カテゴリー「48.奄美と沖縄をつなぐ(イベント)」の28件の記事

2010/02/07

「「奄美と沖縄をつなぐ2009」を写真で振り返る。」

 gacchikoさんが、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのスライショーを音楽に載せて作ってくれた。時の流れは激しくもうずっと以前やったことのようなのだが、映像を通じて当日の興奮が身体にしっかり刻まれているのを思い出させてくれる。多謝。

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 ※昨日の、「加計呂麻島で大規模伐採計画」で紹介した「奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG」の「「チップ工場」説明会」は、テープ起こしによる記事だ。やったことのある人は分かると思うが、テープ起こしは地味で地道な作業だ。ふつうは報酬があってやるものだが、ボランティアでやるのは気骨の折れることなのだ。去年、400年イベントでその都度、参加できた誰かがやってくれないかと願ったが一つもなかった。どれほどの想いでやっているか伝わってくるというもの。現在、「その8」まで進んでいる。まだ完了していない。

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2010/01/29

「琉球弧芸能祭」

 南海日日新聞の「金海天地」(2010年1月26日)。

 奄美文化センターであった「琉球弧芸能祭」(23日)を鑑賞した。お目当ては約300年の伝統を誇る沖縄の国指定の重要無形文化財「組踊」

▼「組踊」は琉球王府時代の宮廷芸能の根幹とされる総合芸術。中国からの使者を歓待するため、踊り奉行の玉城朝薫が能や歌舞伎を取り入れて創作、日本や中国との交流の中で洗練されていった琉球独自の歌舞劇

▼同センターで上演されたのは、1719年初めて上演された玉城朝薫による2作品のていちうち護佐丸敵討(二童敵討)。あじ按司の子ども2人が父の敵討ちを果たす物語が、荘重な調べと優雅な踊り、独特のせりふ回しで繰り広げられ、見る者をあきさせない

▼登場人物の一人が勝連按司の阿麻和利。一般的には逆賊とされているが、琉球の古歌謡集「おもろさうし」では首里の王と並び称されるほど賛美されている。勝連や護佐丸のいた中城と奄美との関係を示すおもろもあり、興味深い

▼この夜のもう一つの目玉が瀬戸内町油井の豊年踊り。県指定の無形文化財で組踊とは対照的に、奄美大島南部の風土そのものといった素朴な魅力に富んだ踊りや無言劇が観客を楽しませた

▼沖縄と奄美を代表する伝統芸能を同時に堪能できたのは好運だ。琉球弧の芸能の魅力と奥深さを十分味わった。ただ残念なのは観客が少なかったこと。奄美で組踊が披露されるのは極めて珍しい。もっと多くの人に見てほしい舞台だった。

 これはぼくたちがやった「奄美と沖縄をつなぐ」の奄美現地版という風に見える。「もっと多くの人に見てほしい舞台だった」。ぼくもそう思う。

 模様は「サモガリが奄美のシマち、ともしゅっとー」に詳しい。

◇◆◇

 ところで、普天間基地移設問題で徳之島がその候補として挙がったという報があった。奄美のぼくたちは驚く。反対をするのは自然な感情だが、現地の行政者は同時に、普天間基地撤去の声も挙げてほしいと思う。

 「沖縄離島ブログ」が、なぜ離島ばかり、という問題意識で書いている。

 「何故離島ばかり・・・。今度は徳之島が標的。」



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2010/01/24

「闘走的音楽案内71」

 「インパクション172」の「闘走的音楽案内71」への寄稿文が載った。
 「「奄美と沖縄をつなぐ」イベント(11月14日)を終えて」として、持田明美さんとの振り返り文だ。

 浦島悦子さんの文章も載っていて読むのが楽しみだ。


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2010/01/11

「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの打ち上げを台湾料理で

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの打ち上げを、持田さん、syomuさんと、ゆうべ池袋の台北夜市でやった。イベントがイベントなのだから、奄美、沖縄系の店が合っているんだろうけど、開催前に通いづめしたせいか、なんとなくたまには外の味を楽しみたかった。で、台湾料理もまろやかさと甘さと酸っぱさがあって、美味しかった。勢い会話もはずむ。

 当日、会場で配ったアンケートの結果も、遅ればせながら見せてもらった。「奄美が鹿児島県だということを初めて知った」という声もあれば、「もっと白熱したトークを」という声も。ぼくの、このテーマに関心を持つ人は少ないという思いこみからすれば、両者の中間ぐらいの参加者を想定していたので、こうした声はごもっともだし、でも思いこみ以上に、シマウタの力でもあるだろうけれど、関心を持ってくれる人はいるのだということが分かったので、そこは軌道修正しなきゃなと思うところだ。

