世界への猶予と脆さ
与論から「莚」を贈り、鹿児島からは「煙草」を贈ってもらう猿渡家の贈答誌と言っていいような「猿渡文書」から見えてくるものは何だろう。
数少ない文字による記録という意味では学ぶことは多い。当時、「赤佐湊」が主な港であったこと。住徳丸、稲荷丸といった数多い大和船の名称、手紙やそれ以上の重要なメッセージを託す船頭の重要性、沖永良部や山原、琉球との交流の深さなのである。
しかし最大の関心事である、与論の島人の表情や息遣いといった面からみると、伝わってくるのは世界への猶予と脆さだ。
黒糖の惣買入が1857年に始まるという奄美の中の遅延ということもさることながら、「変勤(動か)があった事をうわさできき」(明治維新)、「会津え出陣」(戊辰戦争)といった世界の動きがぼんやりした噂のように到来するということ、また、黒糖不作の責任が問われたとき、島役人の喜周、喜美應、實喜美は謹慎させられるも最終的な処分を島内あるいは沖永良部の代官では決められずに大和にまで伺いにいくというような延ばされる時間は、与論らしい世界からの猶予を感じさせる。世界は噂のようにゆっくりやってきて、ことも噂が収まるのを待つように収束する。それが、与論の世界に対する距離でありそこに生まれる猶予なのだ。
しかし、ひとたびそこに世界が到来すれば、その影響は計り知れない。飢饉や台風の到来はたちまち深刻な事態に発展し、島人は「蘇鉄で命をつなぐ」しかなくなる。「猿渡文書」で最も切実な言葉は、「蘇鉄で命をつなぐ」ことだ。島人の危機は、惣買入によってのみもたらされたものではなく、台風によるものでもあるが、惣買入のような全島を覆う制度は何かを契機にしてすぐさま、深刻なダメージをもたらす。それは、小さな島の脆さだ。この脆さは、「猿渡文書」の記述が終わる明治初期から30年後には、島人の移住という事態として知られることになった。
「猿渡文書」は愛すべき与論の姿を、そこに流れる止まったような時間とわずかな行間から伝えてくれる。
最後に、この文書を読むきっかけをくれた高梨さんに感謝する。
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