カテゴリー「35.薩摩とは何か、西郷とは誰か」の12件の記事

2007/12/07

薩摩とは何か、西郷とは誰か 9

 <薩摩隼人>に与えられている内実にしても同じである。薩摩出身の作家、海音寺潮五郎は、<薩摩隼人>を、「勇敢さと強さを喜ぶ人種」と評するとともに、「おそろしく楽天的で、享楽的で、ジョウダンが好きだ」として、「薩摩人ほどジョウダンを言い、薩摩人ほど大きな声で笑う人々を、ぼくは知らない。どんなことでも、薩摩人は遊楽化してしまう。戦争中のあのイヤな防空演習が、薩摩では見事に連楽化されていた。水かけ演習など、部落対抗の競技になって、それぞれ選手が出、応援団が組織され、応援歌をうたいながら、焼酎をのみながら、いとも楽しく、いとも盛大に行われたのだ」(「ポッケモン入国」)と書いて、二重に評価している。

 お国自慢恒例の盲目さを差し引けば、人はここに書かれた勇敢さと明るさからどんな印象を受けるだろうか。俺はついていけない気遅れと、どこか気負いこんだ窮屈さを感じる。ほんとうに笑っているのか、ほんとうに楽しいのかという声がせりあがってくる。それはかつての自分に向ける言葉でもある。この「明るさ」は俺が欲しいものではない。これは、俺が昭和の戦争期を受け取っているとすれば、そこで明朗アジアの建設や鍛練や修身といったスローガンとともにあった「明るさ」に近いという気がする。いや、薩摩の<こわばり>の論理は、戦争期にこそ適合したのではないか。

 昭和の戦争期とは全国規模で<こわばり>の論理が席捲した時期のことだからである。しかし、本土の南端にある二つの半島を南方につきだした地域の「明るさ」は、北端にある、やはり二つの半島を北方に伸ばした地域を出自にもつ作家が、その戦争中に放った「明ルサハ、滅ビノ姿デアロウカ」という言葉が的中するものだと思える。<こわばり>の論理は絵に描いたような「明るさ」をつくりだす。だがそれはリラックスよりは滅びに近しいのだ。

 そして<桜島>、である。鹿児島を故郷にもつ者は、桜島をみると帰ってきたという安堵感に浸れるという。逆に、外から観光に訪れた者は、非日本的な風土を感受したりするという。しかし俺にはそのどちらの感受もやってこない。そこにいけば必ずある抑圧の石として重たいしこりを落としてゆくだけだ。また、薩摩は南国的な明るさをもつなどという文章に出会うと、俺はそこに、灰に降られて遮られる視界のようにすべては視えなくされているという像を対置せずにはおれない。南国だから明るいなどと言ってみたところで何も言っていないに等しいとしか思えないのだ。だが、こんなことは俺の不幸な感受の型だというだけで別にたいしたことではない。俺が採りあげたいのは、<桜島>が内部から語られるとき、その爆発と噴煙から男性的で雄壮であるという像が導かれやすく、しかも古来からそうであったかのような印象を与えていることだ。しかし、そんなことは決してないのだ。

 俺たちは人間を固定化して考えてはならないのと同じく、風景が県民性と結託して通念像を練り上げる息苦しさに対しても、どこかに風穴をあける自由を保持していることが大切だ。桜島にしても噴火が活発化する以前は、山肌は緑に覆われなだらかな曲線を描き、どちらかといえば女性的なイメージをもっていたという感受もありえたのである。だが、彼らの手にかかれば、鹿児島の象徴として固定化された像に収斂するしかないように出来あがっている。

 かくして<薩摩>といえば、<教育県>であり、<薩摩隼人>であり<桜島>であり、これらは<男尊女卑>を美化した男性的というイメージの連鎖を辿り、その頭目みたいに<西郷南洲>が祭りあげられるのだ。しかしこれらのいずれもが、こうしたイメージ連鎖により内実をすぼめられていることは言うもまたないことだ。この像のもとで息苦しくされているのは、あいかわらずシラス台地とつきあってきた人々ではないのか。

 <こわばり>は、人間のある心的な状態であり、そのこと自体は何ら不自然なものではない。しかし、絶対化され共同意志化された<こわばり>の論理は、死滅すべきものであり、大衆的な規模で「消費」が意識化される地点から全く根拠を無くして死滅するしかないのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/06

薩摩とは何か、西郷とは誰か 8

 薩摩の制度の代弁者たちは現在でも、鹿児島を語るのに明治維新をもってする。俺はいったい彼らがなにを誇りにしているのかよく解らないところがある。だいたい「明治維新」という歴史の転換を担ったことを誇りにするのであれば、それがもたらしたものにたいしてどこまでも引き受けてみせたらどうなんだ。日本の植民地化を防いだだの、いちはやく西洋技術を採り入れて開明的だのということを振りかざすのであれば、その結果、訪れた「近代」のもつ意味を受け止めてみせるべきである。それが明治維新の責任をとるということに他ならない。

