カテゴリー「41.「猿渡文書」」の20件の記事

2009/04/09

世界への猶予と脆さ

 与論から「莚」を贈り、鹿児島からは「煙草」を贈ってもらう猿渡家の贈答誌と言っていいような「猿渡文書」から見えてくるものは何だろう。

 数少ない文字による記録という意味では学ぶことは多い。当時、「赤佐湊」が主な港であったこと。住徳丸、稲荷丸といった数多い大和船の名称、手紙やそれ以上の重要なメッセージを託す船頭の重要性、沖永良部や山原、琉球との交流の深さなのである。

 しかし最大の関心事である、与論の島人の表情や息遣いといった面からみると、伝わってくるのは世界への猶予と脆さだ。

 黒糖の惣買入が1857年に始まるという奄美の中の遅延ということもさることながら、「変勤(動か)があった事をうわさできき」(明治維新)、「会津え出陣」(戊辰戦争)といった世界の動きがぼんやりした噂のように到来するということ、また、黒糖不作の責任が問われたとき、島役人の喜周、喜美應、實喜美は謹慎させられるも最終的な処分を島内あるいは沖永良部の代官では決められずに大和にまで伺いにいくというような延ばされる時間は、与論らしい世界からの猶予を感じさせる。世界は噂のようにゆっくりやってきて、ことも噂が収まるのを待つように収束する。それが、与論の世界に対する距離でありそこに生まれる猶予なのだ。

 しかし、ひとたびそこに世界が到来すれば、その影響は計り知れない。飢饉や台風の到来はたちまち深刻な事態に発展し、島人は「蘇鉄で命をつなぐ」しかなくなる。「猿渡文書」で最も切実な言葉は、「蘇鉄で命をつなぐ」ことだ。島人の危機は、惣買入によってのみもたらされたものではなく、台風によるものでもあるが、惣買入のような全島を覆う制度は何かを契機にしてすぐさま、深刻なダメージをもたらす。それは、小さな島の脆さだ。この脆さは、「猿渡文書」の記述が終わる明治初期から30年後には、島人の移住という事態として知られることになった。

 「猿渡文書」は愛すべき与論の姿を、そこに流れる止まったような時間とわずかな行間から伝えてくれる。


 最後に、この文書を読むきっかけをくれた高梨さんに感謝する。


 
 

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2009/04/08

与論島の砂糖きび生産量は、惣買入期と比べてどのくらい多いのか

 ここに与論島の砂糖きび生産高についてデータがあるので、惣買入時期と比べてみる。

 「与論島における集落営農によるさとうきび増産への取組」

 生産量だけをみると、2006年は21,000トンの砂糖きびが生産されている。「南嶋雑集」によると、1863年は、11町で23万斤の黒糖を生産している(「食糧自給力の収奪」)。23万斤の黒糖を「百六砂糖」で換算すると、2,300トン相当の砂糖きびになる。

 砂糖きびの量でいえば、2006年は、1863年の9倍も生産していることになる。生産量は当時と比べて格段に増えているわけだ。面積は5倍。

 ただ、データによると2006年は災害の影響が大きいので、近年で生産量の多かった2000年を採ってみる。この年、591haから44,000トンの砂糖きびが出来ている。

 これは、1863年の19倍だ。1863年の生産効率を1として比べてみると、

 1863年  1
 2000年  3.6
 2006年  1.8

 与論島で砂糖きび生産が始まって20年も経たないころに比べて、それから1世紀半後の現在、砂糖きび畑は5倍相当に拡大している。生産効率は、当時の2~4倍まで成長。ただ、効率は上がっているが、災害の影響を受けやすいのはあまり変わっていない。

 当時の与論光景を想像しようとすれば、まず、砂糖きび畑は、いまの5分の1だったことを覚えておこう。ちなみに想像したいのは、もうひとつあって、44,000トンの砂糖きびを全部、黒糖にしたらどのくらいになるか。

 もう一回「百六砂糖」を用いると、2,640トンの黒糖になる。これを、500gで1袋として400円で販売したとしたら、528万袋、21億だ。これだけ見ると、なかなかな市場である。


(記事とは無関係ですが、人形町の桜)
Sakura1_3Sakura2_3

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2009/04/07

宇和寺半田遠島はいつ起きたのか

 ぼくの祖先は、近世期、ときの代官の命に従わなかったために、「茶花」に置いておけないとして、「宇和寺半田」(わーでぃらぱんた)へ「遠島」されたと言い伝えられている。「遠島」といっても与論島内のことだから、追放というのが当たっていると思う。当時の宇和寺は、いわゆる山原(やんばる)で陸の孤島、そういう意味でも、追放という言葉が合っている。

