カテゴリー「53.与論おもろ」の13件の記事

2013/10/27

与論おもろ点数、『与論町誌』との異同

 『与論町誌』は、与論に関するおもろを12点としている。町誌が参照しているのは『古代中世奄美資料』(松田清編)だ。

 『古代中世奄美資料』に当ってみると、そこで挙げられているのは13点なのでカウント・ミスだと思う。ここで数えた、与論おもろは14点だった(「十四点の与論おもろ備忘」)。差分の1点は何か。それは、「うらおそい節」の反復分だ。


うらおそい節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらへ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)

(1515、第二十二 みおやだいりおもろ御さうし、天啓三年)


 この最後の巻の「うらおそい節」は、巻五にも出てくるものだ。


うらおそいおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらゑ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)
又 かゑふたに 降(お)ろちへ
  厳子達(いつこた)に 取(と)らちへ

(237、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)


 ただし、巻二十二では「かゑふた」の対句部分が抜けており、それで『古代中世奄美資料』はカウントし損ねたのだと思う。

 そこで、現在の時点では、与論おもろは14点という結論になる。

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2013/10/25

異称としての「かゑふた」、「せりよさ」

 なぜこうも執着するのか、自分でもうまく説明できないのだけれど、「かゑふた」地名の謎に少しでも迫りたくて、「おもろそうし」の地名で異称、別称の類を抽出してみた。解釈は外間守善に依る。(『おもろさうし(上)』『おもろさうし〈下〉』

喜界の浮島・喜界の焼島(6) 喜界島
果たら島(33) 八重山島
群れ島(41) 慶良間群島
おおみや(53) 奄美大島
吉の浦(61) 中城村屋宜の浦

山城(96) 京都
真境名(まさけな)(96) 未詳。人名または地名か。
金の島(96) 久米島の美称
綾子浜・雪の嶽(100) 島尻郡与那原町与那原の浜
京(けふ)(103) 首里

せりよさ(165) 沖永良部島の古名
金福(166) 首里城の美称
かき(179) 粟国島の別名
小禄横嶽(194) 嶽名。場所は未詳
君寄せ・綺羅寄せ(225) 建物の美称

我謝の浦・うつの浦(227) 中頭郡西原町我謝の浦とその異称
かゑふた(237) 与論島の古名
金の島(279) 首里の美称
御島(345) 首里
金島(531) 美しい島

赤丸(554) 国頭村桃原
成さが島(559) 久米島の美称
浮島(753) 那覇のこと
連れ島(769) 連なっている島。慶良間列島
せぢ新神泊(853) せぢ新神の守護し給う泊。久高島の港

雲子寄せ泊(853) 宝物を寄せる泊の意で、久高島の港の美称
久米あら(900) 岳名
大にし(904) 地名。中頭郡読谷村の古名
崎枝(904) 読谷村残波岬の別名。「大にし」の異称
大みつ(957) 「大みつ」は与論島古里の別名

渡嘉敷(1083) 地名。浦添市の古名
天底(1095) 地名。比定地未詳
桃原(1097) 地名。宜野湾市嘉数の別名
崎枝(1231) 地名。神のまします岬の一般名として崎枝という名があったらしい。ここは百名の別称
具志川・金福(1416) 久米島の具志川。金福は具志川の異称


 列記してみると、喜界、那覇の「浮島」、八重山の「果たら島」、慶良間の「群れ島」のように、その地勢から類推しやすいものもある。嘉数の「桃原」、百名の「崎枝」、具志川の「金福」のように妥当性のある漢字を当てられているものもある。金で言えば、久米島、首里、徳之島の「金の島」のように、ある豊穣性、宝や鉄などを連想させる比喩としてつけられているものもある。徳之島はカムィ焼きの存在を背景にしたものかもしない。またそれは「金島」という美称として固有名詞を離脱することもできる。

 こうしてみると、島名で、その由来が未詳で、当てる漢字も見当が付けられていないのは、粟国の「かき」、沖永良部島の「せりよさ」、与論島の「かゑふた」のみである。

 これらに共通するのは沖縄島にとって「地離れ」、つまり離れ島であることだ。沖縄島内部であれば、地名で謡われることが多く、またその異称についても、多くが漢字を当てられ、類推ができている。また、徳之島や久米島のように島の大きさ、そこ資源の豊かさがある閾値を超えたものについては、象徴的な名称が与えられている。

 これはおもろ歌人をはじめとした編纂主体が、交流が深くよく知られた地名については、その地名そのもので呼び、その存在感がよく聞こえた場所については、象徴性を施している傾向を読み取ることができる。

 では、粟国の「かき」、沖永良部島の「せりよさ」、与論島の「かゑふた」と、まだ由来の不明なおもろにはどのようなアプローチがなされただろう。

 まず、肯定的な意味を持つ言葉であれば、かなり自由に異称、別称として使っているおもろであれば、これら三島もいずれ美称、尊称の意味を仮託されているのは間違いないだろう。そして、現在にいたるも意味不明な言葉のままであるということは未知のおもろ語があるか、ある省略や転訛などのアレンジが施されている可能性がある。おもろそうしは祭祀の歌謡であり、音数律や音の響きが重視されただろうからである。

 ここで、沖永良部島と与論島に焦点を当てると、二島のおもろが編纂された時期が、薩摩の直轄支配以降であることは、ニ島への地名での言及をためらわせる理由にはならなかったのかという疑念が浮かぶ。

 両島は「永良部」「与論」地名としてもおもろに出てきており、その名が知られていなかったということはない。ただ、たとえば与論は与論よりも「かゑ(い)ふた」で出てくる場合の方が多く、固有名詞よりも異称で名指されている。薩摩への配慮を勘ぐりたくなるところだ(沖永良部は、「えらふ」の方が「せりよさ」より多い)。

 しかし、それは無かったとは言い切れないが、それよりは異称としての意味のほうが、琉球王府にとっての島の価値を込めやすく、また歌謡としての響きがよかったという理由ではないかと思える。沖永良部と与論が、王府とおもろ歌人にとって、第二尚氏成立の主戦場ではなく、その位置も隔たっている度合いに応じて、固有名より異称が選択されやすかった。だから、美称、尊称のなかでも、沖永良部、与論は、第二尚氏成立の過程で担った意味を仮託されているだろうと思える。

 ところで、おもろの編纂主体にとって、沖永良部、与論の両島が薩摩直轄であったということは、両島への配慮を希釈する要因にはならなかっただろうか。薩摩への配慮を重視するというより、むしろ、両島への配慮を希釈するほうへの作用だ。

 「せりよさ」にしても「かゑふた」にしても、外間守善は古名としているが、島人にとって実感が伴わない以上、これは異称であって古名ではないと思える。沖永良部についても同様だ。だから、歌謡は現地でも謡われたものであったとしても、地名はおもろ編纂の時点で異称が付けられた可能性も充分にあると思える。

 そして、この配慮の希釈のなかで、両島をどう呼ぶかという問いに対しておもろ歌人は幾分の自由を手にする。

 こういう道筋は、「かゑふた」が「かいなで」から来たのではないかとする先日の考え方に引き寄せていることになり、我田引水で、見てきたような嘘になりかねない(「「かいふた」とは立派な集落という意味」)。

