カテゴリー「 3.与論の地名」の26件の記事

2013/12/18

「ゆんぬ」はなぜ、「与論」になったの?

 与論の謎のひとつは、なぜ「与論」という漢字の島名になったのか、ということです。

 考えてもみてください。島では与論のことは、「ゆんぬ」と呼んでいるのですから。他島からもそう呼ばれていたし、沖永良部とセットのときは「ゆんぬえらぶ」と呼ばれていたわけです。それが、なぜ漢字では「与論」と記されるようになったのか。

 もちろん、琉球語に漢字を当てはめているのですから、多少のぶれは止むを得ないと言うもの。でも、そのぶれの大きい「ききゃ」の「喜界」、「ふぼー」の「久高」、「どぅなん」の「与那国」も、なんとなく分かるという余地を残しています。ところが、「ゆんぬ」と「与論」は、似ていないと言わざるをえません。もともとの地名音との隔たりは琉球弧屈指ではないでしょうか。

 でも、これは逆に「ゆんぬ」に漢字を当てはめようとすると、少し分かってきます。
 当てはめる漢字がない。

 このことは、きっと、「ゆんぬ」という音を知っていて、初めて文字を手にした琉球王府の人たちも悩んだのではないでしょうか。いや、悩んだはずです。
ぼくたちの知る限り、「ゆんぬ」が初めて漢字になったのは、1431年、第一尚氏の公文書に「由魯奴」と出てくることです。これは「ゆるぬ」と読めますが、ここでは、なんとか「ゆんぬ」を漢字にしようとした努力の跡をみることができます。

 ちなみにこの公文書には、与論の沖で船が風に会い打破して船員七十四名が亡くなった事故についての記録で、島にも死体が流れついたとあります。そういうこともあったのですね。

 また、1614年のこととして琉球人の書いた文書には、「輿留濃」という字が当てられています。これも、琉球語読みをすれば「ゆるぬ」と読めるものです。

 どうやら当時の琉球人たちは、「ゆんぬ」に近い音で漢字にしようとしていました。

 ところで、「与論」という漢字が初めて公表されたのは、1471年、朝鮮の『海東諸国記』の「琉球国之図」においてで、そこに地図の島名として、はっきりと「輿論島」と書かれることになるのです。

 ここでポイントになったのは、「ゆんぬ」を何とか漢字に表記にしようとして、「ゆるぬ」と読める「由魯奴」という表記があったことではないでしょうか。「ゆるぬ」を元にすると、最後の「u」の母音が抜けて、「ゆるぬ」から「ゆるん」へと変化しやすくなるからです。「ゆるん」ができてしまえばこれを五母音化して「与論」になるのはすぐのことです。

 この地図の作成には、琉球人と日本人(博多の商人)が関わったと考えられています。日本人が関与したことも、「ゆるぬ」から「ゆるん」、そして五母音化して「与論」とする結果を生みやすくしたと思います。琉球人であれば、「ゆんぬ」という島名を知っているわけですから、それに近い「ゆるぬ」音の漢字に収めたかもしれませんが、それを知らなかったら、思い切ったこともしやすいと考えられるのです。

 こうして『海東諸国記』の「輿論島」は、薩摩直轄以降という、やはり大和側の手になる代官記で、「與論」へと引き継がれ、現在の「与論」に至ったのでした。

 また、1721年の清の文書では「由論」という字が当てられていて、琉球語読みで「ゆるん」と呼んだこともあったのではないかと想像されます。

 これらそれぞれの時期の表記をつないでゆくと、「ゆんぬ」が「与論」に変身するのに、「ゆんぬ」、「ゆるぬ」、「ゆるん」、「よろん」という三段変化を経たと想定できそうです。

 ところで、もし仮に、琉球人が「由魯奴」、「輿留濃」と書いた努力が報われて同様の漢字が当てられていたとしたら、「よろん島」は、「ゆるぬ島」あるいは「よるの島」となっていたのかもしれません。「よるの島」だったら、夜のイメージになったことでしょう。でも、与論になったことで別のイメージも浮かびます。「与論」となったことで、ぼくが小さい頃は、テレビのニュースで「世論調査によれば」という台詞を聞く度に、島で調査があったんだろうかとどきどきしたものでした。