 自分の住んでいたところは宇和寺だったから、この言い伝えを、住む場所で実感してきた。「それ」以来、ここにいるんだな、と。けれど、「それ」はいつ起こったかになるとよく分からない。「猿渡文書」を読む楽しみは、万が一、そんなエピソードが飛び出してこないかと思ったこともあったが、そうは問屋がおろさず、なかった。

 野口才蔵の『南島与論島の文化』によると、それは6代前の「森久保」が起こしたことだという。1976年出版の本で6代前、とある。いま、試みに、1代を25年とすると、1976年時点での6代前は、

 1976-25*6=1826

 で、1826年になる。

 「猿渡文書」は1853年から1873年までの記述だから、1826年前後は、猿渡彦左衛門の前か、その前ということになるだろうか。そのときの沖永良部島の代官は誰なのかは知らない。こんど調べてみよう。逆らった代官が、沖永良部の代官なのか、与論の詰役なのかも分からない。1821~1823年には、野村甚八が与論島の詰役だったと『道之島代官記』にはある。まあ言い伝えが「代官」なのだから、代官として探ってみよう。

 1826年前後といえば、与論にはまだ黒糖生産は始まっていない。わかるのは「猿渡文書」のときには既に、わが祖先は宇和寺に住んでいただろうことだ。「猿渡文書」のような記述としてあると、1862年の黒糖不作による与人の責任問題(「1862年の謹慎」)のように、島人の表情がわずかではあるが見えてくるときがある。宇和寺半田遠島についても、そういう記述に出会えたらとても嬉しいのだが。


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2009/04/06

明治6(1873)年の「勝手賣買」

 明治6(1873)年、「猿渡文書」の最後の記述。

一筆書いて申し上げます。まず以て尊公様を初め御家内中の皆々様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島においても家内共異状なくすごしておりますれば恐縮ながら御意を安んじ下さいますよう御恩召し下さいませ。それで三月四日御出しになった御手紙六月二日沖永良部島から届き有難く拝見いたしました。書属官にお勤めのようで三四島を御巡回の御勤めの事を仰せきかされ、有がたく家内共は大よろこびいたしました。それはそうとわ私去年津口横目重を仰せ付けられつとめておりましたる処、右役の跡に代り作見廻りを仰せつけられ有難く精勤いたし勤務しておりますので、恐縮ながら申し上げました。

 いつもの儀礼的な挨拶。そして、3月4日に出した手紙は、6月2日、沖永良部から届いた、とある。三か月もかかっている理由は分からないが、当時の時間感覚が表れている。ときは明治6年だが、「巡回」、「見廻り」など、近世期がそのまま続いているような仕事内容だ。

さて去年順中丸(順通丸か)船頭山川の十左衛門え頼み手紙と尺莚一束二枚差登せしましたが、届きましたでしょうか。恐縮ですが申し上げます。年貢米代と品物代を差し引いた残り砂糖の分は勝手賣買を仰せつけ下され度、年に与人。横目・書役一人が上縣して勘定(決算)いたします。

 そしてまたいつもの「莚」の話だが、与論にも時代の波がやってきいているのは、「勝手賣買」の文字が見えることだ。「年貢米代と品物代を差し引いた残り砂糖の分は勝手賣買」と、ある。このとき、大島商社による専売制は与論に及んでいなかったということだろうか。

時に仰せられ度、右については御品物代と御米代をとり決め、いろいろについては興人前里間切横目直嘉和書役實治が上県いたし恐縮ですがお尋ね申します。その時は砂糖製造の時分で樽と外に砂糖を過分に持登せしますけれども、製造がすんで出来砂糖が二十九万四千三百五十斤余出来上りましたので、御米代と御品物代の内七八千斤余は未進となり都合が悪いことでございますけれども勝手賣買を仰せられ下さい。それで寄未進になるつもりにございます。さて近頃軽少で恐縮でございよすが、小樽二挺誠に手紙を書きましたしるしまでに進上いたし度、この節住栄丸の船頭喜平次え頼み許し登せよすのでお納め遊ばされ下さるようにして下さい。まずほんの御礼と御機嫌を申し上げたくこのようにございます。なお後便をおまちしています。恐惶謹言

