カテゴリー「49.「近代日本の地方統治と『島嶼』」」の14件の記事

2010/08/13

「奄美独立経済再考」

 昨晩、「近代日本の地方統治と『島嶼』」の高江洲昌哉さんとお会いした。そこで「奄美独立経済再考」と題する2009年の論考をいただいたのだが、刺激を受けた。

 高江洲は、紹介の意味を込めて奄美の自意識に触れている。

 まず第一に沖縄との関係で仲間意識の濃淡というのがあります。これは、奄美の人は、沖縄と文化的なつながりがあるので仲間意識をもっていますが、沖縄の人から見ると奄美は鹿児島県の一部として見てしまい、仲間意識が薄いという傾向があります。沖縄と奄美では仲間意識に濃淡があるため、奄美の人は沖縄に対して屈折した意識(疎外感)が生まれました。第二に鹿児島県本土から差別されてきたという被差別意鈍があります。それは、鹿児島県本土からは文化的に違う地域として見做されてきたという経緯に由来します。こうした被差別意識は、江戸時代における砂糖収奪、近現代における経済的困窮といった歴史的経験によって醸成されてきた面もあります。

 まるで自分のことを紹介されているような恥ずかしさが過ぎるが、そのように、この観察は的確だと思う。

 ここを導入口に、高江洲は、独立経済政策成立の背景について次のように要約する。

 それでは、拙論で言及したテーマというものを要約しますと、鹿児島県本土の税金が奄美に利用されるのを良しとしない切捨て政策と、奄美の税金が奄美外の目的で利用されることを良しとしない島地保護政策という、相反する意図をもって採用された政策であったということです。

 そして本土鹿児島から徴収した税が奄美に使われるのをよしとしない議会に対し、県令は段階を追った対応を経て、独立経済に踏み切る。

 独立経済の出発点こなった県会の意見というのは、地方税の使い道です。それは、橋や道路の建設という点と郡役所経費の補充という二つの点からの批判になります。この批判への対応ま第一段階と第二段階に分かれます。第一段階の対蘭ま、他郡の地方税が奄美の郡役所経費を補填するのを回避するため、奄美の行政組織が支庁・島庁へと変遷していく過程がそ相こあたります。ですから、この組織の名称変化は単なる名前の変化ではありません。その財政的裏づけが、地方税支出から国庫支出というように、ちゃんと批判への対応として結びついていたのです。そして、第二段階が、地方税の使い道の問題になります。ここでは知事が奄美の税が奄美以外に使われるのに反対という論理を立てて独立経済を支持しています。つまり、「他郡から奄美へ」から「奄美から地郡」にと、主客を逆転した形で、税の囲い込みを正当化しています。力点の置きかたによって意味付けが違ってくることの好例だと思いますが、奄美の税は奄美へという論理で独立経済は結実したのです。

 まず県令は、議会の態度に対して、奄美に対する財政を「地方税支出から国庫支出」の補填を持たせることで対応する。この箇所は、これまで、弓削や高江洲の論考を読みながら、文脈を踏まえるならそうなるが本当にそう理解していのか確信が持てなかった点であり、ここで明確にすることができた。

 そして次の段階で、もうひとつの矛盾、奄美からの税収が他郡に使われる矛盾を解消するために、奄美の税は奄美という目的のもと、独立経済が敷かれたことになる。

 この整理は、独立経済をめぐった見晴らしをずいぶんとよくしてくれる。

 地方税分配をめぐる解釈の二面性は、制度が悪い、鹿児島県本土が悪いという解釈とは距離をおくものです。また、経済力が弱いという「遅れた」奄美にのみ原因を求めるものではありません、時勢に来るという表現は適切ではありませんが、すべての地域が時勢に乗れるわけではありません。歴史にはこうした「やるせなさ」というのがあると思います。

 ぼくはことの経緯について細部を充分に辿りつくした者ではないので、奄美独立経済に対する理解を更新しておきたい。

 奄美の独立経済は、奄美を囲い込むという面では、近世から近代初期にかけた黒糖収奪期の再現あるいは延長だった。その意味では、政策やその検討はひとつ奄美だけが被ったものではなかったとはいえ、政治意思としての鹿児島には選択しやすい方向だったろう。結果、再三の問題提起にもかかわらず政策は中止されず、奄美は困窮を深めていった。しかし一方、国庫支出による補填や奄美の保護を目的に県令が動いたという点では、「人間は平等」という近代理念の具現の努力は、奄美に対しても始まっていた。

 高江洲がそう書いているのではない。高江洲が提示してくれた新たな知見を受け止めようとして出てきた言葉だ。

 ぼくたちは、現在の困難の原因を過去の無限遠点に設定し、困難を絶対化するとともに、その責を未来の無限遠点の理想から照射して、責任を絶対化する傾向がある。独立経済であれ奄美のどの歴史であれ、無限化の誘惑に流されず、しかし局所的にもならずに時間と空間を大きくとって眺める必要があるのに違いない。そのバランスから見える光景がもたらす感覚を高江洲が「やるせなさ」と呼ぶように、そこは必ずしもすっきりした場所ではないとしても。

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2010/01/24

「近代日本の地方統治と『島嶼』」13

 奄美を主に見て終えようと思ったが、やはり沖縄のことも触れておきたい。
 奄美が「独立経済」をめぐって「差別」の議論がなされてきたが、沖縄は「低度ナル」というキーワードをめぐっていたことが分かる。

(前略)沖縄県及島嶼町村制は、「島嶼」側の意見反映や日清・日露戦後という時代状況を加味することで、成立した制度である。しかも、画一的地方制度の修正版であるため、沖縄県及島喚町村制は、条文の内容から町村制と「近似性」を持つため、「内地」に施行された町村制の補完制度という性格をもっていた。にもかかわらず、「低度ナル町村制」という成立根拠をとったため、町村制との断絶を匂わせる、「低度」な補完制度として位置づけられたのである。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 それでは、「低度ナル」という位置づけは、「差別」制度だったのか。

