カテゴリー「40.与論イメージを旅する」の21件の記事

2009/02/23

与論イメージの冒険

 与論イメージは、与論の自己像と他者による与論像のキャッチボールのなかに浮かび上がるとすれば、与論イメージは今、どこにあるだろう。


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 与論のイメージは、「ゆんぬ」から始まる。これは仮定だが、それは自称に始まり、他称にもなった。

 続いて、与論は「ゆんぬ」の上に「与論」というイメージを重ねる。それは、他者による与論像に始まり、自己像としてかぶさって来た。

 与論の場合、イメージはそれに止まらず、「ゆんぬ」を深層化しながら「与論」を重ねるが、その上に「ヨロン」が乗る。「ヨロン」は観光化に対応したものだったが、ここでイメージに変化が起きる。与論島は「ヨロン」になることによって行政区域を離れ、「東京都ヨロン島」になった。これは単に観光としてのヨロン・ブームを意味しただけではなかった。与論が「ヨロン」になったからこそ、「東京都ヨロン島」というイメージ上の連結を可能にしていた。

 それだけではない。この「ヨロン」は、自家製のもの、自己像なのだが、ここに「ヨロン島(じま)」と「島」がついて他者に手渡されたとき、「ヨロン島(じま)」は「ヨロン島(とう)」になった。「ヨロン島(じま)」が「ヨロン島(とう)」になるということは、与論イメージが国内から海外へイメージされるものになることを意味していた。

 そしてそれは自己像へも返り、自己像としても「ヨロン島(とう)」は浸透していった。それを証しだてるように、与論は、「ヨロン」のうえに、「パナウル王国」というイメージを加えるのである。「パナウル王国」とは、「ヨロン島(とう)」という他称に対応した自己像であり、「パナウル王国」はその語感も王国という名付けも外国イメージに源泉を持っていたのである。

 与論イメージの冒険はまだ続きがある。「パナウル王国」の自己像から四半世紀の24年後、『めがね』という映画によって、与論は、「この世界のどこかにある南の海辺」という他称を得る。ここで与論イメージはもう外国でもない。国内風ではあるが、国内と名指されているわけではない。それは、「この世界のどこか」なのだ。

 この、「この世界のどこかにある南の海辺」というイメージは、多様なメタファーになって、与論イメージを豊かにする可能性を持っている。これから、与論は、それに対応した自己像を作ってゆくだろう。そしてそうするのが、いいのだ。


「与論イメージを旅する」21 了


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2009/02/22

「パナウル王国」から「この世界のどこかにある南の海辺」へ

 ぼくたちは、「パナウル王国」が、外国イメージとして成立しているヨロン島(よろんとう)という他者からみた与論像に対応させた、外国としての与論島の自己像であることまでを辿ると、2007年の映画『めがね』の与論イメージの意味を正しく受け取ることができる。

 与論をロケ地にした映画『めがね』は、舞台を与論と言わずにヨロンともせずに、「この世界のどこかにある南の海辺」と設定していた。「この世界のどこかにある海辺」とは何だろう。

 それは、与論イメージの旅の文脈からいえば、「この世界のどこかにある南の海辺」とは、与論イメージが提示した外国としての与論イメージの自己像である「パナウル王国」に対する他者からみた与論像、なのである。

 パナウル王国という自称に対して、旅人は、外国っぽい島というより、いやそういうなら場所をどこかと設定するより、「この世界のどこか」と設定しないほうがいい、むしろ、そういう場所として、ここは生きている。そう感じ、そう答えてくれたのである。

 パナウル王国という自称に対する、他称のこの応答は、重要だった。ある意味で、「東京都ヨロン島」と、地図上の一点を離れた与論イメージは、東京から外国へと辿るが、外国で終点とならずに、「この世界のどこか」と、場所を特定されない場所という自由を獲得していく。もうこうなれば、与論イメージの場所は、イメージする人任せのどこにでも遍在する場所になるのである。そこに指定されているのは、ただひとつ、「南の海辺」ということだけだ。

