カテゴリー「52.シニグ考」の32件の記事

2014/12/09

シヌグ踊り

 シヌグについて、たまたま符合する記述を見かけた。

琉球の大祭はシヌグと云ふがこれは全く農業祭である。此の祭儀には東の方から男が、西の方から女が出て田遊の神事を行ふが、此の折には正視し得られぬほどのきはどい事をする(伊波普猷氏談)。是等の土俗は改めて説明するまでもなく、農業と生殖との信仰を表現したものである(中山太郎「人身御供の資料としての『おなり女』伝説」『生贄と人柱の民俗学』)。
 琉球王国の首府が所在した南部沖縄〔本島〕にも、シヌグ祭は普及していたようである。しかし、十八世紀初期における王国の干渉によって変容を蒙り、あるいは全く消滅した。政府当局は政治的な理由のた儒教を人民の間に拡げようとし、また、シヌグ祭の若干の面は儒教倫理の立場からわいせつだと見られたのであった。(馬淵東一「琉球世界観の再構成を目指して」『馬淵東一著作集〈第3巻〉』

 「正視し得られぬほどのきはどい事」を伊波普猷がどこかに記述してくれているか、知らないが、もしないとしたら、避けずに書いておいてほしかったと思う。ただ、「わいせつ」と見なされたことが何であるか察しをつけることはできる。

このシヌグとい う行事は起源が古いだけに、原始的な神部が多 く、中には女の裸踊 りとか,性行為につながるような神前舞踊等もあったとの事である.そのためか尚敬王の時代 (約200年前) にこの行事は禁止された事もあるという。(渡久地政一「沖組本部町字渡久地 に伝わる臼太鼓歌の記錬」)

 鍵は踊りだと見なすと、思いだされるのは谷川健一の文章だ。

 シニグという言葉は「しのくる」(踊る)というおもろ語と関係があるとされる。その踊りも「うちはれ」の祭のように奔放な踊りであって、十八世紀前半の女流歌人恩納なべにシヌグ遊びの禁止されたことを恨む琉歌があることから分かるように、それは男女の性的昂奮を爆発させるものであった。シヌグ祭の放埓な踊りの背景には旧の六月二十八日頃から寄ってくるスクの大群があった。それを待望して歓喜するのがシヌグであり、ウンジャミであったと私は考える。(『南島文学発生論』)。

 谷川はシヌグをシュク(スク)の寄りと結びつけるが、松山秀光は、シヌグのない徳之島において、シュク(スク)の寄りと稲の収穫祭の時期と場所の同一性から、「踊り」に言及している。

人々の喜びが爆発するのは旧六月中旬のカノエの日柄に執り行われる稔りの稲穂の刈取り始めの儀礼、シキュマの日だ。ワクサイからの解放感も手伝って、人々の喜びは最高潮に達したという。この日の前夜、人々は集落内の祭りの広場で夜を徹して踊り狂った。(『徳之島の民俗〈2〉』

 両者がともに、「踊り」について、「爆発」と表現しているのが印象的だ。こうなると、シヌグの語源についても、「踊る」に由来しているとする谷川の考えに惹かれるが、それではこの祭儀が来訪神ではなく踊りに焦点があてられることになり、名称としてふさわしくない気がする。

 ただ、「踊り」の深層については、もう少し考えてみることができる。トロブリアンド諸島のヤムイモの収穫祭、ミラマラは踊りの期間と言われる。この年次の祭りと踊りの期間は「性生活の際立った高揚を伴う」(マリノフスキー『バロマ―トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』)。

 このとき、祖霊(バロマ)も他界から村落に来ているのだが、

ミラマラの期間中激しく行なわれる踊りや祭儀や性的放縦のような、何もかも夢中にしてしまい、心を奪うような事象と比較すれば、バロマが村に来ていることは原住民の心にさほど重要性をもつ事柄とはならない。

 とされている。トロブリアンド諸島では、人間は再生するので、祖霊崇拝はさほど儀礼化されていない。島人はむしろ、

 バロマを喜ばせるためには全員が悦楽や踊りや性的放縦で一つにならなければならない。

 と、祖霊への応対として「踊り」や「性的放縦」を捉える節もある。ミラマラは来訪神の祭儀ではないが、踊りや性的行為に焦点を当てれば、シヌグと似ていると思える。トロブリアンド諸島における「踊り」と「性的放縦」に、ヤムイモの豊作と性的行為を結びつける観念はない。彼らには、人間の性行為が子を生むという認識はないからだ。

 シヌグも稲作儀礼、五穀豊穣儀礼に留まらず、狩猟段階へ遡行する射程を持っており、その意味では、中山太郎が「農業と生殖との信仰を表現したものである」と見なすのは、起源像としては当たっていない。