 「低度」という制定目的にとらわれることなく、条文内容で評価するならば、沖縄県及島嶼町村制は従来言われてきたような、単なる差別制度ではなく、町村制との近似性をもった制度である。それにもかかわらず、低度に位置づけられた補完制度とはどういう意味か、この点を補足説明したい。これまで「低度」と町村長任免などが結び付けられ、差別制度と評価されてきた。このような評価には、地域の実情や時代状況というものが軽視される傾向があった。

 奄美の「独立経済」は「差別」というだけでは括れない「殖産興業」としての「地域振興」の側面を持っていたとすれば、沖縄に施行された「沖縄県及島嶼町村制」は、「単なる差別制度ではなく、町村制との近似性をもった制度」だった。

 つまり、沖縄県及島嶼町村制は、施行地域の名望家層の相対的不在と、日露戦後という施行時期の行政権の優位性とがあいまって、町村制が町村に与えていた行政機関的性格と名望家層による自治機関の両立ではなく、官の監督が強い官治的制度となったのである。より詳しく述べると、町村長を議会が選出する方法を除外することで、執行機関(町村長)に対する議決機関(町村会)への関与を弱めるためであった。それは、執行機関の「官」化(行政機能の強化)を促し行政権の遂行が期待されており、町村制施行地域の現状が反映されている側面もあった。つまり官選とは、現地の実状に対する対応だけでなく、行政的な配慮があったことも無視できない。沖縄県及島嶼町村制を説明する「低度」とは、内容的な意味ではなく、政策的な名目として使用された言葉である。

 沖縄は土地による資本の蓄積が進んでいなかったため、「官治性」を強化した。そこには行政的な配慮があったが、その際、「低度ナル」という言葉が使われたが、それは「政策的な名目」であった。ここは、「島嶼」という言葉が内地と違うということ以上、あいまいなままにされたことと同じである。

 高江洲は、沖縄の章で、こう締めくくっている。

 つまり、「低度ナル」という説明は、当時の政治状況との連関を隠匿する説明原理であったといえよう。
 実質的な機能という面からみると、沖縄県及島峡町村制は単純に「低度」であるという説明で済むものではない。それにもかかわらず、「低度ナル」という説明は、沖縄県及島嶼町村制の存在理由として機能していたといえる。それは、現地において地主層の薄さなど一〇〇パーセント虚構とは言えない面もあったので、「低度」という説明は、現地の人々に受け入れさせ、差別意識を与える役目を担ったことから説明できる。このように、沖縄県及島嶼町村制がはたしたイデオロギー的な役割を無視することはできない。
 沖縄県及島峡町村制とは、「低度ナル」町村制というよりも、「近似性」と「異質性」を併せ持った町村制の補完制度である。ただしそれは、機能面から見た評価である。なぜなら、沖縄県及島嶼町村制は、「低度」という外皮に覆われているため、単なる町村制の補完制度というよりも、「低度」と価値付けられた補完制度として位置づけられたのである。

 「「低度」と価値付けられた補完制度」であることが、「差別」性を抜きがたくした要因になっている。ぼくたちは、奄美の「独立経済」と同様、沖縄もまた「低度ナル」という言葉をめぐって、相似的な問題を抱えてきたことを知る。この末尾の文は、高江洲の故郷、沖縄に対する想いの強さを垣間見る気がした。


    「近代日本の地方統治と『島嶼』」

Chihou


 

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2010/01/23

「近代日本の地方統治と『島嶼』」12

 高江洲は先行するナショナリティの研究に対してこう書いている。

こうしたナショナリティに関する議論は往々にして、学閥やジャーナリズムの世界で紡がれた「言説」を主たる対象にする。それら研究は、膨大な言説(知の蓄積)との格闘の末発表されたものであり、その意義については認めるものであるが、このように特定の言説を対象にすることは、その言説が言及していない事実については不問にするという研究が間々ある。本研究のように「民度」の名のもとに制度特例がおかれた「島嶼」では、日本人の境界が議論されていたにもかかわらず、特定の言説空間では議論されていないため、いままでほとんど看過されてきた。「島惧」の特例制度を分析してきた者として、これまでの研究が、膨大なナショナリティの知に関する言説を分析し、脱構築などと成果を宣伝しょうとも、それが語らぬ事実を素通りしたならば、当時のナショナリティをめぐる状況に比較して、知の縮小再生産をしているのではないか、と危惧している。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 これはぼくなども持っている孤独感や不満をよく代弁してくれている。ナショナリティの議論でなくても、奄美の議論はよくて付録、ふつうは無いというのが通常だった。それは奄美自身が語ってないからだと受け止めて、歩みを続けているつもりだが、「語らぬ事実を素通り」されるのをいつも感じることも確かなのだ。またこれはめぐって自分への自戒の言葉としてもやってくる。

 本書は、町村制が施行外にされた島嶼を扱ったものであり、島の人の主体性とか、華やかな活動からは縁遠い、制度を淡々と分析したものである。「自治」というものに希望を持つ人からすると、本書は、期待に応えるのに十分なものではないし、希望を与えるものでもない。これは著者の性格によるものであり、根拠のない夢を与えるような主張は好きではないし、アジテーション的立場や告発史とは違う場所から執筆したからだと思う。

 高江洲は本書の「はしがき」でこう書いている。ぼくは「近代日本の地方統治と『島嶼』」の「アジテーション的立場や告発史とは違う場所」を好もしく感じた。昨年、400年の状況に対峙するように努めてきたが、一年も後半になると神経もささくれだってくるように思えることもあったが、そんななか年の瀬にこの本を読めたのは神経の慰撫にもなるようだった。