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2013/12/10

ヨナ系地名の与論

 東恩納寛惇は、「大日本地名辞書」のなかで、「ヨナ(yuna)」系の地名について、書いている。

ヨナ(yuna)の名辞類系極めて多し。 与那、与那原、与那覇、与那覇堂、与那城、世名城、与那嶺、与那川、与那升、与那堀、与那田、与那地(宮古郡下地村字川満の小字)、与那浜、与那良(八重山郡古見の小字)、与那国、与論(NがRに代る)、与路(NがRに代る)等其主なるもの也、而して此種の名辞は各地に散在して一所に限らざる事勿論とす。如上の地名は現在海岸地かもしくは曾つて海岸地たりし所に存在する点に於て凡て一致す。今ヨナの類語を求むるに、

ヨナ木 yuna-gi 海岸地植物(Hibscus sp.)
ヨナジ yuna-ji 米水の腐敗したるもの
ヨナーメー yuna-me 一種の変化(略河太郎に同じ)

混効験集云、よね、米の事也、又砂をよねともいふ事あり、元三の旦、内裏の御庭に砂置をよねまくといふ也。

庭に砂置くを、よねまくと云ふ事、砂の白きを米に因みて目出度く言ひ表したるにもよらむ。されどヨナ又はヨネの本義、米を先とすべきか、砂を後とすべきか、一概に定め難し。仮に如上の地名より帰納する時には、ヨナは砂の義とも云ひ得ん。されば、ヨナ木もヨナ地(砂地)に生ずる木の意にして、ヨナーメーといへるも亦海洋に因む語とも解し得んか。(p.35『東恩納寛惇全集 6』

 ありがたいことに、与論も視野の外に置かれることなく含まれている。ところが、東恩納は、与論がヨナ系であるのを、「ゆんぬ」からではなく、「与論」から推論してしまっている。「与論(NがRに代る)」、というのだ。この推論もありうるのかと考える前に、東恩納でさえも、漢字表記から地名の語源を探る手続きをやってしまっている。

 与那、与那原、与那覇と、漢字が方音を保存しているものが多いから、勢い、与論もその手と見なしたということなのだろう。東恩納が過たず、「ゆんぬ」を元に考察しても、ヨナ系の「類系」に入れたかどうかが気になるところだ。

 ところで、これを読むと、18世紀の「混効験集」において、「よね、米の事也、又砂をよねともいふ事あり」という認識があったことが分かる。東恩納は、「ヨナ又はヨネの本義、米を先とすべきか、砂を後とすべきか、一概に定め難し」とあるが、現在にいるぼくたちは、これを、「砂」が先と言うことができる(cf.「砂州としてのユンヌ(与論島)」)。ただ、東恩納の時代でも、それは類推可能ではないだろうか。少なくとも「米」より先に「砂」はあるのだから。

 「庭に砂置くを、よねまくと云ふ事、砂の白きを米に因みて目出度く言ひ表したるにもよらむ」というのは、自分たちもしてきたことだから、懐かしい。


 

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2012/05/05

『酒とシャーマン―「おもろさうし」を読む』とナ行音の前の撥音化

 吉成直樹の『酒とシャーマン―『おもろさうし』を読む』は、「おもろそうし」が思われている以上にシャーマン的な側面を持っているのではないかとして、その要素をいくつか抽出してみせたものだ。

 「しけち」も「ち」も酒を意味するが、「しけ」は「神がかること」を意味するのではないか。神がかるということは精神が別の次元に転移することで、それは酒を飲んだ時の状態と同じだから、「ち」に「しけ」を冠したのではないか。

 「しけ」は「神がかること」と「海が荒れること」の両方の意味を持つ。それは、「神がかって身体をふるわせる姿が、海が荒れている情景と重なり合っているためだ」と考えられるからだ。

 霊力を意味する「せぢ」の原泉は、「しけ」と「あふ」にある。すると、「しけ」(神がかること)が、「せぢ」(霊力)の原泉ということになる。ここから、「せぢ」は「神がかった神女が発する神の言葉の霊力」ということになる。「おもろそうし」の「せぢ」にこの意味が込められているものはほとんどないが、「せぢ」が「霊力」の意味になりもともとの意味が忘れられていった結果でないかということはおおいにありうる。

