カテゴリー「45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」」の6件の記事

2009/07/12

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」6

 質疑応答編。

(大橋) 喜山さんの仕事をわたしなりに整理すると、喜山さんは奄美をほぐしていくんですね。つまり、なんとなくもやもやとしていた奄美に対する気持ちや想いを、本を読みながら考えながらブログを書きながら歩きながらほぐしていくんですね。しかしほぐせばほぐすほど奄美がいいなずんでいる状態であることが分かってきた。それは喜山さんの言葉でいえば、失語状態なんですね。四百年間、奄美はこの失語状態になるではないかということを気づいた。その気づきというのが、いまの時点で大きく共感される部分があると思います。喜山さんがお書きになった『奄美自立論』ですね。本当に読まれているのは、奄美出身でありながら奄美の二世だったり三世だったりの人、それから一世でありながら奄美のことをもう一度、捉え直そうという人には非常に大きないい仕事だと思います。

 喜山さんは、四百年前のことは決して昔のことじゃないんだよいうことをおっしゃいました。つまり、奄美にとってこの四百年というのは共時的なもの、つまりひとつの大きな時代のブロックなんですね。ですから、四百年前だといってもすぐ近くの話題であるということが考えられます。

 次の前利さんへのつなぎとしていうと、四百年といっても近世と近代とでは、時代の位相が違ってくるとわたしは思っています。つまり、奄美が差別されてきた、鹿児島の人たちが抑圧的に出てきたというのも、実は近代に明治以降に作られてきたことが多いんじゃないかということですね。それは昔からと思いがちですけれど、実は制度的、人情的に決定的につくられたのは近代ではないかと思っています。その辺のところを詳しく見ていく必要があるんだろうと思います。

 喜山さんへの質問ありますか?

 Sといいます。山中さんが奄美に謝らずに沖縄に謝ったというのは、ご存知だと思うけれど、個人的な理由があったんです。山中さんは台湾で中学、出てるんです。そこで沖縄の屋良朝苗が先生でした。(中略)当時とても可愛がられて、相当、子弟愛があったと思います。だったら奄美にも触れてほしかったと思いますが、そういうこともあったと思います。だからどう、ということではないですけどね。

 Jといいます。奄美の人についてですが、ウチナーンチュではなくて、ヤマトゥンチューではなくて、奄美の人が自らに対して特別表現はありますか? もしそれがあればいつから始まりましたか?

(喜山)えっと、ウチナーンチュという言葉に対してはアマミンチュという言葉が概念としては作れるんですけど、存在してはいません。アマミンチュっていう風に言おうじゃないかという運動として存在しているもので、ぼくなんかも、アマミンチュって言われると、最初は、「え、誰のこと?」と反応してしまいます。ただ、さっき「シマ(島)は生きてきた」といいましたが、このシマは最少単位の集落のことあるいはアイランドのことを指していますが、そこの言葉、たとえばぼくの場合、与論はユンヌっていうんですが、ユンヌンチュっていう言葉はあります。それはものすごくリアリティはあって、それはアイデンティティを支えてくれます。でも、ウチナーンチュのように、島(シマ)を越えて共同化していう言葉がないので、どこの人?と聞かれたときに、アマミンチュとは言えないわけです。ユンヌンチュという言葉はずっと昔からあります。

(大橋)今のテーマは非常に面白いです。ウチナーンチュという言葉はあります。それは意識的に沖縄の人が作ったということがあるんですけれども、それは奄美にはないんですよね。シマンチュとかシマッチュっていう言葉はありますけど、それは統一的な表現にはなっていません。

(酒井)総称としての自称は無くて、もともとシマっていうのは、集落、自然発生的な村落が基本ですから、そこを出ることがないのが私の理解ですね。

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2009/07/11

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」5

 さて、この400年を契機にしたイベントのなかで、主張されていることは、「琉球の主体性」だと思います。1609年以来、琉球は幕府や薩摩に従属的であったと言われてきたが、そうではなく、1609年から1879年までの270年間、琉球王国を存続させてきたのであり、そこには小国の論理がある、と。ぼくはこれは主張に足ることだと思いますが、この「琉球の主体性」の主張のなかでも、奄美は、存在しないかのような存在として扱われるのはお分かりだと思います。400年のイベントの成果のひとつは、かつて奄美は沖縄と命運をともにしたことを思い出させたことだと思いますが、「琉球の主体性」の主張のなか、奄美諸島は直轄領となった、以上、で終わってしまうのです。またしても。