 高江洲は、「あとがき」でも自身について触れている。

(前略)家人に対して十分な説明ができない以上、自分がやっている研究を社会にアピールする能力を、どうやら自分は持ち合わせていないことは確かなようである。もちらん、「おこがましい」という気持ちもある反面、単に研究を血肉化していないだけの話ではないかという反省も感じる。歴史学と現実世界とのつながりを強く棟模する民衆史研究の一員のつもりだが、これでは失格だろうと思った。落ち込むと、負の連鎖というのがあるのか、高校生のときに読んだ遠藤周作の作品に「役立たず」という短縮があったことを思いだした。そのなかに、入院中の作家に、ある人から人生の悩みを聞かされ、上手く答えることができない自身を反省して、小説家の営みは、「役立たず」なのかと内省する場面がある。もちろん単純な比較はできないが、歴史家の存在意義というか、自分がやっていることの意味をフト考えてしまった。「歴史学は役立たずか」、モチベーションとしては低い気持ちを感じながら、博士論文を仕上げるという日常空間に戻っていった。もちろん、歴史学の役割という問いは、迂遠で非生産的な面もあるが、自分の寄る辺を確かめると言う意味でも、この問いをしばらく考えながら、歩んでいきたい。

 ぼくは、高江洲が「役立たず」の感覚を大事にしながら、この本などによって経済が潤い、ぼくたちに豊かな研究成果を開示してくれるのを心待ちにしている。弓削によれば、金久支庁設置の背景と大島県構想を明らかにしたのは、高江洲が初めてであった。


Chihou


 

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2010/01/22

「近代日本の地方統治と『島嶼』」11

 それにしてもこの間の名称変更は著しい。代官所からの変遷を辿ると、代官所、在番所、戸長役所、大支庁、支庁、郡役所、金久支庁、大島島庁、大島郡、である。ややこしいので、弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、この間の年表を下にメモしておく。

 ぼくはまだ「近代日本の地方統治と『島嶼』」を理解しきれているとはとても言い難いのだが、これによると、この変遷のなかでも強調されるべきは、「大支庁」と「金久支庁」だと思える。

 まず、大支庁設置(明治8年)は、その前段として「大島県」の設置構想があった。これは、大蔵省発案のもので、奄美の黒糖を直接、国家が統制したかったのである。言い換えれば奄美について国家が鹿児島県の影響を排除しようとしたのだが、それは政府の黒糖「自由売買」の布達にも関わらず大島商社の専売制を維持しようとしていたように、鹿児島県が国家の統制に対して反撥したのだ。

 大島県は構想に終わるが、その翌年(明治8年)には大支庁が設置される。これは、「殖産興業」という点から大島県構想の意図と同じ流れに属している。しかし、鹿児島県にしてみれば、奄美が鹿児島県下にあるという理由で、「大島県」とは異なり、鹿児島県としては歓迎できるものだった。事実、大支庁設置は鹿児島県令からの要請を発端としている。

 「金久支庁」(明治18年)にも、殖産興業としての地域振興の観点は貫かれており、通常の「郡」では対応できなから、郡以上、県未満の統治を必要としたものだった。しかし、島庁設置と運営費は国庫負担になっている。ここでポイントなのは、この国庫負担という側面だ。すでに鹿児島県議会では、明治13年には、「内地との経済分離」が議論されていて(『奄美群島の近現代史』西村富明)、この時点ですでに、地方税をめぐり内地と奄美とでは利害が相反する面を持っていた。これは言い換えると、西南戦争が終わり士族救済の名目は崩れ、大島商社も解体していることから、奄美の黒糖が鹿児島県にとって必須のもの、甘い汁ではなくなっていたことを意味するのではないだろうか。

 この理解が妥当だとしてだが、明治初期の経緯は、当初、奄美の黒糖が鹿児島県の経済に欠かせないものだったので、国家の方針に反してもその利益に固執していたが、鹿児島内地の近代化にとって重荷になり始めるや、国家に奄美の地域振興を要請しはじめる。この間には、西南戦争による鹿児島の過剰武士団の消滅と大島商社の解体があった。鹿児島県にとっての奄美とは「大島出兵」計画から西南戦争まで、鹿児島の過剰な武士団維持のための存在だったということではないだろうか。

 だから、ここに「殖産興業」の視点があったとしても、それが重荷になった途端、経済自立を求める方便に聞こえてしまうのである。

 ぼくは経緯を充分に把握しているとは言えず、誤解を含むかもしれないので、この判断が正しいという確証を持たない。「近代日本の地方統治と『島嶼』」は、視点を複眼化してくれるけれど、ぼくはそれにとどまる理解しかいまのところ到達できていない。もしかしたら、複眼化で充分なのかもしれないのだが。

 ただ、高江洲の考察から、明治近代国家の奄美だけではない島嶼に対する統治の不合理さを学ぶことで、鹿児島県の奄美支配の不合理さの過剰性に帰せられるものが何か、それを見極める補助線を引くことはできたと思う。

◇◆◇


1869(明治2)年
・大島、喜界島、徳之島、沖永良部島・与論島の四代官所は在番所へ、名称変更。

1871(明治4)年
・廃藩置県
・鹿児島県、政府の許可を受けずに、翌年の貢糖から大阪相場換算で石代金納とし、残糖の余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定

1872(明治5)年
・鹿児島県は専売制維持のため大島商社を作り、その契約を上鹿与人と契約

1873(明治6)年
・奄美島嶼は、在番所を戸長役所と改称
・政府、黒糖(貢糖)は現物のまま納めること、それ以外は「内地商人」と自由売買とすることを全国布達
・鹿児島県は、石代金納を主張