 「どのようにつなぐのかが、まだ見えてこなかった」という声もあり、しっかり受け止めたいと思っている。それは模索と試行を続けたいと考えていることだからだ。

 いま思うともっとお互いの労をねぎらってもよかったのに、もう奄美、沖縄談義に花を咲かせて夜は一気に更けていった。こういう会話に飢えているし話せる相手だと止め度がなくなるのを再確認もしたひと時だった。奄美、沖縄にかかわる人、心を寄せる人の声をもっともっと聞きたい。そういう余韻が残った。

 改めて、参加くださったみなさん、肉筆でアンケートの答えてくださったみなさん、本当にありがとうございます。またお目にかかれれば。


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2009/12/14

奄美を題材にした授業

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントに来ていただいた方からお便りをいただいた。中学校の先生なのだが、驚くことに授業で奄美の自然環境を題材にしているという。

 黒砂糖を配る、サトウキビを配る。サトウキビとイネを比較させて両者の違いを気づかせる。マングースやイタチが入ったことで生態系はどうなったか、教える。そして、ここから1609年のことにはいる。1609年に奄美で何が起こったか。奄美は、大型船の建造を禁じられ、貨幣の流通を禁じられ、黒糖の生産を強いられる。それはどういうことなのか、想像してもらう。そして最後、生徒たちにこう問いかけるのだという。

「あなたが映画のディレクターだとしたならば、この奄美と薩摩に関わる当時のようすを映画化するときに「奄美からの視点」と「薩摩からの視点」のどちらの立場に立ちますか?」

 この過程で、奄美の被害だけに触れているのではない。薩摩の農民も、重税については同等であったことも伝えているのだが、この落とし所、どちらが正しいか、ではなく、どちらの立場で映画を撮りたいですかという問いかけは、単純な倫理への短絡に緩衝帯を設けるものだと思う。

 ぼくはこの授業形式に驚いた。そして、ぼくがもし中学校の教師だったら、こんな授業が組めるだろうか、と自問して、できないかもしれないと思った。

 語るに値しない。そう思い続けてきた思いこみがあって、とても授業の遡上に乗せるという発想ができそうにない。あるいは、自分がやると想定したとき、鹿児島で行うことを無意識に思い浮かべてしまうからかもしれない。彼の地でやったなら、父兄の前に、学校側から反発や圧力を受けるに違いない。もしかしたら生徒にも反撥に似た反応があるかもしれない。いやぼくは、こうした反発が想定されるからできないというのではない。そんななかで冷静にこの内容の授業を行うのは難しいと感じるのだ。

 でもよく考えると、これらのことは思いこみであって、率直に行えばいいだけのことではないのか。この方からのお便りは、何かをする前に、諦めている自分を気づかされる想いだった。この一年、400年関連イベントに目を凝らし、何度もなんども同じテーマをめぐって考えてきた。ふつうにみれば、なぜここまでこだわるのか不思議にも見えるだろう。自分でもおかしいのではないかと内省する瞬間もあるなか、こうしたお便りをいただけるのは望外の嬉しさだった。ちなみにこの方は奄美の出身ではない。奄美外の人に伝える努力をすること。伝わることはあるということ。そういう励ましを受け取る。そういう意味では、400年をめぐる出来事のなかでは今年もっとも嬉しいニュースだった。


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2009/12/05

「奄美と沖縄をつなぐ」DVD

 ゆうべ、預かってもらっていたDVDをピックアップに琉琴へ。「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのDVDを作ったのだ。

 唄者のひとり、熊倉さんにさっそく、「見ますか?」と言われたものの、自分を見る気には到底なれなく、「遠慮しときます、生ビールください」と注文。でも、出来立てのDVDを眺めてるうち、コンサートの部は2巻のうちもう1巻なの確認すると、俄然、観たくなってきて、「やっぱりこのコンサートのとこだけ見せください」と、店内で流してもらうことに。

 当日は、トークセッションが終わったあとは、引き続き議論したりあちこち歩き回ったりしたので、半分も観れていないくて、イベントの全体観がまだないのだ。主催者とはイベントを観賞できない人のことなのだ。

