カテゴリー「44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」」の9件の記事

2009/07/02

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」9

 さて、この400年に際しては、道州制の問題が付随してきたり、奄美として鹿児島に謝罪を要求するという声があったり、琉球として日本の植民地支配に異議申し立てをするという声も出ています。ぼくは今日、そういうことに触れませんでしたが、それはそういう問題は関係がないと思っているわけではなく、そこに連なる材料であると考えています。ただ、ぼくたちは戦争であれ、薩摩軍であれ、米軍統治であれ復帰であれ、いつも問題は抗いようもない巨大な波として訪れて、そこで正体を失って右往左往してきました。だから、いきなり大文字の問題として考えずに、身近なところから始めたいと思ったのです。

 ぼくはむしろ、ぼくのブログに寄せられた、「知ったところで今更どうしようもない。知らないなら知らない方が悩まずに済む」という奄美縁で本土育ちの20代の声に応えることを切実なこととして考えてみたいと思いました。これはぼくの言葉ではなく、ぼくの好きな文芸批評家の言葉なのですが、同様の問いかけに対し、彼は、「歴史を引き受ける義務はないが、歴史を引き受ける自由はある」と応えていました。

 ぼくも、同じように、奄美の歴史を引き受ける義務はないが引き受ける自由はある、と答えたいのです。ぼくにしても奄美の歴史を知らず、でもきっかけがあって調べると、そこで理解できることのなかには、自分の困難の由来をよく教えてくれるものがありました。それを知るということは、よりよく生きていくための術を教えてくれるわけです。この20代も若い奄美世代に対して、「知ったところで今更どうしようもない」かどうか、長い目で考えてみてほしいと思う点です。

 奄美の人は、自身を隠すことによって生きてきました。でも、それでは終わらないと思います。ブログをやってこの4年間の間に、ぼくは似た二つの問い合わせを受けました。自分の何世代か前はどうも奄美らしい。でも、祖父母も両親もそんなことを話したことはなかったので、ぼくは知らない。知りたくて休みを利用して島に行き、いろいろ聞いてまわったけれど、短い滞在日数もあり、知ることができなかった。ブログをやっているあなたなら何か知ってないか、というものでした。

 その声は具体的で切実でした。当然ながら知らない自分をとても歯がゆく感じました。隠す人は、苦労を自分の代で終わらせようとして隠すのでしょう。でもそのことによっては終わらないのです。知らない子はこうして奄美ルーツを探し始めるのですから。

 だから、鹿児島にいる奄美の方にも、表現をしてほしいと思います。たとえば、さきほどブログを書いているという方は一人いらっしゃいました。インターネットはたかがインターネットにしか過ぎません。でも、考えたり想像したりする世界がビジュアル化されて広がっている世界だと見なせば、そこで存在することもまたある存在感を示すことにつながります。奄美つながりのブログについていえば、奄美にいて奄美のブログを書いている人は大勢います。もう一方、奄美の外にいて奄美のブログを書いている人もいます。しかしそうやって見渡すと、鹿児島にいて奄美のことを書いているブログが少ないのに気づくのです。ブログは一例に過ぎませんが、このなかから奄美語りのブログが生まれるのを期待しています。

 最後は与論の言葉を交えて終わらせてください。とうとぅがなし。ありがとうございました。


◇◆◇

 質疑応答のなかで会場から寄せられた声。共感の声もいただいたが、照れくさいのでそれ以外を。

・奄美は戦後、沖縄に差別された。
・大山麟五郎が小学校のとき、学級のみなが「日本人」と認めてほしくて、「ワンダカヤー」と声を挙げたエピソードがあるが、自分のなかにはいまもそれに似た気持ちが残っている。中国の人に、「お前は何民族」かと聞かれて返答に悩んだ。中国の人は、「きみは琉球民族だ」とはっきり言ったが、自分は「大和民族」なのか「琉球民族」なのか、悩みに悩んで「大和民族」と答えた。が、いまでもすっきりしない。
・400年の問題は相当、大きな問題ではあるが、奄美に限らず、島出身というだけで自分も差別を受けた経験がある。奄美だけではない面もあることを覚えておいてください。

