カテゴリー「43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』」の17件の記事

2009/05/19

「なぜ泣かなくなったか」

 「弔い泣き」の抑制について。

 最後に、なぜ泣かなくなったかという大きな問題がある。
 まず第一に、組織的な宗教が介在すると、弔い泣きは抑制されていく。徳之島では僧侶や神主が来るとクヤは遠慮される。日本復帰にともない、一九六〇年代頃よりその傾向が強くなったという。思い思いに発せられていたことばが、統一した祭式のことばに収赦されてゆく、とみることもできよう。
 第二に、日本本土からの親族の目にどう映るか、といった配慮も目立つ。ヤマトとの通婚が増え、葬式においても外部からの眼差しを意識せざるをえないのである。「歌なんかうたったりして、はしゃいでいるようでおかしい。喪主なんだから静かにしてなさい」とある母親は娘から言われたという。厳粛にすべきだという日本本土の規範の内面化がそこにみられ、世代による文化ギャップも大きいのではないだろうか。

 両方とも外的な要因として理解できる。大和に対する劣位意識と二重の疎外を踏まえれば、「泣き」の抑制は想像に難くない。

 第三に、火葬の普及という現在進行中の葬制の変化があげられる。琉球弧の葬送歌では遺体の存在が重要である。「生きているように」遺体に接するアニミズム的な観念が強いことは先に述べた。ところが火葬が普及し瞬時に骨化するようになると、そうした観念はかわらざるをえないだろう。奄美・沖縄共通して、火葬すると「さっぱりする」という言い方があることは注目される。土中だと骨も土色に染まるが、すぐに火葬すれば白くきれいな骨が得られるとも聞く。「さっぱりする」とはきれいに白骨化したことへの安堵感なのか、あるいは名残や情念が溶けてなくなるということなのだろうか。ともかく死生観の変化を象徴する言説のように思われてならない。

 風葬的な観念が火葬になることで被る影響は何か。それは、風葬における生者から死者への移行の時間性が消去されるということではないか。

 遺体がないと実感が湧かない、火葬骨では「情け」がない、というのが正直なところだろう。しかし与那国島では、火葬骨に対してあたかもそこに死者が横たわっているかのように声かけがなされていた。ちょうど変化の渦中にある二〇〇〇年(平成一二)の葬儀だ。島内には火葬場はないが、島外に運び火葬されて戻ってくる。同年に、そうしたケースがはじめて埋葬数を大きく上回ったのである。伝統的な死生観はいまだ持続しているかもしれない。しかし「情けをかけねばならない」という確固たる信念が将来どうなってゆくか、ということが問題の核心だろう。

 火葬によって、「情け」が失われるのではない。「情け」の重さが軽減されることはある。しかし、それ以上に奥底では、「情け」が抑制されるのを、人は我慢しているのではないかと思える。

 第四に、身体的感受やパフォーマンスの「間接化」と人間関係の「希薄化」という、現代的な状況がある。現代社会では情報化がすすみ、音や情報を人から人へ直接伝えるのではなく、マイクやオーディオ、電話やインターネットなどのメディアを介して感受し合うことが主流だ。私たちの身体は、直接、人に泣きかけるような表現をどんどん忘れていくように思われる。そうした「間接化」はじつはメディア状況だけでなく、死の看取りや葬送儀礼にも及んでいる。すなわち医者や聖職者、葬儀屋などの専門家の手にゆだねる部分が増大する一方なのである。琉球弧も例外ではない。

 間接化は「死の看取りや葬送儀礼にも及んでいる」のではなく、間接化による「泣き」の遠隔化が、「死の看取りや葬送儀礼」に象徴されているのだ。

 こうした状況は、直接的なコミュニケーションの機会を少なくする。そもそも泣くという行為は、その場にともにいる人の感情に直接訴えかける力をもつ。ところが目の前で泣かれ、心乱されることを現代人はむしろ疎ましく感じる傾向が強い。そう考えると「弔い泣き」は、濃密な人間関係や対面行為があってはじめて可能なことに気づく。概して琉球弧のシマ社会では、共同体的な土壌は本土に比べれば保持されているものの、人間関係の希薄化は進行している。このことが「哭きの喪失」につながっていよう。「ともにいる」ことは互いの「気」が影響を及ぼし合うことだ。看病や病気見舞いとは、病人の傍らにいてやることで周囲の人が病気の苦しみを分かち合い、生命力を分け与える相互行為だという。(中略)

 関係者がともにいて時間や空間を分かち合うことは、死の受容においても大切な基盤であろう。しかし現代においては失われつつある感覚といえよう。時間で区切り、物量を測り、段取りを優先する合理的な生活の中に私たちはいる。

