カテゴリー「 4.奄美の地名」の17件の記事

2012/02/19

アーマンチュとアマミキヨ

 当山昌直は、アマン、つまりオカヤドカリの伝承をもとに、アマン神とアマミキヨの関係について、次のようなシナリオを描いている。

 古い時代、琉球にはアマン神(アマンチュ、またはアーマンチュ)にかかわる創世神話が民間に広く分布していた。一方、沖縄島玉城には比較的新しい時代の神話としてアマミキヨの伝承が残っていた。後の時代になって支配者はこれらの二つの神話をもとに支配者(王府)の神「アマミキヨ」を祀ることになった。この王府の「アマミキヨ」は、支配体制の中で奄美・沖縄へとひろがり、各地に存在していたアマン神はアマミキヨへと置き換わっていった。一方、王府の影響が少ない宮古・八重山諸島では王府のアマミキヨは民間には残らずに、特に八重山ではそのまま創世神話のアマン神が残った。(『奄美沖縄 環境史資料集成』 2011年)

 アマンチュ(アーマンチュ)はアマミキヨに取って代わられただけではない。アマミキヨ自体がアマンチュ(アーマンチュ)を言葉として元にしている。そしてそのアマミキヨは、奄美大島、喜界島周辺を去り南へ向かい、奄美から不在となった。

 祖神ははじめ、オカヤドカリというトーテムとして北上する。しかし、新しい祖神は農耕儀礼の神として北からやってきた。それを演じるもとになっているのがアマンという同じ言葉だとすれば、まるでブーメランのようだ。アマンは農耕儀礼の神に変態したのだ。「砂」は「米」となって戻ってきたが(cf.「砂州としてのユンヌ(与論島)」)、ヤドカリはその「米」の神となって返ってきた。言葉の壮大なドラマがここにある。


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2012/02/05

アマン・アマミ・アマミキヨ

 崎山理は「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子-アマンの起源-」(1993年)のなかで、アマンがオーストロネシア語を語源とすると書いている。

 原オーストロネシア語の、(k)umang「ヤドカリ」が、西部ミクロネシア地域で、[q]emang という二次形が発生し、琉球諸語でこれに由来する形が保持されたとして、琉球祖語形として、[q]amangを立てている(p.11)。

 そしてこの語源とヤドカリが登場する開闢神話を結びつける。八重山、白保の民間伝承。

大昔、日の神がアマン神に天から降り下界の島を作るよう命じた。アマン神は土砂を槍矛でかきまぜ島を作ったあと、アダン林のなかでアーマンチャー、すなわちヤドカリを作った、その後、神は人子種を下し、ヤドカリの穴から二人の男女が生まれた。

 この神話の形は、「人間の創造にあたって現れた不完全な子を、いずれも水生の小動物によって表現している天で共通する」(p.8)。オセアニア、ベラウ(パラオ)ではこの小動物はオオジャコになる。オオジャコがヤドカリに取って代わっている理由について、崎山はオオジャコが八重山にはほとんど見られないからとしているが、吉成直樹は「先島諸島でもオオジャコは生息しており、オオジャコからヤドカリに置き換わった理由は別に求めなければならない」(『琉球の成立―移住と交易の歴史―』p.96)としている。

 ぼくはヤドカリがそれだけ初期島人にとって普遍的な存在だったからだと考える。私的なことになるが、浜辺から数百メートルもない位置にあったぼくの家では、夜、周囲の石垣をひと回りするとバケツ一杯のヤドカリは容易に採れた。これは、子どもにとって魚釣りの前の晩の楽しみだったが、海辺近くに住んだ初期島人にとってヤドカリは最も身近な存在であったに違いない。崎山はそれを「不完全な子」として表現するが、それは近代的な解釈というもので、初期島人、あるいは神話を作った人々はヤドカリを「不完全な子」と認識していたわけではない。人間は動物と等価な存在だという認識がそこにはあり、人間がヤドカリの子孫であるということは信じられていたと思える。女性の手の甲のヤドカリをモチーフにしたハジチ(針突)はその信の深さを物語っている。