 「踊り」は神や祖霊との一体化を意味するだろうし、若者にとっては毛遊びや歌垣のような共同婚の意味も持っただろう。

 するとここで、再び、シヌグは「踊り」を意味するという考えに惹かれることになる。特に、恩納なべによるシニグ禁止を嘆く琉歌に、「シヌグしち遊でぃ」とあるのを見るとなおさら。

よ姉べたや良かちシヌグしち遊でぃ わした世になりば御止さりてぃ




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2013/12/03

安田とのシニグつながり

 安田シニグと与論シニグが共通しているのは、仮面仮装の来訪神儀礼という点で、これは両島のみでなく、シニグ全体に通じるものだ。

 ただ、安田シニグが、「半裸の上にワラのガンシナ(鉢巻状の輪)と帯をし、それに山のシイなどの木の枝や羊歯の葉をさして頭から身体まで緑の葉で被う。特に頭にはその頃に赤い総状の実をつけるミーハンチャ(和名ゴンズイ)の枝をさして飾る。身の丈より高い木の柴枝をもつ」(小野重朗「シヌグ・ウンジャミ論」)と、本格的なのに対し、与論シニグは、「実の多くなったヤマブドウの蔓をたすきのように身にまとう」と仮面仮装の側面は薄れてしまっている。ただ、前日にウガン(御願)での夢見によって、豊作の如何を告げられ、シニグ神として迎えられるという、化身の側面は残している。

 また、来訪神を迎えるという形態も共通しているが、与論シニグでは、来訪神としてのパル・シニグをムッケー・シニグが迎えるのに対し、安田シニグでは、山を降りてきた男たち、来訪神を「それぞれの組の主婦たちが飲物を持ってサカンケー(坂迎え)をする」ように、スタイルは違っている。安田の場合、以前は祝女が迎えていた。

 安田シニグでは、山を降りる過程、集落を廻る過程で、柴竹を持って、男の子を前に列をつくり、「エーヘーホー」と唱えるが、与論シニグでは、男の子が唱えるのは、「フーベーハーベー」と違っている。ただ、どちらもお祓いの意味を持っている。

 神送りの後、安田シニグの広場では、田草取りの模擬行為「田草取り」、船を走らせる模擬行為「ヤーハリコー」、輪をつくり踊る「ウスデーク」が余興のように行われる。与論シニグでは、これらの決まった模擬行為や踊りはないように見える。

 豊穣祈願という意味では、谷川健一と松山光秀の考えを援用すれば、これはスクの予祝祭に起源を持ち、生産形態の変更に伴い稲を始めとした濃厚祭儀に転化する。ただし、与論シニグのショー・サークラでは、「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなー(奥山辺戸山の猪の真中)」と唱えるように、狩猟時代の豊穣の意味を失わず持っており、シニグが農耕祭儀を起源にするものではないことも物語っている。

 また、伊平屋島、伊是名島、沖永良部島、与論島、本部、伊計島、宮城島、平安座島、浜比嘉島というシニグの分布をみると、これはアマミキヨ、シネリキヨの南下によってもたらされたものだと思える。

シヌグは始祖神アマミキヨが出現してシマを祓う行事であることがわかる。安田では柴をもとって山を下る男たちを「アマン世の姿」だというが、それは始祖たちの姿の意であろう。(p.154小野重朗「シヌグ・ウンジャミ論」)

 小野はこう書くが、「アマン世の姿」は、アマミキヨのそれではなく、アマン(ヤドカリ)を始祖を見なした時代のそれだと思える。

 安田シニグにない要素としては、与論シニグが、沖縄の「神拝み」の側面を持ち、祖先が移住した経路を示す神路(カミミチ)を辿る過程を持つことだ。ここで、来訪神儀礼は、祖先儀礼へと接ぎ木される。また、パル・シニグとムッケー・シニグは、沖縄の門中に似た氏族集団サークラが行っており、かつサークラ全体で行う共同祭儀となっている点も新たに加えられた質になっている。

 最大の相違点は、安田シニグでは来訪神は山に降りるのに対し、与論シニグは海からやってくる点だが、ここでは、地勢の条件により垂直的なものの水平的なものへの転化であると見なしておく。

 安田シニグとの比較でいえば、仮面仮装の来訪神儀礼と豊穣際のは古層に属し、共同祭儀は新しいということになる。言い換えれば、狩猟・漁労の祭儀が農耕の祭儀となった時に、シニグ名称は与えられ、カミミチが発生し、共同祭儀化されたということだ。

