「奄美にとって1609以後の核心とは何か」9
さて、この400年に際しては、道州制の問題が付随してきたり、奄美として鹿児島に謝罪を要求するという声があったり、琉球として日本の植民地支配に異議申し立てをするという声も出ています。ぼくは今日、そういうことに触れませんでしたが、それはそういう問題は関係がないと思っているわけではなく、そこに連なる材料であると考えています。ただ、ぼくたちは戦争であれ、薩摩軍であれ、米軍統治であれ復帰であれ、いつも問題は抗いようもない巨大な波として訪れて、そこで正体を失って右往左往してきました。だから、いきなり大文字の問題として考えずに、身近なところから始めたいと思ったのです。
ぼくはむしろ、ぼくのブログに寄せられた、「知ったところで今更どうしようもない。知らないなら知らない方が悩まずに済む」という奄美縁で本土育ちの20代の声に応えることを切実なこととして考えてみたいと思いました。これはぼくの言葉ではなく、ぼくの好きな文芸批評家の言葉なのですが、同様の問いかけに対し、彼は、「歴史を引き受ける義務はないが、歴史を引き受ける自由はある」と応えていました。
ぼくも、同じように、奄美の歴史を引き受ける義務はないが引き受ける自由はある、と答えたいのです。ぼくにしても奄美の歴史を知らず、でもきっかけがあって調べると、そこで理解できることのなかには、自分の困難の由来をよく教えてくれるものがありました。それを知るということは、よりよく生きていくための術を教えてくれるわけです。この20代も若い奄美世代に対して、「知ったところで今更どうしようもない」かどうか、長い目で考えてみてほしいと思う点です。
奄美の人は、自身を隠すことによって生きてきました。でも、それでは終わらないと思います。ブログをやってこの4年間の間に、ぼくは似た二つの問い合わせを受けました。自分の何世代か前はどうも奄美らしい。でも、祖父母も両親もそんなことを話したことはなかったので、ぼくは知らない。知りたくて休みを利用して島に行き、いろいろ聞いてまわったけれど、短い滞在日数もあり、知ることができなかった。ブログをやっているあなたなら何か知ってないか、というものでした。
その声は具体的で切実でした。当然ながら知らない自分をとても歯がゆく感じました。隠す人は、苦労を自分の代で終わらせようとして隠すのでしょう。でもそのことによっては終わらないのです。知らない子はこうして奄美ルーツを探し始めるのですから。
だから、鹿児島にいる奄美の方にも、表現をしてほしいと思います。たとえば、さきほどブログを書いているという方は一人いらっしゃいました。インターネットはたかがインターネットにしか過ぎません。でも、考えたり想像したりする世界がビジュアル化されて広がっている世界だと見なせば、そこで存在することもまたある存在感を示すことにつながります。奄美つながりのブログについていえば、奄美にいて奄美のブログを書いている人は大勢います。もう一方、奄美の外にいて奄美のブログを書いている人もいます。しかしそうやって見渡すと、鹿児島にいて奄美のことを書いているブログが少ないのに気づくのです。ブログは一例に過ぎませんが、このなかから奄美語りのブログが生まれるのを期待しています。
最後は与論の言葉を交えて終わらせてください。とうとぅがなし。ありがとうございました。
◇◆◇
質疑応答のなかで会場から寄せられた声。共感の声もいただいたが、照れくさいのでそれ以外を。
・奄美は戦後、沖縄に差別された。
・大山麟五郎が小学校のとき、学級のみなが「日本人」と認めてほしくて、「ワンダカヤー」と声を挙げたエピソードがあるが、自分のなかにはいまもそれに似た気持ちが残っている。中国の人に、「お前は何民族」かと聞かれて返答に悩んだ。中国の人は、「きみは琉球民族だ」とはっきり言ったが、自分は「大和民族」なのか「琉球民族」なのか、悩みに悩んで「大和民族」と答えた。が、いまでもすっきりしない。
・400年の問題は相当、大きな問題ではあるが、奄美に限らず、島出身というだけで自分も差別を受けた経験がある。奄美だけではない面もあることを覚えておいてください。
(2009/06/20、15:30-16:30
鹿児島市山下町4−18 鹿児島県教育会館3階会議室にて)
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