(2009/06/20、15:30-16:30
鹿児島市山下町4−18 鹿児島県教育会館3階会議室にて)

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2009/07/01

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」8

 もうひとつ、大江修造は南海日日新聞に「黒糖と明治維新」を書いています。大江は、大統領オバマが「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」として、「核のない、平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」と述べたことを引用して、黒糖の問題に結びつけています。

 このオバマ演説に関連して外国では日本こそ被爆国として、核拡散防止条約(NPT)にリーダーシップを発揮すべきであるという意見がある。
 ひるがえって奄美の黒糖問題を考えるとき、奄美人が主張を続けるべきであろう。具体的には義務教育の教科書に一行「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」と加えさせることを目標に努力することが必要であろう。

 大江がオバマの言葉を引くのは決して大げさなことではありません。それは奄美の問題として考えることができる面を含んでいます。たとえば、核に対して、これまでアメリカからは、「原爆のおかげで戦争は終わった」と言われてきていたのです。それが、「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」となったということには千里の径庭があると言うべきです。たとえば、「原爆のおかげで戦争は終わった」という言い方は、原口虎雄の口吻を思い出させます。

隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』1973年)

 これも「原爆のおかげで戦争は終わった」と同型であることが分かるでしょう。
 ぼくはこれを強者の論理と呼んできました。強者の論理は、加害を感謝の要求にすり替え、その内実を不問に付すという形をしています。オバマの発言は、この強者の論理から歩みを進めているのが分かります。
 しかし、この強者の論理は、強者の論理によってのみ支えられるのではなく、それを受ける側が、被害を感謝のにすり替え、その内実を不問に付すとしたときに成り立ちます。内実を不問に付すという構造は共通しているのです。

 そこを抜けだすという意味で、大江のいう教科書に「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」を加えるのは意味のあることであると考えます。しかし、大江が、

奄美侵攻四百年の年に当たり、このような活動を展開する好機である。教科書に「奄美の砂糖が明潜維新に大きく貢献した」と記載されることにより、長年の奄美人の心にある黒糖地獄に対する怨念は昇華する。奄美人の黒糖地獄DNAを書き換える効果がある。

 と続けるのには立ち止まる必要があると思います。

 400年に際して、怨念ばかり言っていても仕方がないという声があります。そして確かにそうだと思うので反省するのですが、しかし、怨念は怨念を止めましょうということによっては止みません。それは、正体を突き止めること、その原因があるならそれを取り除くことによって、止めることができるのではないでしょうか。そういう意味では、「黒糖」は怨念の正体のひとつではありますが、その全てではありません。変な話ですが、もし「黒糖」だけであるとするなら、明治維新のほぼ十年前に惣買入制の始まった与論の民の末裔が、こうして生き難さを感じていることは無かったのではないでしょうか。そこには、ぼくの言葉でいえば、「二重の疎外」があるという視点が必要だと思うのです。

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2009/06/30

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」7

 ところで一方、奄美のことを考え、存在しないかのような存在としての奄美を見出すと、ぼくははっとしました。なぜなら、鹿児島の他者の不在は、最大の隣人である奄美に対して向けられています。鹿児島の他者の不在と、存在しないかのような存在としての奄美は見事に対応しているわけです。しかし、そうすると鹿児島が維新止まりであるとするなら、奄美もそうだということになります。いやいやそれ以前に、奄美は1609年以後の歴史を持てないでいるのかもしれませんから発生は異なりますが、維新止まりであることは同じなのかもしれない。もっといえば、奄美は鹿児島の維新止まりの片棒をかついでいるのかもしれない。そういう内省がうまれます。そうであるなら、存在しないかのような奄美というあり方を脱することは、ひとり奄美のためだけではないということになります。

 ぼくはそれは、鹿児島を開くということだと考えます。鹿児島を開くとはどういうことでしょうか。
 たとえば、原口泉は鹿児島の文化についてこう書いています。

また、鹿児島人の誇りと自信といえば、個性的な黒い輝きを持った薩摩焼、泥染大島紬、黒麹焼酎。このほかにも、黒毛和牛、黒豚、黒マグロ、黒酢、黒潮、黒鳥、黒瀬杜氏、黒茶家(酒器)、黒の瀬戸、黒真珠、黒糖酒など数多くの「黒」が鹿児島には存在する。江戸時代から明治維新以後、黒船や蒸気機関車などの「黒」が新しい時代を象徴する色だったように、独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。(「鹿児島の文化と歴史」(原口泉、2005年)『織の海道』)