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2013/11/29

信仰集団としてのプカナ

 プカナ・サークラを、アマミク(キヨ)あるいは、それに深く関与した集団と見なしている者にとって、気になる記述。

プカナ

 麦屋西区小字タバタ(田畑)にある俗称地名。プカナマグディが生まれた地。(中略)プカンナともいう。プカナのプカは拝むの意がある。(昔この地周辺から人骨が出た)。(p.490)(菊千代『与論方言辞典』

 プカナはプカンナとも言う、とあるが、同様に、フカナともフカンナとも言う。「プカナのプカは拝むの意がある」というのは、この辞典にある「フガミュン」(拝む)を連想させる。強い信仰集団という仮説を補強してくれるものだ。


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2013/11/28

沖縄の「神拝み」と与論シニグの神路

 『琉球王国がわかる!』の図解入りの説明をみて、やっとピンと来たのは、沖縄の「神拝み」と、与論シニグの神路歩きは同型だということだ。

 「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」と「東御廻り(あがりうまーい)」を例に採ったコラムはこう書かれる。

 沖縄には、親族集団の門中ごとに、祖先の故地である御嶽や城跡、墓、湧水(泉)などの聖地旧跡を巡拝する神拝みという行事がある。(p.80)

 与論シニグの場合、「祖先の故地」というより、「祖先から現在までの移住経路」が軸になっている点、趣を異にするが、始原の世界に立ち返るという儀礼精神において同型であると思える。だとするなら、首里王府から来島した花城一族が、これに関与した理由も頷ける。

 問題は、そのこと、首里王府の関与以前に、神路歩きはあったかどうかということだ。

 東御廻りの起源は、国王の巡礼である。王国の繁栄と五穀豊穣を国王が祈願する行事としてはじめられた。(中略)
 これが東御廻りの原型となって、王族から士族、民間へと広まり、島の人々は老若を問わず、この巡礼の道を辿るようになった。(p.83)

 「国王の巡礼」が原型なら、与論シニグでの神路歩きは、グスクマ(外間)・サークラから始まることになりそうだが、そうはなっていない。少なくともそれは、与論主の一族が所属するグスクマ・サークラの来島以前からあったと思える。

 それなら、第二尚氏以前、つまり王舅やその他の勢力がもたらしたものだろうか。そういう伝承は残っていない。また、王族系を起点に置くと、それ以前に居住していた集団は、祖先の移住経路を神路として復元できないと思える。

 与論シニグの神路歩きは、シニグの起源よりは新しく、与論主による関与よりは古い。問題は、それがどこに位置づけられるか、だ。
 
 与論の初期からの島人集団である、ショー、サキマ、キン、アダマのサークラが、これを始めたとは考えにくい。彼らにとって、赤崎御願への巡礼は重要に違いないが、目的地へ行くことが重要であって、現在は道になっていなくても池のなかでも通行しなくてはならない厳格さが重視されるようには思えない。

 これは、サトゥ(里)に居住を構えるまでの経緯を重視する集団が始めたのであれば、必然性は理解できる。すると、「島のはじまり」の神話を持ち、北から、ハジピキパンタを経た移住経路を持つ、プカナ・サークラが浮上してくる。彼らが始めたのではなくても、神話のなかに移住の経路を語っている点からも、彼らがそれを重視するのは理解できる。

 ぼくは、プカナ・サークラをアマミキヨ集団、あるいはそれに深く関与した存在と仮説している。それに従えば、アマミキヨが安須森、今鬼神、知念森と続く沖縄の聖地開拓の記憶を保存することとも符号する。

 プカナ・サークラが与論にやってきた時期に神路歩きはシニグに取り入れられる。それがプカナに依るものかは分からないが、これがサークラ間の関係をつなぐ共同祭儀であれば、島全体の統治の実力を持った按司勢力によるものだとは確からしく思える。

 このことは、来訪神としてのシニグという側面から、また改めて考えてみたい。


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2013/09/30

シニグの因数分解 3

 谷川健一は、『南島文学発生論』で、シニグの歓喜の爆発的な発露である踊りにふれた個所で、「シヌグという言葉は「しのくる」(踊る)というおもろ語と関係があるとされる」(p.403)として、シニグの語源が「踊る」にあることを示唆しようとしている。

 この考えはとても魅力的なのだが、しかし、「踊る」ことそのものを名称にするのでは、祭儀の由来や本質を物語ることができず、そのような命名をすることは考えにくい。そして、シニグは名称こそ共通して沖縄島の北部と東海岸を中心に分布しているが、与論シニグと安田シニグを例にとっても、二つのシニグは抽象化か個別具体的な何かを指示するかしなければ共通性が見出しにくく、個々のシニグの内容は多彩である。これは、稲作の技術を持った集団の共同幻想が個々の地域における収穫の予祝祭を吸収した結果だと見なせば、同一名称、内容多彩の由来が理解できる。そうだとしたら、シニグの名称は、あの男神シニグク(シニレク、シネリキヨ)に由来すると考えるのが妥当ではないだろうか。