 第一、明治維新の成就を誇るものが、それがもたらしたものの光度に耐ええないというのは滑稽ではないか。結局のところ、<薩摩>は幕末から明治維新にかけてエネルギーの解放をはたしたが、西南戦争で挫折してから以降何が残ったといえるのか。そこで西郷や武門は死んだかもしれないが、<こわばり>の論理だけは存続していったのではないか。そして現在その最たるあらわれを、俺たちは「教育県」にみているのではないか。「教育県」とは、都市化への<こわばり>を共同意志化したものに他ならないのだ。

 また、「九州男児」などという通称が、誇らし気に<薩摩隼人>という像に収斂されるとき、そこにはいつも裏面に<男尊女卑>という考えを随伴している。<男尊女卑>といったところでなにも男が女を虐待し奴隷化しているという単純な図式が妥当するわけではないことは言うまでもない。それでは<薩摩おごじょ>という活き活きした女性像もありえないことになる。だが、だからといって<男尊女卑>が立派なものだということにはならないことも自明のことである。

 男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。 だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。
 また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係のなかに示されている。
            (マルクス『経済学・哲学草稿』)

 間尺のあわぬ引用をしているようで気かひけるが、この言葉は真理だ。男性の女性にたいする関係のなかに、どの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったかが示されるというとき、<男尊女卑>の思想が自滅しなかったとしたら、これ以上の貧困はないと言わなければならない。もう誰も声高にはこの思想を言う者などいないのかもしれない。だが一枚皮をめくってみれば、相も変らぬ信奉者の頑迷さに出会うことはままある。

 俺は<男尊女卑>が時代錯誤だと言いたいのでもなければ、女性を解放せよなどと言いたいはない。この思想では、現在の女性一般が、社会へ進出し、また性の抑圧を解かれ自由を享受している勢いにたいして、男性一般は、この事態にどう対応していけばよいのか判らずに内心戸惑っている状況を隠してしまうのだ。このことは俺たちが日々営んでいる社会の現実的な関係の場を覗いてみれば、避けられない力を持っていることくらいすぐに解るはずである。このとき<男尊女卑>を秘めている著は頑なにその砦を守っているつもりでも、その姿は滑稽でしかない。マンガなのだ。これでどうして人間と人間の関係をむすんでいくことができるのか。<男尊女卑>とは、人間の他の人間にたいする<こわばり>の制度化の謂いに他ならないのだ。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/05

薩摩とは何か、西郷とは誰か 7

 <薩摩>とは何か。それは<こわばり>の絶対化のことである。そして<こわばり>が絶対化されるという点で、<薩摩>は他の地域にたいして極北を占めるのであり、これにより全く異なる相貌をもつものへの反転を可能にしたのである。これが「県民性」と呼ばれるものの二重性の根拠であり、<こわばり>の絶対化として、薩摩は<薩摩>であった。

 <薩摩>は、その<こわばり>の絶対化による閉塞と逼迫を、南島支配によって二重の意味で緩和した。しかし、<薩摩>をその<こわばり>の論理に従って解放したのは、明治維新であった。<こわばり>の絶対化を、その論理に沿うように解放することができるのは、緊張と硬直で高まる内部圧力を外部に向って発散することである。そして<薩摩>の<こわばり>の絶対化は、外部にたいする発散にいつでも向けられるようなポテンシャルを維持する意志から産まれてきている。革命の青写真も理念もあったものではない。むしろ彼らの思想は、観念の構築を忌避するところにこそあった。

 <薩摩>の論理にとって明治維新が意味をもったのは、その<こわばり>の絶対化を解除するエネルギーの発散の機会であったからである。しかも<薩摩>にとってこの解放は、記述に現れる限りでは、「熊蘇」や「隼人」の反乱以来、幾度となく繰り返されてきた封じ込めにたいする解放をも意味していた。この歴史的に蓄積された巨大なエネルギーの提供が、<薩摩>が明治維新にたいしてなしたことである。

 だが、行為を担った薩摩の下層武門勢力は、革命が武門の死を意味することを、その成就ののちに知らされる。しかもこんどは再び<薩摩>として、国家権力から従属を強いられるだけではない。<出てゆく>ことと<とどまる>ことの分裂の過程を通じて、農耕社会型の特異な世界を醸成してきた<薩摩>の胎内からも、<出てゆく>者の出現を余儀なくされたのである。そして西南戦争による武門の死滅により<とどまる>論理は挫折する。もはや<とどまる>ことが世界を覆うことはできなくなり、<出てゆく>と<とどまる>は対立する構図を形成していった。そして明治維新が大衆的な規模で強いたのも、この抜き差しならない分裂の意識であった。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/04

薩摩とは何か、西郷とは誰か 6

 薩摩は、幕府の国家権力の圧政と藩国家内で衆庶に及ぼしている圧政で、窒息していった。これは<こわばり>の論理はそれのみでは、<こわばり>の果てに凍てつき死んでゆくことを意味している。この窒息の事態を、島津は南島支配により切り抜け、<薩摩>を呼吸させたのである。薩摩は南島にたいして強者の論理で臨んだのだが、ここでも薩摩は浄土真宗と同じ“敵”を南島に見出したのだ。なぜなら南島は、<こわばり>の論理とは相容れない安逸や香気やおおらかさという楽な姿勢を保持した世界だったからである。そして薩摩が南島に輸出した最大のものも、この<こわばり>の論理であった。しかし、薩摩にとって南島支配のもった意味は、藩内部の呼吸というだけに止まらない。

