カテゴリー「58.琉球弧の精神史」の1000件の記事

2019/05/02

糸芭蕉祖先の嘉徳遺跡 - 嘉徳海岸護岸工事計画に端を発して考えること

 お馴染みのと言っていいくらいの護岸工事計画だが、これは「砂」の問題と言い換えることもできる。砂浜の砂が削り取られて海岸浸食が起き、生活圏へ影響が生じる。嘉徳の場合、海岸近くに墓地があるのが切実さを増している。

 海岸浸食は、台風によるものに間違いはないが、別の要因もあるという指摘はなされている。(「高波浪が侵食の引き金になったことは事実であるが,侵食には別の要因が関与していると考えなければならない」「奄美大島の嘉徳海岸の侵食とその対策に関する提案(宇多高明)」)。「海砂採取」もそのひとつという指摘もなされている(「奄美大島の“ジュラシック・パーク”が破壊の危機」)。

 現在、鹿児島県知事を相手に、「嘉徳浜弁護団」により、縮小されてはいても護岸工事は必要性を欠く上に、「生物環境・自然環境」に影響を与えるもので、「環境影響の少ない代替案」の具体的な検討・採用もないままの公金支出は差し止めるべきという内容の訴状が提出されるところまで来ている。(奄美のジュラシック・ビーチを守れ!住民訴訟に力を貸して下さい 」

 しかしいつものように島の人の声は聞こえてこない。2年前(2017年)の聞き取りはあるが、予定調和的なまとめで肉声というものとは遠い印象を受ける(「嘉徳地区住民からの海岸保全に関する聞き取りについて」(2017))。「第 1 回 嘉徳海岸侵食対策事業検討委員会(概要)」(2017)は、議事録風で生々しさはあるが、住民の声というわけではない。「嘉徳海岸護岸工事に関する住民監査請求(奄美新聞掲載。2019/02/01)」 で薗博明さんの声は聞けたが、この背後にも語られない島の人の声はある。

 鹿児島県 奄美大島 嘉徳海岸の自然文化的価値と保全の方向性(速報)では、「海岸の景観の保全は、嘉徳集落の精神性の保全」という指摘がされているが、ここでは「海岸」に限らず、そして「保全」というにとどまらず、嘉徳はすごい場所だいうことを書いておきたい。

 嘉徳の自然の野生力の豊かさは、この映像からでも察せられるが、嘉徳が素敵なのは、この野生のなかに建てられた嘉徳遺跡にある。

 嘉徳遺跡は、鼎さんが映像で紹介している。

 縄文相当期の貝塚時代、島人は動植物や自然物を祖先(トーテム)としていた。なかでも植物トーテムの段階は創造性に溢れるが、嘉徳遺跡は、植物のなかでもリュウキュウイトバショウ(琉球糸芭蕉)を祖先(トーテム)とした島人の聖域だ。それは土器や遺構に示されている。

 嘉徳遺跡からは、特異な土器が見つかっている。

(『嘉徳遺跡』1974年)

 この土器は、糸芭蕉の花である。糸芭蕉の花はこんな姿をしている。

Photo_100

 花は垂れ下がることが多いので、これを逆向きにしてイメージしてほしい。土器の胴部は膨らんでいるが、これは上図では四方に広がる葉(苞)に当たる。葉の根元からもしゃもしゃと伸びているのは雄花だ。この先端は左右に細かく分かれているが、これが土器では口縁部の籠目文になっている。

 この土器が特異なのは、断面図で分かるように、口縁が二重化されていることだ。二重口縁という形態の土器は、琉球弧では他に類例がない(ぼくが気づいた範囲では)。この二重口縁の内側の口縁が、糸芭蕉で言えば、雄花の先に伸びている茎の先端(花茎)に当たる。土器から糸芭蕉が見えるだろうか。

 これが糸芭蕉であることは、土器の見つかった場所を見ると、より分かる。

 Photo_98

 土器はこんな風に浅く掘られた曲線の囲いのなかにあった。この囲いを見れば、これが、広々と茂る糸芭蕉の葉だということが分かる。

 糸芭蕉は、いまでもその樹皮から糸を採り、奄美から沖縄島北部で盛んなように、芭蕉布が織られることで知られる。そこから衣服をつくる植物は、もともとは、そこから人間が生まれると考えられた祖先(トーテム)だったのだ。