 歌謡「みせせる」は神のつぶやき、ささやきを意味する「宣(せ)る」が原意で、神が人に言葉を発すること。これに対して本土古語の「宣(の)る」は人が神に祈願すること。

 ところで、この「宣(せ)る」という言葉を居考えてみますと、その連用形「宣り」は名詞になります。琉球語ではラ行音はナ行音に変化する場合がありますから、「せに」「せん」「せの」への変化が考えられます。これらの言葉は「酒」を意味します。つまり、ここでも、神がかりして言葉を発することと「酒」は、同じ語源と考えられることになります。(p.121)

 「しけ」が神がかりに関係する言葉なら、「あふ」も同じ意味である可能性が高い。「あふ」は「別々ものが一つになる、溶け合う」ことを意味する「あふ」に行きつく。「死者の眠る地先の小島」を奥武(あふ)島というが、これも「あふ」だとすれば、そこに行けば死者と一体化できる「あふしま」と解することもできる。

 『酒とシャーマン―『おもろさうし』を読む』は、酒と神がかりの同一視から、「しけ」、「あふ」、「宣(せ)る」「霊力(せぢ)」を一気通貫に読み解いたもので、短いながら「しけ」をめぐる冒険が面白かった。

◇◆◇

 さて、ここまで引いておきながらぼくの関心は別のところに移ってしまう。吉成は「琉球語ではラ行音はナ行音に変化する場合があ」るとしているが、別のところでは、こう書いている。

 さきに述べた「宣の君」の問題も。「宣る」の連用形の「せり」が用いられた「せりの君」が「せんの君」になり、。撥音の「ん」が脱落したと考えることができるかもしれません。「ら」「り」がナ行音の前で撥音化し、さらに脱落するいことは本土古語の場合にはよく見られる現象のようです。(p.92)

 どうしてここで立ち止まるのかと言えば、ぼくにとっては他でもない。「ゆんぬ」の語源として、ぼくは「ゆに」が「ゆうに」(長音化)を経て「ゆんぬ」(撥音化)になったという経緯を考えている(cf.「砂州としてのユンヌ(与論島)」)が、ラ行のナ行音化と撥音化は、「ゆるぬ」から「ゆんぬ」への道筋をつけるものであるかもしれないからだ。

 「ゆんぬ」の語源として挙げられるものに、「ゆるぬ」がある。「寄りもの」という意味とされる。吉成が言うように、ラ行音がナ行音の前で撥音化することがあるとすれば、「ゆるぬ」が「ゆんぬ」へ転化することは、少なくとも音韻の上からはありえることになる。1614年に「輿留濃」と記されたことにも脈絡がつく。

 そこでぼくは改めて、語源の意味からの妥当性を探ることになる。まず、前にも書いたが、色々なものが寄ってくる島という「寄りもの」という名称は、土地の地勢を表わすという初期の地名命名の原則から言えば、ありえないと思える。地勢の特徴を言う前に、その土地に見られる現象で名指すとは思えないからだ。

 似た地名として奄美大島に寄り添った「与路島」があるが、与路島と与論島を同一視した視方も存在している。

 また、遣唐使南島路の時代に寄港地名としての由来に基づく島名がある。ユル(与路)、ユンヌ(与論島)という方言名の島々は、船舶の寄り着く意をそのまま島名にしている。
 奄美大島南部の瀬戸内町や宇検村は特に良港に恵まれているため、外地からの遠洋航海の寄港地としての口碑が多く語られている。与路島に面する加計呂麻島の伊子茂港は遣唐使船の寄港地であったという口碑が伝承されている。(星崎一著「与路島誌」参照)(p.391「古代の南島経営と奄美の地名表記考」林蘇喜男『奄美学―その地平と彼方』 2005年)

 これも地名の初期型の原則からすれば、「泊」(トゥマイ)という地名ならともかく寄港地であることが島名になるとは思えない。また、与路はいざ知らず、与論は珊瑚礁が発達しているため船舶の寄港として避けられた場所である。与路島と与論島の地名としての同一視は単に音韻の類似に拠ったものだと思える。与路にしても寄港地由来であるかは疑わしい。寄港地であるためには、そこにあらかじめ島民がいなくてはならないが、島人が生活の場である島を「寄港地」と言うのは不自然だからだ。また、遣唐使船の頃に付いた名だとしたら、それでは古名ではないことになる。

 与路は隣の請島(ウキ)との対で考えると、「寄る」島と「浮く」島ではないかと思える。島の規模から考えて、もともと大島、加計呂麻島に人は住んだと想定すれば、加計呂麻島から見て、大島に「寄った」島、「浮いて」見える島として名づけられ、そこに移った島人もその呼称に倣ったという仮説だ。