 しかし、勢いに乗って言えば、沖永良部の「せりよさ」が、「せぢよせ」、つまり「精霊寄せ」から来ているのではないかという着想も得ることができるのだ。

 おもろの編纂主体にとって、沖永良部と与論には北からの視線と南からの視線の両方が考えられる。第二尚氏成立の始原の地であるなら(吉成直樹、福寛美『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)、ここを足がかりに南へ伸びていったとする視線。もうひとつは、徳之島、奄美大島、喜界島を征討するための足場という視線である。

 すると、沖永良部は戦せぢを寄せて、与論は守護する土地であるという解釈は意味として妥当性を持つように見える。琉球弧のなかでは、「えらぶゆんぬ」と、ひとくくりに呼ばれてきた経緯を持つ両島が、その意味もひとくくりのように捉えられ、異称を施されたとしても不思議ではない。

 また、粟国の「かき」は、「かゑふた」と同様、「掻き」由来であることを連想させる。


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2013/10/24

国頭城、中具足城と与論

 1471年に作成された『海東諸国記』にある「琉球國之図」に、ぼくたちは強い違和感を抱く。与論が初めて漢字で記された「輿論島」が大きすぎるのだ。それは、沖永良部島、徳之島と同等、奄美大島よりやや小さい程度で、点としてでも記されれば御の字と感じるようなぼくたちの慣れと激しく隔たる。

 しかし、「おもろそうし」に触れ、そこで与論が「根の島」「根国」、元になる島、共同体の中心の含意で記されているのを見ると、この地図との符合を感じないわけにいかない(「玉の御袖加那志の与論」)。

 福寛美の「『海東諸国記』の「琉球国之図」の地名と『おもろそうし』」(2009年)を見ると、与論に限らず、たとえば宇堅島など、「現代の離島概念を覆す大きさを地図上で誇る」として、それは「15世紀の海上通航の際、それぞれの島に侮り難い勢力が割拠していたことを示す」としている。「侮り難い勢力」とは何か。倭寇である。

 ただ、ここで言う倭寇とは琉球王国の成立に深く関与した勢力のことであってみれば、第二尚氏成立直前に沖縄島を中心に割拠していた豪族の勢力と言い換えてもいい。

 そうやって改めて与論に目を転じれば、ここに記されているのは、15世紀初期、北山系とされる伝承の王舅以降であり、かつ、16世紀初期の中山系の支配者である花城以前の勢力となる。この間、ぼくたちが伝承で知っているのは護佐丸の乱暴狼藉くらいではないだろうか。

 護佐丸でないとしたら、他に可能性のある者たちはいるだろうか。

 『海東諸国記』の「琉球國之図」で、わが与論以外に、それより前に真っ先に違和感を喚起するのは、『海東諸国記』にある「琉球國都」と同等の大きさで北部に記されている「国頭城」である。これは何なのか。

 福によれば、大宜味の屋嘉比ではないかとして、そのおもろを引く。

一 屋嘉比杜(やかびもり) おわる
  親(おや)のろは 崇(たか)べて
  吾(あん) 守(まぶ)て
  此渡(このと) 渡(わた)しよわれ
又 赤マル(あかまる)に おわる
  てくの君(きみ) 崇(たか)べて

大意は屋嘉比杜にまします親のろ神女、赤丸(国頭村桃原)にましますれくの君神女を崇敬して、我々を守ってこの海を渡し給え。

 「航海者の視点として、国頭の屋嘉比杜と赤丸に航海守護の霊力で名高い神女がいたことがわかる」として、「北部琉球勢力が今帰仁ぐすく以北にあり、その情報が沖縄島の北に大きく記された可能性を考えたい」としている。

 なるほど、それであれば「国頭城」の大きさにも合点がいくが、そうだとすれば、そのすぐ北に大きく記された「輿論島」も、その勢力圏にあったと考えるのが自然だろう。

 ぼくたちはここでもまた途方に暮れることになる。そんな話、かけらも聞いたことがないからだ。けれど、伝承の欠如より地図の大きさのほうが、この場合は史実を物語ると考えるより他ない。そしてひょっとしたら、聞いたことがないと唖然とするのは、ひとり与論だけのことではないのかもしれないと思う。

 すると、ぼくたちの関心を惹くのは福の次の指摘だ。

 中城ぐすくとは護佐丸が築城した、と伝えられる。中城おもろには、中城は中心の国(根国、国の根)であり、徳之島(徳)や奄美大島(大みや)の支配権を引き寄せよ(五三)、北(上)から多くの按司達が攻めてきたなら、押し戻せ(四七)、攻めて(敵)を討とう(四五)、大国(沖縄島)を支配する中城(四ニ)、と謡われる。これらの用例は、武力に長け、奄美群島の支配権をうかがう男性支配者が中城にいたことを示唆する。中城では清冽な泉清水を出しそれを国中の人々が羨ましがる(四九)、名高い中城に集まる冨を謡っている。中城おもろには「玉の三廻り」があらわれる。この三つ巴紋は大家の家紋であり、倭寇の奉斎する八幡神の神紋でもある。この三つ巴紋が現れるのは、おもろ世界では王家、中城、そして大里である。大里按司こと下の世の主は南山王であり、権勢を誇った様子がおもろからもうかがえる。中城ぐすくの主についての真実は不明だが、強大な権力を誇った支配者がそこに君臨していたことは間違いない。(p.77)

 中城グスクの主については不明だが、それはおもろでは「三つ巴紋」を媒介して王府と大里はつながっている。首里と中城は、与論と「根国」でつながっていた。かつ、大里と与論は、シニグ集団(サークラ)名でつながっている可能性がある(「玉の御袖加那志の与論」)。

 ここで気になるのは、福も引いている五三のおもろだ。

一 中城(ぐすく) 根国(ねくに)
  根国(ねくに) 在(あ)つる 隼(はやぶさ)
  徳(とく) 大みや
  掛(か)けて 引(ひ)き寄(よ)せれ
又 鳴響(とよ)む 国(くに)の根(ね)
  国(くに)の根(ね)に 在(あ)つる 隼(はやぶさ)

 「徳之島(徳)や奄美大島(大みや)の支配権を引き寄せよ(五三)」と、「奄美群島の支配権をうかがう男性支配者が中城にいたことを示唆する」。

 ここに、与論のこいしの神女が徳之島に行き、宝を徴収し王に奉るとするおもろを重ねてみる(「根国」のなかの与論」)。

はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て

  玉金
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが

(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 すると、中城ぐすくの王が、徳之島、奄美大島の支配権をにらむ際、与論島を足場にしてもおかしくないと思われてくる。「与論こいしの」のおもろは、少なくとも徳之島に支配権を確立した後の与論の光景だと受け取ることもできるからだ。

 こうすると、『海東諸国記』、「琉球國之図」の「輿論島」に、王舅、護佐丸以降、花城以前の一世紀近くの間の姿を垣間見ていることになる。


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2013/10/21

十四点の与論おもろ備忘

 「与論」と「かい(ゑ)ふた」地名を含むものから該当する可能性のあるものを全部挙げると、与論おもろは16点だが(「与論おもろ」)、この中には与論に関わらない歌謡もあると思われ、それらを除くと、14点になるというのが今回の結果だった。『与論町誌』は12点としているから、町誌が参照している『古代中世奄美資料』(松田清編)との異同は、いずれ確かめたい。

 改めて、14点を類型化してメモしておく。


■1.うらおそい(始原・武力)

うらおそいおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらゑ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)
又 かゑふたに 降(お)ろちへ
  厳子達(いつこた)に 取(と)らちへ

(237、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)


うらおそい節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらへ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)

(1515、第二十二 みおやだいりおもろ御さうし、天啓三年)


 与論が初めて謡われたおもろは、驚くべき内容を含んでいる。「奥武の嶽大王」、「なです杜大王」は、一時的に与論にいた存在なのか、それとも在住の存在なのか。「玉の御袖加那志の与論」では、与論に留まった存在のあることを前提に考えてみた(「玉の御袖加那志の与論」)。

 このおもろは、「公事の神歌」であり、最後の巻である二十二「みやだいりおもろ」でも反復されている。


■2.古里

一 大みつのみぢよい思(も)い
  追手(おゑちへ) 乞(こ)うて 走(は)〔り〕やせ
又 古里(ふるさと)のみぢよい思(も)い
又 みぢよい思(も)いが 初旅(うゑたび)
又 みぢよい思(も)いが 新旅(あらたび)
又 御酒盛(よさけも)り所
又 御神酒盛(ゆみきも)り所
又 弟者部(おとぢやべ)は 誘(さそ)やり
又 乳弟者(ちおとや)は 誘(さそ)やり

(541、第十 ありきゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


こばせりきよみやりぼしがや節
一 大みつのみて思(も)い
  追手(おゑちへ) 乞(こ)うて 走(は)〔り〕やせ
又 古里(ふるさと)のみて思(も)い
又 みて思(も)いぎや 初旅(おひたび)
又 みて思(も)いが 新旅(あらたび)
又 御酒盛(よさけも)り所
又 御神酒盛(ゆみきも)り所
又 輩(ともがら)は 誘(さそ)て
又 乳弟者(ちおとぢや)は 誘(さそ)て

(957、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


 「大みつ」は、与論の「大水(うふみじ)」のことではないかと考えた(「古里おもろ」)。薩摩直轄以降の間切りとは一致しないが、「みぢよい思い」という神女名とも響き合う。


■3.奄美、沖縄航路

うちいではさはしきよが節
一 聞(きこ)へ 押笠(おしかさ)
  鳴響(とよ)む押笠(おしかさ)
  やうら 押(お)ちへ 使(つか)い
又 喜界(ききや)の浮島(おきじま)
  喜界(ききや)の盛(も)い島(しま)
又 浮島(おきじま)にから
  辺留笠利(ひるかさり)かち
又 辺留笠利(ひるかさり)から
  中瀬戸内(せとうち)かち
又 中瀬戸内(せとうち)から
  金(かね)の島かち
又 金(かね)の島から
  せりよさにかち
又 せりよさにから
  かいふたにかち
又 かいふたにから
  安須杜(あすもり)にかち
又 安須杜(あすもり)にから
  赤丸(あかまる)にかち
又 赤丸(あかまる)にから
  崎(さち)ぎや杜(もり)かち
又 崎(さち)ぎや杜(もり)から
  金比屋武(かなひやぶ)にかち
又 金比屋武(かなひやぶ)から
  崎枝(さきよだ)にかち
又 崎枝(さきよだ)かち
  親泊(おやどまり)にかち
又 親泊(おやどまり)から
  首里杜(しよりもり)にかち

(554、第十 ありきゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


うちいではさはしきうが節
一 聞(きこ)へ 押笠(おしかさ)
  鳴響(とよ)む押笠(おしかさ)
  やうら 押(お)ちへ 使(つか)い
又 喜界(ききや)の浮島(おきじま)
  喜界(ききや)の盛(も)い島(しま)
又 浮島(うきしま)にかゝら
  辺留笠利(ひるかさり)きやち
又 辺留笠利(ひるかさり)から
  中瀬戸内(せとうち)きやち
又 中瀬戸内(せとうち)から
  金(かね)の島かち
又 金(かね)の島から
  せりよさにかち
又 せりよさにから
  かゑふたにかち
又 かゑふたにから
  安須杜(あすもり)にかち
又 安須杜(あすもり)にから
  金比屋武(かなひやぶ)にかち
又 金比屋武(かなひやぶ)にから
  那覇泊り(なはどまり)かち

(868、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


 与論が「かい(ゑ)ふた」と呼ばれたことがはっきりする二点だ。「かい(ゑ)」は「ふた」に対する尊称、美称であり、「かい(ゑ)ふた」は、「かいなで」と同義に、立派な集落という意味に解した(「かいふた」とは立派な集落という意味」)。


■4.大ころと親のろ

一 かいふたの大ころ
  やふら 押(お)せ やちよく達(た)
又 金杜(かねもり)の大ころ
又 大ころが 新庭(まみや)に

(555、第十 ありきゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

一 かいふたの親(おや)のろ
  東方(あがるい)に 通(かよ)て
  今(いみや)からど
  いみ気(き)や 勝(まさ)る
又 金杜(かなもり)の親掟(おやおきて)
  てだが穴(あな)に 通(かよ)て

(1009、第十四 いろくのゑさおもろ御さうし)


 「大ころ」、「親のろ」の言葉は、与論にも兵士と強力な神女存在のあったことをうかがわせる。


■5.連続六点(根の島・根国)

一 かゑふたの親(おや)のろ
  とかろあすび 崇(たか)べて
  うらこしちへ
  袖(そで) 垂(た)れて 走(は)りやせ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ
又 のろくは 崇(たか)べて
又 神々(かみく)は 崇(たか)べて
又 北風(にし) 乞(こ)わば 北風(にし) なれ
又 南風(はえ) 乞(こ)わば 南風(はえ) なれ

(928、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


一 かゑふたの親(おや)のろ
  親御船(おやおうね)でよ 守(まぶ)りよわ
  舞合(まや)ゑて 見守(みまぶ)〔す〕 走(は)りやせ
又 根(ね)の島(しま)ののろく
又 のろくす 知(し)りよわめ
又 神々(かみく)す 知(し)りよわめ 

(929、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


しよりゑとの節
一 かゑふたの親(おや)のろ
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
  按司襲(あじおそ)いに
  金 積(つ)で みおやせ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ

(930、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
  島(しま) かねて
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 離(はな)れこいしのが

(931、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て

  玉金
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが

(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


はつにしやが節
一 かゑふたの親(おや)のろ
  たからあすび 崇(たか)べて
  吾(あん) 守(まぶ)て
  此渡(と) 渡(わた)しよわれ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ

(933、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 六点連続の与論おもろ群。与論は、「根の島」、「根国」としても呼ばれていた。与論には、航海守護の「こいしの」神女がおり、首里、大里とも接点が想定できるのではないかと考えた(「与論、かゑふた、根の島」「「根国」のなかの与論」)。

 また、副産物として、花城真三郎の由来が、「外間」、「又吉」地名の出てくるおもろによって確認できた(「花城真三郎の系譜」「花城の周辺」)。

 文献がないのはもちろんのこと、伝承すら乏しいなかで、この先どこまで視界を広く深くしていけるのか覚束ないが、諦めずにやっていきたい。


『おもろさうし(上)』

『おもろさうし〈下〉』

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2013/10/20

玉の御袖加那志の与論

 驚いてばかりだが、最も驚くのは、与論と武力との関わりを否応なく示している次のおもろだ。しかもこの歌謡は、おもろそうしの中で、与論が初めて謡われたものだ。

うらおそいおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらゑ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)
又 かゑふたに 降(お)ろちへ
  厳子達(いつこた)に 取(と)らちへ

