カテゴリー「57.与論珊瑚礁史」の19件の記事

2014/02/19

「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」のまとめ

 平田国雄の「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(1956年)の要約、まとめは以下の通り。


1.与論島の調査によって、堡礁形成の理論の進展を見た。与論島の堡礁は、水深10mの地点に沿って堡礁として形成されたと推論される。ダーウィン他が主張するような周辺からの二次形成ではない。

2.珊瑚礁は水深10mの地点を他の地点よりも好むからで、次の4つの要因が重要である。珊瑚礁は、「太陽光」と「高温」を好む。それは「波」と「砂の堆積」の抑制と受けながらも、浅海域においより繁茂する。

3.堡礁の状態を長期に保つには、礁湖に砂が堆積されているに違いない。

4.しかし、長期的には、珊瑚礁に埋もれて裾礁になってしまう堡礁もある。

5.ダーウィン以降の、沈降説による堡礁形成は、これらの基盤となる珊瑚礁の二次的な成長の結果、起こる。

6.与論島の最近の珊瑚礁はとても若く、この数千年の間に形成されたと考えられる。これらは、珊瑚礁が最初の段階でどのように形成されたかを推察するにはとてもよい例になる。

7.与論島は、その形成最初期の段階から隆起している。

8.島の東北部分は、6段の隆起珊瑚礁が同心円状に広がっている。そのうち低い個所の四段は、堡礁として形成されたものである。

9.東南部分では、六段の台地がみつかる。最も高いものが、島の頂上94mのすぐ下にある。このことは、現在の珊瑚礁を含めると、七段の珊瑚礁がこの島にはあることを示す。

10.ハニブのある半島部では多数のドリーネがみつかる。珊瑚砂岩が、珊瑚礁の薄い膜のしたで、基盤岩として頻繁に晒された。この基盤岩は容易に溶解してしまい、結果、ドリーネが形成された。

11.立長と麦屋の二つの区域には、全く珊瑚礁がみられない。立長の区域は断層線を越えて、島の最高所まで伸びている。これら二つの区域で珊瑚石灰岩が見られないのは、氷河期の間、変成岩は泥のなかにあり、海水準の変動でそれが取り払われたのが決定的な原因である。

12.与論島の全ての隆起珊瑚礁は厚さが薄い。基盤岩がむき出しのところでは、10未満がふつうである。もともとの厚さも20m満たないだろう。これは短い間に形成されたことを示す。

13.与論の隆起珊瑚礁は更新世のもの。現在の珊瑚礁(Ⅶ)と汀線周辺の隆起珊瑚(Ⅵ)は沖積世。古里珊瑚(Ⅴ)とウロー珊瑚(Ⅳ)は、第三間氷期の間に形成された可能性が高い。

14.琴平の崖には、四段の台地がある。これが示唆するのは、この断層線は、珊瑚礁以前のものではないかということだ。

 1956年の論文だけあって現在では既知になっている項目も多い。現在でも新しい知見になるのは、11、12、14だろうか。

 復帰直後、与論は珊瑚礁研究のよいサンプルと見なされたことが分かる。観光客や沖縄復帰の運動家の前に彼らに注目されていたということだ。

 「足戸」が「朝戸」に改称されたのは1954年だが、平田の研究は、「Ashito」となっていて旧名称で聞き取っていたことも分かる。そういうことも面白い。平田が書いたのは、研究論文なのでもちろん、そのようなことは書かれていないが、復帰直後の与論の貧しさは彼の目にどう映っていただろうか。


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2014/02/18

ウロー珊瑚礁の頃

 それで結局、何をしたかったかと言えば、その昔の与論の姿を描いてみたかった。

 ウロ山脈が、リーフを形成していた頃。海水準は、80mくらい。断層は形成されていないから、80m以上地帯は、西と北にもっと伸びていたはずだ。ちょうどウロ山脈の縮小版のように。西方面は、不明なので珊瑚礁は途切れさせた。西が礁の途切れた島の想像。