 崎山は続けてアマミキヨの神話にも触れ、アマミキヨもアマン由来のものであることを示唆する。吉成はこれを重視するが、ぼくもそう思う。ここで、ヤドカリ、アマン、奄美、アマミキヨが同一の根拠のもとに考えられる場所が生まれるからだ。

 首里ではアマミキヨはアマンチューである。アマンチューの語義は「ヤドカリ人」である。アマミキヨはアマミ+コ(子)」であり、コが口蓋化によって「キヨ」に変化したものである。したがって、この神話的な存在であるアマミキヨのアマミは、本来、ヤドカリを意味するにすぎないが、神話的な存在としてのヤドカリ、より具体的に言えば「トーテム(祖先)としてのヤドカリであっても不思議ではないことになる。(p.101)

 そこで吉成は「アマミ」という地名について、「ヤドカリをトーテムとする人びと」が住むことに因む名称ではないかと書くわけだ。

 与論の島言葉の語感から言えば、首里のアマンチューはヤドカリ人、八重山、白保の神話のアーマンチャーはヤドカリ人々の意味になる。657年、『日本書紀』に「海見」と書かれた当時、大島には「アマミ」という地名は無かったが、アマンチュー(アーマンチャー)は祖先神であった。大和朝廷勢力の人々は、その語感から「アマミ」と名づけたのではないか。この神名を地名とするのは、『古事記』における、伊予の国がエヒメ(愛比売)の命と同一であるとする名づけ方と同じである。

 もちろん、アマンチュー(アーマンチャー)とアマミの間には音韻の隔たりがある。けれどそれは漢字を当てる際の恣意性に依る可能性は考えられる。たとえば、ユナンに与那国を当てユンヌに与論と当てたように、それに当たる漢字がないかあったとしてもそれよりも妥当に感じられる漢字があればそれに添わせるのは起きうることだ。ぼくたちは「アマミ」という地名は他称であると見なしてきた。他称であることのなかに、アマンチュー(アーマンチャー)をアマミと置き換える自由度が生まれる。あるいは「海見」とする漢字の魅力に引き寄せられる余地が生まれる。谷川健一が(『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1』所収))で示唆したように、潮を見(p.455)て訪れる島々であることが彼らの実感だった。

 しかし、祖先神が記述される段階、『おもろそうし』に記される頃には、他称である「アマミ」の影響を受け、神名はアマンチューはアマミキヨと書かれた。それでも、キヨはチュ(人)であり、コ(子)が口蓋化したものではなく、チュが五母音化したものであり、アマンチューと呼んだ名残りを留めている。チがキとなるのは、キム(肝)がチムとも呼ばれるように琉球弧では馴染み深い音韻の転訛の範囲内のことだ。

 この仮説は学術的なものではない。しかし、アマンという語感に対する圧倒的な親近とアマミという語感への疎隔という島人の身体感覚からすると、少なくともぼくにはリアリティがある。

 ところで崎山は、このアマンという言葉の渡来時期は、古墳時代以降だと見なしている。

日本語形成に関与したオーストロネシア語族の時期区分によれば、アマンは、古墳期以降の、オーストロネシア第三期に属する語彙項目のなかに含まれる(「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子-アマンの起源-」p.13)。

 ここでいう第三期とは何か。「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」(『日本人と日本文化の形成』1993年)によれば、崎山理は、日本語形成に与ったオーストロネシア語族の渡来を三区分に分けて、それぞれの時代を段階化している。

1.ハイ期(縄文時代後期)
2.ヨネ期(縄文時代晩期~弥生時代後期)
3.ハヤト期(古墳時代)

 これを見ると、アマンとはハヤト期に該当すると崎山は言っていると思える。なぜ、アマンが第三期なのか。根拠となる論考にぼくはまだ辿りつけていないのだが、本土以北へアマンの語が遡上していないことに依るのかもしれない。これをそのまま受け取ると、古墳時代が3世紀半ば以降だとすれば、アマンという語も相当に新しいと言わなければならない。

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2012/02/04

ヤドカリをアマミと呼ぶ地域

 吉成直樹が『琉球の成立―移住と交易の歴史―』で、ヤドカリをアマミと発音する地域があると書いているのを見て、どこか知りたいと思ったが(「アマンと「海見」」)、ちゃんと同書のなかにあったので、地図にプロットしてみた。