 「今、悲しみに泣ける場所、泣ける人間関係がなくなっている。そうした関係の構築こそ大事だ」と僧侶の秋田光彦氏はいう。死別の悲しみを受け入れ、着地させるシステムとしての葬儀や「泣き」の形骸化。悲しみを本当に自分のこととして体験し、その上で解放されてゆくのが「喪の行為」の真の意味である。ところがそのことを十分はたせないまま、他人事のように機械的に日程をこなし、葬儀がすんでから喪失感にさいなまれ鬱に悩む人が多いという。現代社会に共通する問題をそこにみることができる。
 沖永良部のクォイの伝承者が、「泣くだけ泣いたらすっきりして、さあ、行きなさいという気持ちになる」というのは示唆的だ。まさに理想的な喪の行為の一端を示していよう。
 近代合理的な思考や生活態度が人間関係や身体表現のあり方をどうかえていくか、その結果私たちは現在どんな地点にいるのか。琉球弧の葬送歌は、そうした普遍的な問題を映し出す鏡なのである。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 酒井はここで、琉球弧の「哭きうた」とその喪失を、習俗とその変遷としてだけではなく、現在の社会を映し出す鏡として差し出そうとしている。

 なぜ、泣かなくなったのか。しかしそれはあまりに自明になってしまっているから、そう問うより、「泣くだけ泣く」体験が無くなってしまったことで何を失っているのかを考えたほうが身のためかもしれない。少なくともそれは、薄っぺらになってしまったぼくたちの言葉に見合っていると思う。
 

 『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』を父の書棚から拝借して、やっと読み、ぼくは父の三年忌に向かう準備ができた気がする。それは、読了というだけでなく、「哭き」についての酒井の考察の深さのおかげだ。感謝したい。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』18

 

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2009/05/18

「哭きうた」の全体像

 酒井正子による哭きうたの全体像。

 1.死霊アニミズム  琉球弧では、死者に霊的存在(生気・霊魂)を認めて儀礼を行う「死霊アニミズム」の世界が脈々と息づいている。それは畏怖と愛着の二元論をともない、一連の葬送歌=(供養歌)(哀惜歌)もその表象である。

 ぼくは、この段階の世界観を、

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 と考えている。この場合、霊魂は、イメージ的身体化された人間と見なすことができる。

 2.二人称で語りかける(供養歌)  (供養歌)は遺体への直接の声かけであり、「生きている人にいうように」名を呼び、二人称(あなた)で語りかける。死者にもその声は聞こえ、充分な声かけにより安心して生者と別れ、冥界におもむく。声をかけることは「情け」をかけることであり、儀礼的にも心情的にも別れに不可欠な行為と考えられている。それゆえ人は哭く。とくに歌をうたいかけると亡くなった人も「すっきり」して、心安らかに離別してゆくという。

 五感のうち最後まで残るのが聴覚だという話と符合して興味深いが、人間が人間のイメージ的身体である霊魂への移行を媒介するのは「声かけ」であると見なされている。

 3.困難な移行を媒介する(哀惜歌)  一方、(哀惜歌)がうたわれる四十九日間は、生から死への移行期間、あるいはそのどちらでもない期間として特徴的である。すなわち遺体から肉が落ち、骨化する時期なのである。風葬や洗骨改葬を行ってきた琉球弧では、遺体や死臭の変化は克明に観察され民俗知識として共有されていた。骨肉分離のプロセスは苦痛をともなう。この困難な時期に死者を慰めるためひんばんに墓参し、(哀惜歌)がうたわれてきたと解釈することができよ う。生から死への困難な移行が果たされるよう、絶えず声かけがなされ移行を媒介するのである。

 これも同様である。移行が困難であればこそ、歌としての声かけである「哀惜歌」が必要とされる。移行の困難の根拠になったのは、他界が時間性として表象された風葬ならではの観念だった。風葬における骨化の過程が視覚化されるということも、困難の観念醸成を助けている。

 沖縄や与那国の (哀惜歌)は、奄美に比べ四十九日という区切りは明瞭ではない。おそらく奄美とは違って、王府による位牌祭祀や焼香儀礼の制度化がすすんだことが背景にあるのではないか。移行の段階が祭祀やモノにより明示的であるため、歌による区切りを必要としなかったのではないかと考えられる。また奄美では、洞穴葬の時代に四十九日までたびたび墓参し死者の顔を見て別れを惜しんだという伝承が各地にあり、死者との一体感は格段に強かったのではないかと想像する。そうした点は今後さらに検討を要する課題である。

