「ゆんぬ」はなぜ、「与論」になったの?
与論の謎のひとつは、なぜ「与論」という漢字の島名になったのか、ということです。
考えてもみてください。島では与論のことは、「ゆんぬ」と呼んでいるのですから。他島からもそう呼ばれていたし、沖永良部とセットのときは「ゆんぬえらぶ」と呼ばれていたわけです。それが、なぜ漢字では「与論」と記されるようになったのか。
もちろん、琉球語に漢字を当てはめているのですから、多少のぶれは止むを得ないと言うもの。でも、そのぶれの大きい「ききゃ」の「喜界」、「ふぼー」の「久高」、「どぅなん」の「与那国」も、なんとなく分かるという余地を残しています。ところが、「ゆんぬ」と「与論」は、似ていないと言わざるをえません。もともとの地名音との隔たりは琉球弧屈指ではないでしょうか。
でも、これは逆に「ゆんぬ」に漢字を当てはめようとすると、少し分かってきます。
当てはめる漢字がない。
このことは、きっと、「ゆんぬ」という音を知っていて、初めて文字を手にした琉球王府の人たちも悩んだのではないでしょうか。いや、悩んだはずです。
ぼくたちの知る限り、「ゆんぬ」が初めて漢字になったのは、1431年、第一尚氏の公文書に「由魯奴」と出てくることです。これは「ゆるぬ」と読めますが、ここでは、なんとか「ゆんぬ」を漢字にしようとした努力の跡をみることができます。
ちなみにこの公文書には、与論の沖で船が風に会い打破して船員七十四名が亡くなった事故についての記録で、島にも死体が流れついたとあります。そういうこともあったのですね。
また、1614年のこととして琉球人の書いた文書には、「輿留濃」という字が当てられています。これも、琉球語読みをすれば「ゆるぬ」と読めるものです。
どうやら当時の琉球人たちは、「ゆんぬ」に近い音で漢字にしようとしていました。
ところで、「与論」という漢字が初めて公表されたのは、1471年、朝鮮の『海東諸国記』の「琉球国之図」においてで、そこに地図の島名として、はっきりと「輿論島」と書かれることになるのです。
ここでポイントになったのは、「ゆんぬ」を何とか漢字に表記にしようとして、「ゆるぬ」と読める「由魯奴」という表記があったことではないでしょうか。「ゆるぬ」を元にすると、最後の「u」の母音が抜けて、「ゆるぬ」から「ゆるん」へと変化しやすくなるからです。「ゆるん」ができてしまえばこれを五母音化して「与論」になるのはすぐのことです。
この地図の作成には、琉球人と日本人(博多の商人)が関わったと考えられています。日本人が関与したことも、「ゆるぬ」から「ゆるん」、そして五母音化して「与論」とする結果を生みやすくしたと思います。琉球人であれば、「ゆんぬ」という島名を知っているわけですから、それに近い「ゆるぬ」音の漢字に収めたかもしれませんが、それを知らなかったら、思い切ったこともしやすいと考えられるのです。
こうして『海東諸国記』の「輿論島」は、薩摩直轄以降という、やはり大和側の手になる代官記で、「與論」へと引き継がれ、現在の「与論」に至ったのでした。
また、1721年の清の文書では「由論」という字が当てられていて、琉球語読みで「ゆるん」と呼んだこともあったのではないかと想像されます。
これらそれぞれの時期の表記をつないでゆくと、「ゆんぬ」が「与論」に変身するのに、「ゆんぬ」、「ゆるぬ」、「ゆるん」、「よろん」という三段変化を経たと想定できそうです。
ところで、もし仮に、琉球人が「由魯奴」、「輿留濃」と書いた努力が報われて同様の漢字が当てられていたとしたら、「よろん島」は、「ゆるぬ島」あるいは「よるの島」となっていたのかもしれません。「よるの島」だったら、夜のイメージになったことでしょう。でも、与論になったことで別のイメージも浮かびます。「与論」となったことで、ぼくが小さい頃は、テレビのニュースで「世論調査によれば」という台詞を聞く度に、島で調査があったんだろうかとどきどきしたものでした。
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