 しかし、「琉球の主体性」の主張を奄美として受け取るなら、従来、明治維新への貢献が言われてきましたが、琉球王国の存続への貢献もあるということに気づきます。奄美が薩摩の直轄領となったことで、琉球は従属性を軽くすることができたという面もあるはずですから。奄美は明治維新だけでなく、琉球王国存続にとっても無言の支え手だったのです。

 奄美はこの理解をもとに、島人(しまんちゅ)の得意な相互扶助の気持ちとして、沖縄に向かっては、隣人としてそのつながりを伝えることで、ときに「沖縄人vs大和人」の構図が硬直化するのを和らげてあげられるのではないでしょうか。そして鹿児島には、他者として存在を伝えることで、鹿児島が維新以後の歴史を持つことを助けることもできるのではないでしょうか。それが、琉球と大和の交流地域である奄美にできることではないかとぼくは思います。

 いま奄美は皆既日食を控えています。でもこれをただのイベントで終わらせてしまうのはとてももったいないと思います。日食の後に姿を現すのは太陽だけでなく、奄美の地理と歴史が姿を現さなければならないと強く思います。

 400年のことを云々すると、そのことに対して、400年前のことを昨日のことのように言うのを驚かれたり揶揄されたりしているのをブログなどでみかけます。それはぼく分かるんですけれども、でも、400年てそんな昔のことじゃないと思います。日本にスタンスを置くと、明治維新からいままでの百数十年ですら連続した時間のなかに捉えられない、切断がいたるところにあり、歴史感覚を蘇らすのは大変な労力が要るわけですが、こと、奄美に関する場合、400年前が昨日のことのように感じられる、そういう歴史感覚というか、時代を呼吸できる感覚はものすごいアドバンテージではないかと思います。

 それは、奄美は「存在しないかのような存在」と言いましたが、それをポジティブに捉えれば、「島(シマ)を島(シマ)たらしめてきた」ことにあるんじゃないでしょうか。奄美の島々は、さっきの酒井さんの話をお聞きすると、やっぱり徳之島ってすごいなあと思うように、奄美の各島々はそれぞれの個性が際立っています。そういったことは、これからそれぞれの島(シマ)を主役にできるという強さに転化して、近代以後をどうやってつくっていくんだという課題に対して時代の貌を作っていくこともできるのではないかと考えています。また、そういうことをこれからも考えていきたいなと思っています。これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

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2009/07/10

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」4

 その上で、ぼくは進むべきベクトルを「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」と考えました。これは奄美に視点を置いた言い方です。七島灘とは、奄美の北を東へ蛇行する黒潮の流れを指したもので、海の難所を意味していました。南の県境とはいわずもがなの、あの境界のことです。この画像はたまたま与論島から沖縄から眺めた画像です。次の地図は、酒井さんの『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』から拝借してきたものです。ぼくはこの地図が大好きで、眺めるだけでも癒される感じがあります。どうしてかといえば、ここには黒潮の流線以外、余計な境界が引かれていないからです。

 「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」として言いたいのはこういうことです。たとえば、同じく鹿児島の歴史家、原口泉は、薩摩の色を「黒」と言います。「独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。」というように。ところが、こんどは奄美の人が読むであろう本では、「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」などとも書くわけです。原口は、さりげなく奄美も「黒」であると、さりげなく言うわけです。これも、配慮不要の奄美への処し方の典型的なものです。

 しかし原口がもし自分を鹿児島の知識人と思うなら、彼がすべきなのは、鹿児島には、薩摩の自然と文化と言葉の果てるところがあり、そこから先を奄美というと、積極的に言うべきでしょう。それを「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」などというのは、まさに他者不在で、奄美はますます薩摩になると言っているようなもので、こんな不気味な予言めいた言葉は拒まなければなりません。

 従来、七島灘は海の難所と呼ばれ、奄美の復帰前には、日本へ密航するのに命がけで越えていかなければならなかった海域です。いまは大型フェリーや航空機によって、七島灘は難所ではなくなったわけですが、こんな頬かむりで存在しないかのようにみなされるなら、ぼくたちは文化や思想の七島灘を浮上させなければならないと考えます。

