カテゴリー「47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す」の3件の記事

2009/08/17

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 3

 実はぼくは、『奄美自立論』の第一稿を読んでもらったとき、「大島代官記」の「序」は、本当に島役人が書いたものかどうか、確かめる必要があるのではないかという助言を、弓削政己ではない人に受けている。そのことに触れておきたい。

 これを島役人が書いたというのはなかなか信じられない。薩摩の役人が書いて署名だけさせたものかもしれない。原典に当たらなければならないのではないか、ということだった。

 ぼくは実際にはその後、原典に当たらずに原稿を推敲し出版したのだが、そのとき考えたのはこういうことだ。

 確かに原典に当たって調べるべきだろう。特に、「大島代官記」の「序」は、何度読んでも薩摩の役人が書いたものとしか思えなかった第一印象もある文書だからなおさらそうである。しかし、それはぼくの守備範囲ではない。もう少し正確にすれば、今のぼくには、原典となりうる写本を比べ、その比較のなかから真偽を確かめる力量はない。そういう領域を自分の守備範囲にする契機もあるかもしれないが、少なくとも現状の自分にはない。現に、各写本に当たり、比較したとしても自分に謎解きができるかどかは分からない。

 ぼくはぼくが守備範囲とできるなかにおいては最大限の努力を払いたいと思う。それには先人の書いた奄美に関する理解や解説を手掛かりにするしかない。それは先人の成果を鵜呑みにするということではない。鵜呑みにするだけなら、改めて書く動機は生まれるはずもなく、その理解への違和感が、新たに書く動機になっているものだ。ぼくにしても、事実に基づいた仮説や理解を吟味の対象にすることもあれば、事実そのものを吟味の対象にすることもあるだろう。けれどそのとき、いつも手がかりになるのは、先人の残した表現の資産である。

 それを踏まえていれば、そこに後世からみて事実ではないものに基づいた判断があったとしてもそれは必然としなければならない。それが分かった段階で改めればいいと考える。全ての事実が疑いの余地なく判明した後でなければ考察は不可だとしたら、およそ新しい理解を提出することも不可能になる。では、突き詰められていないかもしれない事実があるとして、そのときは仮説はいかようにでも立ち参照すべきよすがはないのか、ある意味では無責任で構わないのかといえば、ぼくなら、過去に生き現在に生きる奄美の島人の生のリアリティをくみあげているか、それに拮抗しえているかということを、基軸にする。その意味では、今回なら、屈服の論理が体現されていることにリアリティがあるなら、そこを捉えることを第一義とみなした。

 そして原典を確かめていたら、2009年の春に出版するという計画は大幅に遅れるしかない。それよりは、この四百年間に手にされている事実や解釈をもとに、全体を見通す視座を提出したいというモチーフを優先させよう。それがそのとき、ぼくの考えたことである。

 ぼくはこうして、あの助言からそう時間を経ない段階で弓削政己による検証を手にすることができた。仮にこの検証がもう少し前になされていたら、「大島代官記」の「序」に躓くことはなく、大山麟五郎の屈折の構造を抽出するだけで済んだだろう。弓削の検証をみれば、自分もこの手間を厭うべきではなかったのではないかという内省もよぎる。けれど、ある意味では、ぼくもまたそこに躓くことのなかに奄美的なリアリティがあると思える。ぼくはそこに躓き、ことの真偽を告げられ、そこで誤りをただし、前へ進めるということだ。しかし、それはそうするしかない、というこではないだろうか。


 ぼくたちは、「大島代官記」の「序」を受け取り直す。それは、屈服の論理の原像ではない。強者の論理の原像である。


※画像は、弓削の論考に添えられた「大島代官記」と「序」の後半部分。
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2009/08/16

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 2

 ところで、ぼくにとっては弓削の成果を受け取るだけでは終わらず、ここから先に課題がある。それというのも、ぼくも「大島代官記」の「序」に多いに躓き、それが奄美の島役人が書いたものとはにわかには信じられないと考えてきた。

 不思議な文章でしょう。ぼくは、薩摩の役人が書いたものと思って読み進めたら、奄美の島役人が書いたものと解説されていて心底、驚きました。何度読んでも、奄美の島人が書いたということはなかなか納得できませんでした。どう見てもこれは薩摩の役人が薩摩のために書いたとしか思えないものだったからです。(『奄美自立論』

