カテゴリー「38.紙屋敦之の琉球論」の15件の記事

2009/06/08

『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』

 紙屋敦之が、400年の期に私家版『薩摩と琉球』の増刷を出版社に求められたのに、せっかくだからと、増補・改訂版で臨んだのが、『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』だ。

各論考は、その時々の求めに応じて書いたものであるが、一書にまとめてみると、日本と中国のはざまにおかれた琉球が、中国(明・清)との冊封・朝貢関係を梃子に日本(幕府・薩摩藩)と向き合い、日本に同一化されずにアイデンティティーを維持した姿が浮かび上がってくるように思われる。そうした点を読み取っていただけると幸いである。

 この紙屋のモチーフは、「おわりに」に、端的に示されている。

 おわリに  琉球の対日外交について

 琉球は日本であるが「異国」
 日本であるが「異国」というのが、江戸時代、薩摩侵入(一六〇九年)後の、日本側の琉球に対する位置づけであった。琉球は島津氏の領地として幕藩体制の中に組み込まれたが、これまでどおり中国との外交関係を容認され、琉球処分(一八七九年)で沖縄県となるまで中国から冊封され朝貢を続けた。冊封とは中国皇帝から国王に封じられることである。琉球は中国への朝貢を続けるため、日本と、具体的には薩摩藩とどのように向き合い王国を維持したのだろうか。
 このテーマは現代の沖縄県の生き方を考える上で示唆を与えてくれる。

 大和ではない地域として琉球が日本に組み入れられたとき、「日本であるが『異国』」と位置づけられたことは、「大和人と沖縄人」という構図を硬化させ、琉球は「日本ではない『異国』」であるとする主張を強化してきたと思える。

 その特異なあり方を思えば、「現代の沖縄県の生き方」への示唆とは何だろう。関心を惹かれる。

 中国に対する対日関係の隠蔽
 薩摩支配下の琉球を説明するキーワードとして「嘉吉附庸」説がある。
 これは一四四一年に島津忠国が室町幕府の六代将軍足利義教から琉球を賜ったとする所説で、薩摩藩が琉球支配を正当化するために一六三四年から主張するようになった歴史意識である。しかしそうした史実は確認できない。

 一方、琉球は中国に対して対日関係を隠蔽する政策をとった。これは琉球が中国との冊封・朝貢関係を維持するために案出した外交政策だった。かつて私は日琉関係の隠蔽を次のように理解していた。すなわち、一六八三年の尚貞冊封のとき薩摩藩は琉球に派遣した役人・船頭を宝島人と称して冊封使と対面させたが、次回一七一九年の尚敬冊封のときにはそれを中止した。その後、琉球が薩摩藩の政策を自らの政策として受け止め、一七二五年に 「トカラとの通交」という隠蔽の論理を作り上げた、と。

想い起こされた古琉球の記憶
 しかし最近、そうではないのではないかと考えるようになった。宝島人という偽装は琉球の発案だったのではないか。宝島は薩南諸島の北に位置するトカラ列島のことで、七島と呼ばれた地域である。薩摩侵入以前の七島は、半ばは琉球に属し半ばは日本に属していた。七島人は冊封のさい琉球に赴き冊封使と対面していた。こうした七島の過去を記憶していて、宝島人という偽装に応用したのは誰かと考えると、それは琉球であったと考えるのが自然だろう。

 「嘉吉附庸」説を確認できないとして退けるのは、紙屋が従来から主張してきたことだが、中国に対する日琉関係の隠蔽を薩摩主体によるものから琉球主体によるものへ変えているのは、紙屋の認識の転換を語っている。

 冊封のとき中国人が琉球に持ち渡る品物は琉球が買い取ることになっていた。これを評価(はんがー)と呼んでいる。評価には多額の銀が必要になる。琉球は銀を産出しないので日本から調達することになる。日本から多くの商船を琉球に招致する方策が宝島人という偽装だった。一七一九年の冊封では宝島人という偽装を薩摩藩が禁止したため、琉球は宝島人の来航を演出できなくなったため、評価の資金として銀五〇〇貫目(一〇〇貫目追加して六〇〇貢目)しか用意できず、琉球は中国人が持ち込んできた銀二〇〇〇貫目の品物を買い取ることができなかった。このときの評価問題で苦労した蔡温は、一七二五年に正史『中山世譜』を編纂したさい、「トカラとの通交」という論理を唱え、表向き日本との関係を否定するが、日本との貿易を内々に行うことを企図したのである。

 銀を調達する必要もあり、琉球にとっても日本との通交はメリットがあった。中国に対し日琉関係を隠蔽する内在的な理由があったことになる。この動機をもとに、古琉球の記憶を頼りに「宝島人」偽装を発案したのは琉球ではなかったか。この、古琉球の記憶を頼りにしたという根拠は説得力がある。

 しかも、それだけでなく、と紙屋は考える。

 北京への朝貢と江戸上り
 琉球は中国への朝貢が日本にとってきわめて意義のあることを指摘していたと考えられる。一七一〇年に琉球使節は日本のご威光を高める外国使節として位置づけられた。前年、五代将軍徳川綱吉が亡くなった。徳川家宣が次期将軍に予定されていたので、薩摩藩は慣例に則って将軍代替わりを祝う慶賀使の派遣を申し入れたが、幕府は「無用」と断った。そこで薩摩藩は、琉球は小国とはいえ中国に朝貢する国々の中では朝鮮につぐ第二の席次の国であることを指摘し、それに幕府が、琉球使節を迎えることは第一日本のご威光になるという理由で許可したという経緯がある。

 琉球には旅役(地下旅、大和旅、唐旅)という使者を務める制度があり、家臣の国王に対する重要な奉公であった。家臣は旅役を務めることで知行を給わった。したがって、大和旅の一つである慶賀使を派遣できなくなるということは、首里王府の権力維持にとって大きな支障になるのである。こうした事情を考えると、中国に朝貢する国々の中で朝鮮につぐ第二の席次の国であることを指摘して慶賀使の実現をはかるよう薩摩藩を動かしたのは、実は琉球だったといえるのではないか。