酉七月廿四日     実富
猿渡彦左衛門様

 黒糖は、29万4350斤。1861年は16万斤だから(「但し、御見賦の中から四万斤余の引きこみとなり」)、12年間で13万斤余の増加。184%の増加。与論は小さく、大きな生産の見込めない島だが、そこで、12年間に2倍近い規模になった。第二次惣買入の徹底度はここにも垣間見ることができる。

 ここで、「猿渡文書」の記述も終わっている。


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2009/04/05

1870年の五度の台風

 明治三年(1870)のこと。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦に存じます。次に当島においても私共異状なくすごしておりますれば恐縮ですが御意を安んじ下さいますよう思召し下さいませ。それでは当三月七日の相生丸の下島便で御手紙と重宝な御品物を送り下され特別に有難く御礼を申し上げます。その上にまた彦一様御両人が御上京なされましたが追々御下国されます事を承知いたし、おめでたき御事と存じ奉ります。ことに去る夏上国しました喜久里事も右便で下島になり直接に御国許の事かれこれ承り、なおまた大悦びいたしました。

 いつもの儀礼的な挨拶。そして、喜久里の帰島。

さて当与論島の儀、去る夏の時分は諸作物の出来がよろしく豊年だと島中よろこんでおりました処、八月から同十一月まで三ケ月の内めずらしく五度も大風があって汐風が陸に吹き揚げ人家等が次々にみな吹き倒され、諸作物もすべて吹き損じ、島全体が食料に困り蘇鉄のおかげで当春までようやく命をつなぐ有様でした。島え黍作を初めてから去年まで年々御品物上納分を差し引き残りは余計糖として、右の代米を年々御配当下され島中は喜んでおりましたけれども、当春の砂糖出来高は四万六千斤余でして、御品物上納分の内から三万何千斤余は未進となり黍地一反に二畝ツツの差し重ねを命ぜられ、毎年とちがって諸作物も痛損に及び過分のかかりあいとなり、何やかやと島中大困りで非常に不愉快なことでございます。

 維新の前後には、旱魃があった(「維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ」)が、明治三年には、8月から11月の間に、5度も台風が来ている。汐風が陸に吹き上げ、作物にも損害が出て、島全体が困り果てて、蘇鉄のおかげで春までようやく命をつなぐあり様でした。

 黒糖の出来高は、4万6000斤で、3万何千斤かは未進とある。これから7年前の1863年には、23万斤を生産しているから、この4.6万の出来高の意味が分からない。台風による被害の結果、ということだろうか。

去る夏仰せ下された筵の事、当春は早便の内から調えて差し登せ進上いたしたいと存じておりましたけれども、去年までは前行で申し上げました通りの世振りが相続き諸作物つくりもおそくなって当島からの登船には間にあわず、備後蘭の刈り方も五月末になり丁度その時沖永良部島えの便船があり、彼地え積み渡しの利憲方の便船に仕登せ方の噂してくれる様に持ちこんず頼み、差し登せ進上いたしましたので御笑納下さいませ。まずは右御礼と御機嫌伺いをしたく愚札を呈しました。恐惶謹言
午六月二日
猿渡彦左衛門様

 そしていつものように、「莚」を送るということが続く。

 台風によるダメージは、島人の命にかかわっている。事実、この30年後には、命をつなぐため、筑豊への移住が始まる。


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2009/04/03

維新前後の旱魃は蘇鉄で命をつないだ

 1869年、明治2年。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様を初め御家内の皆様御揃いでますます御機嫌よくあらせられ恐悦の御事と存じます。次に当島において両家内共異状なく過しおりますれば、恐れ多い事ですが、御意を安んじ下さいますよう思召し下さいませ。さて当春下り住栄丸の便から御手紙と在によりの御品物をとりあわせ別紙の通り御おくり下され両家内ともよろこび、特別有難く御礼を申し上げます。

 ここまでは決まり文句のような儀礼的挨拶。

御家内御方へよろしく御礼申し上げるよう御願い申します。さてまた御国許では去夏から変勤(動か)があった事をうわさできき知りおどろいている処で、御子息様御両人とも御出陣あそばされ、何方においても勝ちいくさで首尾よくあられ、御帰国なされた事御手紙で拝見お役目ながらこの上もなく御大切なことと大悦びの御事とめでたく御祝儀を申し上げます。なおこれからの御尊名をお待ち上げ申しています。