 こんどは土器の断面図を見ると、土器の上下に計四個、孔が空けられている。調査では、「特別な意味があったと思われるが、他に例を見ないので何とも言えない」、「先づ呪術的な使用を考えるのが事実に近いのではないだろうか」として当惑も伝わってくる。しかし、これが糸芭蕉土器と分かれば、ここに通したのは、糸芭蕉から得られる繊維だったと推測することができる。

 土器の形態では、沈線文、籠目文、点刻線文と呼ばれ、植物トーテム土器は多く知られているが、これはそのなかで糸芭蕉祖先(トーテム)を表現したものに当たる。糸芭蕉土器は、きっと他にもあるのだが(野国貝塚では、石器の並びで糸芭蕉が再現できる。cf.野国貝塚Ⅲ層の芭蕉トーテム 」)、特異なのは、土器という形態を破ってまで、糸芭蕉の花そのものに肉迫しようとしていることだ。ここには、嘉徳人たちの並々ならない想いが込められている。

 貝塚や遺跡には構造があり、それは四つの場によって構成される。

 1.スデル(メタモルフォーゼ)場。何をトーテムとするのかを示すとともに、この世に現れるべき人数を予祝する。
 2.現れる場。この世に現れた人を示す(生誕と年齢階梯の上昇)。
 3.還る場。あの世に還った人を示す(死者数)。
 4.いる場。遺跡を建てた際に、この世にいた人数を示す。

 遺跡は全面発掘されているものの、南側は採砂されていて既に破壊されており、報告書も詳細に欠けるので、「糸芭蕉の葉と花」の遺構がどれに該当するのか判断しにくい。土器上面が焼けているので、「あの世に還る場」を示しているように見えるが、ふつうは貝や他の遺物によって、その人数が示されるが、ここにはそれがない。あるいは、集団のリーダーだった原ユタを示すのかもしれない。この囲い自体は深さ8.6cmと浅い。そして3層を掘り込んでいることを踏まえると、あるいはスデル(メタモルフォーゼ)場であったとも考えられる。

 判断できる材料に乏しいが、嘉徳遺跡は、糸芭蕉の葉と土器の遺構だけでも、植物トーテムのあり方を生き生きと伝える重要な遺跡なのだ。

 動植物や自然物を祖先(トーテム)とした人々は、貝塚や遺跡をトーテムの地に建てる。地勢や地形もトーテムの化身態と見なされるから、トーテムを感じさせる地に貝塚や遺跡を建てるのだ。嘉徳海岸付近の植生では、リュウキュウイトバショウは見られないが、内陸の方には生えているのではないだろうか。そしてトーテムの地ということについても察しがつく。

  Photo_102  

1946年の空撮写真をもとにする。嘉徳では、小川が流れており、それが嘉徳川の下流で合流する。その合流の川上側に嘉徳遺跡は建てられている。その小川から、現在のシマ(集落)を包み込んだ砂浜(砂丘)全体の形態が、花茎に似ている。遺跡は、糸芭蕉の大地に川を隔てて建てられたのではないだろうか。そうなら、嘉徳の砂浜には、数千年前の島人も魅入ったのだ

 琉球弧では、神話、伝承、そして貝塚や遺跡から祖先(トーテム)の系譜を辿ることができる。嘉徳は、詳細のデータが不足しているのでハードルが高いが、貝塚、遺跡の貝や遺物からは、その集団の人数や思考のあり方に接近していくことができる。世界遺産を言うなら、琉球弧は、とうに忘れられた野生の思考をおぼろげにでも再現できることに価値はある。なかでも琉球糸芭蕉は、芭蕉布が織られるというだけでなく、尊ばれてきた植物だ。その糸芭蕉を祖先(トーテム)とした遺跡があるのだから、約4000年前の頃、嘉徳は重要な聖地だったのだ。嘉徳の糸芭蕉人のこころを立ち上がらせるように「嘉徳」を価値化できれば、島人の精神性を尊重しながら島人も生きていくことができる、そういう経済的な方途も立てられるのではないだろうか。