より大きな地図で ヤドカリをアマミと呼ぶ地域 を表示

 大島の小湊、屋鈍、加計呂麻島の薩川、於斉である。

 これがどうして重要かと言えば、「奄美」の地名の由来を「アマン(ヤドカリ)」を考えた時、実際にアマンではなく、アマミという地域があるのは有力な手がかりになるからである。吉成は、「しかもほかの地方にはみられないのである」(p.92)と強調している。


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2012/01/15

奄美の島々、地名の由来 3

 ここしばらくの考察から、「奄美の島々、地名の由来 2」について、「奄美大島」を更新。

――――――――――――――――――――――――
■島名     ■呼称        ■由来・語源
          最古層/古層

喜界島     ききゃ         段の島
奄美大島   あまん/あまみ   アマン(ヤドカリ)のいるところ
加計呂麻島  かきるま       沖の島
請島      うき          浮く島
与路島     ゆる         寄る島
徳之島     とぅく         突き出たところのある島
沖永良部島  いらぶ        イラブ(海蛇神)
与論島     ゆんぬ        砂の島
――――――――――――――――――――――――


 もちろん、ぼくの仮説も多く(加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島)で広く共有されたものではない。特に、徳之島はアイヌ語からの発想なので根拠は薄弱だ。

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2012/01/09

アマンと「海見」

 奄美でいうアマン世のアマンとはヤドカリのことだと考えてきた。地名としての奄美の語源をアマンだと思ったこともある。ただ、地名としての奄美に対する当の奄美諸島の島人の感じる疎隔感から仮説として持つには至らなかった。いずれ他称だからと済ませてきたわけだ。

 だから、吉成直樹が『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』で、「奄美」の語源を「アマン」と仮説するのに出会い、問題意識の近さとその説にとても共感を覚えた(cf.「奄美=ヤドカリの地!?」)。

 吉成は一度、撤回したものの、『琉球の成立―移住と交易の歴史―』で、(奄美)=(アマン)という仮説にふたたび取り組んでいる。吉成に改めてこの課題を突きつけたのは、島言葉でヤドカリを「アマミ」と呼ぶ地域があるのを知ったからだという。

奄美群島の奄美大島と加計呂麻島でヤドカリのことを「アマミ」とする方名のあることを知るにいたって、改めて検討する必要を感じる。(p.100)

 具体的に大島と加計呂麻島のどこで言われているか、知りたいところだ。

 ところで、谷川健一は『南島文学発生論』のなかで実にさりげなく、地名としての奄美の語源について示唆している。

『琉球国由来記』によると、伊是名島の諸見村にヤブサス獄がある。諸見とは潮見のことであると『南島風土記』は解している。諏訪之瀬島に潮見埼がある。これはいうまでもなく潮の流れを見ることで、漁民や海人に由縁のある地名である。海見(あまみ)も潮見や魚見を指す言葉であろう。(『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1』所収)p.455)

 「奄美」の語源は「アマン」であるとする考えからすれば、この説は退けなければならない。

 しかし、別の意味でこの仮説ないし示唆は魅力的である。『日本書紀』に、657年のこととして、奄美が「海見」として表記された時が、地名としての「奄美」の嚆矢だが、「アマンをトーテムとする集団」にちなみ、あるいは奄美大島と加計呂麻島にある「アマミ」という地名を採って、大和朝廷勢力が「海見」と漢字をあてたとき、彼らの観念のなかでは、アマミを「潮見」として見ていたのではないかと考えられるからだ。その意味で谷川の仮説ないしは示唆に惹かれる。表音が漢字表記による表意を与えられた時の恣意性と、その後の錯誤の発生を目撃できるかのようで、だ。

 アマンから「アマミ」という自称は生まれ、「海見」として他称される。自称は島全体を覆うことなく、かつ地元からは衰退し、他称としての意味合いを深めていった。ついで、他称としての「アマミ」は「海見」から「奄美」への道のりを歩むことになる。


