カテゴリー「 8.島尾さんの作品」の28件の記事

2017/02/18

「ふたりの「狂うひと」-島尾敏雄とミホの闘い」(瀬戸内寂聴 梯久美子)

 一方は言いたいことを言い、他方は言われたいように言われている。無惨という思いを禁じ得ない。島尾敏雄とミホがそうなのではない。対談者の二人のことだ。

 ここでは島尾ミホは、魅力的だが不気味な存在として捉えられている。

梯 初対面の第一声が「あなた、ゆうべ私の夢に出てきましたよ」だったんです。「夢で見たお顔とおんなじ」って。本当だったのか、ある種の自己演出だったのか、今もわかりません。
瀬戸内 自己演出に決まってる。というより自分でそう思いこむんでしょうね。
瀬戸内 (前略)それにしてもあなた、ミホさんのような怖い人のところへ取材に通ったんですから、勇気がありましたね。
梯 ミホさんの書いたものを読んで、もうびっくりしたんですね。『死の棘』で狂乱する妻として描かれているあの人が、こんなにすごい作家だったなんて、と。それでどうしても会ってみたくて。(後略)(「新潮」2017.3)

 こういういい気なやりとりの後にこう続く。

梯 私はミホさんに、もう取材はしないで、書かないでと言われたのに書いてしまったことが心にかかっているんですが、書いてよかったんでしょうか。
瀬戸内 もちろん、よかったのよ。あなたはミホさんが好きで、ミホさんの人物と作品を知ってもらいたいと思って、時間と労力をかけて書いた。喜んでいるに決まってます。それに、あなたのこの本には、これまで世に出ていなかった資料がたくさん出てくるでしょう? これだけのものが集まってきたということ自体、あなたが書いてよかったということなのよ。
(中略)
瀬戸内 「ここで、こんな資料が欲しいな」と思ったら、向こうから来るの。あなたも覚えがあるでしょう?
梯 あります、はい。
瀬戸内 それはあなたが本当の書き手になったということなのよ。書かれる相手がどうぞ書いて、と思った時よ。
梯 今回の本は特にそうでした。
瀬戸内 そういう時って、その人の魂が「書いて」って言っている時だと思うの。私ね、やっぱり魂ってあるんじゃないかと思うの。

 呑気なものだ。瀬戸内は、ミホを思いこみの人に追い込みながら、自分も自身の思いこみを語ることになっている。

 梯は、本人に取材を断られながら、息子伸三の許諾に依存してしまったために、「書いてよかったんでしょうか」という問いを抱えざるを得なくなっている。そして聞く相手を間違えている。聞くべき相手は能天気な老作家でもなければ息子伸三でもなく、島尾ミホである。そして、本当に問われるべきことは、得られない許諾のもとに書いたことではない。にもかかわらず、書けていないことなのだ。

 梯は実のところ、敏雄にもミホにも向き合えていない。「二人のことを書いていた時、私も彼らの「狂い」に参加していたのかもしれません」と、梯は話しているが、これも呑気だとしか言いようがない。「狂い」が足りない。


 cf.『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子)


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2017/02/04

島尾敏雄の「琉球弧」 8.サンゴ礁の子

 奄美大島を離れ、本土の冬の風に堪えた島尾が、「越冬」中の那覇で魅入られたのは、「「女踊り」の身のこなしと、座喜味城址のたたずまい」(「那覇からの便り」)だった。

 島尾は、親しんだ「沖縄芝居」のなかで「琉球舞踊」に惹かれ、そのなかでも「女踊り」にひときわ強い印象を受けるのだが、文章に尽くすところまでは至らなかったようだった。ただ、「単純化された様式の美しさには、沖縄の人々の心の一面を表し得たあやしい到達」(同前)を感じずにいられなかったし、「同じものが演じられ方によっていろいろのかたちに見えてきて厭きない」のだった。わたしたちは、島尾がここで感じていたことを正確に写し取ることはできないが、たとえばそれは、蝶が蛹から羽化するところを何度見ても飽きないのに似ているのかもしれない。

 奄美大島では「芸術的な表現の造型や記録に対するすさまじいほどの恬淡(てんたん)」さに驚き、文学的な表現がないことを嘆いてもいた島尾だった。しかここでは「文学をなお「うたい」「おどる」はたらきの魅惑の腕の中から解き放そうとはしないふしぎの力をまだ失うことはないように思える」(「那覇からの便り」)と、少なくとも、「芸能」こそが琉球弧の表現であると納得するに至ったのは確かだった。

 島尾は「女踊り」に比べて「座喜味城址」については饒舌だ。「珊瑚石灰岩」の拱門(きょうもん)(アーチ型の門)を入ると「不思議な空間」が待っている。

 そこに足を踏み入れた者に訪れる永遠の感覚のようなものの、時の流れがふと立ち消えてしまったような体験は、或いは南島の時空の根のようなものの表現なのかもしれない。そこでは広ささえ確かさを失い、わずかに今くぐりはいったばかりの拱門と次なる上の広場に抜け出るための拱門が対応を示しつつ、その外側に世間の時が流れているという思いに襲われることから免れない。その空間のぐるりを取り巻く城壁のかたちのおおらかなすがた。均整のとれた直線とか左右対称などというせせこましさを飛翔して、童画さながらに奔放に伸び、曲りくねって一つの空間を囲繞している自由さは、この世のものと思えないほどだ。(「那覇日記」)

 わたしは思わず、ここに描かれているものについて口をはさみたくなるが、その前に、島尾はもう少し「座喜味城址」について書いている。城址の頂の「地勢に逆らわずに伸びている」格好が、「蛇の気ままな蛇行のすがた」のようでもあり、かと思うと「時にユーモラスな破調をも示す余裕」もある。彼はそこに「言うに言えぬ自由で快い韻律」を感じる。しかも、島尾それを「女踊り」の「接近と断念という主題の濃密な繰り返し」(「那覇からの便り」)と「根は同じ」だと見なしている。

 「女踊り」ばかりではない。「沖縄芝居」にも「歌謡」にも「沖縄の人々の発想や挙措」にも、「根が一つ」と感じさせるものがある。「攻防の構えを欠落させた部類の城」(「那覇からの便り」)である座喜味城と、沖縄の芸能の「生真面目な追求の中に、いきなり破調を突出させる」型には「同質の感動」があると、島尾は言う。

 島尾はこの「沖縄の韻律」について、「とても解き明かす力は無いが」と断りつつ、「予感」として「沖縄がいわば「小国寡民」の経験を深くかさねてきたからではないだろうか」(「那覇に仮寓して」)と書いている。島尾は、ここで王朝の記憶に引きずられているところはあるが、「小国寡民」の言葉遣いに躓かなければ、核心を捉えているのではないだろうか。

 島尾が芸能にも城址にも感じた韻律を、「根が一つ」のものとして捉えるには、その根底にまで降りてゆかなければならない。そうして思い当たるのは、曲線と破調の繰り返しというリズムには、「世(ゆ)替わり」によっても絶えず、時間が一方向に進むことにあらがい反復させようとする琉球弧の野生の思考が顔を出しているのではないかということだ。

 たとえば、米軍統治から日本へ復帰したことを、琉球弧では「アメリカ世」から「大和世」へという言い方をする。これが「世替わり」だ。それは転換時には違いないが、「アマン世」、「クバの葉世」などと呼ばれる狩猟採集の時代までさかのぼれば、「世替わり」は、神話を更新せざるをえなくなるほど世界の構成が変わってしまったときを指していた。それはまさに、島尾が言うように「破調」と呼ぶべき事態だ。

 また、これを時間に対する捉え方からみれば、今日のように明日もあるという繰り返しの感じ方が強かったのが、一方向に進むという感覚が力を増していくのが「世替わり」だった。そして現在では、それがふつうの時間感覚になっている。