 ぼくたちは、「この世界のどこかにある南の海辺」という設定が、あの二重の疎外からの解放感をもたらしてくれるのを感じる。そしてそれだけでなく、この設定は、螺旋を一周まわって、再び、山之口獏の「会話」に言う、「南方」と同じ答え方をしているようにも見える。

 ただ、「この世界のどこかにある南の海辺」と「南方」は言葉の意味は同じでも、その志向性は異なっている。山之口の「南方」は、問いかけをはぐらかし、問わないでほしい、ぼかすための答えだが、『めがね』の答え方は、「どこ?」という問いかけに対して積極的に答えない。むしろ、「探してごらん」と静かに挑発しているのだ。ぼくたちは、ここの二重の疎外の克服形のひとつに出会っているのである。これは画期的なことではないのか?

 この達成は、もちろん荻上監督に帰せられるべきものだが、ここに与論の寄与を想定してみれば、ゆんぬから、与論、ヨロン、パナウル王国と、与論イメージを積み重ねてきたことが、「この世界のどこかにある南の海辺」という想定を可能にしたと言うことができる。

 「この世界のどこかにある南の海辺」という他称に対して、与論イメージはどんな自己像を対置していくことになるのか。それは、与論の、与論ならではの二重の疎外からの克服になるに違いない。それは、与論イメージ最大の冒険かもしれない。


「与論イメージを旅する」20


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2009/02/21

「パナウル王国」とは何か

 「ヨロン島(とう)」が、他者からみた与論イメージとしてひとり歩きしてから約10年後の1983年に、与論は、「パナウル王国」を独立させる。

 当時の状況を浦島悦子は、印象的なエッセイ集に収めている。

 奄美大島がこのほど〝独立〃した。-といっても、わたしたちのような極少数の自称「自立・独立派」の運動が功を奏したというわけでは、もちろんない。最近、日本の各地で、おもに観光目的のために○○王国だの△△共和国だのが、やたらと「建国」されているが、奄美大島の場合もそれと似たようなもので、ゴールデン・ウィークの期間、奄美青年会議所を中心に「サソサン王国」(なぜ「王国」なのかは、ちょっと理解に苦しむが)が「建国」されたのである。

 奄美大島に先立って、奄美群島のいちばん南に位置する与論島でも、海開きとあわせて「ヨロン・パナウル王国」が「建国」された。与論町の町長さんが「国王」となり、これまで与論のことなど、どこにあるのかさえもまったく知らなかったという東京の若い女性が、ちょっと顔立ちがととのっていて、歌がそこそこ歌えるというだけの条件で「女王」に選ばれ(〝独立〟記念のレコーディソグもあるらしい)、二人が王冠をかぶって並び、島内をパレードするという図は、あまりにも見るにしのびない気がしたので、わたしは見なかったけれど、「独立記念式典」を取材したテレビ番組も放映された。

 与論の人びとにしてみれば、なんとかしてシマの浮揚をはかろうと、苦肉の策として考えだしたものであろうし、その気持に水をさす気はまったくないけれど、観光客の〝異郷へのあこがれ〃にムード的に迎合するところから、はたしてシマの未来はひらけてくるのだろうか。たとえ観光目的の〝独立〃であったにせよ、そもそも観光というものは本来、そのことばのとおり、光を観る-すなわち・その国なり地域の風土と人びとが伝統的につちかってきたもろもろのもの(美しさもみにくさも、喜びも悲しみも苦しみも、すべてをふくめて)を知ることによって自分の生きかたを照らしなおすことであり、たんに表面的な景観の美しきやうわべだけの楽しさを、仕事や日常生活のうっぷん晴らし、気晴らしとして求めることではないはずだ。本来の観光とは、その国や地域の〝光″に照らされることをとおして自己変革をもかけた、きびしいものだと思う。(『奄美だより』
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 浦島のパナウル王国批評は、真摯で耳を澄ますべきものであると思うし、ぼくも「あまりにも見るにしのびない」という気持ちが分かるが、出身者まで「あまりにも見るにしのびない」と言って済ませたら身も蓋もないので、パナウル王国の可能性を考えてみたいと思う。それというのも、パナウル王国も、与論イメージの旅のなかに位置づけて考えてみることができるからだ。