 ここも紙屋の認識の更新を語った箇所だ。これまで慶賀使の派遣を「無用」とした幕府に対し、薩摩は国内における薩摩の地位向上、琉球は冊封体制の維持という点で利害が共通したと言及されていたと思うが、紙屋は実はそれは琉球が薩摩を動かしたことではなかったか、と、琉球主導の観点を持ち込んでいる。

 一六九五年の元禄金銀に始まる相つぐ貨幣改鋳により、銀貨の品位が低下し、中国への朝貢に支障がある、と琉球が薩摩藩を通じて、幕府に渡唐銀を元禄銀貨並みの品位に吹き替えることを要求したのに対し、幕府は琉球に冊封使を迎えるためという理由で許可した。幕府は一七一〇年に中国に朝貢する琉球からの使節を日本のご威光を高める外国使節として位置づけたのだから当然の措置であった。これは、琉球側からみると、中国との冊封・朝貢関係を幕府に認めさせることに成功したということになる。琉球使節は一七一〇年以降、中国風の装いを要求されたが、むしろ琉球のアイデンティティーを主張するうえで好都合だった。

 琉球の国王・家臣団は毎年一万石余に上る米を薩摩藩に上納していた。「御財制」という一七二〇年代の首里王府の財政モデルによると、王府の会計は米と銀の二本立てからなっていて、米の会計は支出の六七%を薩摩関係で占めている。注目すべき点は、中国との朝貢貿易が銀の会計で運営されることになっていたことである。米の会計ではとても運営できないという事情もあるが、朝貢貿易を薩摩藩から独立して運営するためであった。渡唐銀は一七一六年に進貢料銀六〇四貫目・接貢料銀三〇二貫目に制限され、薩摩藩と首里王府が半分ずつ分け合うことになった。王府は進貢料銀三〇二貫目・接頁料銀一五一要目で朝貢貿易を運営する財政モデルを組み立てていった。

 冊封関係維持のため銀の価値向上を幕府に了承させ、薩摩の影響度を小さくするため朝貢貿易の会計を銀により行った。こうした点に、紙屋は琉球の主体性を見ている。

 薩摩藩主に対する忠誠の論理
 最後に、琉球の「トカラとの通交」論、すなわち対日関係の隠蔽を薩摩藩が許容したのはなぜかという疑問が残る。琉球国王は即位後、薩摩藩主に起請文を提出することになっていたが、一六七〇年の尚貞以降、薩摩藩主に対する忠誠の論理が「附庸国」論から「琉球安泰」論に転換したことが指摘されている。薩摩藩に従属しているから忠誠を誓うという論理から、琉球が安泰であるのは薩摩藩のお蔭であるから忠誠を誓うという論理への転換である。しかし、「琉球安泰」論は逆にいうと、琉球安泰の責任を薩摩藩に負わせる論理であった。

 将軍代替わり時に大名は幕府の仕置に従う旨の起請文を差し上げる。一六八一、一七〇九年に島津氏が差し上げた起請文にはこれまで見られなかった、琉球が日本の仕置に背き「邪儀」を企ててもそれに荷担することはしない旨が記されている。琉球の「邪儀」云々は、幕府と薩摩藩が琉球の去就を注意深く見ていたことをうかがわせる。
 こうして琉球は対日関係の隠蔽を薩摩藩に認めさせることができたのである。

 「こうして」はどうしてなのか、飛躍があって難しい。対明貿易の交渉に失敗し琉球を存続させる必要に迫られた幕府と薩摩は、琉球を「異国」化するのだから、日琉関係の隠蔽は薩摩にとってもむしろ動機がある。だから、許容も何も、利害は一致していたのではないだろうか。

 ただ、琉球の「邪儀」に加担しないという一文を起請文に追加させられたところからは、確かに、琉球が幕府や薩摩の意のままにならない部分を持ち始めた背景を思わせる。そうした点からいえば、日琉関係の隠蔽の方法を琉球が主導して発案していったのではないかという紙屋の更新認識は説得力を感じる。

 紙屋のいう「現代の沖縄県の生き方」への示唆とは何だろう。最後まで来ても、この「おわりに」からだけではそれを明瞭に知ることはできない。でもここに紙屋の言外の示唆はあると受け止めるれば、日本と中国が自らの存在を中心に据えて他との関係を捉えているのに対して、琉球は、日本や中国との関係を最優先にして自らの存在を捉えている違いがある。ここに、紙屋は琉球の主体性、アイデンティティのありようがあると考えていると思える。

 この両者の比較は、実体論と関係論の議論にも似て、しかも関係なくして実体もないと思えるリアリティからすると、琉球の関係論は現在的ではある。

 榕樹書林つながりでいえば、上原兼善の『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』は、奄美、琉球を横断して1609年の全体を概観したものとすれば、紙屋敦之の『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』は、関係としての琉球の主体性を浮かび上がらせようとしたものだと言える。それはどちらも400年の成果と言っていいのかもしれない。

◇◆◇

 ところで、「はざま」「薩摩」「琉球」とキーワードが並ぶと、「奄美」を連想してしまうが、ここでも、考慮対象としての奄美の欠落を思わないわけにいかない。

 押し寄せた波が珊瑚岩に当って跳ね返り、逆向きにも波がやってくる海辺のように。1609年を期に、奄美は直接支配化され、「奄美は琉球ではない」という規定がまず奄美に押し寄せる(「大島置目之条々」)。ついで、「琉球は大和ではない」とした規定は琉球弧に押し寄せたあと、琉球が主体性を発揮して隠蔽の論理を強化すると、それは跳ね返る波となって、「奄美は大和ではない」という規定の強化として、奄美に押し寄せた(「大島御規模帳」)。

 もうひとつ。一方的な関係を強いられた後、返す刀で琉球は独自性を発揮するモーメントを見出した。では、奄美は? 奄美にその余地はあったろうか。そういう問いが残る。そう思うのは、琉球は17世紀の後半に、「附庸国」論から「琉球安泰」論への転換を果たしたが、同じ時期、奄美は「大島代官記」の序文で、変わらず「附庸国」論を追認している。この波は奄美に訪れることはなかったと思えるのだ。


