カテゴリー「54.与論史」の53件の記事

2015/04/12

「あまみや考」のなかの与論島

 伊波普猷は、「あまみや考」のなかで、与論にも触れている。

思うに、右のオモロに出ている各地点は、当時の航海者の目標となったもので、必ずしも一々船掛りするというわけではなく。中には素通りした所もあろうが、(中略)古代においては、航海には宗教的様式がつきもので、とりわけ崎や半島や島には、これを守護する「おがみ」が鎮座(或はガケズ)すると信じていたから、そこに船がかりするには、普通「取ユン」といい、たださしかかることにも、やはりそういってこの神に手向けする風習があった(p.174)。
「ねの島」の語義は、子の島か、根の島か、判然しないが、多分は前者で、子の方の島の義であろう。大島にも与論にも、そういったから、古くは広く北方の島々を指したと思われる。

 伊波はさらっと書いているが、そうだとすると、与論が「根の島」と呼ばれていることに驚いたりするのは(cf.「与論、かゑふた、根の島」)、見当違いということになる。また、「とりわけ崎や半島や島には、これを守護する「おがみ」が鎮座(或はガケズ)すると信じていたから、そこに船がかりするには、普通「取ユン」といい、たださしかかることにも、やはりそういってこの神に手向けする風習があった」のなら、「かゑふた」の意味も、航海を守護する島という意味が込められているのかもしれない(cf.「「かいふた」とは立派な集落という意味」)。

 ところで、伊波は与論島について、こうも書いている。

 例のオモロ等に、与論島の見えていないわけは、同島は慶長役後もかなり後になって、大島諸島中にくり込まれたもので、言語風俗などの点から見ても、全く沖縄的であって、これらの島々を沖縄と「一地」にする、いわゆる「はし」であったからだ(p.203)。

 伊波普猷にとっては、1609年にまつわる与論の命運に関する認識は、ここでも確認できる(cf.「プサトゥ・サークラの出自」)。こうなるとことの真偽よりも、伊波の認識の論拠となったことを知りたいのだが、ここでもそれは適わなかった。


『をなり神の島 2』

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2014/02/28

与論史8 大和世

さいはて期(1953年~1971年)

 復帰後、与論は「沖縄の日本復帰運動」と「観光」で本土の注目を浴びることになりますが、どちらも、与論が国内のさいはての地ということが意味を持っていました。

 島のなかでは、現在、奄振で通称される「奄美群島復興特別措置法」により1954年から復興が開始されます。

 復興の過程を追ってみると、復帰前の「高千穂丸」を皮切りに新造船が就航。江ヶ島桟橋(1963年)により小型船は接岸できるようになりました。陸では、オートバイ、タクシー、バスが導入されていきます。生活基盤では、電灯に続いて、プロパンガス、水道、そして電話、テレビが入り始めます。産業では、製糖工場(1962年)、医療では与論診療所(1955年)、教育では学校給食(1963年)。また、他島にわたる負担を軽減したいという思いは、大島高等学校与論分校の設立(1967年)に結実しました。

 こうして見ていくと、本土のいわゆる「高度経済成長」は、与論では文明としての近代化を同時に伴っていました。近代化以上、高度経済成長未満というのが実態ではないでしょうか。そして島人が古いものを脱ぎ捨てようとした頃、菊千代は、与論民具館を設立(1966年)しています。

 1967年に「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」と形容され、1968年にはNHKの「新日本紀行」で与論が紹介されて、観光客が増え始めます。そして観光地としての与論は、「ヨロン」と表記されるようになります。

ヨロン期(1972年~1982年)

 1963年以降、毎年、与論と辺戸岬の間、海の国境では、沖縄の日本復帰を目指す海上集会が開かれてきました。ひょっとしたら与論は、奄美の復帰よりもこの運動に主体的に取り組んできたのかもしれません。

 沖縄の日本復帰(1972年)の実現は、与論が「さいはて」では無くなることを意味しましたが、復帰後も観光客は急増し、1979年には15万人まで増えています。人口1万人足らずの島に年間15万人もの若者が訪れるのですから、島内の光景は一変しました。道に浜に、観光客があふれたのです。

 ヨロン期は、与論の島人が商業と交流を知る機会でもありました。そこで与論献奉が重要な役割を果たしただろうことも想像に難くありません。

 1976年に与論空港が開港し、本土との距離は大きく縮まりました。島外に出た出身者も帰りやすくなりましたが、航空運賃が高くつくという意味では、観光客が二の足を踏む理由にもなっていったでしょう。

 1979年をピークに、1980年以降、観光客は減少に転じます。そして、人口変動の激しかった与論ですが、1982年には、その後、長期的な傾向になる人口減少も始まりました。

パナウル期(1983年~2002年)

 1983年の「パナウル王国」は観光振興が目的ですが、考えてみると、島内的にも意味を持ったのではないでしょうか。名称のパナ(花)もウル(珊瑚)も、捨て去ろうとしていた島言葉から採られています。外向的な顔を持つ「パナウル王国」は、島を見つめ直す内向的な側面も持っていました。

 喜山康三による1987年以降の百合が浜港建設反対運動も、その現れのひとつだったでしょう。与論中学校でも教鞭をとった薗博明は、この運動を「奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初の取り組み」と評価しています。もちろん、開発にも島人の生活が関わっているので難しい問題には違いありませんが、今も「百合が浜」も消えることなく存在し、旅人を最も魅了する場所であり続けているのは、かけがえのないことだと言えます。

 島を見つめ直すという点では、1990年に「ヨロン・おきなわ音楽交流祭」が、1992年には、ゆんぬエイサーが始まっており、琉球弧の身体感覚を取り戻す動きも始まりました。

 与論でのことではありませんが、1995年、薗博明らは鹿児島県知事を相手に「自然の権利」訴訟を起こしています。ゴルフ場建設反対に端を発したものですが、なんと薗たちは原告を「アマミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」にしたのです。判決では、原告に「原告適格を認められない」と訴えは却下されています。法律としてはそうとしか答えようがないものですが、しかし原告の意図を汲んだ「重要な課題である」という回答も得られたのでした。この、琉球弧の身体感覚を取り戻す動きのなかに、「奄美世」の自然観が蘇えっているのに気づかされます。

