カテゴリー「59.『琉球列島における死霊祭祀の構造』」の80件の記事

2014/06/03

『琉球列島における死霊祭祀の構造』を読み終えて

 酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』を読み終えた。長い文章であるにも関わらず、次を読むのが楽しみでしばしば仕事をそっちのけにして読みふけっていた。そうできたのは、関心の所在が切実なものばかりだったということもあるが、視点の置き方がとても共感できるものだったので、心地よく読むことができたからだ。出身者であるものの薄ぼんやりとしか見えていない琉球弧のイメージに、細やかな視野を与えてくれるようで、久しぶりの雨に歓喜して根の一本一本から水を吸い込む植物のようだった。

 もっとも関心を持ったのは、死者との添い寝やチンシダチャー(膝抱き人)のように、霊魂の転位が間を置かずに即時的に行われることだ。マブイ(霊魂)を移す行為がマブイを宿すことになる。だから、マブイを込めるまでは人間でなく、現在からみれば残酷に見える死産児の扱いも生まれるし、カジマヤーでの時間的な他界への疎外も生まれる。こうした即時的な霊魂の転位のあるところでは、霊魂の留まる場所という概念は発生しない。

 言い換えれば、人間は、死と霊魂の転位との間の時間的なズレを意識した時、他界概念を生みだしたのではないかということだ。

 もちろん、琉球弧で他界は発生していて、霊魂は一時、どこかに留まり、やがてそれが女性の体内に宿り、新たな生が誕生するという観念に移行もしている。けれど、その形態よりも、即時的な霊魂の転位の観念の方が強固だというのが、特異なのではないだろうか。あるいは、原初の段階の観念を残しているのが琉球弧だと言ってもいい。そこでは他界は無いと言っても、遍在していると言っても同義である。遠くはニライ・カナイから近くは、雨だれの下、竈の傍まで他界を表象するのは、その現れである。もう少し言えば、洞窟の奥にしてもニライ・カナイにしてもそれが他界概念を支配していないのは、他界の発生以前の在り方を残しているからではないだろうか。

 共同幻想は対幻想や自己幻想と分化しているが分離はしていない。分化を機に、誰もが霊魂を見、憑依ることはできなくなり、巫覡としてのユタを生む。だが、分化直後の世界が生々しく残っているので、ノロもユタ的な力を発揮することができるし、普通の主婦が疾病や出産を契機にユタになることもできる。そして子供は簡単にマブイが抜けたりもする。

 ミッシェル・フーコーは、臨床医学の側から、死は点ではなく徐々に進行するプロセスであることを指摘したが、琉球弧の島人は、それとは違う仕方で、添い寝をし、ムン祓いをし、マブイ別しを行い、喪屋で殯を行い、あるいは死の翌日、三日めに墓で故人の名を呼んだり、という過程を通じ、同じことを儀礼のなかで実践し知っていたということではないだろうか。

 また、考えを新たに、というか、はっきりさせてくれのは、洗骨儀礼が14、5世紀に始まった新しいものであるということだ。しかし、単に新しい風習に過ぎないというだけでなく、それを再生信仰の機会に捉えているということが、琉球弧感覚なのだと思える。

 『琉球列島における死霊祭祀の構造』は、可能な限り、遠い場所まで見に行っている気がする。この本は、これ自体が豊饒な珊瑚礁であるというだけでなく、ここから伝承や民譚の原典に向かう強力なハブにもなってくれる。貴重な、ラディカルな、重要な労作だと思う。ぼくにとって大事な本だ。

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2014/06/02

78.「再生と不死」

 「再生と不死」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 野ざらし。複葬制の第一段階ではなく、当初から放置されたもの。
 ムンとマブイの二つの霊魂の処方によって死は完成していく。
 ムンの除去(モノ追い)、そしてマブイの引き離し(マブイ別し)。
 この二つが伝統的な琉球葬制。