 そして南へ目を向ければ、この400年のあいだの最もいびつな境界である沖縄島と与論島の間に引かれた境界が、県境という以上に意味を持ってしまっていることを越えていかなければなりません。奄美と沖縄をつなぐのです。柳田國男は『海南小記』で「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている。」と書きましたが、ぼくに言わせれば、四百年経ってもつながっていると感じられるのです。

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2009/07/09

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」3

 「奄美にとってこの400年とは何だったのか」。それは存在しないかのような存在と化したということであり、そうであるなら、ぼくたちはやはり姿を現す必要があるのだと思います。そのためには何が必要でしょうか。鹿児島の歴史家原口虎雄は、『鹿児島県の歴史』のなかで、「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。」と書きます。

 これ、よく聞き覚えのある言い方です。でも知識人がこう言うと、この延長で「日本にしてやった」とかそういう言い草すら出てくるわけです。ぼくはこれを強者の論理と呼んできました。強者の論理は、加害、加害者の加害です、加害を感謝の要求にすり替えて、加害の内実を不問に付すという構造をしています。これにどうやって言葉を返して言ったらいいのか、とても悩んできました。

 ところで今年は、奄美にとって400年の年でありますが、スピーチが印象的な年でもあります。2月には村上春樹のエルサレムでのとても印象的なスピーチをしましたね。そして、ぼくはその就任演説には心を動かされませんでしたが、4月の「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という大統領オバマのスピーチには心を動かされました。

 これは、従来、「原爆のおかげで戦争は終わった」としか言われてこなかったものです。この、「原爆のおかげで戦争は終わった」が、やはり加害を感謝の要求にすり替えて、その内実を不問に付すという構造をしています。そして、この強者の論理と、「核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という言い方の間には、ものすごい距離があるわけです。ぼくたちも、強者の論理に抗する言葉を出していかなければならないと思います。

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2009/07/08

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」2

 こうして、南から奄美は「存在しないかのような存在」と化すわけです。一方で、北、鹿児島からも「存在しないかのような存在」と見なされるわけですが、これはぼくたちの皮膚感覚に照らしても実感的です。それが端的に示されたもののひとつに、ぼくは山中貞則の謝罪があると思います。

 山中は鹿児島出身の著名な政治家です。山中は晩年の2002年に『顧みて悔いなし 私の履歴書』という書物を出すわけですが、そこで、こう言うのです。「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」ぼくは最初、これを読んだときとても驚きました。あの、ぼくの知っている度し難い頑迷さからすれば、薩摩の政治家が「謝罪」を言うなど不可能か、あるいはぼくが生きている間ではありえないと思ってきたからです。でも、それは今から7年も前になされているわけです。

 しかし、ぼくはそのことよりももっと驚くことがここにはあります。それは、山中は「沖縄」に謝罪しているのであって、「奄美」ではないことです。山中は謝罪の中身について、黒糖のことも触れているのですが、にもかかわらず、奄美は触れられません。どういうことでしょうか。山中は沖縄では良心的な政治家として評価されています。この本にも当時の稲嶺知事の献辞が寄せられています。その良心的な政治家が良心のありようを吐露し、まさに良心的にみえているまさにその最中のパフォーマンスの場面で、奄美は黙殺されてしまうのです。まさに奄美は「存在しないかのような存在」と化しているわけです。

 どうしてこうなるのでしょうか。ぼくは、それは「奄美は琉球ではない」と規定した直接支配が隠されたことにあるのではないかと考えます。汾陽光遠という薩摩の人が、明治7年に書いた「租税問答」という文書があります。その六十三番目の文章にはこうあります。「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」。ぼくはこれを読むと、いつもひそひそ話のように聞こえてきます。

 奄美は、お届けなしの蔵入り地だったわけです。直轄領であることを隠したということが、奄美の「存在しないかのような存在」の色合いを最もよく物語っていると思えます。ぼくはこの400年の意味を最もよく示す文章を挙げよと言われれば、汾陽光遠の「租税問答」「第六十三 道之島内地附属」を挙げます。直轄領であることを隠すことによって、奄美は存在しなかのような存在と化します。存在しないかのような存在になるということは、配慮が不要になるということにつながりますから、それが黒糖の収奪を激化させたでしょうし、近代以降も奄美を食い物にする傾向が続いたのも、理解しやすくなります。

