「奄美が見えますか?」(「唐獅子」14)
「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの1週間後の21日に、「沖縄・鹿児島連携交流事業」が奄美大島で開催され、沖縄県と鹿児島県の知事が「交流宣言」を行った。
このとき奄美からは一部、抗議の声が挙がった。ぼくはこの声に賛同するけれど、これを沖縄から見たとき、不思議に思えるかもしれない。
なぜ抗議するのか。それは、1609年から400年たった現在でも、鹿児島県は奄美の地理と歴史を封印したままだからだ。県が流布する鹿児島像を思い出せば、そこに西郷や最近の篤姫はあっても、奄美のイメージが皆無なのが分かるはずだ。それと同じで、鹿児島ではいまも、奄美は存在しないかのような存在である。だから、奄美にとって400年前の薩摩の琉球侵略は、過去の歴史ではなく、現在なのだ。
この状況で鹿児島と沖縄の知事が「交流宣言」を行うのは、奄美を存在させないまま琉球侵略以降の歴史を過去にすることを意味する。それはあってはならないことだ。しかも、それを薩摩の直接支配の最大の拠点だった奄美大島で行うというのである。声を挙げないわけにはいかない。
さらに翌週の28日には鹿児島の山川で「琉球・山川港交流400周年事業」が開催された。二つの事業は無関係だろうが、県知事による「交流宣言」の後、軍船を琉球へ放った港のある山川で、こんどは副知事が改めて交流を約束する流れは、政治的な意味を帯びる。そこには、大和と琉球の矛盾を担った奄美の封印により問題を強引に消去し、「侵略」を「交流」に置換する意図が浮かび上がってくるのだ。
こうした鹿児島県の態度の淵源を辿ると、薩摩が奄美の直轄領化を幕府に内密にしたことに突き当たる。日本が薩摩の琉球支配を中国に内密にしたことはよく知られているが、その影で、薩摩は奄美を琉球から切り離し直接支配下に置きながら幕府にはそれを内密にしたことはあまり知られていない。そこに、存在しないかのような存在としての奄美が刻印されている。
400年の年を奄美の地理と歴史を現出させる契機とする。それがぼくの願いだった。それは「奄美と沖縄をつなぐ」ためにも不可欠なことだ。
奄美が見えますか?
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