 1996年の「与論徳州会病院」、1999年の「介護老人保護施設風花苑」の開設は、島人にとってはもちろんですが、観光だけではなく島に移住して住むことが選択肢になるための条件として重要でした。

 一方、1998年の白化現象により、パナウル王国の看板である珊瑚が死に瀕する状況に陥り、復活に向けた努力も始まりました。

単独期(2003年~)

 2003年は重要なことがいくつかありました。まず、沖永良部島との合併問題での住民投票で86%の島人が反対を表明し、与論が単独町の道を選択したことです。これは、与論の島人が自分たちのことを自分で選択するという機会として重要な意味を持ちました。

 また、Iターンで当時、与論に在住していた植田佳樹を中心にしたNPOの働きかけで、離れ島のなかではいち早く、ADSLサービスが導入されました。飛行機、船があるとはいえ、離れ島の宿命を背負っている与論にとって、海の外と常時つながっている状態を早期に実現したことは大きな意義があります。

 そして、火葬場「昇龍苑」の開設です。「奄美世」以来の自然との一体感のなかで培った感性は、1902(明治35)年の風葬の禁止につぐ火葬の開始で、直接的な表現の行き場を失いました。これは、与論の精神史にとっては「奄美世」の終りを意味すると同時に、文明史のなかでは近代化の完成を意味したのではないでしょうか。

 これから、「奄美世」感覚を蘇らせたり回復したりするには、新しい表現の形が必要になります。菊秀史の努力で、2008年に、2月18日が「与論言葉の日」になり、かつて「方言禁止運動」の場だった学校が方言を教える場になるという転換が起きたのは、その基本になるものです。

 2007年、与論を舞台にした映画「めがね」は、「この世界のどこかにある南の海辺」という表現で、「パナウル王国」の次の新しい与論のイメージを構築してくれました。
 こうして現在の与論につながります。

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2014/02/27

与論史7 アメリカ世

 敗戦後の米軍統治を、与論はどう受け止めたのか。郷土史家の野口才蔵の記述を追ってみます。

それは、奄美の民族にとっては、有史以来味わったことのない、鉄鎚の下るような宣言であった。そうした当時を体験した郡民には、今なお暗い過去の思い出として、年輪の中に深く刻まれていることだろう。祖国・母国日本から生木を裂くように引き離される身の哀れさ、心の痛さをしみじみ味わった。(『与論町誌』)

 1946(昭和21)年、北緯30度線以下の地域が米軍統治下に置かれることになった「ニ・ニ宣言」に対して、野口は「鉄槌の下るような」と書きます。これを書いているのは、1988(昭和63)年ですが、「奄美の民族にとっては、有史以来味わったことのない」というフレーズは、復帰運動の時に繰り返された常套句の受け売りです。「奄美の民族」とは、近代民族国家で育った者が、その認識を元に、1609年以降に薩摩の直轄領になった地域を呼んだものですが、しかしもともと「奄美の民族」が存在していたわけではありません。また、「有史以来味わったことのない」ことにしても、有史以来生きているわけではないから分かりようがないという以前に、「祖国・母国日本から」、「引き離される」という表現そのものが近代以降の認識の仕方です。だから、「鉄槌の下るような」と書く野口の真意は言葉の意味からは汲み取れません。

 真意を汲み取るには、「鉄槌の下るような」という受け止め方が、「祖国・母国日本」から「生木を裂くように引き離される身の哀れさ、心の痛さ」を伴ったことに注目する必要があります。するとここからは、離れ島の弱小感を持つ者が、所属する国民国家から分離された時、その不安、心細さを、まるで親から引離された子のように感じていることが見えてきます。それが、「暗い過去」として思い出す際の心情の核心にあるものです。

 しかし、蓋を開けてみれば、アメリカを否定すべき相手ではありませんでした。

現在の茶花墓地北隣の浜に米軍のヘリコプターが低空飛行して、缶詰袋などを投下した光景は、まだ昨日の感じがする。こうして与論を含む日本全国に食料や衣服を無償配布できるアメリカの偉大さに心服したものだった。(『与論町誌』)

 42年前のことを昨日のことのように思い出す程、米軍による食糧配給は強烈な印象を残し、野口はアメリカに「偉大さ」を感じ、「心服」するのです。
 そして、アメリカ世の8年間を、野口はこう回想します。

戦後のどさくさから、世相は年ごとに変化していったが。しかし、日本官僚の極端な統制になれてきた島民たちは、植民地的米軍制下における民主社会では、常に精神的空白感に、うつろな人生を過ごしている思いだった。学校の三大節の儀式もなく、国旗掲揚は禁じられ、「君が代」の歌は聞けなくなり、「天皇」に関することが生活の場から消えてしまい、正月も旧正月から新しく変わり、全く帯をはずしたしまりのない感じの毎日だった。こうして日本とアメリカの混血児みたいに育てられながら、八カ年という歳月を過ごしてきたのである。(『与論町誌』)

 皇民化教育を受け、兵役の経験を持ち、30歳になる時に敗戦を迎えた野口が感じる「精神的空白感」や「うつろな人生を過ごしている思い」には、青年期をあげて打ち込んだものが無くなってしまったことに対する虚脱感が滲んでいます。マブイ(魂)の抜けたような心持ちだったことでしょう。そして、「君が代」や「天皇」に対する挫折感がないのは世代的なものでもあれば、奄美的でもありました。

 しかし、「しまりのない感じの毎日」と書く回想からは、奄美の知識人や名瀬に見られた切迫感がありません。いつも事態は有無を言わせぬ決まった形で訪れるという小さな離れ島の経験値は、習い性になって、どことない呑気さを漂わせています。

 だから、沖永良部島と与論島が返還の対象から除外されると噂された「二島分離報道」に与論の島人も慌てたわけです。

 なぜに帰さぬ永良部と与論 同じはらから奄美島
 友よ謳おう復帰の歌を 我ら血を吐くこの思い

 野口もこの「復帰の歌」を「声がかれるほど」歌ったといいます。与論の島人も、1952(昭和27)年になって切迫感を持ったのでした。

 しかし、この切迫感には、奄美の知識人に見られなかったものがあります。
 奄美の島々は、薩摩の直轄領になって以降、言葉や服装は「琉球人」でありながら、琉球との関係に制限される統治のなかで、「琉球人」は宙づりにされた状態になりました。近代になり、琉球王国に終止符が打たれ、「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」になった時、沖縄は「沖縄人(ウチナーンチュ)」という自称を獲得しますが、奄美は自称の共同性を失いました。奄美には、たとえば「奄美人(アマミンチュ)」という共同性はなく、与論なら与論人(ユンヌンチュ)という個別性しかなかったからです。奄美全体でみれば、「大和人ではない日本人」ではあっても、その否定形を埋め対置する自称を持たなかったのです。

