さいはて期(1953年~1971年)
復帰後、与論は「沖縄の日本復帰運動」と「観光」で本土の注目を浴びることになりますが、どちらも、与論が国内のさいはての地ということが意味を持っていました。
島のなかでは、現在、奄振で通称される「奄美群島復興特別措置法」により1954年から復興が開始されます。
復興の過程を追ってみると、復帰前の「高千穂丸」を皮切りに新造船が就航。江ヶ島桟橋(1963年)により小型船は接岸できるようになりました。陸では、オートバイ、タクシー、バスが導入されていきます。生活基盤では、電灯に続いて、プロパンガス、水道、そして電話、テレビが入り始めます。産業では、製糖工場(1962年)、医療では与論診療所(1955年)、教育では学校給食(1963年)。また、他島にわたる負担を軽減したいという思いは、大島高等学校与論分校の設立(1967年)に結実しました。
こうして見ていくと、本土のいわゆる「高度経済成長」は、与論では文明としての近代化を同時に伴っていました。近代化以上、高度経済成長未満というのが実態ではないでしょうか。そして島人が古いものを脱ぎ捨てようとした頃、菊千代は、与論民具館を設立(1966年)しています。
1967年に「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」と形容され、1968年にはNHKの「新日本紀行」で与論が紹介されて、観光客が増え始めます。そして観光地としての与論は、「ヨロン」と表記されるようになります。
ヨロン期(1972年~1982年)
1963年以降、毎年、与論と辺戸岬の間、海の国境では、沖縄の日本復帰を目指す海上集会が開かれてきました。ひょっとしたら与論は、奄美の復帰よりもこの運動に主体的に取り組んできたのかもしれません。
沖縄の日本復帰(1972年)の実現は、与論が「さいはて」では無くなることを意味しましたが、復帰後も観光客は急増し、1979年には15万人まで増えています。人口1万人足らずの島に年間15万人もの若者が訪れるのですから、島内の光景は一変しました。道に浜に、観光客があふれたのです。
ヨロン期は、与論の島人が商業と交流を知る機会でもありました。そこで与論献奉が重要な役割を果たしただろうことも想像に難くありません。
1976年に与論空港が開港し、本土との距離は大きく縮まりました。島外に出た出身者も帰りやすくなりましたが、航空運賃が高くつくという意味では、観光客が二の足を踏む理由にもなっていったでしょう。
1979年をピークに、1980年以降、観光客は減少に転じます。そして、人口変動の激しかった与論ですが、1982年には、その後、長期的な傾向になる人口減少も始まりました。
パナウル期(1983年~2002年)
1983年の「パナウル王国」は観光振興が目的ですが、考えてみると、島内的にも意味を持ったのではないでしょうか。名称のパナ(花)もウル(珊瑚)も、捨て去ろうとしていた島言葉から採られています。外向的な顔を持つ「パナウル王国」は、島を見つめ直す内向的な側面も持っていました。
喜山康三による1987年以降の百合が浜港建設反対運動も、その現れのひとつだったでしょう。与論中学校でも教鞭をとった薗博明は、この運動を「奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初の取り組み」と評価しています。もちろん、開発にも島人の生活が関わっているので難しい問題には違いありませんが、今も「百合が浜」も消えることなく存在し、旅人を最も魅了する場所であり続けているのは、かけがえのないことだと言えます。
島を見つめ直すという点では、1990年に「ヨロン・おきなわ音楽交流祭」が、1992年には、ゆんぬエイサーが始まっており、琉球弧の身体感覚を取り戻す動きも始まりました。
与論でのことではありませんが、1995年、薗博明らは鹿児島県知事を相手に「自然の権利」訴訟を起こしています。ゴルフ場建設反対に端を発したものですが、なんと薗たちは原告を「アマミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」にしたのです。判決では、原告に「原告適格を認められない」と訴えは却下されています。法律としてはそうとしか答えようがないものですが、しかし原告の意図を汲んだ「重要な課題である」という回答も得られたのでした。この、琉球弧の身体感覚を取り戻す動きのなかに、「奄美世」の自然観が蘇えっているのに気づかされます。
1996年の「与論徳州会病院」、1999年の「介護老人保護施設風花苑」の開設は、島人にとってはもちろんですが、観光だけではなく島に移住して住むことが選択肢になるための条件として重要でした。
一方、1998年の白化現象により、パナウル王国の看板である珊瑚が死に瀕する状況に陥り、復活に向けた努力も始まりました。
単独期(2003年~)
2003年は重要なことがいくつかありました。まず、沖永良部島との合併問題での住民投票で86%の島人が反対を表明し、与論が単独町の道を選択したことです。これは、与論の島人が自分たちのことを自分で選択するという機会として重要な意味を持ちました。
また、Iターンで当時、与論に在住していた植田佳樹を中心にしたNPOの働きかけで、離れ島のなかではいち早く、ADSLサービスが導入されました。飛行機、船があるとはいえ、離れ島の宿命を背負っている与論にとって、海の外と常時つながっている状態を早期に実現したことは大きな意義があります。
そして、火葬場「昇龍苑」の開設です。「奄美世」以来の自然との一体感のなかで培った感性は、1902(明治35)年の風葬の禁止につぐ火葬の開始で、直接的な表現の行き場を失いました。これは、与論の精神史にとっては「奄美世」の終りを意味すると同時に、文明史のなかでは近代化の完成を意味したのではないでしょうか。
これから、「奄美世」感覚を蘇らせたり回復したりするには、新しい表現の形が必要になります。菊秀史の努力で、2008年に、2月18日が「与論言葉の日」になり、かつて「方言禁止運動」の場だった学校が方言を教える場になるという転換が起きたのは、その基本になるものです。
2007年、与論を舞台にした映画「めがね」は、「この世界のどこかにある南の海辺」という表現で、「パナウル王国」の次の新しい与論のイメージを構築してくれました。
こうして現在の与論につながります。
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