 奄美では、「死者との一体感は格段に強かったのではないか」。これは刺激的な仮説だ。

 4.音楽文化生成の原動力  (哀惜歌)は当該地域の重要なシマウタ二一般的なあそび歌)と関連が深い。(哀惜歌)には短詞塑歌謡の原初的な形がみられ、人と掛け合ってあそぶシマウタと様式的に連続性がある。(哀惜歌)には死や冥界が直接うたい込まれており、タブー性が強い。だが田畑のオープンな空間や重病人の見舞いの場でうたわれることなどにより、多くの人に共有され一般化していったのだろう。徳之島の《二上がり節》や与那国の《すんかに》にその具体 的なプロセスをみることができる。(中略)

 以上、琉球弧の葬送歌の状況や響きは特殊ではあるが、孤立した音楽ジャンルというよりはむしろ、当該音楽文化の基本的な特徴を共有している。たとえば与那国のカディナティは、旋律的に同地域の《子守歌》と酷似しており、また株式的にユンタジラバと共通する。葬送歌は伝承歌謡のジャンル形成において、仕事歌などと並び重要な役割を果たしてきたのではないかと考えられる。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 哭きうたに島唄の発生源を見るのは、『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』の魅力的な視線である。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』17

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2009/05/14

改葬洗骨のこと。「面影ぬたちゅい」

 改葬洗骨のこと。

 遺骨は太陽の光にさらしてはならないといい、早朝よりとりかかり、陽が射してくると傘を差しかける。石塔を倒し、掘り起こす力仕事は男が行い、骨を上げたり洗ったりする仕事は女がする場合が多い。しかし与論島や与那国島などでは、とくに分担は決めず男女共同で骨を洗う。霊質もしくは生命力が宿るとされる頭骨はとりわけ大切に扱われる。出てくると「オガマレタ」として近親者がとり上げ、丁重に洗い上下の歯をアゴの骨にのせてきれいにそろえる。真綿でくるみ近親の娘などに抱かれると、生前の面影が彷彿として、「ハープチー(あれえ)、そっくりじゃあ、面影ぬたちゅい」と思わず手を合わせ、涙しない者はいないという。亡くなった人にまた会えるという神秘であり、清々しさもまたひとしおである。

 こういう解説を読むと、おととしの祖父の洗骨を思い出す(「再会と別れと-21世紀の洗骨」)。島尾ミホの『海辺の生と死』も、「洗骨」の話があるだけで価値があると思った。

 琉球弧では、長く風葬・洞穴葬が行われ、大気中に遺体を置いて白骨化を待った。亜熱帯の洞穴では腐敗は早く、四十九日で洗骨したとも伝えられる。一七世紀末境に中国から伝わったとされる沖縄の亀甲基も内部は空洞で、遺体を地表に安置して空気にさらすという骨化の原理は風葬と同じである。
 奄美では一八世紀以降、薩摩藩より土葬政策がおしすすめられ、最後まで洞穴葬を行っていた南二島にも、明治期に鹿児島県より「葬式諭達」(風葬禁止令)が出された。しかし「暗い土中に親を置いておくのはしのびない」と非常な抵抗感があり、その改変は容易ではなかったという。現在でも洗骨の前夜に「いままで暗い、きたないところで寂しかったでしょう。明日はきれいにして差し上げますからね」と死者に呼びかけるのは、そうした心情の表れともいえよう。
 奄美は土葬後に洗骨改葬を行うためか、洗骨のとらえ方はそれほど否定的ではない。「親だから嫌だともきたないとも思わないんですよ」という。しかし「いまどきの若い者にはとてもできないだろう」との認識では一致している。「焼かれたくない」という気持ちは強いものの、万一そのまま土中に埋めっぱなしにされたりしたら大変だ、ということで、親はしぶしぶ火葬に同意する。あるいは、子供は、生前は親には「しない」と言っておきながら、葬儀がすめばそのまま火葬場に直行、というケースもあるという。

 ぼくも洗骨について否定的ではない。そして自分もそれに属する側として、「若い者にはとてもできない」と思っていた一人だが、祖父の洗骨を経験して、そうではないかもと思った。いとことはいえ、二十年近く年下の孫たちは、それこそ真剣に愛おしそうに改葬、洗骨に参加していて、心から参加したいと思っているのが伝わってきた。新しい世代の改葬洗骨もありうるのかもしれないと思えたのだ。

 一方、ついに与論も突入した火葬について、

 しかし火葬を単純に複葬体系の否定として位置づけることはできない。火葬により、瞬時に「きれいな骨」が得られることへの満足感があるとも報告されている。ある意味で「骨の浄化」という洗骨の理想に合致するからではないか。