 

| | コメント (0)

2019/04/20

「トーテムとメタモルフォーゼ」第1回:その全体観とシャコガイから出現する貝人

 これから「トーテムとメタモルフォーゼ」の話をしていこうと思う。トーテムは、祖先である動植物や自然物のこと。琉球語では「大主(ウフスー、ウフシュ、ウパルズ)」という言葉の語感にその面影が残っている。メタモルフォーゼは変態、変容だが、ここでは脱皮の意味も含ませる。これは、「若返る」という意味のスデル、シヂュンという言葉として残ってきた。

 「トーテムとメタモルフォーゼ」は、動植物や自然物を生命の源泉とし、その化身(メタモルフォーゼ)態として人や自然を捉えていた世界のことをテーマとしている。

 琉球弧では、トーテムの系譜を辿ることができる。

 [蛇・トカゲ・シャコガイ・植物・サンゴ礁・カニ・ヤドカリ]

 それぞれのトーテムには、そのときの生命観・宇宙観が宿されている。だからこの推移にもこころの必然史とも言うべき重要な変化が刻まれている。それは人の感じ方や考え方の元になっているから、忘れてしまっていても、いまのわたしたちも腑に落ちてくる。むしろ、ものの感じ方や捉え方のなかに、トーテム段階の思考は色濃く残っていると言ってもいい。蛇の終わり頃からヤドカリまでだけでも、1万年はかけているのだから、それは不思議なことではない。

 第1回は、先史時代を伝承や習俗、そして貝塚から読み取る「トーテム・メタモルフォーゼ仮説」の全体観をお伝えして、シャコガイの段階から入り、蛇やトカゲのことは、それ以降を辿ったあとに、触れることにしようと思っている。時代が古くなればなるほど情報量は少なくなるので、トーテムの仕舞いまで行ってからの方が、推理が働く面があるのだ。

 とは言うものの、シャコガイの段階も見つかっている貝塚は多くない。いくつかある理由のなかでも重要なのは、シャコガイをトーテムとした時間がどうも短いのだ。しかしそれはシャコガイが重要ではなかったことを全く意味しない。むしろ、シャコガイから次の植物トーテム以降になっても、シャコガイは起点であり軸として忘れられずに重視されている。

 なにしろ、シャコガイ段階になって初めてトーテムは性を持ち、終わりのヤドカリまで、トーテムの主は女性(あるいは女性性が強)かったのだ。シャコガイ・トーテムは女性の時代のはじまりを意味している。

Photo_96

 トカゲの終わりは、人は死に気づいたことを意味している。世界中に「死の起源」の神話があるが、琉球弧ではそれはシャコガイ段階に当たることになる。死の発見という心の危機を、人はどのように乗り越えようとしたのか。貝塚を手がかりにしながら、貝塚人の思考のありようにできるだけ迫っていきたい。

 ※取り上げる主な貝塚・遺跡:宝島大池遺跡、屋我地島大堂原貝塚、徳之島面縄第3貝塚

【場所】大岡山タンディガタンディ(東京都大田区北千束1-52-6-2F./ 大岡山駅から徒歩2分)
【日時】第1回:5月25日(土)16:00~
【参加費】1000円、懇親会:1000円

 第2回以降の情報は、下記にあります。

 「野生会議99」つながるゼミナール④ トーテムとメタモルフォーゼ(サンゴ礁の夢の時間)喜山荘一

 

| | コメント (0)

2019/04/16

「貝塚後期文化の貝交易(藤尾慎一郎)」『ここが変わる! 日本の考古学: 先史・古代史研究の最前線』

 琉球弧の精神史の探究は、思いがけず考古学に踏み入ることになったので、学ぶことが多いのだが、ここは琉球弧についての言及にのみ触れることにする。「貝塚後期文化の貝交易」というコラムだ。

 藤尾は、九州の土器文化の影響は見られるが、としたうえで次のように書いている。

貝塚前期文化は、縄文文化の琉球類型でるという考え方もあるが、のちに琉球王国が成立するという日本国とは別の国家が成立するという意味で、北海道とは異なる歴史的変遷をたどる点を重視して、筆者は貝塚前期文化や貝塚後期文化を縄文文化や弥生文化と並立する独立した文化という立場をとる。