 これだけなら、なるほど鹿児島は「黒」の文化なのだと理解します。ところが原口は別の場所ではこうも書くのです。

奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。
(中略)
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、タロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。(「奄美の黒い輝き」(原口泉、2001年)『それぞれの奄美論・50』)

 さりげなく、奄美も、「黒」である、というわけですね。でも、奄美は「黒」ではありません。その前に、この言い草がどうして横暴に聞こえるかと言えば、それは400年前を起点にした境界に由来します。鹿児島本土とたとえば与論島には500キロの距離があります。500キロは、東京-大阪の距離があります。しかも海路です。この距離は、ただの空間距離を意味するだけではありません。かなり大雑把に言って、日本には大和文化圏と琉球文化圏があると言われていますが、その日本を二分すると言われるほどの大きな隔たりがあるにもかかわらず、同一県のなかにあり、しかも、琉球文化圏のほうは、鹿児島という表現のなかには、南西諸島などという地理概念で脱色化されるということに、途方もない横暴を感じます。

 原口がもし、鹿児島の知識人と自己規定するなら、彼がすべきなのは、鹿児島には、薩摩の文化が果てるところがあり、そこから先は、非薩摩的な時間と空間が広がっていること、ここでいえば、異なる「色」のあることを示すべきでしょう。気づかないだろうと、そっと同色化するなど、すべきことではありません。

 もうひとつ、山之内勉という人の文章があります。この方は、与論高校に赴任していた高校の先生で、たしかこの春から、本土に転勤されたと思います。

与論の風土は、郷土史の主役が島津氏や西郷、大久保だけではないことを教えてくれる。(中略)本土から約六百キロ離れた校舎の三階からは、もう沖縄が指呼の間に眺望できる。鹿児島県民という意識の希薄な与論の生徒は、本土規格ではない「もう一つの郷土史」への感受性が鋭敏なのだ。
「郷土史」、さらに「歴史」を考える場合、例えば与論のような政治・経済・社会・地理上の周縁部からの鋭い視線を内包化させ、歴史の重層構造を複眼思考で立体的にとらえることは極めて重要である。歴史に関与するさまざまな立場の人間への公平かつ多元的な目配りは、社会正義に不可欠の前提であり、普遍的価値への近道である。(中略)

 第一は、かの宝暦治水事件を新たに奄美群島からの視線から立体化することである。
 黒糖収奪が強化された一因に、宝暦治水による藩財政悪化があったことは容易に想像される。木曽三川に倒れた薩摩義士を顕彰するのは良い。だが、同時に、藩財政再建の人柱となった奄美群島の人々の無念も救済されなければならない。
 義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う慰霊祭など呉越同舟ではないか、という批判はあるだろうが、歴史における悲劇の連鎖、差別の再生産という視座は、宝暦治水事件に複雑な陰影を与えるのである。

 これは鹿児島の思想の画期をなしていると思います。義士の慰霊と奄美群島の人々の鎮魂を同時にという視点が生まれたことは、とても歓迎したいですし感謝したくなります。そう踏まえた上で言うなら、ぼくは二つのことを感じます。ひとつは、山之内は、奄美をマイノリティと位置づけているわけですが、奄美は人数でいえば確かに少数派でしょうが、それは人数のことであって、文化や自然は、巨大なわけです。その巨大さはマイノリティという言葉では表現できません。もうひとつは、義士の慰霊と奄美群島の人々の鎮魂を同時に、というのは、ぼくは、奄美群島の人々と薩摩の農民を同時に、そしてするのであれば義士をその後に、がまっとうな順序だろうと考えます。こうした代替案を持ちます。が、それでも、こうした発言が鹿児島の知識人から出たことは画期だとぼくは思います。

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2009/06/29

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」6

 では、400年の向こう側に行くには、奄美が「存在しないかのような存在」としてあるなら、奄美を現出させること、奄美が姿を現すことが重要だということになります。それは鹿児島を開くということではないでしょうか。

