カテゴリー「39.「島津氏の琉球入りと奄美」」の7件の記事

2008/09/21

更新されるべき「島津氏の琉球入りと奄美」

 1996年に発行された改訂『名瀬市誌』の「島津氏の琉球入りと奄美」はまるで戦前に書かれたもののようだった。勢い、それがどのような改訂を経て現在の姿になったのか知りたくなり、改訂前の1968年発行の『名瀬市誌』を見てみた。

 驚いたことにというか、ひょとしたらの予想通り、「島津氏の琉球入りと奄美」は、改訂前の『名瀬市誌』と同じだった。「島津氏の琉球入りと奄美」は改訂されていないのだ。驚きは二重になる。1968年に戦前の精神類型を思わせる郷土史が書かれていること、そしてそれ以上に、それは28年を経過しても顧みられることなく、そのままの形で改訂版に掲載されたのだ。

 いったいどうしてこういうことになるのだろう。

◇◆◇

 ぼくにしてみればこれも驚くべきことなのだが、1968年発行の『名瀬市誌』の「まえがき」は、原口虎雄が書いている。ぼくはかつて、

要するに戦国末期から近世初期にかけておこなわれた覇者の国家的統一事業の一環にすぎない。強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制下に琉球国も組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統l政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併呑されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』

 と書いた原口を感性の死者と評した。「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」というすさまじい開き直りにあきれ果てたからだった。この『鹿児島県の歴史』は1973年に発行されているから、『名瀬市誌』の5年後である。『名瀬市誌』に関わったあとに、「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」と書く者に、奄美の中核都市である名瀬の郷土誌のまえがきは(実は、あとがきも)委ねられているのである。

 地方誌をつくるのに最も重要なのは、委員の人選である。私の最も欲しいのは、「歴史を知っている」という文化人よりも、むしろ土地の実情に詳しい、同郷人からも慕われる謙虚な村人である。一生を真面目に生きつづけた平凡な常識人である。既に知られている書誌学的な知識は専門家の領域である。眠っている新しい伝承や新しい史料を捏供してくれるのは、半端な文化人ではない。歴史学を意識しない実直な村落の実際家である。

 幸い島には、昔のことを昨日のことのように伝承している稗田阿礼のような語り部が多い。この点、他地方に見られぬ好条件であった。委員にたのんだ人の中には脱落した人もいたが、後にはかえってこのような真実の語り部たちと接触できる機会ともなった。もっともっと直接にその土地の人々と話し、その生活にふれることが、今後一層の努力目標とされるべきであろう。

 ぼくは、「まえがき」を書くにいたる経緯を知っているわけではないが、この原口はまるで教師である。上から目線まるだしだ。もっとも謙虚であるべき立場の者が謙虚を要請している。なぜ、名瀬の郷土誌に必要な人材に、きみの欲しい人材を聞かなければならないのだろう、原口くん。

 史料の新しい発見と共にもう一つ大事なことは、かくされた行間の意味の解読と、委員一人一人の活きた平凡な常識である。私の渡島のたび毎に、毎夜史料の解読と、割り当てられたテーマの発表と共同討議が行なわれた。深夜の町に散ってゆく委員の方々の後姿を見る時、たった今迄一人一人にきびしく当った自分を、鬼ではないかと思った。しかしこの厳しい共同討議の中から、県史を始めとする従来の奄美関係のあやふやな通説が破られていった。本誌の各委員はいずれも劣悪な条件の中で、最善の努力を払ってくれた。その結果が本誌のみに見られる新しい奄菓史の再発見である。さらに嬉しいのは、一人一人が史料の解読整理に多少とも熟し、伝承の整理にも歴史的な照明を当てるようになったことである。この名瀬市誌という成果よりも、むしろ一人一人がこれを書くようになった史学的充実の方が貴重である。

 これによれば、1968年の『名瀬市誌』は共同討議を経てできたものだ。そうだとするなら、あの「島津氏の琉球入りと奄美」も共同討議を経たものであり、しかも、原口は「一人一人にきびしく当った」という関係のなかでできたものだということになる。原口は、編纂にあたり教師をもって任じたのだ。

 奄美の空も海も底ぬけに明るい。天がける太陽は、金色の矢を投げかける。樹々の葉脈からはポクボタと新鮮な樹液がしたたり落ちて、大地を緑にうるおす。男の膚はたくましくやけ、女の黒髪の一本一本には、金色の筋がとおっている。太古のままの清らさ(美しいという意味の島語)をもっているのが、奄美の自然である。

 「太古のままの清らさ」というのは見てきたような嘘である。ここにあるのは、現在に生きる奄美の人を太古の人物であるかのように見なす視線である。こうなるとぼくは、感性の死者であると評した自分の見解を追認するしかない。

 この眠ったような平和な島々にも人間の歴史があり、時には人間を窒息させるはげしい人間支配も行われた。西暦紀元前後の日本列島は、「漢書地理誌」に、「夫れ楽浪海中、倭人あり、分れて百余国となる。歳時を以て来りて献見すと云ふ。」と述べてあるように百余の国々に分れ、それぞれに部族的な政治集団が分立していた。阿麻弥姑の祖神々話の頃の奄美も、恐らくはその部族国家の一つであったろう。しかし大島の場合、海の中からいきなり山が突き出したような峻険な地勢の所では、それぞれに孤立した小さな部落社会が海辺寄りに点在していただけで、末だまとまった政治社会を想定するには程遠いようである。このような島内だけの生活が文永三年(一二六六)の琉球附属まで続けられてきたのは、島をとりまく海洋のおかげである。

 奄美をして「眠ったような」と評するのは原口の視点をよく教えるが、表舞台に登場することだけが「眠らない」ことなら、何も見えていないに等しいというしかない。「昔のことを昨日のことのように伝承している」「語り部」の世界が見えるはずもない。

 このようなひそやかに取り残された南海の楽園が、日本史上に大きくクローズ・アップされるのは、海外通航の要衝としての海洋的位置と黒糖を主軸とする南方特産の重要性の故であった。
 奄美の島々は、常に日本本土と海外諸国を結ぶ最も重要な接点として、日本史上のポイントをなしてきた。かつて大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島の、いわゆる小琉球列島は、本土から本琉球(沖縄)へ至る「道之島」(中途の島の意)と呼ばれてきた。

道之島であるからこそ、遠い遠い遣隋使・遣唐使の頃から、日本史上に顔を出している。ことに遣唐使の中期(六七二頃~七六九頃)には、九州西海岸伝いに下って本土の最南端坊之津に達し、ここを発航地として、種子島・屋久島・道之畠を飛び石として本琉球に達し、東支那海の最も狭くなっている所を順風に乗って一気に中国に至る所謂「南島路」が、専ら用いられた。大和朝廷のいわゆる「南島経営」として、南西諸島の巡撫が盛んに行なわれたのは、当然のことであった。遣唐船による官交が止み、私交の時代となっても、坊之津と道之島の海上路線は依然として重要な意味をもっていた。倭冠史上における坊之津が中国史書に有名なのは、これを実証するものである。中国と共に新しく渡釆した南蛮紅毛と本土との交渉においても、事情は同じであった。黒潮の流れと春秋二軍の季節風をたよる航海術の時代においては、日本史上道之畠のもつ意味は、常に大きかった。これが奄美史の第一の特徴である。

 「海外通航の要衝としての海洋的位置と黒糖を主軸とする南方特産の重要性」という言い方で、薩摩の琉球侵略自体への言及は避けられている。そして、大和朝廷の「南島経営」へと接続して、日本とのかかわりのなかでのみ奄美を位置づけ、その流れとして当然であるかのように、侵略に覆いがかけられていく。