 ぼくも先史琉球弧を「縄文文化の琉球類型」とするのは自文化を著しく見損なうと思うので共感するが、それを琉球王国の成立をもってするというのとは少し筋がちがう。琉球弧の先史時代のトーテムの系譜とその時間的推移が独立しているから、傘下に入るような形が安易に見えてしまう、ということだ。そもそも本土の弥生化にもかかわらず、先史時代を継続したところにも独自性は現れているわけだ。

 しかし問いはその先にあって、琉球弧でトーテムの推移が辿るように、本土でも辿ったら、それぞれの地域ブロックごとに同様の文化圏が見えてくるのではないだろうか。それはおそらく土器形式の圏とほぼ重なるように思えるが、そうだとしたら、縄文文化というくくりそのものがいったんは解体されて見直されるところまで行ったほうがいいと思える。

 ここから先は主に木下尚子の説を引く形でコラムは展開されている。

遺跡が森の高台から砂丘に移るのである。木下は、これまで依存してきた森から遠くなることをおいてもなお、サンゴ礁に面する前面に居を移した方がよいという決断を、人々が行った点を重視している。

 トーテムの視点からいえば、トーテムがオカガニからスナガニへ移ったところで、貝塚人たちは砂丘へ貝塚を築くようになる。貝塚人は、トーテムの地を目指すからだ。

 弥生土器の影響を受けた土器の出土から、九州北部との強い結びつきをもった「貝塚後期文化」というイメージが作られるが、しかしその後いっこうに、琉球弧で「稲作」が形成された形跡が見つからない。そこで登場するのが、貝交易を行う「貝塚後期文化」像だ。

 しかしこれについても、貝塚人は「交易」という経済活動を行っていたのではない。それとおぼしきははやくにヤドカリ段階に入った奄美の貝塚人がその可能性を持っている程度だ。貝塚人がしていたのは贈与だと思える。「沖縄の遺跡でゴホウラ類とイモガイ類の貝殻だけを集めた集積や、腕輪のために粗く加工された未製品(粗加工品)が見つかることから明らかである」と、貝は「交易のストック品」と見なされるのだが、貝塚人には交換の概念を持たないのだから、これはストック品ではない。考古学が「貝集積」と呼んでいるものは、貝塚人の分身である貝や土器や石器によって構築されたトーテム像である。貝や土器は分身なのだから、自分の分身をストック品として放置するはずもない。貝塚にストック品という構図は、御嶽や神社に商品在庫の箱が積まれたようなものと言えば、ありえないことが分かるだろう。

 贈与は貝塚や遺跡に残された貝とは別にプレゼントされたと考えるしかない。そして、交易ではないからこそ、本土からの貝の需要が途絶えたとき、貝塚人からの継続要請もなく、そのまま終焉を迎えることになるのだ。交易「貝塚後期文化」像もこの点は見直されなければならないと思える。

 

『ここが変わる! 日本の考古学: 先史・古代史研究の最前線』

| | コメント (0)

2019/04/14

ミナミオカガニ段階の奄美大島住用・サモト遺跡

 住用のサモト遺跡の遺構は、オカガニ段階に見える。出土している土器が、サンゴ礁トーテム土器(カヤウチバンタ式、宇宿上層式、面縄西洞式)であることも、このことに矛盾しない。土器は前段階であることは多々ある。

 Photo_94

 遺構のデータは詳細が不足しているので、北側にある「6号遺構」に注目してみる。

 2_1

 「6号遺構」は「隅丸長方形」で、「他の部分より皿状に低くなっている」。この掘り込みの薄さは、ここがカニ人へのメタモルフォーゼーゼ(スデル)場であることを示唆している。そして、これはカニを表現しているのではないだろうか。カニの姿勢を分かるように置き直してみる。

 Photo_95

 土器片は茶、円形の「明赤褐色の焼砂」は薄く色をつけた。囲いのなかにカニがいるのが見えるだろうか。番号を振ったのは左右の脚だ。眼柄が伸びているので、ミナミオカガニだと思える。サモト遺跡Ⅲ層は、ミナミオカガニ段階にある。