 そのような中で、五十八年三月二十七日に観光協会を中心にパロディーのミニ独立国「ヨロンパナウル王国」を建国、五十九年十一月十四日、ギリシャのエーゲ海に浮かぶミコノス島と姉妹盟約を締結し、翌六十年にギリシャ図駐日大便が来島して姉妹盟約記念式典を行うなど話題を提供した。(『与論町誌』)

 与論が、ヨロン島(よろんじま)という観光用の自己像を用意し、それがほどなくして、ヨロン島(よろんとう)という他者の像としてひとり歩きしていった。ヨロン島(よろんとう)は、その発音から外国イメージとして表象されてゆく。

 パナウル王国はその後に、島の観光施策のとして登場する。こう位置づけてみれば、「パナウル王国」とは、外国イメージとして成立しているヨロン島(よろんとう)という他者からみた与論像に対応させた、外国としての与論島の自己像だった。ギリシャのミコノス島と姉妹盟約を結ぶところも、これが外国イメージに照準したものであることを物語っている。

 「パナウル王国」が、ある意味で「あまりにも見るにしのびない」ものであるにもかかわらず、いまもある部分では生きているのは、「ゆんぬ」に始まり、与論島、ヨロン島と続く与論イメージの蓄積の上にあるからである。ヨロン島(よろんとう)があって、パナウル王国は誕生したのだった。


「与論イメージを旅する」19

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2009/02/20

「ヨロン島(とう)」体験

 ぼくにとって、外国イメージを喚起するヨロン島(とう)体験は、学生、社会人になって以降、80年代の後半からだったと思う。

 ぼくは出身地を問われれば、何の媒介もなく「与論島」と答えている。そこでこんな応答を聞くのだった。

 「出身は?」
 「与論島です」
 「え?ヨロンって日本だったの?」

 「出身は?」
 「与論島です」
 「え?ヨロンって外国じゃないの? いままでプーケットとかモルジブとか、あっちのほうにあると思ってた」

 与論は、ヨロン島(とう)イメージを獲得することによって、プーケットやモルジブのお隣りまで移動していったのである。

 断っておけば、ぼくはこのやりとりはちっとも嫌ではなかった。相手が気を遣う場合は、自分のみなしを「ごめん」と謝られることも多かったが、そうしてもらいたい気持ちもちっともなかった。むしろ、外国とみなれることにどこか座りの良さを感じた。

 思えばそれは二重の疎外のくびきからの解放感があるからだろう。県名の段になって、鹿児島県と見なされたとたん、相手の頭のなかには与論が入る余地もないイメージに彩られてゆく。それはときに九州男児のイメージに発展していくこともあり、こちらには疲労感が募ってくる。また、沖縄県と見なされて、なんとなくの話で済めば楽なのだが、「おばあ、おじい」とか記号的な沖縄イメージになると、それも違うのでやはり疲労感が募る。

 それに比べたら、外国イメージは、相手の中に余計なイメージが喚起されないので、こちらも楽な姿勢でいられるということだったろう。この感じ方にどれだけ普遍性があるか分からないが、1サンプルとしてだけでも提出しておきたい。なぜならこの実感には、半世紀前、日本になること見なされることに躍起になったのとは明らかに異なる感性の表明になっていると思えるからだ。
 
 さて、他者の与論島像は、こうして東京都ヨロン島からプーケットやモルジブのお隣りまで、境界をまたいで移動していったのである。


「与論イメージを旅する」18


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2009/02/19

「ヨロン島(じま)」と「ヨロン島(とう)」

 ところで、ヨロン島(じま)とヨロン島(とう)になるということは、どういうことだろう。それは、与論イメージの浮遊度が高まることを意味していた。

 与論島は現在では、人の口の端にのぼるとき、「よろんとう」と呼ばれていると思う。ぼくはこの現象が興味深くてならない。

 まず、奄美の他の島で、「島」を「とう」と呼ぶところはない。奄美どころか、琉球弧全体を見渡しても、島を「とう」と呼ぶところはない。「よろんとう」という読みは、琉球弧でたったひとつの現象なのだ。