 しかし、これが島役人の書いたものであると見なさざるをえないとしたら、それが感じられるのは、大山も着目したように、末尾の「往古を慕うは無益と云々」の箇所だと見なした。『奄美自立論』ではこう書いたところである。

 序文のなかで、この書き手が奄美の島人であることを感じさせるのは、「今では昔を慕うことは無益というものであろう」という末尾の個所です。もともとの書き下し文では、「今に於いて往古を慕うは無益と云々」となるところです。そして、「大島代官記」の序文において、最も重要なのもこの末尾の部分だと思われます。この島役人は、仮にも奄美の知識人をもって任じるのであれば、ここで「云々」と口ごもるべきではなかったのです。彼はここで、「往古を慕う」記述を書くべきでした。もちろんこれは「大島代官記」であり薩摩の役人も目を通すものであれば、自由な記述が可能であったということはありません。琉球王国を慕う記述が可能ではないでしょうし、またぼくはそれを書くべきだと思うわけでもありません。この島役人がほんとうに奄美の島人であると仮定するならば、彼にできたことは、奄美の記憶を書くことでした。「云々」で終わらせずに、「大島代官記」の許容する範囲内で、知恵を振り絞って奄美のことを書くべきだったのです。そうすることが、どれだけ後世の奄美の島人を励まし、時勢へ抵抗する力を生み出したかしれません。

 大山麟五郎は、この「云々」に言うに言えない気持ちの断絶を見、ナショナリズムへの覚醒から薩摩支配を肯うものの、琉球への思慕を諦めた島役人の心中を代弁するのだが、ぼくはむしろ、この「云々」の口ごもりはそのようなものではありえず、ここで自分たちの記憶を書かずに口ごもったことで、奄美の知識人の屈服は決定的になったと見なした。「この島役人がほんとうに奄美の島人であると仮定するならば」、だ。

 さてところで、弓削が検証したように、「大島代官記」の「序」は素直に読んだ印象の通り、薩摩の役人の書いたものだとしたら、大山麟五郎はとんだ勘違いをしたことになる。彼が、この「序」の「日本」という言葉に奄美知識人のナショナリズムの意識の萌芽を見、懸命にそこに意義を見出そうとするあまり論理は曲芸化し、結果的に明らかになったのは「序」を書いた奄美知識人の精神構造ではなく、奄美知識人としての大山麟五郎の屈折の構造だった。ぼくはこの屈折に不可解さを感じ、その由来を知りたいと思うとき、そこに「序」の屈服の論理の原像を見るなら、島役人の屈服から大山の屈折まではひとつの系譜として見なせると考えた。

 つまり、ぼくはぼくで、「この島役人がほんとうに奄美の島人であると仮定するならば」という留保をつけながらとはいえ、大山同様、「云々」の箇所に過剰な意味を見出し、そこから屈服の論理を抽出したのであり、そこに勘違いがあるのだから、誤解を訂正し認識を更新しなければならない。ましてぼくは、「大島代官記」の「序」が、奄美の島役人の書いたものとは思えず、しかしにもかかわらずそれがそうであるとするなら、そこには屈服の論理がありそれは克服されなければならないと考えたことが、奄美の自立について考え、書く動機にすらなったのだからなおさらである。

 「大島代官記」の「序」は、奄美の島役人が書いたものではなく、薩摩の役人が書いたものである。そう見なすと、ここからはどういう光景が広がっていくことになるだろう。

 「大島代官記」の「序」が薩摩の役人の書いたもので、奄美の島役人の書いたものでないとしたら、では、そこに屈服の論理はなく、奄美に屈服の論理は生きていないことになるだろうか。それは否、である。ぼくは、「大島代官記」の「序」に屈服の論理を見るが、そこに単独の証人のようにあるのではなく、むしろ、奄美内薩摩として黒糖の収奪に多いに機能した島役人や「奄美は大和である」という自己欺瞞までして遮二無二、日本復帰へのなだれ込んだ知識人の言説や原口虎雄による思考収奪に、屈服の論理が体現された姿を見ればこそ、奄美にそれは生きていると見なし、そこから敷衍してその淵源に、あの「序」がリアリティを放って存在していると考えたのだ。