 オカガニ段階では、海の岩礁が出現の母体になる。サモト遺跡の場合、それは近くの湖のような静けさの内海だ。「6号遺構」の囲いはこの内海を示している。

| | コメント (0)

2019/04/13

ウフタⅢ遺跡のベニワモンヤドカリ 2

 ベニワモンヤドカリ段階にあるウフタⅢ遺跡の貝を見てみる。「破片」はカウントされていないので、人数推定はあきらめて、貝のベニワモンヤドカリらしさを確かめる。

 宿貝は、シラナミ。ヤドカリ腹部では、チョウエンサザエ(2197)を除くと、イシダタミが多い(333)。イシダタミは層の膨らみが厚く、巻きがはっきりしている。赤や黄も混じる。それが、ベニワモンの黄と赤のストライプと似ているところだ。

 ヤドカリ鋏では、オハグロガイ(1158)。殻口の開き具合が、ベニワモン風だ。

 「胞衣」貝ではヒレジャコが多い。ヒレジャコは砂地にいる。ヒレが横の線を強調する。カニ腹部では、チョウセンサザの蓋(7098)を別にすれば、イソハマグリが多い(5442)。ベニワモンヤドカリの甲の白に対応している。笠利にはいないヤエヤマヒルギシジミ(8)があるのは、幼貝の段階で黄緑色になる、その色の類似が重視されたのだと考えられる。カニ鋏ではアマオブネが筆頭(2111)。殻口の黄と白が大事だったのではないだろうか。

 男性貝のマダライモ(52)は、よく分からないが、格子の並びがストライプ風なのかもしれない。また、「破片」がカウントされていれば、様相はまた違ってくると思える。

 チョウセンサザの蓋(7098)とヤコウガイの蓋(74)の違いからすると、をなり集団はアンチの上のように、集団を分割するには至っておらず、小さな他のをなり集団を抱えた状態だ。

 ベニワモンヤドカリ段階の貝は、報告が少ないので、詳細ではないものの、これは貴重なデータになる。(cf.「ウフタⅢ遺跡のベニワモンヤドカリ」

 

 

 

| | コメント (0)

2019/04/12

ウフタⅢ遺跡のベニワモンヤドカリ

 ウフタⅢ遺跡では、「石積み石囲い竪穴住居跡」が発掘されている。

Photo_88

『ウフタⅢ遺跡1』龍郷町教育委員会埋蔵文化財発掘調査報告書2 )

 しかし、トーテムの眼でみれば、これは住居跡ではなくトーテム像である。それはどうやら、サウチ遺跡と同じ、ベニワモンヤドカリだ。住居跡の遺構は思わずミナミオカガニ・トーテム段階と見たくなるが、阿波連浦下層式の土器も出ていて、すでにスナガニ段階も過ぎている。これがヤドカリであることに矛盾はない。

Photo_89

(『ヤドカリのグラビア』)

 「石積み石囲い竪穴住居跡」は、ベニワモンヤドカリの甲に当たる。しかも、デフォルメされている。甲を1~4の個所に分けると、遺構ではそれが下図のようにデフォルメされている。「母屋」には、南北に「扁平な円礫2個(砂岩と珊瑚塊)」が検出されているが、それは甲上部に二つある斑点を指している(1)。「ベッド状遺構」は、母屋の床面より約50cm高くなっていて、甲2の盛り上がりを示す。「石積み楕円形遺構」は、甲下部(4)の赤い斑点がよく捉えられている。

 遺構全体をみれば、ベニワモンヤドカリの形姿イメージもつかめる。

Photo_91

 5号土坑 右ハサミ
 1号土坑 左ハサミ
 4号土坑 腹部
 3号土坑 腹部2
 2号土坑 尾部

 つまり、ベニワモンヤドカリは、東側に顔を向け、西側に伸ばした腹部を曲げて東側へ尾を向けている。東から西に向けて伸びている「貝溜り」は宿貝を示している。ヤドカリ遺構は、宿貝が重視されるが、ベニワモンヤドカリの場合、宿貝はイモガイが多く、男性性が強いので、「土坑」や「住居」形態は採らずに、貝で示されているのではないだろうか。

