カテゴリー「34.『祭儀の空間』」の13件の記事

2007/12/24

神アシャギの位相同型

 実は、ここまででも、池浩三の『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』について、三分の一の道程を辿ったに過ぎない。

 池は、琉球弧の神アシャギの建築形態をつぶさに見ながら、高倉、稲積み、産屋との関連を探っていた。そしてこの後、新嘗祭や大嘗祭との関連を辿る道程へと舵を取る。この道程は自然な過程であり、当然、そこへ、向かうべきだと思える。

 ただ、ぼくの琉球弧の神アシャギを探るという関心からすると、やや軌道を離れてゆくので、ぼくもここを別れ道としなくてはならない。池の方法とは分岐せざるをえないと思う。 

 わが国には、神社の境内の老樹・大木などに注連縄をはり、これを神木とする風習が広く見られる。また森そのものが神聖視され、木を伐ると祟りがあると伝えられているところもあって、これも古い習俗を示すものである。はるか原始の時代にあっては、多くの学者が説くように、あらゆる樹木に精霊が宿ると人々は考えていたかもしれない。すなわち草木すべて物いう時代である。そして未開人は落雷にしばしば撃たれ火に満たされる高樹を恐怖の眼をもって眺めたにちがいない。しかし、このことを、特定の樹木や森を神聖視すること、すなわち樹木崇拝と同一視することにはなお議論の余地があろうというものである。特にいわゆる「神髄信仰説」のように、常緑の自然木に神を迎える信仰形態、あるいは高樹に神が憑依すると考える観念形態から、祭儀に際して柱を立てて、これを依り代としたという通説には、筆者は、これまでのヒモロギや柱に関する諸現象考察を通してみると、どうも納得がいかないのである。

 すなわち柱の信仰は、こうした発展形態とは逆に、古代稲作農耕生活における収穫祭の折、神々を迎えるために、新室とよばれるような祭り小屋を毎年建てる行為のなかで生まれたのだと考えたい。自らの手で立てた柱という一つの存在に神観念が結合することによって柱の神聖視・象徴化が生じた。さらにその柱の垂直性が特定の樹木の神聖視へと進んだ、と考えられないだろうか。おそらく特定の森や山への信仰も、稲積みやそれを象どったムロやヒモロギをつくる祭祀行為のなかで生まれたものであろう。人間は自らの手で作った素朴な家に住むようになってはじめて、自分たちの世界、宇宙を認識するようになったといわれている。

 池は、樹木信仰を、どうあっても稲作農耕の祭り小屋に起源を求めずにいられない。この欲求がどこから来るのは、ぼくにはよく分からない。ただそれは、「日琉同祖論」の欲求を分からないというのと似ていて、気持ちは分かるが、真実ではない、と感じる。

 同じ論拠から、池にあっては神アシャギにしても、稲作農耕の祭り小屋としてが、その起源なのだ。しかし、それは、琉球弧の歴史を、あるいは日本の歴史を浅く掬うことだと思える。だから、この方法にぼくは袂を別たざるをえない。

 伊勢や出雲の神社の原型は、去来信仰の消長・神の常在化の傾向とともに、祭祀の中心が仮設的なムロから常設の神庫(穂倉)に移行するなかで形成されたが、それが神の居所として建築的にまた造形的に整備されればされるほど、かつての祭り小屋(ムロ)がもっていた人と神とをつなぐ機能は失われていった。そのような意味では、本土における神社建築の成立は、神話的時代の一つの終焉であったともいえよう。  これに対して、沖縄の神アシャゲは伊勢や出雲のように建築として洗練された造形に発展しなかったが、しかしそれゆえに、農耕儀礼における祭り小屋の機能や、このささやかな空間のなかで生まれた信仰や観念を、比較的純粋なかたちで保存してきたのである。それは、やはりかけがえのない一つの文化遺産というべきであろう。 (『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 池にあっては、神アシャギは、洗練されてはいないが、本土の神社や大嘗祭施設の原型をなすものとしての意義があったのだ。