 シニグはこの他、神の託宣を受ける、中沢新一の言葉を借りれば、高神的な要素と、神を迎え送るという来訪神的な要素を併せ持つ。また、パンタ石や、子供たちがサークラ内の家々をまわり、その家屋や柱を廻って「フーベー、ハーベー」と唱えるような、ある種の悪霊払いの儀礼も内包している。

 スク(シュク、イューガマ)の予祝祭を起点に置けば、収穫の予祝という核心の外側に、さまざまな要素を付加させ、共同体内の融和から共同体間の融和にまで拡張してきたのが与論シニグだと言える。これらをその起源に向かって、遡行しようとすれば、個々の要素への因数分解が必要なのだ。

 ここで辿ってきた視点から言えば、シニグとウンジャミはもともと一つのものか、最初から別々にあったのか、あるいは、どちらが古いかとする議論にも触れることができる。スクの予祝祭を起点に、収穫を軸にこの祭儀が連綿としてきたと捉えれば、シニグとウンジャミはもともと同一のものである。それが政治的な威力によって共同祭儀化された時、稲作と漁撈の祭儀とに分化を余儀なくされた。ウンジャミが小シニグと呼ばれることがあるのは、シニグが元にあり、ウンジャミがシニグから分化したからではなく、共同祭儀化された時、島の生産は稲作を主軸に置く段階になったためであると考えられる。ここからすれば、シニグもウンジャミも、その名称は新しいのではないだろうか。


 (与論シニグ)=(踊り)+(予祝(狩猟・漁撈・稲作))+((パル・シニグ)+(ムッケー・シニグ))+(神路)+(高神+来訪神)+(悪霊払い)


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2013/09/29

シニグの因数分解 2

 もう長い間、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラによって与論の稲作はもたらされてきたと思いこんできた。そうした考察を目にすることが多かったし、島人の上陸地点として聖地と見なされているのも、アーサキ(赤崎)を除けば、寺崎と黒花だからだ。そして、聖地とされるウガン(御願)と歴史とのつながりを、ロマンチックにすら感じてきた。

 しかし、実はそうではないのではないか、というのが現在の考えだ。

 理由は、単純で、与論のシニグを研究した大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究―種子島マキと奄美大島与論島ハラの社会学的研究(1960年)』によれば、クルパナ(黒花)・サークラの座元(ザムトゥ)は、

黒花オガンの地域を買ったのでパル・シニグを行う事となった。(p.266)

 とあり、また、野口才蔵の『南島与論島の文化』では、ティラサキ(寺崎)は、琉球王府の版図になって以降に、島に到来した系譜が所有者であったと指摘されているからだ。購入が前提であれば、クルパナ(黒花)・サークラによって稲作がもたらされたとは言えないし、琉球王府の版図になる以前に稲作は伝来されているのだから、ティラサキ(寺崎)・サークラが稲作をもたらしたわけでもないことになる。それに気づくと、では購入される前、所有される前の、両サークラは誰が担ってきたのかと考えてきたが、それを尋ねたことはない。けれど、改めて考えてみると、その前は、両方ともサークラとして存在しておらず、購入や所有を契機にサークラが構成されたということではないだろうか。

 たとえば増尾国恵は『与論郷土史』(1963年)において、ハニク・サークラ発祥について、こう書いている。

 高井家は昔は茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)

 これは薩摩が直轄支配している時代のことではあるが、琉球王府が与論を版図に入れて以降、シニグは自然に育まれた祭儀ではなく、政治の制御が及ぶ共同祭儀と化していることが分かる。ティラサキ(寺崎)・サークラやクルパナ(黒花)・サークラの成立についても、こうした背景を置かなければならないかもしれないのだ。

 ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラの関わるシニグ祭団には、他には見られない特徴がある。両者の行うシニグ祭は、ムッケー(迎え)・シニグとパル・シニグの二つの役割が存在することだ。そして、ティラサキもクルパナも、その中のパル・シニグを担い、ムッケー(迎え)・シニグと合流してシニグを行う。それ以外のサークラでは、ムッケー(迎え)とパルの分岐は見られない。

 シニグに二つの類型があることは研究者たちの関心を呼んだようで、大山彦一は、この二つは、パル・シニグが古型であるとしている。

シニグにはパル・シニグとムケー・シニグとがある。パル・シニグは原シニグであって、シニグの古型である。昔、原即ち原野に於て行った原野の耕作地のためのシニグであって、サークラ無きところで行った。(『南西諸島の家族制度の研究』、1960年、p.240)