 まず、ぜひとも断っておかなければならないのは、ここにいう鹿児島とは、まず政治的共同体としての県という意味であり、また、思想としての鹿児島という意味で使っており、現にともに生活し交流している具体的な人々のことを指しているわけではないということです。人を指す場合があったとしても、思想や政治を担う個人という意味でのみ使います。それを念頭において聞いていただければと思います。 

 ぼくは鹿児島を評するによく「維新止まり」と言ってきました。明治維新以後の歴史が持てないでいるという意味です。そしてその「維新止まり」の核心にあるものとして、他者の不在と個の不在を挙げてきました。個というのは個人の不在という意味合いです。

 他者の不在というのは、たとえばこういう文章があります。2007年に『薩摩のキセキ』という本が出ていますが、そこにはこう書かれるわけです。

日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。

 これを見てぼくなどは愕然とするわけです。西郷は偉大に違いないが、「ほとんどの日本人がそう言うに違いない」というのは妄想だと感じられます。また昨年には、原口泉が『維新の系譜』という本を出しています。それは、のっけからこう始まるのです。

日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。

 これを見てもかなり不可解な印象を持ちます。明治維新がドラマであるに違いないにしても、どうしてそれが、日本人全員があたかも最大のドラマと思っているとどうしてみなせるのでしょう。ぼくは何もくさしたくて本を読むわけではありません。維新以後の歴史をつくろうとしている優れた思想に出会いたい。そう思って買って読むわけですが、のっけからこれだと大きく躓いてしまうわけです。なんというのでしょうか、自分たちの思っていることは日本人全員がそう思っているに違いないというところに、他者、つまり自分たちとは考え方や価値観の異なる人がいることが想定されていないと言えばいいでしょうか。

 去年の「ふるさと納税」の折、知事伊藤は県の政策を「第二次戊辰戦争」呼びました。これなども立場の違う人が見たらどう思うかという想像力の欠如した他者不在の見本のような言葉です。がっかりするわけです。

 個の不在は、例の「議を言うな」という言葉です。これはぼくのときとは経験の誤差があるかもしれません。現在でも威力ある言葉なのか、そうではなくなっているのか、つぶさには知らないので、誤差があったら教えてください。ここでは、相互の対話により物事をよくしようという機運がないことを指しています。

 ぼくは、県あるいは思想としての鹿児島には、この他者の不在と個の不在を感じてきました。それが維新止まりの核にあるものだと思っています。


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2009/06/26

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」5

 他にも奄美の形容になったのは、山下欣一のいう「付録」があります。

 あの著名な吉田東伍編纂『大日本地名辞書』続篇「北海道・樺太・琉球・台湾」の初版刊行は一九〇九年明治四二)であり、「琉球」の項目を担当したのは東恩納寛惇であった。
(中略)この辞書を開くと「奄美」は「付録」として「琉球」の末尾につつましくその座を占めている。沖縄でもなく、鹿児島でもない奄美は、いつも「付録」でしか処理できないということを示している。(「奄美人のアイデンティティをめぐって」(山下欣一、1989年)「新沖縄文学 NO.81」)

 この、付録は、沖縄にとっても付録であり、鹿児島にとっても付録という意味です。これも、存在しないかのような存在になるということは、その前段にどういう状況があるのかを教えてくれます。それが「付録」です。また、山下は出自をぼかすという意味で、「ぼかす」という形容もしてきました。

 とにかく奄美は、「負」として位置づけられる。奄美の伝統的な慣習・信仰は、未開・野蛮・迷信であり、前世紀の遺物として早急に奄美人が脱却すべきものとして規定される。それでは「正」というのは、なにかといえば、それは身近かな鹿児島であり、それに連なる日本本土のそれであった。だからして、奄美を風化し、消去すること、日本人として生きることが奄美の教育の目標として高く掲げられることになった。奄美の明治・大正時代が近代化への準備、すなわち胎動の時期とすれば、昭和の前半は、皇民化の時期とでもいうべき時代であった。
 奄美人の出自を「ぼかす」という行動様式は、いうならば時代が、教育が生みだした奄美の近代の産物であったといえる。