 薩摩は藩国家を独立圏として成立させたが、このことは藩国家内部の<こわばり>の内圧を高めることを意味した。だが、考えてみれば江戸幕府の国家権力も外部世界にたいして門を閉ざし、鎖国体制を敷いていたのであり、薩摩は鎖国内部で、もう一度鎖国の境界を引いていることになる。ところで二重の閉鎖は藩内部の内圧をさらに高めるといえるが、他方、幕府の国家権力から藩を閉ざすという点では、幕府の国家観力が閉ざしている外部世界とは通路が開かれる契機をもつことを意味したのである。司馬などが日本の植民地化を防いだという島津氏の幕末の外交はこのことの現れである。ここでも南島は外部世界の動きをもっともはやく受けており、薩摩は南島支配によりその信号をキャッチし、外部世界との呼吸をも可能にしたのである。だから、国家としての薩摩にとって南島支配とは、国家の内部と外部にたいする呼吸という意味をもったのである。

 このことは<薩摩>が、観念と情念の農王国として、ある極北を占めると考えられる側面も物語っている。これはふつうには、進取の気性に富むことと保守的であるということが矛盾せずに県民性として挙げられていることに関わり、かれらのある痛ましさの内実を伝えるものである。

 薩摩は、「出島」のように江戸幕府の国家の政策的な開放機関であったわけではない。薩摩が外部世界と交通したのは、鎖国内部でさらに鎖国を反復した強度が反転された結果である。この全く異なる相貌をもつものへの反転を可能にする強度において、薩摩は極北を占めるということができるのである。だが、この反転は、精神の自在さや世界の多様性を意味しない。日本という大文字の<共同意志>にたいして<薩摩>の、いわば小文字の<共同意志>が、従属という関係だけではおさまらず、対立し拮抗する志向をどこかに持っているということは、大文字の<共同意志>以上に、いびつなおおらかさのない共同性をしか構成できないことを意味していた。それはこれまで見てきた通りである。だからこの反転は、<共同意志>の二重化が可能にしているのであり、本来別ものではありえず、根底的には<薩摩>のもつ相貌だということに変りはない。

 そして現在、大文字の<共同意志>が白熱する核の根拠を喪失し解体と拡散の一途を辿っている事態にたいしては、小文字の<共同意志>は、動向の遮断と自身の強化を志向し、解体と拡散への反動から大文字の<共同意志>が日本人としての結束を強化しょうとする収束の動きにたいしては、むしろその先鋒をつとめているようにみえる。これが、かの地の“保守と進取”にまつわる現在的な二重性の奇妙なあらわれになっているのだ。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/03

薩摩とは何か、西郷とは誰か 5

 だから、西郷隆盛の死にしても、現象的には「サムライの滅亡」を象徴したとしか言えないものだ。日本史権力としての国家の、薩摩に対する従属の強制は、「熊蘇」や「隼人」にたいする「大和朝廷」以来の歴史的なものだが、こうした背景をもった薩摩にとって明治維新は、高い内圧のエネルギーの発散によって、国家の封じ込めにたいする無意識の解放を果したことを意味したと思える。だが薩摩にとっての内在的な意味と「明治維新」の内実とはおのずと別の事柄に属する。西郷はこの薩摩にとっての内在的な場所を離脱して、「明治維新」の独自の相貌を織ったとき、歴史の突端にたって二重の分裂した意識をかかえこんだ。繰り返すが、そこでは<出てゆく>ことと<とどまる>ことは異なる生の範型であることを、<薩摩>という地方の物語をもっとも大きな振幅で辿らざるをえない負荷を通じて識らされたのである。だが、かれはここでこの分裂に身を晒したのでもなく、革命の遂行を、つまり<出てゆく>ことの意味をどこまでも辿ってみせたみでもなかった。

 西郷は、その意に反して海辺の統治を命じられて青山が枯れるほどに泣きちらしたスサノオのように、<出てゆく>ことを拒否して<とどまる>ことを望んだのだ。だから、西郷の死がほんとうに象徴しているのは、農耕社会型における政治形態の最初の死である。司馬の言う通り、薩長という明治維新の武門勢力は、革命政権について何のブランも持っていなかった。そのことはアジア的・農耕社会型の論理が死ななければならない端緒であったことを示している。西郷はそこに殉じたのだ。

 西郷については、現在でも、親近感を抱くことができる人格的な吸引力が語られる反面、そのネガのように「征韓論」を唱えた人物であるということが、矛盾であり謎であるとする考え方が存在する。だが、こんなことは矛盾でも謎でもありはしない。「敬天愛人」というかれの言葉がよく伝えているように、支配権力は天上に押し上げられ、そのもとでの衆庶相互は愛情に満ちた関係が架橋するという専制的な支配権力の存在と理想的な側面すらもつ人間関係の親和は、ともに農耕型社会の特徴である。そして西郷は、この「帝王」的世界と「阿Q」的世界の双方の在り方を一人格として備えていたのだ。西郷が農耕型社会における政治形態の最初の死を象徴しえているのは、この無限の距離を介して成立するはずの、ディスポティズムの論理と「帝力何ぞ我にあらんや」という衆庶の呟きを一身に具現していたことにあるのであり、かれの魅力もそこにあると言える。

