ちょっとだけ奄美
実は、よしもとばななの『なんくるなく、ない』の書名は、
サブタイトルがついていて、
「沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか」と続く。
沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか
この、ちょっとだけ奄美の個所は、
がっかり、から、なるほど、へと印象が変わる。
まず、コピー自体にがっかりくる。
「ちょっとだけ奄美」。
これは、山下欣一の指摘した「付録としての奄美」そのまんまじゃないか。
その表現が、あまりにあまみで、
よしもとにあってもそうかと、がっかりしてしまう。
次に、奄美についての旅日記「奄美、鶏飯の日々」のはじまりにがっかりくる。
奄美・・・知っているのはアマミノクロウサギと朝崎郁恵さん
(ハブ屋にまでサインがあった・・・島中が彼女のサインでいっぱいだ!)
と元ちとせさんくらいの奄美。
ああ! 大切なことを忘れていました。
この夏「死の棘」を読み返したのに。
そう、島尾先生がトップにくるのでした。
うちのお父さんと島尾さんはお友達だったので、
よく家にいらしてましたっけ。
懐かしい気持ちだ。
そんなに奄美を知らないのか、と。
そしてこのくだりが続くにあたって、がっかりは、最大幅に振れる。
奄美に着いてまず驚いたことは、
沖縄よりもずっと鹿児島みたいだったこと・・・。
あたりまえなんだけど。
それを言うな、と思わず思う。
最初に、島尾ミホの話題が出るが、奄美の旅日記自体も、
島尾ミホ、田中一村、喫茶店、宿泊施設と点景が綴られていくような感じだ。
沖縄を書くのとは明らかに何かが足りない。
それは、地霊的なオーラを、よしもとが奄美では感じていなくて、
魔法が解けたように、しらふで書いているところから
やってくるように思う。
これはもっとも考えさせられる、がっかりだ。
○ ○ ○
でも、気を取り直して再度、読んでみる。
すると、第一印象が、自分の既成概念、偏見に
引っ張られているのに気づくのだった。
奄美に着いてまず驚いたことは、
沖縄よりもずっと鹿児島みたいだったこと・・・。
あたりまえなんだけど。
ぼくはこの個所に、もっともがっかりしたわけだけれど、
このくだりは、次のように続く。
緑がこんもりしていて、そてつがいっぱいあって、
海がゆったりと広がっていて。
これを素直に読む限り、よしもとが「沖縄よりもずっと鹿児島みたい」
と言っているのは、緑、そてつ、海のありようのことだ。
つまり、自然の実態を指している。
作家の感性は、南から北へと移動する中で、
本土との連続性のなかに、奄美の自然を位置づけたのだ。
そんな素直さは、次のくだりにも現れていると思う。
奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので、
なんとなくこの本に入れた。
(中略)
ソテツが大きくて、全体に少しさびれていた愛すべき奄美大島よ。
「奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので」。
「奄美は沖縄ではない」ということを、
奄美は沖縄県ではない、という行政区分の意味で言っているだろうか?
ぼくには、単純に、沖縄県ではないという意味もあれば、
島から感受される空気の意味でもある気分の幅で書いている気がした。
面白いのは、
奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので
と、「奄美は沖縄ではない」が、を、でも、「南の島なので」と受けることだ。
思想的な視点が入って、ぼくなどが書けば、
奄美は沖縄ではないが、琉球弧なので、
と、書いてしまうところだろう。
「琉球弧」ではなく、「南の島」。
ここでは、思想的な意味は脱色される代わりに、
肩に力の入らない、自然で素直なくくりが見えてくる。
そう、南の島として、奄美と沖縄は同位相なのだ。
この意味では、「ちょっとだけ奄美」という括弧書きのなかの言葉も、
奄美の存在を無視しなかった、よしもとの誠実さに見えてくる。
奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので、
なんとなくこの本に入れた。
(中略)
ソテツが大きくて、全体に少しさびれていた愛すべき奄美大島よ。
この文章は、次のように続く。
ある日ドライブして行った国直海岸で「喫茶・工房てるぼーず」
のかき氷を食べて、そこ出身の奥さんに集落の福木の道を
案内していただき、私はその思い出を「海のふた」という小説に書いた。
睦稔さんがそこにすばらしい絵をつけてくれた。
自分が産まれたところを愛する気持ち・・・・
それがいかに気高いものなんか、
私は彼から学んだのだと思う。
奄美からは地霊的なオーラを感じていないと、
ぼくは書いたけれど、「気高さ」として生きているようにも見える。
ぼくは、それが奄美から途絶えているというのではなく、
「少しさびれていた」とあるように、
奄美が自分をネガとして表現していることの現れであると、
課題として受け取ろうと思った。
○ ○ ○
ただ、沖縄への(ちょっとだけ奄美への)、
どうしようもない片想いを描いたラブレターとしては、
読めるかもしれないと思います。
よしもとばななは、旅日記の締めくくりには、
作品が読者向きではなく、
旅の同行の士向きであることの反省の弁として、
こう書くのだけれど、
ぼくには、それが返って、奄美・沖縄が、
よしもとをほぐしていく過程が素直に現していて好もしく感じた。
愛すべき奄美よ。
奄美の新しい表情は、
奄美の人々による奄美の捉え方にかかっていると、
ぼくはこの本を受け止める。
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