 克服しなければならない屈服の論理は生きている。

 しかし、にもかかわらず、弓削の指摘を受けてぼくたちの心が軽くなるのは、ぼくたちは屈服の論理を抱えているとはいえ、「大島代官記」の「序」が、薩摩の役人に書かれることと、奄美の島役人に書かれることとのあいだには、千里の径庭があると言うべきだからである。奄美の島役人はあの「序」を書いたわけではない。それがどれだけぼくたちの心を慰撫してくれるか。そこにあるのは、完全に思考を薩摩の史観に塗りつぶされた証ではなく、それを強いようとした強者の論理であると思えることが、どれだけぼくたちを励ましてくれるか。ぼくは、「序」の末尾に、奄美の記憶が書かれているなら、後世の人々は計り知れないほほど励まされただろうと書いたが、いまぼくたちは、これが奄美の島役人の手になるものではないということに励まされるのだ。

 ぼくは、それが奄美の島役人の手になるものだとしたら、そこに屈服の論理の原像があると見なしたわけだが、そこにあるのは実は、強者の論理の原像である、ということになる。そしてそうであるならぼくたちは、この強者の論理の原像に、否と言う自由を、いまでも持っている。小が大を敵にすべきではないことに否を言い、琉球は元来、日本の属島であるということへ否を言い、謝名親方の短慮愚蒙説に否を言い、そして何より、今となっては昔を慕うのは無益である、という判断に、無益ではない、と言うのである。

 こういう「否」の連続はまるで60年代風、あるいは「日本が見える」の新川明風だが、歴史の段階を充分に消化しながら進む時間を持てなかった奄美であれば、時間は凝縮した形でやってきうるのであるとでも言うしかない。そしてぼくは、「大島代官記」の「序」は、薩摩の役人が書いたものであると認識を修正することで、屈服に重点を置いた奄美知識人の系譜に対する認識を緩和させなければならないと思う。

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2009/08/15

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 1

 弓削政己が「直轄支配化の奄美 代官記」(「南海日日新聞」2009年8月7日)できわめて重要な指摘をしている。

 「大島代官記」の「序」は、従来、奄美の島役人が書いたものとされてきたが、そうではなく、「鹿児島役人系統」のものである、としているのだ。弓削は「序」の要約を試みているのでそれを援用しよう。

 これら史料の議論の一つに、大島、喜界島の代官記の「序」(同一文書)の評価がある。「序」は「小」(琉球)をもって「大」(島津氏。薩摩藩)を「敵と為すべからず」とまず述べる。ついで、琉球は「元来日本の属島」であり、「御当家忠国公」(島津氏)の「忠賞の御感」として、室町幕府足利義教将軍より拝領した地であると記す。しかし、三司官「蛇名(謝名)親方」の浅はか、愚かな「短慮愚蒙之計略」で「逆心を企て御当家(島津氏)に背いた」ため薩摩藩の支配を受けたとする。

 その時期は、琉球の国主尚寧の時であり、「当尚貞迄五代目」前である。以上の内容を受けて、「歎哉、禍は自ら招くという事、疑なき候故、天のなせる禍はさくべし、自らなせる災いはいくべからず」という。島津家支配の禍は、謝名親方一人の短慮に依るものである。その結果、「永く王土の類島まで、今に於いて、昔を慕うも、益なしと云々」という。

 小が大を敵にすべきではない。琉球は元来、日本の属島で室町幕府より島津氏が拝領したものである。それが謝名親方の短慮愚蒙で薩摩の支配を受けることになった。今となっては昔を慕うのは無益である、と。

 この一方的な論理について、『名瀬市誌』で大山麟五郎は、これが「代官役所に勤める島出身の役人によって、書かれたものであろうことは疑えない」として、論を展開していた。しかも、ここに「日本」という言葉が登場するのを引いて、「必ずしも納得できない新領主島津氏への服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱として、そういうナショナリズムによる大義名分が必要となった」と、ナショナリズムの概念を引き寄せるという深読みをしていた箇所だ。