 たしかに神アシャギは、大嘗祭施設との共通性を持っている。けれど、ぼくの問題意識は、神アシャギと大嘗祭施設の共通性をもとに、一方をその原型を長く保存したものであり、他方を建築形態が発達したものとはみなすことにはない。むしろ、神アシャギのなかに、大嘗祭施設にはみつけることのできない古型を見いだそうとするだろう。それこそが、琉球弧の魅力だと思えるからである。池の検討した、高倉や産屋やシラは、神アシャギとして形態化した宗教精神の位相同型物なのだと見做せば充分で、それを稲作農耕を起点に、時系列化するのは無理がある。宗教精神はそんなに底の浅いものではない。

 ただ、池の、正方形という図形に根拠に置いた祭儀空間論には、「日琉同祖論」と同じ窮屈さを感じるが、いまだに古びない風通しのよさがあった。それは、奄美と沖縄の事例を同列に、等価に扱う視線のことだ。



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2007/12/23

伊是名のシヌグ

 伊是名のシヌグは、安田のシヌグとも与論のシヌグともずいぶん違う。この三者のシヌグは、地域として近接しているにもかかわらず、似ていないのだ。

事例二一 沖縄伊是名島のシヌグ
 沖縄北部伊是名島では旧七月十八日に行なわれるが、『琉球国由来記』には、「七月、島中ニテ日撰仕申。  遊び一日ノ事 右、アクマハライトテ、男童十人程、アマミ壱人、衣桐袴着テ、白サジ、シレタレ、結ビシテ、手々こ、棒ツキ、アマミ人、並、其日ノ、年ナフリノ人、弓矢持、先立仕、オナヂャライハウ、エイヤイハウ、ト唱テ、家々二入り、又島ノニシ崎マデ行テ、ネズミヲ取り、年ナフリ持タル、矢ノサキアテ、海二人レ捨テ、村二帰り、一所に寄合、神酒持寄、祝申也。」とある。

 当日、男女神人は、諸兄・仲田・伊是名・勢理客の順に各字のアサギで火の神祭を行なう。伊是名島では、神アサギは各字の根所の屋敷内にあって、地アサギとよんでいる。また、これとは別に根所の住居に隣接して大抵火の神を祀っているアサギがある。各字のアサギとはそれのことで、例えば仲田のアサギは〝仲田・ヌ・アサギ″とよんで、屋号にもなっている。

 火の神祭と並行して、シヌグの年齢に当った男児は、白のドンジに白サジ・シンタン (白衣・白鉢巻)を結び、棒をついて各字のアサギに集合し、男の神人が弓矢を持ち先に立って、伊是名・仲田・諸兄は伊是名城に、勢理客は天城に連れて行く。仲田の例では、伊是名の大城のイビ(拝所)へ、男神人が九歳から十五ヤネガク歳までの男の子を連れて行く。ここでウンジャミ祭の折にこしらえておいた屋根形を取り壊す。帰途、子供たちは各組ごとに分れ、それぞれ受け持ち区域の家々を訪れる。「ウナジャーレー、ホーホー、ヒヌネー、チントゥク、トゥイトゥイ」と唱えながら、二番座・三番座・台所と家の中を手に持った樺で叩き廻る。この所作を鼠除けだといい、子供たちが訪れない家は、鼠に畑を荒されると伝えられている。また、子供たちは一度この行事に参加すると健康になるといわれ、三カ年はひき続いて出なければならない。伊是名部落では、子供たちが鼠を一匹つかまえて、阿檀の木で作った船に乗せて海へ流している。こうした厄払いが済んだら、所定の場所で水に浸って身を浄め、アサギに帰って昼食をする。一休みの後、米粟渡りのお粥の直会をして、男神大の音頭で手拍子に合せて、ビルマオナヂャレー、ハウハウ、ヒーマーネーハウハウを合唱して終わる。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 伊是名のシヌグは、根所の神アシャギで行われる点、祭儀の新しさを感じさせる。内容が鼠祓いだという点も、稲作農耕の成立を背景に思わせる。
 ところで鼠は、単なる忌み嫌われる生きものではない。柳田國男は「鼠の浄土」で書いている。