 ところが、それにもかかわらず、時間を繰り返しであり反復であるように捉えようとする志向性を、祭儀のなかに残してきたのが琉球弧だった(喜山荘一『珊瑚礁の思考』)。

 反復する時間のことを島尾は、「座喜味城址」のこととして、「永遠の感覚」、「時の流れがふと立ち消えてしまったような体験」と書いていた。そして、その空間の醸す空気を、「この世のものとは思えないほどだ」と言い表していた。これは島尾が、永遠の現在とも言うべき反復する時間性を建築のなかに見出していたことを意味している。

 島尾は「座喜味城址」に感じるものを、那覇のコンクリートの家にも、那覇の町にも感じた。そして那覇の「ラビリンス」については、その成り立ちを推し測っている。

即ち平らな土地がはじめから展開していたのではなく、海水に囲まれた幾つかの島や岩礁が、その固有のかたちを残したまま継ぎはぎされて、今の市街地をかたちづくったと思えるからである。(「安里川遡行」)

 島尾は解き明かさないまでも、いや解き明かしていることに気づいていないだけのところまで歩みを進めていた。島尾は、韻律に「世替わり」という破調と、反復する時間を失わない身体性を感じ、そして空間にはサンゴ礁を見ていたのだ。

 ところでわたしが思わず口をはさみたくなったのは、島尾の「座喜味城址」の記述が、まるで竜宮城を描いているように見えることだった。こうして島尾の感受を追えば、それはその通りだと言えるのではないだろうか。琉球弧はサンゴ礁のもとで野生の思考を育んできた。島尾は、そうは語らない芸能や造形物のなかに、いわばサンゴ礁の思考を感じとっていたのだ。

 島尾はなぜ、そうすることができたのだろう。

 それはやはり島尾が野生の心を豊かに持っていたからではないだろうか。

 奄美大島にいた頃、二十年あまり前にマニラで食べたパパイヤが忘れられないと話すと、妻のミホはいかにもミホらしく、それまで植えていた野菜を根こそぎにして庭をパパイヤでいっぱいにしてしまう。それで毎日パパイヤにありつくことができるようになるのだが、島尾はそこでこんなことを書くのだ。

 それにしても、私はパパイヤを見るたびに、たとえば、葉が茂って落ちてもそこに妻の手足を感じ、実が充実しても未成熟にとどまってもそこに妻の姿を見、うまいうまいと食べるときには、なんだか妻のからだの一部を食べているような気持ちになってくるのは、これは一体どういうことだろうか。(「庭植えのパパイヤ」)

 ここでの島尾の心は、もうほとんどミホという母に育てられる乳幼児に退行しているが、この感じ方は、ヤムイモを主食とする太平洋の島人が、それを「祖先の肉」と呼ぶのと同じ心の位相にあると言っていい。島尾はここで、ミホでありパパイヤでもある「祖先」の子として、神話を立ち上げかけているのである。

 しかも島尾の野生の心にはもっと奥行きがあった。

 島尾は島人の陽に焼けた黒い顔に、どういうわけか、「あの潮と陽にさらされて骨のようになった白いウル(樹枝状珊瑚塊のかけら)のような清潔な印象」を持ってしまう人だった(「名瀬だより9周辺の村落」)。そればかりではない。彼は、「白くさらされた珊瑚虫骨片の堆積を白昼の砂浜で目にするたびに、私はどうしても人間の骨を連想しないではおれない」(「奄美の墓のかたち」)のだ。島人にはサンゴを感じ、サンゴには骨を感じる。そして骨を連想してしまうのに、「その中に融和したいふしぎななつかしい感情の起きてくるのが防げない」(同前)。骨を感じるそのサンゴに溶け入ろうとしているのである。

 与論島で洗骨後の骨を納める瓶を見たときのことだった。

 (前略)首のくびれたところまで砂中にうずめられた骨瓶が、強い日のひかりにはねかえり、うそのように静かに白くさらされていた。瓶はふたでおおわれていたが、ふと私自身が白骨になって、瓶の外に出、南の太陽に髄のなかまであたためられているのかもしれないような気分になっていた。(「奄美の墓のかたち」)

 洗骨の骨の瓶を通して、自分が骨になってしまう気分になる島尾が、浜辺のサンゴを見て、「私はサンゴ」と言うところまでは、そう隔たりはない。こう感じる島尾が、作家の感性を離れて、これを思想として取り出すことができたら、そこにサンゴ礁を基盤にした琉球弧の野生の思考の世界が広がっているはずだった。

 島に当てられ疎外されたとき、島尾はいじましくも、「しかしたとえ異和を以て迎えられても、島の珊瑚礁を抱きしめてじっとしていたい思いです」(「回帰の想念・ヤポネシア」)と書いた。

 この幻想の仕草は、殻のなかに息を吹きかけるのすら遠慮して、身体で殻を温めてヤドカリが顔を出すのを待つみたいに、サンゴ礁を抱いて島人が心を開くのを待っているように見える。あるいは、島尾自身がサンゴ礁に化そうとしているようにも見える。

 島尾敏雄は琉球弧にとってまれびとにちがいないが、その心は、渚に生まれたサンゴ礁の子というのがふさわしかった。(了)

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2017/02/03

島尾敏雄の「琉球弧」 7.サンゴ礁地帯

 日常の発想すら違うという洞察は、「ヤポネシアの視点」からまっすぐにやってきたものだ。

 結局のところ、被害、加害の視点でつかまえられることではなく、まず必要なことは琉球弧の本来のすがたを、ヤマトの追いかぶさりの目を排除しつつ明らかに立てることである。もちろん大根のところでは立っているのだけれど、それを表現としてはっきりあらわすとのように思う。(「琉球弧に住んで十六年」)

 もともとヤポネシアの発想は、日本列島を「花ざかりの島々」と見る島尾が、太平洋に視線をずらしたときに、そこにも似た島々のあることを見出したところからやってきている。島尾は話している。「南洋の土人」という考え方が出てきがちだがそれは正確ではない。そうではなく、「南太平洋の島々の生活には、それらの島々に適した生活がおこなわれているのであって、そういう意味において、ポリネシア、インドネシア、ヤポネシア、メラネシア、ミクロネシアなどの同じような生活をする島嶼群があるのだと考えたらどうか」(「私の見た奄美」)、と。近代化に血眼になっていた島人はこう言われて、内心反発しただろう。しかし、これは島人が考えている以上の深度から島を掬いあげる言葉だった。

 この視線ずらしが左を向いていたのを右にしてみたという思いつきに留まらないのは、「日本文化の素性を考える時に、あまりに大陸のことを意識しすぎている」(同前)内省を伴うからだ。その証拠に、わたしたちは今でも島尾の指摘にはっとさせられるのではないだろうか。

 興味深いことに島尾は、「ヤポネシア」という概念を初めて公表した直後に、奄美大島について、「実は大陸からうつしかぶせられたうろこの最も少ない場所ではなかろうかという考えがはっきりしてきたときに、私をしばりつけてはなさぬ意思を、この島の中に感じた」(「ふるさとを語る」)と書いている。ただ、視線をずらしてみただけではない。そこには、大陸の影響が薄いのではないかという考えが伴っていた。

 これは、中国の影響が造形物にも見られる沖縄ではないから言えたのではないかと思われるかもしれない。しかし、島尾は戦中の加計呂麻島で、古老が「中国との合併」を「親もとにもどるような具合に情愛をこめて」(「名瀬だより10民間信仰」)話すのを聞いている。中国との関わりがあったのを知らないわけではない。けれどもおそらく島尾は、「仏教も儒教もこの島を覆うことはできなかった」(「名瀬だより1名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」)という、より古層へと目を向けていたのだ。

 太平洋の島々の延長に日本列島を見出したヤポネシアの発想は、大陸からの影響が少ないと考えられた琉球弧の存在に促されている。しかしここまでくると、このことの他にももうひとつ、ヤポネシアの発想を促したものがあることが見えてくる。