 「最初から肉体はマブイの包装物にすぎなかったのである」(p.607)。

 琉球列島では、濃厚に伝承された喪屋制の中で、かつては死と対峙してきた現実的な歴史がある。死臭、腐敗、骨化と、破滅していく人間の悲惨なさまがわりを、自分の目で確かめてきた経験をもっている。つまりほんとうの死を知っているのだ。現代社会は、その「ほんとうの死」から目をそらし、舌触りのよいオブラートで死の醜さを包み近でしまった案感がある。死者の偉大さをたたえて花輪で化ありがとうございます。zり思わせぶりの弔辞で悲しみを泡立て、そして壮大な祭壇w容易し、死者の記念碑を構築してきら。しかし、こおにょうに死を飾れば飾るほど、死の本来の姿から遠ざかってしまう。つまり、腐敗解体していく人間の「ほんとうの死」から目を背け、死を表面的にしか見なくなってから、死を美化する傾向が変わって登場する。すなわち「作られた死」への傾斜である(p.608)。

 琉球葬法
 1.霊魂を除去して早急に死者を放棄し、いっさいのものを忘却する
 2.二次三次と複葬の手続きをふんで、霊魂の慰撫につとめる
 前者を伝統的なものとみなした(p.609)。

 出生と同時に行われるマブイゴメ、死に際して欠かせないマブイ別し、その別されたマブイは、また新しい生のマブイゴメへと反芻していく。これが琉球の、というより、あるいは日本人の原信仰であって、死によって、その霊魂は海上はるかな場所に去っていくというような他界観念に共鳴できない理由がそこにある(p.610)。
 死が生に還元されていくような信仰は、おそらく祖先信仰とは相容れないだろうと思う。それは、巨大な墓や位牌祭祀にみられるように、死者を人間の魂の外に祭場を設けて祀るのが祖先祭祀であるが、死者の守護霊を継承していこうとする再生信仰を基盤とする社会では、それを形のある霊代として外部に設定する必要はなかったからである。琉球列島で墓制や位牌祭祀の成立がおくれたという理由も、再生信仰がその基盤にあったからと考えられるし、火葬が古くからなかったということも、火葬が再生を拒否すると考えられていたからであろう(p.610)。

 「琉球列島で墓制や位牌祭祀の成立がおくれた」のは再生信仰があっためだとするのは、再生信仰に位牌祭祀はそぐわないというのは頷ける。「巨大な墓や位牌祭祀」という祖先崇拝の過剰化は、再生信仰が信じられなくなった後の現象だと言うことができる。

 この死を絶望的で、そして悲しくさせたのは仏教であろう。(中略)。つまり仏教でいう死者の住む世界は「往生」であって、そこは生きている者の住む現世に戻ることの絶対に許されない、隔絶された世界である。この戻れないという考えが、結局、死をいちだんと悲しいものにしてしまう。再生信仰を基盤とする社会では、因果応報の思想はほとんどその意味をもたない。琉球列島に因果応報の考えの薄いとみられるのはそのためであろう(p611)。

 仏教は、死を絶望的で悲しくさせたというより、現世の辛さ苦しみを、繰り返さなくて済むようにしたと言ったほうがいいのではないか。ただ、「琉球列島に因果応報の考えの薄いとみられる」のは実感的にわかる。

 不老不死の薬を求めて流浪した、除福の伝説をのせて、黒潮は琉球列島の東を北に向かって流れている。そして、奄美の古老たちが口をそろえていう「いちばん亡霊の多いところ」の種子ヶ島の近くを横切って、太平洋側を伊豆七島の沖に向けて流れていく。これが青ヶ島の人のいう「黒瀬川」である。数知れぬ不幸と、未知なるものを携えて流れつづけるこの黒瀬川の源流のほとり、琉球の島々を囲繞する美しい渚には、今日もまた衣ずれを思わせる静かな波が、忘却をつなぎあわせる空しい努力を続けている。その波の音の中で、人びとは人間の本性の中にひそむ、飾り気のない素朴な感情で、死と言う破局を償うために、いくつもの節目のある一本の輪をたぐりながら、生から死、死から生へと、終ることのない時を数えているのである(p.612)。

 ほんとうに美しい本文の終わり。


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2014/06/01

77.「葬地の聖地化について」

 「葬地の聖地化について」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 お嶽(うたき)に祀られている人骨やその伝承からみると、そこに浮かび上がってくるのは開祖、英雄、夫婦、兄妹などというのが祭神の共通した性格(p.598)。