 いやそれどころではなく、視野を移してみれば、日本内部の島は、「しま」と呼ばれるのが通常である。国内の島を「しま」と呼び国外の島を「とう」と呼ぶという定義を聞くこともある。で、利尻島や奥尻島のように北海道の島は例外であるとされるのだが、ここでは、「よろんとう」としての与論島もその例外規定のなかに属することになる。

 数年前に硫黄島の呼称が、「いおうじま」から「いおうとう」へと変わったときがそうだったように、国土地理院はここに厳密な規定はなく、島民の意向に添うとしている。しかし、国内の島を「しま」と呼び、国外の島を「とう」と呼ぶのがほとんどの島に適用されているとすれば、ここには経緯があるはずで、それを推し量れば、近代以前に日本に服属化している地域は、「しま」と呼ばれているのではないかということだ。

 そこで、国内は「しま」、国外は「とう」という規定が大半であることを適用するなら、与論は、「ヨロン島」(よろんじま)から「ヨロン島」(よろんとう)になることによって、海外の島のイメージを獲得したのだった。

 ぼくが興味深いのは、このこともさることながら、「ヨロン島」(よろんじま)が「ヨロン島」(よろんとう)と呼ばれることに懸念の声が挙がらなかったことである。なぜなら、近代奄美・沖縄は「日本」と見なされることに躍起になってきたからである。そうだとすれば、「ヨロン島」(よろんじま)が「ヨロン島」(よろんとう)と呼ばれることに対し、それが海外イメージを喚起するのであれば、「よろんとう」が否定されてもおかしくないと思えるからだ。

 しかしそれはなかった。それどころか、今では、島人も「よろんとう」と自称するし、奄美・沖縄に良心的に心を寄せる人であっても「よろんとう」と引っ掛かりなく呼んでいる。ぼくは心ある人であれば、「よろんじま」と呼ぶべきであると言うのではない。そういうことは、つゆも思わない。与論は、奄美だけでなく琉球弧のなかでも、「とう」と呼ばれる唯一の島だが、そこには観光化体験という以外にも、与論は「よろんとう」と呼ばれても語感がいいことを根拠にしていたに違いない。この語感のよさは、「よろんじま」から「よろんとう」への移行を容易にしている。それはそれでいい。ぼくはむしろ、ここであれだけ「日本」になることに躍起だった奄美の一小島が、海外イメージを喚起する「よろんとう」を自己像として難なく迎え入れる現象に目を見張る。こだわりのない与論らしい所作だと思う。ひょっとしたら、「しま」から「とう」への読みの変化も与論ならではの技かもしれなかった。


「与論イメージを旅する」17

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2009/02/17

「ヨロン島(じま)」から「ヨロン島(とう)」へ

 ヨロン島と書けば、ほとんどの人は「よろんとう」と読むのではないだろうか。与論島と書けば、「よろんじま」と読む人もいるかもしれない。けれど少なくとも過半数の人には与論島も「よろんとう」だろう。ぼくが耳にする印象からいえば、そうなる。

 しかし、ヨロン島は最初から「よろんとう」だったわけではない。というか、いまでも正式名称としては「よろんじま」である。与論島は「よろんとう」と呼ばれるようになったのである。

 どうしてか。与論は、ヨロンというイメージを得ることによって、「ヨロン島(じま)」から「ヨロン島(とう)」になった、というのがぼくの考えだ。

 与論をめぐる観光歌謡を挙げてみる。

与論島ブルース(吉川静夫作詞 渡久地政信作曲)

逢えぬあなたをこがれて待てば
わたしばかりか海も泣く
思い出してる アダンの葉陰
逢いにまた来て 逢いにまた来て 与論島

 正確な発表年度を知らないのだが、小学生のときよく耳にした。ここでは表記も「与論島」であり、読みも「よろんじま」である。

与論のサンゴ祭り (西田功作詞 渡久地政信作曲)

