だとすれば、加計呂麻島も沖の島だ。そう考えると、確かに、加計呂麻島は奄美大島の「沖の島」だった。

 この発見が面白くて、南島地名研究センターの『地名を歩く』をむさぼるように読み、『南島の地名』の資料を求めて国会図書館に通い、地名自体の資料を見たいと「地名資料室」に出かけ、あっという間に地名オタクが一丁、出来上がってしまった。

 地名は、琉球弧の基層と上層を明らかにしたいというぼくのモチーフにもぴったり合うテーマだった。基層を明らかにするのに、費用や在住が必須ではなく、徒手空拳で立ち向かえるのが地名という素材で、ぼくのような在野の立場でも接近可能なのがありがたい。もっとも、地名研究には必須と言われるフィールド・ワーク欠乏症ではあるのだけれど。

 そうやって探求していくと、「沖の島」は、波照間島、加計呂麻島だけではなく、鳩間島、多良間島、来間島、慶良間諸島も、同じ「沖の島」だと気づいた。気づいたというのは無論、ぼくが仮説したというに過ぎないが、ここから、「沖の島」の流れとしての琉球弧という視点を得ることができたと思っている。

 もう少し言えば、平安時代の歌人、藤原公任の作として、

おぼつかな うるまの島の人なれや
わが言の葉を知らず顔する

 の歌が取り上げられ、沖縄でウルマという語を扱うときの出典先になっていたりする。その通り、勝連も、現在は「うるま市」と名を改めたけれど、ここにいう「うるま」も、パティルマと同系列の「沖の島」と同じではないかとぼくは思っている。


久高島=津堅島

 琉球弧の地名探求のなかで、久高島と津堅島は地名として等価であるという仮説に辿り着いた。

 ※「津堅地名考」

 もともと、琉球弧の島名呼称のなかで、津堅島を「チキン」というが、それは「チキタン(着いた)」から来ているという説明に頷けないので、本当の由来を知りたいと思ったのが発端だった。ぼくは、それを「崖のある山」として解いたが、波照間島のときと同様、「崖のある山」という地勢名は、津堅だけでなく、具志堅、久手堅、宇堅、宇検、そして久高も該当すると見做していった。

 地名は、ひとつを紐解くと、眠っていた仲間達が、共鳴して騒ぎ出し、名乗りを上げてくるようで面白い。それに、波照間と加計呂麻にしても、津堅と宇検にしても、奄美と沖縄が同一の地平に浮かび上がってくるのが嬉しかった。


ユンヌとは

 ところで、もともと地名に関心を持つのは、与論島の呼称である「ユンヌ」の意味を知りたいからだ。ユンヌという語音からすると、沖縄の与那や与那覇、与那原なども同じ系列だと漠然と思っていたが、沖縄の地名研究を見ると、沖縄(本当)内の与那系地名は「砂」にちなむという仮説はあるものの、与論島のことは度外視しているように見えるのが不満であるという背景もあった。

 ぼくは今年、与論島を「砂の島」として仮説し、その手ごたえを確かめるように、島内の砂浜を巡ってみた。

 ※「与論砂浜三十景」

 巡ってみると、与論島は八方美人で、どこから見ても砂浜を玄関のように差し出している島であることがよく分かり、その広がりに圧倒された。

 けれど、「砂の島」としての確信は深まったかといえば、そうでもなく、ぼくは沖縄の与那系地名の理解のなかで、与論島と同じく度外視されているように見える与那国島との類縁が気になっている。

 与那国のドゥナンという呼称、ユノーンという他称、ダンヌという砂浜の存在、そして15世紀の資料に出てくるユンイという表音などを手がかりにすると、ユンヌと等価と思えてならないからだ。

 ※「ユンヌの語源 註」

 ただし、与那国島は、与論島ほどには「砂の島」には見えない。そうすると、地名の初期原則である、地勢を言い表したものという原則に適っていないような気がしてくる。また、ドゥナンとユンヌを同じと見做すときの鍵は、与那国島の方言から得られるd音とy音が等価であることを根拠にしているが、両者を比べて、d音が古形に当たっていると見做すと、ユンヌもドゥンヌと呼ばれた可能性を持つわけであり、すると、砂としてのユナの意からは離れるように見えるのだ。