1874(明治7)年
・大蔵省、同年から石代金納に、九月には前年に遡っての実施を許可
・大蔵省 大島県構想

1875(明治8)年
・鹿児島県、大島に大支庁、他四島に支庁を設置

1878(明治11)年
・郡区長村編成法により、大島の大支庁は廃止され支庁に
・「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引
・大島の島民。砂糖の産地問屋方式を提唱
・1873(明治6)年の「内地商人」と自由売買とする布達がようやく実施されることに

1879(明治12)年
・内務省、四島を大島郡、喜界郡、徳之島郡、沖永良部郡、与論郡とすることを「追伸」。しかし、与論島には村数六のため、奄美島嶼全体を大隅国大島郡とする
・これに伴い、各支庁は廃止。名瀬方金久村に郡役所設置。
・一郡に一郡長として、支庁長は郡長となり、四島の支庁は郡役所出張所となる
・1879(明治12)年から1884(明治17)年のあいだに、農商務省内部から「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」提案(産地問屋方式)

1883(明治16)年
・郡役所出張所、廃止

1885(明治18)年
・郡役所、廃止。金久支庁、設置。
・金久支庁は、大島々庁と改称。支庁長は島司へ。
・県令渡辺千秋「経済分離ノ儀」は「忽ち言フ可ラサルノ惨状ニ陥リ候儀ハ当然ニ付」
・金久支庁設置、島庁設置と運営費は国庫負担
・金久支庁設置は、「内地」からの支出削減

1888(明治21)年
・市町村制により、旧熊毛郡、護謨郡は、大島郡から分離

1888(明治21)年
・「独立経済」

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」(弓削政己)から作成)

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2010/01/21

「近代日本の地方統治と『島嶼』」10

 研究書は「注」も面白かったりするが、「近代日本の地方統治と『島嶼』」もそうだ。

 西村富明『奄美群島の近現代史-明治以降の奄美政策』(海風社一九九三年一〇頁)。その他同様の視角をもった研究書として、皆村武一『奄美近代経済社会論-黒砂糖と大島紬経済の展開-』(晃洋書房一九八八年)、杉原洋「開発と地域の自立-奄美群島と奄振-」(石川捷治・平井一臣編『地域から問う国家・社会・世界-「九州・沖縄」から何が見えるか-』、ナカニシヤ出版、二〇〇〇年)、喜山荘一『奄美自立論』(南方新社、二〇〇九年)などがある。
 筆者も本章で利用する史料から差別意識が介在したことを否定するものではないが、独立経済の一因となる明治一〇年代の勧業政策を分析することで、差別原因説だけで理解できないことを指摘したいと思う。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 「差別原因説だけで理解できない」のは、ぼくもその通りだと思う。

 この点を敷衍して述べると、これまで明治期の地方自治を議論する際・中央対地方という側面からの議論が強かったと思う。だが、独立経済の議論で明らかになったように、地方(県)という空間も単一ではなく地域間格差を抱えた複雑な構造であったことがわかる。県レベルでの地方自治を考えたとき、大島郡予算の不足分を県の財政から補填して使用することと、大島郡の利益に合わないものへ大島郡の税金が使用されることは、表裏の関係にあった。大島郡への予算補填を批判する人たちは、大島郡の予算が他所へ流用されている事実を軽視し、大島郡の予算が流用されていることを問題にする人は、補填の事実を射程外に置くことになる。この二側面を無視して、一方のみ強調すると、予算をめぐる相互補完の関係という全体像の把握を困難にする。大島郡の税金は大島郡で使用するという政策は、自治に合致した行為かもしれないが、はたして、この政策は自治の精神にのみ照らして評価すべき問題なのか、という疑問に行き着く。

 「独立経済の議論で明らかになったように、地方(県)という空間も単一ではなく地域間格差を抱えた複雑な構造であったことがわかる」。この点は、奄美の困難を別の言い方で述べたものでもある。しかも、その単一でない複雑さか露顕する過剰さの一端は、日本の文化の主要な差異線のひとつがここに引かれていることに由来する。

 また、本章で使用した未見史料の歴史的価値が認められ、議論の起きたことは歓迎すべきだが、大島県の設置未遂に鹿児島本土の差別を嗅ぎ取るように差別に対し敏感に反応しているにもかかわらず、筆者が提起した独立経済指定をめぐり差別と地域振興の二面的解釈が存在したという指摘については、大島県ほど議論は起きていなかった。この点に関して、弓削政己氏は「初期明治政府の奄美島峡に対する政策について」で、筆者の論点を組み込んで、「県会、行政の名分は『差異』があっても、独立経済は『差別構造』の『打破』という側面では捉えられないのではないかという視点を有する」(六五頁)と、問題提起を行っている。

 たしかにぼくも「差別」に過敏に反応する嫌いはある。記憶がすぐに蘇ってくるからだ。それを背負った者からみると、「差別と地域振興の二面的解釈」の存在を指摘されて、理解はできても納得はできない心境に陥る。ここにいう地域振興も相当に追い詰められ、地域振興で突破するしかないものとして選択されたように見え、また他方では、ただの方便として言われただけにも見えるのだ。

さらに、喜山荘一氏がホームページ上で展開している「与論島クオリア」(http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/)のなかで弓削氏の議論に触発されて「二重の疎外」という用語から独自の議論を展開している(与論島クオリア28、二〇〇八年一〇月五日)。喜山氏の「与論島クオリア」の議論は、整理された形で前掲『奄美自立論』に収録されている。また、弓削氏の問題提起を踏まえて筆者は、改めて差別と地域振興の二面性が独立経済の性格であるという「独立経済再考」を二〇〇九年一月に韓国で「韓日民衆史研究者ネットワーク形成のためのワークショップ」で報告した。ただし、この原稿は広く公開されたものではないので、大島県をめぐる昨今の議論も踏まえて、早い時点で筆者の考えをまとめて発表したいと考えている。

 ここでぼくは自分の名前が突然、出てきて驚いた。書きなぐりのようなブログの文章を研究書の注に載せられるのはとても恐縮するのだが、まともに取り上げてもらったことには感謝したい。