 酒井はこう仮説するが、そうかもしれない、と思う。内観しながら事態を追ってゆきたい。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』16

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2009/05/11

身体はマブイの衣裳

 琉球弧では、マブイと身体が永久分離することが死と考えられている。

 琉球弧では、人間の霊的存在をマブリ、マブイ、ナブイ、タマシィなどと呼ぶ。マブリ系は土着的な用語だと思われ、多様な表象がある。一方、タマシイは日本本土のタマ概念の影響を受けているとの説が有力だ。
 マブリには個性があり、生者の「生きマブリ(生霊)」と死者の「死にマブリ(死霊)」が考えられている。生きマブリは人間の生命活動を支えており、人によっては複数のマプリをもつ。マブリはちょっとした事故やショックで身体から遊離しやすい。また喜界島や徳之島では、魔物に抜き取られたり、睡眠中に身体を離れてあそび歩いたりするといわれている。邪悪な場合は人間の姿で現れて他人にたたる(イチジャマ)こともある。マブリは足がなく、背中から出入りするともいわれ、それを防ぐために背中に三角の布を縫い付けて守りとする。また背縫いのほころびを嫌う。

 マブリが抜け落ちると、夢遊病のような状態になり、無気力、食欲不振、発熱など様々な不調に悩まされる。その場合、ユタに頼んで「マブイ込ミ」「マブリ付け」の儀礼をしてもらい、すみやかに身体に戻さねば死にいたる。また自宅以外の場所で命を落としたときも、石や衣類に付着させて連れ帰らねば、悪霊となって浮遊する。一般に、身体と霊魂(マブリ)の安定した結合状態は「生」、一時的な遊離状態は「病気」、永久分離は「死」と考えられる。永久分離が確定するのは、死後四十九日境を一つの区切りとする。遺体が腐乱して骨化し、戻るべき肉体を失うからだ。死んで直後の死にマブリは不安定で、この世に残ろうとしたり、霊力が強く、生霊にとりついて連れ去ったりする。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ここに言う「マブイ込ミ」や「マブリ付け」は、『ドゥダンミン』の「マーブイユシ」に見られるように、数十年前まで、濃厚にあった。

 酒井の解説や「マーブイユシ」の話を読むと、現在は、マブイは抜けているのか分かりにくいし、抜けていても戻しにくい社会になっているのだと思う。

 ここではマブイの衣裳が身体であり、ハジチ(針墨)は言ってみれば、マブイのおしゃれだった。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』15

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2009/05/08

「人はなぜ死者に向かって声をあげて泣き、うたうのか」

 酒井は、与那国島で哭きうたの原像に出会ったと思う。

 クイカギ(声かけ)とは、「あはりどお△△」と、日常の親族呼称や死者の名前を呼ぶ行為である。「あはりどお」とは「哀れなり」の意とされ、残念でたまらないよ、悔しいよという気持ちを込め、死者にわからせるようにいう。とくに男は強い口調で、「親より先にゆくとはこの親不孝者」と叱るようにもなる。近隣への計音通知の役割も果たす。
 カディナティは「風泣き」、すなわち号泣のことで、「あはりどお△△」という文句を女性たちが一定のフシでうたう。「その高い声こそあの世に届く」「この歌をうたわないと後生の扉が開かない」ともいわれ、とくに通夜や納棺、野辺送りのときに盛大である。歌い出しが高音(上げ出し、譜例のb)と低音(下げ出し、語例のa) の二種類の旋律があり、途切れないよう自発的に、しり取りのようにうたい継いでゆく。たとえば「あはりどお、アブタ(母さん) よ」に続いて「アブタよ、あはりどお」と倒置される。そうした交互咽の様式は決して特殊ではなく、八重山諸島の代表的な民謡ジャンルであるユンタ、ジラバなどとも共通するものである。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 死後、死者へのクイカギ(声かけ)に始まり、それはカディナティ(風泣き)接続される。それは死者の埋葬まで絶えることなく続く。

 そして、葬儀は、クイカギ、カディナキから、みらぬ歌、スンカニへのつながっていく。みらぬ歌は、カディナティほどのタブー性はなく歌われる。スンカニほど認知はされていない。しかし与那国では、「すんかに」の原曲は、「みらぬ歌」だという伝承は強い。両曲の旋律も酷似している。うたっているうちに混同してしまうくらいだ。

