カテゴリー「62.琉球文身」の31件の記事

2017/05/27

蝶形骨器の時代 2

 ここで確かめたいのは、蝶形骨器の形態とそのおおよその時代だ。

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(「沖縄縄文時代の蝶形骨製品」(金子浩昌))

 ここで吹出原遺跡の蝶形骨器が、貝塚時代第Ⅴ期に相当されている。つまり、約3000年前だから、ぼくの考えでは「貝」時代に入っている。それまでは、「ザン-蝶」の時代と見なせる。

 興味深いことは、蝶形骨器製作の初期から一枚組のものだけではなく、二枚組のものも作られている。そして、第Ⅴには一枚組は作られていない。

 ぼくの考えでは、これは霊魂思考の進展を示すものだ。つまり、「蝶」を「ジュゴン」の変形と見なす思考は、第Ⅳ期までで、それ以降は、「蝶」を「ジュゴン」の分解再構成とみなす考えが優勢になったということだ。

 二枚組のものは多くが「蝶」の翅が大きく広げられ、いまにも飛び立ちそうに見える。実際、これらの形態は「蝶」が、「ジュゴン」の元を離れたがっているようにも見える。(参照:「蝶形骨器の時代」

 

 

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2017/05/09

パピルは「後世の姿」(野口才蔵)

 与論島の民俗研究家、野口才蔵は、刺青の左手尺骨頭部の文様について、小原一夫が採取した「アマン(ヤドカリ)」という聞き取りを紹介した後、右手の尺骨頭部について考察している。

右手の同じ部位にあるものを『パピル』という。パピルは蝶や蛾の意で、美人や踊りのうまい人の意にもとれるが、奄美諸島全域に見られるもので、特に奄美大島では、蛾のことを『ハヴィラ』と言う。夜間に光に集まってくる蛾を見ると、死者の化身として恐れられる習慣があり、死人の出た直後は特にその感が強い。この考え方からみれば、与論島に見られる『パピル』は、後世の姿をとるのが妥当ではないかと思う。(『奄美文化の源流を慕って』)

 ぼくたちの理解では、入墨自体が霊魂の発生を物語るので、「後世の姿」はその通りだとしても、それは死者の精霊というより、霊魂のことを指すと考えている。

 しかし、いままで読み流してきてしまっていたが、驚くことに、野口は右手の尺骨頭部の文様についても理解を届かせていた。それはとても素晴らしいことだ。野口は、与論の場合と限定をつけているが、広く琉球弧に寄与できる洞察だったのだ。それはいまから35年も前に遂げられていた。

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2017/05/07

「手」の位相メモ(ヘーゲルと吉本隆明)

 ヘーゲルは「手」の持つ位相について、こう書いている。

 いうまでもなく、手は、運命にたいして外的なものというより、運命と内的にかかわるもののように見える。運命とは、特定の個人が当初の内面的性格として潜在的にもっていたものが、おもてにあらわれたものにすぎないのだから。そして、潜在するものを知るには、たとえば、全生涯をおわってみなければ知ることはできないと考えた古代ギリシャの賢人ソロンの言にしたがうよりも、手相術師や人相学者のもとにおもむくふが手っとり早い。ソロンが運命の転変を見わたそうとするのにたいして、手相術師や人相学者は潜在する元のすがたを見ようとする。そして、手が個人の運命の元のすがたを表現していることは、手が、ことばの器官たる口に続いて、人間の自己表現や自己実現の有力な手段であることからも、容易に推測される。手は幸運を作り出す魂のかよった名工というわけだ。手は人間の行為をあらわすものだといえるので、自己実現の実行器官たる手を見れば、そこに魂をもって生きる人間が宿り、もともとみずからの運命を切りひらいていく人間の、その元のすがたがそこに表現されているというわけである。(ヘーゲル)

 手は「ことばの器官たる口に続いて、人間の自己表現や自己実現の有力な手段である」。「手は幸運を作り出す魂のかよった名工というわけだ」。

 これを思い切り、琉球弧のサンゴ礁の思考に引き寄せれば、手は魂の表現そのものに他ならない。手には人間の魂が宿り、「その元のすがたがそこに表現されている」。

 ヘーゲルは論理を語っているわけだが、まるでサンゴ礁の思考を言い当てているようにすら見える。ここでぼくたちは、琉球文身のことを考えている。ヘーゲルが言うのは、手相のことについてだが、文身の刻まれた手の背は、魂を表現できる絶好の場だということになる。

