大島に行く時は訪ねたいから
島尾敏雄が暮らした奄美大島の県立図書館奄美分館長住宅が解体される方針は変わってないという。
ぼくは大島に住んでいるわけでもないので、わがままな言い方しかできないが、ここで『死の棘』が書かれ、「ヤポネシア」の発想が形になっていった場所である。そう思うと、大島に行く時にはぜひ訪ねたい。だから残っていてほしい。
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島尾敏雄が暮らした奄美大島の県立図書館奄美分館長住宅が解体される方針は変わってないという。
ぼくは大島に住んでいるわけでもないので、わがままな言い方しかできないが、ここで『死の棘』が書かれ、「ヤポネシア」の発想が形になっていった場所である。そう思うと、大島に行く時にはぜひ訪ねたい。だから残っていてほしい。
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島尾敏雄が住んでいた旧分館長住宅が、当面、残されることになった。
県立図書館奄美分館:作家・島尾氏居住の旧分館長住宅「当面、現状のまま」
島尾が10年住んだ住宅。取り壊しの話は聞いていたから、ぼくもほっとする。取り壊しの背景をつぶさには知らないから、意見を持ちにくいのだけれど、保存する選択肢を残したことは嬉しい。
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ぼくはこの作品を観たいと思って、机の上に立てておいた。
けれど、走りっぱなしの日常のなかで機会を逸してきた。
日常の時間の流れをどこかで切らないと入っていけそうになかった。
思い立ったらこんどはマシントラブル。
DVDを観るのはこれが初めてのパソコンで、
起動するのに格闘、数時間。やっと鑑賞できた。
アンマー(母さん)という島尾ミホの第一声を聞いたときは、
もう作品世界のなかにいる、そんな惹き込む力があった。
島尾ミホが島尾ミホを演じるという難しいテーマのなか、
島尾ミホが発したのは、十代の頃に母を亡くしたつらさだった。
次に、「ミホ、あなたは神戸に行かなければなりません」
という敏雄との生活を促す父の決意の言葉。
そして、マヤさんのこと。
島尾ミホにしかできない、
島尾ミホにしか言えない、言葉たち。
ぼくは、初めて聞く島尾ミホの声が、
可愛らしい幼さを残しているのに驚いた。
美しい老婆から発せられるのは、まるで乙女の声だった。
舞台となる部屋は薄暗く、外は長雨が降りしきり、
それが返って懐かしく、強く奄美を感じる。
思えば、ぼくは生前の島尾ミホとマヤを観ていることになる。
これはお二人の置き土産かもしれないと思った。
エンドロールには、
TOCИO CИMAO (島尾敏雄)
MИХO CИMAO (島尾ミホ)
MAЙЯ CИMAO (島尾マヤ)
とロシア語で文字が流れるのだけれど、
それがとても似合っていた。
作品の日本公開は2001年とあるが、
映像には、1999年とクレジットされていた。
1999年といえば、批評家、江藤淳が逝った年。
考えてみたら、今日は彼の命日だ。
大切な人たちは泉下にある。
そして、明日は父の三十日。
手を合わせよう。
(※「ドルチェ - 優しく」)
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詩人と作家と監督の対話。
それが、『ドルチェ - 優しく』の骨格だ。
奄美・沖縄を理解する詩人が、
ロシアの映画監督との縁を感じ、
それを頼りに奄美の作家と引き合わせ、
そこに、作品が生まれた。
出逢いは予感と潜在的なもののなかに織り込まれていました。
ソクーロフ作品へ導いてくれた
言語哲学の前田英樹氏の思考と同伴するようにして、
『オリエンタル・エレジー』の雲間に光る月の印象的なシーンを見たとき、
アレクサンドル・ネフスキーの『月と不死』の一場面と頁が浮上していた。