 それは、琉球弧が「珊瑚礁地帯」(同前)であることだ。

 つまり、島尾がヤポネシアを発想したのは、日本列島も太平洋の島々として見ることができるという地理的な位置のことばかりではなかったというとき、大陸の影響度が低いということの他に、琉球弧がサンゴ礁地帯であることが、もうひとつの媒介になって、日本列島を太平洋の島々に連ねてみる視点は獲得されたのだ。この、「本土をはみ出す」(「ふるさとを語る」)琉球弧の要素を梃に、島尾は琉球弧の北に延びる島々を含めて、日本列島を太平洋の島々につなげているのである。

 島尾はここで、「珊瑚礁地帯」であることより、大陸からの影響が少なかったことを、島が「私をしばりつけてはなさぬ意思」として力点を置いているが、島尾敏雄が解き明かした琉球弧を追うには、「珊瑚礁地帯」として見ていたことの方へ目を向けてみなければならない。

 振り返ってみれば、旅人が入り込もうとすると閉じてしまう「部落」のことを、島尾は「一個の珊瑚石灰岩」にたとえていた。また、奄美大島には「廃墟」が何もないと嘆くのを思い留まるように、地表を覆うサンゴ岩を「巨大な廃墟」として見てもいた。島尾の琉球弧には、いつもこのサンゴ礁の島という視線が伏流していたのだ。

 島尾は「琉球弧」と「ヤポネシア」の概念を打ち出す前に、すでにこう書いていた。

 アマミが、それぞれの島によって多少の変化を示しながら、一般に珊瑚礁と石灰岩の溶蝕地形の景観を背景にしていることは、ガジマルとアダンとソテツの植物群から受ける感受と共に、古い島の人々の精神の世界を限定してきたと思えるが、それは月光の下で一層高い香りを放ちながら、風格のある人間のタイプをつくってきたと考えないわけにいかない。(「悲しき南島地帯」)

 奄美大島に移り住んで四年ほどが経ったとき、島尾はすでに捉えるべきものを正確に見据えていたのだ。実はこれを奄美大島で洞察するのは難しいはずだった。なぜなら、琉球弧は、北へいくほどサンゴ礁の島らしい景観は希薄になるからだ。しかし、彼は奄美大島を例外としては見てない。

(前略)私の住んでいる島がたとえ本土に似たけわしい山々が重なりあっていようと、私の胸中に拡がり納まっている島のイメージは、快いたるみでふくらんだ低い丘の外には目をさえぎるもののない、波がそこのところで白く裏返る裾礁を持った珊瑚礁の島だ。(「島の中と外」)

 島尾の目に琉球弧はサンゴ礁の島々として映った。そのときの島は、「せまい小さな孤島ではなくて、なにかいいあらわすことのできない広さとして」(「与論島のモチーフ」)捉えられることになった。月夜の与論島で、島尾は「浜辺の砂丘と海原との区別を失い、どこまでも目のさえぎるもののない、大地のつらなりのなかにいるような錯覚からぬけだせなかった」(「季節通信」)。サンゴ礁を媒介にして陸地としての島の境界は溶けるのだ。

 実際、島の境界はサンゴ礁を区切りにして表すのがいい。そうしてみれば、たとえば宮古群島は、宮古島、池間島、伊良部島、来間島、そして広くみれば大神島までがひとかたまりの島として見えてくるだろう。八重山にしても、石垣島と西表島という大きな島のあいだに小さな島があるのではなく、石垣と西表を両極にしたひとかたまりの島として浮かび上がってくる。島の世界はそう捉えると、よく見えてくることがあるのだ。

 しかし、沖縄や先島を旅した後には、与論島で捉えた「広さ」はもっと拡張されることになった。

 島のかたちの小ささは押さえたつもりでいても、感覚的には海と空との境界の不分明な広がりを沖縄は持っていて、ひとつの限られた場所に追いつめることのできない広い世界につながっているところがある。(「琉球弧の吸引的魅力」)

 サンゴ礁の島とは、サンゴ礁を通じて海と空ともつながり、溶けあった世界なのだ。

 日常の発想さえちがうと言うとき、その基盤にサンゴ礁がある。わたしはここで島尾の言葉を引き取る。するとそれは語り出す。幻想の足場はサンゴ礁にある。島人よ、そこに立て。そこから立ち上るものによって言葉を生み出し、語りを編み直せ、と。

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2017/02/02

島尾敏雄の「琉球弧」 6.日常の発想さえちがう

 島尾敏雄の琉球弧はどこまでたどり着いていたのか。「総合的な報告」に挫折した島尾に代わって、わたしたちはそれを探ってみよう。

 島尾は「ただ通りすがりにまなざしをかわし合っただけの人々でさえ、どうしてみんなあのように人なつこく、あるやさしさをたたえることができたのか」(「沖縄・先島の旅」)というところに「南島理解の鍵」(同前)を見出す人だった。そこには本土の人の「表情に乏しい硬さ」(「多くの可能性を秘めた島々」)、「こわばりついた仮面」(「名瀬だより1名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」)がない。と、ここまでは今でも本土の人が無意識に惹かれることと同じだと言えるかもしれない。

 しかし、それを「武士」が育たなかったことと関連づけたのは島尾の着眼だった。その視線は女性にも向けられて、彼は本土風の「しな」を見ることができないことに気づいている。「琉球弧では和服を狩猟民が着物をまとうように闊達に着ている」(「私の中の琉球弧」)という指摘にいたっては、これは島人でも言われなければ分からない洞察だった。

 島尾の気づきは多岐に渡っている。墓には「本土のそれのようなじめじめした暗さがあまり感じられない」(「奄美の墓のかたち」)。「五代ほど前の先祖たちでさえなお昨日の人のような具体性を備えているかのよう」(「名瀬だより2その気候」)に語られる。生者と変わらないのだ。また、薩摩藩時代に「隷属的な身分」である「ヤンチュ」が生み出されたとしても、「本土におけるような差別的ないわゆる「部落」を見つけることはできない」(「名瀬だより7災厄―台風とハブと癩と」)ことにも気づいていた。

 ただ、島に「暗さ」がないわけではない。

 島尾は昭和のはじめまで、「らい者だけが集団をなし、部落から遠くはなれ村人が誰もこないような一般にヒジャといわれる海辺の場所で、ユナギの下にあばらやをつくり、一種の共同生活をしていた事実がある」(同前)と指摘している。その暗さを最も象徴しているのは島尾が注で紹介している挿話だ。

 「肌の美しい女」がいた。女は大和人の行商人と一緒になり、四人の男の子を生む。しかし自分が癩になったのを知って、集落から離れたヒジャに移り親子六人の孤立した生活を送る。そのうえ、大和人の夫はヒジャの掘立小屋で死んでしまう。女は、小屋の周囲で芋と野菜をつくる他、ひとりで物乞いをして子供たちを育て、上の二人をやっと就職させるところまでこぎつけた。けれどある夜、女は末の子の首に縄をつけて殺してしまう。三男が逃げた先の親戚の知らせで女は駐在に呼ばれ、「やぶれ衣のまま庭先にじかに坐って調書をとられた」。泣く泣く調書に答え、いったん帰宅を許された夜、女は「小屋の横のユナギに首をくくって死んだ」。

 悲惨で痛ましい出来事と言うしかない。ヒジャは海辺でも砂浜ではなく、岩場の多いところに付けられた地名であり、ユナギ(オオハマボウ)の葉は島ではトイレットペーパーだったのだから、女が首をくくったのは厠の横だったことになる。そういう絵を加えれば悲惨さはさらに増すだろう。

 それでも、この挿話がそれだけに収まらないのは、琉球弧の神話的な思考ではユナギは世のはじめからあった聖なる植物であり、海辺も人がそこから生まれると考えられた聖なる場だからである。ヒジャのユナギの下から人間が出てきたという創生神話があっても不思議ではないのだ。この挿話はそういう神話的な装いを帯びるところがある。これは民話や伝承ではなく、郷土研究会を立ち上げ運営しながら、寄稿することもなく世話役に徹した島尾が記録した数少ないエピソードなのだが、島尾は知らず知らずのうちに彼がつかみたいと思っていることに近づいていた。