 奄美は、琉球の文化圏でありながら、お嶽の名は消えて、イベ、ウブなどと呼ばれているが、沖縄のお嶽信仰の古い姿を彷彿とさせるものがある(p.600)。

 寺院の役割がうすい琉球列島では、年忌供養はあまり大きな意味をもたない。

 お嶽やウブなどに祀られる者は、一部の特定の人に限られていて、そこは浄化されたといえども、常民の死者の魂の祀られる場所ではなかった(p.601)。

 死者が始祖としての神になり、またはお嶽に祀られるという風習は生じえないと私は思う(p.602)。

 嶽は常民を祀る葬地ではないというのは、酒井の言う通りだと思うが、そこは葬地というより神の住処というのが正確ではないだろうか。つまり、葬地が聖地化されたわけではない。人骨が発掘されているが、それは必須の要件にはならない。

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2014/05/31

76.「祖霊信仰の成立要素」

 「祖霊信仰の成立要素」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 死者を記録するいっさいのものがなく、むしろそれを忌避しようとする気配さえみられる状況の中で、死者の延長にある系譜上の祖先を祀るということに、どれほどの可能性があったのだろうか(p.588)。

 死者儀礼というものは、もともと何ヶ月、何年とかけて完了するものではなく、短期間で完了したというのが私の持論である。洗骨の風習はたぶん十五、六世紀頃からのものだと考えられるが、この風習のなかった時代、もしくはあったとしても、古い伝統を保持している社会では、マブイ別しの時期が死者最終の行事となるはずである。この死者から分けられたマブイは、どこまで行っても、また何年たってもマブイであって、豊饒をもたらすニライの神になりえないだろう。もし死者の霊が後日浄化されて祖霊となり、その祖霊は海上はるかな場所の聖地にとどまるというような信仰があったとすれば、再生信仰の余地はなくなってしまう。つまり二ライ信仰にみられる豊饒をもたらす神、例えば、シヌグ神やマヤの神、アカマタ・クロマタなどのように、日を定めて訪れてくる神は死者の浄化された形の神ではなく、それ自体独立した神であるということは、すでに海上他界の項でのべたとおりである。大陸から儒教、大和から仏教が葬制を複雑にしてしまったが、琉球の本来の霊魂観念は、人間の守護霊としてのマブイと、幸運と豊饒をもたらす精霊という二つの異なった霊魂観念によって確立されていて、この両者は永遠に交わることのない平行線をたどる性質のものだと私は考える。これはさきに紹介した谷川氏や外間氏の見解とはまったく逆の考え方になる。
 一つの民族の原信仰とは何であろうかというとき、文化の受容過程を理解することは欠かせない要件である。琉球列島はもちろん、日本全体の古い文化の中で、死者の霊魂の住処を、常世、もしくは墓地など、他界を人間の魂の外に設定する考えを私はとらない。なぜなら、それでは再生信仰の存在が無意味になってしまうからだ。要するに、他界観念と再生信仰はまったく違った世界観だというのが、現在の私の基本的な考え方である(p.592)。

 酒井の主張が極まったところで、勢い引用も長くなった。先祖とシヌグ神やマヤの神、アカマタ・クロマタなどの来訪神が異系列であるのはその通りだ。両者は出自を異にしている。けれど、それも時間をもっと遡行すれば、両者はつながる。トーテム動植物とは祖先の元型みたいなものだろう。現在の先祖崇拝の過剰化の歴史が新しいのもその通りだと思う。しかし、これもまた先祖の概念自体は古いものだし、尊ばれてもきたのではないだろうか。

 先祖の霊魂は、設定された他界に一時、留まり、再び再生するという信仰はある段階から生まれた。問題は、琉球弧の場合、その死による霊魂の転位が即時的に行われる場面も多いこと、また、他界の設定が集約化されておらず、いたるところ他界だった時代を大きく引きずっていること。だから、現在、流布されているニライ・カナイのみに集約して語ることはできない、ということではないだろうか。他界を人間の魂の外に設定しても、再生信仰は成り立つと思える。