 この、隠すということが致命的だと思うのは、それは人様の視線を浴びないということではないでしょうか。他者の視線がないということは、それはまずいんじゃないの、とか、そんなことしちゃいけないんじゃないの、と言われるきっかけを無くすということです。2007年の『薩摩のキセキ』という本のなかでは、「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」と、いうことが書かれたり、去年は原口泉が『維新の系譜』という本で、「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。」と言うわけですが、どちらも世の中は違う価値観や世界が存在している他者の存在への配慮がない、巨大な勘違いをしていると感じられます。この「維新止まり」であり他者不在の感覚は、直轄領を隠すという行為とぼくはつながっていると思うのです。

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2009/07/07

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」1

 カルチュラル・タイフーンでの発表を掲載します。「奄美を語る会」での発表と重複するところも多いですが、語り口を変えたり考えをわずかながら進めたりしたところもあるので、ご容赦ください。

◇◆◇

 喜山と申します。「やまといしゅぎり」はどうやって歌うんだろうと思っていたので、酒井さんが披露してくださった徳之島の島唄には大変、得をした気分でいます(笑)。ふだんはマーケティングをしていますが、与論島生れというバックグランドからこのテーマに関心を持ちます。

 去年、同じ場で「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」というテーマをいただいたとき、アイヌ、沖縄はいざ知らず、奄美を「まつろわぬ民」と呼ぶのは無理があると思い、失語、自失つまり自己喪失がふさわしいのではないかと考え、そう言いました。今回、「奄美にとってこの400年とは何だったのか」と問われて、それについてぼくは、「存在しないかのような存在」になった時間であると言えるのではないかと考えました。

 「存在しないかのような存在になった」。たとえば島尾敏雄が「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」と1965年に言いましたが、それは「存在しないかのような存在」を意味していると捉えると合っているのではないかと思います。その起点は、奄美は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されたことにあります。それがこの所在ない感じの発端になっていると思います。この二重の疎外の契機になったのが、1609年であり、それ以降、長い時間をかけて、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されていきました。そして近代以降、それは一人ひとりの悩みになります。近代になってぼくたちは「個人」という概念を持って、他県、他地域の人と交流するようになりました。そうなって二重の疎外は個人の悩みになったわけです。

 この悩みはどういえば、分かってもらえるだろうとよく考えるのですが、うまく言えた試しがないなあと考えあぐねるところで、思い出すのが、あの、「お国は?」と聞く、山之口獏の「会話」です。「お国は? と女が言った/さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが」、前置きが長いんですが、それに対して「ずつとむかふ」と、答える、あの「会話」です。このあと、「南方」「亜熱帯」「赤道直下のあの近所」などと応えていくわけが、肝心の沖縄とは言えないままはぐらかします。この「会話」の場面は、琉球弧の島人は必ずどこかで出会っているという普遍的な詩だと思います。

 この「会話」のような場面のことを、奄美について、山下欣一は「ぼかす」と言いました。出自をぼかす行動様式、というわけです。しかし厳密にいえば、山之口の「会話」はぴったりぼくたちには当てはまるわけではありません。ぼくたちは、もっと所在なさがつきまとって浮遊してしまうわけです。沖縄は「琉球は大和ではない」と規定され、それは奄美も同様に「奄美は大和ではない」と規定されました。

 しかし沖縄は「琉球は大和ではない」され、それを逆に、「琉球は大和ではない琉球である」と規定し返していったわけですが、奄美の場合、そこに「奄美は琉球ではない」という規定も加わっていました。それが、二重の疎外であるわけで、ぼくたちは、そういう意味では奄美は、奄美にとっての詩としての「会話」を欠いていると言うこともできます。

 でもまあ落ち込むのはさておきとして、ここに、沖縄にとって奄美が「存在しないかのような存在」になる構造も見えてきます。奄美は「奄美は琉球ではない」と規定された、これは直轄領にされたという意味ですが、これを沖縄から見ると、「奄美は琉球ではない」が、「奄美は大和である」と反転されるわけです。本当は「奄美は大和ではない」とも規定されているわけですが、その面は無視されて、「奄美は琉球ではない」から「奄美は大和である」と見なされてしまいます。そこで、「奄美は内地だから、大和だから」とかときに言われて悲しいわけですが、二重の疎外が背景にはあります。

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