 それは考えすぎなのか、それとも別の理由があるのか。たとえば、竹富島出身で地名オタクの友人の崎山毅さん(とぼくが勝手に思っているだけで、崎山さんは1969年に他界している)は、

 ※「大隈・奄美、八重山の地名相似説」

 を唱えていて、これによれば、西表島は、種子島の西ノ表から、西表島の八重岳は、屋久島の八重岳から、波照間島は加計呂麻島から、そして、与那国島は与論島からであるとしている。この相似説は、十代の頃、南島航路を船に揺られながら、地図を広げたとき、西之表と西表は似ているとか、与論と与那国は終わりの島として一緒だという素朴な気づきとして、そういえば、そう思ったことがあるのを思い出した。相似説は、そんな素朴な気づきを生かした仮説であり、一定の信憑性があると思える。というのも、本土のなかでも同じ地名が反復されるのは普通に見られることであり、たとえば、谷川健一の『日本の地名』によれば、日和山という地名は、全国で八十余個所ある。それと同じことで、琉球弧のなかでも、地名が反復されているのだ。

 崎山さんとぼくが違うように考えるとすれば、崎山さんが、一様に、南下勢力による反復を考えていることだが、ぼくは、南からの反復も、北からの反復も両方ありえると思っている。たとえば、波照間は加計呂麻の反復地名ではなく、加計呂麻が波照間の反復地名である。同じように言えば、ありうるとしたら、与那国は与論の反復地名であるとかもしれない。この点は、崎山さんと同じだが、ぼくの場合、南下勢力は、崎山さんの想定よりもっと太古のものだ。


地名の三層モデル

 地名ひとつ取ってみても解きほぐすべきことはいくつもある。作業仮説として、ぼくは漠然と、地名を三層で捉えようと思っている。


 p3 -----------------

 p2 -----------------
 
 p1 -----------------

 p3:地名を形態として識知。弥生期南下勢力により文字として定着。
 p2:南方からの地名。三母音化。
 p1:それ以前の、地勢としての地名。

 ※ 現在からの時間: p3<p2<p1

 たとえば、波照間は、もともと「p2」を下限としパティルマやカキルマという語となり、「p3」層の段階で、波照間や加計呂麻となった。与那国島の「租納(ソナイ)」は、アイヌ語で「p1」層にできた地名に「p3」層で漢字を当てたものだ。津堅島も同様である。

 こんな風に見做すことで、新しい理解が生まれるか、今後の課題だ。


与論の地名 

 ただただ自然に呼び習わしてきた与論島内の地名についても、由来が分かるところも現れて、それはそれは楽しかった。那間は泉であり、金久は、(荒い)砂のある地のことだ。そして、赤崎と寺崎は、太陽と砂の色に由来しているかもしれず、赤佐は、ブローチに由来しているかもしれなかった。また、立長の由来についても一歩、詰め寄ることができた。

 ところで、こうした突き詰めをする思考作業のなかで、牧野哲郎さんの論文は心強い味方だった。牧野さんの「沖縄←→奄美の共通地名を求めて」は、沖縄と奄美で、同じだと思える地名を整理したものだが、ぼくは分からない地名があると、この表を手がかりに思いをめぐらすことができた。

 牧野さんは、奄美のなかから語源の難しい小字名約5000枚をカードに書き、それを五十音順に整理。沖縄の地名についても同様の作業を行い、それをもとに考察している。こんな膨大な作業の恩恵を受けて、ぼくたちも考えることができるのだ。徳之島出身の牧野さんは、奄美出身者として沖縄の地名研究とのつなぎがないのに気づき、この作業を行っている。問題意識も共通しているのだから、感謝も一入というものだ。

 ◇◇◇

 やれやれ、2007年は地名に夢中だったと書こうとしたら、この長さ。オタクのオタクたる所以だろうか。笑い飛ばしください。



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