『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』

Satumatoryukyu

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2008/09/10

「異国から『異国』へ」7

 秀吉は明との「勘合」復活を企図したが、結局、それは明(朝鮮)侵略を引き起こした。秀吉は明侵略計画の中で亀井茲矩に「琉球守」(一五八二年)、続いて「台州守」二五九二年)の称号を与えたが、それは秀吉の東アジア諸国に対する侵略の意図と、そこに対する国郡制的な支配方式の持ち込みという二つの方針を明らかにしていた。
 島津氏は「琉球守」を豊臣政権の知行・軍役体系の論理の中でとらえ、明侵略の軍役を琉球に賦課した。そのことにより、島津氏に秀吉に対し琉球「支配」の既成事実を訴え、亀井茲矩の「琉球守」化の阻止を図った。それは功を奏し、一五九二(天正二〇)年、琉球は島津氏の「与力」とされ、茲矩には「替地」(明国訴江省台州)が与えられた。

 薩摩は、琉球に軍役を賦課したのを支配の既成事実として訴えたのが秀吉に受け入れられ、琉球は薩摩軍の指揮下に入るとみなされた。

 秀吉の朝鮮侵略の失敗後、家康は明との講和(勘合復活)を模索した。対明交渉を琉球を通じて行うため、琉球の来聘を画策した。その交渉中の一六〇四(慶長九)年、島津氏は琉球に対し「附庸」説を主張した。「与力」化がその根拠であった。来聘問題の行き詰まりが、一六〇九(慶長一四)年の島津氏の琉球侵略の直接の原因であった。

 陸奥に漂着した琉球船の琉球人を琉球に無事、戻したお礼をせよというのが来聘であり、幕府はそれを機に琉球の服属化を狙うが、それを察知する琉球は応じない。薩摩は、軍の指揮下に琉球があることを根拠に属国説を唱え、来聘問題の打開として侵略を行った。

 侵略後も琉球は、対明政策のために明の朝貢国として温存された。島津氏に侵略を契機に琉球に「附庸」説を承諾させた。そして、琉球の日本同化の方針を明確にしたが、一六一五(元和一)年に幕府の対明講和交渉が失敗し、琉球が中国との窓口としていっそう重要性を増してくると、同化から異化へと統治方針を変え、政治的・風俗的な面から琉球の「異国」化を進めた。

 琉球が明との貿易の窓口を持っていたので、侵略後も国家としての琉球は維持された。だが、薩摩の属国であることを認めさせられた。そしていったんは、琉球の大和化を進めるが、幕府の対明交渉が失敗したのを機に、非大和化へ転じた。

 対明政策の失敗後、一六一六(元和二)年以降、幕府は中国船を長崎で統制する政策を推し進め、一六三五(寛永一二)年、それが実現した。それには、一六三三(寛永一〇)年の琉明関係の正常化が不可欠であった。翌年、日本は琉球を幕藩体制の知行・軍役体系の中に組み込むと同時に、明との冊封・朝貢関係を容認し、琉球の「異国」としての位置づけを確立した。そして、島津氏は琉球支配の正当性を主張するため「嘉吉附庸」説を唱え、琉球の首長尚氏を「琉球国司」に任命し、徳川将軍のもとへ琉球使節を派遣させた。ここには、琉球の明との宗属関係を牽制することが強く意識されていたのである。

 薩摩は室町幕府から琉球を賜ったとする「嘉吉附庸」を唱えて、琉球から来聘を実現させる。琉球と明の貿易正常化により、琉球が明に完全に組み込まれるのを防ぐ意図もあった。

 一六四四(正保一)年、明が滅び、清が中国の新たな支配者となった。一六四六(正保三)年、福州の南明・唐王政権が滅亡すると、幕府は清に対し軍事的脅威を覚え、海防を強化した。ところが一六五五(明暦一)年、幕府は琉清閑係を認めた。これは、琉球支配が原因で日本が清と武力衝突することを避けるためであった。琉球に対し「不治を以治」統治方針をとったのに伴い、その後、清に対し日琉関係を隠蔽する政策が進み、一七一九(享保四)年、それは確立した。一八世紀以降、七島は、清に対し日琉関係を隠蔽するためのキーワードとして、位置づけられていった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 明が滅び、琉球は清と冊封関係を結ぶ。日本との関係もあったことが公然であった明とは異なり、清に対しては、琉球が日本とは無関係であると見せなければならなくなった。日本と琉球の関係は隠蔽されたのである。

 こうして、異国であった琉球は、日本の支配を受けながら、日本と無関係である「異国」へと変貌した。これらは奄美が強いられた二重の疎外とその隠蔽の背景にあるものだ。



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2008/09/09

「異国から『異国』へ」6

 一六六九(寛文九)年七月、松前藩(幕藩制国家)とアイヌとの民族戦争、シャクシャインの戦いが起こった。幕府の儒官林春勝によると、この時幕府は、(中略)アイヌが韃人すなわち清の救援を頼んで松前を攻めるのではないか、と恐れていた。一六七三(延宝一)年一二月、清の中国支配に反対し三藩の乱が起こった。三藩とは、雲両省の平西王呉三種、広東省の平甫王尚之信、福建省の靖南王秋晴忠を指す。翌年九月、(中略)(そのこと-引用者)が、琉球から薩摩を経て幕府に届いた。一六七六(延宝四)年六月二七日福州の耿精息の使者陳応昌が来琉し、硫黄の供与を求めた。尚貞は薩摩に注進し、島津藩は幕府に琉球の対応如何を伺った。それに対し幕府は九月三日、琉球が硫黄を福州に送ることを許可した。幕府は三藩側を支援し、清の滅亡、明の復興を期待したのである。(後略)