 でも、藤木勇人さんの噺からコンサートを通して観て、本当によかったなと思えた。やってよかった、と。

 トークセッションの冒頭でも話したが、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマはとても個人的だと思っている。で、イベントが開催されるまでの日々は、個人的な関心に過ぎないことで呼びかけを行っていることに内心、慄いていた。それは本を書くのとは違う経験だった。本もきわめて個人的な関心から出発するが、それをどれだけ普遍化できるかと心血を注ぐのも個人的だ。そして本になってしまえば、あくまで個人のものとして提出することができる。しかしイベントは、多くの人を巻き込み、多くの人に来てもらわなければいけない。なんてことをしてしまったのだろう、こんなテーマ誰も関心を持つはずがない、と落ち込んでいき、思うように動けなかった。心がそちらへ開いていこうとしなかった。逃げていたい気持ちだった。もちろんそれは傲慢なことで、その間も持田さんはじめ多くの方たちが動いてくれていたのだった。

 そんな心境からゆうべ解放された。イベントの終了ではなく、自分も観客のひとりとしてコンサートを楽しんでやっと解放された。

 で、言うのが遅いけど、この違うけれど同じ、同じだけれど違う唄の流れを辿るのはとても面白い。「新感覚」そのものだった。新規なアレンジなどもちろん施していない。唄者はその道の本格的な方ばかり。でもそれが一堂に会すると、不思議な感じたことのない世界観を見せる。その理由のいったんは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』のように唄と唄のあいだに切れ目がなく(短く)、編集された作品のように仕上がっていたからかもしれない。これができたのは、一人ひとりの唄者の唄がプロフェッショナルで、しかも場の流れに乗ってやってくれたからだ。魔法のような時間が流れたんだなと思う。やってよかった。安堵。

 
 さて、このDVD、お売りいたします。

 ・「奄美と沖縄をつなぐ」DVD 3000円
 ・「奄美と沖縄をつなぐ」DVD 4000円(パンフレット付き)

 この二つのパターンです。関心のある方はメールをください。お分けいたします。

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2009/12/03

いじけやすさ

 思い出せば、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの「異種格闘型トークセッション」の際、藤木勇人さんが、自分たちの特徴として、虐げられ続けると、ひねやすくなる、と話したくだりがあった。隣りで聞いていたぼくは思い当たる節、大ありだった。

 鹿児島がものを言えば、どうせ奄美のことは入ってないんでしょ、と思い、
 日本がものを言えば、どうせ琉球的なものは入ってないんでしょ、と思い、
 奄美大島がものを言えば、どうせ与論のことは入ってないんでしょ、と思い、
 沖縄がものを言えば、奄美も含まれるけど関心ないんでしょ、と思う。

 でもって、その先入見がたいていは裏切られないから、いじけは再生産され固着してしまう。ああ、確かにぼくはいじけやすいし、その分、言葉が強がって出たりする。けれど、それでは先入観も固定化してしまう。するとよくないのは、誰かの他意なきひと言を悪意の決め付けに見なしてしまうことがある、のだ。

 でも、いじけやすさこそ、わがなつかしきすみかなれ、と言い続けて終わりたくはない。いじけやすさの克服、ですね。



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2009/11/25

「新しい琉球弧像訴える」

 17日の南海日日新聞に、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの記事が出ていた。記念に画像であげておきたい。唄者とマタハリダンサーズがいい感じだし、パネラーの後ろの地図画像もうっすら見える。

 「沖縄・鹿児島連携交流事業」を経て、地元が切迫しているのに、呑気なことをしてしまっただろうかと一瞬、思いかけたが、いやいや、交流にふさわしいのはこちらのほうだ。やってよかった、と思うことにした。だいたい、あれだけ大勢の方に動いてもらって呑気は失礼だろう。それにこちらは確かに交流したのだ。あまみんちゅもうちなーんちゅも、やまとぅんちゅも、外国の方も在日の方も、関係なく。


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2009/11/24

琉球弧図(「奄美と沖縄をつなぐ」)

 沖縄・鹿児島連携交流事業があって、はるか昔のことのようになってしまったが、もっと「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの余韻に浸っていたかったのである。

 というわけで、これは当日、スクリーンにスライドショーで投影した奄美、沖縄の地図。地図も県で区切られたものが多いので、奄美と沖縄を俯瞰できるものにはなかなかお目にかかれない。それで全体を眺めてみたかった。かつ、少なくとも有人の島の名は載せたかった。島が小さくて載ってないものもあるが、他意はなく、画像処理上、溶けてしまったのだ。申し訳ない。