 吉本隆明は、ヘーゲルの言を受けて書いている。

頭部、手、足は、表情として思いいれられた衣裳にほかならない。ただこの思いいれは、まぎれもなく頭部、手、足などのいまのすがたをあらわす、精神のあらわれとして、必然性をもっていて、この必然性が思いいれの本質になっている。(「ファッション論」『ハイ・イメージ論Ⅰ』)

 ここで注目しているのは手だが、そこはまさに霊力と霊魂を表現する場となった。
 

『精神現象学』(長谷川宏訳)

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2017/04/10

「南島の入墨(針突)について」(小原一夫)

 小原一夫が『南島入墨考』(1962年)を出すずっと前に、針突きについて論考を発表していた。その1947年の「南島の入墨(針突)について」は、『南島入墨考』の部分要約に見えて読み流してきたが、注意していると、ここにも重要な記述があった。『南島入墨考』では割愛された箇所だ。

昔から伝わるこの入墨の文様を、左手と右手とを突き違えた入墨施術者に、美しく優しい八重山乙女が自らの手を食ひ切って、再び突き直させたと云う挿話が、今にも語りつがれて、これが如何に重要であり、且つ神聖なものであったか、と云ふことを示して居る。

 右手左手の文様の違いには意味があったこと、とても重要だったことが示されている。それを知らずに追ってきたぼくたちの眼にも、左右の違いに格別の意味を見出してきたから、この聞き取りはかけがえがない。

 もうひとつは奄美大島の歌謡だ。

 彩入墨つかし
 片手ささぐれば
 天の白雲を取つたごとくに

 この歌謡は、針突きをした女性の、誇らしげで躍る気持ちが伝わってくる。輪踊りの詞の横に置くといい。

 腕あげれあげれ綾はづち拝ま
 腕あげれあげれ玉乳拝ま

 針突きについて書かれたものはいくつかあるけれど、重要な示唆は、大部分は小原の取材した伝承や老女からの伝承から受け取っている。調査時期がはやかったことにも依るだろうが、小原には何かそういった大切なものを引き寄せる力があったのではないだろうか。

 参照:「琉球文身」

 

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2017/04/06

琉球刺青、各島の類縁

 この縮尺じゃ、見にくいだろうけど、ある程度、島の位置との関連を持たせながら、刺青デザインを分布させてみた。

Photo_2

 このデザイン分布は、ある確からしさで歴史の反映を見ることができる。沖永良部島と与論島の類縁は、北山勢力圏にあった15世紀的と言えるかもしれない。また、沖縄島と石垣、与那国島の類縁は琉球王朝支配以降の16世紀的なものを感じさせる。同様に、宮古島は、自ら服属を図ることで八重山に見られる影響を被っていないのは、刺青についても言えることになる。そういう意味では15世紀以前的だ。

 しかし、目を見張るのは、「ウマレバン」と「後生の門」でつながる宮古島と与論島の類縁で、こういう歴史時代に入ってからの反映をみるだけでは経緯を読み取ることはできない例を示している。それはなんといっても、多良間島と沖永良部島が、線と面の区分を超えて類縁を感じさせることに象徴的だ。

 伊波普猷は、『李朝実録』の朝鮮人漂流の記録に刺青の記述がないことから、15世紀以降の刺青発生の可能性について言及している。宮古-与論、多良間-沖永良部の類縁は、それでは説明がつかないことも示している。

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2017/04/05

与那国島の刺青デザイン

  池間栄三は『与那国の歴史』で、与那国島の刺青デザインを模写している。

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 与那国島の刺青デザインは石垣島と似ている。ただ、同一というわけではもちろんない。指の背の文様は指先に近づくにつれ、先が尖るのがふつうだが、先をふたたび臼のように太らせているのは特徴的だ。与那国島はここだけ見ても、この島と名指せるほどだ。

 また、久米島のデザインとも類縁を感じさせる。

Kumejima1

 思い出させるのは、明治期の『マーチェサ号航海記』に描かれている刺青文様だ。

Photo

 このデザインは、肝心の尺骨頭部の文様がないのが不自然なのだが、甲と指の背から見る限り、この女性は与那国島にゆかりを持つ島人だったのではないかと思わせる。

 池間は書いている。

 入墨の風習は貧富の区別なしに行われ、嫁入り前、叉は出産前後になると、吉日を卜して親類、知人の女を集め、施術者を招いて、茶菓で祝事を行い、入墨を施した。施術は非常に苦痛であったようで、施術中は母親や集った女達がよってたかって娘の手首や腕を握り、体を抱いて、入墨を強行した。

