カテゴリー「42.400年」の167件の記事

2011/10/03

「江戸期の奄美諸島」研究会

「江戸期の奄美諸島』研究会

日時:10月8日(土) 14:00~17:00
場所:法政大学沖縄文化研究所
http://www.hosei.ac.jp/fujimi/okiken/

パネラー:弓削政己、前利潔、高江洲昌哉

Flyer_4


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2011/05/05

『薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考』

 水間さんの紹介文で買って読んだままにしてあったのが、『薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考』。はや二年前のことになる。2009年5月2日、徳之島で行われた「薩摩藩奄美琉球侵攻四〇〇年記念事業」という、「侵攻」と「記念」の同居に違和感のあるタイトルの講演、シンポジウムを再録したものだ。

 その際は新聞や参加者から直接聞いたことをもとに、いくつか記事を書いた。

 「歴史越え連携構築 薩摩藩侵攻400年シンポ」
 「奄美との交流訴える」

 当時、音声と新聞要約とでしか分からなかった講演、シンポジウムの内容が活字になるのは嬉しい。改めて目を通してみて、やはり弓削政己が重要な講演を行ったのに気づく。

 弓削政己の基調講演「薩摩による直轄支配と冊封体制下の奄美諸島」は、タイトルそのものにその重要性は宿っている。弓削は講演の終盤、奄美の風習、風俗は、従来のものに加え、「藩の直接支配の影響」と「冊封体制の中国との交易の温存のため」という二つの側面を見るべきだと主張している。特に、「直轄支配との関係だけで理解しない方がいい」、と。

 ぼくは、『奄美の歴史入門』で、麓純雄が、奄美は日本になってから130年しか経っていない(『奄美の歴史入門』-「薩摩(鹿児島)と奄美の関係」)と指摘したときと同じようにはっとした。奄美はもともと日本だという思いこみがあるように、奄美は1609年以降、薩摩、鹿児島だという思いこみも、それに安堵するのであれ反撥するのであれ、あるのではないか、ということだ。弓削によれば、それは1891(明治24)年の『奄美史談』が描いた歴史像に依るところが大きい。『奄美史談』が、直轄支配で全てを解釈した奄美史像であるため、だ。

 奄美が琉球であり続けた経緯について、弓削は琉球からの要請を挙げている。明との冊封体制を維持するために名目だけでも琉球王国の一部にしてほしい。また、冊封使が来る際は、400人から500人もの中国人が訪れ、半年から一年、滞在することを踏まえると、奄美からの食糧調達もこれまで通り必要になる。貢ぎ物を琉球へ持っていかなければならないのだから。

 いま、詳しく書く余裕がないのだが、弓削の講演録を読みながら、ほぐす糸を手繰り寄せられそうな気がしている。ぼくは、1609年以降の奄美を、二重の疎外とその隠蔽として理解してきた。これは、ことの成り立ちに添えば、隠蔽のための二重の疎外であり、薩摩が奄美の直接支配を隠すために「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を強いてきたのだった。ただ、その政治的規定の覆いのもとにある島人たちの社会は、「薩摩の植民地としての奄美」と「琉球としての奄美」の二重性が広がっていたということだ。ぼくは、この二重の疎外に対して奄美は、「奄美は大和である」という身も蓋もない自己投身の結果、「奄美は琉球である」ことを抑圧しておりそれは自己欺瞞であると書いてきたし、いまもそれはそう思っている。けれど、そうした政治的な自己規定のさまがどうあれ、薩摩の影響を受けた奄美と琉球的な奄美との二重性は実態として脈々としてきた。その内実を捉え返すことで、奄美像をもっとのびやかにできるのではないか、と思えた。それが活字から得た収穫であり、弓削の講演から学んだことである。


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2010/03/17

「江戸立コースの前提としての薩摩藩の奄美諸島分割支配と道之島の役割」

 弓削政己の考察、「江戸立コースの前提としての薩摩藩の奄美諸島分割支配と道之島の役割」は、ぼくの知りたいことに急接近している。

3、まとめ

1)島津氏は、もともと、「大島」支配を計画していた。結果的には、この「大島」は今日の「奄美諸島」である。
2)島津氏の領土支配について、当初は琉球も含めた支配という懸念を琉球側はもっていたと考えられる。