 そこで奄美の知識人から生み出されたのは、「奄美は大和である」という強弁でした。しかしこれは現実感の乏しい、自己欺瞞を潜ませたやみくもな主張でした。

 野口には「奄美の民族」という復帰運動時の常套句は使っていますが、与論は大和であるという強弁には至っていません。そしてそれは与論の島人にも言えることだったのではないでしょうか。

 そこにイデオロギー的な茫然自失はなかった。けれど、生活実感に根差した茫然自失はありました。与論の島人が復帰を願ったのは、エンゲル係数82.7%とも言われる生活を何とかしたい、貧困から脱したいということに尽きたでしょう。復帰運動の際、沖縄を含めた復帰なのか、奄美単独なのかという議論もありましたが、これは実質的な選択肢にはなりえず、そうするしかないものだったのではないでしょうか。そうでなければ、沖縄に対する単なる裏切りになってしまったでしょう。

 復帰嘆願署名が100%になり、「復帰の歌」を「声がかれるほど」歌ったのは、貧困の切迫感による茫然自失というもので、訴えというより叫びに似ています。

 しかし、これは復帰運動終盤の頃のことで、野口のいう「しまりのない感じの毎日」には、別の顔もあります。アメリカ世では、名瀬を中心に多様な文化活動が花開いたと言われますが、与論では敗戦後すぐに若い世代が与論村連合青年団を結成しています。青年団は電気促進事業を提案し、それが実る形で復帰の前後に村営発電所を開設し、島に電気を灯しました。与論では文化にはまだ手が届かない。その手前で、その助けになる光を手にしたのでした。

 野口の虚脱感とは別に、蘇鉄にも頼らざるを得ない食生活であったとしても、若い世代は元気な顔を見せていたのです。活気という面では、与論でも沖縄と鹿児島への密航がありました。儲けたり儲けなかったりだったようですが、きっと海人の血が騒いだことでしょう。

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2014/02/26

与論史6 大和世

 与論の島人にとって明治近代を知ることになったのは、1869(明治2)年、廃仏毀釈の急先鋒だった薩摩の命によって東寺や仏像が破壊されて菅原池に投げ込まれた時だったのではないでしょうか。しかし、与論の精神史から見れば、1870(明治3)年から翌年にかけた神女(ノロ)の廃止、ウガンの常主神社への合祀、シニグ祭、ウンジャン祭の廃止、1876(明治9)年の「入墨禁止」、そして1902(明治35)年の風葬禁止という目に見えない破壊がより深刻だったでしょう。それは、「奄美世」から続く自然との一体感のなかで育んだ自然観に致命傷を与えるものだったからです。この自然観を長期に保存してきたのが琉球弧の特徴ですが、それは簡単に消し去れるものではありません。現に1890(明治23)年に20年もシニグ祭は復活し、針突(ハジチ)は明治の終り頃まで続きました。

 そして新しく生み出された国民という概念の元、島人も名字を持つことになり、1875(明治8)年に、一斉に名づけが行われました。それは日本人になるという最初の印でもあったでしょう。翌1879(明治12)年、与論は奄美の他島とともに「鹿児島県大隅国大島郡」として日本に組み込まれました。より大きく言えば、この時、琉球弧の島々は「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」とに別れて日本になったのです。

 琉球弧の近代が抱えたのは、「大和人ではない日本人」として「日本人」になるという困難でした。沖縄の場合、それは全員に共通していたのに対して、奄美の場合、大和人のなかの少数者としてその困難に向き合わなければならなかったという違いが、そこにはありました。

 奄美の場合、その困難は、まず黒糖の問題として現れます。1873(明治6)年、大蔵省は黒糖の自由売買を許可しますが、県は士族や船主などに大島商社を作らせ、藩時代と同様の専売制を敷きます。同じ頃、国は砂糖増産を目論んで「大島県」を構想します。奄美を鹿児島県に置くのではなく、国が直接関与できる形にしようとしたわけですが、これは大久保利通が頷かなかったともあり実現しませんでした。奄美の島人は自由売買を求めて大島商社に反撥します。この時、生れたのが「勝手世運動」です。それはこの運動を主導した丸田南里の言葉に象徴させることができます。

 人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 「勝手」、つまり自由に黒糖を売買することを求めた丸田の言葉は、近代の理念を汲み取った島人の最初の宣言であり、丸田南里は与論でも記憶されるべき名前です。こうした抵抗により大島商社は1877(明治10)年に廃社になります。

 結果、大島には鹿児島商人を始め、大阪や長崎からも商人が寄留するようになり、彼らは奄美の島々から黒糖を購入し商品を売るようになりました。そのなかで、特に鹿児島の商人は島人に高利で貸し付け、法外な利息を受け取っていました。そして奄美は借金まみれになったのです。このことは与論も例外ではありません。例外ではないどころか、笹森儀助や改革のために行った調査を見ると、1897(明治30)年の与論の各戸当たりの負債額は奄美の平均を上回っています。

 他の島に比べて黒糖の生産時期がはるかに遅かった与論ですが、近代になって黒糖に苦しめられることになったのです。1899(明治32)年に始まった長崎県口之津への集団移住には、台風以外にもこの問題が深い影を落としていたのではないでしょうか。

 これに対して、奄美の島々は、不当な借金払いの拒否、栽培方法の工夫、質素な生活と貯蓄を柱とする「三方法運動」を展開していきます。1888(明治21)年に名瀬で開かれた「全郡委員」で三方法運動は実行が決められました。与論の島人はこの集会に直接、参加してはおらず代理人を立てたものでしたが、それでもこれは奄美の島々が初めて一体となった運動だったのです。