 話しを戻そう。

 本土と琉球弧の差異を的確に指示した島尾だが、ひるがえって琉球弧を均質に見ていたのではなかった。「おおまかにいって南に行くに従って琉球度(仮にそのようなものを想定して)が濃くなると考えていいが」「むしろ奄美にそれの濃い部分があるのも確かめることができた」(「奄美・沖縄・本土」)と、はじめての沖縄の旅のすぐ後には島々の差異にも気づいている。

 わたしは奄美には「風土や人々の風貌と気質」以外に、人間の作った文物の手がかりがないことも、島尾の「総合的な報告」を挫折に追い込んだ一因と見なしたが、島尾が奄美に何も見出せなかったわけではなかった。

 島尾は奄美大島の島人の「芸術的な表現の造型や記録に対するすさまじいほどの恬淡(てんたん)」さに驚いている。しかしそれを欠如として見るだけではなく、「奄美のこころでありからだ」(「大島のふしぎ」)として「しまうた」を見出している。ただ、あれだけの「しまうた」がありながら「文学的表現が成立しないのは不思議」(「文学果つるところ」)というように、残念がってもいる。ここで島尾は、芸術的な表現や記録の欠如に嘆くだけではなく、しまうたや「大島紬の製作工程」(「大島のふしぎ」)への着眼の向こうに、文字を持たない思考を「有」あるいは「過剰」として見出せばよかったのだ。

 ただし、島尾はそこにも気づかないわけではなかった。

 まだ「琉球弧」という概念を編み出す前に、彼は「アマミの生活の基本的なさびしさは一個の廃墟(中略)を持たないことのような気がする」、と直感する。ここでいう「廃墟」とは、人間が作った文物のことであり、島尾の言い方ではそれは「人間くさい造形物」(「奄美―日本の南島)とも言えた。

(前略)アマミの島々を構成する地質が微小動物の殻や珊瑚虫の骨格の集合であり、島ぐるみ巨大な構造物の廃墟だとすれば、アマミは一個の廃墟ももたないと断言したことは取り消さなければなるまい。むしろ巨大な廃墟の中で、現になお現実の生活を展開しているアマミの人々の生活というものは、その言い知れぬ魅力をそのへんの事情に根ざしているのかもしれない。(「悲しき南島地帯」)

 何もないわけではないという点については、その後の考古学的成果を知らないという時代的な制約はある。また、こういう島尾が、老女の手にはまだ見ることができただろう刺青に目を留めなかったのは不思議に思える。しかしここで島人の生活が巨大なサンゴの上に営まれていることに着目したところは、明らかに「琉球弧の姿を明らかにする」ことへ手をかけていた。

 そののち、島尾は沖縄への旅で得たものを手がかりにしながら、「沖縄の土地がらが持つ、亜熱帯と隆起珊瑚礁地帯の性格が、人々の発想や挙措にまでしみこんでいて、そこのところは必ずしも本土の昔に重なるわけではない」(「沖縄紀行」)ところまで洞察を深めていった。そしてそれは、奄美大島を離れて三年後、一九七八年に語った、「日常の発想さえ本土の人とはちがうんじゃないか」(「琉球弧の感受」)という言葉に結実している。

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2017/02/01

島尾敏雄の「琉球弧」 5.逆向きの生

 奄美大島に移住する直前に書いたのが「加計呂麻島」(一九五五年)という文章だった島尾は、符合させるように、奄美大島での最後の文章を「加計呂麻島吞之浦」(一九七五年)と題する。

 島尾はそこで、「私は加計呂麻島にこそ住むべきであったかもしれぬ」と書いている。これはある意味でその通りだった。たどり着くのに時間がかかるという意味では、加計呂麻島は今でも離島らしさを失っておらず、野生の衰退と近代化の波は、北琉球弧最大の都市である名瀬に比べたらはるかにゆるやかにやって来ただろうから。しかしそれと同じ理由で、加計呂麻島では、島により強く当てられて疎外感もいっそう強まるのだとしたら、旅人の視線を立ち上げられなくなるのは同じだったかもしれない。それに、生はおいそれと選べるようにはできていない。

 島に当てられることについて、島尾はこんな風に説明したことがあった。

 島人は、「島の外から来た人をものすごく大事にする」(「回帰の想念・ヤポネシア」)から、「竜宮に行って来たような感じ」(同前)を本土の人は持つ。これは日本の型でもあるが、島ではそれが非常に強い。けれど、その気になって再訪してみると、「そっぽを向かれてしまった」ということもありうる。島には「島の外から来る者を受け入れないところも同時にある」。「まれ人を歓迎することは嘘じゃないんだけれども、その後も長くずっと引き続いて、とういうわけにはいかない」のだ。

 これはそのまま島尾の体験でもあった。島尾は、敗戦に至る十か月余りを加計呂麻島で、奄美復帰の直後からの二十年近くを名瀬で過ごしたが、加計呂麻島は「竜宮」であり、名瀬に再訪するものの、そこは「竜宮」を閉じた島になっていた。島尾自身、「ずっと短かった加計呂麻での体験の方がむしろ底深く圧倒的である」(「加計呂麻島吞之浦」)としているくらいだ。

 島尾は「古事記」一冊を持って加計呂麻島を訪れた。すると、島は「古事記」さながらに「太古の霧にとざされているふう」(「名瀬だより10民間信仰」)だった。「歴史の透明な場所」にやってきた島尾には、「身近の時代を素通りしてスサノオやヤマトタケルと同じ感情で当分のあいだ生活することが可能なよろこびがあった」(同前)。 

 しかも島尾は特攻隊の隊長なのだから、「まれ人」のなかのまれびととして、半身に野生を残した加計呂麻の島人から大いに歓迎されただろうことは想像に難くない。なかでも、島尾に応えたのは、巨大な野生の感性を抱えながら、万葉集を踏まえて歌を詠むこともできる、ちょっと当時の島では考えられない知識を持ったミホだった。スサノオ気分を満たしてくれるミホと、自分の知識と感性をぶつけても応答する力量を持った敏雄のふたりが出会ったのである。これだけの条件でも、ふたりの恋愛が神話的なベールをまとわせることになるのは想像するまでもない。まるで用意された舞台のようではないか。

 しかし神話の英雄気取りは、突然訪れる敗戦で断絶し、後にはどこまでも続く日常が待っていた。そして結婚した二人は、よく知られているような過酷な生活を送ることになる。その最大の犠牲者は彼らの子供たちだったろう。

 そこからみれば、島尾のスサノオ気取りはいい気なものだったと言えばいえる。

 けれども忘れるべきではない。島尾隊は、八月十三日にポンコツな魚雷艇震洋で敵艦に体当たりする出撃命令を受ける。そのうえに、発進の号令のない待機状態のまま、八月十五日を迎えたのだ。

 このことは現在のわたしたちにはとても想像しにくい。だが、死ぬことをうべなった島で「死の出撃」を待ったまま、ふいに中止になったのである。臨死体験というのでもない。死の直前まで強いられて歩んだ人が、こんどは生の方へと歩みを進めなくてはならなかったのだ。それは死に向かって生きるふつうの生とは異なり、いわば逆向きに生に戻らなければならない困難を伴うのではないだろうか。まるで死後のような生を、生きた人として歩かなければならないとでもいうような。

 「自分には不幸が訪れてこないから、とても小説など書ける環境にはない」(「琉球弧から」)と思っていた島尾は、特攻隊という「奇妙なそういう場に置かれ、そして生きて帰って来た」体験は「小説に書ける」と、そう思う。しかし、この「不幸」は島尾が思う以上に「不幸」なのではないだろうか。そうだとしたら、この「逆向きの生」の持つ「不幸」を島尾がもう少し自覚していれば、家族を巻き込んだ、近代作家の倒錯的な「不幸」探しを避けることもできたのではないかという思いが過ぎる。生は思う通り選べるようにはできていないにしても、そこにひとつの可能性を見ておきたい気がする。