 奄美大島の農民たちが、是ほどにもひどい毎年の害に苦しみながら、なお鼠に対して尊敬の意を失わず、かなしの語をつけてこれを呼ぶばかりか、一年のうちに少なくとも一日、通例は旧八月以後の甲子の日をもって、鼠のための物忌の日とし、鼠という語をロにしないのみか、その姿を見れば害があると信じて、終日野原や畠へも出ずにいたというのは、何か梶原によくよくの理由があって、それがもう記憶の外になりかかっているのである。かつては鼠が神山の茂みに住んで、村の生業を荒さずにおられた時代が、あったことも考えられるが、そういう平和な対立の間からは、なお是だけの畏敬の念は生まれなかったろう。ハブという毒蛇の場合にも見られるように、むしろ、稀々に意外な暴威を振うのを実験した者が、これを神秘の力に帰するようになったので、他所の飢えたる鼠の群が、海を渡って入ってくる時などに、とくにこの信仰は伸び広がったのではないかと思う。

 昇曙夢さんの『大奄美史』に、大島では鼠も一つの神がなしで、テルコ神の使者だとあるのは、多分近頃までそういう言い伝えの、まだ残っている村があったことを意味するものであろう。新たな文化が普及する前までは、この島にはナルコテルコという神を、毎年二月に御迎え申し四月に御送り申す厳粛な祭があって、その式作法も詳かに記憶せられている。本来は沖縄諸島のニルヤカナヤの大主も同じように、単に一つの神の二重称呼であったのを、後々是を双神と解するようになって、一方のナルコ神を山の神、テルコ神を海からくる神という人が多くなった。伊平屋の島にもナルクミニアルクミという言葉が残っていて、それがまたニライ・カナィ、すなわち海上遥か彼方の神の世界だったことを考え合わせると古い信仰には伝承の中心がないために、歳月を重ねるうちに、次第に島ごとの変化が多くなってきたのである。島々の神歌は必ず対句をもってくり返され、一神二名ということはむしろ普通であった。歌が衰えて名の暗記を主とすると、是を二つの神と解したのも自然である。沖縄本島では、その一方を天の神と見ようとする傾きも見られるが、奄美の島では蒼空の信仰はまだ起こらず、神山の霊験はなお大きかった故に、こういう説明も可能であったので、或いは海を渡ってきて山に入って行く鼠の群が、こういう双立神の信仰を導いたということも想像せられる。(「鼠の浄土」)

 鼠はニライカナイからの使者として見なされる側面もあるのだ。こうした背景を置けば、伊是名のシヌグで鼠を送る儀礼が、鼠祓いとは別の表情で感じられてくる。

 農耕の発達した伊是名で、鼠がシヌグに登場するのも、むべなるかなと思える。シヌグは幅も広く奥も深い。


 追記。この記事に記すべきことでもないけれど、鼠を与論ではユムヌというが、この音が、与論島の地名呼称であるユンヌときわめて似ているのはとても興味深い



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2007/12/22

安田のシヌグ

 池浩三の『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』は、琉球弧の祭儀の事例集として読むこともできてありがたい。

 与論島に近い安田のシヌグ祭も辿ることができる。

事例二十 沖縄国頭村安田のシヌグ
 沖縄本島北部安田では、毎年旧七月発亥の日を例祭とし、ウンジャミ祭と交互に行なう。粟亥の日を選ぶ理由は、昔は猪の害が多く、これを祓うためだったという。シヌグのことを「大シヌグ」と称しウンジャミを「小シヌグ」と呼ぶことがある。昔は亥の日から三日間の行事があったが、昭和初年から二日に短縮された。

 祭りの場所は、神アサギとその前のアサギ庭(シヌグマー)である。神アサギの北に根所、東にアサギヌスリ、南にナカメー、西にノロの拝所(産井)があり、これらは古い屋敷跡である。またアサギ庭の北方にササ、西にメーバ、南にヤマナスとよぶ山がある。これらの山は拝所ではないが、祭りのなかで、男達の登る定められた山で、凝装するためのミーハンチャ(木の実は赤く魔除けになるとして祓いに用いる)やその他の木の枝を用意する山でもある。昔、ササは最も古い家系、メーバはその次、ヤマナスは新しい家系と一定の基準があった。神アサギには、柱が十三本あり、柱数だけ神人がいるという。神人は神アサギの中で柱を背にして定められた位置に着座する。神人が参加できない時はその柱を神人に見たてて、神酒を差し上げる所作をするという。