 もうひとつ、行政面の困難として現れたのが「独立経済」です。当時、県では鹿児島本土の税金が奄美に使われるのを良しとせず、奄美の税金が奄美外で使われるのも良しとしないという二面性を持った、奄美の財政切り離しの議論が起きています。そして、県当局はこれを実行すれば奄美は「言うべからざる惨状に陥る」のは当然という認識から反対しますが、議会に押し切られる形で、1888(明治21)年、独立経済は施行されます。

 結果は当初の県の認識に近い形になり、みかねた国と県が1935(昭和10)年、大島振興計画を実行しますが、焼け石に水で、振興計画と独立経済はともに1940(昭和15)年に終了します。独立経済は、半世紀余りも続いたのでした。ちなみに、沖縄県でも1933(昭和8)年に沖縄県振興計画が実施されていますが、これも振るわない結果に終わっています。

 与論の近代は、人口と貧困の問題を抱えた集団移住の歴史でもありました。1899(明治32)年の長崎県口之津への集団移住、1928(昭和3)年のテニアンへの移民、1944(昭和20)年の満州への開拓移民がそれです。口之津への移住では、「大和人ではない日本人」は「日本人ではない」という見なしを受け、過酷な労働環境と条件を強いられ、満州では敗戦とともに惨劇を生み、シベリアへの抑留者も出しました。しかし、前者は福岡県の大牟田に、後者は鹿児島県の錦江町田代に、第二の与論コミュニティを実現しています。

 徴兵制による従軍も始まりました。日清戦争7人、日露戦争23人、第一次世界大戦10人です。そして太平洋戦争。1944(昭和19)年の10月10日を始めにして、与論も空襲、艦砲射撃を受けており、また島からは日本機の墜落も戦艦の撃沈も目撃されています。既に6月27日には、小野少尉以下44人の小隊が来島し、壕の構築が進められました。1945(昭和20)年、3月末以降は、毎日のように焼夷弾が降り、米軍が沖縄に上陸すると上空を飛ぶアメリカ機の数も夥しく、海上も海を塞ぐほどの数だった時もあるといいます。沖縄からは砲声の轟が絶えず、与論からは燃え上がる沖縄島が見えました。これは1609年以来、二度目の経験です。

 与論への上陸が想定された時、小野隊長は、敵が上陸した場合、与論島民は全員、ハジピキパンタの西下に集結し、全員玉砕する旨、言い渡します。そこで、与論の山防衛隊長は、「だれが最後の一人に至るまで玉砕したことを見届ける責任を負うか」と言い返します。小野からは明快な回答はなかったと言いますが、山の返答はとても重要です。どんな言葉でもいい、極限の状態で死に追い込む命令に対しては、返す言葉を持つことが生き延びさせる力を持つのだと思います。

 島人が敗戦を知ったのは15日から遅れること3日の8月18日でした。与論の戦没者は295人です。

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2014/02/25

与論史5 大和那覇世

 薩摩による1609年の琉球侵攻を与論はどのように知ったでしょうか。まず、沖永良部島の狼煙が上がっていれば、それで知ったかもしれません。直接的には、三月25日の日中、百艘とも言われる軍船が茶花沖を進むのが見えたでしょう。そして27日、燃えがある今帰仁の炎や煙は与論からも確認できたに違いありません。与論にとってはこの時の恐怖が琉球侵攻体験でした。

 続いて、松下志朗の推定に従えば、1611年7月の石高設定ないしは検地(1610年にもあったかもしれません)で、与論の島人も薩摩の支配を実感することになったはずです。検地奉行衆の来島も恐怖だったろうことは想像に難くありません。

 気になるのはこうした過程で与論の島人はいつ、奄美の「五島」が薩摩の直轄領だということを知ったのでしょう。もっと言えば、奄美は直轄領だけれど本琉球は違うということをどのように理解していったでしょう。奄美統治の基本方針を示した1623年の「大島置目之條々」は、島役人が琉球から、位階を示す鉢巻きを受けることを禁じますが、これだけで明快に理解できるというわけではありません。代官経由で説明がなされるわけでもなかったでしょう。まして、重きを置かれない与論です。事態はうすうすと気づかれていったというのが実のところかもしれません。

 それというのも、与論も奄美の島と同様に、薩摩の士族が直接、島を統治するのではなく、「那覇世」の時の支配層が「与人(ユンチュ)」と名を変えて、島役人として統治していました。ですから、彼らにしてもことの真相を積極的に知らされる機会があったとは考えにくいのです。

 与人と言えば、大島では大規模な土地を所有し黒糖の生産高を上げることで富を蓄積し、島人との格差を大きくした島役人もいます。与論の場合、島役人が土地所有を進めた痕跡を見ることができますが、もともとの島が小さいですから富の蓄積もたかが知れていました。

 また与人は、島の統治を行うだけではなく、島津の祝儀があれば献上物を運び薩摩へ行かなければなりませんでした。これは上国と呼ばれていますが、1691年に開始され、与論の与人も加わっています。黒糖以前の献上物は、芭蕉布、尺筵(むしろ)、塩豚、干魚、焼酎などです。これは島人負担ですが、与人にしても、与論からの上国は奄美の島のなかでも六百キロと最も遠く、船旅の負担も危険も大きかったと言わなければなりません。

 薩摩直轄のなかで、奄美の他島と異なるのは、与論には代官所が置かれなかったことです。1616年には徳之島に代官(始めは奉行)所が置かれ、沖永良部島と与論島もその管轄下に置かれます。与論にも代官巡回の記録が残っていますが、実効性に乏しかったと言われます、1690年には沖永良部島に代官所が設置され、そして代官の補佐をする「附け役」が一年交代で駐在するようになります。この時、与論では「宝物の没収」を恐れた当時の首里主が東方へ住居を移しているので、附け役の駐在は重圧になったことが伺えます。

 しかし、もっと言えば、代官所が直接置かれることのなかった与論の重圧感は、島人が自覚することはなくても、他島と比較してみればとても希薄だっただろうと考えられます。また、代官所がなかった結果、与論では薩摩役人の一族が、豪族である衆達(シュータ)層を形成して島を二分するという事態も起きていません。

 この違いは黒糖生産に最も明瞭に表れています。1713年頃、大島で砂糖きびの強制的な栽培と買い上げが始まり、1747年には年貢が黒糖で納めることになり(徳之島は1760年)、奄美の北三島で砂糖きび畑が広がっていきます。この時、徳之島の米は沖永良部島や与論島から送られています。与論で作った米を徳之島の島人が食べていたことがあったのです。そして1830年に、生産した黒糖を全て藩が買い上げる政策になり、奄美は砂糖きび一色に近い状態になっていきます。