 ただ、自覚するかどうかはともかく、この「不幸」は島尾の心に食い込んでいた。島尾の「総合的な報告」が挫折するのは、閉じた「竜宮」に突き当たったことに起因しているが、そこでの停滞と沈潜には、島尾が抱えた生の困難が鈍く脈打っていたのではないだろうか。

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2017/01/31

島尾敏雄の「琉球弧」 4.挫折の背景

 琉球弧の「総合的な報告」を思い立って以降、島尾はほぼ同じ言い方で繰り返し、「奄美についてなにかを書くと、奄美の実体は私の手を逃がれ遠くの方に去って行き、手のとどかぬところのものになってしまう」(「奄美・沖縄の個性の発掘」)と書いている。

 移住する直前には、「ぼくは沖縄に生れなかったことを後悔しているといってもいい」(「「沖縄」の意味するもの」)と吐露し、「いま島々は、しきりに私を呼び、私はふたたびその島々に、渡っていこうとしている」(「加計呂麻島」)と書いた島尾だった。この初発の心は、南の島へ移住する人が口にすることと変わりはなかった。けれど島の内側へ入り込み、島人の目を持とうとすると、島人は旅人の彼を排除してしまう。

 「私はそれをどんなにか自分の手でつかみとってみたい、と思ったことだろう」(「初発のものへの羨望」)。けれどその願いは適えられない。

たとえば島のなかの、どこかの部落にはいって行くと、その入り口に近づいたとたん、そのときまで空間いっぱいに触手をのばしひろげ、呼吸していた島の生活の放散が、つと急速に収縮してかたい一個の珊瑚石灰岩と化してしまう。どうしても開花のただなかに身を沈めて、その揺れをともにすることができない。私がその部落を立ち去ると、私の背後で音もなくそれはその固縛をほどく。(「離れに暮らして」)

 要するに、まっとうに島に当てられたのだ。

 島尾は島の野生に惹かれていた。それを象徴するのは「はだし」だ。

(前略)つい目の前を女が二人はだしで歩いて行く。骨ばった色のくろい足だ。若い方が古くなったスカートを右手でたくしあげるようにしていたので、ひざのところが見えかくれした。オーバーもレインコートもつけず、傘もささず、雨にぬれたまま、別に急ぐでもなく、色目の悪いかかとで、ぬかった道を交互にふみつけていた。その冷えこみを私は自分のあしうらに感じた。或る感動が身内を走り、泥によごれた女たちの素足から目をはずすことができない。(「島の中と外」)

 はだしで歩き雨に濡れるのもお構いなし。島尾は目を奪われるが、しかしそれはもう「町の中では見かけることが少なくなった」(同前)光景でもあった。近代化だ。

 奄美の名瀬に移り住んだ直後に、島尾は「市内バスの少女の車掌が裸足のままで乗っているような風情は(地元の新聞はそのことをみっともないと揶揄したが)もう見たくても見られなくなった」(「名瀬の正月」)とも書いていた。

 そして野生の象徴が「はだし」なら、近代化の象徴は「拡声器」だった。小山のいただきにすえつけられた拡声器からは、「朝な夕な、ときには夜ふけてからも、拡大されたふしぎなにんげんの声がそこからとびでてきて、私の頭の中の上にふりそそぐ」(「不思議な聴取計画」)のだった。島尾は耐えがたく思い、島人の賛同を得て「拡声器撤去の嘆願書」(「名瀬だより4島の中の町の現実」)まで作成して警察署に届けるが「きめ手はなかった」。やがて電灯がつき、島尾はテレビをおそれ便利におびえ、明日におびえた。

 「島が本土と地つづきになる欲望に燃えたって」(「明日のおびえ―わが政治的直言」)、名瀬は「破壊と建設の交錯した騒々しい建設現場のような殺伐な風景」(「九年目の島の春」)と化していく。そしてついに「島のことがわからくなった」(「奄美の島から」)と思わざるを得なくなる。「海の向こうの欠落した日本の方から錆が流れつき、いつのまにか島々にべったり付着してしまっていた」(同前)と書いた一九七一年には、すでに奄美を離れる心の準備はできていたということだ。

 島の共同体が旅人を排除するだけではなかった。島の全体も、島尾が心惹かれ、つかみたいと思う野生を削ぐように進んでいったのだ。

 もっと島尾の生に肉迫していえば、「妻をとおして南島をのぞく」(「沖縄・先島の旅」)方法も採っていたのだから、半身に巨大な野生を抱えた妻のミホを通じて、島の野生を捉えることもできたのかもしれないが、島尾はそうはしなかったように見える。

 風もいけなかった。奄美大島の冬は、気温はさほどでもないのに北風は肌に冷たく、島尾の望む「常夏」を感じさせてくれなかった。

 しかし、「私は奄美のかたち(風土や人々の風貌と気質)を通してしか、ものの感受を生き生きとはたらかせることができなくなりました」(「奄美を手がかりにした気ままな想念」)と、まっとうに島に当てられているものの、そこから「総合的な報告」に至らなかったのは、それこそ「風土や人々の風貌と気質」しか手がかりがなかったことにも依るのかもしれなかった。

 それというのも、沖縄に旅した島尾は、「憂鬱な旅人」ではなく生き生きし出すことが多いのだ。少なくとも、奄美大島のことを書くときとはちがう表情を見せるようになる。そこには望むような暖かな空気があった。それだけはなく、「風土や人々の風貌と気質」から生まれたかたちがあった。名瀬でもしばしば楽しんだ「沖縄芝居」があり、「女踊り」があり「城址」があった。島尾が沖縄で見出したのは、琉球弧を「解きあかす」(「風の怯えと那覇への逃れ」)ための、人間がつくった文物という媒介だった。

 本土に移住してさらに風が堪えるようになった島尾は、那覇での「越冬」を思いつく。この思いつきはすぐに実行に移されて、しばしば冬を那覇で過ごすことになる。こうして書かれることになる一九七八年の「那覇からの便り」は、奄美大島に移住して数年後の一九五七年から連載した「名瀬だより」が深刻な面持ちで書かれているのに対して、島尾にしては軽やかで躍る心が感じられるものだった。

 島尾は那覇の町筋のラビリンスに喜んで紛れ込んでいった。それはあたかも、いつの間にか「あの世」へ入り込んで楽しみふけるおとぎ話の主人公のようだった。

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2017/01/30

島尾敏雄の「琉球弧」 3.奄美への寄与

 島尾は地元紙で、「奄美群島は文学的表現を試みる者にとって」「最も適切な宝箱だ」として、奄美発の小説に丁寧な書評を行い、「群島地帯の文学的表現を期待に満ちたものとして見ている」(「奄美群島を果して文学的に表現し得るか?」)と、エールを送っている。その後も折に触れて書評を書き、去った人へは追悼を寄せた。その視野が本格的だったのは、「琉球弧初の芥川賞受賞作品への言及のなかでの、「琉球弧を表現した近代の文学的成果において、私たちは詩の山之口獏を持つだけではないのか」(「大城立裕氏の芥川受賞の事」)という指摘や、『奄美に生きる日本の古代文化』についての、「金久正の著書ほど奄美の文化の根を正確につかみだしたものを見つけることはできません」(「金久正の事」)という評価が正鵠を射ていることにも示されている。

 しかし、大きな作家だということを知らない島人にとっては、島尾敏雄は何より、図書館の館長さんだったのではないだろうか。そしてこの館長さんはアクティブだった。

 彼が初代館長になった「県立図書館奄美分館」は、名瀬の島人に図書を提供するだけではなく、二百キロの距離に散らばる島々に向けて「巡回貸出」を行った。「図書館は書庫に書物をしまいこんで閲覧者のやってくるのを待ってばかりいないで、町や村のすみずみにまで、船やジープや自転車で書物を持ちこんで、それぞれの家庭に配って行くところまで行かなければならないとさえ考えられています」(「最近の図書館の動向」)と、島尾は書いている。控えめな彼は受け身で書いているが、わたしたちは「巡回貸出文庫」にも、大は小を兼ねるとは見なさない「琉球弧」の思想が息づいているのを感じることができる。

