カテゴリー「46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子)」の14件の記事

2009/12/30

「奄美が見えますか?」(「唐獅子」14)

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの1週間後の21日に、「沖縄・鹿児島連携交流事業」が奄美大島で開催され、沖縄県と鹿児島県の知事が「交流宣言」を行った。

 このとき奄美からは一部、抗議の声が挙がった。ぼくはこの声に賛同するけれど、これを沖縄から見たとき、不思議に思えるかもしれない。

 なぜ抗議するのか。それは、1609年から400年たった現在でも、鹿児島県は奄美の地理と歴史を封印したままだからだ。県が流布する鹿児島像を思い出せば、そこに西郷や最近の篤姫はあっても、奄美のイメージが皆無なのが分かるはずだ。それと同じで、鹿児島ではいまも、奄美は存在しないかのような存在である。だから、奄美にとって400年前の薩摩の琉球侵略は、過去の歴史ではなく、現在なのだ。

 この状況で鹿児島と沖縄の知事が「交流宣言」を行うのは、奄美を存在させないまま琉球侵略以降の歴史を過去にすることを意味する。それはあってはならないことだ。しかも、それを薩摩の直接支配の最大の拠点だった奄美大島で行うというのである。声を挙げないわけにはいかない。

 さらに翌週の28日には鹿児島の山川で「琉球・山川港交流400周年事業」が開催された。二つの事業は無関係だろうが、県知事による「交流宣言」の後、軍船を琉球へ放った港のある山川で、こんどは副知事が改めて交流を約束する流れは、政治的な意味を帯びる。そこには、大和と琉球の矛盾を担った奄美の封印により問題を強引に消去し、「侵略」を「交流」に置換する意図が浮かび上がってくるのだ。

 こうした鹿児島県の態度の淵源を辿ると、薩摩が奄美の直轄領化を幕府に内密にしたことに突き当たる。日本が薩摩の琉球支配を中国に内密にしたことはよく知られているが、その影で、薩摩は奄美を琉球から切り離し直接支配下に置きながら幕府にはそれを内密にしたことはあまり知られていない。そこに、存在しないかのような存在としての奄美が刻印されている。

 400年の年を奄美の地理と歴史を現出させる契機とする。それがぼくの願いだった。それは「奄美と沖縄をつなぐ」ためにも不可欠なことだ。

 奄美が見えますか?

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2009/12/19

「ただの唄」(「唐獅子」13)

 「異種格闘型トークセッション」が終わると、藤木勇人さんの噺へ。両親の故郷、奄美大島へ行ったときのこと。奄美ではまだ洗骨が行われているのに驚き、かつての沖縄の姿をそこに見出す。笑いのなかに哀しさを湛えて、語りは豊かにほぐされて次の部へ境なくつながっていった。

 「新感覚シマウタコンサート」は、新城亘さんと持田明美さんが奄美と沖縄のシマウタの三線、奏法、唄い方の違いを解説。そこから先、いよいよ誰も体感したことのないだろう唄の流れを聴くのだった。

 あの哀切極まりない大島の「行きゅんにゃ加那」は、徳之島で「取ったん金ぐわ」、沖縄島では「とぅーたんかに」、また沖永良部島では数え唄にもなり、哀切とは別の方へ音色が変わるのが不思議だ。

 石垣島のシシャーマ節、沖永良部島の稲しり節と徳之島の稲すり節を辿ると、徳之島と沖永良部島のあいだの音階の違いがよくわかる。

 「十九の春」の系譜では、七歳の中山青海ちゃんが「与論小唄」を唄うと、自然と手拍子と笑いが沸き起こる。続くソウルフラワーユニオンによる「ラッパ節」も出色で、かつ後半の盛り上がりを用意してくれた。

 「畦越え」では、徳之島の「畦越えぬ水節」、宮古島の「川満の笠踊り」、竹富島の「じっちゅ」、沖永良部島の「奴踊り」、の、似ているけど違う、違うけど似ている流れが面白い。そして踊らずにはいられない沖縄島の「唐船どーい」がやってきた。そして最後は「六調」へ。