 グレーの線と点線は現在の地形と珊瑚礁。


Urosango_3

 
 この時、もちろん人はいない。ハブもいなかっただろう。

 

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2014/02/17

断層形成以前の標高2

 こんどは昨日の図を元に、断層形成以前の標高算出のための補正値を求めてみる。

1

 かなりおおざっぱだが、下記のようになる。

Photo_2

 これを元にすると、茶花の礁湖は、やはりもともとつながっていて、島の形は凹みのない楕円形だったのではなかと思わせる。

 ちなみに、下は与論周辺の海図だ。

Img003


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2014/02/16

断層の形成過程のイメージ2

 『新編 日本の活断層―分布図と資料』(活断層研究会、1991年)は、与論には確実度Ⅰの活断層が二つあるとしている。

朝戸断層
・城面  S(20)
・那間面 S(15)

辻宮断層
・城面  E(50±)
・那間面 E(10±)
(p.401)

 これの意味するところを図示すれば、下図のようになると思われる。

1

 これを見ると、小田原・井龍の、

 ここでは各ブロックの高度を固定して、北東ブロックおよび西ブロックを断層形成以前の標高に戻すことにする。このようにして見積もられた断層による変位は、西北西-東南東断層により北東ブロックが約10m、北北西-南南東断層により西ブロックが北部で約10m、同南部で約50m落ちたことになる。「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)

 という記述は、やはり相当に単純化したものだと分かる。

 『新編 日本の活断層―分布図と資料』では、活断層の可能性を想定した崖の位置も描かれているので、これを元に、再度、断層形成の過程をイメージしてみる。

 前提としては、ウカチとシナハに最初、標高差は無かったとする。また、仮定としては、城面に対して、周囲が沈下したとしてみる。

 まず、辻宮断層の南部、城(グスク)の西方が下降する(1)。その影響を受けて、茶花の北方が落ちる(2)。茶花北の崖はひとつの線ではなく、三か所に別れているのは、南部の下降の影響を受けた側であることを示していると見なす。次いで、南部、茶花北の下降に耐えられなくなって、辻宮断層の北方部分も下降する(3)。

 次に、朝戸断層が、城(グスク)の北面で下降する(4)。この影響を受けて、辻宮断層の北部分も下降する(5)。ただし、この下降によって、「宇勝」側が「品覇」側の下になるほどではなかった。もともとの城(グスク)の西方の下降が著しかったためである、と考える。

 この形成順を番号で示す。

Photo

 上図の3と5は、下降だけではなく、南北へのずれも生んでおり、「宇勝」側が北へ伸び、「品覇」側は南へ伸びている。


『新編 日本の活断層―分布図と資料』


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2014/02/15

断層形成以前の標高

 昨日の結果を元に断層形成以前の標高をシミュレーションしてみる。

1.V-Y軸の北部が10m下降。
・茶花(-10)、立長(-0)、品覇(-10)、那間(-10)

2.X-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-20)、立長(-10)、品覇(-20)、那間(-10)

3.W-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-30)、立長(-20)、品覇(-20)、那間(-10)

4.Z軸の西部が30m下降
・茶花(-30)、立長(-50)、品覇(-20)、那間(-10)

現在の標高
・茶花(0)、立長(20)、品覇(20)、那間(30)

断層形成以前の標高
・茶花(30)、立長(70)、品覇(40)、那間(40)

 想像を膨らませれば、もともとの島は、東側は、ピャンチク、ミナタ離れも島の一部、そして西側の茶花港沖の広い礁湖も陸地だったということではないだろうか。

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2014/02/14

断層の形成過程イメージ

 ここでは各ブロックの高度を固定して、北東ブロックおよび西ブロックを断層形成以前の標高に戻すことにする。このようにして見積もられた断層による変位は、西北西-東南東断層により北東ブロックが約10m、北北西-南南東断層により西ブロックが北部で約10m、同南部で約50m落ちたことになる。「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)