3)そのため、琉球国保全のため、琉球古来の領土意識から、古来の領土の伊平屋島一島を割譲して、支配を免れようという意識。そのことが、『歴代宝案』の「一指舎てずんば肩背の全きを保ち難し、と。挙国の官民、奈んともする無し。(王府は)議して、北隅の菓壁一島を割き、民の塗炭するを扱う。」と、与論島ではなく伊平屋島が古来の琉球領土の「北隅」という文言に現れていると考えられる。
4)琉球尚寧王、琉球側の領土認識は、「古来の伊平名以南の琉球領土」と「奄美諸島を含めた領土」という二通りの意識がある。

5)ここで指摘できるのは、島津氏は、「琉球古来の領土以外の島々を支配した」といえる。前提として「大島」=与論島・沖永良部島を含む領土が奄美諸島という島津氏、薩摩藩側の認識があったと考える。
6)ただ、琉球古来の領土の一部をなぜ割譲しなかったのかという明確な根拠はまだない。ただ、幕府の自明勘合貿易復活政策と関係しているかもしれないという問題意識を保留しておきたい。
7)奄美諸島を巡る「領土意識」について、内部の主体、大和側、琉球側からの変動という点から、今後の検討が必要であろう。

 「結果的には、この「大島」は今日の「奄美諸島」である」というときの、この「結果的」というニュアンスは難しい。島津氏が「大島」支配というとき、それは、奄美大島のみを指していたのか、それとも今日の奄美諸島を指していたのか。弓削は「結果的」に奄美諸島としているが、ここには「大島」が「大島」一島と奄美諸島がどちらも指しうることを意味している。それは現在の「大島郡」の感覚と同じである。しかしその「大島」のみではない諸島の範囲は、厳密に与論島までを含む現在の奄美諸島の範囲であったのか。その辺りの島々というときの周辺は、曖昧ではなかったのかとも思える。

①「疎かに日本の薩摩州の倭奴他魯済(大将平田太郎左衛門尉増宗)・呉済(副将樺山権左衛門尉久高)等、党を鳩(あつ)め海島に流毒し属地に肆蔓(はびこる、ほしいままにおごる)す、と警報するを聞き・・・、三月内、先ず葉壁山(伊平屋島)・奇佳山(喜界島)等の処、蜂号(のろし)を連放するに拠り、虚惨(悲惨な状況)を伝報す。」
②議して北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを抷う。(『歴代宝案』訳注本第1冊p539 沖縄県教育委員会1994)

 しかし弓削は、「葉壁山(伊平屋島)・奇佳山(喜界島)等の処」と、伊平屋と喜界島「等」としていること、また、「北隅の葉壁一島」という表現を根拠に、「大島」とは、現在の奄美諸島の範囲を指していると仮説しているように見える。

 ここでもうひとつ、琉球には、古来からの領土として「北隅」を伊平屋としていることから、琉球にとっても、伊平屋島までが古来の領土観としてあっただろうとする。ここで「古来」とは、ぼくには中山のもともとの勢力範囲とみなせば、理解しやすいと思える。その挟み撃ちとして、沖永良部島、与論島は「大島」の範囲とされたのではないかという可能性は残る。

 一方、俯瞰した視線からいえば、喜界島、奄美大島からはじまる諸島のまとまりは与論島で終わり、沖縄島からまた始まる。その感覚は現在の奄美諸島の範囲を決定する補助線となったには違いないと思える。

 細部にわたり正確にことを把握していこうとする弓削の志向性に助けられて、不明な領域を探る手がかりを持ち始めている。


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2010/03/16

「支配背景に琉球の領土観」

 琉球大学「江戸立」探検隊についての南海日日新聞記事(3月4日)。

琉球王国の「江戸立」(えどだち)を追体験する琉球大学「江戸立」探検隊が奄美大島入りし3日、奄美市名瀬の県立奄美図書館で名瀬フォーラムを開いた。「琉球と奄美の歴史」をテーマに講演、討論会があり、弓削政己氏(奄美郷土研究会)は、「薩摩藩政下で与論以北が直轄支配になった背景に琉球側の領土、領域意識がある」と問題提起した。