 そればかりではない。島尾は「奄美郷土研究会」を発足させ、例会を開き会報を発行している。「読書会」も開催した。実に、「奄美」で文字を読む、文字を通じて島を考える環境を整えていったのは島尾敏雄だったのだ。
そのうえ「長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」(「奄美―日本の南島」)奄美を、島尾はかばい続けた。

 奄美の島人が口にしにくいことでいえば、「薩摩藩が島々にのぞんだ方策が、どれほどかたよったものであったかは、歴史が明らかにするだろう」(「奄美・沖縄・本土」)という主張がそうだった。また、「琉球弧」というコンセプトを梃にしたときには、「琉球弧は本州弧のペンダントではない」(琉球弧に住んで十六年」)、「独立政権を持っていた琉球や、まつろわぬ蝦夷地の東北が、日本歴史の展開にどれほども役立たなかった異域だなどと考えることは私にはできない」(「奄美・沖縄の個性の発掘」)と強い口調にもなっていった。

 「結論として日本と言えなければ日本でないと言ってもいいじゃないか」(「琉球弧の感受」)、「奄美と沖縄とで一緒になって独立してもかまわないのですね」(「明治百年と奄美」)とまで言ってのけることすらあった。

 つい、威勢のいいことを口走ったのではない。

 島人は「自立の精神が欠けている」(「多くの可能性を秘めた島々」)とよく言われる評言に向かって、それがないのではなく、「深い所での屈折」があって、「対外的な表現の場で、よろけるのではないか」という観察と洞察に裏打ちされた励ましでもあったのだ。

 しかし、奄美に対して冷静な目を向けた島尾もいる。「奄美は訴える」というタイトルなのに、中身は「奄美に訴える」ことの方を多く書いているエッセイにも表れているように、島人との関係のなかで発せられているからだろう、目立つのを避けるように書いている節もある。しかし、実は「奄美に訴える」ことも率直に開陳されていた。

 なかでも真っ芯で捉えているのは、島人の精神性を「事大主義と権威の否定とがひとつの精神の中に同居していてそのゆれ動きが激しい」(「多くの可能性を秘めた島々」)と捉えてみせたことだ。「事大主義」は伊波普猷をはじめ、沖縄の知識人が指摘してきたことだが、そこには二重性のあることを島尾は見出している。彼はそれを「アマミ・コンプレックス」と名づけた。

 「島びとの鹿児島人に対するコンプレックスは単純ではない」(「加計呂麻島」)。たとえば、奄美の島々では西郷隆盛が敬愛されていると言われるが、島尾はそこにも「救い難いコンプレックス」(「名瀬の正月」)があるのを見逃していない。反発を呼び起こさずにはすまない形でしか敬愛も発露されないということだ。

 事大主義の側面では、「ヤマトもしくは日本の中にとけこみたいという姿勢の強かったことは否むことができず、むしろそれはヤマトからの蔑視ないしは無視となって返ってきた」(「琉球弧に住んで十六年」)。それは身近なところでも反復されて、「奄美と沖縄のあいだでさえも、沖縄の人は奄美の人を、「鹿児島ンチュづらをして好かん。シマンチュのくせして」と言いますし、奄美の人は又南を順繰りにばかにして、「沖縄は野蛮だ。奄美は琉球じゃない」と言います」(「琉球弧の感受」)、という状況を生むことになる。

 島尾が「琉球弧」という用語を編み出したのには、「琉球」という言葉が受け入れられないということも踏まえてのことだった。しかし島尾はそのことを、実は「ふしぎな状況」(「沖縄らしさ」)と見ていた。なぜなら奄美には「琉球弧的体質がある」(「琉球弧から」)のだから。

奄美がこれまで持っていた意識下の親近感を、もっと意識的な理解に深めなければなるまい。沖縄復帰の反動としての奄美陥没の恐れは、沖縄を知らないことから生ずる面も少なくない。(「沖縄をもっと知る必要」)

 その通りだ。島尾の洞察をもとにすれば、「事大主義」の裏側には「権威の否定」が張り付いていた。それを手がかりにすれば、「権威の否定」をもっと踏み抜いて、自分たちの島々を等身大で肯定的に受け入れるという脱出口すら見えてくる。

 そのうえ島尾はこの二重性を、「爆発的な気性の激しさとともに、その一般的なあふれるばかりのやさしさは他地方では珍しいこと」(「南島について思うこと」)と資質に近いところで捉えることも忘れていなかった。わたしたちは島尾の奄美(琉球弧)洞察を、島人の自己理解への助けとして受け取ることができるのだ。こうした奄美や琉球弧に対して向けられた言葉には、かばってくれたこと以上に糧となるものが宿っていると思える。

 ところで、奄美大島に移住して十一年経った一九六七年、島尾は琉球弧について「総合的な報告」(「奄美を手がかりにした気ままな想念」)を書きたいという思いを抱く。しかし、「その心づもりで島々に向かうと、島は私の手のとどかないところに逃げ去ってしまう」(「私の中の琉球弧」)という実感に囚われてしまう。それはその後も身を離れず、離れないどころか強まり、「何も書きたくない」(「島尾敏雄非小説集成」第一巻」)ところまで落ち込み、ついには島を離れ、「遠くから見直した揚げ句に最後に残るものを待ち受ける姿勢」(「「奄美の文化」編纂経緯」)に移っていくことになった。

 しかし、わたしたちは「報告」はなかったのではなく、果たされたと受け止めることはできると思える。この構想が生まれる五年前、一九六二年に行った講演録「私の見た奄美」がそれだ。

 これは島尾がまだ沖縄に行っていない段階で行われたものであり、その意味では「総合的」とは言えないからと島尾は不服だろう。けれど、前に見たように、そこには現在でも組み尽くせていない野太い歴史観が展開されているし、それを支える「琉球弧」と「ヤポネシア」という生まれたばかりのコンセプトものびやいだ力を発揮している。この講演録は、短い南島エッセイのなかにあって、最も長い文章のひとつだ。もちろん長いからいいというのではなく、伝えるべきことを伝えた豊かさも語りの熱もある。これで充分ではないかと思えるのだ。

 わたしたちはそれを欠いていると思う必要はない。島尾の琉球弧報告は、「私の見た奄美」に披歴されているのだ。付け加えれば、奄美、いや琉球弧をかばう点からは「中学卒業生への或る感想」がいい。これは中学や高校を卒業したら生まれ島をひとたびは出ざるを得ない島人にとって、いまでも大きな励ましになる文章だ。

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2017/01/29

島尾敏雄の「琉球弧」 2.すぐに続いた「ヤポネシア」

 一九六一年の春、「奄美の妹たち」で「琉球弧」の概念を提示した島尾は、はやくもその年の冬には、日本列島を表現するもうひとつの言葉として「ヤポネシア」(「ヤポネシアの根っこ」)を提唱し、その南の部分として「琉球弧」を位置づけてみせた。ふたつの概念はほぼ同時期に提示されたのだ。

 これは不思議なことではなかった。島尾は、奄美大島へ移住する際も、千葉あるいは東京を離れたとは書かずに、「本州島を離れた」(「奄美大島から」)と書く人である。もともと宇宙の高度から降ろすような視線は彼のものだった。だから、「琉球弧」という言葉を編み出す前から、島々を「九州島と台湾島の北端の間に連なるこの島々」(「南西の列島の事など」)と「天界からの俯瞰」(同前)で見ていたし、また、「島々を結んだ線は、こころよいたるみをもって張られた縄のように、浅いカーブをこしらえながら、台湾島の方に手をさしのべています」(「鹿児島県立図書館奄美分館が設置されて」)と、物や人のように感覚的に捉えようともしていた。