 大山の考察の14年後、小野重朗は「与論島のシヌグとンジャミ」(1974年)のなかで、

 私はAのパルシヌグとそれを迎える行事の部分が消失してBになったものと思う。(p.316)

 と書き、パル・シニグとムッケー・シニグの両方あることが原型であるという考えを示した。大山がパル・シニグを古型であるとし、小野は両方あるのが原型であるとする点、ムッケー・シニグが新しい形であるか、元からあるものかについて相違はあるものの、パル・シニグが元からあったものとすることについて両者は共通している。

 大山の判断がやや直観的であるのに対して、小野は根拠も挙げている。ひとつは、小野が取材をした1974年前の時点では、ティラサキもクルパナもサークラを構成せず、パルシニグが消失する事例が島人の記憶のなかでも起こっていること。そして、もうひとつ、ある。

 第二は理論的にA(パル・シニグとムッケー・シニグの両方ある-引用者注)がB(パル・シニグの消失-引用者注)に比べて本来の古形であったことが考えられる。先ず、サト地区の六シヌグ祭団はサークラを出発するとみな最初に展望の広い崖の上のパンタに出る。しかも六祭団中の五祭団までは、北方の海の見える隆起珊瑚礁の同一線上のパンタに出る。そうして神路巡回コースはここで折り返してサト地区の中をめぐることになっている。これはこのパンタが巡回コースの中で最も重要な地点であることを教えている。A形のシヌグではこのパンタは北の海辺の御願から訪れてくるパルシヌグの座元(シヌグの神の依り代)を迎えて年柄、作柄をきく聖なる場所なのである。ところがB形のシヌグではこのパンタは単に旗をめぐるだけの場所となっている。パルシヌグの消失と共にパンタ儀礼だけが礼楽したまま残ったと見るほかはない(p.317)。

 しかし、パル・シニグとムッケー・シニグの類型を持つ、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラが、土地の所有と購入から発生したと見なすここでの観点から言えば、この類型は新しいのではないだろうか。なぜなら、シニグが異なるサークラ間の交流という形式を持つこと自体、政治が加担した共同祭儀であることを意味しており、それも琉球王府の版図になって以降のことと考えられるからである。

 島人の移住の経路を示すとされ、与論シニグの特徴でもあり根幹でもある神路から考えると、どうなるだろう。

 大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究』には、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラの両者の神路の経路が図示されている。このうち、クルパナ(黒花)・サークラの神路は、クルパナ・サークラとシニグを伴にしたユントゥクあるいはプサトゥのサークラが神路を案内できた可能性がある。同じ役割をティラサキ(寺崎)・サークラで演じたのはプカナ・サークラではないだろうか。野口才蔵によれば、プカナは、ティラサキとともにパル・シニグだった時期があり、ついで、ティラサキのムッケー・シニグになっているからだ。プカナはずいぶんと振り回されたのだと思う。

 ところで、大山彦一の研究には興味深い記述がある。それは、ショウのグループのサークラに関するものだ。ショウは、以前は、「島の北海岸にあるテダラキから高千穂の東を経て、又吉の東で赤崎オガンの方向に向かって遙拝して解散した。大多数の氏子が叶、那間の遠距離であるので、又吉に於て東方赤崎オガンの遙拝に止めた」という。「テダラキ」とはティラサキのことだが、これはショウのグループが、ティラサキからの神路を持っていた可能性を示すものだ。しかもされにこれ以前があると言う。「さらにこれ以前。赤崎オガンの遙拝に止まらず、赤崎オガンまで行って祈りをしていた」。しかも、この神路は、ティラサキ(寺崎)サークラの経路とは異なる、と言う(p.252)。

 この記述を信じるなら、これが意味するものは何だろう。アーサキ(赤崎)ウガンを聖地として持つ、ショウのグループが、ティラサキからの神路も持つとしたら、ショウ、キン、サキマ、アダマの各サークラのうち、アーサキ(赤崎)ではなく、ティラサキ(寺崎)を上陸地点として持つサークラがあるのではないかということだ。そしてもしそうなら、その名称が、赤(アー)とティラ(白)の響き合うニ対の地名を持つ謎も解きやすくなるのだ。

 そしてこれを手がかりにすると、こういうことが考えられる。サトのサークラのうち、少なくとも、ショウのグループ、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシ、ユントゥク、プサトゥのいくつかは、クルパナ(黒花)、ティラサキ(寺崎)、ウァーチ(宇勝)などの上陸地点からの移住経路を示す神路を持っていた。しかし、土地に所有の概念が発生して以降は、その経路を辿れなくなった。こう考えると、小野の仮説は生きることになる。ただし、上陸地点に神が訪れ、パンタでそれを迎え、パンタや海岸で送るという神路の経路は、同一サークラ内で行われていて、サークラ間の交流の形態を取るようになったのは後代のことであるという点を除けば。