 存在してないかのような存在であるという背景を置くと、「ぼかす」意味がよく分ります。自分にとってはありありとしているのに、相手にはそうでないだろう、そこでぼくたちはぼかすわけです。

 もうひとつ、山下欣一は、2年前の『しまぬゆ』の冒頭で、この年を契機に、奄美諸島はその姿を南海上に没するのである。」と書きましたが、この直感的によく分かる「没する」という意味は、やはり、存在しないかのような存在としての奄美という素性をよく表しています。

 「付録」「ぼかし」「没する」という形容で表される奄美とは、この、存在しないかのような存在としての奄美という意味ではないでしょうか。
 
 ぼくは、この400年について、どれかひとつ大事な文書を挙げるとしたら、「道之島内地附属」のことを挙げるでしょう。それはいずれ大島経済のときに、「内地経済からの分離」という言葉に変わります。つまり、内地への附属と内地からの分離です。ぼくたちはこの、附属と分離に大いに煩わされてきた民でもあります。

 1609以後の核心とは、「御届けなしの蔵入り地」ということ、つまり隠された直接支配地であったことであり、それは「存在しないかのような存在としての奄美」という現在形であるということだと、ぼくは考えます。

 さらにもうひとつ、存在しないかのような存在とはどう扱われるのか、格好の例があります。昨年出た『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』のなかで佐野眞一は政治家、山中貞則の発言を引いています。

 結局、島津は徳川時代に入って間もない慶長十四年(一六〇九年)、武器を持たず文字どおり徒手空拳の琉球に攻め込み、支配してしまった。以後、島津は琉球を通じて密貿易をし、とりわけ黒糖の一手販売で儲けたという。ゆえなく島津に侵略され、厳しく年貢を取り立てられ、島津の参勤交代の際には中国人の服装で上洛させられるという屈辱を味わったため、沖縄の人たちは本土の中でも鹿児島縣には特別の感情を抱いている。
 島津義久の書簡は薩摩藩にもともと琉球侵攻の意志があったわけではないことを推察させるものだった。とはいっても侵攻の事実に変わりはない。すでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。

 ぼくはこれを読み、心底、驚きました。ぼくの経験値からいって、その度し難い頑迷さからすれば、薩摩の共同意思が、謝罪を口にするなど不可能である、仮に可能であったとしても自分が生きているうちにはないだろうと思ってきたからです。しかし、ここであっさりそれは実現されているようにみえます。

 ところが一方、別の驚き、そしてこちらの驚きのほうが大きいわけですが、山中はこの謝罪を沖縄に向かってしているわけで、奄美に対して行っているわけではないからです。特に、「とりわけ黒糖の一手販売で儲けた」ことは奄美に対して向けられるべきですが、山中は奄美を素通りして沖縄に向かっているのです。沖縄では、山中は良心的な政治家として感謝されています。ここに、存在しないかのような存在として奄美の影をぼくたちは見ないでしょうか。ぼくたちは、山中が良心的と評価を受ける最中にも黙殺されているのです。ぼくはここにいるときも顔くらいしか山中のことを知りません。山中貞則の肉声を知っている方のなかには、奄美への触れ方を知っている方もしるかもしれないので、もじご存知でしたらぜひ教えてください。

 ぼくは佐野が引用している山中の発言の原典を見たいと思い、探しました。ところが、この本は市販されていないので、すぐには手に入りません。国会図書館にもありませんでした。ぼくはあちこち問い合わせてこの本、『顧みて悔いなし 私の履歴書』(2002年)を手にすることができました。どうして見たかったのか。佐野の引用外の箇所に奄美への言及がないか、確かめたかったからです。しかし、ぼくの見落としがなければ、残念ながら、本全体を通じても、「奄美」の二文字はありませんでした。存在しないかのような存在であるとはどういうことなのか、ここにも示されていると思えます。

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2009/06/25

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」4

 奄美論を読むのは驚きに満ちみちていました。それはまず、自分は「二重の疎外」を自分の沈静剤として自分のためだけに考えた概念でしたが、それは奄美のことではないかと思うことができました。そして、なおかつ、1623年の『大島置目之条々』や1728年の『大島御規模帳』などをたどると、「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」という二重の疎外は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という順番で構造化されたことを知ることもできました。400年前から続く歴史を知って今への影響を考えたわけではありません。自分が肌で感じてきたことは歴史的な由来を持つこと、長い時間をかけて構造化されてきたのを知ったのです。それはとても驚きでした。