 この、島々の連なりとして捉える視点が、南太平洋の島について書かれた人類学者の本を読む機会を得て、そこの「南島群」が「何とわれわれの列島の南底部に孤独なすがたで配置された小さな島々と似ていることか」(「南島について思うこと」)という気づきを得れば、もともと日本列島を「花綵列島」と表現した人である、「三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシア」(「ヤポネシアの根っこ」)という発想にたどり着くのはすぐのことだっただろう。

 「天界からの俯瞰」をものにしていた島尾にとって、「琉球弧」も「ヤポネシア」もつかみ取るのは自然なことだった。しかし、そこに名づけを行なったことで見えてきたものは骨太で大きかった。

 「琉球弧」と「ヤポネシア」の概念を提示した翌一九六二年、島尾は奄美大島で「私の見た奄美」という講演を行っている。そこで島尾は、「なにか日本の歴史の重要な曲り角の時には、必ずと言ってもいいほど南の島々のあたりが顔を出して来る」と指摘している。

 「続日本記」には奄美、夜久、度感、信覚、求美などと、南の島の名が出てくる。そのことについて島尾は、「日本列島の中に国家らしい国家ができたその時に、南の島の記録をはぶくことができなかったということは、やはり重要な意味を含んでいると私は考えるのです」と語っている。

 日本の初期神話に南島の顔ぶれが出てくるところは、大和朝廷の版図が琉球弧にも及んだことを示す証左として引用されるのが常だ。しかし彼は、「何かを感じとったから記録として残したのだと思います」と、そこに別の余剰を見ようとしている。そして、にもかかわらずその後は「本土のほうと全く切り離されて」しまう、と続けている。

 「鉄砲」は、「種子島」から入ってきたが、それはヨーロッパの文明の象徴と言えるもので、中国の儒教やインドの仏教と「同じ比重でもって」捉える必要がある。日本の音楽に大きな影響を与えた「三味線」も「沖縄」から入ってきたものだ。

 鎖国の終わりも、発端はアメリカの軍艦が「ふらふらはいって来たところが浦賀」だったわけではなくて、「まず沖縄の那覇にやって来て、そこを根拠地にし充分足がかりにしたそのうえで、日本本土のほうにやって」来ている。その後の新しい政府にしても、「薩摩藩は南島を犠牲にすることによって明治維新を動かすことができた」。さらに第二次世界大戦でも「南の島々を犠牲にすることによって、国家がどうやら安泰であるような方向」を見つけることができ、「それは現在もつづいている」。

 つまり、「日本の大きな曲がりかど」では、南の島々から「本土のほうになにかしらざわめきのサインをなげてよこす」。しかしその顛末は南島の「犠牲のかたちに傾きがち」であり、「本土のほうはそのことにも、その地帯のことにもほとんど理解をよせようとしないように見える」。島尾は、このことは「私に強い感動をあたえてよこす」と話している。

 ここまでくれば、五十五年前に行われた島尾の講演が、鋭く現在を照射にしていることに驚かざるをえない。本来、ヤポネシアという視野は、大陸との関係で捉えられがちな日本を太平洋の島々のひとつに解放するというモチーフを持っているから、ここでの文脈は「ヤポネシア」というより「日本という国家」に沿ったものだが、しかしここには、中心に凝集しようとする「日本」に対して、個々の島を等価に捉える「ヤポネシア」の視線が息づいているのを見ることができる。

 やがて島尾は、琉球弧と「東北」のあいだに「なにか類似の気分の流れている」のに気づいていく(「琉球弧の視点から」)。そしてここでいう「東北」には「アイヌ世界が透絵さながらにうずくまっているようなもの」(同前)だった。東北といえば、福島が島尾敏雄の両親の出身地である。この出身への足場を得たことでと言っていいだろうか、島尾の言葉はいつになく熱を帯びることもあった。

 (前略)私が言いたいことをいそいで言ってしまえば、たとえこれまでの日本人の目の位置が九州から関東までしかその視野に入れることができなかったとしても、私はそれに服したくないこと。東北や琉球弧が負のかたちでもっている日本の要素をはっきりつかみだすのでなければ、日本のかたちはいびつでしかないこと、の二点だ。(「私にとって沖縄とは何か」)

 東北や琉球弧が負性として持つ要素を掴むのでなければ、日本の「かたち」はいびつでしかないという熱を帯びた主張は、これも今でも生き生きとしているのに立ち止まらないわけにいかない。

 しかし、ご当人のその後の態度はそれとは別のところにあった。一九七三年、「非小説」を集成した本の「あとがき」で、学んだことは「ヤポネシア・琉球弧の視点」かもしれないとして、島尾はこう整理している。

 最初は、「用語の発見のための試行が重ねられている」。用語が現れる前は、「南島への心情の過多を処理しかねている」。そしてこう続く。「それはやがて用語の出現と共に、いったんは或る安定を得たあとで、今度は次第に南島に対する心情の発露の臆病な傾斜へと傾いて行くのである」(「「島尾敏雄非小説集成」第一巻」)。「臆病な傾斜」とは、「憂鬱な旅人の不安定な感受」(「琉球弧の吸引的魅力」)が、あとがきを書くタイミングで言わせたものかもしれない。このときには、奄美大島を離れる心づもりになっていたことも想像される。

 しかし、「ヤポネシア・琉球弧の視点」を提示した人の総括としては、あまりに控えめで、本人の深刻さをよそに、わたしはこのところで思わず笑ってしまった。

 「ヤポネシア」にしろ「琉球弧」にしろ、いまも充実を待っている魅力的なコンセプトであることに変わりはない。そして彼の「非小説」群は琉球弧に大きな励ましを与えてきた。ことに「奄美」に対する寄与は大きい。もし島尾敏雄がいなければ、「奄美」はいま以上に「沈黙」のベールをまとい続けていただろう。

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2017/01/28

島尾敏雄の「琉球弧」 1.ふいに書かれた「琉球弧」

 知るにつれ驚いたのは、奄美大島から与論島までを「ひっくるめた総合的な名前が見当たらない」(「アマミと呼ばれる島々」)ことだった。

 「奄美(群島)」があるではないかと思われるかもしれない。しかし、島尾敏雄は気づかずにはいなかった。「奄美」や「奄美群島」では「強いてひとまとめにしようとする意図が目立って、生活感情の中からしぜんに生まれてきた言い方ではない」(同前)。「沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和に入ってから」(「南島について思うこと」)と言われている。「観念的にはアマミの中の一つだと理解していても、島々のあいだに差異が多く、何となく実感としてぴたりとこない」(同前)。それどころか、「ひとまとめにして奄美と呼ばれることを拒んでいるようにも見える」(「加計呂麻島呑之浦」)くらいなのだ。

 島尾が奄美大島に移住して、最初にぶつかったもののひとつは呼称だった。しかも「総合的な名前」を持たないのは島々についてだけではなかった。それより前に、島尾は加計呂麻島の島人が、島を自分の住む集落(シマ)の名で呼びこそすれ、「島そのもの」が「かけろま」と呼ばれることを知らなかったことに驚いていた。「総合的な名前」を持たないのは、島々だけではなく、ひとつの島自体についても言えることがあったのだ。

 島人が島の名を持たなかったのは、おそらく加計呂麻島に限ったことではなく、奄美大島もそうだった。島を「海見(あまみ)」と表記したのは大和朝廷だったし、「大島」にしても元は大和や沖縄島からの呼称だろう。加計呂麻の島人が島を集落(シマ)の名でしか呼ばなかったように、奄美大島の島人も集落(シマ)の名でしか呼んでこなかった。島全体を捉えて呼ぶ必然性がなかったからだ。