 結局、葬送歌である《みらぬ歌》が、田畑のオープンな空間や歌あそびの場を循環しつつ一般化し、《すんかに》が生成された可能性が強い。その成立はおそらく近世末噴ではないだろうか。オーラル (口頭的)な伝承では両曲の旋律は近接しており、演唱者にとってもその境はあいまいであったが、近代的な記譜作業により意識的な差異化と洗練がすすめられ、今日のスタイルが確立したと考えられる。葬送・仕事・あそび、と様々な歌の場を循環するような形で、ウタのジャンル形成がなされていく過程がみてとれるのである。シマウタの生成を考える上で、きわめて示唆に富む事例であろう。今日《すんかに》はドナンを代表する情歌として、ステージでも盛んにうたわれている。

 ここに、クイカギ、カディナティ、みらぬ歌、スンカニの流れは、供養歌から哀惜歌への流れであるとともに、泣きから歌への流れでもある。酒井は、ここにきっと、シマウタの発生を幻視している。これは心躍る視点だ。

 以上、与那国の状況には「人はなぜ死者に向かって声をあげて泣き、うたうのか」という問いかけに対する答えが兄いだされる。なおかつ「なぜ人は泣かなくなったか」ということを考える手がかりもひそんでいるようだ。

 「人はなぜ死者に向かって声をあげて泣き、うたうのか」

 生から死へ。他界への移行と安定化の困難を乗り切るために泣く。

 「なぜ人は泣かなくなったか」

 生の間の情感の交流が希薄になったから? 火葬により他界への移行が容易くなったから? 他界自体が希薄になってきたから?

 照屋林助が映画『ウンタマギルー』で、「あんたもわたしも冷たい人になっていくのさ」と歌うのを思い出した。


 でも、やっぱり泣くよ。冷たくなったわけじゃないよ、温かさを発露する道がふさがれているだけだよと、ぼくは思う。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』14



 

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2009/05/02

ムヌイーナチと別れあしび

 沖縄島と周辺の島々には、葬送歌は現在ほとんどうたわれていない。しかし、その習慣の記憶は色濃い、と酒井は書いている。

 庶民の供養歌は、ムヌイーナチだ。

一般庶民の場合、個々にムヌイーナチ(物言い泣き)がなされるものの、神歌のように同じフシに声をそろえてうたうことはなかったのだろう。
 ムヌイーナチとは、名嘉真宜勝によれば「号泣もしくはすすり泣きしながら供養の言葉を述べる有様」をいう。女性の弔問客はそうして門口のほうから泣きながら入ってくる。普通の泣き方とは違う。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ムヌイーナチでは、「自分のフシをもっており、昔の女性はこれができなければ一人前ではないといわれた」と言う。ムヌイーナチは、「棺おけを抱いたりして泣き叫ぶ情景は、死別の悲しみを表現する中国風の葬礼であ」り中国の影響が強いという考え方に対して、琉球弧の泣き歌を観察してきた酒井は、 

「礼としての突泣につられて、またひとしきり鳴咽のむせびが喚起される」という。これは中国の影響である以前に、琉球弧にベーシックな習俗と考えたほうがいいのではないか。

 と書くが、ぼくもそう思う。中国の影響という以前に、人類の母胎に届く習俗であるという意味で。

 また、庶民の哀惜歌に当たるのは、「別れあしび」である。「別れあしび」は遺体の腐敗が進む前の死後七日目くらいまでの期間、

死者を寂しくさせない、として夜も墓番をする習俗は、(中略)沖縄のみならず奄美各地でも聞かれる。その際「焼酎に酔わなければ、夜通し死者の伽をするのはやりきれない」というのはもっともで、自ずと葬宴が催されたのであろう。「別れあしび」はその延長上にあり、モアシビ仲間が墓前で死者とともにアシビを再現する特別な葬宴、とみなすことができよう。

 この、「別れあしび」は男女の歌遊びの場であるモアシビにつながり、酒井はそこに、エロスによる生と死のつながりを見ている。ジョルジュ・バタイユのエロティシズムは死にまで至る生の称揚であるという言葉が重なってくるようだ。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』13

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2009/04/30

「心がさっぱり」するのはなぜか

 もう少し、沖永良部島と与論島の事例に立ち止まってみたい。

「肉体は腐ってしまい、再び生き返ることはない」という厳然たる事実に向き合えば向きあうほど、人々は霊魂の不滅を固く信じたと栄喜久元(一八八〇年生)はいう。あの世では「不老不死、生きて在る姿のままに」、生前と同じ生活を営んでおり、死んだときの年令のままの家族構成で、着物から行動まで同じだというのである。ただし、生産するということは考えられていない。死の時点でそのイメージは凍結する。死者の霊魂は「生きた人間さながらの姿」で、ユンタ(話)をすると身近にあって聞く。しかし自ら生者に直接話しかけることはできず、ユタの口をとおして思いを語る。そうした霊魂に対しては「トイムチ」(尊び敬う)しなければならないとの考えが発達した。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 死者が生者と同じ生活を営んでいるというのは、何はともあれ人間と霊魂とが等価であると見なす他界観を示していると思える。ところで、酒井はここで、注をつけて次のように書いている。