 この説明はシンプルなのだが、理解するのは難しい。

 いままで聞いてきたのは、X-Z軸の「中央断層線」とY軸の「東部断層線」だ。でも確かに、Y軸が島を横断しないのは不自然だから、小田原・井龍が言うように、W-Y軸(西北西-東南東断層)とX-Z軸(北北西-南南東断層)となる方が整合性が取れる。

 しかし、小田原・井龍の記述は、結果としての断層なので、推移が分からない。そこでV軸も設けて、断層形成の過程を考えてみたい。

1.V-Y軸の北部が10m下降。
・茶花(-10)、立長(-0)、品覇(-10)、那間(-10)

2.X-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-20)、立長(-10)、品覇(-20)、那間(-10)

3.W-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-30)、立長(-20)、品覇(-20)、那間(-10)

4.Z軸の西部が30m下降
・茶花(-30)、立長(-50)、品覇(-20)、那間(-10)

 これは、小田原・井龍の記述と矛盾がないのか分からないが、仮定として置いてみる。


Photo


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2014/02/13

供利層珊瑚礁のイメージ

 供利層は、チチ崎層とともに琉球層群のなかで最も新しい層と位置づけられている。現在ある珊瑚礁の少なくともひとつ前のものだと目される。

 ハニブ、供利港、与論港にかけての、標高20m以下の一帯に分布しており、したがって海面も20m付近にあったものと想定されている。層厚は、露出部分からの判断では最大10m。また、供利層が形成されたのは、断層ができて後のこととされている。

 「鹿児島県与論島における新期礁複合体堆積物の堆積環境及び礁復元」(吉田慈・松田博貴『堆積学研究 53号』2001年)は、供利層の各地点を調査に当時の珊瑚礁のありように接近しようとしている。

供利層の堆積時には、西側遊歩道から東側供利漁港にかけての現在の島の外縁から内陸にかけて、礁斜面、外側礁原、礁嶺、内側礁原、浅礁湖の各礁環境が帯状に広がっていったものと推定される。また柱状9に示されるように、浅礁湖から礁斜面にの堆積層の垂直的変化から、礁は沖側から陸側へと成長していったものと推定される。さらに礁の規模としては、供利層の分布域が標高20m付近までであることから、供利層堆積時にはこれより内側は陸域であったとすると、浅礁湖は約500~1000mの幅で広がっていたと推定され、これは現在の白保海岸などとほぼ同じ規模であったと推定される(p.93)

 今の汀線(海岸線)が、リーフ(礁嶺)近くだったということになる。この調査を元に、イメージ図を描いてみた。礁嶺(リーフ)ラインと汀線(海岸線)ラインは、ぼくが想定したもの。各地点の状態は、調査結果に依るものだ。

Tomori


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2014/02/12

茶花と古里の砂地

 「与論島の琉球石灰岩」(野田睦夫、1976年)の「琉球石灰岩層上部層堆積時の形態」をもう一度、見てみる。

Noda008

 このイメージ図と1999年の「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』)の地質図を重ねてみると面白い。

Yoronjima8

 茶花から立長にかけての一帯と古里は、完新生の砂浜で構成されている。これは上図で、茶花から立長にかけての一帯が、イノーの真ん中に当たるのと対応している。また、古里は基盤地形のなかで谷部に当たるので、東からの砂の流入を強く受けたということだろうか。

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2014/02/11

その昔の与論島珊瑚礁シミュレーション

 1976年に公表された「与論島の琉球石灰岩」(野田睦夫)では、城(グスク)付近のみ海面から出ていた時期の珊瑚礁がシミュレーションされていて興味深い。

Noda008

 野田は日本語で表記する労を惜しんでいるので、努めてみる。

[back-reef shoals] 礁池から見て、リーフ(礁嶺)手前の浅瀬
[back-reef apron] 礁池内の堆積個所。イノーで泳いでいて立てる所に当たると思う。
[sand flat] 砂地
[coral zone] 珊瑚礁
[algal rim] 藻でできた縁
[reef front] 縁脚-縁溝
[reef slope] 外側斜面
[submarine ridge] 外側斜面と陸棚の境界
[off-reef floor] 礁周縁