 甲部はなぜデフォルメされているのか分からないが、個々のパーツの形状はとてもリアルにできている。「石積み石囲い竪穴住居跡」の東側にはふたつ伸びる眼柄まであるのだ。「住居跡」の壁は、「砂岩、珊瑚塊、ビーチロック」で積み上げられている。これは、ベニワモンヤドカリ・トーテムがサンゴ礁が生まれたことを暗示している。このトーテムの出現母体はサンゴ礁なのだ。このとき、母体としてのサンゴ礁が角の丸い四角形という形態の認識まで至っていれば、それがデフォルメの理由になる。言い換えれば、「胞衣」の形態である。

| | コメント (0)

2019/04/11

「宮古島と宮古馬を学ぼう&何が出来るかミーティング」(宮国優子、梅崎晴光)

 つよく心に残ったのは、何世代か前までの島人には「馬は友達」だったという宮国さんのひと言だった。

 20世紀の初頭、フランス人の宣教師モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアのカナク人について、驚きつつこう書いている(『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』 )。

 それから半世紀後、あるとき私が畑仕事をしている生徒たちの様子を見に行くと、彼らは座りこんでいて、そのかたわらで二匹の牛が鋤の上に鼻面を乗せて寝そべっていた。
「歩きたがらないので、その気になるのを待っているんです」と少年たちは説明した。
 彼らは少しも悪びれずに、自分たちの意欲と、二匹の牛、つまり人物(カモ)としての牛の意欲がうまく揃わなければ、牛に鋤をつなぐことはできないと本気で思いこんでいるのでそういったのである。
 このように、学校の生徒たちが家畜と人間との区別がなかなかつけられないということは示唆的なことである。こういう少年に物語を語らせてみると、話のなかにはカモが登場する。カモは飛び、泳ぎ、地下に姿を消したりする。しかしそのつどそれが鳥であり、魚であり、故人であるとわざわざ断ったりはしない。語り手は、さまざまのお話にしたがって主人公の人物がとる姿を追いかけていくが、その人物は目に見える相は変えてもカモとしての身分は変えない。ちょうどいろいろな衣装を取り揃えてもっている舞台の登場人物のようにに、絶えず扮装を変え、変身していくのである。

  「馬は友達」というとき、単に仲がいいというだけでは足りない。心を通じ合わせているのはその通りだとしても、それでも少し物足りない。どちらかといえば、このエピソードの少年たちのように、牛を人に連なるものとして見ているというのが近しい。だたそれは、「家畜と人間との区別がなかなかつけられない」というより「あまり区別をしない」と言ったほうがより近い。

 レーナルトは少年たちの牛への接し方から、物語のなかで変身を自在に遂げていく存在(カモ)のことにつなげていくように、牛を擬人化してみるということには、それが他の存在へと変身することもあるという視線が伏在している。「馬は友達」にも、同じことは言える。与路島では、ハチジョウダカラガイを「ウシ」と呼び、与論島では大きなタカラガイを「ウマ・シビ(貝)」と呼ぶ。沖縄島ではスイジガイを「モーモー」と呼んだりもする。似ているからだが、こういう名づけの奥には、もともと人や自然を貝の化身態として見ていたこころの動きが宿されている。

 宮古島に馬が入ってきたのは14世紀とされている。だから、動植物や自然物を「祖(ウヤ・オヤ)」としていた先史時代からは数百年が経過している。けれど、動植物や自然物をトーテムとした段階は過ぎていても、人と自然を連なるものとして見る視線は、心のどこかで生き続けてきた。トーテムの段階の終わった後に、トーテムに匹敵するような驚嘆で見つめられたのが馬や牛だったことが、これらの貝の呼称に刻まれているのだ。

 歌謡のなかでは、砂糖キビの稔りが、牛や馬の「尾」のようと表現される。ススキに似た砂糖キビの葉がゆらゆらと揺れる様に、牛や馬の尾が重ねられている。牛や馬の尾ばかりではない。牛馬の動きもそうだった。

