与論イメージの冒険
与論イメージは、与論の自己像と他者による与論像のキャッチボールのなかに浮かび上がるとすれば、与論イメージは今、どこにあるだろう。
与論のイメージは、「ゆんぬ」から始まる。これは仮定だが、それは自称に始まり、他称にもなった。
続いて、与論は「ゆんぬ」の上に「与論」というイメージを重ねる。それは、他者による与論像に始まり、自己像としてかぶさって来た。
与論の場合、イメージはそれに止まらず、「ゆんぬ」を深層化しながら「与論」を重ねるが、その上に「ヨロン」が乗る。「ヨロン」は観光化に対応したものだったが、ここでイメージに変化が起きる。与論島は「ヨロン」になることによって行政区域を離れ、「東京都ヨロン島」になった。これは単に観光としてのヨロン・ブームを意味しただけではなかった。与論が「ヨロン」になったからこそ、「東京都ヨロン島」というイメージ上の連結を可能にしていた。
それだけではない。この「ヨロン」は、自家製のもの、自己像なのだが、ここに「ヨロン島(じま)」と「島」がついて他者に手渡されたとき、「ヨロン島(じま)」は「ヨロン島(とう)」になった。「ヨロン島(じま)」が「ヨロン島(とう)」になるということは、与論イメージが国内から海外へイメージされるものになることを意味していた。
そしてそれは自己像へも返り、自己像としても「ヨロン島(とう)」は浸透していった。それを証しだてるように、与論は、「ヨロン」のうえに、「パナウル王国」というイメージを加えるのである。「パナウル王国」とは、「ヨロン島(とう)」という他称に対応した自己像であり、「パナウル王国」はその語感も王国という名付けも外国イメージに源泉を持っていたのである。
与論イメージの冒険はまだ続きがある。「パナウル王国」の自己像から四半世紀の24年後、『めがね』という映画によって、与論は、「この世界のどこかにある南の海辺」という他称を得る。ここで与論イメージはもう外国でもない。国内風ではあるが、国内と名指されているわけではない。それは、「この世界のどこか」なのだ。
この、「この世界のどこかにある南の海辺」というイメージは、多様なメタファーになって、与論イメージを豊かにする可能性を持っている。これから、与論は、それに対応した自己像を作ってゆくだろう。そしてそうするのが、いいのだ。
「与論イメージを旅する」21 了
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