 パネラーとしてはこの絵を背にしていたので、よく見ていないのだが、参加者の方は奄美、沖縄のイメージを絵として持っていただけたのではないだろうか。いつかトカラにつながる企画もやってみたいものだ。

 syomuさん製作。このおかげで奄美、沖縄が概念的になりすぎず、ビジュアルとして広がっていったと思う。感謝だ。


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2009/11/16

「奄美と沖縄をつなぐ」異種格闘型トークセッション

 まず、大真面目にいえばこのイベントは、薩摩の琉球出兵400年を考えるなかで企画されている。今年、奄美、沖縄、本土の各地で開かれたイベントは、東京で開催されるものはなるべく足を運び、奄美、沖縄の場合は、新聞やブログの記事を追ってきた。それはとても意義深いものだと思う。しかし一方、歴史家の歴史研究報告がほとんどであることから、その意義とは別に、未来へ向けた志向をどうつくればよいのかという課題は残るように思えた。名目だけ未来へと銘打ったイベントも21日、奄美大島で予定されているが、県主導の、露骨に市民不在のものであり、ぼくたちの未来だとは思えない。

 歴史家ではないぼくたちに何ができるだろう。そう考えると、この歴史を乗り越えるために、さまざまなアプローチが考えられるが、ぼくはぼくにとって切実なテーマから始めるしかない。そう考えれば答えは自然で、「奄美と沖縄をつなぐ」ことだった。それはなにしろ、ぼくにとっては数十年来、やむことのないものだから。

 人選は難航した。ただ、難航したと言っても依頼しては断られを繰り返したのではない。「奄美と沖縄をつなぐ」に関心のある奄美、沖縄の人を他に知らなかったからである。唄者の層の厚さに比べて何ということだろう、と思ってみたりした。でもそんなことはなく、ぼくが知らないだけなのだ。そんな自問自答を繰り返したが、その期間が長かった。ブログを見返してみると、5月に会場を決めたのを書いているが、パネラー決定はずっと先の9月。4か月も悩んでいたことになる。決まってみると、意外なところでそれぞれに接点を持っている方々になった。

◇◆◇

 ところで当日のことは、トークセッションが終わると、続けて出番の藤木さんを残し、上里さん、圓山さんとは言い足りなかったことを吐き出すべくディスカッションを継続したが、それもあってシマウタコンサートの部は、残念ながら全体観をつかめていない。録画をはやく観たい。ああ、全体を通して聞く側になりたかったなあ。

 トークセッションは、上里さんが顔ぶれをみて、異種格闘型ですね、と言い当ててくれたのでそれを使わせてもらった。トークセッションの中味は、なんとツイッターのツイートをgacchikoさんが編集してくれているので、なんとなくの流れは伝わると思う。

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 政治的な内容にはせず、統一見解を出すのが目的でもなく、立つ位置の違う四者それぞれの声から、つながることへの接点や糸口が見えて、それが会場に来ている人の立つ位置からも接点や糸口をみつけてもらえるような波状の広がりを目標にしていた。パネルディスカッションの司会は初チャレンジであり、ぼくの技量は心もとなかったが、いくつかその場で伝えられなかったことを含めてメモしたい。

 藤木さんについては、その話芸を真横で聞いていられたのがぼくの贅沢だった。間の置き方、声の強弱。まるで音楽だ。また、パンフレットに載っている藤木さんの文章は、ご自身がリライトしたものだ。原稿依頼をして最初に届いたのは心温まるメッセージだった。これで十分と思っていたが、すぐに藤木さんはこちらを使ってほしいと送りなおしてきた。内容は変わってないけれど、大きく変わっていた。何か? 言葉、語り口が、だ。最初のが標準語バージョンで、次に来たのが、沖縄大和口バージョンだった。文章の親近感が俄然、変わる。ここにも芸を見る思いだった。

 上里さんは、「奄美と沖縄をつなぐ」具体案を持っていたのだが、進行役の力不足と時間切れで果たせなかった。これはとても残念で、改めて公開する場があればと思う。パンフレットでは「奄美の自画像」の必要性を提案しているが、その通りでトークセッションのたどり着く先をガイドしてくれた。上里さんは、『琉日戦争一六〇九  島津氏の琉球侵攻』の出版も控えている。こちらも楽しみだ。用意した既刊の本は完売とのこと。よかった。

 圓山さん。ずっと座っているので分かりにくかったかもしれないが、彼は「奄美の家」の店員さんスタイルで登場していた。おかげでぼくにはいつもの圓山さんとして接することができたが、「奄美の家」のお客さんは気づきましたか? 圓山さんは冒頭、自分たちのシマ(島)のことに精一杯で余裕がなく「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマは考えもしなかったと話した。しかし議論はめぐりめぐって最後には、シマ(島)を根拠にした自画像を奄美も沖縄も自分たちの手でつくる必要があるというような流れになったから、冒頭に結論を話してもらったようなものだった。

 みなさんにとっても感じることの多い場であったのを願っています。


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