 第一日、前日に神アサギを修繕し、アサギ庭には豊年祈願のノボリを立て祭りの準備をする。当日、神人達は早朝部落内外の拝所・御嶽で祈願をする。午後ヤマヌブイ(山登り)といって、男達(六歳~五十歳迄)は上半身裸か、シャツにパンツだけ(昔は全員赤フンドシひとつ)で山に登る。以前は山登りの前に神アサギで神人から盃を受けたという。山へ登ると、予め用意してあった木の葉や草を体に纏い、頭には俗称シバという草で造ったガンシナ(冠)を被り、五尺程の小さい木の枝を各自持参する。準備が整うと、太鼓を合図に、山の神に豊焼、健康、子孫繁栄を祈願し、それから太鼓の音に合わせて「エーへーホー」と掛け声をかけながら円陣をつくる。一回まわるごとに、「スクナーレ、スクナーレ」と唱えながら、手に持った木の枝ではげしく地面をたたく(島袋源七『山原の土俗』には、「頂上にある洞<口径四尺、深さ五尺程>を巡りつつ、ユーへーホーイと唱え三回ここなつく」とある)。やがて、メーバからの太鼓の合図が聞えると、男達は一列縦隊に並んで太鼓持ちを先頭にエーへーホーと掛け声勇しく山を降りる。

 その時、各宇内にいる女達は全部酒をもって彼等を迎える。これをサカンケーといっているが、それが終ると部落へ向ってさらに進み、神アサギ近くの畑の中(昔、安田ンマーという家の屋敷跡)で合流する。ここでは、男達は大きな円陣をつくり、一回ごとに手にした木の枝で女の肩をかるくたたく。この所作も三回くりかえす。部落内の各所での祓いを終えると、部落内の道を通って東の浜にでる。浜では、男達は体に巻きつけた蔓葉や木の枝をその場に捨て、砂の上に坐り、まず山に向って礼拝し、次に海に向って礼拝する。続いて太鼓を合図に一斉に海に飛びこみ、身を浄め、海からあがると、ヤナギをかたどって作ったノポリをかかげ、神人を先頭に、部落の西端を流れる川へ行き禊をして神アサギに引きあげる。

 祈願は神アサギを中心にして行なわれるが、最初は根所で神酒・花米・御馳走を供えて豊作、健康を祈り、それがすむと、そこから神アサギに向ってお通しをする。次に神アサギから根所に向って拝み、神アサギでの祈願が終ると、ナカメーの拝所に行き、祈願をする。
 これらの神事に次いで、字の者が円陣になって、猪狩り・魚獲り・船の進水・田革とりなどの模擬演技をくりひろげる。猪狩りでは、男一人が猪に扮し、男児が猟犬となって、神大が猪を射とめる。魚獲りはワラ網で漁の演技をし、船の進水は、丸太に釘を打ったり、それを海に運びだして浮かべるという所作を行なう。
田草とりほ、男女で田草をとったり、弁当を食べたりという演技である。

 また、余興として船の修繕を模した演技だといわれる「ヤーハリコー」がある。一本の丸太に十教本の縄をつけ、青年男女がその丸太を持ってヤーハリコ」の掛け声で、中央から右方へ小走りして行き、またもとの位置にかえる。次には左方に走り、もとの位置にもどり、ヤーハリコーの掛け声で神アサギに向かって突進し、屋根にはげしくぶつける。この動作を三回繰り返す。一方、その間水桶で海水をかける真似をする。以前はノミで船の穴に漆喰を塗りこめる仕草があったという。夜には最後の余興としてウシデーグが行なわ
れる。
 シヌグの二日目には山登りはなく、夕方からウシデークと相撲がある。以前には男女の神人が交互にオモロを唱したという。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 シヌグが新しい祭儀ではないかと思えるのはなぜか。
 それは、根所の近辺を拠点になされていることだ。根所の屋敷跡にある神アシャギは、ぼくの考えでは、新しい神アシャギである。