 ぼくたちも小野の仮説に惹かれるが、まだ判断できるだけの材料を手にしていない。


 (与論シニグ)∋{((パル・シニグ),(ムッケー・シニグ)),(神路)}


 

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2013/09/28

シニグの因数分解 1

 シニグをその源流に遡及してみようとする時、徳之島の民俗学者、松山光秀の「私のコーラル文化論」の視点には、強い示唆が含まれているのを感じる。

 ここでフウゴモイの付近一帯の状況も説明しておきたい。すぐ隣にはネィラの神が祭りの浜にやってくるときの目印にしたというタンギャ(立石)が聳え立っておりイマ(原文ママ)、その隣には祭りのときに神々に供え物をしたという岩陰があり、さらにその隣にはユウムチゴモイ(砂の入り具合いによって次の年の豊凶を占うところ)があって、シマ一番の、水稲の収穫感謝の夏の折目の祭りのときに心臓部を演じたところである。このような重要な祭祀場の一角にシュクの捕り始めの儀礼の行われるフウゴモイがセットされる形で設定されていたことに注目したい。水稲文化は人々の目に見えるシュクの寄りという自然現象の媒介によって、はるか彼方のネィラと結ばれていたと言えよう。人々の夢がふくらんでいったのも無理からぬことだと考えられる。(『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』2004年、P.54)

Huugomoi_2

 左右どちらへの展開かは分からないものの、フウゴモイ、立石、岩陰、ユウムチゴモイの位置関係は上図のようになる。松山は、稲作の祭儀とスク(シュク、与論のイューガマ)の祭儀の場が近接しており、かつ、スクの到来と水稲の収穫の時期が一致していることに着目し、稲作という新しい生産物が、それまでの生産物とそこにあった信仰とに結びついていることに、島人の「夢がふくら」む根拠を見ている。

 ぼくたちの視点から言っても、「夢がふくら」むように胸が躍るのは、祭儀の場所と時間の同一性によって、漁撈の収穫祭と稲作の収穫祭が接ぎ木されるのを見るからだ。言い換えれば、シニグの原型は、この祭儀の場所と時間の同一性によって、漁撈の収穫祭に遡行できるのではないかと思える。徳之島ではシニグは行われているわけではないが、稲作の収穫祭という意味では、「夏の折目」とシニグは同型と見なせるものだ。

 松山が、「私のコーラル文化論」のなかで、上記のことを「南海日日新聞」に発表したのは1992年だが、その前年に『南島文学発生論』を上梓した谷川健一は、伊計、宮城、浜比嘉で行われるシニグ祭の日が、スクの寄ってくる日でもあること、安田のシニグで、仮装の男たちが山の頂と降りる際、降りた後に唱える「スクナレー」という言葉が、「スク直れ」か「スク魚寄れ」に由来すると考えて、

 シヌグはまさしくスクの寄ってくるのを待ちうけた人たちの予祝祭であり、感謝祭でもあった。(p.402)

 と書いている。

 ぼくは『南島文学発生論』が出版された当時、谷川の(シニグ)=(スクの予祝祭)という仮説が突拍子もないものに思えたが、松山から、時間だけではなく、場所の同一性によっても稲作と漁撈とがつながるという示唆を受け取ると、この仮説が俄然、説得力を帯びて迫ってくる。

 与論のシニグは、スク(イューガマ)予祝祭の意味は無くなっている。けれど、稲作(五穀)の意味だけに限られているわけでもない。

 「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなー」(奥山辺戸山の猪の真中)
 
 と、ショウのサークラでは、大峯山から沖縄に向かって行う弓引きがシニグに内包されていて、狩猟の予祝を示唆しているのを見れば、シニグは、狩猟、漁撈、稲作に関わらず、収穫の予祝を意味するものだと思われる。松山の視点やショーのサークラの弓引きは、シニグが稲作に限らず、その前に遡行できるものであることを示すものだ。そして、その原型の場では、シニグは、シニグとは呼ばれていなかったに違いない。

 興味深いことに、同じ時期に発表された松山の『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』2004年、P.54)と、谷川の『南島文学発生論』は、予祝祭のピークを「踊り」に見ている点も共通している。

 人々の喜びが爆発するのは旧六月中旬のカノエの日柄に執り行われる稔りの稲穂の刈取り始めの儀礼、シキュマの日だ。ワクサイからの解放感も手伝って、人々の喜びは最高潮に達したという。この日の前夜、人々は集落内の祭りの広場で夜を徹して踊り狂った。(松山、p.58)
 その踊りも「うちはれ」の祭のように奔放な踊りであって、十八世紀前半の女流歌人恩納なべにシヌグ遊びの禁止されたことを恨む琉歌があることから分かるように、それは男女の性的昂奮を爆発させるものであった。シヌグ祭の放埓な踊りの背景には旧の六月二十八日頃から寄ってくるスクの大群があった。それを待望して歓喜するのがシヌグであり、ウンジャミであったと私は考える。(谷川、p.403)