ただし与那国島では、あの世で耕作することを想定し、死者に穀物の種を持たせる。

 ぼくは、与論島では生産はなく、与那国島では生産があると考えられているのは、他界観の相違ではなく、与論では、農耕以上に漁撈が生産の中心であり、与那国島では農耕が生産の中心にあると見なされた段階の認識の違いに基づくものだと思う。

 もうひとつ、考えたいのは、火葬にすると「さっぱり」するということだ。与論より36年も早く火葬に移行した沖永良部島では、こう語られている。

昔は埋葬で懐かしい姿がそのままあるから、クォイをしながら泣いて墓まで送った。四十九日までは毎日墓参を欠かさず、墓で朝夕わいわいとクォイが聞こえてきた。お母さんがこうして(土の下で)寝ていると思うと、哀れで涙があふれた。遺体がそこにあってこそ、かわいそうと思う。いまは名残が薄くなった。一九六九年(昭和四四)に火葬場ができてからはあまり泣かなくなった。焼かれたら『心がさっぱりして』名残がなくなる」という。

 与論島の「死者は四十九日祭までは苦労する」という諺の通り、肉体が骨と化すまでの変遷は死者にとっても苦痛だが、火葬はその苦痛を取り除くように見える。それが「さっぱり」の由来のひとつなると思える。しかしそこには、「泣き」の消滅も伴わざるをえない。

 酒井はここでも注を付けている。

ある人は、幼い子供を亡くし泣き暮らしていたが、洗骨してきれいになった骸骨を見たらあきらめがつき泣かなくなったという。焼かれて白い骨になって出てくると「ああきれいだ」と思うとも聞いた。「さっぱりして」というのはそのような心情と共通するのかもしれない。

 洗骨を「ちゅらくなし」(きれいにする)とも言うから、火葬の結果は瞬間洗骨のようにみなされる面もあるのかもしれない。また、「さっぱり」のなかには、死後から洗骨に至るまでの弔う側の負担が取り除かれるという面も入っているのだと思う。ここには、生者が霊魂と等価であるという他界観の弱化と見合っている。

 この変化は、つい先頃から火葬に移行しつつある与論島の他界観も変えてしまうのではないか。

五年前、島に火葬場ができると、土葬はめっきり減った。昨年も一昨年も、ゼロだった。焼かれたら、魂も灰となってしまいやしないか、と私は心配したが、島人は意に介さない。「ほら、そこにいる」と、黒糖焼酎を飲みながら、ひょいとうしろを向いて杯を献じ、トオトウガナシ(尊い、愛しい=ありがとう)と、頭を下げる。こちらから、見えない魂が感じられるとは、魂からも、こちらの姿が見えるということ。この融通無碍、視点の移動が自在であることが、人を寛がせ、自由にする。一生懸命が珍妙で、ちゃらんぽらんが誠実かもしれない。荒唐無稽こそ真剣で、真面目がジョーク、真が偽、偽が真かもわからない。(「トオトゥガナシ 魂の島」

 最近、島に取材した吉岡忍のエッセイを見る限り、まだ大丈夫のようにも見える。それには少し安堵する。生と死がつながっている感覚には、生かしたい大切なものがあると思うから。

 ※「トイムチ」(尊び敬う)は、「猿渡文書」では、「もてなし」と解されていた。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』11


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2009/04/29

風葬感覚

 沖永良部島と与論島では、風葬は明治期まで続いている。

 崖下や洞穴墓に遺体を安置して白骨化を待つ葬法は、明治期まで続いた。一八七七年(明治一〇)、鹿児島県から沖永良部島に出された「諸事改正令達」によれば、「爾来地葬すべきは当然に候処、或ひは棺を墓所に送り喪屋と唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟相連れ喪屋に到り其の棺を開き見る数回終に数日を経る。屍の腐敗するも臭気を厭わず」「七日或いは十日終日墓前に詰切居候」とある。喪屋に安置して数日、親族が度々あるいは終日傍らにいて、棺の蓋をあけ別れを惜しんだというのである。翌年にかけて、「空葬」(風葬)は衛生上よくないので即刻改め速やかに「地葬」するよう、また神式で行うよう度々通達している。