 「六調」は、奄美大島と八重山のの六調が披露される。ぼくはこれまで奄美の唄会に行くと終わりが決まって六調なのを馴染みなく感じてきた。「唐船どーい」と「六調」を両方聴くのが密かな願望でそれが適った格好になったのだが、八重山のそれと聴き比べると、奄美大島の六調の激しさは意外な発見だった。

 優れた唄者と踊り手たちが、流れるように唄い継いでくれたおかげで、藤木さんの解説を挟んだ途切れない構成は、唄のつながりの贅沢な演出にもなった。もちろん最後はみんなで踊った。企画、構成した持田さんは奄美、沖縄民謡というジャンルを越えた「ただの唄」が見えたと語るが、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントが実現できたのがそれだとしたら嬉しいと思ってきた。今、ようやく手に入れた当日のDVDを観て、ぼくも同感する想いだ。(マーケター)

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2009/12/16

「旅する文体」(「唐獅子」12)

 28日の土曜日、浅草の神谷バーで開かれた、酒井卯作さんの『南島旅行見聞記』(森話社)の出版記念祝賀会にお邪魔した。

 『南島旅行見聞記』は、柳田國男が沖縄、奄美を旅したときにつけていた手帳のメモに丁寧な注釈を施して本にしたものだ。このメモは後に、あの『海南小記』として姿を現す。つまり、『海南小記』の素には、柳田のどんな見聞が控えているのか、それを知ることができるのだ。

 柳田は加計呂麻島で、「出逢う島の人の物腰や心持にも、まだいろいろの似通いがあるように思われた」。距離と時間と、「もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり目に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と、『海南小記』に書く。柳田はこれを三百年の時点で言うのだが、四百年の時点でも同様に感じ、奄美と沖縄のつながりを注視するぼくにとって、この一節は特に心に残っている。

 柳田は何を見て「似通い」を感じたのだろう。そんな関心から『南島旅行見聞記』を覗くと、たとえば「カケロマ島呑浦のおくにて、路傍の川に薯を洗ひしおりの風体全く昔のまゝ、沖縄人と同じきもの」というメモがあり、「似通い」の一つはこれだったろうかと想いを馳せた。

 『南島旅行見聞記』には、柳田門下の酒井卯作さんのエッセイが添えられている。そのタイトルは「旅する貴族」。官を辞した柳田というイメージは持っていたが、貴族のそれは無かった。しかし酒井さんは、格式の要る袴に白足袋という旅姿の向こうに貴族のイメージがあるのを教えている。酒井さんの「旅する貴族」は、官を辞した本当の理由に迫るところから、身近に肉声を聞いた人ならではの寄り添い方で柳田の素顔を浮かび上がらせる。ときに読者に問いかけ、道草をしながら、琉球に魅入られる過程に肉薄していくこのエッセイは、「旅する文体」だ。

 神谷バーでの酒井さんはしきりにこんな本のためにと恐縮してらっしゃったが、八十を過ぎてなおかくしゃくたる姿に、歩いて考えてきた民俗学者の芯を見るようだった。

 このところ四百年にまつわるイベントに神経を尖らせることが多く、勢い目の前に視野を奪われる。しかし奄美と沖縄の境界のない酒井さんの話は、こうありたい理想を見るようで安らぐ。多くの人が本を手にとってくれますように。(マーケター)


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2009/11/19

「似姿をみつける」(「唐獅子」11)

 藤木勇人さんが、「奄美に行ったら、昔の沖縄みたいだった。懐かしかったよ」と言ったとき、思わぬ角度から奄美が照らし出される気がした。

 こういうとき、「奄美、沖縄には昔の日本がある」といって民俗学が宝探しの視線を向けて、ときにはた迷惑な気分を覚えてきたのを思い出す。だが、藤木さんの発言はそうは響かなかった。沖縄の似姿としての奄美。その視点が新鮮だったのだ。

