カテゴリー「58.琉球弧の精神史」の987件の記事

2017/08/22

「ハマオリ儀礼の基本構造と夏目踊り」(松山光秀) 2

 もうひとつ、松山光秀は重要なことを書いている。シュクの寄りと水稲の収穫の時期が一致することから、「シュクの折目も麦作の折目もすべて水稲文化に席巻され、同化されたのである」。

そのことが、二回目のシュクの寄りの呼称アキヌックヮや、ハマオリ儀礼の祭場に同居する形でユームチゴモイ(水稲文化)とフーゴモイ(採集文化)が隣接して存在すること等で説明づけられると思う。

 この洞察は、松山光秀の達成だと思う。

 シュクの寄りの時期と呼称は、もう書かれている。

 1回目。「サラユイ(新寄り)」、旧暦5月28日。体長1.5センチほど。「ミーイユ」と呼ばれる。松山はこれを「新しい魚」と解している。

 2回目。「アキヌックヮ」、アキとは、水稲の収穫のこと。旧暦6月28日。

 3回目。「マタベヌックヮ」。旧暦7月28日。マタベとは、「水稲のひこばえ」。

 ところで、宮城幸吉の「スクおよびスクガラス」では、5月内に来るのがウンジャニー、6月1、2日が中型のスク。7月1日は大型のキラハニ、になる。

 これを松山の記述に対応させれば、

 サラユイ(ミーイユ) - ウンジャニー、スク
 アキヌックヮ - キラハニ
 マタベヌックヮ - 対応なし

 となる。宮城の挙げている表では、徳之島の「ミーユ」は、中型のスクに分類されている。これは、体長4センチほどで、松山の記述とは矛盾する。徳之島のシュクの呼称は、水稲文化で変形させられていて古形の呼称は不明だ。唯一、ミーイユがその面影を宿している。松山はこれを「新しい魚」と解しているが、これは「メスの魚」という意味だ。そうなら、これは宮城の分類でいうスクに該当している。

 徳之島では、ウンジャニーとスクは混融していて、松山は、大きさはウンジャニーで、呼称はスクで見ているように思える。ミーイユはメスであり、ウンジャニーはオスと考えられていたはずだからだ。

『徳之島の民俗文化』

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2017/08/21

「ハマオリ儀礼の基本構造と夏目踊り」(松山光秀)

 もう少し徳之島の徳和瀬を手がかりにしてみる。

 シマの草分けはネーマ。その北隣りには祭りの広場トネがあり、その東にはノロの住んだアガレがある。ネーマとアガレには神の道が通っていた。また両者は、イイリ(兄)とウナイ(妹)の関係にあったと言われている。そこで、ネーマとアガレは兄弟姉妹が軸をなす母系社会を構成していたと捉えることができる。

 シマはネーマとアガレを起点に北に扇形に広がるが、この構成は、ハマオリヤドリにおける浜での陣取りの構成とまったく同じだった。そこで松山は、「浜に古い時代の格付けされた集落があったのだと思う」と推測している。

珊瑚礁の干瀬を頼りに、魚や貝、海草などの採集生活をしていたのではないか。

 栽培文化がもたらされると、島人は内陸部へと移り、ワシムラにたどり着く。その痕跡が「神の道」だ。「聖なる川」ハマジゴーを登って行った島人は、アークントーという山を下って「守護神の宿る」ティラ山を築き、それに抱かれるようにしてワシムラを作った。

 ここはネーマやアガレから北へ伸びるもうひとつの神の道も勘定に入れるべきだろう。その方が、葬場としてのチンシ山とあの世としてのティラ山の位置関係がよく納得できる。


Photo


『徳之島の民俗文化』

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2017/08/19

徳之島徳和瀬のティラ山

 松山光秀は徳和瀬のティラ山について書いている。

 松山が子供のころ、ティラ山は「木の小枝一本も手折ることもできない、恐ろしくて近寄り難い神山であった」。

 「守護神の宿る聖なる山」は、集落の奥から、アークントー、ティラ山、チンシ山の三層構造。チンシ山の南側の裾にイビガナシが祀られている。

 イビガナシの前を流れるカマミゴー(神浴び川)の源はアークントーに発する。カマミゴーはノロたちが身を清めた川。産湯などの人生儀礼上の「聖水」もこの川からとった。

 聖なる山と祭場は「神の道」で結ばれていた。神の道は、内側と外側のふたつがある。外側の神の道はほとんど通らないうえに、終着点がハマオリの祭場、ナーバマの一角にあるトゥール墓の前に通じていたので、恐れられる傾向があった。