 南で琉球が島津に侵略される頃、北では松前藩がアイヌを支配していた。幕府は、南の琉球-清、北のアイヌ-清の連結を警戒していた。それが明支援の態度となって表れる。

 三藩の乱は一六八一(延宝九・天和一)年二月に終息した。結局、琉球は福州に硫黄を送らなかった。三藩の乱に加担しなかったことにより、以後、琉滑関係は親密きを増していった。そのことは逆に、幕府が薩琉関係に対し警戒することになった。それは、将軍の代替わりに島津氏が差し出した起請文の文言の変化となって表れている。例えば、島津光久が徳川綱吉の将軍薬職に際して差し出した一六八二延宝九)年五月二五日付の起請文に、公儀=幕府の仕置の遵守を誓った条文の「附」として、(中略)琉球の邪儀に加担しないことを誓約している。次回、徳川家宝の将軍襲職の時にも、島津書貴が一七〇九(宝永六)年二月五日付の起請文で同様のことを誓っている。この二例は前後に類をみない。島津氏は琉球が幕藩制国家の「火薬庫」となる危険性を暗に示唆したのである。

 「琉球の邪儀に加担しない」というのは、琉球が清と結託するだけでなく、薩摩もそれに加わることを指していると思える。((幕府、島津、琉球)-(清))という関係が、((幕府、島津)-(琉球、清))となることともうひとつ、可能性として((幕府)-、島津、琉球、清))もありうると想定したのである。素朴に思うに、封建国家は、相互に信頼が無いとみえる。

 一方、「不治を以治」統治方針がとられるようになった琉球には、一六六二(寛文二)年四月に桂王永暦帝が滅び、明が完全に滅亡したのを契機に翌年六月、清の冊封使張学礼が来琉し、尚質を「琉球国中山王」に冊封した。次に、一六八三(天和三)年六月に注棺が釆琉し、尚貞を「琉球国中山王」 に冊封した。その時、島津氏が琉球に派遣した冠船奉行の御付衆・御道具衆、琉球在番奉行の御付衆各二人、足軽二二人、船頭六人が宝島人と偽って冊封任と対面し、進物の贈答を行った。宝島人とは七島人のことである。では、冊封使と日本人の対面がどうして可能だったか。
 それには七島郡司の次の上申書が参考になる。(中略)これによると、冊封使が琉球に渡来した時、琉球の属島七島(吐噶喇列島)から島の頭目が那覇へ赴き、「唐按司」(冊封僅か)と進物を贈答していた。島津氏はこの慣例を利用して、薩摩の役人・船頭らを七島人と偽らせ冊封使と対面させたのである。しかし七島人と冊封使の対面は、次回一七一九(享保四)年の尚敬冊封の時、島津氏の要求で中止された。七島は琉球の属島でないというのがその理由だった。七島は、琉球の属島から日本の属島へと位置づけを変えられた。日琉関係の隠蔽はこうして一七一九(享保四)年に確立した。

 1683年は奄美にとっても重要な年だ。奄美は、薩摩から、<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>という規定を強制されたが、このうち、1623年の「大島置目条々」で<琉球ではない>とされながらも、<琉球にもなれ>という場面は否応なくあった。それが冊封使との対面の場面である。

 ぼくたちはここで少しこの場面に立ち止まってみよう。清になって奄美の各島の役人が琉球役人とともに冊封使と対面する場合、琉球の役人は奄美の役人が琉球の者であるとして振る舞い、奄美の役人も琉球の役人と同じ国の者として振る舞わなければならなかった。だが、仮に七島人として薩摩の者がそこに同席していた場合、奄美、琉球の役人はそれと知りつつ、薩摩の者を宝島人として紹介しなければならなかったのである。奄美、琉球の役人は、ここで清の冊封使だけでなく、薩摩に対しても緊張して振る舞わざるを得なかったはずである。

 琉球は清に対し日本(薩摩)との関係を隠蔽するために、一七二五(享保一〇)年に蔡温が編纂した『中山世譜』の尚寧の事績を記した末尾に(中略)、日本の属島吐噶喇(宝島・七島とも呼ばれる)と交易し、国用の不足を補っている、と説明した。また、冠船が釆琉すると、那覇滞在中の薩摩の役人たちは城間村(滞藤市)に引き籠った。琉球は中国人の質問に対し、城開村にいるのは七島人であると答えた。七島は、清に対し日琉関係を隠蔽するためのキーワードとして位置づけられていった。そのため島津氏は七島の各島に新たに郡司を置いて支配した。その初見は、一七一八(享保三)年八月二五日の諏訪之瀕島郡司肥後五郎兵衛である。また前掲同年間一〇月付の文書に「七島郡司」 の名称がみえる。七島郡司は、「異国」琉球の琉球国司に対応する日本の「属島」七島を支配するための制度であった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球の神話にも相当する『中山世譜』を使ってまで吐噶喇列島、宝島との関係を偽装したのは、中国が『中山世譜』を見る可能性に配慮したものだ。18世紀に書かれたものであっても、神話が国家の作為を内包することは貫徹されている。

 もともと異国だった琉球は、明の時代、日本と関係した「異国」となり、清の時代、日本と関係のない「異国」とみなしみなされていくのである。

 ぼくたちはここで、奄美は、最初、琉球との関係を断つために<琉球ではない>という規定を受け、ついで、琉球が「異国」の相貌と強めるにつれて、<大和でもない>という規定も強化されたことを知る。



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2008/09/08

「異国から『異国』へ」5

 1649年、琉球は明の滅亡を機に、冊封関係を清と結びなおそうとする。

 琉球は、宗主国を明から清へ改める態度を明確にした。
 一六四九(慶安二)年九月、幕府老中阿部重次は、琉球問題に関する島津氏の伺いに対し、(中略)琉球認識を語った。日本側は、清が琉球人に対し清朝の衣冠と弁髪を強制することを一番恐れていた。「悪キ事」とは琉球がこの二つを受け入れて清に服属し日本の支配を離れることであり、そのことによって徳川将軍=日本国大君の対外的権威に傷がつくことが「日本之瑕」であったと考えられる。