 でも驚くのは早くて、その先がありました。歴史を知ることによってしか分からなかったのは、二重の疎外が隠蔽もされていたということです。隠されていたわけですね。でも、隠されていることが露出する、見えない関係が見えるときがありました。それは漂着のときです。漂着といえば、不測の事態です。これは不測の事態にしか隠されているのが露呈することはなかったということと、にもかかわらず不測の事態である漂着は珍しい出来事ではなかったことが同時に物語られていると思います。

 たとえば、『薩洲人唐国漂流記』を見ると、薩摩の船に漕ぎ手が足りないので、沖永良部の人を二人乗船させたときがありました。ところがその船は大風で漂流します。雨を飲み水にしてなんとかしのいでいると、向こうに陸が見えてきます。近づいてくると、どうも中国じゃないかと気づくわけです。で、考えるわけですが、大和人のなかに琉球人が混じっていてはいかがなものか、と、いかがなものかというのは、要するに、中国に対して隠していることが露呈しはしまいかということですね。で、どうしたか。沖永良部の二人の髪を剃って、時代劇でよくみる月代にして、名前も登世村を、なんでしたっけ、そうそう、村右衛門、島森を島右衛門と名づけさせるわけです。そして、一同薩摩の者だと自己紹介して事なきを得ています。

 最近の南海日日新聞で、渡辺美季(「日本人になりすます琉球人」)が同じような事態のときに、金城さんは金右衛門、呉屋さんは五右衛門にしたというのが紹介されていました。呉屋さんが五右衛門ですよ。これ、笑っちゃいますよね。お笑いのコントさながらじゃないですか。でも、笑えるのはコントを思い出すからで、これ現場のことを考えたら、沖永良部の人は命がけで演技をしているわけです。これは自己を消去して対応するしかないわけです。人形のように振舞わされているわけですよね。でも、これも思い当たる節があるわけです。鹿児島で奄美の人が身を隠すようにしてきた、その隠すという所作につながっていると思えるからです。これも、歴史が過去ではなく、現在のことだと思えることです。

 まだあります。二重の疎外の隠蔽は琉球と日本が中国に対して行っていたことですが、こと奄美に関しては、薩摩は日本に対しても隠していたのです。汾陽光遠(かわみなみこうえん)という人が明治七年に書いた「租税問答」という文書があります。その六十三は「道之島内地附属」と題されています。

 問て日、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て日、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし(汾陽光遠『租税問答』)

 ぼくはこれを読むといつも内緒話のように聞こえてきます。「然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て日、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」。ひそひそと声が聞こえてくるようじゃないですか。ぼくはこれを見たとき、いろいろなことが氷解する気がしました。そういうことだったのかと思ったのです。奄美は、直接支配地でしたが、ただの直轄領ではない。隠された直接支配地だったのです。「御届けなしの蔵入り地」です。

 これを読んでぼくは、奄美にさまざまに言われてきた形容の意味が分かる気がしました。たとえば、島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた。」と言いました。島尾の南島エッセイはいろんな人に気を使っていると思えるのですが、ここで「本土から軽んじられると」というのは主にどこの人のことを言っているのか、ぼくたちは痛いほど分かるはずです。

 で、島尾のいう「値打ちのない」ことの意味が、隠された直接支配地ということのなかから見えてきます。それはつまり、奄美は存在しないかのような存在であるということではないでしょうか。値打ちがないということが、存在してないかのようなという意味だと受け取ると、実感的にも分かります。

 汾陽光遠は薩摩の人ですが、明国から来た人で歴代、島津家の重役に登用されていて、光遠はその七代目に当たるということです。薩摩の人でありながら、外部からの視線が入った文章を残しているのは、明から来たという来歴のなせる技ではないかと思われます。

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2009/06/24

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」3

 そのときのぼくの鹿児島に対する態度はこうです。
 村上龍の小説に『69』があります。これは彼が佐世保で高校生のときに暴れた?経験をもとにした痛快な小説ですが、そのあとがきにはこうあります。今日はご年配の方も多いので、不快に感じられるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。