 けれど、沖永良部と与論で砂糖きび栽培が始まったのは、沖永良部が1853年、与論が1857年とずっと後になってからでした。北三島が辿った段階もありません。与論に至っては、明治維新のわずか11年前なのです。

 奄美の歴史と言っても大島の以下同文にできないことはたくさんあります。与論には与論の歴史が必要なのです。

 この時代に特徴的なのは北との関わりだけではなかったことです。中国から琉球へ冊封使がやってくる時には奄美の島々も献上物を差しださなければなりませんでした。これは与論も同じで、かつこれも島人負担でした。琉球王朝に対しても、この点では関係を持っていたのです。

 琉球王朝との関わりがあったのはこれだけでなかっただろうことを示すのは、神女(ノロ)の存在です。与論では琉球王府からの辞令書は見つかっていませんが、1609年以降も奄美の島々に辞令書が出されていた可能性も示唆されています。与論の古文書のなかで神女(ノロ)と神官とおぼしきものには、「大阿武(志良礼)」(ウプアンサーリ)、「茶花ヌル」、「内侍(ネーシ)ヌル」、「時之百(トキノヒャー)」、「瀬戸親部」などの独特な名称が見られます。彼女たちが中心になってシニグ祭やウンジャン祭も行われていました。ちなみに、琉球弧では民間の巫女をユタと呼ぶのに与論だけヤブと言うのが不思議ですが、「瀬戸親部」の「親部」はヤブとも読めるので、「瀬戸親部」は男性役ではありますが、これに由来する名前なのかもしれません。

 薩摩は神女の勢力を削ごうとたびたび試みますが効を奏しません。島人の信仰が厚かったからですが、自然との関わり方についての考え方がここでぶつかっていたのです。神女に象徴されるのは、「雨乞い」にも表れているように、念じることで自然を動かすことによって、人間に有用なものにするという自然観で、「奄美世」の延長にあるものだと言えます。対して、薩摩が神女を規制しようとしたのは、聖域を開墾地にしたかったのが理由のひとつですが、そこにあるのは、自然に手を加えることによって人間に有用なものにするという、いわば農業の自然観です。時代の必然的な流れとして、農業の自然観が優位に立つことになるわけですが、この意味では神女を通じて、「奄美世」の自然観は「那覇世」に引き継がれていました。

 また、思い込みとは違って琉球との交流も部分的にはあり、用向きがあれば島人も那覇などに交易に出ていました。

 言い習わしではこの時代を「大和世」と呼ぶわけですが、これは冊封体制を通じた琉球王朝との関係、「那覇世」の自然観の継続、琉球との交流という側面をすくい上げられず、かつ、近代以降に生じた沖縄との隔たりの拡大もうまく捉えられないので、ここでは「大和那覇世」としました。

 農業の強化とともに、与論の人口は増え、1691年には1294人だったのが、1866年には4972人になっています。1609年からを推測すれば、人口は約4000人増え、5倍に膨れ上がっていました。これは与論を賑やかにしたでしょうが、同時に島の土地と珊瑚礁で賄える食料を人口が上回るという事態が近づいていることも意味していました。

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2014/02/24

与論史4 那覇世(なはんゆ)

 「按司世」と「那覇世」に明確な区切りをつけるのは難しいことです。それは、「中山世鑑」の言う1266年の大島入貢の記述を、服属と見なしてよいかどうかは当てにならないという意味ではありません。確かにそれが服属を示すとは限らないという側面はありますが、そこに与論も含まれているかどうかも定かではありません。それに、ことによれば1266年より前に与論は琉球王朝の領地として認識された可能性もあります。

 シニグのサークラ集団には、サトゥヌシがありますが、これはニッチェーの後とばかりは言い切れないほど、両者の居住区域は、渾然としていると言います。そしてサトゥヌシは「里主」、つまり領主を意味する名称であり、彼らは沖縄島由来の統治者あるいは官吏として与論にやってきたとすれば、それは1266年以前である可能性もあります。

 しかし、ここで「按司世」と「那覇世」の間に明確な区切りをつけるのは難しいと言うのは、琉球王朝が最初に関与して以降、常に王国の支配が及んだという確たる根拠もないからです。北山由来とされる王舅(オーシャン)以降にも、サービ・マートゥイやウプドー・ナタという按司的な活躍をする人物も民話化されていて、「那覇世」のなかにも「按司世」が顔をのぞかせる面もあります。そこで、ここでは便宜的に13世紀を想定するにとどめます。

 島の外から統治者が来島したのがはっきりしているのは、北山王の次男とされる王舅が最初です。王舅にしても沖永良部島の世の主、真松千代(ママツジョ)にしても、今帰仁には認識されていない、統治された島の側だけの伝承に依るしかない存在ですが、しかし、王舅には墓がある他、なんといっても与論城(ユンヌグスク)を残しており、ただの伝承ではないと言うことができるでしょう。

 北山の滅亡とともに、王舅の伝承も途絶えますが、次いで与論に名を残しているのは、護佐丸です。名を残しているとは言っても、泣く子供の脅し文句に「護佐丸が来るぞ」という言葉が使われていることで知られているに過ぎません。しかし、護佐丸は、北山の滅亡を受けて北山監守として今帰仁にいた期間に、読谷にある座喜味城を築きますが、その際、奄美の島々から使役として島人を調達し築城に当らせたという伝承があります。与論からも築城に加わった島人がいて、それで「護佐丸が来るぞ」という言葉が残っているのかもしれません。

 この頃の与論にとって特筆すべきことがあるとすれば、初めて与論が文字に表記されたことです。それは、1431年の中山の公文書に出てくるもので、「由魯奴」、つまり「ゆるぬ」と読める漢字が当てられています。これは大島が「海見」と記述されてから700年以上後であり、表記したのは「海見」は大和、「由魯奴」は琉球であることが与論の立ち位置をよく伝えています。

 この公文書にも「由魯奴」は「属島」とあるように、王舅以降のどこかの時点で、中山領とされていたことが分かり
ます。ここで重要だと思えるのは、琉球の歌謡集「おもろそうし」の、勝連おもろとも言うべき一連の歌謡です。