 右に述べた奄美の第一の特徴は、天保度における薩摩藩財政回復の妙手としての密貿易に利用された。だがそれ以上に重要なことは、財政改革の大本として施行された南島特産、特に黒糖の総専売制度の施行であった。苛責なき藩吏の手によって、全島が島ぐるみ黒糖工場化され、島民は黒糖奴隷化された。しかしそのお蔭で、崩壊寸前の薩摩藩は一変して日本一の富裕藩になった。近代日本の扉を開いたのが薩摩藩であるならば、まさしくそのエネルギーは奄美の島々から汲み取られたといえよう。案外に明治維新の蔭の功労者は、奄美の島民なのである。本誌の第二の特徴は、南島物産史の日本史上における地位である。

 「案外に」などというのは寝とぼけた言い方ではないだろうか。「明治維新の蔭の功労者」というが、「陰」としてしか存在しえなくなったことの因果は何も触れられない。しかも功労者といいつつ、「南島物産史の日本史上における地位」としてその評価を回収している。特産物の質と量が功労だとでもいいうのだろうか。

 右にあげた諸点については、続編においても徹底的に追求してゆくつもりでいる。しかし多くの奄美史が、藩令の表向きの厳酷さと、それに対する怨嗟の声のみに満たされているのにはいささかの疑問をもつ。本土の農村のどこに行っても、百姓に奄美ほどの余裕が残されていたであろうかとさえ、ある時は思うことがある。小さな一握り程の部落々々に、なんと豪農の家屋敷や什器、はては墳墓の壮麗なものが多いことか、もっともその反対の極には、「大島私考」や「南島雑話」に出ているように黒糖生産の発展にともなう「村ぐるみ」の潰れ村が、多く発生しているのである。家人の使役による豪農生産、かれら豪農の島役人化と郷士格化が、文政前後を境にして新しい社会秩序(衆達層が由縁人でない者からも出る。)の形成が行なわれたことは、大島代官記の年表的整理一つだけでも充分に指摘されることである。島津藩の搾取もひどかったが、それと妥協してその手先化した島役人の富の蓄積の甚だしさは、本土の「門別制度」下の百姓の生活を研究している私にとっては、白昼の幻覚のようにさえ感じられる。

 薩摩の侵略には触れないのに、黒糖収奪には「島民は黒糖奴隷化」と理解を示すかと思いきや、「怨嗟の声のみに満たされているのにはいささかの疑問をもつ」と来る。「本土の農村のどこに行っても、百姓に奄美ほどの余裕が残されていたであろうかとさえ、ある時は思うことがある」というわけだ。そういうことか、と思うことがある。この原口の言い草は、薩摩の思想が、ときに「みんな同じ」、「奄美だけ特別じゃない」と言うときの後押しになっているのだろう。というか、原口も同じ考えだったわけだ。

 ぼくもそう思う。つまり、薩摩の農民より奄美の庶民が豊かな場面があっただろう。過剰な武士団を内在させる緊張した共同性に比べ、奄美にはおおらかさの余地も、亜熱帯の自然の包容力もあっただろう。だが、仮にも奄美の歴史を編む作業において教師面をもって任じるのであれば配慮すべきなのは、こうした原口の言い方が、奄美の歴史追究に抑圧として働くだろうことである。こう言いたくなるのは、この原口の思考に符号するように、「島津氏の琉球入りと奄美」は、薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという特徴が浮き彫りになっていたからだ。何というか、単純にいってフェアな視線がそこには欠けている。

 奄美が自らの歴史を考える上でしなければならないのは、「怨嗟の声」を比較論のなかで抑圧することではなく、「怨嗟」の由来を抉りだすことである。えぐりだし対象化することである。ほんとうの比較はそのあとで充分だし、実は比較はそのあとでしかできない。いっぱしの歴史家を名乗るのなら、原口も「島津藩の搾取もひどかったが、それと妥協してその手先化した島役人の富の蓄積の甚だしさ」などと床屋政談のような言い草は控えるべきである。このまえがきを原口は緊張して書いているだろうか。確かに、島役人は情けないていたらくだと思える。しかし、島民を分断して統治させるいびつな構造をそもそも生みだした政策への批判をそのまえにまずなぜ行わないのだろう。

 かつて佳計呂麻の伊予茂に一宿し、翌日隣村の於斉という小さな夷しい部落の茶店に立ち寄った。折からお盆の直後のこととて「竜皮餅」の御馳走に舌づつみをうち、それから又何日かたって、渡達の部落で「さん砂糖」の美味にあった。いずれも遠い昔からのものであるという話だった。その時わたしの胸の中に浮かんだ素朴な疑問は、従来の奄美史の表面に伝えられている「指でなめても罰せられる」という専売制度のきびしきに対する疑問であった。一握り程の本藩役人がどんなにきびしくても、峻瞼な地勢に阻まれた孤立的な部落の血縁共同体の壁を破れるか、ということだった。賢明にも苦労人の調所家老は、地役人を大幅にとりたて、いわば軍隊の内務班のように、島人による島人の支配体制をとらせた。かくて専売体制は完成するが、それでも島人同志は血縁共同体の強い紐帯に結ばれているからその取締りにも一定のひそかないたわりがあった。それが祭り日における竜皮餅に用いられる黒糖の僅かな私用備蓄であったろうと考えられる。

このような各人の僅かな備蓄が密貿易の対象ともなったのである。このような私のひそかな疑問は、代官お膝元の大熊村でさえ、余りにその年が豊作であれば、村人が結束して黍を刈りとり、翌年以後増徴にならぬように手段を講じたが、それが代官に洩れなかったという話を採収するきっかけになった。人間の生活には適当な裏と表があることによって、バランスが保たれ、労働力の再生産が可能となる。これは、終戦後の米の供出や配給生活において、実験した平凡な生活方法であった。誰もやったことだが、それでも度をこえた悪徳な闇行為を排斥するたくましく明るい人間の理性が、確かに存在していた。藩政の専売制度下の奄美とてもその例外ではなく、封建法とそれへの農民の適応は、ある程度の余裕をもって行なわれていたのである。

 ぼくたちは奇妙な理屈に立ち会っている。これだけの長い文章を使って、原口が言うのは、黒糖収奪には「ゆとり」があったということだ。ぼくも、ここは再びそうした事実は個々の場面としてあっただろうと思う。あの名越左源太にしても島人から砂糖菓子を頂戴いている。島人は黒糖の味を知り続けてきたに違いない。だが、ここでもまた原口はそのことを指摘しておきながら、奇妙な回収を図っている。まず、戦後の闇行為を例にとり、「度をこえた悪徳な闇行為を排斥するたくましく明るい人間の理性」を指摘する。そしてそれを、専売制度下も例外ではなかったと言うのである。戦後に闇行為があったように、専売制度下でも闇行為があったに違いない、と言うのではない。度をこえた闇行為を排斥する理性があったというのである。専売制度下においても、闇行為は度を越さなかった、と、そう言っているのだ。人間の生きる知恵に言及するのかと思いきや、度を越さなかったと、まるでここでも教師のような物言いをするのである。いったい何を意図しているのだろうか。ぼくは、率直な物のの見方の発現を恐れてねじ伏せようとしている高圧的な態度を感じる。