ネフスキーは柳田國男との親交もあり、
初期の日本民俗研究に足跡を残したロシアの言語学者だが
「おしらさま」研究とは別に、
宮古が彼のフィールドワークの拠点でした。
ネフスキーはソ連時代に粛清にあって
銃殺されてしまう悲劇の天才肌の学者ですが、
彼の残したテクスト『月と不死』は宮古島の神話を自らの
言葉によって丁寧に丁寧に綴って残してくれた、
稀有の書物です。
そのネフスキーはソクローフさんと同じくペテルブルクの出身で、
ロシア-日本の南というこれまで考えられたことのない
道筋が辿れるという確認が私の中に生じていました。
それが機縁となり昨年友らとともに宮古島におつれして、
その過程で、日本の南島文化に本質的にかかわった
島尾敏雄・ミホさんの世界とソクローフさんの世界との
更なる出会いが生まれていたのでした。
ミホさんは島尾敏雄夫人であったとともに、
名作『海辺の生と死』、『祭り裏』に代表される南の地の宇宙は、
これからさらに深く理解されることになるでしょう重要な作家です。
ソクーロフさんとミホさんはまったく違う世界の住人ですが、
おそらく「文学」をとおして、
回転扉が回るように両者はつながる筈です。
不思議な結びつきのように見えて、
本質的にどこかで相通じるものがあるのではないかと、
介添えでありメディアでもある私は考えていました。
こうして織りなされた複数の予感から、
この映画『ドルチェ』の制作ははじまりました。
この、詩人の丁寧な紹介が作品の入口に導いてくれる。
○ ○ ○
監督ソクーロフは、作家島尾ミホに、
他でもない本人の、島尾ミホを「演じる」ことを要請する。
それが、「フィクションとノンフィクションをこえる」
方法として採られたものだ。
島尾ミホはこの難題によく応えただろうか。
その結果は、「採録台本」として読むことができるが、
本当のところ、映画を観ないと分らない。
けれど、よく応えたのだろうと、ぼくは思う。
島尾ミホは、島尾ミホを演じるというか、再現することなら、
小説世界で見事に実現しているからだ。
ここには、「柴挿祭り」、「短歌との縁由」、「日日の移ろいの中で」
という島尾ミホの作品が収められている。
部屋の中は聞えるともないさわやかな賑わいに満ち、
えもいえぬ薫香の薫りがかすかに漂っています。
それは母が父と私の着物も丹念に染みこませた木の実の
それかもしれませんが、
私にはコーソガナシの衣装から匂い立つ
ネリヤの国からのもののように思えました。
心が浮き立ってきた私は、
急に踊りだしたくなりました。
キューヌホコラシャヤ
イツムユリ マサリ
イツム キューヌゴトニ
アラチタボレ
父が驚いて振り向く程大きな声で私は八月踊りの歌を歌い、
からだを前後にゆすって手を叩きました。
ウヤフジガナシ(先祖さま)と共にいるよろこびを、
黙っていては通じないから、
どうにかして自分の気持ちを
その人たちに伝えたいと思ったからでした。
父はやさしいまなざしで黙って見ていました。
幼い私にはむずかしいことはわかりませんでしたが、
心の中では、神も人も、太陽も月も、海も山も、
虫も花も、天地万物すべてが近所隣の人々と
区別つかぬ同じ世界に溶け合っていて、
太陽はティダガナシ(太陽の神)、
月はティッキョガナシ(月の神)、
火はヒニャハンガナシ(火の神)、
ハベラ(蝶)は未だあの世へ行かずに
此の世も留まっている死んだ人のマブリ(霊魂)、
モーレ(海の亡霊)は舟こぼれした人のマブリ、
などとみんな私と日常を共にしている
ごく身近なものばかりでした。
(「柴挿祭り」)
ぼくは作品の圧倒的な現前力の前に、
これは島尾敏雄生前の時期に書かれたものと思ったけれど、
ほぼ十年前の作品と知って驚いた。
島尾ミホの手にかかれば、
戦争期のことも、
まだありありと再現できる現実なのだ。
ぼくは、島尾ミホのノロの家系を感じるとともに、
その母体にある奄美の力を改めて確認する思いだった。
○ ○ ○
詩人、吉増剛造は、奄美について、