 松山は問いを立てている。「なぜティラ山が神様の宿る神聖な場所になったのか」。

 チンシ(積石)山は「恐ろしいところ」。つまり、墓場。

チンシ山に葬られた偉大な祖霊は、年月を重ねて清められると、昇華して神となり、一段上のティラ山に宿るようになるのである。(中略)一番上のアークントーは、ティラ山の奥の院といったところであったろうか。ここでは集落の人たちが雨乞いの儀礼をとり行ったり、家屋の建築に伴う山の神の送り迎えの儀礼をなしたりしていた。このアークントーと浜のハマオリ祭場が神の道で結ばれていたことは先にも述べた。

 ここでぼくは、干瀬の海とティラ山の関係を探ることになる。狩猟採集時代の後半段階では、どちらもあの世を意味していた。干瀬は「胞衣」であり、ティラ山はその名からして等価物である。そして干瀬側の墓はトゥール墓であり、山側の墓はチンシ山になる。これらはもともと別集団のものだったはずだ。

 母系社会になって、ティラ山と干瀬には関連が生まれる。そこでできたのが外側の神の道だろうか。他界が遠隔化されると、ミャーからイビガナシへ通じる神の道が敷かれることになる。

 たくさんの限定を加えなければならないが、ひとつの仮説として書き留めておく。

 

Photo


『徳之島の民俗文化』

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2017/08/18

「【文化】という観点から浮かび上がる、アダルト・チルドレンたちの苦痛の本質 (藤本美貴)」

 充分な紹介はできないが、藤本はアメリカではAC(アダルトチルドレン)の出所は、「機能不全家族」とされているが、日本の場合、「機能追求家族」ではないか、としている(藤本美貴「【文化】という観点から浮かび上がる、アダルト・チルドレンたちの苦痛の本質 : 役割自我・甘え・世間をキータームとして」「社会臨床雑誌」第22巻第3号」)。

 取り上げられているのは、いわゆる「いい子」。それは「しつけ」が同化的共生関係のなかで生まれる。

 発達心理学では、母親との「共生状態」は、自他の分化と自我の本格的な覚醒がはじまる「分離-固体化」のさらに、前段、乳児期に位置づけられる。そこでは、乳児の感覚は母親にも共通して経験されていると感じられている。

 藤本は、この段階での「養育行為」が、「驚くべきことに日本においては長期にわたる養育・しつけ上の最も適した関係様式とされている」と、指摘する。

 一方、子供にとって勝手のできる「うち」と「いい子」としてふるまう「そと」は区別されるが、機能追求家族では、

まさにこの「そと」への志向性と「うち」の世界の相補的なバランスが根本から崩れ、前者の肥大化とともに後者の領域が不当かつ欺瞞的に搾取されるといった状況に陥ったものと考えられる。

 「うち」がなくなり「そと」のみの世界になってしまう、ということだ。

 島には「ヤーナレード、パーナレー」という言葉がある。家でやってることは外でも出てしまうから気をつけて、という注意みたいなものだが、これは「家」での「甘え」を前提にしているからこそ生きる言葉というわけだ。

 

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2017/08/17

徳之島井之川メモ

 井之川(イノカワ)は、島の呼び名は「イノー」。つまり礁池由来の名だ。集落の性格は「井之川根性(イノークンジョウ)」。

 井之川は、「シギョロジマ」とも呼ばれる。「寒村、つまり、北向きに立地しているために北風を直接受けるために北風を受ける構造になっている」。

 三本の川尻には、井之川湊が開けている。湊の両側には広大な干瀬。

 集落は、サド(佐渡)、イホ(伊宝)、ホウシマ(宝島)。

 アガレグシクの付け根には洞穴。トゥール墓。(以上は、松山光秀の『徳之島の民俗文化』)


 井之川の夏目踊りは、「浜下りでヤドリに祖霊を迎えて共食し、祖霊とともに家々を祝福して廻る」。

 浜-家-城という構図は、祖霊の移動と祖霊の祝福という夏目踊りの役割をよく示している。(板谷徹、酒井雅子「井之川の夏目踊り」「民俗芸能」1989)

 ここだけ見ると、祖霊は海からあがり城へ向かうようにみえるが、そうではない。徳和瀬をみると、むしろ山を本体としている。

 浜下りで家を出る際、新米のご飯を供えるが、それは「先祖様がハマオリ浜に下りていくついでに家にも寄るので、先祖様に上がってもらうため」だとされている。

 生後初めて浜下りに参加する子に対する儀礼は複雑だ。

 ・ニンニクの種を三個通し、首にはかせる(魔除け)。
 ・潮水を額につけるシュウカイ(祓い)
 ・潮つき場の砂浜の上に足をつけて踏ませるミーバマ踏マシ。

 これがヤドリに行く前に行うことだが、「ミーバマ踏マシ」だけが意味を書かれていない。もともと「シュウカイ」も「祓い」の意味はなく、むしろ「ミーバマ踏マシ」とともに、浜から生まれたことをなぞる儀礼だったと考えられる。ニンニクの種を三個通すのが、浜のそばにある洞穴墓が「穢れた」意味に反転してのちに付け加えられたものだ。