 それからもう一つ大事なことは、那覇や首里の中国文化からも縁遠く、また旧名瀬市の薩摩文化からも縁遠い、本来の日本人の生活の原型が、案外大島には多く残っているのではないかという疑問もいつか解明したいことの一つである。「蘭麿の世」や「那覇の世」以前の「阿麻弥姑の世」を復元することは、奄美史の一つの課題でもある。文献史料の上では、薩摩が支配するようになってから、それ以前の「那覇の世」の史料は埋減させられた。同じように「那覇の世」よりも前の「阿麻弥姑の世」の記憶も、新しい那覇勢力の台頭によって失なわれた部分が多いであろう。これは歴史上の支配者たちがとった常套手段である。

気のきいた者は常に新しい支配者の手先化し、同朋を支配する。その中には同朋の血縁共同体のよき障壁として、島人の福祉を図る人もいたが、中には同朋をいじめて悪徳の蓄財をなす者もいた。奄美史のもう一つの課題は、首里や薩摩の外部からの政治的・経済的圧迫と共に、それを一歩進めて、奄美村落社会構造の本釆の在り方と、それを内部からゆがめてきたものにも向けられてよいであろう。また離島独自の社会経済構造の特徴にも、直視の眼を向けるべきであろう。離島には離島共通の弱きと強さがある筈である。(一九六八・三)『名瀬市誌〈〔上巻〕〉 (1968年)』

 これがまえがきの末尾である。ここにあるのは、原口による、奄美の郷土誌の内向化のすすめである。沖縄、薩摩との関係への視点から「それを一歩進めて」、島役人と農民との分裂の構造へと目を向けている。ぼくはこれは作為的な操作のように見える。外との関係より内なる矛盾に目を向けよ、というわけだ。薩摩の侵略というもっとも重要な点は微塵も触れられることなく、黒糖収奪においては、本土農民よりマシという視点を持ち出し、闇行為は理性的なものだったと生活指導員のようなことを言い、ことあげされるべきことに肩すかしをくらわせて言うことが、内なる矛盾をみよ、というのだ。これでは、もしこれをまともに受けてしまったら、首をもたげる前に、前のめりになったままで自分を責めよというようなものだ。事実、その後の奄美はそんな態度だったと言ってもいい面を持っている。

◇◆◇

 なぜ、こんなまえがきになってしまったのだろう。というより、なぜ原口にまえがきを依頼したのだろう。
 あろうことか、あとがきも原口が書いている。ここでは、原口は、委員の原稿提出の遅さと校正の大変さの愚痴を言うのだが、その口調は、いくぶん叱責したげである。各委員の執筆には島時間のノリが入ってしまったのかもしれない。あるいは原口の書くとおり、激務だったのかもしれない。しかしどちらにしても、緊張感のないまえがきとあとがきである。なめているのだ。

 ああ、やられてしまったのだなあと思う。原口によれば、『名瀬市誌』の編纂を原口に委嘱したのは、ときの名瀬市長だ。「島津氏の琉球入りと奄美」には情けなさがつきまとうが、それは、市長が原口に編纂を頼んだ時点で決まっていたのかもしれなかった。

 やられてしまったんだなあ。つくづく、そう思う。奄美大島の屈折という意味がわかってくる。

 だが、やはり原口虎雄に奄美の『名瀬市誌』の編纂など頼むべきではないと思う。依頼しても、資料参照と読解の監修程度にとどめるべきだった。どんなに貧しくても、奄美の人の手によって、郷土誌は書かれるべきである。他者にゆだねるには、まだ奄美の島人にしか分からないものを多く抱えている段階だからである。そういう意味では、奄美はまだ内側からしか開かない扉が開かれていない。ぼくは、そんな印象をぬぐえない。やられてしまったのだとつくづく思うし、それは克服されなければならないと思う。



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2008/09/20

「島津氏の琉球入りと奄美」 6

 「薩摩はひどい。でも琉球よりはましだ」という認識から繰り出される、薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという視野に矛盾は訪れないのだろうか、あるいは奄美の歴史を語るのに充分な視点を提供してくれるだろうか。だが矛盾はあるのである。

 鉄砲と丸太棒とでは、戦にならなかった。喜安日記のいうように、「昔より此国は、弓箭という名をだも聞かず夢にも知らざる」という状態が、つづいていたのである。またこの戦役で、栗ガユで薩軍の足をただらそうとしたなどの笑い話も伝わっているが、あったとすれば、それはノロたちの呪術から出た戦術であろう。栗ガユは、悪霊払いの霊力を持つと信じられていた。島のノロたちにとり、何の理由もないのに、いきなり平和な生活に侵入してきた薩摩軍は、悪霊でなくて何であろう。

 矛盾というか葛藤は、薩摩侵略の際の奄美の闘い方に現れる。「粟ガユ」がそれだ。栗ガユは呪術による闘い方である。実際、薩摩の軍船にノロたちは呪言(フチ)を浴びせている。それを、「栗ガユで薩軍の足をただらそうとしたなどの笑い話」とするのは自己侮蔑以外のものではない。そうみなすのは、近代化することが無条件に善となってしまっている薄っぺらな近代主義だとしか言いようがない。書き手はここでは、奄美の闘い方をうまくかばうことができない。でも、ことは身内のこと、琉球王国に対するような「ていたらく」という捨て台詞をなかなか言うことができない。その葛藤のなかで、「島のノロたちにとり、何の理由もないのに、いきなり平和な生活に侵入してきた薩摩軍は、悪霊でなくて何であろう」という真っ当な見解が生み出されている。書き手にしてみたらこれは皮肉なのかもしれないが、ぼくたちにしてみたら、時々たまらずに吹き上げてくる素直な視線にとどまるべきだったと思う。

 種子島氏の場合の朝鮮の役での軍役は、文禄の出兵が百三十余名、慶長の場合が百四十余人である。それからみると、琉球のは過重で、島津氏が自分の分まで過分に負担させたのではないか。少なくとも、琉球がわとしては、朝鮮の役で島津氏に不義理がある、とは信じていなかったに違いない。したがって琉球の三司官が島津氏の琉球侵入前の要求、新しく格役をつとめるか (この場合は、永続的なものとしての押しつけ)、大島をゆずるか、との要求を拒絶したことは、それなりの筋道は立っているのである。ただ力の筋道に対しては、この理由は通らなかったのである。

 こういうところにも思わず真っ当さのかけらが現れている。筆誅を使って貶められる謝名をはじめとした三司官は、大島の割譲を拒否してくれている。このことは、「それなりの筋道は立っている」にとどまらず、もっと評価しなければならないと思える。

 結局、島津氏の琉球入りの薩摩がわが強調する理由、すなわち裏書附膚の礼にそむき、秀吉によって定められた格役をつとめなかったから、という言い分には多くの歪曲がある。それは、北にのびることをとどめられた戦国大名のエネルギーが、南にのびただけの話である。ただ近世に入りかけており、中央政権が成立したので、その承認のもとに行われたという点がちがうだけである。秀吉が一時考えたように、琉球に改易転封が行われていたら、対馬の宗氏と同じく、中央政権下の一諸侯領となり、琉球王と島津氏には気の毒だが、島民にとっては、島津氏治政下で生じたような、複雑な少数民族的心理錯綜を、免れたであろう。民族統一の新しい気運にあいながら、領民を素直な形で参加させることのできなかった、当時の支配層の無策を憤るのは、向象賢のみではあるまい。

 最後にきて書き手は願望をむき出しにしている。琉球が、「中央政権下の一諸侯領とな」ればよかったのに、というわけだ。書き手が「大島代官記」序文の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」にナショナリズムの息吹を強引にみたように、日本が目指されている。ぼくたちはここで、書き手の「薩摩はひどい。でも琉球よりはまし」という認識の基本型に付け加えることができる。