奄美大島という島は、古くは道の島といいます。
ここに住んでいる人の心の中にも、
常にどこかへ動いていて揺れている大きな島
という意識が潜在的にあるはずなのです。
と、近代以降の奄美の心性を紹介する。
応えて監督のソクーロフは言う。
奄美大島は、自然が本当に美しいと思う一方で、
私は日本の地方だとは考えなかったのです。
奄美大島の生活というのは、
日本の現代生活そのものです。
現代生活のあらゆる特徴と外見を持っている。
村でさえもそうした大きな都市の生活が持っている
危機感というものがある。
それからいわゆる通信手段というか、
コミュニケーションとか、
そういうものすべてが現代的です。
奄美大島では、何か離島であるということを
少し誇張して語られているように思います。
ソクーロフが目撃したのは、
都市化された日本の部分としての奄美だった。
作家と詩人と監督の描く奄美はどれも奄美だ。
島尾ミホは、奄美の大深度を、
吉増剛造は、奄美の意識を、
ソクーロフは、奄美の都市化を。
それがどのように織り成されているかは、
作品を読めばいい。
ただし、その文体とともに、ゆっくり読むのがいい。
ときに本を閉じて、濱田康作の美しい装丁写真を味わいながら。
都市で読むなら、外界の時間の流れを絶って。
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1960年代生まれの、与論島出身という立場からみると、
島尾ミホの『海辺の生と死』は、
異世界のお伽噺のように読める以外に、
まるで親戚の語る話のようにも読めます。
「洗骨」の話もそのひとつです。
小川の中に着物の裾をからげてつかり、
白くふくよかなふくらはぎをみせてうつむきながら
骨を洗っていたひとりの若い娘が、
「おばさんが生きていた頃私はまだ小さくて
よく覚えてないけど、
ずいぶん背の高い人だったらしいのね」
と言いつつ足の骨を自分の脛にあてて
くらべてみせました。
私はそのお骨の人もかつてはこのようにして
先祖の骨を洗ったことでしょうと思うと、
「ユヤティギティギ(世は次ぎ次ぎ)」という言葉が
実感となって胸にひびき、
私もまたいつかはこのようにして小川の水で
骨を洗ってもらうことになるのだと、
子供心にもしみじみと思いました。
(『海辺の生と死』島尾ミホ)
身内を土葬した後、
身体の面影を止めなくなる月日を経て、
掘り起こし、骨を洗い清めて改葬します。
このときの洗骨を、
民俗や好奇としてではなく、
生活のひとこまとして、
その様子や気持ちを深く深く描写してくれたことが、
「洗骨」の章の価値だと思います。
それはもし、
この話がなくて、
南島以外の人に「洗骨」のことを伝えようとしたら、
どんな難しさがあるか考えれば、
よく分かります。
「洗骨」の章では、その日、
改葬した島人は宴を催し、踊ります。
踊りの輪の内側に踊っている
おおぜいの亡き人々の霊魂に向かって、
なお生前の姿を見るかのように、
現し身の人々は親しかったその名を呼びかわし、
話しかけました。
そして「それ、後生の人たちと踊り競べだ、
負けるな、負けるな」と歌い、
暁の明星が輝きだすまで踊り続けるのでした。
もはや生も死もなく。
(『海辺の生と死』島尾ミホ)
生者と死者はずいぶん近くにいたんですね。
たしか今年、わたしの祖父が改葬を迎えます。
やりくりする親戚の苦労を棚上げして言えば、
おととし亡くなった祖母も、
土葬でいずれ洗骨してあげたかった気がします。
「うらちょー、わぬんちゃーやくのうや。
かみちきゅんどーや
(お前たち私を焼かないでおくれよ。噛みつくよ)」
と、生前、冗談のように話していたそうです。
島尾ミホの表現のあとには、
こうしてこわばらずに、改葬のことを書けます。
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島尾ミホさんが亡くなった。
近代奄美最大の文学者の死だった。