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2010/03/15

「『奄美』呼称の来歴とその周辺」

 町健次郎が、「『奄美』呼称の来歴とその周辺」のなかで引いている原田兎雄の考察は面白い。

 2・琉球の時代 ○原田兎雄「三位一体の神(下)」『南島研究』(第42号 南島研究会 2001年) 「大胆な言い方を許していただくなら、アマミキヨとシネリキヨの開闢神話は、もともと沖縄のものではなく、奄美大島の神話だったのではあるまいか。尚真によって、アマミキヨ神話と、アマミの地名とが、奄美大島から収奪されたのだと、私は推測している。アマミキヨが天降ったのは、奄美大島のアマミ嶽である。日本歴史で阿麻弥の名が出てくるのは、天武天皇11年(689・紀29)である。ところが琉球の歴史の中には、大島の地名はあっても奄美の地名はない。この単純明快な事実は、人為的にアマミの神話と地名が削除されたことを示しているのではないか。久米島も、八重山諸島も、尚真によって、その開闢神話が収奪されたはずである。」

 奄美の開闢神話が尚真によって収奪されたという可能性はありうると思う。共同体を支配するとき、支配共同体は在地の神話、民話を消去するよりは、それをわがものとして吸収し、支配共同体のものにしてかぶせてしまうという方法は、アジア的共同体の支配形態のものである。ただ、地名については疑問が残る。地名を収奪するには島人から言葉を奪わなくてはならないが、実質的にはそれはできないと思える。あるいは、大島を全体でひとつの島と認識した在地勢力のみにアマミの地名が語られ、それが収奪されたのならありうるのではないか。

 また、奄美という地名が、近代以降、いつ使われるようになったのかについても、町の資料から読み取ることができる。

O「「あまみ」といふ名」『奄美大島』(大正14年11月創刊号 奄美大島社)                          (『奄美大島縮刷版 上巻』1983 奄美社) 「「大島」といふ地名はところどころにあるので陸海軍をはじめ一般にわが大島をあまみ大島と呼ぶことがはやって来た、あまみといふ名は古いが一般に使われるようになったのは近来のことだ。斉明紀には「海見」、天武紀には「阿麻珊」と記してゐるが、「奄美」といふ文字は元明記から見江てゐる、阿摩弼姑(あまみこ)といふ女の神様が海見嶽(まみたけ)に天降つたといふのが大島開闢の傳説になってゐる、これが「あまみ」の名稱の起りだといふ。」

 「はやってきた」という説明は面白いが、近代国家を近代国家たらしめる条件のひとつであった国軍によって大島に「奄美」が冠されるようになったというのは必然の流れにまっすぐに沿っている。資料によれば、明治7年の海軍系資料に『大日本海岸実測図』に「大日本奄美大島海峡西部図」として「奄美」の表記が見られる。また、明治31年の『大日本帝国全図』にも「奄美大島」の表記が見られる。

 7世紀、南下した大和勢力によって「アマミ」と表記された奄美は、国学イデオロギーをもとに支配権を持った明治国家により再び見出され、他の大島との区別という要請から、近代初期に「奄美」と表記されるようになった。

 町の研究のおかげで、雲がひとつ取り払われる気分だ。


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2009/01/25

奄美の島々、地名の由来 2

 あまり進歩はないのだが、おととし書いた「奄美の島々、地名の由来」を更新しておこう。

――――――――――――――――――――――――
■島名     ■呼称        ■由来・語源
          最古層/古層

喜界島     ききゃ         段の島
奄美大島           あまみ  アマミク(開発祖神名)
加計呂麻島  かきるま        沖の島
請島      うき           浮く島
与路島     ゆる          寄る島
徳之島     とぅく          突き出たところのある島
沖永良部島        いらぶ   イラブ(海蛇神)
与論島     ゆんぬ         砂の島
――――――――――――――――――――――――

 地名のつけ方として、地勢・地形を示したものを最古層とし、神名に基づくものを次の古層と見なして区別した。「ゆんぬ」を筆頭に確信が持てるまでには至っていない。今後も少しずつ、真実に近づいてゆきたい。