 一 勝連が 船遣(や)れ
   請け 与路は 橋 し遣(や)り
   徳 永良部
   頼り為ちへ みおやせ
 又 ましふりが 船遣れ(938)

 たとえば、このおもろでは、勝連の航海において、請け島、与路島を架け橋にして徳之島、沖永良部島を縁者にして王へ奉れと、徳之島や沖永良部島を徴税の対象にしていたことが伺われます。また別のおもろでは、「鬼界(ききゃ)」、「大島(おほみや)」と、喜界島や大島もその対象であるように歌われるのですが、ここに与論島は出てきません。むしろ逆の立場で出てくるのです。

 一 与論(よろん)こいしのが
   真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
   玉金
   按司襲(あじおそ)いに みおやせ
 又 根国(ねくに)こいしのが

 与論の神女「こいしの」が徳之島(真徳浦)への徴税に赴くという内容になっているのです。とても驚かされますが、同時に考えさせられることもあります。ぼくたちは、島の歴史を考える時に、「奄美」という言葉に馴染みは薄いものの、大島から与論までをセットで考える癖がついていますが、そうではない歴史もあったということ、むしろ大島から与論までを一組とする見方は、薩摩藩の直轄領以降にできたものとして、境界を固定化せずに見つめる視点を持つことの大切さを示唆されるのです。

 そして、第二尚氏の尚眞が王に即位した1477年以降に、与論の「那覇世」は本格化することになります。1512年以降に琉球王朝から派遣された花城(ハナグスク)真三郎が、島主となって与論を統治します。里(サトゥ)の居住区域も、西区、朝戸から城(グスク)へと拡大していきました。これは同時に、里(サトゥ)が居住区域としては一杯になり、人口増加が続けば、低地の原(パル)に移らなければならなくなったことも意味していました。

 尚眞王によって本格化された与論統治は、花城以降、屋口首里主、殿内與論主、そして屋口與論主の代の途中までの百年足らず、続きました。

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2014/02/22

与論史3 按司世(あじゆ)

 「按司世」の始まりは、グスク時代の始まりと同じ11世紀と見なします。この時代は、琉球弧の最初の大きな世替わりだったでしょう。それを象徴するのは人、神、米、鉄です。

 まず、稲作の技術とともに琉球の開発祖神、アマミキヨが伝承され、与論にはアマミクという名で定着しました。

 実は、アマミキヨとは帰ってきたアマンだったのではないでしょうか。与論の郷土史家、野口才蔵もアマンとアマミキヨのつながりには気づいていましたが、吉成直樹は、このテーマについて、近年の知見を取り入れながら魅力的な仮説を追求しています。吉成の仮説にぼくの考えを乗せて書くと、第三期渡来のオーストロネシア語族は、アマンという言葉を持っていましたが、そこにはアマンをトーテムとする信仰も含まれていました。奄美大島に定着した彼らの一部は、自分たちをアマミと称します。大和朝廷勢力は、「日本書記」のなかで大島のことを書く際に、アマミに「海見」という漢字を当てて島の名としました。

 アマミは最初、トーテムとしてのオカヤドカリを意味しましたが、大和や朝鮮との交流のなかで、稲作技術が入った時に、アマミキヨと名を変えて、シネリキヨとともに稲の神に変身します。そして不思議なことに、ヤコウガイの交易や太宰府襲撃などで名をとどろかせた奄美大島は、11世紀から14世紀にかけて文献から姿を消し、遺跡も見つからなくなるといいます。このことは11世紀にアマミ族が南下したことを意味するのではないでしょうか。与論ではこれをアマミキヨの伝承として記憶に残してきました。

 グスク時代は、北から琉球弧へ大量の移住があったことも分かってきています。それは、顔が面長になり背も長身になるという、人が変わってしまうほどのインパクトを持ったものでした。この世替わりは、与論ではシニグ祭のなかにその痕跡を見出すことができます。与論のシニグの大きな特徴は、沖縄の門中に相当するサークラと呼ばれる親族を中心にした集団の居住地域から、与論への移住の順番を、ある程度までは復元し推測することができる点にあります。

 「奄美世」の時代は、ショー、サキマ、キン、アダマのサークラがありましたが、「按司世」に、北方からの移住と与論の人口増加をもたらしたのは、プカナとニッチェーだと見なすことができます。彼らによって、里(サトゥ)と呼ばれる高台の西区から朝戸へと、西方へ居住区域が広がっていきました。

 そして与論の「按司世」は、与論の民話で最も知られたアージ・ニッチェーによって象徴させることができます。言い換えると、与論の「按司世」は伝承によって語るしかないと言うことでもあります。しかし、アージ・ニッチェーには彼のものとされる積み墓(チンバー)もあり、彼は伝承と実在の両方の顔を持っています。伝承のアージ・ニッチェーは琉球の軍船によって命を絶たれますが、これは与論の「按司世」の終りを意味しているのかもしれません。

 グスク時代は、徳之島で生産されたカムィ焼きが、喜界島を交易拠点として琉球弧全体に流通し、経済圏としての琉球弧が一体となったとも指摘されていますが、与論もその渦中にあったのは間違いありません。

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2014/02/21

与論史2 奄美世(あまんゆ)

 琉球弧、特に奄美では、はるか昔の時代のことを「奄美世(あまんゆ)」と呼びます。これはとても本質的な名づけ方ですが、ぼくは「奄美世」とは、アマン、つまりオカヤドカリを自分たちの先祖と見なした時代のことだと考えています。驚くかもしれませんが、動物を先祖と考えるのは不思議なことではなく、それを表すトーテムという言葉があるように、人類の初期に普遍的に見られるもので、樹や石などの自然が対象になることもありました。

 アマンを先祖とする考え方の背景にあるのは、人間が動物や植物、自然と自分を区別せずにそれらと同じ存在だと考えていたということを意味しています。そこでは、人はまわりの自然と心を通わせることができました。作った米を貯蓄したり、文明を築いたりすることとは違う、別の豊かさがあったのです。そして大事なことは、明治生まれの女性までは手の甲にアマンのハジチ(針突)をしていたように、時代は「奄美世」を過ぎても、「奄美世」の考え方や感じ方は長く保存されたことです。ぼくはこれが琉球弧の魅力であり強みではないかと思っています。