島尾ミホさんの『海辺の生と死』を読んだ時、
与論出身者として、誤解を恐れずに言えば、
奄美に、このような教養と表現力が育ったことが
信じられない思いだった。
それは夫である島尾敏雄が育んだ面もあったとしても、
後押しほどのもので、
もともと資質の力が開花したものに思えた。
ここから見れば、島尾敏雄とミホさんの出会いに
運命的なものを見ないわけにいかない。
ミホさんの病態を前にして、敏雄は日記に、
ミホは周囲の人々から大切にされ、
成長期に競争、嫉妬ということを知らずに育ち、
憎悪の訓練がなかった、珍しい性格で、今それを知り、
許すか (?愛するか)憎むかどちらかに決めねばならぬ
ジレンマと混乱に陥っている。
(『「死の棘」日記』島尾敏雄)
と、書く。
一方、ミホさんは、その日記公開の機に、
「発病するまでストレスを感じたことはなく、
幼子のようでした」と、
敏雄に呼応するように述懐している。
無垢な魂が現世に落ちた時、
その「ジレンマと混乱」は、
二人だけの問題に止まらず、
世代をまたぐ重たい課題になったことを
ぼくたちは知っている。
けれどだからといって、
敏雄とミホさんの辿った恋路を
誰が責めることができよう。
ぼくたちは、ただただ、
その運命の行方を追うことだけが
できることのように思える。
島尾敏雄亡き後、
ミホさんは喪服を着る日々だったという。
ここで彼女は、やっと、
夫、敏雄のもとに旅立てたという思いだったかもしれない。
夫のもとに逝ったミホさんを自宅で最初に目にしたのは、
孫の島尾まほさんだった。
ぼくは、ミホさんの死の当日、
まほさんの『まほちゃんの家』を読んで、
島尾敏雄とミホさんの物語が、
孫によって救われているのを感じ、
翌日、それが「小さな手が受けとめる」という言葉になった。
個人的な思いを言えば、
ミホさんが逝った知らせを聞く前に、
まほさんを通じて、
「死の棘」の物語が、
ある救済を得ているのを感じることができて
よかったと思う。
間に合ってよかった。
そう思った。
まほさんは、
作品だけでなく、
実際にも「死の棘」の物語を、
その小さな手で引き取る役割を担うことになった。
願わくば、
逝った姿に最初に向かい合ったことで、
まほさんの魂が痛みませんように。
ミホさんにとっての救いが、
まほさんの力になりますように。
純粋なる関係を信じ続けたミホさん。
奄美に、これ以上にない表現を与えてくれたミホさん。
ミホさんの純粋を受け取ることが、
ミホさんと島尾敏雄の追悼になると信じます。
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島尾ミホさんが他界しました。
ミホさんは、『まほちゃんの家』を読んだでしょうか。
逝く前に、読んでいるといい。
そう願わずにいられません。
お疲れさまでした。
どうぞ安らかにお眠りください。
奄美にミホさんがいてくれて、
ほんとうによかった。
純粋なる関係を追究した、
ミホさんに敬意を表します。
さようなら。
※「近代奄美最大の文学者の死」を書きました。
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しまおまほさんが、『まほちゃんの家』で、
マヤさんのことを書いてくれて、
なんとも救われる気持ちになりました。
ぼくは、2005年の『死の棘日記』で、
マヤさんの他界を知りました。
母のミホさんの言づてだったか、帯にあった解説からだったか、
すぐには思い出せないけれど。
島尾伸三さんの声は、
2004年の『東京~奄美 損なわれた時を求めて』で
聞くことができました。
そこにも、マヤさんのことは触れられています。
ただ、ふたつとも事実をそっと書き添えておくような
言及にとどまっていました。
マヤさんはどのように生きたのだろう。
そのことは、いまは滅多に体験できなくなった、
喉にささる亜熱帯魚の小骨のように
気にかかってきました。