 それは、「昔を慕うも、益なしと云々」の部分について、

「琉球国ハ元来日本ノ属島ナリ。」という大原則で、薩属下の現状をうべないながら、しかも古王朝に対する禁じえない慕親の情を思わずのべかけて、ロを持した島人書記の姿がそこにある。われわれもこの沈黙のもつ重みをうけとめながら、代官記の本文、いな、本文の文字に書くことのできなかったこのあとの奄美史の起伏曲折を、たどらねばならぬ。(「島津氏の琉球入りと奄美」

 と、細部にわたっていた。
 そしてぼくにしても、この大山の解釈に異様な屈折を見、これは奄美知識人の病ではないかと見たて、これが仮に島役人の書いたものであったとしたら、ナショナリズムの論理というようなものではなく、屈服の論理に他ならないとみなしてきたのだ(「島津氏の琉球入りと奄美」)。

 だが、弓削によればこれは、島役人が書いたものではなく、鹿児島の役人が書いたものである。

 琉球王尚貞5代前という記述から、これを『名瀬市誌』(1970年)は、1669(寛文9)年から1709(宝永6)年に「代官役所に勤める島出身の役人」が書いたものであり、薩摩侵攻以前の琉球国への「禁じえない慕親の情を思わず述べかけ」たものと把握する。以後、『名瀬市誌』の認識を前提にいくつかの評価がされてきている。
 結論から指摘すると、写本の代官記を検討した結果、代官記「序」を代官所勤めの島役人の認識とする議論はもともと成立しないと考える。

 写本を検討した結果、代官所勤めの島役人のものではない。

 まず、基本的なことであるが、代官記作成管轄からすると、島役人の中でも下位の書役が、代官所でかつ島役人の下で、独自に島津侵攻の琉球について歴史的評価の「序」を書ける立場にはない。
 その点で「詰役系図 在番所」のような代官所保管の原本様式を表しているとみられるものや1900(明治33)年、大島の池野田実政が写本した『大島代官記』には「序」がない。
 『詰役系図 在番所』や大島代官記各異本に共通するのは、「慶長十五一年本琉球、薩摩之御手ニ附」「慶長十五年頃琉球薩摩二渡ル」という文書である。これらの代官記の状況から、「序」は、「公文」として残る島役人の記録でない。
 「序」のある代官記2点は、いずれも代官所詰役管轄下で記載された1874(明治7)年までのもので、そのうち『大島代官記』(内容は『喜界島代官記』)は「大正四年十月廿六日ノ夜、樺山活庸ヨリ聴写」とある。その点で鹿児島役人系統と考えられる。

 まず、「島役人の中でも下位の書役」が、「独自に島津侵攻の琉球について歴史的評価の「序」を書ける立場にはない」。各異本のなかで、「序」のついているものを見ると、鹿児島の役人から「聴写」とある。

 しかも、「序」は、それ以前の1650(慶安3)年の『中山世鑑』と論理の組み立てが同じである。文言表現も「御当家忠国公」(島津氏)の代・「当尚貞迄五代目」(今の琉球王)と島津氏に対しては「御当家」、琉球王へは「当」と上下関係で述べられている。これらの文言は琉球・奄美諸島全体を統治する認識があって述べられるものである。従って、藩・詰役人系統の「序」であり、琉球支配下の「往古を慕う事は益がない」とする考え方は藩支配者が島民に押し付ける論理である。

 しかも、島津に対しては「御当家」といい、琉球王へは「当」と上下関係を示している。これは鹿児島の役人の手になるものであり、そうであるなら、大山のこだわった「往古を慕う事は益がない」という箇所は、「島民に押し付ける」支配の論理である。

 ぼくは弓削の指摘を読み、まず、やりきれなさと分厚い雲に覆われたような閉塞が和らぐのを感じる。大山麟五郎はこの「序」に、奄美知識人の最初の言葉を見て、アクロバティックな論理を駆使してその言説の意義を救抜しようとするが、意図とは別に奄美知識人としての自身の屈折を露呈したもののように読め、むしろここにあるのは奄美知識人の屈服ではないかと見なしてきたからだ。

 これが、奄美の島役人ではなく、薩摩の役人の手になるものだとしたら、話も理解もはやい。


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