(237、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)

[訳注]『おもろさうし(上)』 玉のように美しく立派な御袖加那志が、神や人々の心を揃えて喜び祝福し給いて、奥武の嶽大主、なです杜大主をかゑふたに降ろして、部落の人たちに霊力を与えて安らげることだ。

 「げらゑ」という言葉はおもろによく出てくるが、「造営する」という訳を当てられている。聖域の構築に関わることも多く、国家の根本になる聖域構築が含意されると思える。吉成は「始原世界の構築」(p.278、『琉球王国誕生』2006年)としている。「奥武」は琉球弧の聖域として普通名詞化されており、「なです」は吉成によれば、「桑木」のことで、それから作る鼓は、「支配権の象徴」(p.279)だ。

 外間守善は、「玉の御袖加那志」が、「奥武の嶽大主」、「なです杜大主」を与論に降ろしたように書いているが、「玉の御袖加那志」は、「奥武の嶽大主」、「なです杜大主」と対になる異称として謡われているから、「玉の御袖加那志」としての「奥武の嶽大主」、「なです杜大主」という意味になると思える。

 与論島に降りた後、どうするのか。「厳子達」、兵士たちに取らせる、という。吉成は、「神が兵士たちに取らせるものとしては武力しか考えられない」(p.278、同前掲)としている。

 このおもろは一点だけではなく、巻五のはるか後、おもろそうしの最終、二十二巻でも反復される。

うらおそい節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらへ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)

(1515、第二十二 みおやだいりおもろ御さうし、天啓三年)

 そしてそれだけではない。「玉の御袖加那志」は、上記の235の二点前の、237で初めて登場し、しかも「首里杜」を構築したと謡われる。

うらおそいのおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  首里杜(しよりもり) げらへて
  上下(かみしも)の戦(いくさ)せぢ みおやせ
又 げらへ御袖加那志(みそでがなし)
  真玉杜(まだもり) げらへて
又 首里杜(しよりもり) ちよわる
  若(わか)い人孵(きよす)で加那志(がなし)

(235、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)

 驚愕はここに極まる。首里城の宗教的な象徴である「首里杜」、「真玉杜」を構築したのが、与論でも謡われる「玉の御袖加那志」だと言うのだ。ここで、与論が「根の島」、「根国」と呼ばれることを踏まえれば、「首里杜」、「真玉杜」と与論はつながり、しかも、その始原として位置づけられていることになる。

 そんなことはあり得るだろうか。しかし、驚いてばかりでも芸がなさすぎる。

 「玉の御袖加那志」の与論は、少なくとも第二尚氏以前の時代だと考えられるから、伝承あるいは実在に該当するものを求めようとすると、15世紀の伝承の王舅が、まず思い浮かぶ。ただ、滅ぼされる側の北山系統の王舅が、「玉の御袖加那志」との関わりを持たされるとは考えにくい。

 しかし、吉成直樹によれば、「天より下の王にせてだ」と称されるのは尚真王と今帰仁按司があり、しかもこの二者だけで、吉成はここから、尚真と今帰仁のつながりを解き明かそうとしている(p.241、『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)。

 王舅以前に遡って他に考えられるのは、シニグのサトゥヌシ集団(サークラ)とプサトゥ集団(サークラ)だ。サトゥヌシは「里主」の字を当てられる。後に階級の位階の名称になるが、もともと領主的な意味を持つだろう。彼らは沖縄から来たという伝承を持っている。

 また、プサトゥは、前音の「ウ」が脱落したものだと捉えれば、ウプサトゥ、つまり「大里」が復元できる。大里といえば、南山である。そして大里は「根国」と言われた地名に関わっている。

あおりやへが節
一 真壁(まかび) おわる
  根国(ねくに) おわる 世(よ)の主(ぬし)
  百島(もゝしま) 島(しま) 討(う)ちちへ 凪(とゞ)やけれ
又 真壁(まかび)人 選(ゑら)びよわちへ
又 掟(おきて) 選(ゑら)びよわちへ
又 那覇港(なはみなと)
  橋(はし) 渡(わた)ちへ 道(みちへ) 渡(わた)ちへ
又 那覇(なは) 渡(わた)て/いなそ嶺(みね) 淀(よど)しよわ

(1354、第二十 こめすおもろの御さうし、天啓三年)

 根国である糸満真壁の領主が留まるとされる「いなそ嶺」は、島尻郡大里村稲嶺のことだとされている。

 プサトゥ集団(サークラ)は、大里であり、彼らは沖縄島の大里からやってきた、あるいは大里に関わりのある集団ではないだろうか。そして、与論と大里は「根国」としてつながっている。

 そして、吉成直樹によれば、大里も首里城とつながる。

くろさよこたりが節
一 世寄(ゝ)せ三(み)つ廻(まわ)りしよ
  玉(たま)の王(わう)やれな
  果報(かほう)は 首里(しより)親国(おやぐに)
又 玉(たま)の三(み)つ廻(まわ)りしよ

(382、第七 はひのおもろ御さうし、天啓三年)

20-1359(29)
あおりやへが節
一 聞(きこ)ゑ大里(ざと)に
  玉(たま)の三廻(みつまわ)り
  百連(もゝつ)れ 貫(ぬ)ちへ
  持(も)ちちへ みおやせ
又 鳴響(とよ)む大里(ざと)に
又 腰当(こしや)てなつこもい
(1359、第二十 こめすおもろの御さうし、天啓三年)

 「玉の三廻り」で、首里と大里はつながっている。「玉の三廻り」とは吉成によれば、「三つ巴紋」であり、尚氏の家紋であるとする。

 (前略)大里に「玉の三廻り」、すなわち三つ巴紋が「数多く(百連れ)」存在すると謡われていることは興味深い。それは大里按司が三つ巴紋を紋章(「玉の王」)とした首里の国王と近い関係にあったことを示唆する。(p.127、『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)

 大里と首里がつながる。大里は、プサトゥ集団(サークラ)とその名においてつながり、「根国」として与論と大里はつながる。その与論は、「玉の御袖加那志」によって首里とつながる。いささか強引だけれど、プサトゥ集団(サークラ)は、おもろに謡われる何らかの役割を果たしただろうか。

 プサトゥ集団(サークラ)が与論に到来したのは、王舅以前であり、プカナ集団(サークラ)、ニッチェー集団(サークラ)より後だとすれば、13~14世紀が想定される。そして、倭寇的な地名である朝戸(アサト、アシト)が居住地区である。

 与論で倭寇的で、最も武力に関わりそうな集団は、ニッチェー集団(サークラ)だが、彼らがアージ・ニッチェーの伝承をあれだけ色濃く持つならば、「玉の御袖加那志」にまつわる伝承を持っていてもよさそうである。かつ、アージ・ニッチェーは、琉球王国と親和しつつ戦闘し、琉球王国に抵抗した存在としても描かれ、在地的な按司としての性格が色濃い。であればこそ、島内でも人気が高く、長く語り継がれてきたのだと思える。そこで、ニッチェー集団(サークラ)は、おもろの流れの対象には載らないのではないかと考えておく。