 琉球弧の北に位置する奄美大島は、島人の必然性が、島全体を捉えるようになる前に、主に大和からの視線に捉えられ、最初に「海見」、次に「大島」、そして近代以降に「奄美大島」と呼ばれるようになった。その間、按司(首長)的な存在が島々をまとめあげることもなかった。

 「奄美」という言葉自体が、内発的な呼称として奄美大島全体に行き渡った歴史を持っていない。島人による政治的共同体が「奄美」の島々を圏域とした歴史もない。これが、今に至るも「奄美群島」が、そう呼ばれつつも「総合的な名前」として根を下ろさず、また他に「総合的な名前」も持っていない経緯だ。

 ともあれ島尾は呼称の不在という不思議さに触れて、むしろ呼称について鋭敏になった。島々について言う場合、「奄美」ではなく「アマミ」というカタカナ表記にしたのはその試みのひとつだ。

 そのうえそこには、もうひとつ「琉球」に関わる問題もあった。一六〇九年の侵攻以降、薩摩に組み入れられた歴史をもつから、「奄美には沖縄的なものを拒否したい気持とそれに帰納したい願望とが相反しつつ同居している複合の状態のあることも認めなければならない」(「私の中の琉球弧」)。島尾はそこで「琉球」という言葉が現地で受け入れられないのを察するようになる。

 しかし島尾は、もとより「南島」という言い方が好きで、奄美大島のことも、「花ざかりのかたちをした南島の群れのひとつ」(「九年目の島の春」)として見ているし、「奄美」を主語にしても「沖縄」を主語にしても、それは象徴でしかなく、断らない限りそこにはいつも奄美、沖縄、宮古、八重山の全体に浸透させようとする目を持っていた。こうして「南島」という「少しあいまいな表現」(同前)ではなく、より照準を合わせようとする試行のなかで、「琉球弧」という言葉がつかまれることになった。

 奄美大島に移住して五年ほど経った一九六〇年、「南島探検の過程の報告書」と位置づけた本のあとがきで、島尾はこう書いている。

 現在では私は、大島のほかの四つの島の徳之島も喜界島も沖永良部島も与論島もひととおり見てきましたので、それぞれの島の輪郭をひとつずつ描くことによって、大島との対比の中で琉球弧の北の部分としてのアマミをつかみたいという期待に充たされて居ります。(「離島の幸福・離島の不幸 あとがき」)

 この初出の「琉球弧」は筆の勢いでふいに書かれているようにも見えるし、それから一年後の「奄美の妹たち」の本文で紹介されることになる「琉球弧」という概念は、このときすでに掌中にあったようにも見える。もし後者だとしたら、この「あとがき」の「琉球弧」はとても控えめな初出だ。しかし、実のところその印象は本文でお披露目した「奄美の妹たち」でも変わらない。なにしろ、「「琉球弧」といわれる奄美から沖縄、先島にかけての南島」と、括弧で強調しているものの、すでに「琉球弧」という言葉が流布されているのを前提としたような書き出しなのだ。

 この控えめな態度は、琉球弧について書くとき、終始変わらなかったと言っていい。しかし、態度は控えめでも「琉球弧」は、やわらかで強力な概念だった。この言葉がなければ、わたしも、島尾と同じように座りのいい呼称の不在に突き当たるしかなかっただろう。

 「琉球弧」は、島尾が沖縄を訪ねる前に、「奄美」の島々を見聞するなかで、沖縄、宮古、八重山にも通じるものを予見した言葉であり、かつその過程で、呼称の不在や「琉球」に対する島人の抵抗感を通じて掴まれたことからすれば、奄美的な用語だった。あるいは、「琉球」という言葉に対する反発を、島尾は沖縄自身にも見出すことからいえば、とくに宮古や八重山から発されたとしても不思議ではなかった。また、「奄美、沖縄、宮古、八重山」という言い方では、ひとまとめにならないし、主島と離島という考えを伏在させてしまうことからすれば、それぞれの島を主体に据えた、それこそ島発の言葉と言ってよかった。

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2016/12/09

島尾ミホの刺青遊び

 琉球刺青を探究する道すがらでどうしても触れておきたいことがある。島尾ミホの「紅石」だ。

 仲良しのイサッグヮと二人で私は小川の底から粘土質のビンイシ(紅石)を拾い集め、それを平たい石の面に摺りろしては互いの顔に模様を画いて遊んでいました。

 白っぽいビンイシからは細かくて柔らかな練りおしろいが出来上がり、うす紅色のものは、雛祭りの時の紅餅に似たうす桃色の練り紅になりました。それらを紅差しの指につけ、相手の額や頬や頤などに思い思いの模様を画き、鼻のあたまにはひときわくっきりと紅の太い線を入れました。

 さわやかな音をたてて絶え間なく流れる小川を鏡代わりに自分の顔を写して見ても、きらきらと輝く日の光りの照り返しに妨げられて、はっきりとはわかりませんが、相手の顔を見ると、自分の顔もおよその見当がつきおかしくてたまらず、二人は笑いころげては洗い落とし、何遍も書き直しをくり返しながらふざけ合っていました。南洋の土人のお化粧はきっとこんなかもしれないと思いながら、そして顔だけでなく手首から指先にかけても、深い紺色のビンイシを使いハディキを真似て、星形や十文字、渦巻き、唐草などさまざまな模様を画きました。島の女の人が両手の手から指先までの甲に施した入墨をハディキ(針突き)というのですが、私の母の若い頃までは、化粧などすることのすくなかった島の娘たちはハディキを入れてその模様の複雑さを自慢しあっていたと聞かされました。母はまだ十五、六の娘の頃、友達がふくよかなその白い肌に美しい模様のハディキをしているのを見て羨ましくて仕方がなく、それを野蕃な習慣だという理由で親から許して貰えなかったのがとても悲しかったと話していました。

 もうハディキの習慣はなくなっていましたが、まだ歳をとった女の人の手の甲には、若い頃に競い合ったというその模様が色褪せて刻まれているのを見ることができました。でも子供たちのあいだではなおハディキ遊びが残っていて、蘇鉄の葉針を束ねてハディキを突く真似をしたり、ビンイシや花の汁などで模様を画いて遊んでいたのです。

 島尾ミホ八才、1927(昭和2)年のことだから、文身禁止令からは半世紀経っているが、奄美大島と同じように禁止令に応じるのが早かったと思われる加計呂麻島でも「歳をとった女の人の手の甲」に刺青を見ることができだ。それはこの三年後に、小原一夫が奄美大島から何点かの刺青模様を採取していることとも矛盾しない。

 ただ、早かったとはいえ禁止令に即座に応じたわけではなかったのは、ミホの母の友人たちがまだ刺青をしていることから窺える。数年後に小原が奄美大島から採取した刺青模様を持つ女性の最少年齢は68才だが、採取数を増やせば、もっと若い女性からも得られた可能性がある。あるいは、加計呂麻島は奄美大島よりも若干あとまで行われていたということかもしれない。

 少女ミホは紅石を擦って、顔や手に化粧を施す。彼女は、「南洋の土人のお化粧はきっとこんなかもしれない」と思う。たしかに、ミホは文字を書き、すでに習俗が失われかけているところにいるのだが、一方で老女の手には刺青を見ている。彼女はまだ「土人」の習俗と地続きの場所にいた。

 いや「ハディキ遊び」をすることでは、ミホはまだ「土人」習俗のなかにいると言ってもいい。刺青は文身禁止令後、ゆるやかに消滅していった。そう言うだけでは足りない。それはなお刺青遊びとして残存したと言うべきなのだ。

 「深い紺色」という色まできちんと捉えられていて、「紅石」は刺青をする前の少女たちが、ごっこ遊びを通じて自分の将来を反復させていた心映えをそのまま伝えているのではないだろうか。

 書くべき人は書くべきことを書いているものだ。琉球刺青を追う者にとってはかけがえのない文章であり、また島尾ミホが、文学的才にあふれた女性というだけではないことも伝えている。

 ※参照:「琉球文身」


『祭り裏』

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