「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」6
質疑応答編。
(大橋) 喜山さんの仕事をわたしなりに整理すると、喜山さんは奄美をほぐしていくんですね。つまり、なんとなくもやもやとしていた奄美に対する気持ちや想いを、本を読みながら考えながらブログを書きながら歩きながらほぐしていくんですね。しかしほぐせばほぐすほど奄美がいいなずんでいる状態であることが分かってきた。それは喜山さんの言葉でいえば、失語状態なんですね。四百年間、奄美はこの失語状態になるではないかということを気づいた。その気づきというのが、いまの時点で大きく共感される部分があると思います。喜山さんがお書きになった『奄美自立論』ですね。本当に読まれているのは、奄美出身でありながら奄美の二世だったり三世だったりの人、それから一世でありながら奄美のことをもう一度、捉え直そうという人には非常に大きないい仕事だと思います。
喜山さんは、四百年前のことは決して昔のことじゃないんだよいうことをおっしゃいました。つまり、奄美にとってこの四百年というのは共時的なもの、つまりひとつの大きな時代のブロックなんですね。ですから、四百年前だといってもすぐ近くの話題であるということが考えられます。
次の前利さんへのつなぎとしていうと、四百年といっても近世と近代とでは、時代の位相が違ってくるとわたしは思っています。つまり、奄美が差別されてきた、鹿児島の人たちが抑圧的に出てきたというのも、実は近代に明治以降に作られてきたことが多いんじゃないかということですね。それは昔からと思いがちですけれど、実は制度的、人情的に決定的につくられたのは近代ではないかと思っています。その辺のところを詳しく見ていく必要があるんだろうと思います。
喜山さんへの質問ありますか?
Sといいます。山中さんが奄美に謝らずに沖縄に謝ったというのは、ご存知だと思うけれど、個人的な理由があったんです。山中さんは台湾で中学、出てるんです。そこで沖縄の屋良朝苗が先生でした。(中略)当時とても可愛がられて、相当、子弟愛があったと思います。だったら奄美にも触れてほしかったと思いますが、そういうこともあったと思います。だからどう、ということではないですけどね。
Jといいます。奄美の人についてですが、ウチナーンチュではなくて、ヤマトゥンチューではなくて、奄美の人が自らに対して特別表現はありますか? もしそれがあればいつから始まりましたか?
(喜山)えっと、ウチナーンチュという言葉に対してはアマミンチュという言葉が概念としては作れるんですけど、存在してはいません。アマミンチュっていう風に言おうじゃないかという運動として存在しているもので、ぼくなんかも、アマミンチュって言われると、最初は、「え、誰のこと?」と反応してしまいます。ただ、さっき「シマ(島)は生きてきた」といいましたが、このシマは最少単位の集落のことあるいはアイランドのことを指していますが、そこの言葉、たとえばぼくの場合、与論はユンヌっていうんですが、ユンヌンチュっていう言葉はあります。それはものすごくリアリティはあって、それはアイデンティティを支えてくれます。でも、ウチナーンチュのように、島(シマ)を越えて共同化していう言葉がないので、どこの人?と聞かれたときに、アマミンチュとは言えないわけです。ユンヌンチュという言葉はずっと昔からあります。
(大橋)今のテーマは非常に面白いです。ウチナーンチュという言葉はあります。それは意識的に沖縄の人が作ったということがあるんですけれども、それは奄美にはないんですよね。シマンチュとかシマッチュっていう言葉はありますけど、それは統一的な表現にはなっていません。
(酒井)総称としての自称は無くて、もともとシマっていうのは、集落、自然発生的な村落が基本ですから、そこを出ることがないのが私の理解ですね。
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