 「おもろそうし」における与論島の存在感に驚いてばかりきたが、これが歌謡の真実において架空ではないと思える材料はもうひとつある。『海東諸国記』の地図だ。

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 『海東諸国記』は、李氏朝鮮の手になるもので、1471年に完成している。琉球国を描いた地図としては最古のものだとされている。そして、最古なのは、琉球国の地図としてばかりではない。ぼくたちの知る限りでは、与論が、「輿論島」と漢字で記された嚆矢であり、漢字としての与論の最古でもあるのだ。

 与論人(ゆんぬんちゅ)としてこの地図を眺めたとき、強い違和感を喚起する。それは与論島の存在感だ。だいたい、針の先で突いたような跡としてでも描かれていれば御の字だという感覚に慣れ過ぎているのかもしれないが、それにしても与論島が大きい。沖永良部島と徳之島と同等であり、奄美大島より少し小さい程度なのだ。

 それに、「輿論島 度九を去ること五十五里、琉球を去ること十五里なり」と注釈まで付されている。この地図自体は、日本人あるいは琉球人によって作図されただろうと言われている。しかし、どちらにしても、この大きさは「琉球國」のなかに占める位置、重要度を示しているに違いない。第ニ尚氏成立の翌年に完成したとされる「琉球國」の地図において、与論島はその島の小ささに比べて大きな存在感を与えられている。

 与論は、ぼくたちが思っているよりはるかに重要な島として存在していたことが、かつてあった。「おもろそうし」や『海東諸国記』の地図が、そう示唆しているのは確かだと思える。

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2013/10/19

「根国」のなかの与論

 「おもろそうし」に「根の島」と記されたからといって驚くのはまだはやい。与論は「根国(ねくに)」としても謡われる。「根の島」は、「島」が付くのでまだ地続きに思えなくもないが、「国」となると話は違う。「根国」、元になった国、共同体の中心と言われると驚きは増すと言うものだ。

 「根国」とあるおもろは、数えると25点あるが、その顔ぶれがすごい。数の順で言えば、佐敷が八点、玉城が六点、糸満が五点、浦添が四点、中城が一点で、与論も一点だ。佐敷、浦添は琉球王府、尚氏の拠点となった場所であり、糸満は南山の拠点、中城も、与論にも伝承の残る護佐丸によって築かれたとされる。そして玉城も吉成直樹によれば、首里の国王と玉城按司はともに「島の主てだ」(天上の太陽が地上に現れた存在としての王」(p.243 『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)と、そのつながりが指摘されている場所なのだ。玉城は、アマミキヨ神話としても知られる。

 この名高い顔ぶれと与論の接点と言えば、知られていることのなかでは、玉城とアマミキヨ神話でつながり、浦添の外間から、第二尚氏の支配者がやってきたことくらいだ。「根国」仲間の一員としての与論は、ルフィの仲間のウソップ、あるいは、ランブル・ボールを禁じられたチョッパーのように、頼りない。どうして、こんな顔ぶれのなかに、一点とはいえ、与論が入っているのだろう。

 与論が謡われる「はつしにやが節」も、徳之島に通って宝を支配者に奉らせるというのだから、与論らしくない。

はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て

  玉金
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが

(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 しかし、他の「根国」おもろも、同様の、武力を誇るものばかりだ。

あおりやへが節
一 中城(ぐすく) 根国(ねくに)
  根国(ねくに) 在(あ)つる 隼(はやぶさ)
  徳(とく) 大みや
  掛(か)けて 引(ひ)き寄(よ)せれ
又 鳴響(とよ)む 国(くに)の根(ね)
  国(くに)の根(ね)に 在(あ)つる 隼(はやぶさ)

(53、第ニ 首里王府の御さうし、万歴四十一年)

[訳注](『おもろさうし(上)』

鳴り轟く中城は根国(国の中心)である。根国にある隼(船名)で徳之島、奄美大島を保護し支配して引きよせよ。

 中城の勢力が、徳之島、奄美大島を支配権に入れようと武力を発動している。

 武力歌謡が多いのは中身だけではなく、歌謡名によっても示されている。25点のうち四点の歌謡名は、中城おもろもそのひとつで、「あおりやへが節」だ。「あおりやへ」は、「島討ち」とかかわって謡われ、「もっとも信頼できる「島討ち」のための強い霊力を持つ神女だからと考えたい」、と仮説されている(p.105、『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)

 「うらおそいのおやのろが節」、「うらおそい節」は言うまでもなく、「きこへきみがなしおかててよろいわとくが節」は、聞得大君にちなむ。また、二点ある「もゝとふみあがりが節」。「もゝとふみあがり」は漢字で示せば、「百度踏み揚がり」で、驚くがこれは人名だ。普通名詞的にも使われるが、尚氏の王女の名でもあった。「百度も高みに登っていく」という意味から、谷川健一は「シャーマンダンスの状態を示したもの」とし、吉成も「きわめて巫性の強い性格を持つ神女だ」としている。(p.253、『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)

 与論の「こいしの」神女も、「久米のこいしの」と性格を同じくするとすれば、航海守護の神女だ。

 そうだとしても、この武力による支配の系列のなかに、与論がその名を連ねるのか、皆目分からない。芸のないことはなはだしいが、茫然とするというのが正直なところなのだ。



 

あおりやへが節
53
一中城 根国/根国 在つる 隼/徳 大みや/掛けて 引き寄せれ/又鳴響む 国の根/国の根に 在つる 隼

もゝとふみあがりが節
471
一阿嘉のお祝付きや/饒波のお祝付きや/今日 し居る 使い/百度の 使い/又沢岻の根国/沢岻の真国

もゝとふみあがりぎやあすぶきよらが節
472
一阿嘉のお祝付きや/饒波のお祝付きや/ゑいとてだ/又沢岻の根国/沢岻の真国

1012
一佐敷親樋川/堰 積みよわちへからは/今からど/御肝せぢ 勝る/又根国親樋川
一さしきおやひかわ/せ つみよわちへからは/いみやからと/おきもせち まさる/又ね国おやひかわ

1015
一佐敷 おわる 思ひ子/真人 選で 寄せて/神座のくひよもい 佩けわちへ/又根国 おわる 思ひ子

1016
一苗代の門に/いきせりしよ 待ちよわれ/金ちや猪口/据ゑ並めて お待ち/又根国苗代に

1017
一佐敷金杜に/おわもりは 遊ばちへ/金の もちろきよる/清らや/又根国金杜に

1079
あおりやへが節
一浦添の根国/百度 積も 金/浦添ど 有り居る/又渡嘉敷の真国

1080
あおりやへが節
一浦添の根国/泉 清水 げらへて/孵て水よ/おぎやか思いに みおやせ/又渡嘉敷の真国

1223
きこへきみがなしおかててよろいわとくが節
一大城 おわる/世掛けにせ按司の/御駄連れが 見物/又国根 おわる/又糸数 使い/根国の 使い

1230
ひやくなからのぼてが節
一百名から 上て/根国から 上て/島 揃て/十百末 みおやせ/又首里杜 ちよわる/おぎやか思い加那志

1253
きこへきみがなしおそてそろへわちへが節
一大城 おわる/世掛けにせ按司の/御駄連れが 見物/又国の根に おわる/又糸数の 使い/根国の 使い

1260
ひやくなからのぼてが節
一百名から 上て/根国から 上て/島 揃て/十百末 みおやせ/又首里杜 ちよわる/おぎやか思い加那志

1279
おもろねやがりがひやくさが節
一せしきよ金ぐすく/良かる金ぐすく/思揚げのぐすく/てだが 誇りよわちへ/又糸数の根国/玉城真国

1280
おもやけのぐすくの節
一せしきよ金ぐすく/良かる金ぐすく/玉寄せぐすく/てだす 世わ ちよわれ/又糸数の根国/玉城真国

1295
うらおそいのおやのろが節
一佐敷寄り上げの杜に/島寄せる鼓の有る按司/又根国寄り上げの杜に

1295
うらおそいのおやのろが節
一佐敷寄り上げの杜に/島寄せる鼓の有る按司/又根国寄り上げの杜に

1298
うらおそいおもろの節
一佐敷から/御捧げや 上て/八千代 世のつほに/御み神酒 ぬき上げは/後勝る拍子/打ちちゑ みおやせ/又根国から/御捧げや 上て/八千代 世のつほに/御神酒