 「大島県をめぐる昨今の議論も踏まえて、早い時点で筆者の考えをまとめて発表したい」とある。早く読みたい。


 

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2010/01/20

「近代日本の地方統治と『島嶼』」9

 翌年の明治20年。

「支庁ヲ置キ郡衙ヲ廃止セラレタルニ依り之ガ経費ヲ減センノミナラス支庁ノ所轄二属スル警察費モ併テ国庫ノ支弁二帰セラレンヲ以テ地方税ノ負担ヲ軽減シ収支ノ平均ヲ得タルモノヽ如シ」という評価を得ることになった。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 支庁を置くことで経費を節減するだけでなく、警察費も国庫の支出に気することで地方税の負担を軽減し収支の平均を得ることになった。高江洲によれば、「この説明から県会議員から建議された島嶼のために地方税が補充される問題に対する是正が取り組まれることになったのである」。

…風土人情ノ異ナルニ因り従テ地方経済ノ点二至テハ利害ノ関スル処得失ノ因ル処雷壌の差アリ為二県会議員等モ自ラ其所見ヲ同フセサリシヲ以テ内地議員ノ可トスル処ハ島嶼議員ハ之ヲ否トシ恰モ氷炭器ヲ一ニスルノ状況ヲ免レス然ルニ内地議員ノ多数二制セラレ百事内地ノ標準二因り左右セラル、ノ情勢アリ為メニ島嶼二適切ナル事業ヲ起サントスルモ勢ヒ得サルモノアリ加之島民ハ其利害二関セサル費用ノ負担ヲ受クルモノ亦少クナラストス……

 風土人情が異なるから、地方経済の点においても利害、得失は雷と土ほどの差があり、県会議員らも所見は同じではなく、内地議員の可とするところは島嶼議員が否とし、甚だしい相違を免れない。しかるに内地議員の多数に制せられ、万事が内地の標準によって左右せられる情勢があり、ために島嶼に適切なる事業を起こさんとするも勢いを得ない。加えて島民はその利害に関しない費用を負担することもまた少なくない。

 つまり、「内地」議員から、島嶼の経費不足を補うため他所から地方税を補充する現状を批判する動きがあり、それに対して鹿児島県令は支庁の設置など経費節減で事態の打開を図る動きがあった。このように地方税経済とは島嶼にとって経費不足を補うという利点がある一方で、地方税の用途については、島嶼の利益が代弁されない、「内地」のために島民が犠牲を被るという不平等な機能も有していたのである。

 20年8月、大島島司森岡真から提出された「鹿児島県大島島庁部下施政上に付意見書」。

「急要ナル」政策として三点あげている。第一点は、「内地一般法律規則ノ施行難キモノハ姑ク之ヲ行ハス」という法律の一律施行から現地斟酌主義への移行を求める点。第二点は、「各島二汽船航通ノ便ヲ開」こと。第三点は、先程から議論になっている「島嶼二係ル地方税ヲ分別スルコト」であった。

 緊急に必要な政策として、現地斟酌主義、海上交通を開くこと、地方税を分別すること。地方税分別を支持する理由としては、

「汽船航通ノ便ヲ与」えるためには、地方税の活用が必要であるが、島幌の地方税の分別を建議するような県会の下では、「好結果ヲ得ル甚夕至難ナリ」という現状認識があった。こうした点も踏まえ「島庁部下二要スル起業ノ如キハ経済ヲ分離スルニ非サレハ到底望ム可カラス」というように、地方税の分離を経済振興のための要因としてとらえていたのである。さらに「風災二確り」納税のために借金をするなど、「負債堆積」している「島嶼ノ地方税ヲ以テ内地ノ事業ヲ補翼スルカ如キハ頗フル允当ヲ失ス」という地方税の活用をめぐる不合理に対する批判的認識があった。このように大島島司の地方税分離政策の支持とは、島嶼と「内地」との政治的力関係を踏まえ、地方税の有効活用を目指すものであったといえる。

 汽船交通の便を与えるためには、地方税の活用が必要であるが、島嶼の地方税の分別を建議するような県会のもとでは、好結果を得るのは甚だ至難だという現状認識があった。だから、島庁部下に要する起業は経済分離をするのではければ到底望めない。

 「地方税の分離を経済振興のための要因としてとらえていたのである」と高江洲は書くが、これは島長が望ましいとしたというより、県会への失望を通じてそうせざるをえないというやむない選択ではなかったか。そのように読めるのだが。

 20年9月、県知事が「地方税分離の儀」を提出。 

この具申では、奄美諸島を「人事進化ノ度内地二劣」り、「沈輪ノ域二際会セル」土地とし、こうした島嶼の地方税を「内地ノ事業二充テルカ如キ允当ナラサル」と指摘している。さらに、県会からの批判を受けて「支庁ヲ置キ警察費国庫ノ支弁二帰シ島嶼ノ衰頽ヲ挽回シ以テ失意破落ノ民ヲ救治」しようとしたが、これだけでは「相叶ハサル」ため、「地方税規則第九条二依り訪島嶼二係ル地方税分別議按」を提出するとしている。

 奄美は、人事進化は内地に劣り深く沈んだ土地であり、島嶼の地方税を内地の事業に充てるのは理に叶っていない。県会からの批判を受けて支庁を置き、警察費を国家支出にし島嶼の衰退を挽回して失意破落の民を救治しようとしたが、相叶わざるので、島嶼にかかわる地方税を分別する議案を提出する。そう言っていると思う。

 県会の議決は、

県会の議決書は、「大島々庁所管ノ各島嶼ハ絶海ニ点在シテ県庁ヲ距ル殆ト二百里内外二捗り風土人情生計等内地ト異ナリ随テ地方税経済上二於テモ亦其利害ノ開スル所自ラ異ナルニヨリ地方税規則第九条二依り明治廿二年度ヨリ該島嶼二係ル経費ハ左二分別ス」というように簡潔な決議書である。