 さて、「奄美世」が与論で幕を開けるには、島人がいなければいけませんが、最初の島人は誰だったのでしょう。それは知るよしもありませんが、オーストロネシア語族はそのなかの重要な存在だったと考えられます。南島語族という言葉で聞いたことがある方もいるかもしれません。

 オーストロネシア語族は、台湾、フィリピン、ベトナムを含む南方に起源を持つとされ、インドネシア、メラネシア、ポリネシアなど広範囲に展開した人類の集団です。言語学者の崎山理は、日本語の元を形成したひとつはオーストロネシア語だとして、その渡来の時期を3期に分けています。

 1.ハイ期  4000年前
 2.ヨネ期  3000年前
 3.ハヤト期 1800年前

 このうち、「南」を意味する「ハイ」という言葉とともに渡来したのは4000年前です。その頃、与論の珊瑚礁は成長を始めていましたが、リーフはまだ形成されていません。人類が上陸するのは早かったかもしれません。注目したいのは、珊瑚礁がリーフを形成した約3000年前と重なるヨネ期です。この第二期の渡来では、オーストロネシア語族は「砂州」を表す「ヨネ」という言葉を携えているのですが、これは与論にとっても重要な言葉であり、与論の最古の遺跡のひとつであるヤドゥンジョーが約3000年前とされることにも符合していて、彼らが最初の与論人(ユンヌンチュ)である可能性を持っています。与論の神話に言う、赤崎からの開発祖神の上陸とは、彼らのことを指しているのかもしれません。

 ところで、与論が珊瑚礁の島として環境が整ったのは琉球弧のなかでも新しい方で、すでに7000年前には、曾畑式と呼ばれる土器が九州から伝わり、琉球弧もその文化圏に入っていて、北からの人の移住もあったのではないかと考えてられています。けれど、その頃はまだ島人はいなかったと考えると、与論との直接的な関わりはまだ無かったことになります。

 与論がはっきりと関わっただろうと考えられるのは、大和の弥生時代に始まる貝交易です。柳田國男は貨幣の価値を持った「宝貝」を求めて南から北へ北上した「日本人」を想定しましたが、貝はどうやら不思議な力を秘めているようです。琉球弧産のイモガイ、ゴホウラなどを、大和の豪族は、自らの威信を高める印として腕に貝輪をはめたというのです。その際に、奄美の島々は交易の中継ぎの役割を担ったと考えられていますが、与論の島人も貝交易のどこかに登場していたのかもしれません。

 大和の古墳時代に当たる1800年前には再び、オーストロネシア語族の渡来が想定されていますが、これも与論にとって重要だったはずです。彼らが運んだ言葉のなかに、アマンが入っているからです。アマンがトーテムとなり、アマンジョーという地名がついたのもこの時期かもしれません。

 そして貝交易は続き、やがてヤコウガイが大和で大きな需要を持つようになります。それに呼応するように、奄美大島の北部ではヤコウガイの大量出土遺跡がいくつも見つかっています。それは五百年も続いたとされているので、ヤコウガイもとても大きな存在だったのです。

 八世紀になると、大和の歴史書のなかに、「奄美」、「多褹」、「夜久」、「度感」、「信覚」、「求美」などが朝貢したという記録が表れます。大和朝廷が琉球弧の島々を勢力下に収めたわけですが、ここでの「など」の中に与論は含まれていてもいなくても、どちらでも不思議はありません。ただ、太宰府跡から発見された八世紀のものとされる木簡にある「伊藍嶋」は沖永良部島の可能性も指摘されており、与論にもこうした大和朝廷の活動が身近に迫っていたのは確かなことだと思われます。

 「奄美世」の時代の遺跡である上城(ウワイグスク)からは、猪とともに、魚貝類や鯨、ジュゴンの骨が出土していて、当時の島人が狩猟と漁労で生活していたことが分かります。きっと今よりはるかに海人だったことでしょう。

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2014/02/20

与論史1 珊瑚世(うるゆ)

 ふつうは「奄美世」から始めますが、珊瑚礁抜きには与論のことは語れないので、珊瑚礁が島に積もった時から今の珊瑚礁ができるまでをひとつの時代として捉えてみたいのです。その時代を、「珊瑚世(うるゆ)」と名づけます。

 「珊瑚世」は更新世と呼ばれる時代に始まります。もとになっているのは立長層と呼ばれる基盤岩です。この基盤岩は水を通しませんから、今でも地下水は立長層の上を流れています。この、谷間も多くでこぼこした立長層の上に珊瑚礁ができて長い時間をかけて島に積もっていったのです。

 「立長層の上に」というのは、海面が今より上にあった時があるということです。海面が上ということは今の島の陸の部分でも海面下になったということです。そこで、珊瑚が育つのに適切な条件が整うと珊瑚礁ができます。その後、海面が上昇したり下降したりすると、残された珊瑚礁は石灰岩として堆積していくことになります。

 海面は色んな高さになりましたから、与論には大小さまざまな珊瑚礁が同心円状にできました。与論城から那間のある北東部分はそれがはっきり表れていて、六段の段丘が確認できるといいます。これは、六つの珊瑚礁があったことを示します。

 ただ実は、与論にあった珊瑚礁の数は六つを上回ります。たとえば、今ぼくたちが見ている珊瑚礁のひとつ前には、空港付近の一帯に珊瑚礁がありました。プリシアのあるハニブから遊歩道のビドゥ、そして与論港、供利港にかけてリーフがあり、その内側の陸地がイノー(礁池)でした。だから、城(グスク)を中心とした珊瑚礁以外にも別の形でできたこともあったのです。

 時代は、89万年前から39万年前にできた層があるのは確認されていますが、これははっきり言える範囲のことなので、実際には、「珊瑚世」はもっと前から始まっています。そんな気の遠くなるような昔から珊瑚が出来ては積もり、また別の場所にできては積もりを繰り返して基盤岩を覆い、いまある地形の原型を作っていきました。