 神葬祭の布告はすでに一八七二年(明治五)に出されていたが、神官への謝礼が払えず、一般には広がらなかった。やむなく救荒用の備蓄米である社倉の金穀利息をあてることとし、謝礼のランクまで定めているのである。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 県からの令達にもかかわらず、沖永良部の風葬から土葬への移行はなかなか進まなかった。顧みれば、1872年とはまだ与論で「猿渡文書」が書かれていた時代である。

 一八七三年まで沖永良部島の代官統治区域に属していた与論島も、同じような状況下にあったとみられる。一八七九年および八六年に風葬禁止の布告がなされた。しかしマラリアや天然痘が大流行し、埋葬が間に合わず多数の死体が捨て置かれた。一九〇二年(明治三五)に鹿児島警察署から「書国警部」が数カ月滞在し、全島で風葬を厳禁するとともにヂシ(崖葬墓)をうちこわし、埋葬場を定めた。そのときの島民の騒ぎはたいへんなもので「死後一週間か二週間しか経たない棺を、汁の滴るままに塊葬場へ担ぎゆく様は、見るに見られない有様であった」という。

 与論島のギシ(ヂシ)とは、島南部の崖下にある古くからの共同墓で、一族ごとに使用し二〇カ所以上を数える。自然洞窟に手を加え、横穴を掘り大型にしたものもある。かつて入り口は板戸などで塞がれていた(現在は漆喰で固めている)。栄喜久元は、一九三〇年(昭和五)、祖父の三十三年忌に頭骨を埋葬墓からギシに移し、他の骨はギシ近くの骨捨て場に投げ込んだ覚えがあるという。
 明治初期頃までは、死体もこのギシに持っていくものであった。ほとんどは棺に入れたが貧乏な家はこもで包み、ギシの入り口や崖下に置き、三~四年して洗骨後ギシに納めた。

   あたらしやる親や 長持ちに入りてい
  六月ぬていだに さらすしんさ《遣いきんとお節》
   (哀惜する親がなしを、長い棺に入れて/六月の太陽にさらすのは、とてもつらい)

という歌は、遺体が太陽にさらされる風葬の光景を悼んでうたったものだという。

 一九〇二年に風葬は廃絶されたが、ギシは納骨基として戦後すぐくらいまで使われていた。その後、人々は多く海浜部の墓地を用いるようになり、これにともなって各家の洗骨した遺骨をギシから移した。現在ギシに残っているのは誰の骨かわからなくなった遺骨であり、一族の子孫が定期的に墓参している。
 かくて洞穴葬は過去のものとなった。しかし暗い土中に埋葬するのは「動物同様のあつかい」で不憫であり、納棺し釘付けするのは「このうえもない不人情」だとする感覚は残っている。さらには洞穴墓にある祖先に会いにいくという記憶は、時に現在に噴出してくるように思われる。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ぼくたちにとっては、これが歴史というものだ。こういうことを教わりたかったと思う。

 風葬 ~1902年
 土葬 1903年~2004年
 火葬 2005年~

 ただし、これらの期間を通じて洗骨は行われ、いまも絶えていない、と。

 風葬感覚からすると土葬は「動物同様のあつかい」で不憫で、納棺による釘付けは「このうえもない不人情」であるという見なしは好もしく感じる。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』10


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2009/04/28

奄美の南二島(沖永良部、与論)では、死者との距離はたいそう近く、その思いも激しい。

 奄美の南二島(沖永良部、与論)では、死者との距離はたいそう近く、その思いも激しい。それだけ洞穴葬の記憶が生々しいということだろうか。とりわけ私が衝撃を受けたのは、次のような与論島の報告だ。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 として、酒井が引くのは、山田実の『与論島の生活と伝承』だ。

 ……風葬の墓場をハンシャという。……風葬の墓場から、死者の霊魂がこの世に往き来する、という信仰を持っている。風葬場へ墓参りに行くことをハンシャ通いといっていた。当時は、一週祭、三週祭、五週祭、七週祭の奇数の七日ごとに墓参りするのを普通とし……死後七日間は、毎日バンシャ通いをする者があったという。
 死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気さを、あたりに漂わせていた。棺の置かれた地点の近くで咳払いをして、死者の名前を呼んだり、話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し、大きな臭気は消え失せ、ほのかな臭いを感じさせるだけになったという。棺の前で死者の生前の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きていたままの姿が現れて話し合いができるし、暫くたつと消えて行った、と伝えられている。

   後生ぬ門や一門 阿弥陀門や七門
   うり開きてい見りば 親ぬいめいウシヨイ
   (あの世の入り口は一つしかないが、阿弥陀仏の門は七つある/それを開けてみれば、親がいらっしゃる)