 薩摩はひどい。でも琉球よりはまし。だから日本につくべきだ。

 こんな形をしている。だが、直接、幕府に取り入り、一大名になったとして、「複雑な少数民族的心理錯綜を、免れた」わけがない。明との貿易がある限り、琉球は異国である必要があり、それは「中央政権下の一諸侯領」となったとしても、琉球という関係の位置は、その役割のなかで生きたとすれば、「複雑な少数民族的心理錯綜」は、いまの沖縄と同じような形で持たざるを得なかったのである。せいぜい言えるのは、奄美ほどの複雑さを持たずに済んだかもしれないということくらいだ。

 さて、ぼくに残るのは、「当時の支配層の無策を憤る」として、どうしてそれは琉球にのみ向けられて、よりひどいことをした薩摩に向けられないのか、という不可解さだ。いくら、「薩摩はひどい。でも琉球よりはまし。だから日本につくべきだ」という認識を持っていたとしても、なぜ、そもそも侵略した側は責められず侵略された側ばかりが責められるのだろう。

 ここからはもう推し量るしかないが、いくつか考えられることはある。ひとつは琉球に対する過度の期待である。琉球に対する期待、琉球のなかにいたほうが苦労は少なかったろうという認識が下敷きにあるから、そこから引きはがされた事態を招いたことに憤らざるをえないということ。

 だがそれならなおさら、薩摩も批判されてしかるべきである。それがそうならないのはどうしてか。それは、書き手が盲目的に近代化を善とみなしているように、薩摩が「進み」、琉球が「遅れて」いるから、琉球を評価することが禁じ手になってしまっているのではないだろうか。そこには、奄美自身も「遅れて」という見做しにおびえてきたから、琉球を評価することが、「遅れて」いることにつながるのではないかということを恐れているのである。

 こう書いて思い出すことがある。ぼくは、奄美の郷土史家、大山麟五郎が『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』のなかで「正直いって、奄美は近世の洗礼も鹿児島によってはじめて受けることができたわけです」と書いているのを見て驚いた(「治療薬としての郷土史」)。ここには、近世化という時代の進展を無条件に善とみなすことにおいて、『名瀬市誌』の書き手と変わらない。しかしそれ以上に見逃せないのは、琉球は近世化できないという見做していること、そしてさらに、琉球や薩摩なしに奄美だけで歴史を築く可能性自体を否定していることである。言うのであれば、こういう認識にこそ、「このていたらく」は当てはまる。

 ぼくは嫌な連想が働く。ぼくは去年、『薩摩のキセキ』を読み、薩摩の思想が明治維新を一歩も出ないどころか微動だにせず自動空転したまま増殖していることに心底、驚いた(「野郎自大で我田引水なKY」)。そしてもしかしたら、薩摩にとって隣人である奄美が失語していることは、彼らが微動だにしないことにつながっているのではないかと考え、対話する必要性を考えた。だが、『名瀬市誌』の 「島津氏の琉球入りと奄美」を辿って、もう少し考えなければならないことに思い当たる。奄美はただ失語しているのではない。薩摩の思想が先に進む必要がないと言わんばかりに失語していいるのだ。奇妙な関係である。

 奄美は薩摩のおかげで生きながられているわけではない。奄美はなにものにも遠慮しない自立する思想を構築しなければならないのである。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2
 「島津氏の琉球入りと奄美」 3
 「島津氏の琉球入りと奄美」 4
 「島津氏の琉球入りと奄美」 5

 

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2008/09/19

「島津氏の琉球入りと奄美」 5

  薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという書き手の両輪の認識は、とうとう両者の比較に至る。

 天正十五年二五八七)、義久は頭を剃って竜伯と号し秀吉に降った。秀吉は前年、島津氏をさとしたが、「羽柴(秀吉)コトハ、マコト二由来無キ仁、…当家ノ事ハ、頼朝以来…御家ノ事候。」と気負う島津方は、天下の軍を迎えて、「天下ノ弓箭こマカリ成り候。」と意気ごみ、秀書の言をきかなかったのである。しかし中央軍と薩軍とでは、数の多少だけでなく、質的な段階の差があったことは争えない。島津軍は、最後の決断は霧島神宮のクジで下し、侵攻に先立ってはまず敵領に呪の針を伏せ、合戦の矢合わせには「木性」の人「然かるべき由候」などという中世的山伏呪術を、臆面もなく、この戦争での島津軍法の一環として展開しているのである(覚兼日記)。しかしそれでも、戦国の世に刃剣城壁の備えなくしてどうして国家を保つのかと、明の使いにきかれて、真面目に、「神女ヲモツテノ故」にと、神国思想で答えた琉球第二尚氏の首脳部よりは、はるかにましであった。(『名瀬市誌』

 どうやらぼくたちは、ここで書き手の認識の基本型に出会ったようだ。それは、

 薩摩はひどい。でも、琉球よりましである。

 という形をしている。

 呪術を使う薩摩を浅薄な近代主義で批判するが、それに終わらず、どうしてもそのバランスを取らなければならないかのように琉球は引き合いに出され、さらに貶められる。それが書き手の思考の生理になっている。

 秀吉の九州平定で旧三州におしこめられ、ひきつづく文禄・慶長の役による朝鮮出兵や、太閤検地による近世封建制の受洗で、島津氏の上にあわただしい歳月が訪れる。その間、秀吉中央政権の琉球服属の下令、場合によっては、琉球に対する転封改易の意向、なかでも亀井茲矩の琉球遠征計画、そういうはらはらする情勢のなかで、北ですべてを失った島津氏が、南の権益を守るための手は、一つしかないことを悟るのは当然である。

 続くこの文章は、薩摩の琉球侵略への物分かりの良さが現れる。侵略の理不尽さに触れることがないというのは、ここまで来ると、それが「薩摩はひどい、でも、琉球よりましである」という認識の基本型があるからだということが分かってくる。

 中央における新しい「国民国家」成立の時勢に無知で、かつ島津氏に引きまわされるだけで、自ら中央政権とのルートをつける才覚も持ちあわせない琉球凶首脳の外交的失態や、視野の狭さに助けられつつ、事態は一路、慶長十四年 二六〇九)へと傾斜していくのである。三司官のなかで最も発言力の強い謝名は国子監(中国の大学)出身で、かつ唐営(久米相の帰化人の子孫)からはじめて三司官にのぼり、豪毅ではあるが、明国の物理的な大きさに幻惑されている政治家である。対立する親日派の池城一派といっても、「唐を祖母の思ひをなし、日本を祖父とせよ。」(喜安日記)はいいが、その日本は、すなわち薩摩だと、思いこんでいる無策無気力な連中である。危急存亡の間に社稷を保持してきた島津家の首脳部とでは、勝負にならないのである。

 もうぼくたちは、書き手の裁断にむやみに驚かないでもいい。「薩摩はひどい。でも、琉球よりましである」という場所から、判断は繰り出されているとみなせば矛盾がない。しかしそれでも、なぜこうなってしまうのかという疑問は残る。これでは、薩摩を真っ当に批判することなど覚束ないと言わなければならないだろう。