 「ゆるぬ」がありうるとしたら、この場合の与路と同じく、沖縄島に「寄った」島という意味ならあり得るかもしれないと思う。

 しかし、これも、名づけの視線が外在的で、「ゆに」(砂)由来だということに、ぼくは説得力を感じるし惹かれる。



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2012/02/18

砂州としてのユンヌ(与論島)-注釈

 東恩納寛惇の『南島風土記―注釈 沖縄・奄美大島地名辞典』(1950年)における与論島の記述は次の通りだ。

 輿 論 島

 沖永良部島より南西約十七浬、沖縄島の北端より約十浬の海上にあり、周圍約三里、方一里に充たず。方音「ユンヌ」輿留濃に作り明人繇奴に作る。沖永良部と連稱して「ユンヌエラブ」と云ふ。古へ國頭並輿論永良部等の地方、共に「奥渡より上の扱理」の専管たり。姚姓又吉系譜伝、「萬暦年間、叙築登之座敷、敍黄冠、而後任惠良部島地頭職。萬暦四十二年甲寅、任輿留濃地頭職。」主邑茶花島の西端に在り、赤佐又赤座に作る。茶花は謝花と同格の地名なるべし。

 「任輿留濃地頭職」の「輿留濃」の箇所には、「ユンヌ」とルビが振ってある。これが出典の系譜伝に添えられているのか分からないが、1614年、与論は「輿留濃」と表記されたことがあった。島言葉で読めば「ユルヌ」となる。だがこれは、「ユルヌ」に「輿留濃」を当てたものではなく、「ユンヌ」の音に近い漢字として「輿留濃」をl当てたものだろう。仮に17世紀に「ユルヌ」と呼ばれていたのであれば、ユルヌからユンヌへの音韻変化はどこかに記述として残っていておかしくないはずだ。それよりは地名の慣性の方が妥当に思える。「輿留濃」はむしろ、「輿論」や「由論」と書かれる前段の漢字と見なすと変遷が理解しやすい。

 「砂州としてのユンヌ(与論島)」の注釈として書いておく。


 

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2012/02/11

砂州としてのユンヌ(与論島)

 与論の島言葉名であるユンヌは「砂」を意味するのはないかと、たびたび書いてきた(ex「砂の島、与論島。」)。いまもこの考えは変わらないので補強してみる。

 崎山理は、琉球語の「ユニ」の原義は「砂」であり、かつオーストロネシア語に由来するとしている。これまでもユナ系の地名は「砂」の意味であると語られてきたが、「ユニ」が起点であり、「ユナ」は与那国、与那嶺、与那原などのように複合語になった時の音であると捉えられている。音韻のバリエーションもさまざまだ。

 ヨネは、琉球諸方言の、たとえば、与那国島 duni、竹富島・鳩間島 yuni、波照間島 -yunee 、石垣島 yuuni 、首里 yuni と対応し、これらはすべて「砂州」を意味する。(「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」)

 ぼくがここで着目したいのは、石垣島の「yuuni」の音である。

 『与論町誌』にはこうある。

 もと鹿児島県立図書館副館長の栄喜久元氏は、「文献上にあらわれている“ゆんぬ”または“輿論”に関する古い記録としては、『奄美大島史』によるもののほか、明治三十四年に冨士房から発行された『斉日本地名辞典』(吉田東伍編)に中国の明人の書に“繇奴(ユウヌ)につくれり”とあり、また琉球の『中山伝信録』の中に三十六島の一つとして“由論”の名が出ている」と述べている。(p.2)

 明の時代、与論が中国から「ユウヌ」の音として漢字化されたことがあったというのだ。石垣島の「yuuni」、ユウヌはユウニが転訛したものと見なせるから、同じユニ系の言葉として捉えることができる。そこで、「ユニ」が「ユンヌ」になるまでの音韻の変遷を復元すると、

 yuni > yuuni > yuunu > yunnu

 となる。ユウヌをユンヌの手前の音韻と見なすわけだ。そこで、明人は「繇奴(ユウヌ)」と記した。

 はたしてユウヌはユンヌへと変化しうるだろうか。たとえば、津軽では「ちょうど」が「ちょんど」となり、下北では「ゆうべ」は「ゆんべ」、阿波では「しょうがつ」が「しょんがつ」になる。大阪では「ぼうさん」が「ぼんさん」。思いつくままに挙げても長音が撥音化される例は出てくる。これらの例からは濁音の前の長音が撥音化される傾向を認めるこのができるが、「ぼうさん」のように濁音の前以外でもありえると見なせる。実際にユウヌよりユンヌのほうが言いやすく音便に適っていると思える。