 西郷がこのような思想的人格ともいうべき内実を体現しえたのは、ひとつには薩摩が自閉的な社会を維持し藩国家を独立圏として成立させたため、薩摩藩が外部とは一端絶たれた農耕型社会を純粋培養したことによる。しかし、国家としての薩摩は「帝王と阿Q」の世界を生き写しにもっていたのではなかった。そこには、両者の無限の距離を極小に締めた「郷士制度」が存在しており、「阿Q」的世界に特徴的な安逸や呑気さやおおらかさの代りに<こわばり>の雰囲気が浸透していたのである。つまり西郷は<薩摩>のみでは西郷たりえなかったのである。このことは藩だけでは<薩摩>が薩摩自身を存続させることはできなかったことに対応すると思える。
(『攻撃的解体』1991年)

 いま、補足があるとしたら、農耕社会型の政治の死が、西郷隆盛に始まったとすれば、その終わりを演じたのは、田中角栄だったということだ。


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2007/12/02

薩摩とは何か、西郷とは誰か 4

 ところで司馬は、島津氏は関ケ原の戦闘直後の臨戦態勢のまま、三世紀に近い江戸期のあいだ国境を閉鎖し続けたが、大勢に順応しがちな日本人の集団が、これほどの長期間にわたりひとつの姿勢の持続した例は絶無であり、「日本人が日本人の欠陥を考えるとき、このことは誇るべき特異例であるようにおもえる」(『街道を行く3』)とし、鎌倉期から綿々たる島津家の持続をつくったことについて、「薩摩人というのは日本人の傑作といえるのではあるまいか」(『歴史を紀行する』一九六九年)と書いている。

 この評言には、鹿児島の制度の代弁者たちの言に感じる疲労感と同質の、ひとに言葉を喪わせる憤りを覚える。馬鹿なことばかりぬかすなと言うほかはない。俺にはある地方人が傑作か否かという評価軸は無いから、薩摩人は日本人のなかの傑作であるという評言に反対だと言いたいのではない。むろん傑作だと考えるわけでもない。俺が疲労を感じるのは、このような言い方、つまり、大勢への順応を日本人の欠陥と見做し、薩摩の態度からその道のものを見出してそれを誇りと考え傑作と評することで、薩摩人としてのかれらの、ある痛ましさに届くことができるだろうか、と考えるからである。このような評価では、ここにある痛ましさを解き放つことは決してできないと思える。できるのは制度の代弁者たちの倒錯した優越の砦を強化することくらいである。「傑作」という強弁は「薩摩人」を歴史の過去に凍結することはできても、可能性へむかって解放することはできない。

 その可能性とはなにか。それは<こわばり>を解く、ということ以外ではありえない。<こわばり>の論理とは、虐政、圧政や苛酷な自然の条件下にある「弱者」が「強者」のごとくに振舞おうとして身につけたものだ。「弱者」が「強者」を装った緊張と硬直こそは、その根本にある構えのかたちだ。<武士道>と司馬が美化して呼ぶものの内実も<こわばり>の論理だ。「いつでも死ぬ覚悟」などその典型である。だが司馬の愛好する武士像は同じ「死ぬ覚悟」でも、『葉隠』のような観念的に昇華され武士の内面倫理と化したものではなく(彼は『葉隠』を「蓄膿症じみた教訓哲学」と評しているー注)、行動がそれを物語っていた薩摩武士においてこそ言えるものだ。

 この彼の美学に適っている武士像は、薩摩においては「郷士」が最もよく担っていた。「郷士」は、衆庶と江戸幕府の国家の双方にたいして薩摩藩の<国家意志>を担うものであり、その意味では<こわばり>の論理を最も体現した存在である。司馬によれば、この「傑作」とも言うべき薩摩武士は西南戦争で絶滅したということになる。だが、そうではないのだ。彼の美学に都合よく薩摩武士は滅びの道を歩んだのではない。彼が薩摩の虚像を措くその分だけ、その眼には現代は断絶と映るというにすぎない。

 明治という国家について一冊の書物を編みながら、明治維新がなした歴史的な「善」である「地租改正」のことを司馬は全く触れていないのだが、薩摩においては「地租改正」がもたらした現実は重要である。この農業革命において、「城下士」はその土地を没収され衆庶は土地の所有権を得るが、「郷士」はその土地が自作名義の開墾地であり、これについては士庶を問わず、所有権が持続されたと歴史は伝えている。そこで「城下士」は没落したが、逆にそれまで下位に見放されていた「郷士」が地主上して特権階層を構成することになったのだ。この「郷士」が特権階層を占めるという状況は、戦後の「農地改革」まで続くのである。

 このことの意味するものは何か。「郷士」は藩国家としての薩摩において、即戦的な武装集団であり、藩の境界の外部と藩内の衆庶にたいして直接に向き合っていた存在であり、いわば<こわばり>の論理を最も体現していた。だから、薩摩において薩摩武士は潰えなかったばかりか、むしろさらに薩摩の<共同意志>の構成者として存続したのである。つまり、<こわばり>の論理は<薩摩>に支配的な位置を占め続けたのであり、<こわばり>の伝統は、司馬の嫌悪してみせる昭和の軍部にまで連綿としたのだ。だから司馬の嘆きとは裏腹に武士道の精神とは、復活もしたし継承もされてきたのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/12/01