 シヌグが古い祭儀を包含していると思えるのはなぜか。
 それは、「山へ登ると、予め用意してあった木の葉や草を体に纏い、頭には俗称シバという草で造ったガンシナ(冠)を被り、五尺程の小さい木の枝を各自持参する」という擬装が、山としての自然への同化を現しているからだ。ぼくには、「昔は猪の害が多く、これを祓うため」という理由は、住居を山から平地に移して、そもそもの祭儀の意味が忘れられた後につけられた理由のように思える。山の化身となる様式は、稲作儀礼よりは狩猟儀礼の面影を宿していると感じられるのだ。

 ここには、谷川健一が『南島文学発生論』で、シヌグ祭とスクを結びつける根拠になった、「スクナーレ、スクナーレ」の掛け声も見える。(「シニグの由来はイュウガマの豊漁祈願!?」

 シヌグは、たくさんのヒントを包含した新旧混合の祭儀のように見えてくる。もっともっと、その元始の姿が見えるよう、眼力を養いたい。




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2007/12/21

神アシャギとシラ

 池は、正方形という建築形態の同一性から、「高倉」に続いて、「稲積み」についても、神アシャギとの類縁を探っている。

Shira
 
















 稲積みは、八重山では「シラ」と呼ばれている。

事例十七 八重山地方の稲穂みシラ
   稲穂を積み重ねて貯える、いなむら(稲叢)をシラといっている。普段は甘藷食をしていて、時々稲穂をシラから引き出して精米するわけだが、とても便利な構造で、ネズミの害を防げるし、湿気を防ぐのにも最適である。大量に精米する時は、マイクラシ(米おろし)、シラウラシ(しらおろし)といって、三重四重におおいかぷせてある茅こもを取り除いてから、稲束をとり出し、また元どおりの姿にしておくのである。小量の米が必要な場合は、シラのところどころから稲東をつかんで披きとるのであるが、この方法を、シラヌイ(しら抜き)、マイヌイ(米抜き)という。これは抜き方がまずいとネズミに巣を作らせてしまうので、注意深くところどころから適当に抜き出さないといけない。
 新米が入ると稲束のまま庭や道に一面に広げて乾燥させた後、吉日を選んでシラに積み上げ、表面は茅とまをおおうて、頂点をフガラヅナ(黒ツグの毛の綱)で巻きつけた茅で押えてつくり上げる。シラを積み上げたら、シラヌニガイ(願)といって神酒とツカンバナ(一合ほどの白米)を供えて祈願し、夜はシラヌヨイ(祝)といって、ごちそうを作って喜び合う風習がある。

 (中略)ところで、シラは建築的施設とはいい難いが、発達史的にみて稲穂貯蔵の原初的施設といえよう。このシテの石柱の高さを、人が屈んで出入できる程度まで高くし、その上に筆子竹の床のある収納空間を予め造れば、稲束の出し入れに簡便な建築的貯蔵施設ができあがるだろう。このように想定されるシラの発展型は南西諸島の高倉に直接つながるものであろうし、それはまた、外観および正方形平面において、神アシャゲ(伏屋型)のそれに酷似するものであろう。すなわち、神アシャゲとは稲積みであるシラを原型とし、高倉という建築形態へ発展する過程で、祭場として機能分化したものと考えられるのである。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 本当はここはゆっくり進みたいところだ。
 柳田國男は、『海上の道』の「稲の産屋」のなかで、「シラ」を「白」と結びつけるとともに、同じく八重山では人間の産屋を「シラ」と呼んだことから、「シラ」を、生むもの、育つものと解釈しようとしている。
 また一方、村山七郎は、「シラ」の「白」を、ティダに通じる「光」としてその語源を追究していた。ぼくはそれを手がかりに、映画『めがね』の舞台にもなった寺崎を、白い崎、光る崎と解釈しようと試みたことがある。(「赤と白-赤碕と寺崎」)。
 それだけでも面白いのだが、ここにもうひとつ、「シラ」が稲積みとして呼ばれてきたということに思いを寄せると、喜山康三さんが言うように、シヌグのサークラの「サー」を「白」と理解する可能性もあることに気づく。与論言葉では、「白」は「サー」だからである。
 「シラ」について、一方で、「生まれるもの、育つもの」という解釈があり、もう一方で「光」という解釈がある。前者によれば、稲積みを「シラ」と呼んでいることの関連から、サークラを「白の倉」と理解できてくるし、「光」と解すれば、寺崎を「白の崎」と理解できてくる。どちらも魅力的な考え方だと思える。