 また同じユニ系の地名を持つ与那国島について、村山七郎は伊波普猷の「朝鮮人の漂流記事に現れた十五世紀末の南島」を引いている。伊波に協力した小倉進平は、漂着した与那国島(1477年)を表したユンイシマと読める文字について、ユンは「与那・ユナグニ等におけるユノまたはユナに宛てたものと思はれ」、イは「特別の意味なく添へられたものだと思はれます」と言っている(『琉球語の秘密』村山七郎)。小倉はユノまたはユナにユンを当てたというように理解していると思われるが、実際にユンと聞こえたのかもしれない。もっと言えばユンイと聞こえたのかもしれなかった。ユニのユンヌへの転訛を考えればありえないことではない。

 ところで、オーストロネシア語の「砂・砂洲」としてのユニは琉球弧を北上し列島の大きな島に入ると、「米」の意味をまとうようになる。たとえば12世紀前半の『名義抄』にイネノヨネとあるのは、「米の実」を意味していた。

 南西諸島から西日本にまで移動し、すでに定住していたオーストロネシア語族が、縄文時代末期に渡来した稲の穀実を「砂」に見立て、このように命名したのである。

 「ユニ」は西日本に入り五母音化の影響を受けて「ヨネ」に変わる。そしてそれだけではなく、味気ない色の「砂浜」に憑依するよりは地名を離れて「米」に憑依した。琉球弧の白亜の砂浜はただ美しいだけではなく神聖な場所だった。「米」もただの食糧というのではなく、祭儀として昇華されたように信仰の象徴だった。「ユニ」が列島の砂浜ではなく米に憑いたことに、ぼくたちは合理より喩を選択した初期ヤポネシア人の詩的精神をありありと感じる。「砂州」としての「ユニ」は「ヨネ」に五母音化して、「米」に転移した。これは「ユニ」の詩的冒険だ。

 また、原義を離れて別のものの名となるのも珍しいことではない。崎山によれば熊本ではヨナが「火山灰」の意味になっているし、また沖縄の首里ではあられをユキと呼んだ。

 崎山は、「ユニ」の意味と転移だけではなくその時期も想定しており、オーストロネシア語族とともに「ユニ」が北上したのは縄文時代晩期から弥生時初期にかけてのことだとしている。上限は約三千三百年前に遡れるわけだ。管浩伸の「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」によれば、珊瑚礁としての与論島が海面に到達するのは約三千五百年前。沖縄島には一万数八千年前とされる港川人がおり、奄美大島のヤーヤ遺跡は二万年五千年に遡ることができるのを踏まえると、与論島は琉球弧のなかでも相当に新しい。そしてそこにほどなくして、オーストロネシア語族が南からやって来る。彼らの一部はその真新しい島の初期島人にもなっただろう。そこから「ユニ」が「ユンヌ」へと転訛する冒険が始まったのだ。

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2011/02/06

ウドゥヌスー=御殿の後

 私家版『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』を読んでいて、愉快になった。

 現在、茶花漁港となっている所が当時アガサミナト(赤佐港)とよばれていた茶花の泊地だが、その後背地で、現茶花自治公民館のあたりは、番や蔵なども置かれていて、今でもこの地域を「ウグラ(御蔵)」といっている。又、このウグラの地から、港とは反対の北側には「ウドゥンヌスー」という砂浜があるが、この地名は、「ウドゥンヌウッスー(御殿の後)」の語が転化した地名だと思われる。『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』(竹内浩、2009年)

 ぼくは、以前、苦し紛れに「ウドゥヌスー=布団の洲?」と仮説したことがあった。書いた本人も「笑ってやってください」としているが、それから四年、ぼくの認識は進まなかったのだから、「御殿の後」という鮮やかな謎解きが嬉しい。ウドンヌウッスーは、転訛すれば、容易にウドゥヌスーになる。地名の付け方としても自然な流れだ。