 文禄・慶長の役は、朝鮮で得ていた対馬の宗氏の立場を根底からくつがえした。生産条件の悪い封土をもつ宗氏にとり、戦後の国交回復による貿易特権の復活は死活問題である。慶長十年(一六〇五)には、朝鮮使節を同行して将軍家康に謁し講和をはかり、同十二年には宗氏の案内する朝鮮国債は、国書を幕府に呈して、国交は回復した。宗氏のあっせんの努力は幕府でも評価され、後には対鮮外交にあたるゆえをもって、とくに十万石の格式を許されるのだが、慶長十四年(一六〇九)には、朝鮮と条約を結び、年三十隻の渡航を認められている。(己酉条約)みごとに、対鮮外交および貿易上の特権を、回復したのである。

 ここにぼくたちは、あらまほしき琉球の姿を、書き手は対馬の宗氏に求めているのが分かる。だが、大和内にいる者と大和外から大和を臨む者とではおのずと状況は変わって見えることは見過ごされる。それは、書き手にとって、日本という概念と範囲が先験的なものになってしまっているからだ。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
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 「島津氏の琉球入りと奄美」 4

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2008/09/18

「島津氏の琉球入りと奄美」 4

 薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという書き手の両輪の認識は随所に貌を出すようになる。

 尚真が死んで尚清が王位をついだ大永七年(一五二七)はまた、薩摩では、行きづまった島津宗家の勝久が、忠良の子島津貴久に家督をゆずり渡した年でもある。守護大名としての古き島津氏は没落し、島津忠良(日新斎)という英傑の赫々たる人格のなかから、戦国大名としての島津氏が勃興してくるのである。「神国」への眠りを深めつつある中山王国とは対象的に。(『名瀬市誌』

 両輪の認識はここで同時に出ている。島津の記述をしているその引き合いに琉球は突然、貶められる対象として駆り出され、その反面、島津は褒めるべき対象であるかのような相貌を帯びている。理解に苦しむ認識であるのは変わらない。書き手の島津勃興の描写は、昔でいえばチャンバラごっこをする子どもが武将に憧れるのとにているし、ナショナリズムへの素朴な信望は、「神国」日本のナショナリズムにやすやすと吸引されていくのが容易に予想できる。どうして、そこにとどまっているのか、不思議でもあれば痛ましくもある。

 三州統一に多忙の間の島津氏の琉球あての書筒は、貴国と同盟だとか、往昔より昆弟(兄弟)の約ありとか、隣交いよいよ密ならんとかいった類の親密顕示ぶりであるが、琉球がわが、その親密によりかかることの危険を、さとっていたかどうか。この間に薩摩がわは戦国大名として着々上昇しているが、琉球がわは、その南海貿易はポルトガル船、ついでスペイン船によってとってかわられ、わずかに対明進貢貿易を保つのみで、昔日の面影はなくなっている。しかも国家の存立を、縮小されたその海外貿易に安易に依りかからせ、基本であるべき土地支配の根本施策をゆるがせにしているのである。琉球の農民は、ノロ組織の中で眠らされ、その農業技術は、チフージン(聞得大君)府の指導する呪術儀礼が、基本というていたらくである。

 両輪の認識はここでも変わらない。聞得大君は、この「ていたらく」と貶められているが、そう簡単に馬鹿にできる代物ではない。なによりこの書き手が、呪術的要素をたぶんに含んでいる天皇体制に、同じように「眠らされる」思考で奄美を見ていることは今まで見てきた通りである。しかも、「呪術」の世界は前時代の遺物として葬れば済むものではない。どうして、こう手厳しいのか。もしかしたら、「遅れている」という見做しに奄美は煩わされてきたので、認識を「進んだ」ものにしなければならないという焦慮が、そうさせているのかもしれない。

 琉球がわが旧例をたがえたことは失態にちがいないが、冷遇されたと怒っている薩摩の使者が、元亀三年二五七二)に琉球に使いした内容、島津氏の印をもたない渡琉船は琉球がわで処罰せよとの申し入れは、たとえ、昔室町幕府の島津氏に対する特権附与があったとしても、琉球がわはあずかり知らざることで、主権の侵害である。第一尚氏の時代、あるいは、第二尚氏も初期なら、これをはねのけたであろう。しかし今、尚永の使いは、威圧的な相手に、ただ卑屈に釈明するだけである。力の相違は、歴然たるものである。

 主権の侵害という真っ当な理解も時折、露出することがある。だが、残念ながらそこから真っ当さが膨らんでゆくことはなく、あの両輪の認識が、バランスを取るように認識を覆うのだ。

 このような事態を招く口実を与えた琉球がわの外交的失態はおおえない。薩摩がわと詩の贈答はできても、琉球方言でコトバも通ぜず(とぼけているのでなければ)、下役の本土人を通訳としているでいたらくで、この後の急傾斜で民族統一に向かいつつある時勢の変転に即応して、あやまりなく対処しうるには、あまりに不用意である。このあとの三司官謝名の失策とあいまって、琉球指導者の無能ぶりには、七十五年後中山世鑑を書かねばならなかった向象賢の怒りがわかるような気がする。

 ここでは両輪の認識が、無残な形で現れる。琉球王国の言葉は琉球の言葉なのだから、琉球方言を使う、そのどこが悪いというのだろう。この場合、大和と意思疎通するために通訳を置くのは当たり前である。書き手は、本土の言葉をしゃべるべきだと言っているのだろうか。

 この天正三年は、すでに名目だけの足利幕府が滅んで二年、長篠の戦いで信長が天下様としての実をそなえた年であり、その翌年には、信長は安土城の主人となり、内大臣となり、も、つロH-のあるものには、天下の大勢がほぼ見えてくる時期である。大明帝国的秩序世界に安住して、時勢を知らない南海の小国が、やがて 「さつまによる平和」という長い半植民地時代に転落するのは、自ら招いた無策のせいと見なければなるまい。もう琉球の指導層には、日本はすなわち薩摩のこととしか、うつっていなかったのではないか。

 薩摩を大和と呼び、日本を大大和(うふやまと)と呼ぶ。それが当時の世界認識であり、薩摩を窓口としてみるのは自然なことである。この書き手は、どうしても、奄美を日本に直結させたくて仕方ないらしい。

 向象賢が、その中山世鑑のはじめの世継総論で、支配者のおしつける附膚の「史実」をうけいれながら、「永享年中(轟音元年は永亨十三年)、琉球国始メテ薩州太守島津氏ノ附庸国トナリ、日本こ朝貢スル百有余年ナリ、尚寧終リヲ憤マズ始メニモトリ…事大ノ誠ヲ失フ。故こ慶長己酉(十四年) 薩州…琉球ヲ征伐…爾来、琉国、薩州二人頁毎年ナリ。」と、琉球入り前の朝貢は 「日本」、琉球入り後の入貢は 「薩州」と、使い分けているのは、決して修辞のためとは思えない。百有余年朝貢の日本とは足利幕府のことではないか。ナショナリズムに目覚めた新しい琉球の指導者が、奴隷の立場を放れて許されるなら、本当に「事大ノ誠」をいたしたかった対象は、日本そのもの、その中央政権に対してであり、l薩州に対してではなかったろうことは、明らかである。かれが欺いているのは、無策な琉球の指導者が、中央政権との接触を失ったことに対してであったろう。かかる表現の中に、身をかがめなければならなかった先人の苦衷と怒りは、大島代官記序文の嘆きをもこめて、かみしめねばならぬ。

 ここで、琉球は薩摩の属国で百有余年、日本にも朝貢してきたと書くのは、強制された起請文を、自分の認識とするくらい刷り込まれてしまったものとみなせば、自然な流れであり、「琉球入り前の朝貢は『日本』、琉球入り後の入貢は『薩州』と、使い分けているのは、決して修辞のためとは思えない」というのは、それこそ書き手のナショナリズムから湧き出る願望にしか過ぎない。