 と《昔いきんとぉ節》にうたわれているが、これは家族が墓場にかよい、棺の蓋をあけて腐れゆく親の死体を見つつものがたりしたことを詠んだものだという。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ぼくも山田のこの文章は読んでいた。けれどもう習俗としては残っていなくても、頻繁に墓参りをすることに通じるような死者が近しい感じは、大人たちの振る舞いや言葉のなかに感じていた。そこでぼくはこれが、取り上げるに値するとはまるで思ってなく、与論に語るに値しないのではないかという思いこみもあって、読み飛ばしたままできた。ぼくはここで完全に、他者に言われて価値に気づく島の人だった。「奄美の南二島(沖永良部、与論)では、死者との距離はたいそう近く、その思いも激しい」と指摘されてはじめて、ぼくは生まれ島の特徴に気づくありさまである。

「肉体は腐ってしまい、再び生き返ることはない」という厳然たる事実に向き合えば向きさかえきくもと合うほど、人々は霊魂の不滅を固く信じたと栄喜久元(一八八〇年生)はいう。あの世では「不老不死、生きて在る姿のままに」、生前と同じ生活を営んでおり、死んだときの年令のままの家族構成で、着物から行動まで同じだというのである。ただし、生産するということは考えられていない。

 これも内省を呼び起こさずにいない。ぼくには他界の概念はない。死ねば死に切りと思っている。そして火葬は他界の消滅にも見合っているように感じてきた。だから、2005年、与論にも火葬場ができたとき、それは与論の他界概念の消滅のようにどこかで思っていたと思う。90%の島人が火葬を選択する段になってますますそう感じた。

 けれど父が他界して、残された母に、「死んだらどうなるのかね」と聞かれたとき、一瞬、「死ねば死に切りだよ」と言いかけて、その顔が真顔なのを見て、そうは言えなかった。それは残酷なことのように思えたし、また、ぼくにしても他界は消滅していると考えていても、それに完全に納得しているとは言い切れない、与論の改葬、洗骨をこの上なく好もしく感じるところなどはそうだろう。そう思ったが、酒井の引用に触れると、こうした母や自分の感じ方には、栄の言う「人々は霊魂の不滅を固く信じた」という背景があるのに気づかされる。

 この個所は、自分を照らされる気分になった。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』9

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2009/04/27

シマウタの発生

 酒井正子は、「哀惜歌」として「やがま節」と「二上がり節」を挙げ、両者を比べている。

 「やがま」とは、洞穴墓や「だだこね、腹立ちや鬱積した思いを吐きだすこと」の意と解されており、「自力ではいかんともしがたい運命への悲憤がうたわれる傾向がある」という。

もう一人、徳久寿清氏は「あまり寂しいとき、これ以上の寂しさはない、というときの歌。妻や子供が亡くなって、葬式がすんで寂しーくなったそのときにうたう」とのこと。不吉な歌で「これをうたうと変な気持ちになる」といい、日柄をみてうたわれた。思うに身体の中にぽっかりと穴があき、寂しい風が吹き上げてくるような感じに襲われるのではないか。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 哀惜歌が死者との直接対話であり、その影響を身体が被るほどであるところに、「やがま節」が哀惜歌の典型であることが示されているように見える。

 対して「二上がり節」は島唄の名曲だが、これについて酒井はこう仮説する。

 おそらく元来無伴奏でうたわれていた(哀惜歌)が歌あそぴの場にもち込まれ三味線にのせて窒上がり節》と呼ばれ、全島にはやって《はやり節》と呼ばれる、といった変遷があったのではないか。流行の波がいくえにもかぶきっており、それだけ古くからうたい継がれてきた曲、ということだろう。

 「二上がり節」は「うやがま節」をその原型に持っているのではないか。酒井はそう言っている。

 私は《やがま節》と《二上がり節》は互いに関連が深く、その根っこは同じなのではないかという印象をもっている。ただし《やがま節》はタブー性が強く、四十九日を越えてうたわれることはないが、《二上がり節》は死の直後から、何十年も経て死者を思い出すときまで、幅広い時空でうたわれる。
《二上がり節》は《やがま節》を包み込むような形で成立したシマウタではないだろうか。とすれば(哀惜歌)というジャンルの中に、個人様式の不定型なウタから集落共同のウ夕へ、というシマウタ生成のプロセスが見出され、興味深いことである。

 霊との直接対話である「哀惜歌」は、タブーも強く歌う時間と空間は限定されているが、その時間と空間のくびきを脱したところで、歌として共有が果たされ、島唄が析出されていく。酒井の視線ごしに、ぼくたちは島唄の発生の現場に立ち会っているような興奮を覚える。

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』8

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