 さらに興味深いのは、踊りで表出される歓喜を二人とも「爆発」と表現していることだ。

 ぼくたちの関心に従えば、歓喜が爆発する踊りは、与論シニグの原型の要素に想定してもよいものだと思える。


 (与論シニグ)∋{(踊り),(予祝(狩猟・漁撈・稲作))}


『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』

『南島文学発生論』

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2012/02/02

与論シニグ・デッサン 5

 確認できる範囲で、与論の初期島人はイチョーキ長浜貝塚を最古のものとして、島人の流入のメルクマールを記してみる。

1.三千数百年前

 初期島人

 与論が海面上に姿を現し琉球弧に仲間入りするのは約三千五百年前(「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」2010年、管浩伸)だから、イチョーキ長浜のある西の低地が陸地を形成する時間を考えると、初期島人の存在はもう少し後のことかもしれない。ただ、島形成の早い時期から島人が住んだとすれば、その頃には既に往来があったことを示すものでもある。与論島は新しい。けれどほぼ同じ時間だけ島人も与論島とともにあったということだ。


2.三千年前~

 ショウ・グループの一部(麦屋の上城遺跡をショウ・グループの島人であると仮定)

 弥生時代以降は、貝交易、ヤコウガイ交易で琉球弧、奄美北部は活発な動きを見せるので、与論にも何らかの接触があったはずである。「海見」の初見が657年(『日本書紀』)。ついで、「奄美」、「多祢」、「夜久」、「度感」の記述が699年(『続日本紀』)。8世紀の木簡には、「掩(実際は木辺)美嶋」、「伊藍嶋」とある。このいずれにも与論島は登場しないが、交流の渦中にいたのは確かだと思える。

3.千年~九百年前(11~12世紀)

 プカナ・サークラ

 いわゆるアマミキヨの南下に当たる。

4.六百年前(15世紀)

 グスクマ・サークラ

 こうしてみると、初期ショウのグループとプカナには二千年の開きがある。与論の西区、インジャ(麦屋)の言葉と朝戸の言葉が異なるのは当然のことだと言える。また、同様に、グスクマから茶花に移った島人とインジャ(麦屋)、朝戸の言葉が異なるのも。与論言葉も三区分できると言われるのは、島内への移住と島内での移住という時間と空間の差異から生まれたものだ。

 今回のシニグ・デッサンでは、アマミキヨは11世紀以降、奄美大島周辺から南下したものという『琉球の成立―移住と交易の歴史―』での吉成直樹の仮説に従った。

 大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』では、ショウ・グループで聞いた「アマミキヨは東方海上より来れりと伝う」(p.252)という伝承を記録している。一方、寺崎、黒花からの移入者については、「約六百年前、島の北岸、黒花、テラザキ・オガンの附近である」(p.381)と、北方からの渡来者と記すのみで、多くの古老から取材しているにも関わらず、寺崎、黒花とむすびつけてアマミキヨの伝承は記されていない。

 山田実の『与論島の生活と伝承(1984年)』によれば、1957年、ちょうど大山と同じ頃に茶花の竹内ウトゥ(当時88歳)に取材をしている。彼女の口からは、ハジピキパンタが島の創生として語られ、アマミクとシニグクが登場し、

 ユウヌ、パジマリヤ、ショオヌミヤ、デエタイ(p.20)

 「世の始まりは正の庭だったらしい」と言われた。このフレーズは、ショウ・グループが持っているものだ。こうみると、ショウとアマミク、シニグクをセットとみなすのが自然なのかもしれないが、稲作の祭儀としてシニグが編成された際に、アマミク、シニグクの信仰が流布され、それがショウのグループに強く残ったものとして、もともとショウ・グループが持っていた神話ではないと見なした。これは確信を持って言えることではなく、シニグ・デッサンでは、与論島人の由来を追ってきたが、シニグの起源も11世紀以前のアマミキヨの存在の有無も課題として残ったままということだ。

 シニグについて、ほんの少しではあるが、今までよりは少し眺望のできる場所まで来れた。自分の出自についても、父方は琉球の系譜、母方はおそらく北方の系譜という見当もついた。自分が育った場所の由来も知れた。いくぶんすっきり。シニグへの島内からの接近は、一端ここまで。次は、琉球弧の他のシニグやそれに類する祭儀から補助線を求める探究に出かけたい。

