『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』
紙屋敦之が、400年の期に私家版『薩摩と琉球』の増刷を出版社に求められたのに、せっかくだからと、増補・改訂版で臨んだのが、『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』だ。
各論考は、その時々の求めに応じて書いたものであるが、一書にまとめてみると、日本と中国のはざまにおかれた琉球が、中国(明・清)との冊封・朝貢関係を梃子に日本(幕府・薩摩藩)と向き合い、日本に同一化されずにアイデンティティーを維持した姿が浮かび上がってくるように思われる。そうした点を読み取っていただけると幸いである。
この紙屋のモチーフは、「おわりに」に、端的に示されている。
おわリに 琉球の対日外交について
琉球は日本であるが「異国」
日本であるが「異国」というのが、江戸時代、薩摩侵入(一六〇九年)後の、日本側の琉球に対する位置づけであった。琉球は島津氏の領地として幕藩体制の中に組み込まれたが、これまでどおり中国との外交関係を容認され、琉球処分(一八七九年)で沖縄県となるまで中国から冊封され朝貢を続けた。冊封とは中国皇帝から国王に封じられることである。琉球は中国への朝貢を続けるため、日本と、具体的には薩摩藩とどのように向き合い王国を維持したのだろうか。
このテーマは現代の沖縄県の生き方を考える上で示唆を与えてくれる。
大和ではない地域として琉球が日本に組み入れられたとき、「日本であるが『異国』」と位置づけられたことは、「大和人と沖縄人」という構図を硬化させ、琉球は「日本ではない『異国』」であるとする主張を強化してきたと思える。
その特異なあり方を思えば、「現代の沖縄県の生き方」への示唆とは何だろう。関心を惹かれる。
中国に対する対日関係の隠蔽
薩摩支配下の琉球を説明するキーワードとして「嘉吉附庸」説がある。
これは一四四一年に島津忠国が室町幕府の六代将軍足利義教から琉球を賜ったとする所説で、薩摩藩が琉球支配を正当化するために一六三四年から主張するようになった歴史意識である。しかしそうした史実は確認できない。
一方、琉球は中国に対して対日関係を隠蔽する政策をとった。これは琉球が中国との冊封・朝貢関係を維持するために案出した外交政策だった。かつて私は日琉関係の隠蔽を次のように理解していた。すなわち、一六八三年の尚貞冊封のとき薩摩藩は琉球に派遣した役人・船頭を宝島人と称して冊封使と対面させたが、次回一七一九年の尚敬冊封のときにはそれを中止した。その後、琉球が薩摩藩の政策を自らの政策として受け止め、一七二五年に 「トカラとの通交」という隠蔽の論理を作り上げた、と。
想い起こされた古琉球の記憶
しかし最近、そうではないのではないかと考えるようになった。宝島人という偽装は琉球の発案だったのではないか。宝島は薩南諸島の北に位置するトカラ列島のことで、七島と呼ばれた地域である。薩摩侵入以前の七島は、半ばは琉球に属し半ばは日本に属していた。七島人は冊封のさい琉球に赴き冊封使と対面していた。こうした七島の過去を記憶していて、宝島人という偽装に応用したのは誰かと考えると、それは琉球であったと考えるのが自然だろう。
「嘉吉附庸」説を確認できないとして退けるのは、紙屋が従来から主張してきたことだが、中国に対する日琉関係の隠蔽を薩摩主体によるものから琉球主体によるものへ変えているのは、紙屋の認識の転換を語っている。
冊封のとき中国人が琉球に持ち渡る品物は琉球が買い取ることになっていた。これを評価(はんがー)と呼んでいる。評価には多額の銀が必要になる。琉球は銀を産出しないので日本から調達することになる。日本から多くの商船を琉球に招致する方策が宝島人という偽装だった。一七一九年の冊封では宝島人という偽装を薩摩藩が禁止したため、琉球は宝島人の来航を演出できなくなったため、評価の資金として銀五〇〇貫目(一〇〇貫目追加して六〇〇貢目)しか用意できず、琉球は中国人が持ち込んできた銀二〇〇〇貫目の品物を買い取ることができなかった。このときの評価問題で苦労した蔡温は、一七二五年に正史『中山世譜』を編纂したさい、「トカラとの通交」という論理を唱え、表向き日本との関係を否定するが、日本との貿易を内々に行うことを企図したのである。