 この時点で幕府は、琉球が清からの「衣冠と弁髪」を受け入れて日本を離れ清に服属することを恐れていた。それは、「日本の瑕」、名折れであるとみなしたのである。

 一六五一(慶安四)年、再度、謝必振が琉球に渡来した。尚質は一六五三(承応二)年、馬宗毅を派遣して順治帝の即位を慶賀させ、明朝の勅印を返上し、冊封を請願した。そこで翌年、順治帝は尚質を「琉球国中山王」に封じる冊封使(張学礼)を任命した。一六五五(明暦こ年には、冊封使が乗船する冠船を福州で建造中であるとの風間が日本にも伝わってきた。鳥辞属は、清の衣冠・弁留などの要求を断固亜否して冠船を追い返すか、あるいほ冊封使が琉球の拒否を無視して事を構えたら討ち果たす、という強硬な方針を決めた。そして八月六日、幕府に、清に対する琉球の対応方について伺った。それに対し幕府は二二日、琉球は清の衣冠・弁髪などの要求に従え、それ以外は島津氏の宰領に委ねると命じた。幕府は琉球と清との冊封・朝貢(宗属)関係を認めたのである。幕府のこの琉清閑係の容認について、幕末、薩摩藩の伊地知季安は次のように評した。(中略)

 「蛮夷」は琉球を指す。「不治を以治」とは名を捨てて実を取る方向への琉球支配の方針転換を意味するが、おそらく幕府は清の琉球招諭を妨げた場合、日本の琉球支配が日清両国の武力衝突の原因になると考え、それを未然に防止するために、このような措置をとったのであろう。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 島津は、清から「衣冠と弁髪」と要請があった場合は、断固拒否すべきであるという考えを示し幕府に伺いを立てる。それに対して幕府は、清との戦争を恐れ、要請があった場合はそれに従うように命じる。幕府は、琉球と清の冊封関係を認めたのである。幕末の薩摩藩士、伊地知季安は、これを「治めざるをもって治める」と評している。

 ここから、日本は琉球との関係を隠蔽してゆくことになる。同時に、薩摩は奄美との関係を、清と日本に対して隠蔽していた。



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2008/09/07

「異国から『異国』へ」4

 対明貿易交渉が失敗して以降、幕府は、琉球を異国化して対明貿易の窓口とするように動く。

 幕府が「唐口」の貿易禁止に踏み切る方針を決めた背景は、「平遼通貢」策の失敗と、もう一つ、明が一六二九(寛永六)年に尚豊を「琉球国中山王」に封じる冊封使の派遣を決定したことにより、島津氏の琉球侵略(一六〇九年)後ぎくしゃくした琉明関係に正常化の見通しが出てきたことであろう。琉明関係が正常化すれば、琉球と明の貿易は進貢貿易だけに限定される。そのため島津氏は一六三一(寛永八)年、琉球在番奉行を設置し、翌年、前述した四月二二日付の条書で、琉球の進貢貿易への経営参加を琉球在番奉行に指示した。また、琉球を「異国」扱いして琉球への渡航を島津氏のみに制限する一方、中国船の大名領への着岸を禁止すれば、中国船はおのずと長崎へ向かわざるをえなくなる。中国船の長崎来航の実現には琉明関係の正常化が前線であった。

 幕府は一六三三(寛永一〇)年二月二八日、第一次鎖国令を出し、奉書船以外の日本船の海外渡航を禁じ、鎖国への第一歩を躇み出した。だが第一次鎖国令では中国船の長崎来航は発現しなかった。それほ、後渇する一六三四(寛永二)年八月四日骨の徳川豪光債知判物にみるような、幕藩体制の中の「異国」琉球という位置づけが、まだ確立していなかったからである。一六三五(寛永一二)年五月二八日、第三次鎖国令を出し、日本船の海外渡航を全面的に禁止すると同時に、中国船の長崎来航が確立した。

 いずれ幕府は、明が清へ変わり、清が脅威になると、琉球との関係を隠蔽するようになるのだが、明の時代は、島津が琉球に侵略して以降の日本と琉球との関係は公然のものだった。だからなおさら、鎖国だけでは中国船は長崎へ訪れず、琉球を異国とする位置づけが必要だったのである。

 一六三三(寛永一〇)年六月、尚豊を「琉球国中山王」に冊封する明の冊封使杜三栄が琉球に到着した。同年一一月、冊封使が帰国する時、尚豊は謝恩使を北京に派遣して冊封を感謝すると同時に進貢の二年一貢を嘆願し、それを許された。こうして琉明関係が正常化した。それは島津氏の琉球支配に次のような新局面をもたらした。すなわち琉明関係が正常化した翌年閏七月九日、京都の二条城で、尚豊の使者佐敷王子朝益が三代将軍徳川家光に謁見した。これより以前、尚豊は同年二月九日付の書状を島津光久に送り、去年明の冊封を受けられたのは島津氏の御蔭であると謝意を表し、佐敷朝益を薩摩に派遣した。当時、家光の上洛に従って京都にいた島津家久は、その使者を上洛させ、将軍に謁見させたのである(謝恩使の成立)。また、それと並行して五月初め、島津氏は琉球の石高を自らの知行高に加増してくれるよう幕府と交渉した。その結果、家光は閏七月一六日、左記の領知判物を島津家久に与えた。
(中略)

 すなわち、琉球は幕藩体制の知行・軍役体系の中に範み込まれた。この領地判物の特徴は、琉球の石高が「此外」の形で記載されている点である。「此外」は、①琉球の石高が幕府の軍役賦課の対象外すなわち無役である、②琉球が幕藩体制の中の「異国」である、という二つのことを表していた。この形式は、以後、幕藩体制の全期間を通じて変わらない。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球と明の冊封関係が正常化するとみるや、島津は、琉球を島津の知行高に組み入れるよう幕府に求め、幕府はこれを許可する。しかし、この許可は独特のものだった。

1) 島津に含む琉球の石高は、幕府にとっての軍役賦課の対象外であること。つまり、島津の生産高に含まれるが、幕府がそれに賦課することはしないということ。

2) 1)と表裏の関係にあるが、琉球を異国と位置づけるということ。

 これが奄美にとっても重要な意味を持っているのにぼくたちは気づく。島津の知行高のなかに奄美も組み込まれるが、それは琉球同様、幕府からの軍役賦課の圏外のものだ。つまり、島津の直轄領として島津のみのために存在させることが可能になったのだ。