 単純だが繊細な問題。

 講演は弓削氏と町健次郎氏(瀬戸内町立図書館・郷土館)が登壇した。弓削氏は琉球王府の文書「歴代宝案の咨文を基に直轄、間接支配を考察。そこには「一指舎てずんば肩背の全きを保ち難し、北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを拯う」との一文がある。「王府は薩摩側に伊平屋島を譲って、民を苦しみから救う」との意味。
 弓削氏は「琉球側は島津氏が琉球を含めて支配するのではないかとの懸念を持っていた。王府には伊平屋島以南の領土と奄美諸島を含めた領土という2つの領土観がある。かつて王府が攻め取った奄美を薩摩の領土と したのではないか」との見解を示した。

 ここはもう少し言葉が必要だと思う。攻め取ったという意味では、沖縄島内部も同じことだからだ。ただ、領土観の濃淡はあっただろうと思う。

 町は「奄美呼称の来歴とその周辺と題して講演した。「奄美」とい地名は明治期の海軍地図から出てくること、開闢神話とも関係していることを紹介。「奄美という地名は日本と琉球を自在に結び付けて解釈できる呼称だった」と指摘した。

 これは昨日、見たとおりだ。

 討論会には学生たちも積極的に参加した。①奄美世、按司世、那覇世など奄美の時代区分は、現在の研究ではどのような解釈をしているのか②奄美は本土と沖縄から二重の阻害を受けていた。その脱出口として日本復帰があったのではないか③琉球は薩摩に対して被害者意識があるが、奄美を支配した。見方によって立場が変わる。歴史観の共有が必要-との質問、意見があった。  「江戸立」探検隊は名瀬フォーラムに先立ち、薩摩軍が奄美大島攻めの拠点とした深江ケ浦や奄美博物館、群倉(大和村)なども見学した。4日は鹿児島市でシンポジウムを開く。

 この質問に対する回答も聞いてみたい。特に、「奄美は本土と沖縄から二重の阻害を受けていた。その脱出口として日本復帰があったのではないか」については。(^^;)


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2010/03/13

多島域フォーラムのシンポジウムを聞いて

 2月13日の多島域フォーラムのシンポジウム、「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成」を聞くことができた。

 「多島域フォーラムシンポジウム「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」」

【日 時】平成22年2月13日(土)13:30~17:00
【会 場】鹿児島大学共通教育棟2号館1階211教室
【内 容】
●基調講演
 豊見山和行(琉球大学教育学部)
  「島津氏の琉球侵略400年を振り返る -近世東アジア海域・陸域の変容と交流-」
 弓削政己(奄美郷土研究会)
  「奄美諸島史における歴史意識と認識 -東アジアを含む研究課題-」
●パネリスト
 杉原 洋(鹿児島大学法文学部)
   薩琉40年議論から見えてきたもの
 原口 泉(鹿児島大学法文学部)
   薩摩から見た琉球・奄美 -幕末の薩流関係-
 前利 潔(知名町役場)
   <琉球諸島>と奄美諸島 -道州制議論の前提的考察-

 豊見山和行は、1623年の「大島置目条々」で、奄美は大型船の建造は禁じられたが、中小型船はあり、薩摩との交易は禁じられたが琉球とはそうではなかったので、交易を維持していた。また、時代とともに、薩摩への交易の触手も伸ばし、支配域を抜け出す動きがあったと指摘。

 弓削政己は、400年に新たな問題意識も提出されたが、それは従来の修正に過ぎず、奄美像の全体観には至っていないと、いつになく厳しい指摘を行った。たとえば、「大島代官記」の「序」は、島役人が書いたものではないのに、ここ40年、島役人が書いたものと議論されてきた。それに端を発して屈折した議論がなされてきた。そのこと砂上の楼閣ではなく、そうならざるをえない課題はあるが、しかし、それは歴史学のなかでは砂上の楼閣と言わなければならない。