夜明け白雲まっかに燃えて
波に花咲く百合ケ浜
君のクリ舟渡乗り越える
スーリスリスリ青い珊瑚の与論島

 この歌もいつ発表されたのかを知らないけれど、記憶と、「サンゴ祭り」とテーマが特定されてきているところからすると、「与論島ブルース」よりは後だと思う。これも小学生の時分によく耳にした。この歌謡でも「青い珊瑚」なのは、与論島(よろんじま)だった。

与論島慕情(山田サカエ作詞 竹山あつのぶ作曲)

青い海原 きらめくサンゴ
ハイビスカスの花も咲く
夢にまでみたヨロン島
夢にまで見たヨロン島

 これはいつだろう。中学や高校の頃には聞いていた。そして「与論島ブルース」も「与論のサンゴ祭り」もそうだが、「与論島慕情」もいい曲だ。

 この時点で、与論は、「ヨロン島」というイメージが使われている。しかし、この時点ではまだ「ヨロン島」は「よろんじま」であり、「よろんとう」とは歌われていない。

 ここから推察できる与論イメージの変遷はこういうことである。最初、与論が観光化によってヨロンと表記される事象を散見して、与論は「ヨロン島」を自称する。しかしこのとき、ヨロン島は「よろんじま」だった。しかし、「ヨロン島」という表記がひとり歩きするにつれ、それはいつしか、「ヨロン島(よろんとう)」になる。与論は、「ヨロン島(よろんじま)」として自称するが、ほどなくして「ヨロン島(よろんとう)」と他称されるようになるのである。ここで、「ヨロン島(よろんじま)」は観光としての与論の自己像であり、「ヨロン島(よろんとう)」は観光としての与論を、他者からみた自己像だった。


「与論イメージを旅する」16


 

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2009/02/16

「東京都ヨロン島」

 与論イメージは、「ヨロン島」と自称したときから冒険を始める。

 観光客の増加に伴い土産品店・飲食店・レンタル業・展示場も増え、ディスコまで建設された。
 浜は観光客の若者であふれ、白い百合ケ浜も色とりどりの若者で埋めつくされ、夏になると与論島は若者のパ ラダイスといった風情をかもしだした。
 農協通りには観光関連のお土産品店・飲食店にディスコが集中し、夜になると歩行者天国として肩もふれ合う ほど若者であふれ、活況を呈した。
 いつしかこの通りは銀座通りと呼ばれるようになり、与論島も東京都ヨロン島と呼ばれ若者に親しまれた。
 観光客の増加で大金久・兼母の海岸には露天商が立ち並びお土産品、飲食品の販売を始めた。
 この露天商は四十七年より町が国有海浜地を借り上げ、区画割をして希望者に賃貸する形で行われている。

 このほか海水浴場に隣接する民有地にも飲食店、お土産品店等の観光関連の店が次々と出現した。
 この頃(昭和四十年代)の観光の主なスタイルは、レンタサイクルで島内の名所旧跡・展示場等を巡り、グラ スボートで海中のサンゴ・熱帯魚を見、海水浴をしたあと、夜は銀座通りで興ずるという「見る観光」スタイル であった。
 観光客の急増は生活水準の向上をもたらすとともに、様々な問題点も浮きぼりにしてきた。
 ビキニ姿で島内を自由に歩き回る若い女性に対する素朴な島民の驚き、ゴミの急増に伴う処理法、水・電気不 足、また海浜における行商や客引き等の問題が生じてきたが、これらの問題点は観光客の急増する地域ではどこでも大なり小なり生ずる問題である。
 与論でもこれらの問題に対し、施設面の整備充実、各分野における自助努力等で問題解決に取りくんできた。(『与論町誌』)

 与論は、「ヨロン島」となることによって、「東京都ヨロン島」というイメージの分離・接続を可能にした。これが「与論島」のままだったら、与論町としての行政区分に足を取られて分離は難しかっただろう。ぼくも、「東京都ヨロン島」というフレーズを覚えている。耳にしたとき、与論は東京になるのかと一瞬、まともに受け止めてどきどきした。しかし誤認という以外に少年のこの感じ方を受け止めるとすれば、与論がヨロン島になることによって得たイメージの自由に心躍ったということに違いない。