 施術の模様が目に浮かんでくるようではある。しかし、池間はどちからといえば否定的な眼差しを注いでるように見える。これだけ丁寧にデザインを模写したのだから、個々の文様の名称や意味の聞き取りもしてほしかったものだ。

 琉球刺青は、記録者がいるだけでは足りなかった。記録する者に、近代の偏見を払拭できる懐も必要だった。


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2017/04/04

中国による琉球刺青記述

 15世紀の『大明一統志』の「琉球国」には、「手に刺青をし」とあり、その注に、『太平寰宇記』の記述として、「婦人は墨で手に刺青をして、龍蛇の文を作る」とある。

 『明代琉球資料集成』の注では、『太平寰宇記』の記述は「ほとんどが『随書』の引用である」としている。一方、伊波普猷は、「支那人には琉球の風俗習慣はかなりよくわかっていたはずだから、黥に関する『一統志』の記述が『随書』の縁引でないことはいうまでもない」と書いている(『沖縄女性史』)。

 冊封正使として来琉した陳侃が記した『使琉球録』では、「婦人は、まことに墨で手に黥をし、指に花鳥鳥獣の形をつくる」と書かれている(蕭崇業、謝杰著 原田禹雄、三浦國雄 訳注)。

 この二書のあいだの『李朝実録』には、「黥」の記述が見られないことから、伊波は「『一統志』が信用できないとすれば、この風習は、この六十年間に始まったとも見られる」と判断が揺れている。この60年というのは、1474年から1534年のあいだということになる。

 この理解では、琉球王朝の勢力拡大とともに刺青が浸透したかのような印象を与える。それは、18世紀の『中山伝信録』では、かつて廃止をしようと試みたがなされなかったという記述とは矛盾しているとも考えられる。

 むしろここは、『李朝実録』に記述されなかった背景を探るほうが妥当ではないかと思える。 


『明代琉球資料集成』

『沖縄女性史』

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2017/03/28

「「女神土偶」と生成のコスモゴニー」(鶴岡真弓)

 なんといっても鶴岡真弓の「「女神土偶」と生成のコスモゴニー」が生き生きとしている。サンゴ礁の思考にとっても刺激的だった。

 まずぼくたちのこだわりどころから入っていこう。

 古代中国の漢字の解字からいえば、「文様」の「文」は「×」のしるしのことだ。「「いれずみ」を「刺青」や「入墨」ではなく「文身」と書くとき、まさにその意味が明示される」。

 それは、「「よいもの」を留める、「よき封じ」のしるしである」。

この古代からの象形と漢字の解字が伝える「文 ×」の機能は、それより前の先史時代の恣意や信仰を継承しちる可能性が高い。

 鶴岡によれば、「+」は「×」で「回転させて、最初の動力を入れる」形であり、渦巻きを生成させる。

 また鶴岡は、「×=アヤ=文=文様は、災いのストッパーとしてのしるしでもあった」と書くが、「でもあった」というように、それだけではない意味も見い出している。日本で続いてきた、生まれた赤ちゃんの額に描く「×(文(あや)っこ」は、「祝いの文様」なのだ。

 ここでぼくたちも言うことができる。琉球文身の「+」「×」は、「魔除け」の記号と解されることが多い。しかし、初発の意味はそうではない。それは、豊かな霊力の場そのものを意味し、とりわけその境界の意味を持った。境界だから、封じるという機能も生じたのである。人間が自然に対して優位性を発揮するようになると、やがてそれは「魔除け」とも解されるようになった、ということだ。

 もうひとつ言うべきことがある。鶴岡は縄文土偶の女神について書いている。

 では何を指して、「女神」と呼ばれるのか。
 縄文社会、共同体あげての「生命産出」と「生成持続」への願いは、特殊なものではない。「いのち」「生成」という普遍的な経験と観念は、私たち今を生きる人間にも同じように思惟の要にある。しかし先史、新石器時代人の造形の強度と豊穣は、現代人の力をはるかに超えているといわねばならない。「女神」や「母神」とおぼしき像は、その後の人類芸術史には競うものがないほど豊かな「生命/生成のデザイン」を追究した。
 なぜなら結論めくが、それらは、近現代人が考えるような「あらかじめいる神の描写」をしたのではなかったからだ。存在が、創造的・想像的に繰り出す、徹底した「生命/生成イメ―ジ」の表象だからだ。

