奄美大島を離れ、本土の冬の風に堪えた島尾が、「越冬」中の那覇で魅入られたのは、「「女踊り」の身のこなしと、座喜味城址のたたずまい」(「那覇からの便り」)だった。
島尾は、親しんだ「沖縄芝居」のなかで「琉球舞踊」に惹かれ、そのなかでも「女踊り」にひときわ強い印象を受けるのだが、文章に尽くすところまでは至らなかったようだった。ただ、「単純化された様式の美しさには、沖縄の人々の心の一面を表し得たあやしい到達」(同前)を感じずにいられなかったし、「同じものが演じられ方によっていろいろのかたちに見えてきて厭きない」のだった。わたしたちは、島尾がここで感じていたことを正確に写し取ることはできないが、たとえばそれは、蝶が蛹から羽化するところを何度見ても飽きないのに似ているのかもしれない。
奄美大島では「芸術的な表現の造型や記録に対するすさまじいほどの恬淡(てんたん)」さに驚き、文学的な表現がないことを嘆いてもいた島尾だった。しかここでは「文学をなお「うたい」「おどる」はたらきの魅惑の腕の中から解き放そうとはしないふしぎの力をまだ失うことはないように思える」(「那覇からの便り」)と、少なくとも、「芸能」こそが琉球弧の表現であると納得するに至ったのは確かだった。
島尾は「女踊り」に比べて「座喜味城址」については饒舌だ。「珊瑚石灰岩」の拱門(きょうもん)(アーチ型の門)を入ると「不思議な空間」が待っている。
そこに足を踏み入れた者に訪れる永遠の感覚のようなものの、時の流れがふと立ち消えてしまったような体験は、或いは南島の時空の根のようなものの表現なのかもしれない。そこでは広ささえ確かさを失い、わずかに今くぐりはいったばかりの拱門と次なる上の広場に抜け出るための拱門が対応を示しつつ、その外側に世間の時が流れているという思いに襲われることから免れない。その空間のぐるりを取り巻く城壁のかたちのおおらかなすがた。均整のとれた直線とか左右対称などというせせこましさを飛翔して、童画さながらに奔放に伸び、曲りくねって一つの空間を囲繞している自由さは、この世のものと思えないほどだ。(「那覇日記」)
わたしは思わず、ここに描かれているものについて口をはさみたくなるが、その前に、島尾はもう少し「座喜味城址」について書いている。城址の頂の「地勢に逆らわずに伸びている」格好が、「蛇の気ままな蛇行のすがた」のようでもあり、かと思うと「時にユーモラスな破調をも示す余裕」もある。彼はそこに「言うに言えぬ自由で快い韻律」を感じる。しかも、島尾それを「女踊り」の「接近と断念という主題の濃密な繰り返し」(「那覇からの便り」)と「根は同じ」だと見なしている。
「女踊り」ばかりではない。「沖縄芝居」にも「歌謡」にも「沖縄の人々の発想や挙措」にも、「根が一つ」と感じさせるものがある。「攻防の構えを欠落させた部類の城」(「那覇からの便り」)である座喜味城と、沖縄の芸能の「生真面目な追求の中に、いきなり破調を突出させる」型には「同質の感動」があると、島尾は言う。
島尾はこの「沖縄の韻律」について、「とても解き明かす力は無いが」と断りつつ、「予感」として「沖縄がいわば「小国寡民」の経験を深くかさねてきたからではないだろうか」(「那覇に仮寓して」)と書いている。島尾は、ここで王朝の記憶に引きずられているところはあるが、「小国寡民」の言葉遣いに躓かなければ、核心を捉えているのではないだろうか。
島尾が芸能にも城址にも感じた韻律を、「根が一つ」のものとして捉えるには、その根底にまで降りてゆかなければならない。そうして思い当たるのは、曲線と破調の繰り返しというリズムには、「世(ゆ)替わり」によっても絶えず、時間が一方向に進むことにあらがい反復させようとする琉球弧の野生の思考が顔を出しているのではないかということだ。
たとえば、米軍統治から日本へ復帰したことを、琉球弧では「アメリカ世」から「大和世」へという言い方をする。これが「世替わり」だ。それは転換時には違いないが、「アマン世」、「クバの葉世」などと呼ばれる狩猟採集の時代までさかのぼれば、「世替わり」は、神話を更新せざるをえなくなるほど世界の構成が変わってしまったときを指していた。それはまさに、島尾が言うように「破調」と呼ぶべき事態だ。
また、これを時間に対する捉え方からみれば、今日のように明日もあるという繰り返しの感じ方が強かったのが、一方向に進むという感覚が力を増していくのが「世替わり」だった。そして現在では、それがふつうの時間感覚になっている。
ところが、それにもかかわらず、時間を繰り返しであり反復であるように捉えようとする志向性を、祭儀のなかに残してきたのが琉球弧だった(喜山荘一『珊瑚礁の思考』)。