 パネルディスカッションで、得に印象に残ったのは原口泉。鹿児島大学という場所柄がそうさせたのか、言いたいように口にしていた。空虚な饒舌に変わりはなかったが。当時の国家間の関係や力学のなかで捉えなければ、薩摩が琉球がといっても水かけ論でしかない、などと。ある種の歴史家は、思考や口吻が為政者に似てくる。そこにふつうの人の姿は見えない。その亜種を見るようだ。


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2010/03/05

「島人が主体となって完成させる」

 「奄美の歴史子どもたちに/副読本を制作へ」。朝日新聞の記事(2010年03月05日)。

 どうせ教科書なんか読みはしない、という意味ではこれもその候補。でも、だから要らない、のではなく、その程度のものと見なされるほどに、奄美の歴史が知られたものになるための、これは一歩だ。

 この記事のなかで最も重要であり、ゆるがせにできないのは、「執筆者には郷土史家も加わり、「島人が主体となって完成させる」」ことだ。この軸がぶれたら、ぼくたちは最初の扉を開くことができないだろう。ここは嬉しい言明だ。

 ただ、ぼくが気になるのは次の個所だ。

「私たちは子どものころ、薩摩藩に虐げられたことだけ教えられて育った。しかし、それだけでは島を誇れる子どもは育たない。奄美の黒糖が明治維新に貢献したことも教えることで、胸を張って奄美を誇れる子どもを育てたいと思った」

 奄美の黒糖が明治維新に貢献したと指摘するのはいい。しかし、それは奄美が強いられたことの意味を浮かび上がらせるもので、いずれ消極的な評価に留まるしかない。「虐げられただけではなかった」と、ことさらに言いたげな今の奄美だが、いずれ虐げられたことには変わりない。しかし、その圏外に自然と文化の大きな広がりがあったことを指摘してほしい。そこで初めて、奄美を積極的に評価できるだろうからである。


 奄美群島の12市町村でつくる奄美群島広域事務組合は、地元中学生を対象にした初めての歴史副読本の制作を決めた。昨年は薩摩藩による琉球侵攻400年の節目の年。島内外から上がった「奄美の歴史の再構築を」との声に応えた形だ。島の教育関係者は「島の歴史を学ぶことで、自分たちの島に誇りを持てる子どもたちを育てたい」と意気込む。島人が中心となってつくる副読本は、2012年度からの使用を目指している。(斎藤徹)


 奄美市教育委員会などによると、副読本の制作話は昨年持ち上がった。薩摩藩が奄美群島を含む琉球王国を侵略した1609年から数えて400年の年だったことから、島内外で400年前の出来事を再検証するシンポジウムやイベントが盛んにあった。

 そんな中、「正規の教科書では触れられることのない奄美の歴史を学ぶ機会が必要なのでは」との声が島の教育関係者の間で生じた。


 副読本制作を提唱した奄美市の徳永昭雄教育長は「私たちは子どものころ、薩摩藩に虐げられたことだけ教えられて育った。しかし、それだけでは島を誇れる子どもは育たない。奄美の黒糖が明治維新に貢献したことも教えることで、胸を張って奄美を誇れる子どもを育てたいと思った」と語る。

 奄美地域限定という理由から奄美の12市町村が予算を出し合う。中学校の歴史の授業で使う予定だ。薩摩藩統治時代の歴史のほか、中世や琉球王国統治時代、明治時代や敗戦後の米軍統治時代と、現在解明されている奄美の歴史を網羅したい考え。


 執筆は学識経験者や歴史学者ら5人程度で行い、奄美群島内の小中学校の社会科教員15人程度が編集委員を務める。4月以降、執筆に着手し、編集会議を重ねて12年度から使い始めることを想定している。

 執筆予定者の一人で、奄美の考古学に詳しい中山清美・奄美博物館長は「薩摩藩の侵攻前と後で奄美がどう変わったのか、我々奄美の人間の視点でとらえたい。島の文化や自然への影響も検証したい」と意気込む。執筆者には郷土史家も加わり、「島人が主体となって完成させる」という。


 同市教委によると、奄美では98%の子どもが進学や就職で高校卒業後に島を離れる。徳永教育長は「島を離れた時に島のことを知らないままであってはいけない。島で生まれ育ったアイデンティティーの確立のためにも、よい本をつくりたい」と話している。