 奄美(大島)に初めて行った時、「山原だと思った」という上里隆史さんの言葉も同じだ。山と森が豊かでシマ(集落)はその裾野に小さくある、そのたたずまいに沖縄の似姿を、上里さんは見たのだ。

 また、大学の折、奄美から来た一字姓の同級生を、鹿児島からだなと漠然としか思わなかったが、奄美を知るようになり奄美は遠いものではなくなった。そう上里さんは続けた。これも同じ意味に響いてくる。

 上里さんからは、奄美には奄美の自画像が必要だという提案があり、ぼくもそう思った。確かに奄美は奄美の自画像を描けておらず、ぼくたちはそのことで過剰に疎外感を覚えてきたし、悪戦苦闘もしている。

 ぼくは藤木さんもそう思うかと投げかけると、「自画像が無いのは沖縄も同じ。沖縄の自画像と思っているのは、あれは外から作られたもの。自信がないのよ」と応える。ここでは、奄美の似姿としての沖縄が照らし出されるようだった。

 大島出身の圓山(えんやま)和昭さんは、「奄美と沖縄をつなぐ」と聞いたとき、「自分たちのシマ(島)のことを考えるのに精一杯でそんな余裕は無かった」と話す。これも奄美も沖縄もある意味で自画像は未成だという議論の後には、シマ(島)こそが考えるべき足場であるという共通の根拠として浮かび上がってきた。

 似姿という言葉に、本物/偽物という意味を込めていない。親しんできたものからみて似ているという意味だ。思えばぼくも沖縄に与論の似姿を見出し「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマを育んできた。つなぐということは似姿を見つけること。それは視点としての収穫だった。

 いま、イベントを終えてその興奮の余韻のなかでこれを書いている。マブイは抜けたような状態だが、この気づきのおかげで心身の疲労が心地いい。(マーケター) 11月15日記


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2009/11/12

「沖縄の発見」(「唐獅子」10)

 祖母やパラジ(親戚(しんせき))の話しぶりから抱く沖縄への思慕が親近感に変ったのは、80年代の後半から90年代にかけてだった。具体的にしてくれたのは、りんけんバンド、『おきなわキーワードコラムブック』、映画『ウンタマギルー』だった。

 西武百貨店池袋店の屋上で、初めてりんけんバンドのライブを観(み)たときの衝撃は生々しく覚えている。知らないはずの音楽なのに、琉球音階のメロディーとリズムは、好きだというのでは足りない、血が騒ぐほどに響いてきた。そして、歌われる言葉がある程度分かり、親近感が増す。初期のコピーの、「すみやかに沖縄の逆襲が行われんことを」というフレーズ(だったと思う)は、胸がすくようだった。

 『おきなわキーワードコラムブック』は、沖縄のことが書かれているにもかかわらず、言葉や出来事に共通性があって自分たちのことを読むように楽しめた。まぶい組の組長、新城和博が同い年だと分かって同世代的な共感も加わる。つながっている、と思った。沖縄を「沖縄」でもなく「オキナワ」でもなく、平仮名で「おきなわ」としたのも理解しやすかった。ぼくもまた、「与論」でも「ヨロン」でもなく、「よろん」と表現したい欲求があったからだ。「まぶいぐみ」に込められた意味も、ぼくにも必要なことに思えた。

 そして映画『ウンタマギルー』で、親近感は一体感まで高まった。言葉や音楽への親近感だけでなく、高嶺剛監督がその向こうに描こうとした、琉球の聖なるけだるさ、「オキナワン・チルダイ」は、それこそぼくの場合は、与論の本質として感じているものだ。それは、「アマミヌ・チルダイ」と言ってもいいもので、まさに琉球弧そのものを見るようだった。言ってみればそれは、人が動物や植物の言葉を解する世界のことだ。ぼくはもちろん話せないけれど、祖母の振る舞いはそうだとしか思えないものだったし、かすかではあってもぼくの身体もそれを知っている、そう思えるからだ。少なくともその気配をぼくは与論で感じてきた。