 ただ、これが地名の由来であるとしたら、18世紀頃のことだから、それ以前の地名もあったのかもしれない、という想像が働く。あるいは、当時、宇和寺は未開の地であったとしたら名は無かったかもしれない。でも漁撈の民であれば、ウドゥヌスーで休息した島人もあったろうから、名はあってもおかしくない。そんな想像が広がってゆく。

 わがフバマは、小さな浜の意で謎はどこにもないが、ウドゥヌスーは長年、意味の分からないままだった。それがやっと氷解した。竹内さんに感謝である。

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2009/04/20

与論(ゆんぬ)の地名語源についての注

「日本の島へ行こう 与論島(よろんじま)」というページがあって、そこで、このブログ経由で知ったこととして、与論(ゆんぬ)の地名語源を「砂」と解説してあった。

嬉しいのだけれど、(ゆんぬ=砂)として解説されているので、これが仮説であること、しかも、ぼく以外の人からは聞いたことのない(苦笑)ひとり仮説であることを書いておきたい。そんな可能性は小さいにしても、この説が無媒介に一人歩きするのも本意ではない。

ぼくの知る範囲では、これまで与論(ゆんぬ)の地名語源の仮説として出されているのは、(ゆんぬ=寄り物)という説だ。ぼくは公表されたものとしてはこれ以外知らない。この(ゆんぬ=寄り物)説は、モノが島に漂着する様を指して、そう呼んでいる。

ぼくは地名のつけ方の原則からしてそれはないだろうと考え、自分の島言葉の身体記憶に耳を澄ますように考えたのが、(ゆんぬ=砂)という説だ。これは島の地勢を実によく表現してもいる。

ぼくはいまのところ、これがいちばん合っているのではないかと考えているが、個人の仮説に過ぎない。学者の説が正しいわけでも、学者でなければ正しくないわけでもないけれど、ぼくは地名学者ではなく、単純な原則と与論言葉を知っている身体感覚からアプローチしているに過ぎないといえば言えるので、そのことを書き添えておきたい。

いつかもっと確信を持って言えるようになりたいものだ。(^^)

 ※ユンヌ 「ユリヌ・漂着」説
  ユンヌ 「ユナ・砂」説

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2009/01/26

与那国=与論

 小倉進平は、1477年、済州島民が与那国島に漂着したが、与那国の島人から聞いた島名に彼らがハングルで当てた字を見ると、「ユンイ」と読め、「ユン」は「与那・ユナグニ等におけるユノまたはユナに宛てたものと思われ」、「イ」は、「特別の意味無く添えられたものと見て差支えないと思はれます」としている。(村上七郎『琉球語の秘密』

 もちろん、ぼくがここで注目するのは、石垣島などからユノーンと他称される与那国島について、島人の発音をユンイと聞きとっていることだ。与那国島のドゥナンのd音はy音と等価なので、ドゥナンはユナンである。

 すると、ユナン、ユノーン、ユンイは、取りうる表音の変化の範囲内にあることになる。


 ここで、「ユナ(juna)」がこれらの地名の本源であると仮定する。
 するとまず、ユナン、ユノーンへの変化を想定することができる。

 juna > junan > junon

 後段の変化は、「a」について、ア行同一行内の転訛(a > o)である。また、同じく、ユナは、ユンイとも呼ばれた。

 juna > juni > junni

 この変化は、「i」について、ア行同一行内の転訛(a > i)である。そしてこう書くと、ユナがユニと呼ばれることと、ユンイと呼ばれる(聞こえる)こととは同じだと見なせる。同様にユンイとユンニは区別がつかない。

 また、最後の「i」について、ア行同一行内の転訛(i > u)を想定すれば、

 juna > juni > junni > junnu

 として、「ユンヌ」になる。
 ここまでくれば、徳之島のヨンニ浜、与那国島のダンヌ浜への転訛も想定しやすい。

  juna > juni > junni > jonni
               > junnu > jannu - dannu

◇◆◇

 整理してみる。

 juna(ユナ・砂) > junan > junon (ユノーン・与那国島の他称)
  ∨          |
 juni(ユニ・砂)   dunan(ドゥナン・与那国島の自称)
  ∨
 junni(ユンイ・15世紀、朝鮮人記録の与那国音) > jonni(ヨンニ・徳之島の浜名)
  ∨
 junnu(ユンヌ・与論島の自称)
  ∨
 jannu
  |
 dannu(ダンヌ・与那国島の浜名)

 juna(ユナ・砂)を本源に置くと、ドゥナンへもユンヌへも行くことができる。また、与論はユンヌと呼ばれる前、ユニやユンニと呼ばれた時期のあったことが想定できる。この間、国頭の与那(ユナ)と区別する意識も働いただろう。