 その表象を牽引するのが「渦巻き」文様である。

 さて、琉球弧では「土偶」は出土していない。島人は土偶をつくることはなかった。これは、島人が自分を客体視した身体像を持たなかったことに対応していると思える。島人はまだ自然のなかに溶け込んでいた。しかし、それは女神の不在を意味していない。

 琉球弧においては、女神とは出現するものだった。それこそ女性身体として。女性たちは、女神本体の一部だった。そして、その本体とはサンゴ礁に他ならない。それは、「地母神(アース・マザー)」、「ゴッデス(女神)」と呼ばれるものの琉球弧バージョンであり、サンゴ礁母神ともいうべき存在だ。しかし、繰り返すが琉球弧では、サンゴ礁母神を造形したのではない。それを女性たちは生きたのである。

 琉球弧では、女神像からその思考にアプローチすることはできない。けれども、それによらずとも女神のあり方を生き生きと伝えて寄越す。それが先史琉球弧の魅力だと言ってもいい。そして、その女神のあり方を今日まで伝えたのが、琉球文身であることは言うまでもない。

 

『ユリイカ 2017年4月臨時増刊号 総特集◎縄文 JOMON』

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2017/03/15

池間島のアオヤッダ

 市川重治は『南島針突紀行』で、池間島の左手尺骨頭部の文様について、郷土史家の前泊徳正から文様アオヤッダ(アオヒトデ)について聞いてる。

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このアオヤッダは、深い海に棲息していて猛毒をもち、これを乾燥させて鼠の出入口などにおけば、その効果は抜群とのことであった。そうした猛毒を一つの効力とみなし、文様化して魔除け、厄除けの象徴としたのである。

 この記述からすれば、アオヤッダがサンゴ礁の外部礁斜面にいる。色と毒性からしても、男性動物だ。女性の針突きの左手尺骨頭部にこの文様があるのは、すでにトーテムの意味を逸脱している。トーテム性は保持していたとすれば、「太陽の妻」として女性を位置づけていたのではないだろうか。


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2016/12/27

『魂の形象―南西ニューギニア・ミミカの図像』(小林眞)

 ミミカ族は、ニューギニア西部の南側に分布する部族。小林眞のこの本は、ミミカ族のアートオブジェを追い、その図像の解読を目的としている。ぼくも琉球刺青の図像の解読を試みてきた。小林さんとは関心が重なり合う。

 下図をみれば、小林の探究が丹念に行われているのが分かる。

2

 ここでの関心からいえば、ミミカ族の刺青文様を見ることになる。

Photo

 上図(15)(の文様について、小林は「人体においては臍、女性器、男性器、目や骨の表象にも一部似ている。自然界においては、大地と海、雷の象徴表現に類似している」と書いている。

 すでにミミカ族においても文様の意味は不明であったわけだ。十字は琉球弧でも頻繁に現れる。(15-2)(15-3)は、徳之島が重視した図像に似ている。また、目を引くのは(14-1)が「骨」を表していることだ。これは、喜界島の手首内側の文様に似ている。下図の真ん中の例だ。

2_3

 ただ、この文様は、喜界島の他の例と照らし合わせると、下図の同位置のトーテムと霊魂表現を融合させたもののように見える。

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 それでも対照したくなるのは、刺青は骨に染みることが目指されたように、刺青は骨とつながって表象されていたと思えるからだ。

 ミミカ族の刺青文様は、琉球弧と同様にアルカイックの域を出ないばかりか、数も少ない。しかし、それはミミカ族のデザインが貧弱だということを意味しない。彼らは、刺青の他、ボディ・ペインティングも行っているし、盾やカヌーにもさまざまなものたちを象っている。特に祖霊像は豊かだといっていい。

 ミミカ族は、特に刺青に固執する理由を持っていないということだろう。

 ここで立ち止まれば、刺青に固執するということは、身体が表現の場として重視されることを意味する。これは、霊魂の衣装として身体を見出していることを意味するが、霊力の方からみても、身体と霊力の結びつきが保たれていることを意味している。刺青を重視する種族は、霊力思考も濃厚であることが条件であるのかもしれない。

 祖霊像を持つように、ミミカ族は霊魂思考を発達させている。これと、刺青を離れるのは相関があるのかもしれない。

 参照:『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』

『魂の形象―南西ニューギニア・ミミカの図像』

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