 狭い道に追ったなら、
 数珠玉のように揺れに揺れ
 大野に出て、
 追ったなら、
 千頭万頭も追い囲こと  果報だと、
 こう唱えます。「久場川村のまーゆんがなしいの神詞<上の村>」

 数珠玉(ジュズダマ)という植物は、「稲の稔り」にも重ねられるように、ゆらゆら揺れるものを表すときに取り上げられる。牛や馬の尾ばかりではない。その行列も、ゆらゆら揺らめくものとして見つめられていた。

 島ではゆらゆら揺らめくさまに、霊力の発現を見る。そこに心を奪われるとき、島人は「綾」という美称辞を添える。ミーティングの4月7日、島では浜降りだった。浜の向こうにはサンゴ礁の海がある。沖の方で白波が立つ。宮古島では、リーフに砕けて立つ白波は「糸の綾」だ。可視と不可視をまたぐ糸の揺らめく様に、宮古の島人はことのほか想いを寄せている。馬のたてがみや尾も「糸の綾」のひとつだ。

 ミーティングから遠く離れすぎたことを書いてしまったけれど、「馬は友達」を肌身に知っている島人から、宮古馬のどこに惹かれたか、聞いてみたい想いが喚起されるひと言だったのだ。

 

| | コメント (0)

2019/03/13

野国貝塚Ⅲ層の芭蕉トーテム

 奄美大島の嘉徳遺跡からは、芭蕉土器を知ることができても、メタモルフォーゼの場を知るのは難しかったが、野国貝塚のⅢ層にはそれがある。

 まず、琉球糸芭蕉のイメージを掴んでおく必要がある(cf.糸芭蕉)。

Photo

 これも石器の配置は、グリッドまでは分かるが詳細は不明なので、グリッド内は芭蕉になるように配置している。

 A2からB4まで下がっているのが偽茎。C4で放射状に並べたのが苞。右に突き出したのが雄花。雄花は石器では、ひとつだけ表現されている。その先端には「チャート製品」を添えた。雄花のふさふさだ。「チャート製品」はⅢ層から24点出ているがグリッドの詳細はない。しかし、報告書の図版には、ひとつの「チャート製品」に、「C3Ⅲ」と記されているので、雄花を表現したものだと考えられる。おそらくこの辺りに「チャート製品」は集中していたのではないだろうか。

 D2は「花序の先端」に当たる。雄花まで空白になるが、ここに紡錘形の花序を見ていたはずだ。オレンジの濃淡は、マガキガイの密度で、雄花の個所に集中しているのが分かる。マガキガイは、輝きを示している。

 E4、E5は葉に当たる。3点のうち2点は、どこに当たるとはっきり分からない。糸芭蕉をじっくり眺める必要がある。

Photo_3

 「花序の先端」をサラサバテイラで、「雄花」をマガキガイで表現している。土器はトカゲ土器(条痕文系)だが、Ⅲ層は植物トーテムを示している。それは、4460±70y.b.p.という測定とも符合している。平敷屋トウバルもそうだが、植物トーテムの表現には、しばしばトカゲ土器が使われるようだ。それは、トカゲの模様を示す土器の線状が、植物の繊維と似ているからだ。それは同時に、植物にはトカゲ・トーテム霊が入っていると考えられたことを示すのではないだろうか。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019/03/12

野国貝塚Ⅳb層の蛇トーテム

 5950±95y.b.p.と測定されている野国貝塚のⅣb層は蛇トーテムの段階にある。

 貝は、破片がカウントされていないので、詳細が分からないが、石器が蛇へのメタモルフォーゼの場を示している。

2

 B5からA9にかけて、うねった蛇がいるのが分かる。グリッド間は2メートルあるので、図の石器は拡大させて表示させている。また、グリッド内での石器の位置や向きは報告されていないので、蛇の形に添うように配置している。

 石器は蛇の特徴がよく捉えられている。C4の「敲打器」は、ハブに見られる頭部下で皮膚が露出した個所を表している。A7の大きな「石斧」は、蛇の「肛板」。A7からB7にかけた稜のあるふたつの石器は「尾下板」だ。45度以内の角度で屈曲する場合は、丸味を帯びた石器が使われている。蛇(ハブ)の模様などをよく知れば、何を表しているかもっとわかるはずである。