薩摩とは何か、西郷とは誰か 3

 「郷士制度」は藩国家の支配の共同意志をあまねく貫徹させるとともに、偏武的な戦闘集団が遍在することにより藩国家を独立圏としたのである。こうした特異な藩国家形態の欲望がどこにあるのかと言えば、それは薩摩の藩国家が江戸幕府の国家と対立し対峙する契機をもっていたことにあると思える。薩摩の藩国家はむろん江戸幕府の国家に従属していたのであるが、島津氏は外様大名であり国家の権力にたいして親疎の度合が最も<疎>にぶれていたということと、薩摩は国家の地理的な版図からみても<端>に位置していたという二重の関係を媒介して、薩摩は江戸の国家権力に拮抗する国家意志をもったのである。

 なぜ藩としての薩摩は、このような政治形態を採ったのだろうか。武士による地域共同体の直接支配と強固な藩境界の防備による独立圏の形成という二重の権力意志には、過剰な緊迫感の感触がある。このことについて、過剰な武士の存在が直接支配を要請し、江戸幕府の国家権力に対抗する契機を産んだと答えるのは現象的な理解にすぎない。この理解では、薩摩にみなぎっている緊迫や大上段的な構えについて触れることはできないと思える。

 そう考えるとき、俺たちはやはりここでも<こわばり>の感触に突き当っているのだ。そこで俺たちは言うことができる。この薩摩の藩国家は、<こわばり>の政治形態である。武力の遍在による独立圏の形成は江戸幕府の国家権力にたいする<こわばり>を表現したものであり、藩国家の内部にあっては衆庶にたいして<こわばり>、かれらから農耕社会の牧歌を奪い、そうすることで<こわばり>の体現者である武士階級を維持したのである。

 この衆庶にたいする<こわばり>を最もよく示しているのは、浄土真宗(一向宗)の禁制だと思える。国家としての薩摩は、なぜ、全国的なキリスト教の禁制に加え、浄土真宗(一向宗)を禁じたのだろうか。なぜキリスト教禁圧に優る苛烈さで弾圧に臨んだのだろうか。例えば『鹿児島県の歴史』の男は禁制の理由として流布された諸説にたいしていずれも信拠し難いとして、「一向宗禁制の真因は、一向宗の教権第一主義が、往々にして領主権力の軽視にまで発展するのを忌み嫌ったせいだと考えられる」と述べている。だがこうした説明で納得することはできるだろうか。これでは、なぜ、それなら他の領主権力もこぞって同様の禁制の措置を選択しなかったのかが了解できなくなるのであり、せいぜいがまたぞろ島津氏は賢明だったからというお国自慢的な解釈を得るに止まるのであり、この解答は、次の疑問を必然的に招き寄せるものにしかなっていないと思える。つまり、何も言ってないに等しいのである。答えるなら本質的に答えるべきだ。

 国家としての<薩摩>が浄土真宗を禁制にしたのは、浄土真宗の根本にある、楽な姿勢、やさしい行いという考えに、敵の臭いを嗅いだからなのだ。楽な姿勢、やさしい行いは、<こわばり>の論理とは最も相容れないものだからである。つまり、<薩摩>が<浄土真宗>の姿勢に<こわばった>のである。また、このことは<薩摩>が「実際的武断」という評言を得、また自身たちでも行動性を重んじ観念論を忌むと評価している中味についても教えてくれる。ここで、観念論を忌むと言われているのは、観念を軽視しているというのではなく、正確に言おうとすれば、観念を忌避しているのである。つまり、人間の思惟の普遍性、政治的な不自由下にあっても観念は自由でありうるということへの恐れ、敵意がここにはあるのだ。同様の言い方をすれば、<薩摩>は、観念における人間の普遍性にたいして<こわばった>のである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/11/30

薩摩とは何か、西郷とは誰か 2

 よく知られているように薩摩津の武家人口は極めて多く、専門家の試算によれば、武家対衆庶は三対一の割合であり、これは全国平均の約六倍に該当するという。この他藩に例をみない過剰な武家人口については、九州全域を征服していた島津氏が、豊臣政権により薩摩、大隅、日向に領地を限定されたため武家層もこの三州に封じ込められたという説明が与えられている。このため薩摩藩は藩士を城下に集住させず、領内を百余の区画に区切り、藩士を居住させるという屯田制度を敷いた。この区画を「郷」と呼ぶが、「郷」居住の藩士は、城下居住の藩士である「城下士」にたいして「郷士」と呼ばれ区別されていた。

 「郷」とは藩内の共同性の単位であり、「郷士」とは「城下士」が藩の支配層であるのに対して、地域の共同体の支配層であると言える。この「郷士」という存在に象徴されるという意味で、この屯田制度は「郷士制度」と呼ばれた。あるいは「郷」は古くは外郭的防衛至城の意味で「外城」とも称していたものであり、その意味では「外城制度」とも呼ばれている。いずれにせよ、「郷士(外城)制度」は、薩摩藩の抱える過剰な武家人口を維持するために編み出されたもので、この意味で<薩摩>を特徴づけている根本的な要素であると言うことができる。
 