 ぼくたちはこの書き手の認識が『名瀬市誌』のものであるということをこそ、克服すべき現実としてかみしめなければならないのである。

 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2
 「島津氏の琉球入りと奄美」 3


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2008/09/17

「島津氏の琉球入りと奄美」 3

 『名瀬市誌』の「島津氏の琉球入りと奄美」には、ひとつの特徴というか傾向がある。

 当時、海上貿易の集散地としての那覇港は、中国・南洋朝鮮および日本の商人が群がる国際都市となっていた(東恩納寛惇「琉球の歴史」)。日本の商人とは、博多・兵庫・堺等の商人である。薩摩商人が勢力を得るのは、博多・兵庫商人よりおくれ、島津氏が琉球との関係を密にするにつれて、進出していったものと思われる。このような状況の中で、関連あるいは関心のある西国の大小名が、琉球支配をねらうのは当然であった。(『名瀬市誌』

 それは、大和勢力による琉球侵略を必然とする見方だ。馬鹿に分かりがいいのだ。

 慶長十四年二六〇九)の島津氏の琉球入りをさかのぼる八十三年前の永正十三年 二五一六)、備中国蓮島の住人三宅和泉守国秀は、琉球を襲撃しょうとして、兵船十二隻をもって薩摩の坊ノ津に碇泊した。島津忠隆は、幕府に連絡して、これを誅殺した。それから約二十年後の天文のはじめ、国秀の党類三宅三郎兵衛等は、ふたたび琉球を討とうと企てた。この時島津の国老は、琉球に書を送って、先年国秀を刑殺したので、京都と義絶するに至り、あまつさえ日本三津の一である坊ノ津港を破損するに至った。いままた国秀の一類の渡船計画があるが、たとえ将軍家の下知があっても、当方で許さない上は、渡航させることはないから、琉球においては憂えなきようにと告げている。(県史)。

 侵略必然の理解の過程のなかでよく引用されるひとつに、三宅国秀の琉球襲撃を未然に薩摩が防いだとする事件がある。薩摩が、琉球に恩を着せる出来事のひとつとして挙げてきたもので、奄美論のなかでもよく取り上げられている。

 ところが、

寧波の市舶司の閉鎖後、島津貴久の老中が琉球の三司官に一五三三(天文二)年九月一六日付の書状を送り、先年備中国蓮島の三宅国秀が琉球遠征を企てたが阻止した、いままた三宅一党が琉球遠征を企てているが、たとえ将軍家の命令による遠征であろうと島辞氏が許容しなければ渡航させない、日本からの便蓮を阻止できるのは島津氏だけである、と述べている。これがいわゆる三宅国秀事件であるが、この事件は田中健夫氏が諭証されたように島津氏が捏造した虚構の事件であった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)
   ぼくはまだ田中健夫の論考を実際に確認したわけではないが、これまで三宅国秀事件が史実として扱われている奄美論の文脈を踏まえると、驚くべきものがある。捏造と言われると、さもありなんという納得感があるが、もしそれが事実だとして、ぼくたちは5世紀にわたって騙されづけてきたことになるのだ。
 三宅残党事件からさらに五十年下ると、日本は秀吉による民族統一の時期を迎える。戦乱遠い南海の別天地琉球もその波動の中で対馬の宗氏のように、直接豊臣中央政権下の一諸侯たりうる機会が近ずくが、その機会を利用するにはあまりに無能であった。

 その三宅事件を援用する形で、「島津氏の琉球入りと奄美」のもうひとつの特徴もしくは傾向が現れる。それは、琉球王国に無能の裁断を下すことだ。やけに手厳しいのだ。

これについて起こった秀吉のいわれのない朝鮮侵入は、琉球の本土接近の気運を遠ざけた。

 こういう真っ当な認識は、琉球に対しても当てはまるものだとどうして思わないのだろう。琉球にしても「いわれのない」侵略であると、どうしてみなさないのだろう。少なくともそうした観点がありうることに配慮がないのだ。これも推し量れば、琉球は日本であるということが、書き手の先験的な理念となっているため、「いわれ」はあると判断しているとみなすほかない。

 もし琉球が、島津氏を介さずに、直接中央の豊臣や徳川政権下の一諸侯となる道を選んだら、もっとも失望するのは島津氏であったろう。したがって、島津の努力は、一貫して本土との関係での琉球がわの自主的な行動を制限し、自らを琉球の保護者的仲介者として売り込む-琉球に対しても、他に対しても-ことを、目ざしている。そして、尚真王以来かもし出されてきた無気力無策のために、第二尚真はまんまとこのわなにはまりこんでいったようである。

 薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさは、バランスを取るように認識の両輪をなしながら、そこに書き手の認識も貌を出してくる。どうやら書き手は、琉球が、豊臣や徳川政権に直接、訴えて一大名になればよかったと言っているのではないだろうか。そしてここまで辿ってきたぼくたちは、この見解が、日本ナショナリズムという書き手の理念から出てきているのを理解する。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2


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2008/09/16

「島津氏の琉球入りと奄美」 2

 ここから「島津氏の琉球入りと奄美」は、侵略の理由の考察に入っていくのだが、そこには、1650年に記された琉球王国の正史「中山世鑑」が引用されている。

 代官記序文より以前(一六五〇年)に書かれた琉球最初の正史「中山世鑑」の総論にも、著者向象賢によって、同様な趣旨がのべられている。「大日本永享年中、琉球国始メテ薩州太守島津氏附庸ノ国トナリ、日本二朝貢スルコト百有余年ナリ。尚寧終リヲ憤マズ始メニモトリ、恐憧ノ心日二弛ミ、邪僻ノ情ウタタ恋イママ二、釆欽ノ臣一邪名(薩摩側の僧文之の「討琉球詩序」中の「時二一緊欽臣名邪那ナル者アリ」からとる。悪字を使っているのは、反薩派の巨頭謝名親方を筆誅するため。) ヲ用イテ事大ノ誠ヲ尖フ。故こ慶長己酉、薩州太守家久公、樺山権左衛門尉・平田太郎左衛門尉ヲ遣ハシ、兵ヲ率イテ琉球ヲ征伐セシム。而シテ国王ヲ檎こシテ返ル。」とある。

 「中山世鑑」は、「大島代官記」より10年以上前に書かれている。そこに、「琉球国始メテ薩州太守島津氏附庸ノ国トナリ、日本二朝貢スルコト百有余年ナリ。」とあるのを見ると、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、「中山世鑑」の記述を引用したものではないだろうか。そう考えるほうが無理がないと思える。

 この戦役についての琉球側の記録「喜安日記」には、薩摩に捕虜になった琉球の王や高官が、許されて故国へ帰る時、署名を強要された起請文がのっている。尚寧王のものは、「敬白、天罰霊社起請文の事。一、琉球の儀、往古より薩州島津氏の附属となる。これによって太守その位を譲らるる時は、厳に船を威しもってこれを奉祝す。或は時々使者使僧をもって、随邦の方物を献じ、その礼儀終に怠る無し。なかんづく太閤秀吉の御時定め置かれLは、薩州に相附し揺役諸式相勤むべき旨、その疑い無しといえども、遠国の故相達する能はず。右の御法度多罪々々。ここによって琉球国破却せらる。…」という恐れいり方である。