 『与論町誌』の記述からは、押し寄せる旅人に驚いている島人の様子も想像できる。ぼくにとっては、海辺が東京や大阪の若者と出会う場所になっていた。そこに行くと、いわゆる共通語と関西弁を耳にした。彼らは珊瑚を採ってしまうことを別にしたら、優しかった。街中では、路上にゴザを敷きアクセサリーを売っていた。いま思えば、ヒッピー文化の到来だったわけだが、そこに若い世代の自由さを感じていたと思う。
 
 こうして与論イメージは、「ヨロン島」になることで、地図上の場所を離脱して動きはじめたのである。冒険の始まりだった。


「与論イメージを旅する」15


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2009/02/15

与論はいつヨロン島になったのか

 与論はいつヨロン島になったのだろう。ぼくはいま、詳らかにできない。『与論町誌』にはこう書かれている。

 四十年、与論島観光協会が設立され、観光産業の推進を図ってきたが、観光産業推進の柱として四十四年に与論島観光株式会社を設立するとともに、行政においても四十八年に経済課にあった観光係を商工観光課として独立させるなど、観光関連の事業推進を図った。

 第二節 東京都ヨロン島

 昭和四十二年に財団法人日本海中公園センターの田村剛博士に与論の恵まれた自然の美しきを「東洋の海に浮かび輝く一個の真珠」と賞賛され、これが与論のキャッチフレーズとして全国に知れわたるようになった。
 四十三年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映され、自然の美しきと、素朴な人情、南のさいはて性等が紹介されると同時に大島運輸(株)、照国郵船(株)による宣伝及び観光客等の誘致が展開され、離島ブームにのって与論の観光は急戦な伸びをみせた。
 四十九年二月十五日に奄美群島国定公園に指定され、交通機関も四十七年に大型客船クイーンコーラル(六千四百トン) の就航、五十一年与論空港の開港、五十二年与論・鹿児島直行便の開通へYS11機)、五十三年与論・沖縄線の開通(YS11機)、五十四年与論港の接岸開始と急速に整備され、四十四年から五十四年まで観光客の入り込みは増加を続け、ヨロン島ブームに沸いた。
 観光客の増加に伴いホテル・旅館・民宿の宿泊施設が次々と立ち並び、特に爆発的な観光需要に対応して開業したのは民宿で、それは四十四年、四十五年の初期の段階にひとつのピークがあり、次に五十年、五十二年にもうひとつのピークがありた。
 四十八年には兼母に国民宿舎「海中公園センター・ヨロン」がオープンし、与論観光のシンボルとして営業を開始した。(『与論町誌』)

 時期に焦点を当ててみていくと、40(1965)年の「観光協会」や、44(1969)年の「与論島観光株式会社」設立時には、「ヨロン島」はその名に採用されていない。ただ、44(1969)年から54(1979)年にかけたブームは「ヨロン島ブーム」と表記されている。48(1973)年には、「海中公園センター・ヨロン」オープンとあるから、この年には「ヨロン島」があったことは確かだ。

 しかし、海中公園センターは「ヨロン島」を作ったわけではなく、すでに流布されたイメージに従って採ったものと思われるから、ヨロン島が作られたのは、ブームが始まったとされる44(1969)年から、海中公園センターの48(1973)年までの間ではないだろうか。それはちょうど唐牛健太郎が与論に潜伏した時期に重なっている。唐牛は1970年の夏には北海道に移住するが、それは与論には住めてもヨロンには住めないということかもしれなかった。

 そしてこの時期はまさしく沖縄の復帰運動が盛んになり、与論が「日本」のイメージを高めた時期に重なっている。その事実は連想を呼び起こす。復帰運動をしている沖縄は「沖縄」だが、アメリカ統治の沖縄には「オキナワ」というイメージもあった。復帰運動に呼応している与論は「与論」だが、一方で「オキナワ」に呼応するように「ヨロン」というイメージも生まれた。それはアメリカではなく観光を根拠にしていたのではあったが。

 この連想が荒唐無稽でもないのは、そののち沖縄との観光パックで、「ヨロン・オキナワ」という文字通りの表記を見るようになったからである。考えてみれば、「ヨロン・オキナワ」というペアリングは、奄美のあの、二重の疎外の解消の形をしていた。