 大島島庁の各島嶼は絶海に点在して県庁から隔たることほとんど二百里内外にわたり、風土人情生計は内地と異なり、地方税経済においてもまたその利害が自ら異なるので、島嶼にかかわる経費は分別す。

この簡略な県会の決議書からは、県知事からの具状や島司の意見書で確認したような、地方税をめぐる「内地」と島嶼の対立の構図が不明瞭になっている。それだけでなく、島嶼にとって、地方税分離がもたらす正負の側面-県会と知事の両者で解釈の違いが生じていた地方税分離の質的違いIというものも不在になってしまった。

 形式的な文面で通過された、ということ。

 今回は「書面異状ノ趣聞属僚」ということになり名分的には奄美諸島の経済を救うために、地方税経済の分離がなされることになった。「自治経済ノ精神ヲ強固ニスル」ために取られた措置であったが、実施後は高率の税負担にもかかわらず財政規模は拡大せず奄美諸島の財政状況を厳しくした。

 確かに、地方税の分離が、「奄美諸島の経済を救うため」というのはいかにも「名分的」なものであり、「自治経済の精神を強固にする」ためという文言も方便にしか聞こえない。

 島民の負債高と財政圧迫をもたらした独立経済は、実施後たびたび否定的評価が与えられ、その廃止が述べられ、昭和一五、一九四〇)年にその役割を終えた。この独立経済は、同時代においても否定的であったが、後の研究者からも差別的と評価されたように、地方税経済の分離という政策はある意味で失敗だったといえる。つまり、地方税経済のもとでは島嶼地域の振興がはかられないとして、独立経済を行うことで「窮乏」からの脱却を目指したのだが、それが産業の停滞を押し止どめるという不幸な結果になったのである。独立経済がもっていた正負の側面のうち、負の側面に歴史は動いたといえる。ただし、独立経済は地方税経済がもたらした島嶼に対する差別的構造に着目し、それを打開しようとした点があったことを理解する必要はあると思う。

 「地方税経済のもとでは島嶼地域の振興がはかられないとして、独立経済を行うことで「窮乏」からの脱却を目指した」という経緯は理解できるのだが、しかし、経緯を辿ったあとでも、それはそうせざるをえない追い詰められた選択であり、「負の側面に歴史は動いた」というのは必然でしかなかったと思えてならない。未必の故意という言葉も思い浮かぶのである。

 奄美諸島の島庁設置と独立経済はほぼ同時期に関連性をもって進められたが、その背景には、勧業育成という自治の問題が内包されていた。勧業育成を目指す「保護」の論理と、経済格差の補填を拒否する「切り捨て」の論理が並存していたのである。

 ここの結語も分かるのだが、ここにいう「保護」も、ぎりぎりのもので、だめだと分かっていてもかばう最終選択のようなものではないだろうか。

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2010/01/18

「近代日本の地方統治と『島嶼』」8

 明治11年、三新法の施行により奄美が大島郡となって以降、どうなったか。

 「地方税経済上内地ヨリ補充ノ金額不少ヨリ県会二於テ時々経済分離ノ儀」も提出されているが、経済分離が実施されると、「島嶼ノ人民」が「惨状」に陥るおそれもあるため、その回避策として「節減ヲ加へ」ることで、同一県予算で行う現状に対する「維持ノ途」が提案された。この経費節減案は、県会の方でも「徳義上不得止」ものとして、「同一ノ経済」を継続することにしたのである。ただし、前述のように地方税補助の節減を行っている以上、数年を経たら、「施政ノ運用其宜シキヲ欠キ」、「人民産業日々衰頽シ民力歳々凋零シ土地荒廃二属シ遂二救フ可ラサルノ悲況ニ陥」ることになると警告している。このような事態を回避し、「島嶼人民ヲ安堵」し、産業を振興させるためにも、島長を設置して欲しいと訴えている。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 内地から補充している金額が不足して、県会では時々「経済分離の儀」も提出されているが、分離が実際されると、「島嶼の人民」が「惨状」に陥る危険もあるので、それを避けるため、島嶼に対する経費節減を行うことで、同一県予算で現状維持を行う案を出した。これは県会でも徳義上やむを得ずとして、同一の経済を継続することにした。

 ただし、地方税補助の節減は行っているので、このままでいったら「救うべからざる悲境に陥ることになる」のを回避するために、島長の設置が訴えられようになった。

 明治18年4月、県令渡辺千秋は内務卿山県有朋に「島長設置之儀二付上申」を提出する。

鹿児島県県下の諸島は、「渡航シ得サル場所柄」という交通不便の土地だけでなく、「廃藩以来制度ノ変更ヨリ産額衰頽二立至」と、ここでは行政組織の特例を求めるという性格上、自然災害や借金問題による「衰頽」ではなく、「制度ノ変更」に糖業の衰退を求めている。これらの事情により「施政万般本庁二於テ緩急行届兼候事情有之健二付該島々ヲ以テ大島郡ニテ統括シ十分責任アル島長ヲ置キ応分ノ権限ヲ付与措置為致度」と、当時数郡に別れていた諸島嶼を島長による一元的支配を目指す案を上申したのである。

 奄美は交通不便の土地であるというだけでなく、「廃藩以来制度の変更より産額衰頽に立り至る」という点、高江洲は「自然災害や借金問題」ではなく、「制度変更」により砂糖の産出量が減少していることに着目している。偏見が抜けないのかもしれないが、ぼくはこの「制度変更」とは、藩として薩摩の時とは異なり、政府の干渉を受けなければならない、つまり鹿児島の思い通りにだけできなくなった結果ではないかという疑問を抱く。