 城(グスク)から立長東部にかけて島を想定。珊瑚礁は、島の中央の高所のラインが想定されている。ウロ山脈はこの時、珊瑚礁と陸棚との境界に位置している。また、ハニブ一帯は、西側の珊瑚礁前の浅瀬に想定されている。だが、その向こうにリーフが出現していたわけではない。

 与論島の琉球石灰岩層上部層堆積時の形態は、MAXWELL(1968)の open ring reef あるいは composite apron reef に近いものであったと考えられる(p.379)。

 野田は論文も英語表記の専門用語で済ませている個所が多いので、非専門家に不親切なのだが、仕方がないので、『Atlas of the Great Barrier Reef』(1968年、W.G.H. Maxwell)にも当たってみた。

Apron001
(p.101)

 上図の8が、「composite apron reef」、9が「open ring reef」だ。おおよその見当がつく。もちろんこの時、島の東西を分かつ断層が起きる前ということである。ラフなスケッチではあるけれど、イメージが膨らんで楽しい。


『Atlas of the Great Barrier Reef』

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2014/02/10

与論島堡礁のリーフ推移イメージ

 ここでやってみたいのは、与論に6段の隆起珊瑚礁が形成されていると発表した1956年の平田と、琉球層の形成史を調査した1999年の小田原・井龍の、半世紀近くを間に挟んだ両研究を対照させて、リーフ(礁嶺)がどの段階で形成されていたかについて、肉迫することだ。

1

(「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(平田国雄、1956年)と「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)から作表)

 図が小さくて見えにくいので、まず、小田原・井龍のパートが以下。

2

 続いて、形成順を示す1~7の段階と、6段の隆起珊瑚礁の位置との対応が以下。

3

 まず、平田の段階(1956年)では、最初の珊瑚礁である宇勝層、麦屋層、そして最後の珊瑚礁であるチチ崎層、供利層は認識されていなので、除外して対照する。すると、6段の隆起珊瑚礁に2~6の珊瑚礁形成段階が1対1対応で都合よく対照されるわけではないことが分かる。

 最も大きな理由は、海水準の上昇(海進)は短期間で起こるわけではなく、時間をかけるので、複数の堡礁が形成された可能性があるからだ。しかも、珊瑚礁形成に関与した海進は三回に及ぶので、該当する箇所はその都度、堆積が進むことになる。

 2の段階の海水準65m以上の段階で可能性があるのは、Furusato、Uro とlower Gusuku、Hamigo だ。しかし、この段階では、浅海層(水深50以浅の堆積物)は確認されていないので、堡礁にはなっていなかった可能性もある。

 3の段階と対応する可能性があるのは、Furusato、strandlineである。

 3~4、海水準30m以上から90mに上昇する段階で可能性があるのは、Uro、upper Hamigo、Gusuku、Kompiraである。

 5の段階に対応しているのは、Furusato、lower Hamigo。

 5から6、海水準が35m以上から100mに再び上昇する段階では、Uro、Hamigo、Gusuku、Kompiraの可能性がある。

 たとえば、ウロ山脈の琉球層群は、下から、ユニットが1R、2C、2R、3C,、3Rと続くので、3から4、そして5から6の間で、堡礁のリーフになった可能性がある。また、ハジピキパンタの厚い珊瑚礁も、3~4、5~6へ海水準上昇の過程で、ハジピキパンタ周辺が浅くなり浅海層として堆積されたものだということが分かる。5~6の期間はゆったりと、かつ長い時間をかけていることは、島の半分近い領域をカバーしていることからもうかがい知れる。

 このプロセスを画像シミュレーションで再現したら、どんなに美しいことだろう。


※平田が、番号を振った段丘の個所は下記のように図示されている。

Yoron2003_1


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