だから、まほさんの『まほちゃんの家』で、
マヤさんの素顔が描かれていて、
とても嬉しくなったのです。
○ ○ ○
幼いわたしが抱いていた、彼女に対する
たまらない愛情はいまでもハッキリと覚えています。
当時のそれは積み重なる感情の下で
時に見失ってしまうようなものとは遠い、
まるで形があるかのように
わたしの身体のなかに存在していました。
マヤさんのことを考えると
わけもなく嬉しくなる、
いまどうしているか気になる、
会うのが待ち遠しい。
マヤさんが茅ヶ崎の家からひとりで我が家へ
やってくる日は、お祭りよりも誕生日よりも
特別な一日でした。
この、恋心のような、
まほさんのマヤさんへの愛情は、
大きなものです。
本当なら感想など書かずに、
そっと胸の中にしまっておくべきことかもしれません。
けれど、『まほちゃんの家』には、
伝えたい想いがあるのを感じるので、
それに添えるなら、
ぼくの感想も許されるのではないかと思えます。
マヤさんが幼いころ、手にやけどをおってしまう。
そのことで、祖母である島尾ミホさんは、
息子の伸三さんを咎めます。
やけどのことだけでなく他のことまで
叱責が及んだところで、
祖父であり伸三さんの父である島尾敏雄は、
「ミホ、もうおよしよ」とつぶやく。
そんな場面。
父はいつものように目をつむって石になり、
母は「ハイ」と話を聞く。
マヤさんはそれを少し離れてみている。
本当に本当にどうしようもなく途方もない時間に、
わたしはやけどの痛みを忘れて泣きました。
こう、まほさんは書きます。
不謹慎な連想に違いないのですが、
ここに、約三十年後の「死の棘」の物語を
見てしまいます。
数十年経った場面では、
そこにいるのは、父母と息子娘の四人だけではない。
もうひとり、孫がいたのでした。
孫も「死の棘」の物語の流れのなかに
いやおうなく立ち会ってしまいそうです。
ところが、すぐ後に、
まほさんはこう書きます。
廊下で祖父が祖母を抱きしめて、
祖母が心の底から嬉しそうに笑います。
わたしも真似てマヤさんを抱きしめて、
マヤさんも嬉しそうに抱き返す。
そんな時間は、父も母もいあにほうが
なんとなくやりやすかった。
まほさんは、
やはり否応なく「死の棘」に続く場面に立ち会ってます。
けれど、そうには違いないのですが、
ただ巻き込まれるように立ち会うのではなく、
まほさんは彼女にしかできないやり方で事態に向き合い、
そして時満ちて今、書いてくれているのではないでしょうか。
島尾隊長とミホを髣髴とさせる場面があり、
それを孫は見、そこからよきものを受けとり、
ミホさんを抱きしめ、ミホさんに抱きしめ返される。
まほさんは、ここでミホさんを癒すというだけではない。
それを読む、『死の棘』の読者をも癒すことでしょう。
ぼくたちは、物語がここまで進むのに、
世代をまたぐ必要があることに大きくうなずくでしょう。
そして物語を救うのが、
大人の大きな手ではなく、
弱々しいまだ未熟な、小さな手であることにも。
○ ○ ○
マヤさんのことだけが、
『まほちゃんの家』のモチーフではないのだけれど、
まほさん自身も、マヤさんのことが気がかりだったと
あとがきに書いています。
マヤさんがいなくなって、
目の前の景色が変わったような気がしていた。
優しくて、綺麗で、宝物だったマヤさんへの
気持ちや思い出を、自分の中だけにしまっておくのは
息苦しいしもったいない気がしていました。
こう書くのなら、
ぼくたちはまほさんにお礼を言いたくなります。
よく書いてくれました、と。
おかげで、マヤさんのことを受けとめる
手がかりを持てました。
それは、ありがたく貴重なものです。
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失われた時を求めて、ではない。
損なわれた時を求めて、だ。
島尾伸三は、両親とともに引っ越した足跡を辿って、
東京から奄美大島へ向かって旅している。
何のために?