 この上申は採用されなかったので、5月、「大島郡二島長ノ置候儀再上申」が提出される。

「大隅国大島外二部及薩摩国川辺郡十島」は、「風土民情内地ト大二異ナルモノ有之且ツ遠隔ノ地勢往復不便ニシテ為メニ施政上難行届儀」があると、上申と同じく地理的要因を述べているが、この再上申では、それ以外の政治的要因についても述べている。この政治的要因とは、経済力の格差を前提とする県予算の不均衡な分配を回避することで、島嶼への有効な予算活用を目指すものであった。

 この再上申もされなかった。しかし、

 同年の七月に内務卿から支庁の設置が上請され、この案が採用され、これまでの郡役所が廃止され、大島郡には金久支庁が設置されることになった。

 島庁設置は採用されなかったが、結局はその流れで支庁が設置されることになった。ここで島々に置かれていた郡役所が廃止されて、金久支庁が置かれた。ところが、明治19年には、地方官管制が定められると、支庁長から島司に改められる。

 ここでの文脈からいえば、金久支庁は、県議会から発せられる経済分離の主張を背景に、奄美の産業振興を目的としたものであると読める。


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2010/01/17

「近代日本の地方統治と『島嶼』」7

 大支庁を廃止して郡役所を設置することになったが、別の問題もあった。何か。名称が無かった、というのである。大島県、大島大支庁と騒いでおきながら、郡にするに当たって名が無かった。吾輩は島嶼である。名前はまだない(苦笑)。

 しかし、これら島々は郡役所を設置する段階以前の問題もあった。つまり、これらの島々には所属の郡の名称がなかったのである。そのため、明治二年九月に鹿児島県令岩村通俊は「大島外四島国郡名称御足メ相成度儀二付上申」を内務卿伊藤博文に提出したのである。この上申書によると「都区町村編制法御布告相成候二付テハ管下大島喜界島徳之島与論島沖永良部島之五島モ内地同様実施仕度候処各島々之儀ハ従来国都ノ名称無之処二依り施行方差支候間至急何分之儀御足メ相成候」という内容のものであり、鹿児島県からは所属の国や郡の名称についての案はなかった。

 「鹿児島県からは所属の国や郡の名称についての案はなかった」というのはいかにも、である。砂糖には興味あるけど名前には興味ない(苦笑)。

内務省では一二月までにこれら島々を大隅国への所属を決めたが、郡名については確定に至らなかった。翌年の一月に法制局に提出した伺書への追加という形で部名を確定することになったが、それは「従来ノ島名」を踏襲し、各島を郡にするという案であった。ところが、この宴は法制局おいて「大島外四島ヲ以テ大隅国二属セラルヽハ内務省上申ノ通ニテ然ルヘシ但シ内務省ハ各島ヲ以テ各部ト為サントスル追申二候へ共与論島……ノ如キハ村数僅二六ツ以テ新郡ト為スニ足ラズ日本地誌提要ヲ按スルニ壱界島等四島鹿児島県二隷シ治所ヲ大島名瀬二置キ以テ諸島ノ事ヲ管ス云々此ノ例二拠り大島外四島ヲ以テ合セテ一郡ト為ス」という審査がなされ、内務省案は否決された。結局、大島外四島の郡名は、元老院会議の議論を経て大島郡に決まったのであるe以上の議論を経て、明治十二年四月の太政官布告第一毒で、大島外四島は大島郡という名称で大隅国に所属することが布告された。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 「大島郡」と決めたのは元老院だった。それぞれの島を郡とする内務省案もあったというから驚く。あんな小さな島を「郡」とみなそうとしたのはそれだけ砂糖の存在感が大きかったということだろうか。しかし、同じく与論などは村が六つしかないから(六つもあったのか!)却下されて、「大島郡」に落ち着く。

 こうした経緯はさまざまな想像をめぐらさせる。

 県のほうからも案は無かったということは、1609年前の薩摩の「大島出兵」計画にいう「大島」とはやはり奄美大島のことを指したのかもしれない。ただ、「大島」は加計呂麻島、与路島、請島を内包しているから、「大島出兵」の「大島」が、「外四島」あるいは徳之島辺りまでを含んでいた可能性も捨てきれないのではあるが。

 また、これらの経緯でも奄美のことを「大島外四島」という言い方で奄美大島の他四島を意味しているのであって、「奄美大島」とは表現されない。いったいいつ、「奄美大島」という名称は出て来たのだろうか。

 復帰のときですら、「奄美」というよりは「大島」として奄美諸島を指す言い方が目立った。それは、ここで「大島外四島」が「大島郡」となったことにより、大島=奄美大島としての大島から、大島=大島&「大島外四島」という通称もできてしまったということだろう。

 このときどこからか、「奄美郡」という提案がありそれが採用されるようなことがあれば、もう少し「奄美」という呼称が、諸島としての奄美に定着することにもなっただろう。現在、奄美といえば、諸島としての奄美を指すこともあるが、やはり大島としての奄美を含意することのほうが多く、「奄美」は南下する力を持っていない。

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2010/01/15

「近代日本の地方統治と『島嶼』」6

 大島県に続くのは、大島大支庁。大島県は構想に終わったが、大島大支庁は実現する。

史料の残存上細かいやり取りは分からないが、大島県の設置を認めた達も出されてない以上、この構想は未遂に終わったようである。ただし、その精神は幾分か継承されて、大島大支庁の設置という形で実を結ぶことになる。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 大島大支庁は、奄美を統括するものだった。

 この大島大支庁という栖憩は、大島に大支庁を置き、外の四島(善界島、徳之島、沖永艮部島、与論島)には支庁を設置するというものであった。

 奄美を県にはできなかったが、大支庁は実現した、という流れからみると、大支庁も明治政府の意思なのかと連想する。大島県構想は、鹿児島県による奄美支配の排除を想定したものだったはずだからである。しかし、大支庁はそうではない。