 これらがぼくにとっての沖縄の発見だった。しかしそこから同時に、そこに奄美は含まれないというメッセージも受け取り、それが今の「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマにも底流している。


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2009/10/25

「つながりたい」(「唐獅子」9)

 実のところ、「奄美と沖縄をつなぐ」というイベント名には何によってつなぐのかという手段が欠けている。というか明示されていない。

 もちろん、イベントの後半は、シマウタ・コンサートなのだから、唄と踊りによってつなぐのははっきりしている。しかも、奄美だけをやるのでも、八重山だけでも、沖縄だけでもなく琉球弧全体に視野を届かせたいと思っている。するとそこでは、こことそこに同じものがあるという発見と、にもかかわらず、こことそこではアレンジが違うという発見も同時に味わうことができるだろう。元となる唄をそれぞれの島が自身のものとして消化しながら、また次の島へと引き継いでいったつながりに思いを馳せられたらいい。

 しかし、唄うだけでは物足りない。だから踊るのだ。でも、唄い踊るだけでも満たされない。だから、語りの場を持とうと思っている。

 そして語りは、「奄美と沖縄をつなぐ」がテーマであって、「奄美と沖縄をまとめる」ことをテーマにしていない。つまり、政治的な共同性の議論を前提にしていない。ただ、それは、道州制などの議論が大切ではないということでも、政治的なあり方の議論を退けたいわけでもない。

 ぼくたちはいつでも、圧倒的な強者の前に自分自身を見失い、正体不明のまま彷徨うことを繰り返してきた。そして深いふかい無力感のなかに打ちひしがれてきたのだ。奄美も、そしてきっと沖縄も。

 そうなら、「まとめる」話の前に、「つながる」話をしたい。結果的に、つながらないという話になっても構わない。少なくとも、つながらなければ、まとめることもできないから。
 
 ぼくたちは、唄い踊る島が琉球弧だと知っているから唄と踊りでつなぐことはできると期待している。でも、唄い踊るだけでは満たされないとしたら、何によってつながるのか。実はそれは決して自明ではない。だからそれを探したいのだ。

 ぼくはそれがほんの少しでも見えてくれば嬉しいと思っている。

 人は、人とつながりたいと思ったとき、どうするだろう。きっと、手を差し出し、相手の手を握ろうとするのではないだろうか。東京新宿で開催する11月のイベントで、どんな手が差し出されるのか、見つめたいのだ。(マーケター)

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2009/10/19

「島をつなぐ」(「唐獅子」8)

 11月14日に東京新宿の牛込箪笥区民ホールで、「奄美と沖縄をつなぐ」と題したイベントを開催する。トークセッションとシマウタコンサートの二部構成だが、沖縄からは、うちなー噺家の藤木勇人さんや『目からウロコの琉球・沖縄史』の上里隆史さん、三線博士の新城亘さんなど、多くの方に参加していただく。当初、こんな豪華な顔ぶれになるとは夢にも思っていなかった。

 それは、初の試みだということもあるが、実のところ、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマは関心を惹かないだろうと思っているからだ。

 わたしにとって「奄美と沖縄をつなぐ」ことが切実なのは、わたしが与論島出身で、与論島と沖縄島の間の境界を理不尽さの象徴のように見つめてきたからだが、でも概して言えば、沖縄は日本を向き、奄美は鹿児島を向くものの相互には無関心で、惹きあう間柄にはなっていない。だから、小さなイベントになるだろうと思ってきた。

 しかしブログやチラシで告知をし、関心を持つ人の声を聞くうち、違う風に考えるようになっている。

 確かに奄美と沖縄は相互には無関心かもしれない。けれど実はそれは、こと奄美と沖縄に限ったことではない。島はそれぞれが世界であり宇宙である。それが島の思想であるとしたら、自分の島以外のことに無関心なのは自然なことだ。そうだとすれば、奄美と沖縄の相互の無関心はその象徴的な現われに過ぎない。必要以上に嘆くことはないだろう。