 この浜の意味からすると、祖霊は城から下り、浜へ行き、ふたたび城へ帰るという経路をたどっていることになる。

 
『徳之島の民俗文化』

『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』

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2017/08/13

胞衣としてのティラ山(徳之島徳和瀬)

 子が母親に、「赤子はどこから生まれてくるの?」と聞けば、徳之島の徳和瀬ではこう答えたと、松山光秀は書いている。

「それはね、朝早くティラ山のそばを通って水汲み(泉へ)に行きよったら、ティラ山の大きな松の木の二股のところに何か変なものがかかっているので近よっていって取り上げて見たら赤子だったのさ。早速水も汲まないで赤子を抱いて帰って来たんだよ。」

 ティラ山は、「木の小枝一本を切ってとっても神の祟りにふれるといわれる。近寄り難い畏しい神山であった」。松山は、お産が不浄視されていれば生まれてこない話ではないかと書いている。

 ティラ山の南側中腹は、チンシ山と呼ばれ、その麓の南側の端にイビガナシという聖地がある。

 この子供の話は、ティラ山の中腹が、サンゴ礁と同じく「胞衣」だったことを意味すると思える。


『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』

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2017/08/10

イヤンヤ洞窟遺跡(奄美大島土浜)

 笠利のイヤンヤ洞窟には、「1975年頃までは洞窟内が風葬墓として利用されており、その名残の人骨などがかなり散乱していた」(「イヤンヤ洞窟遺跡」)。

 ここのことは、茂野幽考も、死者はここを通って「あの世」へ行くと信じられていると書いていた(「奄美大島葬制史料」)。

 そして、其洞穴には入ると、あの世で織る機の音や鶏の聲などが聴こえてくるといってゐる。凡ての心象を精神科学で解釈しようとする自分の心に、うっかりすると、島の人の熱烈な信仰に釣り込まれて、岩屋の奥に極楽がありそうな、不可解な気持に囚はれることがある。島の人の考へでは、後生極楽の世は土濱の洞穴から一里先位にあると考へてゐるのである。

 茂野はいいことを言っている。「精神科学で解釈しようとする自分の心に、うっかりすると、島の人の熱烈な信仰に釣り込まれて」というところだ。

 ここはまず、三宅宗悦が1933年に人骨調査を行う。1963年には、永井昌文、三島格が続く。

 ここが「ヤーヤ遺跡」と言われることがあるのには、理由があった。

ヤーヤ洞窟遺跡をイヤンヤ洞窟遺跡」としたのはイヤンヤを”岩屋”と方言で呼んでおり、三島格にも確認をした。方言でイヤンヤと発音出来ずにヤーヤと記述したとのことである。

 「岩屋」を「イヤンヤ」という。それは直接、「岩」を指す言葉ではない。この「イヤ」は、中四国や関西に分布するイヤ山、イヤ谷と同じ意味だと考えられる。(参照:「麦つき唄から」(柳田國男『故郷七十年』)

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2017/08/09

加計呂麻島阿多地

 ここでは、加計呂麻島の阿多地にフォーカスして書いてみたい。

 登山修は奄美での産屋の痕跡を、ヒジャマ(火玉)の伝承に見ている(「ヒジャマグヤ(火玉小屋)と産屋」)。阿多地で引かているのは、

 ヒジャマの落ちるところは、火事が起きる。ヒジャマんぼ飛ぶのをみた時は、子供たちが、山で青柴を切ってきて、村のはずれの浜のウヤウチスィ(先祖の岩礁)と呼ばれる石の上でその青柴を燃やす。「ヒジャマだよ。ヒジャマだよ。」と叫びながら燃やす。
 からっぽの味噌甕は、蓋をあけてその口を上にして放置してはいけない。かならず、ひっくり返しておく。

 「妊娠中、ヒジャマを見ると赤児に赤い大きなアダ(ホクロ)ができるといわれる。それを消す方法は母親の生理で撫でるとよいとされる」。登山はこの例にも、「ヒジャマと出産」との関連を見ている。

 阿多地については、

ウヤウチイワ(先祖の岩)という阿多地の例が、それをよく物語っていると思われる。奄美の人の先祖は、そんなところで誕生したのだというように。砂浜の中の岩というのも何か暗示的である。