 昨年、郷土教育の充実を求める陳情を12市町村に行った奄美市の薗博明さん(75)は「鹿児島県による奄美侵略の歴史検証が一切されていない中で、奄美がまとまって副読本をつくることは大変喜ばしい。これまで顧みられることがなかった鹿児島県の明治以降の奄美政策についてもきちんと書いてもらいたい」と話している。

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2010/03/01

「文学が語る『薩摩侵攻400年』」

 大橋愛由等の<奄美ふゆ旅>の報告(「南海日日新聞」2月19日)。

(前略)翌日(1月19日)は和泊町歴史民俗資料館を訪れ、先田光演氏が迎えてくれた。さっそく去年からの研究成果を聞いてみたのである。
 去年先田氏は、『薩摩侵攻四〇〇周年記念藩政時代の沖永良部島の詳録』(和泊町)という告料・解説集を刊行Lで「薩摩侵攻400年」を考える沖永良部からの祖点を再構築した。藩政時代の資料を読み直すことで、「先田史観」ともいうべき視座を展開している。

その大きな特徴として表れているのは、沖永良部からの「薩摩世」に対一する評価である。島は、1609年の軍事侵略以降、薩摩の支配を受けながらも、薩摩と琉球に「両属」することになるのだが、沖永良部は、「両属」することによって、薩摩・琉球の両方の特質を吸収して積極的に島独自の社会や文化を形成していった。その例として、沖永良部の各地で見られる「ヤッコ踊り」は、薩摩から踊りの様式を、琉球から歌詞を取り入れ島で独自に阻噂して発展させたことを挙げる。こうして沖永良部島にかって「両属」は負的側面ばかりではなく、むし久「両属を活用した」(先口氏)と積極的に評価して、「400年語り」は各島ごとに差異があることが確認できるのである。

 以前にも指摘したことだが、薩摩と琉球への「両属」という視点は、両者からの政治的な否定という本質を踏まえなければ、ふやけた視界を得るしかないと思っている。奄美の置かれた関係の絶対性は、「あれもこれも」ではなく、「あれでもなくこれでもなく」だからである。

 しかし、「両属」の視点が沖永良部島から出ていることに根拠があるとしたら、黒糖収奪が南ニ島で遅れたように、沖永良部島と与論島は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という規定のうち、「奄美は琉球ではない」という規定は北の島々に比べて弱かったということはできる。また同様の理由で「奄美は大和ではない」という規定も緩和を受ける。その二重の疎外の強度の低さが、両方の文化の吸収という余地を生んだと捉えることはできるだろう。

 『薩摩侵攻四〇〇周年記念藩政時代の沖永良部島の詳録』は、ぜひ読んでみたい。

(中略)奄美大島に到着すると、奄美市名瀬にある西和美さんの店「かずみ」に行く。もうすぐ2枚目のソロアルバムの収録に入るという和美さんのうたを聴くと、大島に来たのだという実感が沸々とわいてくる。

 そこに、詩人で本紙の文芸時評を担当している仲川文子さんらが到着。詩人仲間として語り合い、話題は奄美の文学全般に及んだ。わたしからは、奄美に旅立つ直前に神戸文学館(神戸市灘区)で「神戸震災文学を語る…詩・短歌・俳句・川柳」とのテーマで、シンポジウムを開催したこと触れ、震災にかかわる文学の評価と課題を整理する意味でも有効であったと報告。そうした意味で、奄美に大きな足跡を残した島尾ミホさん亡き後の「奄美文学」のありようについて語るイベントやシンポジウムが設定されてもいいのではないかと提案したのであるかそして、今年夏に行われるカルチュラルタイフーンでも、「奄美文学」をテーマにすることを予定していることもあり、「400年語り続編」は文学がらみで進めていきたいと思っている。(図書出版まろうど社代表)

 ポスト島尾ミホの奄美の文学の行方はぼくも関心がある。ぼくは、無謀かもしれないけれど、与論島の文学という視点からも接近してみたい。


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2010/02/28

「『宣言』で知事に公開質問」

 19日、「鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会」は、知事伊藤に向けて、鹿児島・沖縄県の交流拡大宣言に対する鹿児島の歴史認識を問う公開質問状を提出した(「南海日日新聞」2月20日)。

 鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会(奄美代表・薗博明さん)は19日、伊藤祐一郎県知事に対し、「交流拡大宣言」に関する公開質問状を提出した。昨年11月の沖縄・鹿児島交流拡大宣言が住民の頭ごなしに行われたことを問題視した上で交流事業の内容などを質問。鹿児島側の歴史認識についても回答を求めた。

 公開質問は県大島支庁を通じて提出した。質問は①「沖縄・鹿児島連携交流事業」と「交流拡大宣言」②鹿児島県の歴史認識③県知事との話し合い-の3点。交流拡大宣言については「県当局は奄美で準備を進めながら開催日ぎりぎりまで告知しなかったのはなぜか」「宣言には『鹿児島県の過去400年の出来事や成果を踏まえ』とあるが、それを明らかにしてほしい」「交流事業の中身を示してもらいたい」と質問。

 歴史認識については近世から現代まで奄美の民衆が経験した事例も踏まえて質問。「鹿児島県と奄美の将来を共に考えていくため」県知事との話し合いを求めた。公開質問は回答期限を3月31日と指定した。

 「問う会」は昨年発足した「交流拡大宣l言の中止を求める会」を改称した。この日、大島支庁記者クラブで会見した奄美代表の薗さんは[島津の侵略400年の時間的区切りは終わったが、提起された課題は何も解決していない」と指摘した。

 鹿児島側(仙田隆宜代表)とも連携しながら問題に取り組んでいく方針を示した。

 ぼくたちが身にまとっている諦念と摩擦回避の習性からすれば忘れて終わろうとしてしまいがちになるが、忘れない、として公開質問状を提出するのは意義がある。ここには知事との「話し合い」も提起されており、対話への通路を開こうとしているのも注目される。

 奄美と鹿児島との矛盾を最大限に引き受けた在鹿児島の奄美から、この問いが発せられていることが何より重要なことだと思う。


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2010/02/20

「薩摩侵攻401年」展望

 2月11日、沖永良部島でえらぶ郷土研究会例会が開かれ、そこで「薩摩侵攻401年」も話題にのぼった(「南海日日新聞」2月12日)。

 【沖永良部総局】えらぶ郷士研究会(先田光演会長)の第7回例会は11日、和泊町の和泊字公民館であった。町内外の3氏が発表し、会員ら約30人が参加。野鳥の生息に適した環境保全の重要性や「薩摩の琉球侵攻401年」の展望などを考えた。
 南海日日新聞の久岡学記者は取材者の視点で薩摩侵攻400年を語った。研究者への取材や琉球新報との連載企画を回顧。奄美内外で約40回開かれた関連行事の意義に触れ、「島の人々は差別体験から歴史を語りがちだが、圧政や搾取だけでは語れない歴史がある。
奄美にとって400年問題は過去のものではなく、今を考える問題。401年目の今年は近現代の問題を掘り下げ、未来への指針にしたい」とまとめた。

 日本野鳥の会の中村麻理子さんは昨年6月に沖永良部島で県内初の繁殖を確認したセイタカシギ(県絶滅危惧Ⅲ類)の観察結果を報告した。繁殖地は和泊町谷山の洪水調整池。中村さんは「水生昆虫を食べる鳥にとって水辺は貴重な生息環境。少しでもこのような場所を残してほしい」と語った。
 先田会長は与論島へ赴任した薩摩藩役人の子孫(県本土在住)と島妻の孫らが交わした書簡などを紹介。「猿渡家文書」を基に交流の様子を解説した。

 薩摩侵略にまつわる問題だけではなく、動植物のことも取り上げられているのが印象的だ。学ぶことに意欲的な沖永良部らしい幅の広さだと思う。「猿渡家文書」に関する先田光演の解説を特に聞きたかった。



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2010/02/14

「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」

 昨日、ツイッターで、鹿児島大学で「薩琉400年」のシンポジウムをやっている最中だとツイートが入った。ぼくも「「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ」の最中で、もうすぐ出番だったのだが、全く知らなかったので、慌ててWebで検索してしまった。