 ただ、そうだからといって、そこから引き返す必要もない。わたしは奄美と沖縄の隔たりを哀しく思う。けれど、それは巨視的に見るからであって、島伝いに辿れば、奄美の内部にも沖縄の内部にも、同じことは言えるはずだ。奄美大島と沖永良部島も、沖縄島と八重山の島々も互いに関心がないかもしれない。奄美から沖縄まで、それぞれの島の場所すら知らない島人も多いのかもしれない。

 そう受け止めると、イベントの名称は「奄美と沖縄をつなぐ」だけれど、その心は、島と島をつなぐことにある。島と島の隔たりを哀しく思うことがあれば、それをつなぎ直そうということなのだ。そのように、奄美と沖縄のどの島人にとっても共感できる場を作っていきたいと思っている。(マーケター)

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2009/09/26

「航跡は描かれた」(「唐獅子」7)

 今年の四月、冒険家の中里尚雄さんがウィンドサーフィンで、桜島から沖縄島の辺戸岬までを縦断した。
このニュースは否応なしに、ぼくをある連想へと誘った。

 四世紀前、薩摩は奄美の島々に沿って軍船を走らせ、征服していった。そして征服者は、琉球の最大拠点である沖縄島に行くまでの道すがらであると言うかのように、奄美を「道之島」と呼び始める。そこで、「道之島」という呼称には征服者による軽んじられたニュアンスがつきまとってきた。それと同時に、与論島と沖縄島の間は、つながりの海から隔ての海へと変わってしまった。

 「道之島」のそんなニュアンスが解消されるにはどうしたらいいのだろうか。

 思い浮かぶことは、大和から沖縄島に行くまでの道のりが辿り直されなければならない。軍船とは異なるものによって、しかも軍船より遅く。軍船による征服よりも深く、道のりが辿られなければならない。そうすることによって、珊瑚礁に座礁した船が大波によって再び、外洋に戻るように、 「道之島」の含意が自由になる。そんなプランだ。

 こんな想念を持つと、四世紀後の同じ時にウインドサーフィンで奄美を辿るという試みは、そのうってつけの行為に見えてくる。そう見えてしまうのをどうしようもない。

 中里さんは、トカラの島々や、奄美大島、徳之島、与論島などを辿って辺戸岬に到着した。実際には、薩摩の軍船より遅かったわけではなく、四世紀前と同じようにほぼひと月で辿ったのだが、中里さんは途中、戦闘をしたのではなく島の子どもたちと交流したのであり、それを軍船よりはるかに軽いセールボードでなしたのだ。

 戦闘ではなく交流で、軍船ではなくボードによって辿り直されるということは、「道之島」の宿命的な意味がウインドサーフィンの道の島として塗り替えられるということだ。少なくとも、そうイメージする自由が、ぼくたちにはある。

 このニュース以上にぼくは中里さんを知らない。そしてこんな意味づけは冒険家の預かり知らないことだろう。しかし、この春に描かれた航跡は、隔ての海をつながりの海に変える試みとして、ぼくたちの胸に刻まれるのだ。


 

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2009/09/08

「五つの契機」(「唐獅子」6)

 与論島と沖縄島の間の境界が、県境である以上の意味を持ってしまう背景には何があるのだろう。あるいはどのような契機が境界を強化してしまうのだろう。

 五つのポイントがあると思う。

 ひとつ目は琉球王国の成立過程で、琉球が奄美を征服したことを根拠にした奄美の反発である。特に奄美大島と喜界島は軍の派遣によって征服されたということが挙げられる。ときにそれは、「奄美は、琉球、薩摩、アメリカに支配された」という表現になって出てくるのだ。