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2009/01/24

なぜ、「奄美」と呼ばれず「大島」と呼ばれてきたのか

 奄美大島の古名は、なく、「なぜ(なで)」や「くにゃ」や「あむる」などのシマの名だとしたら、次に問いとして浮かぶのは、なぜ、7世紀に、「海見」、「阿麻美」と記され、「奄美」と呼ばれた島が、十数世紀には、「大島」と記されることになったのか、といういきさつだ。

 それは、ぼくたちが、「奄美大島」というとき、「奄美」というより、「大島」と呼んできたことにもつながっている。

 宿題。


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2009/01/23

奄美大島の古名は何だろう 3

・「奄美」も「大島」も古名ではない

 およそこんな風に考えて、「奄美大島」の古名は何だろうという問いがやってきた。

 で、ここまで辿って思うのは、「奄美大島」の古名は無かったということではないだろうか。それは、「なぜ」であり、「くにゃ」であり、「あむる」であったり、だったのではないだろうか。そういえば、与論でも「大島」と呼ぶ以上に、「名瀬」と呼ぶ気がする。それは、行く先が「名瀬」であることが多いからだが、沖縄島を「なふぁ(那覇)」と呼ぶように、大島を「なぜ(名瀬)」と呼んできたのではないだろうか。

 つまり、「島」ではなく、「シマ」が古名になっているのではないだろうか。奄美大島は、山と毒蛇により、各シマの独立性はとても高い。かつ、明らかに巨大な「島」だ。そこでは、島全体を指す必然性は、昔は無かった。ちょうど、九州島、本州島と、わざわざ呼ばないように。「シマ」の名を呼び、それで事足りていたのだ。

 それが、「シマ」ではなく「島」がひとつのまとまりとして認識されたとき、神名が地名となり、そして大和朝廷勢力に、「海見島」と記述される。それは、「阿麻美」、「掩美」などの表記の揺れを伴いながら「奄美」となる。しかしどういうわけか、その後に地勢の特徴である「大島」を添えるようになると、むしろ「大島」という地名が優勢になった。仮に、「奄美大島」が、「奄美島」と呼ばれたままで定着していたら、ぼくたちには「奄美」がもっと身近な言葉だったろう。しかし、各シマを呼んで事足りた次の段階は、「大島」と呼び習わしてきたので、「奄美」が疎遠になったのかもしれない。


 奄美大島においては、「シマ」と「島」の認識は、

 (シマ)>(島) 「シマは島より広く大きい」

 なのだ。これは与論などとは対照的で、与論では、

 (島)>(シマ) 「島はシマより広く大きい」

 である気がする。



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2009/01/22

奄美大島の古名は何だろう 2

・「大島」も古名ではない

 ところで、与論から「奄美大島」を指すとき、「ううしま」と、「大島」として呼んでいる。「ううしま」という発音も方音に属している。正確には「うふしま」だ。しかし、少し立ち止まると、この「大島」も新しいのではないかと思える。

 なぜなら、「島」という語尾を持つこと自体、大和朝廷勢力の南下以降の歴史になるだろう。ゆんぬ、ききゃ、みゃーく、うちなー、ぎるま、どなん、など、方音に則った地名の場合、語尾に「島」をつけてはいない。古名の場合、「島」とつける以前の原型を保っているものである。そこからして、「大島」という名づけそのものが新しいと思われる。

 また、『日本書記』に「奄美大島」が記されたとき、「海見嶋」と、最初書かれているが、これは文字に定着したとき、最初は「大島」ですら無かったことを示している。ぼくは、ことの順番は、「大島」がまずあって、他との区別の必要上、「奄美」の「大島」になったと考えたけれど、実のところ、「奄美島」だったが、大きいので、「奄美大島」としたというのがことの順番のようだ。

 いや、もっと言えば、「奄美島」と呼ばれたが、「大島」と地勢の特徴から名づけられると、そちらのほうが定着していくが、それでは他の「大島」との区別がつかないので、正式には「奄美大島」という留保がついたという経緯かもしれない。

 「奄美島」以降をたどれば、「奄美島」、「大島」、「奄美大島」の順で呼ばれてきたのかもしれなかった。



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