 維新は、「変動」と言われている。そのうわさ、そしてご子息が出陣したこと、無事なことが喜ばれている。
 だが、与論にとって大事なのは次のことだ。

なおまた当島の事、去る夏以来長々と干魅がつづきその上に二度の大風で汐風が陸地にふき上げ諸作物が痛み損じ皆々食料も蘇鉄等で当春までようやく命をつないできました。当年春先から少し余分ができ、諸作付方も惣仕付に精を出しております。これから先風早の旱害さえなければ当秋はかれこれの出来になる事と存じて上げ申しております。

 与論は、1868年の夏以来、旱魃が続いて、その上、二度の台風で汐風が陸地に吹きあげ、諸作物が痛み損じ、みんな食糧も蘇鉄などで春までようやく命をつないできた、とある。

 維新の年を与論は蘇鉄で凌いで生き延びたことが分かる。

この節御慶事があって当島與人喜久里が上国主ましたので つとめて二人のうち一人が参上し殿様の御尊顔を拝し奉り、また私共の形行等も申し上げたくおもい望んでおり申しておりますけれども、前文で申し上げました通りの世振については思いのままに願いがとどかず残念ながら不本意の至りのまま気が入りまじっています。但し仰せ下された莚の事当春便から御趣意通り差し上げたく思っています処、当分蘭を持ち合せておらず、ようやく脇方から備後蘭五枚さがしもとめ枚数が少なく恐れ多く存じ奉りますけれども、調いました分の員数を差し上げおき、残りの分はおいおい新しく出来た蘭を調へおき、来春便で差し登せ進上致しますので、恐縮でございますがそのように思し召し上げ下さるようにして下さい。なおまた当島書役の富静は前々からずっと親しく子弟同様顔をあわせているものですが、この節御献上物取仕立方として喜久里について上国いたしましたので当島形行と私共すべてがすぐに参上し申し上げできるようにと頼んでおきましたので、恐縮ですがお聞き召し下され、御国許のかれこれをさら豆また仰せつけられ下さるようお願い申し上げます。まずは御機嫌伺いとこれ等いろいろの御意を得るため愚札を呈しました。
猶後日の喜びを期したいと思います。恐惶謹言
巳五月三日
猿渡彦左衛門様

  御役人衆

 この時期に、与人の喜久里と書役の富静は、慶事で上国している。「喜」と並んで「富」も、与論ではよく使われていると思う。


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2009/04/02

1866年の豊作

 あの謹慎事件(「1862年の謹慎」)から4年後の1866(慶應2)年のこと。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様お初め御家内の皆様ますます御機嫌よくあらせられ恐悦至極に存じます。次に当島に於いて家内共も異状なくすごしおりますので、恐れ乍ら御意を得るものと考えています。されば去丑九月廿三日の御手紙は当二月廿三日大和船が二艘入着いたし、右便から届き有難く拝見いたしました。その上何よりも珍しい重宝な御品々を御送り下され家内共が大そう悦んでおりますので、ことさら有難く厚く御礼申し上げます。

 2月23日に大和船が二艘着いて、手紙と「珍しい重宝な御品々」をもらい、みんなで喜んでいる。

そして又御敷用の莚をおいいつけ下され、早速ととのえ当春便から差し登せる賦でございますけれども、当島の儀も仰せ下された通り、去年諸作物が不作で蘭作りまでも蘭がみなみな枯れはててすててしまい定納莚分も調いかねる程でございまして、当春便からは調えることができず誠に以て恐れ多き次第でございます。当年でも持合いの者がございよすが、善悪いろいろとあり差しあたり手に入れる事がむつかしうございますので尺位のよろしいものの中からえらんで来春便から御敷用の莚をそえて差し登せ度ございますので、恐れ乍らその様にお考え下さいませ。