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2008/09/06

「異国から『異国』へ」3

 まず、幕府は明と直接交易を行う可能性を探るが、失敗する。

 一六一〇(慶長一五)年一月、池城安頼が福州に至り、北京に進貢した。対明講和(勘合復活)交渉の具体的な内容は不明であるが、明の皇帝が尚寧の琉球帰国を望む内容の勅諭(万暦三八年二一月一六日付)を持ち帰った。一六一四(慶長一九)年秋、国頭朝致が北京に進貢した。国頭朝致は、島津氏が徳川将軍の意を受けて南清文之に起草させた(中略)。それによると、幕府は、(中略)

 ①日本の商船が明の辺地に渡航する(勘合貿易)
 ②明の商船が琉球に来航し日本の商船と交易する(出会貿易)
 ③毎年琉球から明に遣使する(進貢貿易)

という三タイプの日明関係を構想し、そのうちいずれか一つの実現を希望していた。国頭朝致は一六一五(元和一)年六月琉球に帰国した。ところが案に違い、国頭朝政は、「従リ唐一切請付不レ申」 と、明が幕府の要求を一切拒否したことを島津氏に報告した。幕府の対明講和交渉は、失敗した。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 この幕府の失敗は、琉球、ひいては奄美にも大きな影響を及ぼしている。

 一方、対明講和が明によって拒否されると、島津氏は琉球に対し明との関係修復(二年一貢の回復)に努力するよう命じた。島津氏の琉球侵略後、明は一六二一(慶長一七)年に琉球の進貢を二年一貢から一〇年一貢に改めていた。またそれと向時に、島津氏は、掟十五力条(一六一一年)以来琉球に対し、一六一三(慶長一八)年六月一日付の「御掟之条々」(中略)、また同年九月一五日付の条書でも(中略)琉球を日本に同化させる方針を明らかにしてきたが、対明講和の失敗に伴い日本にとって琉球が明との窓口として改めて重要性を増してくると、同化から異化へ琉球支配の方針転換を図った。例えば一六一七(元和三)年、琉球人が日本人の髯、髪形をし、衣装を着ることを禁止した。また、一六二四(寛永一)年には道之島(奄美諸島)の蔵人地化せ確定し、琉球に対し次の「定」を制定した。

(中略)
 すなわち、道之島を除く首里王府領(本琉球)に限って中山王に対し、諸役人への扶持給与綾、裁判権、祭祀権を認めると同時に琉球人が日本名をつけ、日本人のなりをすることを禁じた。琉球は政治的にも風俗的にも幕藩体制の中の「異国」であることが強調されていった。それは琉明関係の正常化を促進するため、明を意識した政策であった。

 幕府が、直接、明と交易する場合、琉球の対明交易に依存する度合いは低くなる。したがって、その可能性のある初期、島津は「風体」や「諸式」について大和化を目指していたのである。幕府の対明貿易の交渉が失敗するに及んで、琉球は、<大和ではない>という規定を明確にするが、侵略するや否やそうしたのではなく、この規定が成立する過程を微細にみていくと、<琉球は大和である>という規定に始まるも、すぐに<琉球は大和ではない>という規定に変更されたのである。

 奄美の受けた二重の疎外<琉球ではない、大和でもない>の規定も、こうしてすぐれて日明関係の動向の産物として生まれたものだった。そしてこの<大和でもない>という規定は、琉球のままでいさせるという意図に始まるが、やがて、だから大和的(水準)にしなくていいという差別の根拠にもなってゆくのである。


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2008/09/05

「異国から『異国』へ」2

 琉球侵略の目的ほ、家康・幕府にとっては琉球の来聘実現、島津氏にとっては大島の獲得であった。島津軍は、一六〇九(慶長一四)年三月四日薩摩の山川を出港し、途中、大島・徳之島を平定して二五日沖縄島に到着、四月一日首里城を落とした。五月五日、先島(宮古・八重山諸島)の帰順を確認して一五日、中山王尚撃をはじめ三司官そのほかを捕虜にして那覇を出帆、二五日鹿児島に凱旋した。  家康は琉球を島津家久に与えた。翌年、家久は尚寧を伴って駿府、江戸に参府した。ここに琉球の来聘が実現した。九月三日、二代将軍徳川秀忠は家久に対し、「琉球ハ代々中山王ガ国ナレバ他姓ノ人ヲ立て国王トスベカラズ」、「家久ニハ琉球の貢税ヲ賜」る旨を命じた。中山王の改易禁止は、幕府が琉球に対し明との宗属関係を認めたことを意味する。それは琉球に対明講和交渉を行わさせるためだった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球の改易を禁止した。改易というのは、琉球の城や所領を没収してしまうことを指している。つまり、完全に薩摩藩領となることを意味しただろう。

 一六一一(慶長一六)年九月、島津氏は琉球支配の方針を明らかにした。第一に、沖縄島ならびに慶長間諸島・伊平屋島・伊是名島・伊江島・渡名喜島・粟国島・久米島・八重山諸島・宮古島で八万九、〇八六石を首里王府領として与え、大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島は島津氏の直轄地とした(大島領有の実現)。第二に、首里王府が毎年納めるべき頁納物を定めた。第三に、綻十五ヵ条を定め、琉球に幕藩体制の支配秩序を押し付けた。第四に、尚寧・三司官に起請文を提出させ、醇珠が古くから薩摩・島津氏の「附庸」國だったこと、琉球は、豊臣秀吉時代の「与力」の義務を果たさなかったため、このたび破却されたが、御恩により再興されたことを認めさせた。

 こうしてみると、琉球が明との交易関係を維持してきたことが、幕藩体制に完璧に組み込まれず、島津から改易を受け、島津の所領にされてしまうのを防いだのだった。

 しかし、幕府からの改易禁止の命を受けながら、琉球を維持させるのを隠れ蓑にするように、奄美の直轄領化は実現してしまう。この、国家権力の命をどこかで自己利益のために捻じ曲げるのは連綿としていて薩摩的だと思う。ぼくたちはそのあからさまな起源をここに見ることができる。



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2008/09/04

「異国から『異国』へ」1

 紙屋敦之の『幕藩制国家の琉球支配』の最終章は「対明政策と琉球支配」。サブタイトルで「異国から『異国』へ」とフォーカスしている。

1471年
・朝鮮人が記した『海東諸国記』。吐噶喇列島の臥蛇島。日本琉球に分かれて属す。
1450年
・『李朝実録』。臥蛇島に漂着した四人の朝鮮人。二人が薩摩に、二人が琉球に引き取られる。