ちなみに、この何は、前年の一〇月に鹿児島県令大山綱良から提出された上申書に基づくものであった。

 ここでまたぼくは混乱してしまう。鹿児島からの申し出だというのか。

 この上申書も甘庶が重要な産物であることを指摘し、風早による滞納など商人絡みの借金問題の存在にも言及している。そして、先の大蔵省察申を作成するために「大蔵省官員巡回実地検査」に「不肖綱良モ官員同道大島迄巡回見聞」したところ、大山鹿児島県令が出した解決策は「官員ノ増員」による大島大支庁の建設であった。大山鹿児島県令は、この大支庁を建設する目的として三点ほどあげている。

 その三点とは何か。

 まず一点目は、「人民保護ノ道行届」かせるためであった。
 二点目は、「近来ハ外国ノ輸入糖多ク遺憾ノ至り不絶‥…・黍株植殖製糖ノ高ヲ増シ内国ノ貨ヲ他二失フノ道ヲ防」ぐためであった。
 三点目は「島民ノ幸福又砂カラス実二島々悪弊弊襲ノ久キ断絶掃擁致度」という悪習断絶のためであった。

 ぼくはいま、鹿児島県令が「人民保護」の観点を打ち出すのを、にわかには信じられない場所にいる。

大山鹿児島県令によると、大島は遠隔の地で、従来の職制では「耳目二不触事モ多シ」といった反省点があった。そのため、大島大支庁を設け、その外各島々にも支庁を設置することで、現地に密着した細かな統治ができるという意味付けを大支庁設置に求めていた。

 これはどう理解すればいいのだろうか。高江洲はこう結んでいる。

 以上見てきたように、この時期の鹿児島県下の島喚政策、つまり行政組織の新設をめぐる議論は、基幹作物である甘煮栽培の振興を中心にしたものであった。糖業を振興することで、奄美諸島の貧困問題(滞納問題への解決志向)の解決を目指した点では前節との関連があり、その延長として理解することができる。しかも、行政組織の改正という問題に最初にリーダーシップを取ったのが、大蔵省であったという点もまた注目される。この大蔵省の政治的意図(外貨補填)を実現させるために内政(地方行政)にまで関与していくところに、当時の国策を反映するものであったと指摘できる。それは、行政組織の改正による上からの強い指導による成果を期待するという意味で、「殖産興業」派の政策の一環として、この問題を位置付けることができる。

 これを読むと、大山県令の上申は、この時点での鹿児島県の意思が国家と対立するものではないことを示している。大島県であれば、鹿児島県外になり、鹿児島の利益にならないが、大支庁であれば県内であり、統治を強化することは鹿児島県の利益を損なわない。そういうことだろうか。

 しかし、大支庁は、明治一一(二八八七)年、全国に郡役所が置かれることになり、廃止されることになる。

Chihou



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2010/01/14

「近代日本の地方統治と『島嶼』」5

 明治七(一八八四)年、大島県設置案が、大隈大蔵卿から三条実美太政大臣宛てに提出される。
 そこには、こうあるという。

 ①各島従来島津家ノ所領二俣処置県之際鹿児島県ノ所椿二相成侯得共風俗言語稍中国ト不相同随テ政令治教モ難及候二付目今授産収税等其他百般ノ制度モ先ツ従前仕来ノ侭致墨守候儀二有之……
 ②島々産物ノ儀ハ砂糖第一品ニテ其次ハ米麦綜欄芭蕉布等有之候へトモ是迄藩治ノ圧制ヲ以テ多少民力ヲ致傷審候・…且人民頑愚ニシテ種芸製工ノ術ヲ不尽就中絶海ノ島峡人跡希少ノ地ニテ見聞ノ智習学ノ切ハ更ニ無之…

1.各島は従来島津家の所領で鹿児島県の所轄になったのだが、風俗、言語ともにやや中国と似ているので、政令地教も及びがたく、仕事を与えるのも税を採りたてるのもその他、百姓の制度もまず従前のまま墨守させるほかない。

2.島々の産物は砂糖が第一品でその次は「米麦綜欄芭蕉布等」があるといっても、これまで藩治の圧政があて多少民力は傷を負っている。かつ人民は頑愚で農産物を育成する術もなく、特に絶海の島嶼では人も少なく、見聞したり知識を得たりするところは更に無く。

 ちょっと訳が怪しいのだけれど、こんな意味だと思う。ひどい認識だが、こういうことなので、作業を起こし物産を繁殖させるのは到底できそうにもない。そんな評価を下していた。しかしにもかかわらず、

大島をはじめ「南島各地ノ良産」である砂糖はまた「方今輸入品ノ第二であるため、その産業振興は必要な課題であった。そこで大蔵省が出した解決案が、本節で検討しようとしている「大島二一県ヲ置」という大島県構想であった。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 と、大蔵省発の大島県設置案が構想された。これは、

こうした、実現配慮の乏しさから逆に大鳥県設置に求めていた理想像というものは、はっきりしている。そこで、大島県設置案から導き出せる、当時の大蔵省の政治的意図を確認すると、産業立国論の一環として構想していたことが分かる。

 産業立国のひとつの形として構想されたものだった。

 この設置案は九月に「内務卿大久保利通帰京ノ上御裁可相成度」という理由で、採決は延期されることになった。史料の残存上細かいやり凝りは分からないが、大島県の設置を認めた達も出されてない以上、この構想は未遂に終わったようである。

 大久保が「否」とした文書なりは見つかっていないようだが、その後の経緯から未遂に終わる。大島県設置は、当然ながら奄美が鹿児島県から分離することを意味している。これは大島商社をつくり奄美の黒糖を専売制を敷き独占しようとする鹿児島県の利害とは反するものであった。

 ぼくたちはここでふと、大久保の真意を推し量りたくなるが、邪推にもなるので先に行く。

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