 「恐れいり方である」と、琉球の記録「喜安日記」には手厳しいが、「大島代官記」の薩摩に頭脳を塗りつぶされたような記述も同じだということが見えないのだろうか。

同日(慶長十六年九月十九日)琉球の三司官に押しつけられた起請文には、「琉球の儀、往古より薩州の附庸たるの条諸事御下知に相随ふべきのところ、近年無沙汰致すによって、破却なさせらる。云々」とあるが、三司官の一人の例の謝名親方は、これに連判を拒否し、即日斬首されたという。

 薩摩のみならず、琉球によっても奄美によっても、貶められている謝名は、三司官のただ一人、起請文への連判を拒否し、その日に斬首されている。ぼくは、琉球にも、薩摩の侵略拒否の態度があったことを覚えておきたいと思う。少なくとも、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」よりは、はるかに励まされる。

 以上の文書において、この戦役の理由とされているものは、謝名の運命に端的に見られるような政治的状況の下に勝者によって敗者にその承認を強制されたものである。客観的な史実として、敗者側をうなずかせるものではなかった。勝者と同じ平面での反駁を許されない心理の断層をのりこえるためにこそ、向象賢の主張する日琉同祖論(寛文十二年=一六七二の「仕置」その他)や、前後して代官記序文の筆者が書き記した新しい認識(先祖たちには、南島においても本土においても、はっきりしない空自時代があった。) 「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」という飛躍と自覚が必要であったのだろう。そしてそういう立場に立つに至った時、南島の知識人は、単に武力への屈服から、勝者の理論をおおむがえしする奴隷の精神とは全く異質な、むしろ勝者側よりは深い地点でうなずく民族意識の昂揚を体験していたことを、信じていいであろう。

 ぼくにとって、わかりにくさはここでひとつの頂点を迎える。「勝者と同じ平面での反駁を許されない」のはこれまでの戦争の常である。その「心理の断層」を乗り越えるために、日琉同祖論や「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」が要請されたとはどういうことだろう。薩摩は勝手な侵略の理由をあげつらっている。でも、ほんとうは日本と琉球は同じ祖先なのに(日琉同祖論)、琉球はもともと日本なのに(「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」)という認識が必要だった。そう言っているのだろうか。

 ぼくには、少なくとも「大島代官記」序文に書き手の言う「心理の断層」を感じることはできない。感じるのは、薩摩の思想に骨抜きにされた奄美知識人の変身である。「心理の断層」に煩悶しているのは、奄美の島役人ではなく、むしろ「島津氏の琉球入りと奄美」の書き手ではないのか。

南島の知識人は、単に武力への屈服から、勝者の理論をおおむがえしする奴隷の精神とは全く異質な、むしろ勝者側よりは深い地点でうなずく民族意識の昂揚を体験していたことを、信じていいであろう。

 奄美の知識人は、薩摩より深く民族ナショナリズムに目覚めていたと言っているのだと思えるが、そういうものではない。これは、「勝者の論理をおおむがえしする」屈服の論理以外の何物でもない。書き手自身が、ここには「飛躍」があり「信じていい」という書き方になるように、これは、信じるしかない論理を編み出している書き手の飛躍なのだ。 

当時の社会通念では異常に見える、主君尚寧に対する中山世鑑の筆誅の苛惜なさを見るがよい。豊臣氏や徳川氏による新しい国民国家としての結集体制の時勢に、全く無自覚かつ無策であった琉球王国の首脳に対する、「新しい精神」の怒りが、常識的な君臣の折り目を、のりこえさせたものと見ていい。

 続くこの文章も書き手の飛躍が収まらない。豊臣、徳川の時勢に距離を置くのは、まがりなりにも国家を築いていた琉球にとって当然である。書き手は、王国をかなぐり捨てて、豊臣、徳川の時勢のなかに参入すべきだと言っているのだろうか。それこそ飛躍というもので、しかもこの飛躍は、歴史ではなく架空の物語に似つかわしいというものではないだろうか。書き手は、「中山世鑑の筆誅の苛惜なさ」に注視しているが、それならどうして、「中山世鑑」の認識をなぞったような「大島代官記」には呵責なさを見ないのだろうか。書き手は、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文に照準を合わせるあまり、他の文章が目に入らなくなってしまっている。

 ところで、その後の奄美や沖縄の精神の悲劇は、そこから生まれたように思える。日本本土への窓口を独占した新領主島津氏は、統治に必要な限度内では、この思想(思想以上の事実なのだが)を利用しても、あくまで奄美・沖縄は、植民地ならびに半植民地としてのカースト制を越えることを許されず、薩摩藩の封建的身分制が深まれば深まるほど、「海外」(薩摩の記録奉行の表現)「異国」(幕府文書)として、日本本土との同質化を拒絶されたからである。この時代を境にして、奄美および沖縄で顕著にみられる為朝伝説への回帰も、源家嫡流の末裔を主張する新領主への迎合というよりは、ナショナリズムの観点からの評価を、心にとめていいであろう。

 少し息をつきたいのだが、そうはさせてくれない。ここは、奄美、沖縄の知識人には、日本のナショナリズムの意識があるのに、薩摩は日本ではないという扱いしかしなかった。そう書き手は言っている。ここはもう飛躍というより非現実的な願望である。当時の薩摩にそのような認識があろうはずもない。それは日本にしても同じことだ。日本という境界を武力によって押し広げたその範囲に新しく奄美も琉球も入ったという認識はあっても、そのなかが日本として平等だという認識が、当時あろうはずもない。その境界の内部は、大和であり沖縄でありという区別が敷かれているだけである。為朝伝説といい源家といい、大和の物語が浸透する過程も、この書き手には、ナショナリズムからの評価になっている。こういうところ、ふいに、この文章はもしかして戦前に書かれいるのか、と思わせる。だが、これはもちろん戦前ではなく、戦争からも復帰からも半世紀以上経った場所での文章なのだ。

 ここから書き手は、「琉球附庸説」を吟味して、こう結ぶ。

 大島代官記序文の最後は、次のような文で、ぶっつと切れている。「歎(なげかわしき)我、禍ハ自ラ招クトイフ事、疑ナク候。故こ、天ノナセル禍ハ避クベシ、自ナセル災ハサクベカラズト言フ。蛇名一人ノ短慮こ依ツテ、永ク王土ノ類島マデ、今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」
 この最後の「云々」は筆者がつけた云々ではない。代官記の序文の方の筆者が、このとおり「云々」 で、切っているのである。「琉球国ハ元来日本ノ属島ナリ。」という大原則で、薩属下の現状をうべないながら、しかも古王朝に対する禁じえない慕親の情を思わずのべかけて、ロを持した鳥人書記の姿がそこにある。われわれもこの沈黙のもつ重みをうけとめながら、代官記の本文、いな、本文の文字に書くことのできなかったこのあとの奄美史の起伏曲折を、たどらねばならぬ。

 ぼくもこの最後のくだりは「大島代官記」序文のなかで大切な箇所だと思う。その唯一の箇所だと言ってもいい。

 「今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」という箇所だけが、この島役人が奄美の人物であることを教えてくれていること、かつ、さらに重要なのは、「無益」として言葉を終えていることである。書き手はここに「沈黙のもつ重み」を見るのだが、ぼくはここに屈服の深さを見る。もし書き手がここを無益であろうが何だろうが、書き継いでいたら、ことによると奄美の歴史は少しでも自立をかんじさせるものになったかもしれない。薩摩の支配下のもと、思うままの記述が可能だったとは思わない。しかし、奄美の島役人としてここに過去の記憶を列記するだけでも事態はまるで違っただろう。奄美は記憶も収奪された民である。だから、島役人が奄美の何たるかについて、彼の言葉で奄美を語ったなら、後に続く者たちはそこからどれだけ自分たちを語る言葉を紡ぐ手がかりを得たか、計り知れない。「今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」としたところで、奄美の屈服は決定したのであり、ぼくたちはここに二重の疎外の構造化を内側から語る言葉を見るのである。