このように臥蛇島(七島)は、中世日本と琉球の国境であった。古琉球は中世日本からみて異国だった。
 一六〇二(慶長七)年冬、陸奥の伊達政宗領内に琉球船が漂着した。翌年春、島津氏は家康の命により琉球人を本国に送還し、中山王尚寧に対し家康へ謝礼の使者を送るよう求めた。家康の琉球に対する来聘要求は、琉球に明との講和交渉を行わさせるために、まず琉球を日本に服属させることを意図していた。しかし尚寧ほそれに応じなかった。その理由の一つは、尚寧が明の冊封を控えていた(一六〇六年に冊封使夏子陽来琉)からである。もう一つは、島津義久が尚寧に対し一六〇四(慶長九)年二月付の書状で、家康が琉球人の送還を島津氏に命じたのは、(中略)琉球に対し「附庸」説を唱えていたから、謝礼使の派遣は「附庸」説の同意につながる恐れがあったからである。そのため、来聘問題は日琉(薩琉)間の外交問題化していった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)

 「附庸」は属国という意味だから、島津は琉球属国説を唱えていたということだ。属国説を唱える根拠になったのは、大名、亀井茲矩(これのりが鳥取城攻略の恩賞を豊臣秀吉に聞かれた際、琉球守を望み任命を受けたことに対して、島津が朝鮮出兵の際に、琉球に助力を求めたことを根拠に与力(隷属する武力)化したことをもって亀井の「琉球征伐」を阻止したことを指している。

 一六〇六(慶長一一)年三月、鹿児島で、琉球の大島を侵略するための談合が開かれた。前述した「附庸」説は、大島侵略に向けた布石であったと考えられる。島津忠恒(家久)が島津忠長・樺山久高に宛てた同年六月六日付の書状によると、島津氏は江戸城修築のため石漕船(石材運搬船)三〇〇隻を負担する御手伝普請と、忠恒が徳川家康の諱を賜る儀式を控えて多大の出費を強いられていたので、財政上の理由から大島への版図拡大を狙っていた。さらに談合の目的は、来聘問題の行き詰まりを打開するため琉球に対し軍事的圧力をかける意図があったのではないか。しかし談合は島津義久をはじめ談合衆が非協力的であり、進捗しなかった。そこで島津忠恒は家康の諱を賜り家久と改名した六月一七日、家康に琉球侵略の許可を求めて許された。以後、史料には「琉球入」と表れる。

 諱(いみな)を賜るは、忠恒が家康の「家」の字を与えられ「家久」と名乗ることになったのを指している。この儀礼と「石漕船(石材運搬船)三〇〇隻」の負担による経済的疲弊を根拠に、家久は「家康に琉球侵略の許可を求めて許された」。

 薩摩の思想が、時として奄美の苦労は特別じゃなく薩摩も同じだというとき、農民として同じだという以外に、藩権力としての薩摩も免罪する言い方をするのは、奄美は島津に収奪されたと言うが、島津も幕府から不条理な負担を強いられていたのだというのを根拠にしている気がする。確かに、幕府-島津-奄美の連鎖のなかで理解できる側面はあり、幕藩体制のなかで理解できることはある。しかし、そのことは島津が何をしたのかを明らかにすることを妨げる理由にはならない。みんな同じにしてしまっては、何も終わらないし何も始まらない。



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2008/09/03

薩摩はなぜ琉球を侵略したのか

 なぜ、薩摩は琉球を侵略したのか。紙屋敦之の「島津氏の琉球出兵と権力編成」(『沖縄史料編集所紀要』通号5、1980年)に学んでみる。

 来聘問題で琉球に譲歩を迫まる目的で島津氏は大島出兵を企画し、慶長一一年三月そのための談合を開いた。幕府が前年七月二八日に当該問題で松浦氏に琉球との接触を命じたことが松浦鎮信からの八月一五日付書状で明らかになり、対琉球関係の独占的地位が崩れることを心配したことが、武力出兵という強硬手段を島津氏に選択させる契機をなした。

 ここに言う「来聘問題」は、幕府と琉球の間に起こったものだ。1602年、陸奥国に漂着した琉球人を徳川家康が琉球へ送還した後、お礼の使者を求めたが、それに琉球が応じていないことを指している。 来聘(らいへい)は、「外国から使節が来朝して貢ぎ物を献ずること」(辞書)とあるが、幕府はそれを機に琉球を服属させ日明貿易を復活させることを狙っていたし、琉球はその意図を察知すればこそ応じていなかった。

 慶長11年は1606年。あの1609年の三年前には「大島出兵」がすでに計画されている。松浦鎮信は、肥前などを版図に持った平戸藩の初代藩主とあるが、幕府は琉球関係の窓口として薩摩藩だけを考えているわけではないことに衝撃を受け、琉球への独占的地位を保てなくなると懸念し、それが侵略の契機をなした。

◇◆◇

しかし大島出兵の談合は、島津義久をはじめ談合衆の大方がそれをボイコットしたために不調に終った。また当時島津氏は琉球問題とは別に、一八代当主を襲った家久の下に権力を再編・強化する課題に直面していた。島津義弘が在京中の家久に大島出兵の談合の模様を伝えた慶長一一年四月一日の段階では、大島出兵は家臣団の石鋼船建造の出物未進と並列的に扱われていたがしかし、幕府から提出命令のあった郷帳を作成した結果、一一万八〇〇〇石の隠知行があらわになったことを伝えた五月二日の段階になると、大島出兵と隠知行の糾明=知行問題の解決とがはじめて不可分の問題として意識されるに至った。

 島津は、幕府から命じられた「石鋼船」300隻の建造が済んでいなかった。「石鋼船」は具体的にはどんな船のことか分からないが、江戸城築城のための船とあるから、運搬船のようなものだと思う。内政と大島出兵は別の問題だったが、改めて調べてみると「隠知行」があるのが分かり、「大島出兵と隠知行の糾明=知行問題の解決とがはじめて不可分の問題として意識されるに至った」。「隠知行」とは何のことか、これもよく分からないのだが、家臣団が島津に対して隠していた領地があるということだろうか。「大島出兵と隠知行の糾明」が不可分になるのは、出兵に際して軍役を賦課する際に知行は基準になるから、外政と内政が同一化されたという意味だと思える。