 オレンジの濃淡は、報告書にあるマガキガイの密度だ。蛇に沿ってマガキガイも分布している。野国はマガキガイが圧倒的な貝塚だが、これをみると、マガキガイは蛇の放つ光を示しているのだと思える。

 気になるのは、A8にぽつんとある球形の石器で、これは「卵」を示している。約6000年前は、トカゲにトーテムが移行する直前に当たる。不死が綻びを見せるトカゲのとき、人はなぜ脱皮による生の反復に不全を認めるようになるのか、まだ分からないが、そこに「卵」がかかわっていると思える。脱皮をするだけではなく、卵から出現するということが意識化されつつある。それは、トカゲへの移行にかかわっているのではないだろうか。

 蛇段階のメタモルフォーゼの場を、野国ではじめて見つけた。他では得られない資料かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019/03/04

平敷屋トウバルのオカガニ・トーテム

 平敷屋トウバルのⅤ層からは、「竪穴住居跡」が検出されている。

Photo_5

 トーテムの眼でみれば、これは住居跡ではない。Ⅴ層からは貝も豊富に出土していて、幸いなことに「竪穴住居跡」は区別されてカウントされている。その構成をみると、オカガニ段階にあるのが分かる。

 オハグロガイとオキナワヤマタニシが鋏、イソハマグリが腹部の主な化身貝になっている。女性は21人、男性は6人とカウントされる。この遺構下部には9つのピットも検出されている。その構成からいえば、ここは、「あの世に還る」場を示すと思える。

 礫の広がりは同じ段階のシヌグ堂遺跡を思い出させる。宮城島の近くの平敷屋にもオカガニ人がいたわけだ。

 Ⅴ層の放射性炭素年代は、3150±30BPを示している。この年代でオカガニ段階になるということは、本土の弥生期への移行よりも、オーストロネシア語族の北上の方がインパクトになったのかもしれない。

 勝連半島の平敷屋からは、植物、オカガニ、オウギガニ、ムラサキオカヤドカリ・トーテムが確認できる。徳之島の面縄、屋我地島の大堂原と並んで偉大な聖地だったのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

0.プロフィール 1.与論島クオリア 2.与論・琉球弧を見つめて 3.与論の地名 4.奄美の地名 5.琉球弧の地名 6.地域ブランドをつくる 7.小説、批評はどこに 8.島尾敏雄 9.音楽・映画・絵画 10.自然の懐 11.抒情のしずく 12.祖母へ、父へ 13.超・自然哲学 14.沖永良部学との対話 15.『しまぬゆ』との対話 16.奄美考 17.『海と島の思想』 18.『ヤコウガイの考古学』を読む 19.与論砂浜 20.「対称性人類学」からみた琉球弧 21.道州制考 22.『それぞれの奄美論』 23.『奄美戦後史』 24.『鹿児島戦後開拓史』 25.「まつろわぬ民たちの系譜」 26.映画『めがね』ウォッチング 27.『近世奄美の支配と社会』 28.弓削政己の奄美論 29.奄美自立論 30.『ドゥダンミン』 31.『無学日記』 32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』 34.『祭儀の空間』 35.薩摩とは何か、西郷とは誰か 36.『なんくるなく、ない』 37.『「沖縄問題」とは何か』 38.紙屋敦之の琉球論 39.「島津氏の琉球入りと奄美」 40.与論イメージを旅する 41.「猿渡文書」 42.400年 43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」 46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子) 47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す 48.奄美と沖縄をつなぐ(イベント) 49.「近代日本の地方統治と『島嶼』」 50.「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ 51.『幻視する〈アイヌ〉』 52.シニグ考 53.与論おもろ 54.与論史 55.「ゆんぬ」の冒険 56.家名・童名 57.与論珊瑚礁史 58.琉球弧の精神史 59.『琉球列島における死霊祭祀の構造』 60.琉球独立論の周辺 61.珊瑚礁の思考イベント 62.琉球文身 63.トーテムとメタモルフォーゼ