1335
ちやうやうへましが節
一波比良 在つる御腰/根国 在つる剣/世添いの御腰 ゑ/真玉ど 照り居る/又福地 在つる御腰/根国 在つる剣

1336
うらおそい節
一波比良杜ぐすく/石橋は こので/よきあがりしよ/手摩て 栄よわれ/又根国杜ぐすく

1344
にしかないの節
一山内子ぎや/兄部子ぎや おもろ/揚がる望月/君の 清らや/又福地 おわる/根国 おわる 世の主

1345
あがるもちづききみの節
一山内仁屋が/兄部子ぎや おもろ/西貢 寄せて/又 良く 勝る 東貢/前 寄せて ちよわれ/又福地 おわる/根国 おわる 世の主

1354
あおりやへが節
一真壁 おわる/根国 おわる 世の主/百島 島 討ちちへ 凪やけれ/又真壁人 選びよわちへ/又掟 選びよわちへ/又那覇港/橋 渡ちへ 道 渡ちへ/又那覇 渡て/いなそ嶺 淀しよわ

1532
うらそいのおやのろが節
一佐敷寄り上げの杜に/島寄せる鼓の有る按司/又根国寄り上げの杜に

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2013/10/18

与論、かゑふた、根の島

 「おもろそうし」の928から933までの六点は、連続したおもろ群だ。

一 かゑふたの親(おや)のろ
  とかろあすび 崇(たか)べて
  うらこしちへ
  袖(そで) 垂(た)れて 走(は)りやせ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ
又 のろくは 崇(たか)べて
又 神々(かみく)は 崇(たか)べて
又 北風(にし) 乞(こ)わば 北風(にし) なれ
又 南風(はえ) 乞(こ)わば 南風(はえ) なれ

(928、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


一 かゑふたの親(おや)のろ
  親御船(おやおうね)でよ 守(まぶ)りよわ
  舞合(まや)ゑて 見守(みまぶ)〔す〕 走(は)りやせ
又 根(ね)の島(しま)ののろく
又 のろくす 知(し)りよわめ
又 神々(かみく)す 知(し)りよわめ 

(929、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


しよりゑとの節
一 かゑふたの親(おや)のろ
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
  按司襲(あじおそ)いに
  金 積(つ)で みおやせ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ

(930、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
  島(しま) かねて
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 離(はな)れこいしのが

(931、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て

  玉金
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが

(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


はつにしやが節
一 かゑふたの親(おや)のろ
  たからあすび 崇(たか)べて
  吾(あん) 守(まぶ)て
  此渡(と) 渡(わた)しよわれ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ

(933、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 これらのおもろは、「与論」と徳之島の「真徳浦」がセットで書かれているから、「真徳浦」とセットで書かれる「かゑふた」とは「与論」のことであり、「かゑふた」が「根の島」と呼ばれるからには、「与論」が「根の島」とも呼ばれていたことになる、という謎ときを仕掛けているような一連の歌謡群だ。

 931と932の「与論こいしの」とは神女名だが、「こいしの」は、「古里(ふるさと)のみぢよい思(も)い」とは異なり、「久米のこいしの」がいるように、普通名詞的な意味を持たされていると思える。また、「与論こいしの」、「久米のこいしの」と島の名に続けられるということは、神女のなかの位階の高さ、存在の大きさ、あるいは抽象性をうかがわせる。

 「こいしの」と似たおもろ語には、「あけしの」があるが、これは、吉成直樹によれば「明け方の太陽」という意味で、「しの」が太陽に当る(p.143『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』2006年)。「あけしの」が「明け方の太陽」といういみなら、「こいしの」は何の太陽ということだろう。「いりしの」なら夕刻の太陽と連想しやすいが、神女名に、沈むイメージを付するのは相応しくない。とすると、「あけしの」と「こいしの」は、対をなした言葉ではないのかもしれない。

 他に手がかりになるのは、「久米のこいしの」が「航海守護の神女として名高」(p.143)と言われていて、その異称も「百浦こいしの」(たとえば、1444)であることだ。百浦とは、たくさんの海を意味するのだろう。

 「こいしの」は、「かいふた」が「かゑふた」となることもあるように、「こゑしの」(たとえば、1454)とも表記されている。すると、「こい(ゑ)」とは「声」のことだろうか。おもろ語では、「声」の意味で「こゑ」は使われており(たとえば、「珍ら声」858)、鼓の美称は「声加那志」(827)だ。

 「こい」に「声」を当ててみると、「声の太陽」になる。「声の太陽」という比喩を使ったとは考えにくいから、おもろ語でよく使われる逆語序の考え方をしてみると、「太陽の声」になる。この比喩も捉えにくいが、聴覚優位のおもろ歌謡であればありえなくはないかもしれない。また、「久米のこいしの」が航海守護の神女として名高いのであれば、「こいしの」は、日の声をよく聞く、天体の動きをよく知る神女という意味が成り立つ。確信のある仮説にはならないが、記しておこう。


 「与論こいしの」も航海の場面で登場している。しかし、歌謡の内容はいささか武ばっている。

[訳注](『おもろさうし〈下〉』

与論こいしの神女、離れ島のこいしの神女が、お祈りをします。真徳浦に船で通って、島を囲い支配して、国王様に奉れ。

 外間守善の訳は、「国王様」になっているが、「按司襲(あじおそ)い」の意味では必ずしもそれに止まらず、与論の支配者の意味に採ってもおかしくない。むしろその方が意味の通りはよくなる。ただ、ぼくたちの先入見では、与論島が徳之島から徴税をする立場になるはずがないという弱小感を持っていることだ。

 仮にそうだとして、島の支配者とは誰を指すのだろう。このおもろは、第二尚氏以降であれば、徳之島には直接の統治が行われただろうから、「古里(ふるさと)のみぢよい思(も)い」(541)より以前の、時代のことではないかと想定する。そうだとして、ぼくたちが聞いたことがあるなかでいえば、与論城を築城したとされる、北山の、伝承の王舅(おうしゃん)しか思いつかない。そうだとしたら、このおもろ群は、15世紀に謡われたものになるが、果たしてそうなのか。

 吉成直樹は、『琉球王国誕生』(2006年)のなかで、933のおもろに触れて次のように書いている。

 トカラ列島の人々が航海に巧みだったことを考えれば「トカラ」の名を持つ神が航海守護を行うことは容易に理解できる。この事実は、トカラ列島から奄美諸島を経由せずに沖縄諸島に渡島したと考えられる集団は、与論島あるいは沖永良部島の奄美諸島南部の島々を足がかりにしたということを想定させる。それはすでに述べたように、沖縄島北端の辺戸部落に「島渡りのウムイ」があり、この神歌を謡う辺戸部落の古老たちは、祖先神たちが、沖永良部島、与論島を経て辺戸にとりつき、辺戸から沖縄の島の歴史が拓かれていったと固く信じているという指摘を踏まえてのことである。(p.275)