 登山は、もともと産屋だったものが、その機能を失いヒジャマグヤ(火玉小屋)に変化していったものだと見なしている。

 この推理は妥当だと思える。付け加えるとすれば、「ウヤウチスィ(先祖の岩礁)」は、サンゴ礁=貝をトーテムとした段階で生まれた思考である。

 続いて、ヨーゼフ・クライナーの「加計呂麻島ノロ信仰覚書」(「奄美郷土研究会報8号」1966)から。

 阿多地は昔、イキグスクと呼ばれた。祖先となったのは兄弟姉妹。

 ノロの祭祀集団(カミニンジョウ)のなかで、ただ一人の男性であるグジヌシュは「トネヤ、アシャゲ」の責任を負う。彼は、祖先となった兄弟姉妹とは別の家で継承された。もうひとつの神役であるスドゥは、兄弟姉妹の家系で継承される。

 クライナーは、これを「もとの形に還元すれば」、兄弟姉妹による祭祀として解釈できる可能性を指摘している。

 阿多地では、二月にカムムケを行い、四月にカムオホリをする。東方の「極楽」はネリヤカナヤまたはテルコとも呼ばれる。阿多地ではこのほかに、

オホリ祭のとき加計呂麻島南海岸の各部落から神々の船が出発し、全部請島の東方にある無人島木山島に集まって泊まり、その翌日マツニシ(北北東)の風で東南方の海に及ぶネリヤ島に帰るという伝説が伝わっている(武名・花富と与路にも同じ伝説がある。)
実久では六月のアラホバナと同時にカムムケ祭が行なわれるが、昔は仮面をつけたカミニンジョウが浜辺から村にのぼって、ネリヤからの稲穂を村人に贈ったという。

 実久には仮面が生きていたわけだ。

 次は吉成直樹の『琉球民俗の底流』から。

 阿多地では、「ボッの神は山の神であり、山にボッの神様がいるという」。ボッ山(オボツ山)には、イビと「村を開拓した人」の祠がある。

 二月の神迎えのとき、ボッ山から神を迎えるが、

そのとき、ボッの神はいったんデイゴの木に降り立ち、さらに神が四月の神送り(オーホリ)に送られるときまで滞在することになるトネヤと呼ばれる建物にやってくると考えられている(後略)。

 この神の行路は、ボッ山の麓近くがかつての他界だったことを示唆している。

 

『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』


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2017/07/31

「山神と平地の田神との巡回と反復」(吉本隆明)

 吉本隆明は、「思ふに古今は直立する一の棒では無くて、山地に向けて之を横に寝かしたやうなのが我国のさまである(『後狩詞記』)」という柳田國男を受けて、山人と平地農耕民のあいだでは「時間」は斜めに走ると書いている。

ここで柳田が認識している山人(猟師、木樵)と平地人(農耕民)との差異は、たんに居住領域の空間的な違いでもなく、またたんに山人を先住民とし、平地人を後住民とする違いでもなく、このふたつがきり離せない合力の成分要素として表象されていることをさしている。この斜めにはしる「時間」という柳田の概念は、ひとつには「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終りには又田から上って、山に還って山の神となる」という山神と平地の田神との巡回と反復の根拠をなしていた。

 この「山神と平地の田神との巡回と反復」について、「このふたつがきり離せない合力の成分要素」であるということの意味を、山人が平地にくだって平地人となった経緯としてみなす視点を出しておきたい。

 それは農の段階以前に挿入することができる。縄文遺跡の分布をみると、山間部で遊動していた縄文人は、平地に下りてゆく。なかには定着する人々も現れた。海への接近だ。稲作伝来以前に平地住民がいたということは、この普及に大いに預かったにちがいない。

 平地に下りた縄文人は、定着によって他界を発生させる。このとき、他界の指定先には山も選ばれる。山からは異形の祖先が時を定めて姿を表わすことになるだろう。それが零落の過程で、妖怪に変形されていくが、一方で、祖先の表象は山の神となり、稲の生育期間、田の神として集落を守護することになる。

 

『柳田国男論・丸山真男論』

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2017/07/30

猫の樹上葬

 猫の死骸は袋に入れてアダンの木に下げる。その周辺の習俗を挙げてみる(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 ・山に行ったら猫の声色を出すものではない。猫は人の精をとる(国頭)。
 ・猫は土の臭いをかいだら再生する(石垣島)。
 ・猫の魂とりを退けた呪術は、「クスコレバナ、クスコレバナ」(与論島)
 ・「猫と童は人の肝見ゆん」(与論島)
 ・猫は年を取ったら後生通いをする(与論島)

 猫を樹上葬にするのは再生が信じられていたということだと思う。霊魂との関連づけもある。蝶の換喩的な変換形ではないだろうか。


 

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