「与論イメージの旅」14


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2009/02/14

ヨロンとしての与論イメージ

 ところが、与論は「日本」としての与論イメージが強まったのとほぼ同時期に別のイメージをスタートさせていた。それは、「日本」としての与論イメージが沖縄の日本復帰とともに終焉するのと異なり、それから長い生命力を維持することになる。それは、与論イメージの旅のなかでも、冒険と呼ぶにふさわしいものだった。

 与論イメージの冒険とは、「ヨロン」のことである。

 与論の行政体は、もちろん「与論町」だが、観光主体は「ヨロン島観光協会」と自称するように、「与論」は、公的な与論イメージであるのに対し、「ヨロン」は観光としての与論イメージである。このヨロンとしての与論イメージは強く、与論島とヨロン島の二つのイメージが共存していると言っていい。

 これは特異とも言える現象で、試みに奄美の各島を、漢字表記とカタカナ表記別にそのコンテンツ量をグーグルで見ると、カタカナ表記でのコンテンツ量は、奄美随一となり、漢字表記に対する割合も頭ひとつ抜き出ている。これは琉球弧に枠を拡大しても、その特異さは変わらず、同じ現象を示すのは、慶良間/ケラマのみである。ただ、慶良間は諸島としてイメージを形成しているとすれば、単体の島でカタカナ表記を突出させているのは、与論島がユニークなサンプルを提供している。

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「与論イメージを旅する」13

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2009/02/13

「日本」としての与論イメージ

 戦後、与論のイメージが著しい意味を担ったことがある。それは「日本」としての与論イメージだ。

辺戸岬と与論島
 復帰前の六〇年代と復帰後の七〇年代では、沖縄観光のまなざしは明らかに、政治的なものから非政治的なものへ、ナショナルなものから非ナショナルなものへと変容していく。JTB発行の旅行雑誌『旅』の記事から、この変容を見ていこう。
 『旅』 に沖縄関連の記事が増えるのは、六〇 (昭和三五)年からで、この年の九月号には田宮虎彦「見てきたばかりの沖縄の素顔」が掲載されている。作家の田宮はまず、本島最北端の辺戸岬(へどみさき)を見に行ったた。北緯二七度線で沖縄と日本本土が隔てられ、当時の国境最前線で鹿児島県最南端の与論島が、ここから見えた。六〇年代は辺戸岬が、「日本が見える岬」として特別な意味をもつ場所だった。
 観光業よりも国家が、ツーリスト田宮のテーマだった。田宮は、案内人がすすめた景勝地の茅打(かやうち)バンタでなく、あくまで辺戸岬と与論島にこだわった。紺碧の海の北に、遠く日本が見える。彼は、沖縄から祖国を見る喜びと、祖国からこの沖縄が切り離されている哀しみを、ともに味わう。「私は、ここでは単なる旅人ではなく、日本から来たということが大きな意味を持つ日本の旅人なのだ」。『沖縄イメージを旅する―柳田國男から移住ブームまで』

 辺戸岬から見えた日本というフレーズは、沖縄の日本復帰をめぐる文脈のなかに登場する言葉だ。しかし、与論イメージを追うというモチーフからは、辺戸岬から見えた「与論」の方を問わなくてはならない。

 というのも、「辺戸岬から見えた日本」というフレーズを、与論から切り離して、与論の島人としてその言葉のままに受け止めると、へえ辺戸岬からは本土が見えたのか、と思ってしまう。まさか、与論島が日本とイメージされるなど、夢にも思えないからだ。当時、沖縄がアメリカというイメージに染まる度合いに応じて、与論島内部も日本としてのイメージに染まったに違いない。けれど、「辺戸岬から見えた日本」としての与論という場合、与論は日本の象徴の役割を担う。しかし、日本の象徴としての与論イメージ。なんて違和感があるんだろう。

 境界というのは、グラデーションとしてしか存在しない諸差異を無視して、ときに不思議な役割を担わせる。この「日本としての与論イメージ」は、与論イメージの旅のなかでも、きわめて特異な極点に位置している。


「与論イメージを旅する」12



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