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2012/02/01

与論シニグ・デッサン 4

 伝承のアージニッチェーが琉球軍に敗れたことにより、与論の短い按司時代が終わり、北山を中心とした琉球からの流入の時代を迎える。グスクマ(城間)サークラである。グスクマは多数の分離(別れ)サークラを持つ。

 城地区内の分離に止まったのが、

 ミーラ(見良)、メーダ(前田)、ホーチ(川内)、クチピャー(口平)

 であり、主に茶花、立長に散ったのが、

 イデン(伊伝)、トゥムイ(供利)、ハニク(金久)、トゥマイ

 である。これだけ見ても、琉球北部からの移入が相当な規模であったことを伺わせる。ここにきて、所有者不明の土地はグスクマ所有のものとなり、シニグは政治的な編成を受ける。そこで、寺崎、黒花をパルシニグとするムッケーも登場したのかもしれない。15世紀以降のことである。

 薩摩時代のことになるが、政治的編成傍証の一端として、増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)にはハニク・サークラ発祥の経緯が書かれている。

 高井家は昔は今茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)


 シニグを手がかりにみた与論の島人の形成過程は、南あるいは北からの先住者に対して、グスク時代になり主に北からの流入、そして琉球王国時代に南からの流入を迎える。それぞれの居住地を支えたのは、それぞれインジャゴー(麦屋井)、シーシチャゴー(木下井)、ヤゴー(屋川)の湧泉であった。この小さな島はその小ささの割には人口密度が高いのだが、それを可能にしたのは、豊富な地下水だったのだ。「ゆんぬてぃゅーる島やいにくさやあしが」、だ。

 その後、高地集落では人口が支えられなくなると同心円的に、扇状に、平地への移住が進む。そして現在、その同心円の外側、海岸沿いに新アマミキヨとも言うべき移住者が新しい島人の層を形成するようになった。こうみるとき、島内だけを取っても与論の歴史は移住の歴史でもある。


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2012/01/31

与論シニグ・デッサン 3

 プカナ、サトゥヌシ、ニッチェーの後、城地区のサークラまでの記述を野口は割愛しているので、『与論島―琉球の原風景が残る島』の高橋の助けも借りると、三サークラの後に続くのは、プサトゥ、ユントゥク、クルパナである。野口によれば、高橋のフィールドワークの時点では廃止になっていたユクイもこれに加わる。

 これらのサークラは、クルパナをパルシニグとしてムッケー(迎え)を行う一群である。ティラサキ(寺崎)をパルシニグとするムッケーの形態と並列して存在したわけだが、寺崎のそれが政治的な擬制を伴っていたと考えてきた後には、このクルパナについても手放しではこれが原型を止めているとは言えなくなる。クルパナをパルシニグとする原型があったから、寺崎をそれに倣ってパルシニグとしたのか、それとも、寺崎、クルパナ(黒花)ともに、政治的な編成を伴っているか。どちらも可能性があるとしなければならない。

 もうひとつ、寺崎は龍野の経緯により城地区のグループに加えられているが、城地区からの別れサークラが茶花、立長地区を主な移住先としたことを踏まえると、那間地区を中心に移住先を持った寺崎は、与論への来島の後先でいえば、プサトゥ、ユントゥク、クルパナ、ユクイのなかにあるのでなければならない。同様にハジピキも。城地区の島人がやってくる前に寺崎サークラが存在したとすれば、である。ここは島の人に実際に聞いてみるしかないが、まだできていない。

 ただ、これらのサークラがいずれかのサークラから分離したものではなく独立してあったという言い伝えに添うなら、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシの後にも、小さな集団が与論に次々と来島した経緯があったのを推し量ることができる。そして彼らは大和からの人々を含むグスク時代の琉球弧の人口膨化の一端を担った、主に北からの流入であったと考えられる。

 ここで関心をそそられるのは、ユントゥクサークラである。野口によれば、

 因みに徳田峯中氏は、ユントゥクダークラの「アイスヌ」というヲナイ神を祭っており、徳田有秋氏は「マクロク」という男神を祭り、徳田有秋氏がシニュグ祭の座元である。(p.86)

 とあることだ。シニグや琉球弧にはアマミク、シニグクの名がよく知られているが、男女二神はそれだけではなく、小さな信仰集団がいくつも存在した可能性を伺わせる。同時に、ユントゥクサークラはウンジャン祭を行っていたことを踏まえれば、複雑だが一方でアマミキヨとの類縁性も高いことになる。また、喜山康三からプサトゥはウプサトゥが原型でウが脱音したものではないかと聞いたが、するとプサトゥは「大里」とみなすことができる。「里主」を連想させる命名だが、それだけ各サークラは内閉性が高かったことになるわけだ。

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