 しかし、与論島の地形は基盤岩の上に珊瑚礁が積もってできたというだけではありません。小さく平坦な島なのに迫力もあるのは、南北と東西に入る断層があるからですね。与論城から島の南西側が見渡せるのは、南側と西側で地層が落ちているからです。ここが典型的なように、大きく見れば、島の東部に対して西部が、島の東部のなかでは南部に対して北部が落ちています。珊瑚礁の堆積だけではなく、断層もまた島の地形に一役買っているわけです。この断層によって、船から見る島影はあくまで平坦なのに、道々はアップダウンの激しい、ヨロンマラソン・ランナー泣かせの地形ができました。

 「珊瑚世」のなかで、与論は何度も海面下に没したことがありますが、最後に姿を現したのはいつのことでしょう。はっきりした時期は分かっていませんが、喜界島が海面上に姿を現したのは約10万年前ですから、それとの対比で考えると7万年前頃ではないかと推測できます。その頃は、氷河期で海面は下がっていったので、与論の陸地も次第に大きくなっています。そして氷河期のピークだった2万年前には、海面はなんと今より120mから140m、下だったと言われています。ということは当時、与論は標高200m以上の島になっていたわけです。

 そしてその頃には、人類は琉球弧にも到達しています。奄美大島、沖縄島、石垣島では、2万年前かそれ以上前の遺跡や人骨が見つかっているので、もしかしたら、与論島に初上陸した人類もいたのかもしれません。

 ただ、200m以上になったと言っても、沖永良部島や沖縄島の国頭とつながっていたわけではなく、小さな島であることに変わりないので、与論で生活できるにはもうひとつの条件が必要だったかもしれません。その条件とは、珊瑚礁ができることです。

 ここまで来ると、調査のおかげで年代ははっきりしていて、今のリーフの場所の海面下から珊瑚が成長し始めたのは約5千年前、そしてその珊瑚が海面に到達したのは約3千年前です。こうして「珊瑚世」を通して、島人が生活できる環境が整っていきました。

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2014/01/31

沖縄の歴史を学ぼう

 山川出版社の『沖縄県の歴史 (県史)』『鹿児島県の歴史 (県史)』を比べてみると面白いことに気づきます。

 与論のこと、奄美のこと、自分たちが身近に感じられることという視点で見ると、『鹿児島県の歴史 (県史)』は多く見積もって一割、『沖縄県の歴史 (県史)』は少なく見積もって半分なのです。

 『鹿児島県の歴史』には「南島の世界」、「琉球王国」、「琉球出兵」、「黒糖地獄の唄」、「日本から分断された奄美群島」というタイトルが出てきます。これらは、鹿児島本土の歴史の流れのなかに時折スポットを当てられる「点」として構成されています。

 これが『沖縄県の歴史』になると、最初の方を採っただけでも、「本土とは異なる歴史」、「ゆれる沖縄考古学の時代区分」、「日本人の二重構造モデルと沖縄」、「港川人と貝塚人」、「琉球=沖縄人の成立とグスク時代」、「貝塚時代最古の土器の謎」、「貝塚時代前期の文化と生活」、「サンゴ礁の発達と漁労共同体」と、話題も身近であり、点ではなく、時間の流れのなかで捉えることができるのが分かります。

 面白いことに、それは歴史を異にすると言われる最近のことでも、「砂糖価格の暴落と「ソテツ地獄」」、「沖縄学と「ヤマト化」の諸相」、「方言論争と「県民性」認識」などと、そのまま与論にとっても問題だったこととして重ねて見ることができるのです。

 これが明瞭に物語るように、与論の子供たちが、『鹿児島県の歴史』だけで歴史を学ぶとしたら、いちじるしくバランスを欠くことになるでしょう。いいえ、バランスを欠くというより、与論人はぼくもそうであったように、歴史とは自分に関わることが登場しないものという感覚を身につけることになってしまうのではないでしょうか。

 いずれ教科書は読まないものだとしたら、大袈裟に考える必要はないとしても、何かの弾みに興味を持った時、手引きになるものが身近にないのは不都合と言うものです。歴史が自分たちにも関わりあることを知るには、『沖縄県の歴史』を見るのがいいと思います。

 ちなみに両方のテキストに共通している「風土と人間」のなかで、奄美はそれぞれ次のように触れられています。

琉球王国であった奄美諸島は、薩摩藩の直轄地として分離され、琉球王国と薩摩藩のあいだの「道之島」と称されるようになった。この奄美産の黒砂糖が薩摩藩の財政建て直しの大黒柱となるのである。亜熱帯性の産物の豊富な奄美は、薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった。(『鹿児島県の歴史 (県史)』
奄美地域は万暦三十七(一六〇九)年に王国が薩摩軍にやぶれたため、王国の範囲から割譲され薩摩の直轄地となり今日におよんでいるが、「琉球」という用語を使う場合、そのなかには当然のことながら奄美が含まれている。奄美は行政的には薩摩・鹿児島の一部だが、歴史的・文化的に沖縄と密接な関係をもっており、今でもなお沖縄県に対する強い親近感をいだいている。(『沖縄県の歴史 (県史)』

 『鹿児島県の歴史』が、奄美は、薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった」と書くように、奄美は手段として取り上げられます。しかも、「母なる奄美」という形容は歴史を参照すれば偽りの形容と言うべきものです。

 これに対し、『沖縄県の歴史』は、近さと関わりの視点で書かれていて、ふたつの「風土と人間」からどういう視線がぼくたちに注がれているかも知ることができます。

 もちろん、沖縄の歴史を知れば充分というわけではありません。沖縄県の歴史にはぼくたちは登場することはないからです。その意味で、2011年に刊行された『奄美の歴史入門』(2011年)は画期的でした。ここには、奄美の歴史が、現代の考古学や文献読解の成果をもとに易しい言葉で書かれているからです。奄美にとってこれは重要で、歓迎すべきものです。

 しかし、それでも付け加えなければならないのは、この本で充分だと言うわけにいかないことです。

 それは、『奄美の歴史入門』は、自分たちに関わることが書かれていると感じることができますが、それでも、奄美大島中心の歴史であることを免れません。それは、意地悪ということではなく、与論と大島は二百キロも離れており、その距離は、黒糖生産が大島に比べて百数十年も後だった歴史の違いとして表れるのです。

 他力本願ばかりでもいけないと言うことですね。与論の歴史を自分たちでも作ることをしなければならないということです。そして沖縄の歴史は、その大きな手がかりになるはずです。


『沖縄県の歴史 (県史)』

『鹿児島県の歴史 (県史)』

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