「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」のまとめ
平田国雄の「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(1956年)の要約、まとめは以下の通り。
1.与論島の調査によって、堡礁形成の理論の進展を見た。与論島の堡礁は、水深10mの地点に沿って堡礁として形成されたと推論される。ダーウィン他が主張するような周辺からの二次形成ではない。2.珊瑚礁は水深10mの地点を他の地点よりも好むからで、次の4つの要因が重要である。珊瑚礁は、「太陽光」と「高温」を好む。それは「波」と「砂の堆積」の抑制と受けながらも、浅海域においより繁茂する。
3.堡礁の状態を長期に保つには、礁湖に砂が堆積されているに違いない。
4.しかし、長期的には、珊瑚礁に埋もれて裾礁になってしまう堡礁もある。
5.ダーウィン以降の、沈降説による堡礁形成は、これらの基盤となる珊瑚礁の二次的な成長の結果、起こる。
6.与論島の最近の珊瑚礁はとても若く、この数千年の間に形成されたと考えられる。これらは、珊瑚礁が最初の段階でどのように形成されたかを推察するにはとてもよい例になる。
7.与論島は、その形成最初期の段階から隆起している。
8.島の東北部分は、6段の隆起珊瑚礁が同心円状に広がっている。そのうち低い個所の四段は、堡礁として形成されたものである。
9.東南部分では、六段の台地がみつかる。最も高いものが、島の頂上94mのすぐ下にある。このことは、現在の珊瑚礁を含めると、七段の珊瑚礁がこの島にはあることを示す。
10.ハニブのある半島部では多数のドリーネがみつかる。珊瑚砂岩が、珊瑚礁の薄い膜のしたで、基盤岩として頻繁に晒された。この基盤岩は容易に溶解してしまい、結果、ドリーネが形成された。
11.立長と麦屋の二つの区域には、全く珊瑚礁がみられない。立長の区域は断層線を越えて、島の最高所まで伸びている。これら二つの区域で珊瑚石灰岩が見られないのは、氷河期の間、変成岩は泥のなかにあり、海水準の変動でそれが取り払われたのが決定的な原因である。
12.与論島の全ての隆起珊瑚礁は厚さが薄い。基盤岩がむき出しのところでは、10未満がふつうである。もともとの厚さも20m満たないだろう。これは短い間に形成されたことを示す。
13.与論の隆起珊瑚礁は更新世のもの。現在の珊瑚礁(Ⅶ)と汀線周辺の隆起珊瑚(Ⅵ)は沖積世。古里珊瑚(Ⅴ)とウロー珊瑚(Ⅳ)は、第三間氷期の間に形成された可能性が高い。
14.琴平の崖には、四段の台地がある。これが示唆するのは、この断層線は、珊瑚礁以前のものではないかということだ。
1956年の論文だけあって現在では既知になっている項目も多い。現在でも新しい知見になるのは、11、12、14だろうか。
復帰直後、与論は珊瑚礁研究のよいサンプルと見なされたことが分かる。観光客や沖縄復帰の運動家の前に彼らに注目されていたということだ。
「足戸」が「朝戸」に改称されたのは1954年だが、平田の研究は、「Ashito」となっていて旧名称で聞き取っていたことも分かる。そういうことも面白い。平田が書いたのは、研究論文なのでもちろん、そのようなことは書かれていないが、復帰直後の与論の貧しさは彼の目にどう映っていただろうか。
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