 「郷」はひとつの行政単位で「郷士」はその支配層だが、「城下士」とは異なりほとんどが農業経営に従事する「半農半士」の生活を営んでいた。しかし、このことは薩摩藩では地方自治が行われていたということを全く意味しておらず、また「郷士」の生活様式は「半農半士」であったとしても、だからといって「郷士」は、武士と衆庶の仲立ちをなし両者の対立を緩和する役割にあったことを全く意味していない。

 「郷士」の生活形態には農が組み込まれているが、彼らの存在規定は「郷士」が、軍事に携わる「武士」と農に従事する「農民」の中間に、その交わる部分にあることを意味しない。「郷士」は「城下士」の下位に位置づけられ、「城下士」からは「一日兵児」と侮蔑される存在だったが、そうであっても「郷士」は武装した農民ではなく、農を営む武士であるというのがその存在規定である。つまり「郷士」は、農民としての衆庶とは階級として一線を画する武士に属することに変りはなく、衆庶にたいしては支配者として振舞ったのである。「郷士」が居住したのは各郷の「麓」と呼ばれる武士集落であり、衆庶の居住する周囲の「在郷」と区別された。「郷」はこの「麓」と「在郷」、により構成されるが、「麓」と「在」とは居住空間の相違であるとともに支配と被支配の関係図式も意味したのである。

 だから「郷士」とは武家と衆庶における支配-被支配の関係をもっとも露骨に尖鋭に表現したのであり、この領内の全共同体に配置した武士存在により、藩は衆庶からはとんど奴隷同然の収奪を可能にしたのである。

 この意味で行政単位としての「郷」は、薩摩の藩国家の内部における小国家を構成したのだと言える。「郷中教育」の実態が教えるように、この小国家相互は排他的な関係にありながら、藩の国家意志を共有しており、ナショナルな情念と観念は藩国家の<共同意志>に白熱の中心をもっていた。だから「郷士」という存在は藩の領地にあまねく貫徹した支配の意志であるとともに、武力機関としては藩全体に国家がびまんすることを意味したのである。しかも薩摩は藩境界の警備が厳重を極めており、鎖国中の鎖国として一種の独立圏を形成していたのだ。

 これらのことは薩摩という農耕社会に特異な特徴をもたらしたと思える。つまり、この二重鎖国の独立圏を形成することで、薩摩はある農耕型社会の世界を純粋培養したのだ。薩摩は「武士」の内部から、その存在規定において武門に属するが、その生活様式においては農を営む「郷士」という存在をもったことで、『葉隠』のような観念的に昇華された「武士道」を手にすることがなかったと同時に、初期武門を産んだ鎌倉武士の粗野さや殺伐さをよく温存したのである。その上薩摩は鎌倉期以来、島津氏の支配体制に変更が無かったため、中世的な後進性はこの点でも保持されやすかったのだ。だが、その一方で「郷士」は薩摩の各地域共同体を直接支配したから、「郷士制度」は農耕社会の政治形態である「阿Qと帝王」にまつわる構造についても重要な変容を与えずにはおかなかった。政治形態としての農耕社会では、衆庶は貧困であるが、貧困下の平等と理想的な親和の関係が存在することと、支配者の専制や圧政が貫徹するということとが共存する。そしてこの世界における両者の共存は、いわゆる「阿Qと帝王」の無限の距離が媒介しているのである。だから、「郷」という共同体が意味するのはこの「阿Qと帝王」の距離を極小値にすることであり、そこでは両者の無限の距離により存在することができた牧歌や安穏やおおらかさが喪われたのである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/11/29

薩摩とは何か、西郷とは誰か 1

 『薩摩のキセキ』については、昨日の記事で終わりにするつもりでいた。けれど、時間が経つにつれ、薩摩の思想の不変ぶりに今更ながらに愕然とする想いがやってくる。ぼくは16年前の自分の文章を読み返し、時代環境や自分の気負いの変化などを差し引けば、いま書いたとしても同じ文章を書くのではないかとすら思った。それなら、ここまで現実と呼吸していない閉回路の思想に対して、きちんと向き合うべきかもしれないと思い始めた。そこで、そのときの文章の一部を改めて書きとめておこうと思う。

 もとより、ブログを前提とした文章ではないし、読みにくいことはなはだしいと思う。それに、薩摩の思想を追っていくと、道すがら、中高年男性のアイドル、司馬遼太郎も批判せざるをえなかった。ご容赦ください。

『攻撃的解体』、ここから。

 制度としての<薩摩>とは何か。明治のあるジャーナリストは、維新で主要な役割を演じた薩長土肥の各藩について、薩摩の「実際的武断」、長州の「武人的知謀」、土佐の「理論的武断」、肥前の「文弱的知謀」というように評したという。この、薩摩をして「実際的武断」と評して他と区別させた根拠とは何か。日本の共同性の共通性として抽出できるけれども、<観念と情念の農王国>として、その極北をさすと考えられるものは何か。

 そう問うとき、俺は「郷中教育」に突きあたる。なぜならば、「教育県」を称するときに、かの地の<共同意志>が根拠にするのが、“郷中”と呼ばれる共同性で行われた士族青少年の教育制度だからである。