 ここで言う、「トカラ列島から奄美諸島を経由せずに沖縄諸島に渡島したと考えられる集団」とは、琉球王国の成立に関わったと吉成が想定している倭寇のことだ。928から933までの連番おもろは、同じ時期の与論のことを謡ったと思えるのだが、そうだとしたら、島の支配者とは、15世紀の王舅より以前、13~14世紀の時期も考えられることになる。

 ぼくたちは倭寇と言われると、そのような伝承も島で聞いたことがないのでいぶかしくなる。しかし、沖永良部島には確かに倭寇の痕跡があり、実際に、「倭寇であった「グラル孫八」の子孫であると伝承される家」があり、その姓は「平」と「朝戸」であるという(p.57)。それなら、姓はないが、与論の里(サトゥ)にある朝戸集落がある。朝戸(足戸)は、与論での倭寇の痕跡を示すものだろうか。与論にも一時的にせよ滞在した倭寇勢力があり、それが、おもろに謡われているのだろうか。ここは何か、伝承の手がかりがほしいところだ。


 ところで、六点のおもろは、連続していることもさることながら、与論島がそこで「根の島」と称されていることに驚く。これは、与論人(ゆんぬんちゅ)として心底、驚くと言っていい。「根」といえば、ことの始め、元を意味する、琉球弧では重要な言葉だ。その名がわが島に冠されることに戸惑いを覚える。しかも、おもろで「根の島」と称されるのは、他に赤木名、宜野湾があるが、どちらもニ点であるのに対し、与論は何と四点なのだ。驚かざるを得ないというものだ。

 与論、赤木名、宜野湾に何か共通性があるのか。島の内側の視点からはそれはなかなか見出すことはできない。外間守善の解説によれば、これらは「地方おもろ」と呼ばれる。

土地を讃美し、各地の豪族である按司を讃美したもの、地方の神女を謡ったものがその類型であり、大部分はオモロ時代初期および中期の古いもので、いわば農村のオモロである。首里王府の息のかからない、沖縄古代の世界観、宗教観を知るのに、地方オモロは欠かせないものである。(『おもろさうし〈下〉』 p.452)

 外間の言うとおりだとすれば、三つの地名に関連性はなく、それぞれが第二尚氏による王朝以前に群雄割拠した按司、神女のいた地と受け止めてよさそうだ。

 そうは言っても、赤木名は大規模なグスクが発掘されて、「根の島」として讃美されるのも理解しやすい。しかし、それに比肩される与論島の意味とは何だろう。島の支配者と解する限り、既知の範囲では15世紀の王舅しか、やはり思い当たらない。

 島の支配者の存在以外にも意味があるのだとしたら、アマミキヨ集団がその神話を残した島であること、また、「祖先神たちが、沖永良部島、与論島を経て辺戸にとりつき、辺戸から沖縄の島の歴史が拓かれていった」という辺戸の古老たちの言葉のなかに、「根の島」の意味も宿っていると考える他ない。

 根の島としての与論は、ぼくたち与論人(ゆんぬんちゅ)自身の、島に対する歴史感覚を強く揺さぶる。


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2013/10/16

古里おもろ

 「古里」地名の出てくるおもろ二点。

一 大みつのみぢよい思(も)い
  追手(おゑちへ) 乞(こ)うて 走(は)〔り〕やせ
又 古里(ふるさと)のみぢよい思(も)い
又 みぢよい思(も)いが 初旅(うゑたび)
又 みぢよい思(も)いが 新旅(あらたび)
又 御酒盛(よさけも)り所
又 御神酒盛(ゆみきも)り所
又 弟者部(おとぢやべ)は 誘(さそ)やり
又 乳弟者(ちおとや)は 誘(さそ)やり

(541、第十 ありきゑとのおもろ御さうし、天啓三年)


こばせりきよみやりぼしがや節
一 大みつのみて思(も)い
  追手(おゑちへ) 乞(こ)うて 走(は)〔り〕やせ
又 古里(ふるさと)のみて思(も)い
又 みて思(も)いぎや 初旅(おひたび)
又 みて思(も)いが 新旅(あらたび)
又 御酒盛(よさけも)り所
又 御神酒盛(ゆみきも)り所
又 輩(ともがら)は 誘(さそ)て
又 乳弟者(ちおとぢや)は 誘(さそ)て

(957、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 「大みつ」は「古里」と対になっているから、古里の異称であると考えられる。「みぢよい思(も)い」、「みて思(も)い」はノロ名。

 語感からの連想だが、「大みつ」は、「大水」(うふみじ)のことではないだろうか。与論主には、「前代大水与人」など、「大水」の付く名がある。かつ、これは、薩摩支配以降、「東」と並び、与論の間切り名称にもなっている。人名でもあれば地名でもある「大水」が、「大みつ」を指していると捉えてもそう無理はないと思える。

 連想を続けると、「みぢよい思(も)い」を与論言葉読みすれば、「水祝い」もいと読める。これがノロ名であっても不思議ではない気がする。古文書に「茶花ノル」は出てくるので、古里にもノロがいたと想定するのも無理はない。

 ただ、間切り化された後の「大水」は、立長、茶花、那間(『与論町誌』)で古里は含まれないから、この連想での理解には障害があることになる。

 このニ点が収められたおもろの編纂が完了したのは1623年だから、それ以降のおもろではないにしても、花城真三郎以降の、16世紀に謡われたものだとは言えそうだ。歌謡は、「みぢよい思(も)い」、「みて思(も)い」の初の船旅を祝ったものか、「みぢよい思(も)い」、「みて思(も)い」が初めて船出を祝ったものか、今は分からない。ただ、常の武ばった大仰な歌いぶりからすると、この二点のおもろは、穏やかでほっとする。

 957の次の958は、沖永良部島のノロを歌ったものだ。

一 永良部(ゑらぶ)むすひ思(よも)へ
  くれるてや 成(な)ちやな
  今(いみや)こより
  珍(めず)ら声(ごゑ) 遣(や)らに
又 旅(たび) 立(た)つ 吾(あん)や
又 夏手(なつた)無(な)しやれば
  肌(はだ)からむ 触(さわ)らん
又 つしやの玉(たま)やれば
  頸(くび)からむ 触(さわ)らん

(958、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

[訳注](『おもろさうし〈下〉』

永良部のむすひ思へ様は、別れかねてさびしい思いをしているのだろうか。今から目新しい消息をやろう。旅に立つ我は、夏衣だから、肌から触ろう。首にかける玉の粒だから、頸からも触ろう。

 これも、おもろのなかでは珍しい情緒的なものだ。聴覚優位の歌謡群にあって、「さわらん」と触覚が表現されているのも珍しい。おもろのなかで、「さわらん」という表現が出るのは、これ一点のみである。


 

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2013/10/15

花城の周辺

 花城真三郎が、尚真王の次男、尚朝栄(大里王子)に当るという伝承の元になったのは、増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)だと思える。

 花城与論主は名を尚朝栄(大里王子)幼名を真三郎と称す。尚真王の次男にして、明応元年1492年、首里城に生まれた後(中略)、1512年、御年21歳の時、当島へ御渡来され故中納言大主と称せられた。(p.36)