 これは楽しい小説である。
 こんなに楽しい小説を書くことはこの先もうないだろうと思いながら書いた。
 この小説に登場するのはほとんど実在の人物ばかりだが、当時楽しんで生きていた人のことは良く、楽しんで生きていなかった人(教師や刑事やその他の大人達、そして従順でダメな生徒達)のことは徹底的に悪く書いた。
 楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。
 数少ない例外の教師を除いて、彼らは本当に大切なものをわたしから奪おうとした。
 彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。
 そんな状況は、今でも変わっていないし、もっとひどくなっているはずだ。
 だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という権力の手先は手強いものだ。
 彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。
 唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。
 楽しく生きるためにはエネルギーがいる。
 戦いである。
 わたしはその戦いを今も続けている。
 退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう。
 『69 Sixty nine』(村上龍、1987年)

 鹿児島の特異性に対する思いを別にすれば、ぼくはほぼこれと同じ気持ちでしたし、励まされもしました。で、ぼくもここにあるように笑って生きていこうと、それが復讐であると考えてきました。

 ところが、ぼくは与論島出身なので、与論への想いは切れません。それを胸のうちに抱えるだけでは収まりがつかなくなって4年前でしょうか、ブログを書き始めました。みなさんのなかで個人的にブログを書いてらっしゃる方はいますか? あ、お一人いらっしゃいますね。ブログは不思議なもので、ブログを通じた縁ができ、奄美や沖縄とのつながりが生まれるようになりました。それはとてもうれしかったのですが、同時にわが与論も鹿児島の行政下にあることが否応なく分かってくるわけです。

 たとえば、去年の「ふるさと納税」に関する報道。最初、「県が窓口を一本化し、県が四割、各市町村が六割を受け取る」となっていました。ぼくは愕然としましたが、同時に激しい既視感も覚えるわけです。いかにも鹿児島らしいと。これは何も奄美に対してのみ向けられた政策ではないですが、こんな政策下に与論もあるということに暗澹たる気分になるわけです。何も変わっていないし何も終わっていない。そう思いました。で、南方新社の向原さんのお誘いに乗っかるように本を書くのをきっかけにして奄美論の本をたどってみました。ぼくはもともと本は好きですが、奄美論というより、琉球弧論というか、奄美も沖縄もひっくるめて見る議論に惹かれてきたので、奄美自体にフォーカスしたことはあまりなかったのです。

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2009/06/23

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」2

 ぼくは小6、中学、高校とここの学校を出ましたが、友人からはいわゆる嫌な思いを直接的には受けていません。シマンシや島流しという言葉は耳にしましたが、彼らも親や年長者が使っているから使っている感じで、直接ぼくが面罵されるということはなかったのです。でも、それは幸運なことだったろうと思います。というのも、ぼくの同年代の奄美の人に聞けば、たいがい激しい喧嘩をしてきているからです。ぼくの感じ方は、下に続く世代のさきがけだったかもしれません。

 しかし、友人は親切でしたが、息苦しさを感じていました。教師や学校ともしばしば衝突しました。でも、ぼくはその息苦しさの由来も衝突の理由もはっきり分かりませんでした。ぼくたちの世代は、戦争はもちろん学生運動も経験していません。つまり、自分の悩みを横のつながりで共有できる言葉にする空気は全くなかったのです。ですから、ぼくの悩みが誰かと共有できるものだとは思わず、ひたすら孤立した悩みになったわけです。

 いま思えば、ぼくの友人には島の出身者もいれば、親のどちらかが奄美、沖縄である人もいました。ぼくはどちらかといえば、彼ら彼女らと親しくなりやすかったと思いますが、お互いの会話のなかに、島の話題が出ることは、まず無かったです。それは、積極的に避けられているわけではないにしても、どう言葉にすればいいのかわからなかったのだと思います。ぼくたちは、顔つきや人懐っこさなどから、惹かれあって、かすかな気配を分かち合っていたのかもしれません。