 「莚」を言いつけられたが、竜舌蘭が「みなみな枯れはててすててしまい」、納めるよう定められた「莚」分も用意できないほどだ。

 でも注目されるのは次の記述だ。

さて当春の砂糖製造の件は殊の外の豊作で、島の出来高は二十口万三千三百六十斤入樽二千三百七十四挺でその内より二千挺は二艘の船で積登せ残り丁数は永良部島え下着船よりの□寄船で積登せる事を承りました。但し当島の砂糖製造の初めから当春は出来増でございますので、小樽六丁を差し登せ度につめていますが、御免を貰う為に役々方えお頼み申しますが、小樽一丁の免を貰う為には打わた一反ツツ差し出さなくては免貰いが出来兼ねない次第でございます。ようやく三丁の免を貰いたまたま一丁につめおいてあっても思いのように調い申さず心残り多き次第にございます。それによって近頃軽少で恐縮に存じますが、小樽一挺表紙袋二ツ誠に手紙を書いたしるしまでに進上致し度、この節正一丸船頭陽田龍次郎方え頼み差し登せ申しますので御受納遊ばされ下さるようにして下さい。まずは御礼と御機嫌窺い奉り上げ度この様でございます。猶後便をおまちしています。恐惶謹言
寅三月廿五日

猿渡彦左衛門様   御役人衆

 1866年の黒糖製造は、「殊の外の豊作」だった。出来高は、2□万3360斤。残念なことに、二十何万斤かは、文字が読めないのだろう、伏せ字になっている。樽2374挺のうち、2000挺は二艘の船に載せ、残りは沖永良部島へ寄る船に載せる。

 以下のことは、またしてもよく分からない。ただ、与論が黒糖の豊作を経験したことが、印象に残る。


 

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2009/04/01

1862年の謹慎

 「莚」と「煙草」のやりとりのオンパレードのように見える「猿渡文書」のなかにも緊迫した記述は出てくる。というか、唯一といっていい記述がある。戌の年、文久2(1862)年のことだ。

別紙を以て申し上げます。当島での砂糖製造は四月廿日までで済みました処、御見積の中から四万五千斤余引入れることになり、二十二万四千五百斤の出来となり、入樽にして千七百四十丁の中から六百五十丁住徳丸九百挺稲荷丸の両艘え積み登せ残り九百丁は当分積船がございません。当春の自作砂糖の御初を進上致したく小樽七丁を入れ付おき、御免の御願いを申し上げきたる処、一島中見賦りの中から過分の引入れについては御ゆるしがない事を当御詰役福山御方様から仰せ渡され是非もなく調わず残念でございます。かつ又当春は黍地すべてに派遣になりその上新古とも坪毎に肥をもち入れて差し出すことになりましたので、来春は出来増(増産)となり自作砂糖の御初も進上できるつもりでございますのでその様にお考え下さるようにして下さい。

 五月廿三日

 また、製造黒糖が足りないという話題である。4万5000斤が不足で22万4500斤というから、26万9500斤あるいは27万斤が見積もられていたのだろう。

 樽にして1740丁のなかから650丁を住徳丸、900挺を稲荷丸に積み、残り900丁は当分積む船がない(この辺は単位がよく分からない)。この春の自作砂糖の初物を進上したく「小樽七丁」を入れて許しのお願いを申しあげたが、不足分については許しはないことを、詰役の福山様から言われ、調達できるわけではないので残念です。と、不足分が問題視されていることが言われている。

 これに続けて、与論の島役人の責任問題が浮上する。

   写
                    古里村掟
                      實喜美
                   茶花村綻
                      喜美鷹
右は当分申し渡しがあるまで勤務をさし控え在番に居る様申し渡す。

   右申し渡します。

戊正月廿四日   福山清蔵   当番 与人
      1月24日、詰役とあった福山清蔵により、古里村掟の實喜美と茶花村綻の喜美鷹は、謹慎?とされる。


               与論島書役
                       喜周
               同島
               茶花村掟
                       喜美應
               同島
               古里村掟
                       實喜美
 右はうわさがきかれるので謹慎を申し付ける。
 右申し渡します。
戊三月四日 代官勤

       黒葛原 源助    当番 与人え

 3月4日には、實喜美と喜美鷹の他に、与論島書役の喜周も謹慎。「うわさがきかれる」というのはどういうことだろう?

    写           与論島
                東間切
                     与人 喜久仁
                同島 右同
                間切横目  實有子

吟味(くわしくとり調べること)の訳があるので、何分申し渡しがあるまで勤務方を控えて在宿を申しつける。
 右申し渡します。
戊二月廿七日 代官勤 黒葛原源助  当番  与人え

 2月27日、取り調べがあるので、喜久仁、實有子は謹慎?