「やさしかったおかあさんを捜し求めて」。
本当は母親のことが大好きだった。
そのことを自分に認めるために。
少年の頃の自己や家族を反芻することで癒されるために。
たぶん、それが切実だった。
それが損なわれた時を快復する術だった。
島尾は旅日記をつづる。
ぼくたちは、その現実と夢の間を彷徨うような文体に誘われながら、
ぼくたちもまた夢とも現とも分らないような感覚に囚われてゆく。
それがこの作品の入り口なのだというように。
この感覚の中に入ってゆくと、
まるで島尾の口調がよく聞こえるような時もあった。
たとえば、「何のために生きてきたのでしょうか。」という一節。
こんな一節にも出会う。学校の禁止映画の映画館。
そこは、けっして清々しい場所などではなく、
流れることを忘れた湿った空気が、ずうっと
澱んだままで、瓦や軒や板壁やあらゆる隙間
に、埃と黴と苔と体臭と黴菌と、ネズミ、ゴ
キブリ、アリ、ダニ、すでに過去のものとな
ったはずのシラミ、ノミ、南京虫が、足下か
ら這い上がってくる気持ち悪さに満ちていて、
そこでは良からぬ生業や、表沙汰にならない
事件が息づいていて、健康と優しさを食い物
にする理不尽がその社会の主体となっている
ような悲しみと不幸の巣のようなところなの
にです。おとなの世界に足を踏み入れた気に
なっていたのでしょうか。それとも、悪者ぶ
ってみたかったのでしょうか。
島尾は、脚注でこうした書き方を、
「憂鬱になるような嫌がらせの作文」と自ら評して
「ごめんなさい」としている。
けれど、この文章は嫌なものでは決してない。
むしろ、全てが澱んだ空間に感受性の触手を充分に
張り巡らせているおかげで、島尾の感性の型の必然に
触れることができるように思えた。
つげ義春の作品にも似て、
そこに安息さえ感じられるのだ。
@ @ @
ただ、それはいつも言い知れない寂寥さと背中合わせだ。
ここには、島尾の写真も収められているのだが、
写真の視点の置き方が、
風景を納めるような場所からというより、
写したい場からもう一歩引いて、
その世界に属さない疎外されたポイントに視点を置いている。
あるいは、目線が合うのを避けたり、
相手が気づかない場所に視点を置いたり。
それはまるで、成仏できない死者の視線のようですらある。
空も、天気はいつもそうと言うように、
決まって曇だ。
そんな視点が切なく迫ってくる。
@ @ @
でも、奄美の空のように明るく突き抜けるシーンも無いわけではない。
親戚の女性に、子ども二人、預けられたときがそうだ。
その時は、「若すぎる美少女をおかあさんにした幸せな小学一年生」と言う。
もうひとつは、奄美の自然を紹介するとき、
身を乗り出すように、
「奄美の自然を自慢したいのは、私だけではありません」
と切り出している。
ぼくたちは、こんな風にほんの束の間、ほっとする瞬間を見ながら、
島尾の旅路が奄美につくまで付き合うだろう。旅は道連れ。
@ @ @
ところで島尾の旅はその目的を果たすことができただろうか。
母が大好きだったことを認める旅は。
満月が大好きだったのか、満月を見ると触発されるのか、
いつだって満月に向かって母は歌を唄いだします。それ
は縁側の柱につかまったり、銭湯の帰り道で夜空を見上
げ、子どもが側にいることを忘れたかのように、泣いた
り、ため息を混じえながら、「感無量」と彼女はよく言
いましたが、そんな感じに彼女はすぐに溺れるのです。
子どもにしてみれば、毎度ながらも母の喜怒哀楽の激し
さには驚きやら少し恥かしいやらなのですが。彼女は、
南の国の海の向こうへ行ってしまった自分の母親の魂が
よほど懐かしいのだということが、切々と伝わってきて、
自分までそんな感慨に引きずり込まれることが嫌でした。
自他の区別がつかないほど濃密な関係世界を生きた
母の見せる感応性の高い表情と、
それに共感しながら戸惑い、立ち止る息子と。
旅はおあつらえむきなエンディングを用意するよりは、
島尾の日常の感覚を反復するに留まったようにも見える。
でも、それは旅がなくても同じだったというのではない。
それというのも、島尾の資質に届いた言葉が、
読むぼくたちを癒すように届くからだ。
それは島尾伸三が奄美行きのなかで受け取ったものに違いない。
追記
この本は、『東京~奄美 損なわれた時を求めて』だ。
2004年、河出書房新社から出ている。
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