(中略)

 「郷中教育」 の根本にあるものは何か。
 一九世紀の初頭に書かれた白尾国柱の『倭文麻環』は、当時の風俗を次のように伝えている。

わが郷党の面々は、もし風俗についてよからぬ評判がたてば、未練卑怯のいたりであるとして、各々は励ましあって、風俗は正しく立ち直り、稽古事の暇には、山坂の達者、海川の水練まで心懸け、朋友同士は互いに不時な行為を我さきにと諌めあい、信義を結び、自然と婦人や女子を忌み嫌うのは、蛇や蝮を憎むのに似て、道路で美人に会うと、自分の身に不掬が及ぶかのように避けて遠ざかりして、また知恵をはたらかせて、権威があり勢いのある家柄に押し近づいて媚びへつらい、女色を評論して、衣食を選んだりするなどという著がいれば、すみやかに交流を絶ち、郷中を追放し、もっぱら任侠をこととし、質素を尊び、美服盛膳を恥岸とし、髪の毛も耳の上で剃るなどしてつとめていると、淫乱の悪風は自然に変って、古拙の善俗となったのである。 これらの任客少年を世の人々が兵児と呼んだのは、このときから始まっている。
                     (白尾国柱 『倭文麻環』)[私訳]

 たくさんの記述のなかから険しい目つきで探しだしたのではない。専門緒家の文章が、<薩摩>の“士風沿革”として、好んでとりあげる個所である。俺もこの個所は、彼らとはちがう意味で、「郷中教育」の本質を如実に物語っていると思える。それは、山坂達者や海川水練を含めた<武>の偏重にあるのではない。反骨にあるのでもない。そして「質実剛健」にあるのでもない。「これらの任客少年を世の人々が兵児(青年武士)と呼んだのは、このときから始まっている」と、「郷中教育」の成果について誇らし気に語られているこの文章のなかで、最も根底的な個所はどこなのか。

 この観点から答えれば、それは、「自然と婦人や女子を忌み嫌うのは、蛇や蝮を憎むのに似て、道路で美人に会うと、自分の身に不潔が及ぶかのように避けて遠ざかりして」、というこの文章のなかで最も異様な印象を受ける乗りが、最も根底的だと言える。そしてこの条りこそは「郷中教育」の本質を鮮やかに告げているものだ。なぜなら、この部分は、男性にとって最も身近な他者である女性に対する<こわばり>を、「郷中教育」の成果として「自然に」そうなったものだと吐露しているからである。蝮を憎むように婦女子を忌み嫌い、不潔の及ばないように避けて遠ざかるというのは、女性への蔑視と憎悪を表明しているには違いないが、その根底には、女性という最も身近な他者にたいする態度を通じて、そこに人間の人間にたいする<こわばり>が存在することを教えているのである。この、男性あるいは武士の優位性を強調するところで、記述文は「郷中教育」の本質が何であるかを明らかにしている。

 「郷中教育」は、男性としての「他者」である女性にたいしては憎悪と優位の関係を表現し、共同体の同朋という「他者」にたいしては集団主義で臨み、その内部で信義の関係を結ぶ一方で共同義絶による追放を必然化し、共同体外の「他者」にたいしては排他性を発揮するというように、「他者」に対する<こわばり>を制度化したものだ。
 
 「郷中教育」とは、<わばり>の共同意志だ。「定日」にみなぎっている切迫した緊張とは、この「他者」にたいする<こわばり>表出であり、松本が「郷中教育」のスローガンを“日常が非日常”“戦場が平生”と書くのも、郷中教育が何をその共同意志の根幹に据えているかを物語っている。

 だから<薩摩>が、「実際的武断」として評されたとき、それは、この<こわばり>と無関係ではないのであり、むしろ他者にたいする<こわばり>が、「実際的武断」として表現されたと言うことができるのである。これは、司馬が薩摩藩を、「観念よりも現実でもって行動を決するという男性的論理性という点では終始すじが通っていた」と評価し、『鹿児島県の歴史』の男が、「鹿児島県人は激烈な行動性をもち、観念的な空論を忌む」と判断して、おおよそ定説化した“県民性”の謂いとなっているものである。
(『攻撃的解体』1991年)

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2007/11/28

<こわばり>としての薩摩の思想

「二才咄格式条目」に対して、
ぼくはかつて、こう書いた。
                                    
  先入観なしに読んでみて、
  現在の俺たちはなにをこの「定目」に感じるだろう。
  俺はまずはじめに、条目の全体を律している
  切迫した緊張を否応無しに感得する。
  例えば、「武士道とは死ぬことと見付けたり」 という
  近世の『葉隠』(山本常朝)にひとつの完成された
  表現をみることができるように、<武士道>の論理は
  実践者に絶えざる緊張を強いるものであるといえる。

  だが、ここにある「武士道とは死ぬことと見付けたり」 
  というのは、武士の内部倫理として武士存在である者の、
  自分自身にたいする緊張という関係を表現しているのだと思える。
  この 「定目」 から感じられてくる“緊張”は、それとは少し違う。
  言ってみれば、それは自分自身にたいする緊張ではなく、
  他者に対する切迫した緊張感なのだ。