大島出兵の談合が不首尾であった島津氏は六月一七日、家久が、徳川家康に大島出兵の許可を請い許された。そのことによって、大島出兵は島津氏の私的政策から幕府の支持の下国家的政策に止揚された。つまり島津氏は、幕府の対明政策の一環としての琉球政策(当面、来聘問題の解決)の中に琉球出兵を位置づけることにより、幕府権力を背景に権力内部の出兵反対派を抑圧し、琉球出兵を権力編成の推進力として軌道に乗せることができたのである。琉球出兵は、それを契機に隠知行を糾明すると同時に琉球に版図を拡大することを目的としていた。

 なぜ、幕府は「大島出兵」を許可したのか。島津家久は石鋼船建造と家康から「家」の字を与えられたことへの出費により経済的に疲弊しないために、大島出兵が必要であると説いている。幕府はそれを聞きいれた形になっているが、幕府にしてみれば、明との貿易再開が最大の目的であったと思われる。

◇◆◇

 次に、琉球支配の展開と相まって行なわれた慶長内検は、一万三〇〇〇人にのぼる膨大な家臣団を扶持するために給地の確保=知行制度の確立を急務としていた(粗高制成立の意義はここにある。)ので、蔵人地の強化が不十分であったという問題点を残した。そこで、元和三年九月五日の徳川秀忠領知判物において、琉球の石高が島津氏の表高に算入されず事実上無役扱いされ右と、島津氏は二月琉球の特産物上納を石高を基準とした出物方式に切り換え、以後琉球の貢納を軍役として収奪した。また寛永一年八月(琉球の分轄支配を確定した)、道之島を島津氏の蔵人地として直轄支配することに決定した。要するに琉球の石高は、島津氏の頁租を主体とした財政基盤の弱体を補強する役割を与えられることになったのである。

 同じようにいえば、要するに、島津は自らの経済的窮乏を救うため奄美を直接支配したのだ。自らの経済的窮乏も、厳密にいえば、「膨大な家臣団」の維持のためである。

 紙屋に教えられながら薩摩の侵略動機を言うなら、窮乏を梃に国家への欲望を満たそうとしたものだと思える。窮乏は、貧弱なシラス台地によるものだが、それを絶対的にしたのは過剰な武士団の存在である。国家への欲望も薩摩の特徴だ。それは、幕府との距離と位置に依る。幕府から空間的距離が離れているということと、外様として時間的距離もあるということ。そして、端という位置。この二つを契機に、薩摩はもうひとつの幕府ともいうべき国家への欲望を膨らませていた。この欲望の根拠になったのも、過剰な武士団の存在である。過剰な武士団を経済的に維持するため、過剰な武士団が醸成する国家幻想を満たすため、琉球を侵略し、奄美を直接支配したのだ。

 琉球王府に対し、出物を石高を基準に賦課する体制を成立させたことは、島津氏が出物賦課率の操作次第で常に琉球に対する収奪強化を行ないうるということを意味した。また特権商人の納屋衆に運上金と引き換えに薩琉間の交通を独占させることを通じて、島津氏は琉球王府の再生産を規定する商品流通を掌中に支配した。琉球支配の構造的特質はすぐれてこの二点であった。

 事実、「出物を石高を基準に賦課する体制」は、黒糖収奪の際、搾取の機会を提供したと言える。


※「島津氏の琉球出兵と権力編成」
 (紙屋敦之、『沖縄史料編集所紀要』通号5、1980年)


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2008/09/01

「幕藩制下における琉球の位置」5

 紙屋の考察をたどると、琉球は、明、薩摩、幕府との関係のあわいを生きている。

琉球は、清帝の「准作正真」という恩典の授与にもかかわらず、また王府にとって貿易の利潤がないにもかかわらず、中国への進貢に熱心に取り組んでいるのである。その理由は、中国との朝貢関係の継持こそが、琉球が幕藩制下にみずからを同化されず、「王権」を維持し続けるための拠り所であったからであると理解される。

 琉球王国は、王権があるのに幕府に江戸上りさせられていたというより、王権維持のために江戸上りを行ったということだ。紙屋の結論は、こうだ。

1.琉球使節の江戸上りは当初、島津氏の琉球支配の必要から実施された。幕府は宝永度、一時使節の参府を無用としたが、島津氏の嘆願を容れて再考し、改めて琉球使節の江戸上りに日本の「御威光」を強化する、ひいては、幕府の国内支配を権威づける意義をみいだした。琉球使節の江戸上りは、宝永七年以降、幕藩制国家の国家的儀式として確立、実施された。

2.薩琉間の合意のもとに享保四年、日琉関係の隠蔽が最終的に確定し、琉球の「独自の王国」たることが偽装された。それは、琉球が中国との朝貢関係を維持する必要からであった。

3.そして以上のことはともに一八世紀初頭を画期としている。

 次に琉球使節の江戸上りを通した、幕・薩・琉三者の関係は次のようになる。

4.幕府は、中国の朝責国である琉球からの使節を迎えることで、東アジア世界における日本の「御威光」を高め、さらには幕府の国内支配を権威づけることになった。

5.島津氏は、琉球使節の江戸上りを恒常的に実施するかわりに、幕府権力を背景に琉球支配の安定・強化をえることができた。また幕藩関係において有利な地歩を築きえた。

6.琉球は、異朝の風俗を装い、日本へ使節を派遣し続けることで、幕藩制下にみずからの「王権」を維持するこ とができた。

 奄美に引き寄せていえば、琉球の「独自の王国」の偽装は、二重の疎外とその隠蔽が徹底される背景をなしいてる。そしてさらに、奄美が薩摩の直轄地であることの隠蔽も、隠蔽と意識されないくらい自明となっていったように思える。


『幕藩制国家成立過程の研究―寛永期を中心に』(紙屋敦之、1978年)

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