恐れながら私事不行届の事があり、右の通り仰せ渡され驚いているところでどのような御吟味が仰せ渡されるのでございましょうか。恐縮しており、どう申し上げてよいかわからず、恐れ多い次第でございます。
 戊六月二日
別紙を以て左の通り申し上げおきます。

恐れ乍ら私共事不行届の件があって別紙の通り仰せ渡され恐縮している処当島の御詰役様方御方での吟味の始末がつかず、大和え御伺い遊ばされるとの事を承り、尚又驚きどの様に申し上ぐべきかいいようもございません。恐縮ですが私事のなりゆきの過程を申し上げたく存じますけれども、細かい事はこの節稲荷丸船頭藤井平兵衛方から申し上げくれますように頼みおきましたので恐縮ですが、右から御聞き取りすみ遊ばされ下さいます様にお願い申し上げ奉ります。以上

 6月2日、与論の詰役では取り調べの結果が出ず、大和へ伺いに行くと聞き、驚いている。事態が大きくなっていくさまに当惑しているのが伺える。

 しかしこの件についての記述はここまでで、次はもう翌年の話題だ。ここに上がっている島役人の名はそのまま出てくるから、何か大事が起こったというようにも見えない。大山鳴動して、だろうか。

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2009/03/26

赤佐湊とはどこか

 「猿渡文書」では、与論の出入り口として赤佐湊がよく出てくる。盛窪さんとも話題になったのだが、この赤佐湊とはどこのことだろう。

 珊瑚礁を削って口をつくった江が島桟橋は、当時、無い。「琉球国大島国絵図」を見ると、いまの茶花港に入ってきているように見える。あそこに大型船は寄れたのだろうか。うどぅぬすーに入る手前、公民館のところは小高い丘になっているが、あそこだろうか。

 もうひとつ気になるのは、赤佐湊に入る道のことだ。北からの道と南からの道が合流して、赤佐湊に通じている。この道はどこだろうか? 町役場前の通りではない気がする。すると、茶花港にくだるあの道だろうか。で、北への道は図書館の前を通り、茶花小学校の手前で北に向かう、あの道?

 赤佐は、「あがさ」とあるが、麦屋は「むきゃ」とある。そう聞こえたのだろう。 

Yoronchizu
Ryukyukoku1_2

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2009/03/25

「昨年は凶作のため旁こまりはて」

 文久元年(1861)年、3月に、黒糖が16万斤しかできず4万斤足りないと記述のあった、翌月の手紙(「但し、御見賦の中から四万斤余の引きこみとなり」)。

一筆書いて申し上げます。まず以て
尊公様ますます御機嫌よく遊ばされ恐悦至極に存じます。次に当島において私も異状なく過しておりますれば、恐れながら御意を安んじます様思召し下さいませ。そこで残り砂糖六百六十九丁は先月廿八日宝来丸便え渡し、そのうち今月五日に半分は積み入れ日和次第定納物(年貢、又は藩に治める品物のこと)もすべて積みこむ賦りでございます。また御見賦の内から過分に引きこむことになりました処、小樽の件は全部御ゆるしがでず四十六丁の御免許のうち実喜美両人ありあわせのうちとしてわずか三丁だけ御ゆるしとなり別紙の通り宝来丸の船頭に頼んで御届先え差し登せたいと存じておりますので、その様にお考え下さるようお願いします。外に尺延五六束だけでもそえて差し登せ度く存じておりますけれども昨年は凶作のため旁こまりはて、そのことがととのわず誠に恐縮している次第でございます。まずは右のことと御機嫌伺いの為にこの様なことでございます。猶後便にて御便りをさし上げます。恐憧惶言
酉四月七日
猿渡彦左衛門様   御役人衆

 昔の手紙では、「まず以て」で改行することになっていたらしい。全部そうなっている。で、中身は、
 黒糖669丁は3月28日に宝来丸へ積み、4月5日に半分を、日和次第で年貢もすべて積み込む予定。

 と、ここからがよく分からないところなのだが、
 見積もりから過分に足りなくなったところについて、「小樽の件」は全部許しが出ず、46丁の免許のうち、実喜美両人のありあわせのうちわずか3丁だけ許しが出て、宝来丸の船頭に頼んで運んでもらうつもり。他に莚56束だけでも添えてと思うが、昨年は共作のため困り果て、それもととのわず誠に恐縮している。

 ぼくは「小樽の件」の意味が分からない。贈答用のことだろうか?

 ともあれ、黒糖を積む量は船ごとに正確に報告しているのが分かる。それともっと大事なのは、1860年から1861年にかけて、島は凶作でゆんぬんちゅ(島人)も難儀しただろう、ということ。


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