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2014/05/30

75.「正月十六日の墓祭り」

 「正月十六日の墓祭り」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 正月十六日は、もともと中国の信仰から発したものであろう。(中略)。琉球では唐栄の流れを汲む人たちか、大陸に学んだ琉球の学者たちが、墓制をはじめとして各種の先祖崇拝の信仰を普及させたことは想像に難くない(p.585)。

 常民社会における先祖崇拝の時代の上限は、おそらく幕末の頃だろうと考えている(p.585)。

 つまり、酒井は琉球弧の祖先崇拝を近代以降と見なしているわけだ。近代以降かどうかはともかく、祖先崇拝に傾斜する契機を考えることはできる。ひとつはトーテム原理が崩壊することにより、トーテム動植物との関わりが忘れられてしまうこと、次には再生が信じられなくなり、死者に対して信仰の比重がかかっていくこと、だ。


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2014/05/29

74.「聖地巡拝」

 第二章、「祖先信仰の成立」。第一、二節、「はじめに」、「聖地巡拝」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 日本民俗学での使いわけ。
 先祖。血縁を辿った古い死者。
 祖霊。きわめて抽象的な先祖の霊魂。屋敷神や田の神など。

 おそらく、はじめは豊年や健康祈願などのために神々への聖地の群行があった。琉球王の東詣りはその流れを汲むもので、それは東方に対する古い信仰に支えられたものであった。(中略)たぶん王政の爛熟した幕末以前頃から、「世乞い」の意味をこめて霊地の巡拝をはじめたのが今の東詣りや今帰仁詣りであったと思う。(p.580)

 与論シニグの神道歩きも、この位相同型だ。

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2014/05/28

73.「死の呪術師」

 第七部、「琉球社会における死の構造」。第一章、「死の呪術師」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 神事についてはノロ、ツカサがいる。私的な祈願をする職能者にユタがいる(p.559)。ユタに対する取り締まりは、1475年の記録がみられる(「中山世譜」)。「ユタ狩り」は昭和初期まで続けられた。

 ノロ、ツカサには家柄がある。ノロは独身で終わる例がある。ユタにも家系がある。しかし家系がすべてではなく、神秘的な感性は絶対条件である。

 根神は必ずしも根所から出るとは限らない。サーダカ生まれというのは、根人の家筋を言うのではなく、女の神がかりの状態を言う(国頭)。

 宮古島では、クジで神人が選ばれる。多良間も狩俣も同じ。もともと宮古にはカンカカリヤーという女性がいる。池間島では、カカランマという神女がツカサの選定をした。ノロの選定にもユタが積極的に参加した。ノロ一門でも、それだけでは継承の資格はなく、セジ高さ、神ダーリを必要とした。

 ノロもユタも神霊の憑依ということが重要な要素で、両者の本質的な違いはどこにあるか、その境界はたいへん曖昧になる(p.564)。

 神女であるノロがユタに転向していく場合もある。沖永良部島では、島建神話をユタが暗誦して伝えた。

 柳田國男は、「海南小記」で、ユタの夢物語を信じなくなった時代、果たしてそれが幸福かは疑いがあるとしてユタの存在に同情の目を向けた。

 「ユタは神々のいる世界と祖霊のいる冥界に瞬間にして入ることができる。彼女たちの眼前の空間は忽然として神の世となり冥界となってしまう」(宮本演彦)。ユタのもつ呪術性の多様さと神秘性を適切に表現している(p.567)。

 ほんとうは琉球のすべての女性が、その本性においては呪術的な機能を内に秘めているらしい。彼女たちは異常な事態でもない限り、尋常一様な女性で終わるが、例えば、疾病、死、産育など、必要に応じて、それなりに呪術的な機能を発揮する(p.568)。

 マブイゴメ、マブイ別しなど、日常生活に直結した行事に大きな役割を果たす。神事に携わるノロがユタが担当した例もある。

 徳之島の野辺送りのウムイ。沖永良部島の念仏(みんぶち)。ほとんどが一族縁者のふつうの女たちが心を込めて歌う。挽歌。

 沖永良部島のクォイ、徳之島のクヤ。

 ウムイ、という品のよい言葉で死者を送る歌が生まれる以前には、クォイとかクヤという土着の表現の仕方があって、それは今よりももっと単調で、もっと切々とした言葉で死者を送ったのではないかとう気もする。そして、その当事者は沖永良部島のように、ふつうの女性たちであったろう(p.572)。