 それでぼくはただただここを出ることを考えたわけですが、出たころには、もう毒舌家が一丁できあがっていました。何を見ても聞いても気に入らず、とにかく毒ついていました。ニュースを見ればコメンテーターの発言に、大学に行けば友人に毒つきました。得たいの知れない憎悪がとぐろを巻いていて持て余しました。いまでも毒舌モードになると流暢になるのに驚きます。当時、ときあたかもバブルの前期ですが、本当に時代の空気とは不似合いな感覚でした。

 けれどそんな体たらくであったとしても齢は重ねるもので、結婚して子どもができたとき、この憎悪の垂れ流しの姿を子どもにさらすわけにはいかないと思い、この生き難さはどこからやってくるのか突き止めたくて、書く作業をしました。最初は自己批判から始めました。しかしそれだけではどうしても収まりきれないものがあるのを感じ、それが鹿児島批判として降りてきました。

 そして郷中教育や薩摩武門のあり方などを知っていく中で、ぼくは、当時は与論を主体にして考えていましたので、「与論は沖縄ではない、鹿児島でもない」という言葉を見出しました。ぼくはそれを「二重の疎外」と呼びましたが、どうやら沖縄からも鹿児島からも疎外されてあるという関係の構造が、生き難さの中身になっていると掴めたような気がしたのです。実際そのおかげで、これは大きな沈静剤になってくれ、少なくとも無闇に毒づかなくすることはできました。他愛ないですが、主観的には必死だったんでしょうね。

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2009/06/22

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」1

 20日、「奄美を語る会」で話したことを抄録したい。参加していただいた方は300円を支払って聞いているのですが、場内の空気や橋口さんの話を載せるわけではない、ということでお許しください。

◇◆◇

 こんにちは、喜山と申します。ぼくは1963年の与論島生まれです。

 鹿児島で人前で話すのは、高校のとき以来です。これまで鹿児島で人前で話すことがあるとは夢にも思っていませんでした。ただ、鹿児島で奄美のことを話すのであれば、話は別です。そういう意味でこいういう機会をくださった仙田さんに感謝いたします。「奄美を語る会」が和眞一郎さんらによって始められたのは1981年と聞いていますが、ぼくはその頃、ここを出たいという一心でいました。とにかく鹿児島を出たい、と。もしあのとき、「奄美を語る会」を知っていれば、出たいというだけではない気持ちももてたのではないかと反省します。

 反省するということにはもうひとつこういうこともあります。ぼくは学生になって鹿児島を出てからは、帰りたい場所といえば与論でしたから、しょっちゅう与論に帰りました。しかも行き方も、鹿児島を経由していくと気分的にきついものですから、那覇を経由して、那覇を経由すると気分的にもいいので、那覇経由で与論に行きました。島では、帰りは親に会って帰るのかと言われましたが、いれるだけ与論にいて、また那覇経由で東京に戻るなんてことをしていました。

 ところが、二年前、父が突然、他界いたしました。何の予告もなく、突然のことだったのです。今回、鹿児島にいるのも父の二年祭にきたのでした。ぼくは与論に行くことばかり考えてきたのですが、思い違いをしていたとすれば、親はいつまでも元気ということです。そこで自分の生き方を反省させられました。ぼくにとって鹿児島はいたくないのにいなきゃいけないところだったわけですが、だからなるべく行かないで済ませてよかったのかと思ったのです。

 そう思うと、もうひとつ気づくことがあります。ぼくは今回、お誘いを受けてまたとない機会と、うかうかと引き受けてしまったわけですが、その際、テーマはやっぱり1609年のことだろうと考えました。今年、400年をめぐって各地でイベントが開かれています。那覇、大島、徳之島、沖永良部島など、そして年の後半からは東京などでもあるようです。

 しかし、よく考えてみると、400年のことは、ここ鹿児島で語られるのがもっともふさわしいひとつではないでしょうか。なぜなら、400年の意味を、最大重力で引き受けてきたのは、ほかならぬ、鹿児島にいる奄美の人だからです。そしてそうであるなら、ぼくはやっぱり語るべき主役ではないと思います。本来であれば、みなさんが話しをして、ぼくがそれを聞くというのがあるべきあり方だろうと思います。だから語るべき主役ではなく、主役が語る機会があることを願いますが、今回は、鹿児島を通過した者としてご容赦ください。

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