  武道の嗜み、古風の遵守、虚言への戒め、
  忠孝の道への忠誠などの条目は、
  俺のような門外漢のもっている武士像の通念の範囲でも
  了解できる内容である。
  また 「遅れをとるな」という戒律は、
  これらの項目とともに『葉隠』 にひとつの集約をみることができる
  武士存在の倫理として受け取ることができる。

  しかし第三条にある、万一「咄(郷)」の外、
  つまり共同体の外部へ赴くことがあったら、
  用が済み次窮、長居をせずにさっさと帰るべきであるという戒律は、
  武門の倫理に結実していくものであるとは必ずしも考えられない。
  というのも、これは武門の倫理が強調するひとつである
  「節度」を教えているというよりは、
  共同体外部への警戒心を意味しているように受け止められるからだ。

  つまり「咄(郷)」の外部においては、
  用件以外のことには関らないようにせよという注意を
  促しているように思える。
  もっと言えば、この条項から喚起されるのは、
  「節度」を重んじる武門の姿であるよりは、
  「定目」成立の背後にあったとされる“風紀”の乱れとしての、
  武門の師弟間の喧嘩や諍いの方なのだ。

  道草や長居は、「咄(郷)」外の武門の子弟との
  喧嘩や諍いの可能性を高めるという現実がここにはあると思える。

  『郷中教育の研究』(一九四三年)を著した松本彦三郎は、
  「郷中」で最も顕著な生活現象は「喧嘩」であったと述べている。
  俺は、この伝聞や歴史の記述から導いた松本の見解は、
  条文の志向性に照らしても妥当だと思える。
  しかも共同体間の喧嘩や諍いは、中学校の不良連中が
  学校や地域相互で、どんなきっかけからでも
  反目し対立して喧嘩に及ぶこともあったから、
  こうした武門の子弟の様相も了解に苦しむことはないと言ってよい。

  三条の背後には、ささいなことで喧嘩や諍いに及ぶ
  武門の青少年たちの生々しい実態があったのである。
  この意味で第三条は、第十条のさいごにある、
  「このことは『咄』外の人については全く問題にしていない
  (絶えて知らざることに候事)」という乗りと対をなしている。
  この後半の一文が意味するのは、この「定目」自体が
  「咄(郷)」、つまり共同体の外部を全く無視しているということだ。
  このことは、これを読むものに特異な印象を与えずにはおかない。

  ここでは少なくとも教育意志は、他の「咄(郷)」を相手にしないことで、
  <共同意志>の届く範囲を限定しているからだ。
  だが、これは「定目」の教育意志が<共同意志>として
  普遍性を目指さないことを意味しているのではない。
  そうであるなら、「定目」も「郷中教育」の規範原典となるはずはなかった。
 
  「咄(郷)」外を問題にしない(咄外の人絶えて知らざることに候事) 
  という規定は、「教育意志」の極度な排他性を意味しているのである。
  だから、教育意志としては排他性の普遍化を図るものだと言ってよい。
  ここで武門の論理は、他地域の子弟との喧嘩や評論の禁止の戒律が
  あるにもかかわらず、諍いをなだめ緩和する緩衝地帯となるよりは、
  むしろ対立を不可避として、排他性を根本的な支柱としているのである。
  そうであるなら、この極端な排他性は、極端に暴力に傾斜しやすい
  武門の青少年たちの実態と見合っているというべきである。

  だから「定目」から感受される他者への切迫した緊張とは、
  他地域(共同体)への排他性として表出されていると言っていい。
  (『攻撃的解体』1991年)

だいたいこの定目は、豊臣秀吉の命による朝鮮出兵時に、
薩摩の青年武士たちの喧嘩や諍いが絶えない状況に対して、
「風紀」を引き締めるために作成されたと伝えられているが、
そんな背景を踏まえれば、なおさら意訳は、おすまし顔に過ぎると思える。

かつてぼくは、ここから、薩摩の「郷中教育」とは、
<こわばり>の制度化であるとし、薩摩の思想にいう、
「泣こよか、ひっ飛べ」、「議を言うな」、「ぼっけもん」
などのキーワードは、
<こわばり>の論理の表出であると見なした。

ともすると誇り勝ちな「男尊女卑」にしても、
人間(男性)の人間(女性)に対する
<こわばり>以外の何物でもないと考えた。

 ○ ○ ○

「最低の鞍部で越えるな」という言葉がある。
ぼくもそう考えるものだ。
ぼくは、最高の鞍部に出会いたくて、『薩摩のキセキ』を読んだ。

残念なことに、この書でそれは果たせなかった。
ぼくは、16年前の自分の文章に対して、
更新すべきことも修正すべきことも、
何ひとつ見いだすことができなかった。

ただ、最高の鞍部に出会いたいというのは、
自分の思想や南島論を鍛え上げるために、
薩摩の思想が不可欠な存在だからというのではない。

薩摩の思想は、思想の質としては論外だと思っている。
ぼくが、最高の鞍部として期待するのは、
そうなって初めて対話の緒につけると思えるからだ。

それは、「マイノリティの視線」を書いた
山之内さんのコラムには明示されているものだった。

ぼくは、山之内さんのような
対話のできる薩摩の思想の登場を待ちたいと思う。




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