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2008/09/15

「島津氏の琉球入りと奄美」 1

 奄美市の郷土史、『名瀬市誌』1巻、「近世」の章の「島津氏の琉球入りと奄美」を読んでびっくりした。本当をいえば驚くどころではなく頭が重くなるような感じで愕然とした。これは読み解きにくい文章だ。意味がわからないというのではない。意味はわかるのだが、そこにある認識が不可解で、そのせいか、それがどういう根拠でなされているのかがわからない。それを理解しようとすれば、否応なく、『名瀬市誌』の考え方の背景を推し量るしかない。

 それならぼくたちは黙って過ぎることもできるかもしれない。しかし愕然とする中身には、腑に落ちることもあって、ある割合で、現在の奄美論はここにある『名瀬市誌』と共通の認識を持っているように見える。いや、共通というのではなく、『名瀬市誌』が郷土史の権威をもって任じているのであれば、これが、奄美論に認識の基盤を提供しているのかもしれない。

 それなら黙って通り過ぎることはできない。奄美の失語にほんとうに手を届かせたいなら、ここにある屈折は奄美固有のものとして避けられないということであり、それはほどかなければならないと思える。

 「大島代官記」の序文のはじめの方に、「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という文句が出てくる。残されている限りでは、これが、自らを「日本」という民族国家の構成部分であるとする自覚を、われわれの先祖が、正面から表明した最初の文章である。
 〔補説〕代官記の序文は、その内容から見て、代官記の本文と 同様に、代官役所に勤める島出身の役人によって、書かれたものであろうことは疑えない。序文の成立は、文中に「当尚貞王」という句があるので、琉球の尚貞王の時代、つまり寛文九年(一六六九)から宝永六年(一七〇九)の間と思われる。(『名瀬市誌』

 ぼくはのっけから大いに躓く。近世期の奄美の島役人が、「民族国家の構成部分」という近代的な自覚を持ったとは思えない。しかも、「われわれの先祖が、正面から表明した最初の文章」という表現には何か誇らしげなのだが、それもまたよくわからないと言わなければならない。

 薩摩に侵略された後、琉球の三司官は「琉球の儀、往古より薩州島津氏の附庸にして」、つまり琉球はもともと薩摩の属国であるという起請文を書かされている。「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、強制された起請文をなぞるものではないかと考えるのが自然ではないだろうか。

 当時の大島の知識人が、こういう自覚あるいは思想を、代官記の序文に大書しなければならなかった心理の背景は必ずしも納得できない新領主島津氏への服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱として、そういうナショナリズムによる大義名分が必要となった「時代」の登場である。
 慶長十四年、西暦によれば一六〇九年の旧三月、道之島(奄美列島)は島津氏のさし向けた精鋭な侵入軍に征服され、翌月はじめには琉球本国もその軍門に下った。この一方的な戦役の結果、奄美列島は琉球王国からさかれて島津氏の蔵人地 (直轄地)となったのである。
 〔補注〕実質的には右にのべた通り、奄美群島は薩藩の直轄領 となる。しかし、幕府から島津家に与えた所領安堵の判物の中では、最後まで琉球国十二万三千七百石となっている。こ れは、奄美群島を含んだ石数である。つまりこの列島の地位は正式にはあるいは形式上は、その後もあくまで琉球国のうちにとどめられているのである。

 何度も読み返して意図を推し量れば、「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、「薩摩ノ属島ナリ。」ではなく、「日本ノ属島ナリ。」と書いてあることに、書き手は注目している。そして「薩摩」ではなく「日本」と書いたところに、「服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱」としてのナショナリズムを見る、というのだ。
 ここでもぼくは、近世期の奄美の島役人に近代ナショナリズムの精神が宿ったとみなすのは、無理があると思う。果たして、「大島代官記」の序文はそう感じさせる文章なのか。

一、述べて日く、小を以て大を敵にすべからず、殊に小島の中山国に剱刀の具え無く、何を以て永く防守すべき哉、尤も危うき而己。
一、琉球国元釆日本の属島也。御當家忠国公御代、恩賞これに封し御感じの尊氏卿六代の将軍義教卿より拝領地は、永享四年中位の国王礼號に違わず、綾舩は在島の珍物年中二舷を捧げ、二心無き旨、通り来たる也。
一、司官の内蛇名親方、短慮愚蒙の計畧を以て、逆心を企て御當家に背き、右両膿の綾舷を止め、通ぜせしむる車両歳に及び、干時中納言家久公、此旨将軍家康卿に達し、薩隅日三州の士卒を催し、琉国成敗のため指し渡す。大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉両将数千騎の軍士を指し渡し、慶長十五年酉四月速や かに退治せしむ也。国王尚寧と申し奉る也。普尚貞迫五代日なり。
一、此時より、始めて王城には静謐なる在番を定めおく。端島には守護代官居きて、剰地分けて年貢せしむなり。
一、歎かわしき哉、禍は自ら招くと言う事疑い無く候故に、天のなせる禍は避くへし。自なせる災は避くへからすと言ふ。蛇名一人の短慮に依りて、永く王土の類島?も、今に於いて往古を慕うは無益と云々。

 これが「大島代官記」の序文である。ただ、これをすぐに解釈するのは難しいので、『しまぬゆ』の大要に頼ってみる。

 述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。
 琉球国は元来日本の属島である。御当家島津忠国公の時代、永享四年(一四三二)忠勤の褒美として尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。中山王(琉球国王)はその礼を守り、綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨誓い通い来ていた。
 ところが、琉球国一司官の内の一人蛇名(謝名)親方が、短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、往来無さ事二年に及び、当時の中納言家久公がこれを将軍家康に言上し、薩隅旦二州の軍勢を催し、琉球国を成敗するため差し向けた。大将軍樺山権左衛門肘、同平田太郎左衛門尉両将数千噺の軍士を差し渡し、慶長十五年酉四月速やかに退治した。
 この時より初めて琉球を治める在番を定め、離島には守護代官をおき、そして領地を割譲して年貢を納めさせた。
 嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、故に天のなせる禍は避けられるが、自らなせる災いは避けられない。蛇名一人の考えの足りなさから、永く王国の支配下にあった島までも侵略され、今では昔を慕うことは無益というものであろう。

 昨年、『しまぬゆ』で初めて「大島代官記」の序文に触れたときと同じく、何度読んでも薩摩の役人が書いたとしか思えないほど、徹頭徹尾、薩摩に都合のいい口実しかここには感じられない。「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」の箇所に、近代ナショナリズムを見れるとは到底思えない。

 「島津氏の琉球入りと奄美」の書き手が言うように、奄美の島役人が、なんとか抵抗の意識を痕跡として残したいと思って、「薩摩」ではなく「日本」と書いたと想定してみる。これが書かれたとする1669年から1709年は、二重の疎外が構造化される時期に当たっているから、ひょっとしたら二重の疎外の脱出口を「日本」に見出そうとしたのかもれない。そう見なせば、近代になりしゃにむに日本人になろうとした奄美の精神の始点をここに求めることができるのかもしれない。と仮定しても、やはりこの時点の島役人に近代ナショナリズムの自意識を求めるのは無理があると思う。



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