 「多島域フォーラムシンポジウム「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」のご案内」

 内容を知りたい。どこかでレポートが出るといいのだが。教えてくれたguuteiさんに感謝。


 「多島域フォーラムシンポジウム「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」のご案内」

鹿児島大学 多島域フォーラム シンポジウム 「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」

趣意書

鹿児島(薩摩藩)と沖縄(琉球王国)が「侵略・侵攻」等とされる、軍事的・強制的措置にしても、深い関係が構築されてから、400年がたった。やがて琉球弧はヤマト世(ゆ)を迎え、東アジア圏の中の島嶼として、画期を迎えていくことになる。それはその後の薩摩・奄美・沖縄の歴史のみならず、明治維新にも影響を及ぼすし、戦後の米軍統治・本土復帰・国土軸や道州制議論においても、この琉球弧をどう認識するかということが、繰り返し具体的課題として登場してくる。

これらの問題の起点について、この1年間各地で多様な催しがあり、議論が尽くされた。その史実蓄積・再認識・新展望についても目を見張るべき成果が具体的に蓄積された。大学・学会の役割として、その総括作業も意義深い取り組みである。今回のフォーラムは、この直接的当事者である、琉球と奄美の立場・視座からの総括と展望を聞き、また鹿児島・薩摩の歴史と重ねながら、未来志向的な展望についても、会場参加者も交えて議論することを目指すものである。

日時:平成22年2月13日(土)13:30~17:00
会場:鹿児島大学共通教育棟1階211教室
主催:鹿児島大学多島圏研究センター

基調講演

豊見山和行(琉球大学教育学部)
「島津氏の琉球侵略400年を振り返る
-近世東アジア海域・陸域の変容と交流-」
弓削政己(奄美郷土研究会)
「奄美諸島史における歴史意識と認識
-東アジアを含む研究課題-」

パネリスト

杉原 洋(鹿児島大学法文学部)
薩琉40年議論から見えてきたもの
原口 泉(鹿児島大学法文学部)
薩摩から見た琉球・奄美 -幕末の薩流関係-
前利 潔(知名町役場)
<琉球諸島>と奄美諸島 –道州制議論の前提的考察-

問い合わせ先: 多島圏研究センター 〒890-8580 鹿児島市郡元1-21-24
Tel.099-285-7394, Fax.099-285-6197

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0.プロフィール 1.与論島クオリア 2.与論・琉球弧を見つめて 3.与論の地名 4.奄美の地名 5.琉球弧の地名 6.地域ブランドをつくる 7.小説、批評はどこに 8.島尾敏雄 9.音楽・映画・絵画 10.自然の懐 11.抒情のしずく 12.祖母へ、父へ 13.超・自然哲学 14.沖永良部学との対話 15.『しまぬゆ』との対話 16.奄美考 17.『海と島の思想』 18.『ヤコウガイの考古学』を読む 19.与論砂浜 20.「対称性人類学」からみた琉球弧 21.道州制考 22.『それぞれの奄美論』 23.『奄美戦後史』 24.『鹿児島戦後開拓史』 25.「まつろわぬ民たちの系譜」 26.映画『めがね』ウォッチング 27.『近世奄美の支配と社会』 28.弓削政己の奄美論 29.奄美自立論 30.『ドゥダンミン』 31.『無学日記』 32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』 34.『祭儀の空間』 35.薩摩とは何か、西郷とは誰か 36.『なんくるなく、ない』 37.『「沖縄問題」とは何か』 38.紙屋敦之の琉球論 39.「島津氏の琉球入りと奄美」 40.与論イメージを旅する 41.「猿渡文書」 42.400年 43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」 46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子) 47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す 48.奄美と沖縄をつなぐ(イベント) 49.「近代日本の地方統治と『島嶼』」 50.「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ 51.『幻視する〈アイヌ〉』 52.シニグ考 53.与論おもろ 54.与論史 55.「ゆんぬ」の冒険 56.家名・童名 57.与論珊瑚礁史 58.琉球弧の精神史 59.『琉球列島における死霊祭祀の構造』 60.琉球独立論の周辺 61.珊瑚礁の思考イベント 62.琉球文身 63.トーテムとメタモルフォーゼ