銀を調達する必要もあり、琉球にとっても日本との通交はメリットがあった。中国に対し日琉関係を隠蔽する内在的な理由があったことになる。この動機をもとに、古琉球の記憶を頼りに「宝島人」偽装を発案したのは琉球ではなかったか。この、古琉球の記憶を頼りにしたという根拠は説得力がある。
しかも、それだけでなく、と紙屋は考える。
北京への朝貢と江戸上り
琉球は中国への朝貢が日本にとってきわめて意義のあることを指摘していたと考えられる。一七一〇年に琉球使節は日本のご威光を高める外国使節として位置づけられた。前年、五代将軍徳川綱吉が亡くなった。徳川家宣が次期将軍に予定されていたので、薩摩藩は慣例に則って将軍代替わりを祝う慶賀使の派遣を申し入れたが、幕府は「無用」と断った。そこで薩摩藩は、琉球は小国とはいえ中国に朝貢する国々の中では朝鮮につぐ第二の席次の国であることを指摘し、それに幕府が、琉球使節を迎えることは第一日本のご威光になるという理由で許可したという経緯がある。
琉球には旅役(地下旅、大和旅、唐旅)という使者を務める制度があり、家臣の国王に対する重要な奉公であった。家臣は旅役を務めることで知行を給わった。したがって、大和旅の一つである慶賀使を派遣できなくなるということは、首里王府の権力維持にとって大きな支障になるのである。こうした事情を考えると、中国に朝貢する国々の中で朝鮮につぐ第二の席次の国であることを指摘して慶賀使の実現をはかるよう薩摩藩を動かしたのは、実は琉球だったといえるのではないか。
ここも紙屋の認識の更新を語った箇所だ。これまで慶賀使の派遣を「無用」とした幕府に対し、薩摩は国内における薩摩の地位向上、琉球は冊封体制の維持という点で利害が共通したと言及されていたと思うが、紙屋は実はそれは琉球が薩摩を動かしたことではなかったか、と、琉球主導の観点を持ち込んでいる。
一六九五年の元禄金銀に始まる相つぐ貨幣改鋳により、銀貨の品位が低下し、中国への朝貢に支障がある、と琉球が薩摩藩を通じて、幕府に渡唐銀を元禄銀貨並みの品位に吹き替えることを要求したのに対し、幕府は琉球に冊封使を迎えるためという理由で許可した。幕府は一七一〇年に中国に朝貢する琉球からの使節を日本のご威光を高める外国使節として位置づけたのだから当然の措置であった。これは、琉球側からみると、中国との冊封・朝貢関係を幕府に認めさせることに成功したということになる。琉球使節は一七一〇年以降、中国風の装いを要求されたが、むしろ琉球のアイデンティティーを主張するうえで好都合だった。
琉球の国王・家臣団は毎年一万石余に上る米を薩摩藩に上納していた。「御財制」という一七二〇年代の首里王府の財政モデルによると、王府の会計は米と銀の二本立てからなっていて、米の会計は支出の六七%を薩摩関係で占めている。注目すべき点は、中国との朝貢貿易が銀の会計で運営されることになっていたことである。米の会計ではとても運営できないという事情もあるが、朝貢貿易を薩摩藩から独立して運営するためであった。渡唐銀は一七一六年に進貢料銀六〇四貫目・接貢料銀三〇二貫目に制限され、薩摩藩と首里王府が半分ずつ分け合うことになった。王府は進貢料銀三〇二貫目・接頁料銀一五一要目で朝貢貿易を運営する財政モデルを組み立てていった。
冊封関係維持のため銀の価値向上を幕府に了承させ、薩摩の影響度を小さくするため朝貢貿易の会計を銀により行った。こうした点に、紙屋は琉球の主体性を見ている。
薩摩藩主に対する忠誠の論理