 ノロとユタの本質的な違いは、ユタが自己幻想を共同幻想に憑依させることができる巫覡であり、ノロは共同幻想を対幻想の対象にした巫女という吉本隆明の定義が最も明確だ。ノロに独身で終わる例があるのは不思議ではない。ただ、琉球弧の場合、両者は交わる部分をもっている。つまり、ノロでもユタの力をもつ者もいた。

 「ユタは神々のいる世界と祖霊のいる冥界に瞬間にして入ることができる。彼女たちの眼前の空間は忽然として神の世となり冥界となってしまう」。ユタの語りは共同幻想の構造ではなく内容を伝えることができる存在だ。

 ユタは女性だけではなく男性でもなれる。与論にも男性巫覡はいた。ふつうの女性でもユタになることがあるのは、誰もが憑依した時代の名残りを色濃く留めているということだ。言い換えれば、共同幻想が未分離だった時代の在り方を。


 

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2014/05/27

72.「位牌以前」

 「位牌以前」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 火の神は、代々にわたって継承されなければならない性質のもの(p.551)。

 死によって火の神が取りかえられるということは「代をかえる」という言葉や、死者の家では火を一度消してつけ直すという風習(宮城島)に見られるように、死によって穢れたものの一時的な排除と、次に予期される新しい生の獲得への祈願が込められている(p.552)。

 (死者の住居を捨てる例は-引用者)けっして、家の断絶を意味しない、家は所詮、雨露をしのぐ仮の宿にすぎない。人間が抱く不滅なものに対する憧憬や、永世への願望をつなぎとめるには、家はあまりに小さく、かつ壊れやすい。その小さい家の中で、魂の終焉や生成、さらにはこの両者を結びつける役割を果たしているのが火の神信仰であろう(p.552)。

 ピッチュル(神石)が、香炉、火の神へと移行したとも考えられる(p.555)。

 死者の影を伴う霊魂、つまり先祖という意味以外の何かが、火の神信仰の原像なのである。位牌祭祀以前に何かがあったとすれば、火の神やクバの葉に象徴されるもっと普遍的、かつ土俗的な信仰について私どもは注目すべきだと思う(p.556)。

 先祖以外の何かというのは、火の精霊になるのではないだろうか。ピッチュルも神石は、精霊の宿る石である。


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2014/05/26

71.「火の神と主婦権」

 「火の神と主婦権」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 婚姻に際して拝まれる火の神は嫁方のみで、聟方の火の神は拝まれない。聟入婚の婚姻制によるもの(p.549)。

 つまり、「火の神」は、母系制のうえに成立したということか。いや、火の神が母系制の上で、家に定着したと言うべきか。

 火の神が軸になって回転する家の神は、司祭者である主婦がその対象である(p.549)。

 火の神。家のなかでの他界への入口。

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2014/05/25

70.「竈神と屋内神」

 第二章、「家の神と火の神」、第一節、「竈神と屋内神」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 琉球列島の人の神は竈の神のこと。

・出産の終わった精進取(ソージトリ)に、産床を清め、竈の灰をとりかえる(波照間島)。
・産児に産湯を浴びせた後、まず竈を拝ませて家族の一員になったことを火の神に報告する(那覇)。
・粟のスクマ(初穂祭)には、当日に熟した穂を竈に供えて収穫を感謝する(波照間島)。
・火の神を拝むのは日常的な行為。

 家と火の神も不可分。家の数え方。
・一煙(くぶ)い、二煙(くぶ)い(宮城)
・本家、火元(ピムツ)、分家、火別れ(ピパカリ)、家族、火人数(ピニンズ)(川平)
・火の神、ヤーヌシガナシ(与論島)

 火の神は家の象徴。

 死にいたると、火の神を放棄し、新しく取りかえる。主として、家の主婦、主人に限定される。

 つまり、「火の神」とは、対幻想の象徴になっている。しかも、それは夫婦の対幻想に限定され、世代という概念をもたない。


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