 こうしてみると、与那国島と与論島は、与那、与根(ユニ)、与那覇と意味を同じくした、気づかれていない「砂浜」系の地名なのではないだろうか。



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2007/09/19

立長の由来

ダ行がラ行になる、またはタ行の濁音とラ行の濁音が等価であるという
仮定は、「立長(りっちょう)」の地名の語源にも手がかりを与える。

それというのも、「第6回 琉球語と地名研究の可能性」によれば、
「立長」は、「瀬利覚」と表記されていたことがあるという。

 第6回 琉球語と地名研究の可能性

「瀬利覚」は、「せりかく」と読めるが、
沖永良部島の知名町にある瀬利覚は、「ジッキョ」と呼ばれ、
沖縄の浦添市にある勢理客は「ジチャク(ジッチャク)」と呼ばれている。

つまり、「立長」も、「ジッキョ」あるいは「ジッチャク」と
呼ばれていた可能性があるわけだ。

沖永良部や沖縄の「ジッキョ・ジッチャク」は、
「瀬利覚・勢理客」の表記のままだったので、
「ジッキョ・ジッチャク」の表音が残り、語源探索しやすかったが、
「立長」は、「瀬利覚」から「立長」への表記の変化が伴ったので、
それが語源探索の障害になってきたと思える。

一度は「瀬利覚」と表記された土地が「立長」となるのは
一見、不可思議だけれど、
「瀬利覚」が、「ジッキョ」あるいは「ジッチャク」と発音されていたとしたら、
その声音に則って「立長」と表記される可能性を検討できそうだ。

ここで、「ジッキョ・ジッチャク」の「ジ」には、
古形があると仮定してみるのである。

「ジ」は五母音の「ジ」とみなして、三母音に対応させると、
「ジ」は「ディ」の音をとりうる。

すると、「ジッキョ・ジッチャク」の古形として、
「ディッキョ・ディッチャク」という表音が得られる。

さて、ここで昨日の冒頭の仮説、
ダ行がラ行になる、タ行の濁音とラ行の濁音が等価である、を参照すると、
「ディッキョ・ディッチャク」は、「リッキョ・リッチャク」と表音されて、
こうなると、「リッチョウ」への変化は容易く見て取れることになるのだ。

ここにも、ダ行とラ行のつながりを見ることができる。

 ※「デューティ <d → r ?>」


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2007/07/17

ユンヌの語源 註

ユンヌの地名は、「砂の島」であると仮説している。
このとき、ユンヌの「ヌ」は、格助詞「の」と解していた。
砂「の」島、というように。

ただ、これでは、与那国島の「ドゥナン」の説明にはならない気がする。
そこで、「ヌ」は、格助詞「の」ではなく、
アイヌ語の「~を持つ」の意味に解してみる。

「砂を持つ」、ユンヌ、である。

これはもともとは、ユナ(砂)ヌ(持つ)に分解される。

この、ユナ・ヌが、ユンヌやドゥナンになる様を挙げる。

1)   
yuna・nu

yunan (uの脱落)

1-1) 
yunan

dunan (y=d) ドゥナン

1-2) 
yunan

yunon(a→o、訛りによる変化) ユノーン

2)
yuna・nu

yunnu (aの脱落) ユンヌ

2-1)
yunnu

dunnu(y=d)

dannu(u→a、訛りによる変化) ダンヌ

ユナヌから、母音uが脱落(1)して、
ドゥナン(1-1)やユノーン(1-2)のバリエーションが生まれ、
ユナヌから、母音aが脱落(2)して、
ユンヌ(2)やダンヌ(2-1)のバリエーションが生まれた。

※ドゥナン(与那国島の自称)
 ユノーン(与那国島の石垣島などからの他称)
 ユンヌ(与論島の自称)
 ダンヌ(与那国島にある浜の名)

ここで、語中の母音uやaが脱落する合理的な理由を知らない。

強いて言うと、ユナヌという語を言いやすくするため、
「ナ」を「N」にするか、「ヌ」を「N」にするかした
という説明が考えられる。


仮説:ユナヌが、与那国島であり与論島になった。



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