 二つ目は、琉球王国が沖縄島を中心に形成されたので、奄美は沖縄からは付属的に位置づけられてしまうことである。本当は、奄美は宮古、八重山と同位相にあるのだが、県が異なるため付属感が強調されてしまう。道州制の議論ではときに奄美を「組み込む」という言い方になって現れたり、沖縄島を中心にした歴史観が拍車をかけたりしている。

 この二つは、表裏のように反発しあう契機をなしているのではないか。

 三つ目は、ずっと歴史は下り、奄美の日本復帰を契機に、沖縄において奄美の島人が「外国人」扱いになり差別されたというものだ。

 最近では、佐野眞一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』のなかで指摘されていた。これは奄美の復帰に伴うアメリカの政策の結果であることが見過ごされて、奄美、沖縄間の現象として注目されるのが特徴的である。

 四つ目は大和とのかかわりのなかで形成された、北が南を軽んじることに端を発するもので、奄美から沖縄に向けられる。奄美による琉球王国形成への関与という史実が浮かび上がると、これは、二つ目に挙げた、沖縄島を中心と見なすことによる、南が北を軽んじる傾向と対をなしいくかもしれない。

 そして五つ目は、奄美も沖縄も「日本人になる」ことが絶対化し、相互に無関心になったことだ。砂鉄がまっすぐに磁石を向いてしまうように、お互いに目もくれず北を向いてしまった。近年でいえば、このことが最大の要因になっていると思える。

 両者の反発や無関心はこのどこかに端を発して表出されているのではないだろうか。もちろんぼくは、認識することで克服可能なものにしたいのである。(マーケター)


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2009/08/27

「とまどう与論島」(「唐獅子」5)

 奄美の日本復帰以後、与論島と沖縄島の間の境界が、再び浮上したのは、沖縄の復帰運動においてだったと思う。

 当時、ぼくは小学生だったから運動の同時代的雰囲気を味わっていない。だが、こちら(与論島)を日本ということも、あちら(沖縄島)をアメリカということも、どちらもピンと来なかったのを覚えている。

 ところが後年、運動のさなか、辺戸岬から与論島を見て、あそこには憲法があるという言葉が発せられたのを知ってとても驚いた。最初は誤解して、あの、宮古島のオトーリと並んで知られる酒の回し飲み作法、与論「献奉」のことを指しているのかと思ったほどだ。与論島には日本国憲法がある。それは嘘ではない。しかし、日本国憲法のある場の象徴としてスポットライトを当てられると、その実感の希薄な当の与論島は、とまどうのだ。

 「日本が見える」と新川明は書いた。「与論島/よろんじま!/そこは/日本の最南端/〈祖国〉のしっぽ/日本の貧しさが/集約されて/ただよう島。」(「日本が見える」)、と。

 だが与論島は「日本の貧しさが集約されて漂う島」ではない。薩摩軍も上陸せず米軍も上陸せず(上陸すればよかったという意味ではない)、おまけ中のおまけのような島に「日本の貧しさ」は集約されない。むしろその圏外で実質的に貧しかっただけだ。それは沖縄の離島の似姿でもあったろう。あるいは、復帰運動でマスコミが殺到したのを機に、与論は日本の最南端の島として観光ブームが訪れるが、その意味では、沖縄の未来像でもあった。

 ぼくは新川明の詩に異を唱えたいわけではない。ただ、そこに線が引かれて境界があるというだけで、与論が日本の象徴になってしまう、それは意地悪なことだと思うのだ。

 辺戸岬沖の27度線近く、与論島から出た船からは「沖縄を返せ」とシュプレヒコールされた。それは日本いう立場からすればその言葉で意味は通っただろう。しかしたとえば、与論の島人がそう叫んだとしたら、違和感がよぎらなかっただろうか。誰が誰に返すのか、ピンとは来ない。むしろその叫びは、与論島と沖縄島の間にあった自然な交流が阻害されてあることへの異議だったのではないだろうか。(マーケター)


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