最後に、琉球の「トカラとの通交」論、すなわち対日関係の隠蔽を薩摩藩が許容したのはなぜかという疑問が残る。琉球国王は即位後、薩摩藩主に起請文を提出することになっていたが、一六七〇年の尚貞以降、薩摩藩主に対する忠誠の論理が「附庸国」論から「琉球安泰」論に転換したことが指摘されている。薩摩藩に従属しているから忠誠を誓うという論理から、琉球が安泰であるのは薩摩藩のお蔭であるから忠誠を誓うという論理への転換である。しかし、「琉球安泰」論は逆にいうと、琉球安泰の責任を薩摩藩に負わせる論理であった。
将軍代替わり時に大名は幕府の仕置に従う旨の起請文を差し上げる。一六八一、一七〇九年に島津氏が差し上げた起請文にはこれまで見られなかった、琉球が日本の仕置に背き「邪儀」を企ててもそれに荷担することはしない旨が記されている。琉球の「邪儀」云々は、幕府と薩摩藩が琉球の去就を注意深く見ていたことをうかがわせる。
こうして琉球は対日関係の隠蔽を薩摩藩に認めさせることができたのである。
「こうして」はどうしてなのか、飛躍があって難しい。対明貿易の交渉に失敗し琉球を存続させる必要に迫られた幕府と薩摩は、琉球を「異国」化するのだから、日琉関係の隠蔽は薩摩にとってもむしろ動機がある。だから、許容も何も、利害は一致していたのではないだろうか。
ただ、琉球の「邪儀」に加担しないという一文を起請文に追加させられたところからは、確かに、琉球が幕府や薩摩の意のままにならない部分を持ち始めた背景を思わせる。そうした点からいえば、日琉関係の隠蔽の方法を琉球が主導して発案していったのではないかという紙屋の更新認識は説得力を感じる。
紙屋のいう「現代の沖縄県の生き方」への示唆とは何だろう。最後まで来ても、この「おわりに」からだけではそれを明瞭に知ることはできない。でもここに紙屋の言外の示唆はあると受け止めるれば、日本と中国が自らの存在を中心に据えて他との関係を捉えているのに対して、琉球は、日本や中国との関係を最優先にして自らの存在を捉えている違いがある。ここに、紙屋は琉球の主体性、アイデンティティのありようがあると考えていると思える。
この両者の比較は、実体論と関係論の議論にも似て、しかも関係なくして実体もないと思えるリアリティからすると、琉球の関係論は現在的ではある。
榕樹書林つながりでいえば、上原兼善の『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』は、奄美、琉球を横断して1609年の全体を概観したものとすれば、紙屋敦之の『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』は、関係としての琉球の主体性を浮かび上がらせようとしたものだと言える。それはどちらも400年の成果と言っていいのかもしれない。
◇◆◇
ところで、「はざま」「薩摩」「琉球」とキーワードが並ぶと、「奄美」を連想してしまうが、ここでも、考慮対象としての奄美の欠落を思わないわけにいかない。
押し寄せた波が珊瑚岩に当って跳ね返り、逆向きにも波がやってくる海辺のように。1609年を期に、奄美は直接支配化され、「奄美は琉球ではない」という規定がまず奄美に押し寄せる(「大島置目之条々」)。ついで、「琉球は大和ではない」とした規定は琉球弧に押し寄せたあと、琉球が主体性を発揮して隠蔽の論理を強化すると、それは跳ね返る波となって、「奄美は大和ではない」という規定の強化として、奄美に押し寄せた(「大島御規模帳」)。
もうひとつ。一方的な関係を強いられた後、返す刀で琉球は独自性を発揮するモーメントを見出した。では、奄美は? 奄美にその余地はあったろうか。そういう問いが残る。そう思うのは、琉球は17世紀の後半に、「附庸国」論から「琉球安泰」論への転換を果たしたが、同じ時期、奄美は「大島代官記」の序文で、変わらず「附庸国」論を追認している。この波は奄美に訪れることはなかったと思えるのだ。
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