 この記述の元になったのが「基家家系図」だとすれば、「沖屋賀武伊」(おぎやかもい)への言及が花城真三郎の前にあることから、親と見なし、尚真王の子の中から生涯不詳の尚朝栄を引用した。かつ、又吉大主が官位を受けた1512年を花城真三郎の来島に結びつけた。そういう経緯だろう。そこから、花城の生年を1492年と割り出しているが、尚真王の長男、尚維衡の生年が弘治7年、1494年だから、矛盾もしている。

 これは、弱小な共同体は、歴史的な事件や人物を自らに関連づけたがる心性に依るものだと思える。

 「基家家系図」には、花城与論主の来歴も記されている。素人訳になるが、おおよそは間違ってないだろう。

 幼名は花城真三郎。首里の生い立ち。二十一歳で当(島に来る?)。首里の出なので(?)、沖納言大主と称した。神恵に通じる力量は尋常の人を越えていた。旧友の首里浦添の目勘号里子は、両人の力量の程を露顕させようと相談(?)する。

 花城は那覇の親見世(おやみせ)で人が集まっているところに来て、浦添は覆面をして身を隠し、馬に乗って空を駆け走り、那覇の親見世にかけ出ると、人々は驚いて騒ぎ、強賊が出た、どうしよう(?)と逃げ散った。人々は散り、強賊を止める人はいないのかと大いに騒いだ。

 花城は、ニ階から飛び降り、(?)馬の轡を取って、何者だ、花城がいるとは知らないのか、世の常の人とは違うぞ、実名を名乗るべし。さもなくば一歩も通さないと詰め寄る。強賊は、ここに花城がいるとは常々知らなかった。私は浦添目勘号なり、真っ平御免と馬から飛び降りて、鞍に(?)を当て、馬を空に担ぎあげて四足を動かし(?)、新村里煙方へ逸散、退去したと云々。

 また世俗の評では、凡人でがこんな動きをすることは(?)少ないでしょう。これは魔法第一の者で、世間の目にこのように見せるものではない(?)。馬の前の両足を取って肩に乗せて去ったという説もある。このような奇術が露顕して、彼ら両人が安穏としていては首里は危ない。罪を科すべきだと、阿司多部(あしたべ)中儀が参上して言う。

 その夜、又吉大主をひそかに呼び、阿司多部が汝の真三郎に罪を科すべしと奏達(国王に進言-先田注)するから、迷わず今夜中に島へやれ、とおっしゃりくださった。

 与那原浦江の奥に船があるので、その夜中に漕ぎ出て島に渡った。伯母の石嶺大阿武(おおあむ。上級神女)の所に向かうようにと、父である又吉大主より仰せつけられ、渡って以降、無病息災だった。遺言では、子々孫々に力量が及ぶ(?)出生だと。舅得瀬賀大主一女。

 単純に言えば、花城はやんちゃ坊主だが、彼をして「神恵に通じる力量は尋常の人を越えていた」と評しているのは、歴史的人物もまた傑出した記述を引き寄せたがるものだということだ。

 ところで、先田光演の『与論島の古文書を読む』によれば、真三郎が首里を離れ、与論に向かう折、「叔母石嶺大阿武(上級神女)を付き添わして」とあるが、原文は「伯母石嶺大阿武所ニ□ラレ候ヤウニト」とあり、伯母である石嶺大阿武のところに向かうようにと言われているように読める。しかしその場合は、花城真三郎の来島前に、与論に「大阿武」(おおあむ)のノロがいただろうかという疑問は残る。

 なお、花城(はなぐすく)は、那覇にある地名である他、おもろでは、島尻にも玻名城(花城)のあることを教えている。

一 玻名城(はなぐすく)按司(あんじ)付(つ)きの大親(や)
又 花城(はなぐすく)ちやら付(つ)きの大親(や)
(後略)

(983 巻十四)


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2013/10/14

花城真三郎の系譜

 1470年の第二尚氏の成立以降、与論主となったのは又吉大主とされる。「基家家系図」には、「沖屋賀武伊」が、当時48歳の又吉大主に官位をが授けている。先田光演の『与論島の古文書を読む』の助けを借りると、「沖屋賀武伊」は「おぎやかもい」と読むが、これは尚真王のことだ。尚真王が編纂を命じたのだから当然だが、「おもろそうし」にも尚真王、「おぎやかもい」を賛美する歌謡は多数ある。最初に書かれたのは、奄美大島笠利を攻撃した次のおもろだ。

一 聞得(きこゑ)大君(ぎみ)ぎや
  天(てに)の祈(いの)り しよわれば
  てるかはも 誇(ほこ)て
  おぎやか思(も)いに
  笠利(かさり) 討(う)ちちへ みおやせ
又 鳴響(とよ)む精高子(せだかこ)が

[訳注]

名高く霊力豊かな聞得大君が、天の祈りをし給うからには、太陽神も喜び祝福し給うておられる。尚真王様に笠利を討って奉れ。(4 『おもろさうし』

 また、又吉もまた、「おもろそうし」に登場する。それも、与論にとって馴染みのある「ぐすくま」の名とともに出るのが、四点、続く。

一 城間(ぐすくま)の大親(や)
  又吉(またよし)の大親(や)
  京(きやう)の内(うち) 歓(あま)やかせ
又 今日(けお)の良(よ)かる日(ひ)に
  今日(けお)のきやかる日(ひ)に

(1062 巻十五)

一 城間(ぐすくま)の真庭(まみや)に
  首里赤頭部(しよりあくかべ) 持(も)ち成(な)ちへ
  金(こがね)の真玉(まだま)の御柄杓(みしやく)
又 又吉(またよし)の真庭(まみや)に

(1063 巻十五)

一 城間(ぐすくま)の真山戸(まやまとう)
  実(げ)に 見(み)物 おわちゑる
  依(よ)り笠(かさ)が 気(けお)の踊(よ)り 見物(みもん)
又 又吉(またよし)の腰当(こしや)て子(こ)

(1064 巻十五)

一 城間(ぐすくま)の蒲葵杜(こばもり)
  蒲葵杜(こばもり)む よむいきやす
  腰当(こしや)て思(も)いが
  よしみよわば 淀(よど)しよわ
又 又吉(またよし)の蒲葵杜(こばもり)も

(1065 巻十五)

 グスクマ・サークラのグスクマとは、「城間」であり、又吉大主の「又吉」から来ていると思われる。ぼくなどは単純に、首里王府の官吏が与論主になっていること自体に驚く。

 二代目は、幼名、花城真三郎。花城与論主として知られる。花城真三郎は、首里で生まれ二十一歳で与論に来島している。『与論町誌』の「基家家系図」には、「御親父又吉大主より」とあるから、又吉大主の子が花城真三郎だということになる。花城真三郎が与論主になってのは1525年だと『与論町誌』には記されているが、ぼくは出典の原文が確認できていない。

 確認できるのは、又吉大主が「与論主」の官位を受けたのが、1512年。その子、花城真三郎が与論に来島したのが、21歳の時ということだけではないか。

 与論に触れた文章のなかには、花城真三郎が尚真王の次男尚朝栄であるという記述が見られるが、これらは虚偽と言わなければならない。ただ、首里王府の中枢からの派遣であったことは確かだと思える。


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