反復する時間のことを島尾は、「座喜味城址」のこととして、「永遠の感覚」、「時の流れがふと立ち消えてしまったような体験」と書いていた。そして、その空間の醸す空気を、「この世のものとは思えないほどだ」と言い表していた。これは島尾が、永遠の現在とも言うべき反復する時間性を建築のなかに見出していたことを意味している。
島尾は「座喜味城址」に感じるものを、那覇のコンクリートの家にも、那覇の町にも感じた。そして那覇の「ラビリンス」については、その成り立ちを推し測っている。
即ち平らな土地がはじめから展開していたのではなく、海水に囲まれた幾つかの島や岩礁が、その固有のかたちを残したまま継ぎはぎされて、今の市街地をかたちづくったと思えるからである。(「安里川遡行」)
島尾は解き明かさないまでも、いや解き明かしていることに気づいていないだけのところまで歩みを進めていた。島尾は、韻律に「世替わり」という破調と、反復する時間を失わない身体性を感じ、そして空間にはサンゴ礁を見ていたのだ。
ところでわたしが思わず口をはさみたくなったのは、島尾の「座喜味城址」の記述が、まるで竜宮城を描いているように見えることだった。こうして島尾の感受を追えば、それはその通りだと言えるのではないだろうか。琉球弧はサンゴ礁のもとで野生の思考を育んできた。島尾は、そうは語らない芸能や造形物のなかに、いわばサンゴ礁の思考を感じとっていたのだ。
島尾はなぜ、そうすることができたのだろう。
それはやはり島尾が野生の心を豊かに持っていたからではないだろうか。
奄美大島にいた頃、二十年あまり前にマニラで食べたパパイヤが忘れられないと話すと、妻のミホはいかにもミホらしく、それまで植えていた野菜を根こそぎにして庭をパパイヤでいっぱいにしてしまう。それで毎日パパイヤにありつくことができるようになるのだが、島尾はそこでこんなことを書くのだ。
それにしても、私はパパイヤを見るたびに、たとえば、葉が茂って落ちてもそこに妻の手足を感じ、実が充実しても未成熟にとどまってもそこに妻の姿を見、うまいうまいと食べるときには、なんだか妻のからだの一部を食べているような気持ちになってくるのは、これは一体どういうことだろうか。(「庭植えのパパイヤ」)
ここでの島尾の心は、もうほとんどミホという母に育てられる乳幼児に退行しているが、この感じ方は、ヤムイモを主食とする太平洋の島人が、それを「祖先の肉」と呼ぶのと同じ心の位相にあると言っていい。島尾はここで、ミホでありパパイヤでもある「祖先」の子として、神話を立ち上げかけているのである。
しかも島尾の野生の心にはもっと奥行きがあった。
島尾は島人の陽に焼けた黒い顔に、どういうわけか、「あの潮と陽にさらされて骨のようになった白いウル(樹枝状珊瑚塊のかけら)のような清潔な印象」を持ってしまう人だった(「名瀬だより9周辺の村落」)。そればかりではない。彼は、「白くさらされた珊瑚虫骨片の堆積を白昼の砂浜で目にするたびに、私はどうしても人間の骨を連想しないではおれない」(「奄美の墓のかたち」)のだ。島人にはサンゴを感じ、サンゴには骨を感じる。そして骨を連想してしまうのに、「その中に融和したいふしぎななつかしい感情の起きてくるのが防げない」(同前)。骨を感じるそのサンゴに溶け入ろうとしているのである。
与論島で洗骨後の骨を納める瓶を見たときのことだった。
(前略)首のくびれたところまで砂中にうずめられた骨瓶が、強い日のひかりにはねかえり、うそのように静かに白くさらされていた。瓶はふたでおおわれていたが、ふと私自身が白骨になって、瓶の外に出、南の太陽に髄のなかまであたためられているのかもしれないような気分になっていた。(「奄美の墓のかたち」)
洗骨の骨の瓶を通して、自分が骨になってしまう気分になる島尾が、浜辺のサンゴを見て、「私はサンゴ」と言うところまでは、そう隔たりはない。こう感じる島尾が、作家の感性を離れて、これを思想として取り出すことができたら、そこにサンゴ礁を基盤にした琉球弧の野生の思考の世界が広がっているはずだった。
島に当てられ疎外されたとき、島尾はいじましくも、「しかしたとえ異和を以て迎えられても、島の珊瑚礁を抱きしめてじっとしていたい思いです」(「回帰の想念・ヤポネシア」)と書いた。
この幻想の仕草は、殻のなかに息を吹きかけるのすら遠慮して、身体で殻を温めてヤドカリが顔を出すのを待つみたいに、サンゴ礁を抱いて島人が心を開くのを待っているように見える。あるいは、島尾自身がサンゴ礁に化そうとしているようにも見える。
島尾敏雄は琉球弧にとってまれびとにちがいないが、その心は、渚に生まれたサンゴ礁の子というのがふさわしかった。(了)
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