 さて、ここで池の文脈に戻ると、柳田國男や村山七郎の語源探求に比べると、「神アシャゲとは稲積みであるシラを原型とし、高倉という建築形態へ発展する過程で、祭場として機能分化したもの」という池の仮説は底が浅すぎると思える。神アシャギの原型は、稲作農耕以前に求めることができるものであり、「稲積み」が原型であるはずはないと思える。池は、「稲積み」の形態が、彼が神アシャギの原型とみなす「伏屋型」に類似する軒の低さから、そこに原型を見るのかもしれないが、「稲」に起源を封じる窮屈さがある。この窮屈さは、「日琉同祖論」の窮屈さと似ている。



 

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2007/12/20

神アシャギとサークラ

 池は、次に、真四角は神の家として忌避されるが、高倉は真四角であるとして、神アシャギと高倉の類縁性を確かめようとしている。

 奄美加計呂麻島の「真四角の家は神の家として、民家を正方形に建てることを禁じた」とする禁忌が、神アシャゲが存在した南西諸島において普遍的なものであったかどうかは、はっきりしないが、神アシャゲを正方形平面とする形態規範があったことは確かであるから、こうした禁忌の存在は十分に蓋然性のあることと考えなければならない。炊事屋や納屋などに正方形平面のものがあっても、この穴崖構造の建物は一般に耐用年数の短いも のであるから、近年、そうした禁忌観念が希薄になってから建てられたものとも考えられる。しかし、高倉は正方形平面が主流で、その存在は少なくとも『おもろさうし』編纂年代、すなわち十五世紀まで遡るものであるとすれば、神アシャゲとの関連について説明する必要が生じてくるであろう。

事例十二 奄美与論島のシニュグ祭のサークラ 
 与論島のシニュグ祭は、第一期の収穫を終え、旧盆をすませた七月十七日から三日間の行事で、サークラという大家(宗家)を中心とする血種(血縁的集団)が集まって、新穀を祖神に供え、豊年や血種の幸運を祈るが、十七日には、老若男女は晴着を着、味物を携えて村のミヤ(祭祀広場)に建てられた、これもサーグラと呼ぶ仮小屋に集まり、祈願の祝詞を唱えた後、酒や味物を神に供えてから一同も共に大いに飲食し、また祝女など神人による「神遊び」をする。サーグラ集団は四つあるが、主盛となるショー(地名)周辺はかつて麦屋地区の飲料水の水源地となった湧水のあるところで、今でも古い屋敷跡と思わせる大木が立ち、この地区から移動した家が古老の記憶をたどっても数十戸はあるという。サーグラという仮小屋は、素丸太、竹などで骨組をつくり、舟の帆や席を覆せたものである。

事例十三 宮古・八重山諸島の座
宮古・八重山諸島には「座」とか「元」と呼ばれる祭祀場があって、一般に御嶽の中にあるが、建物が設けられているとは限らない。

高倉そのものが祭祀場であったという痕跡は認められない。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 池は、この考察の結果、神アシャギと高倉の類縁の根拠を見いだせずにいるように見える。

 しかし、いまはそのことより、ここで与論のサークラも事例に登場することに注意がいく。池は、サークラをセジ(精霊)の倉のように解しているが、この「サー」の解釈にあまり心惹かれない。ただ、神アシャギの考察のなかの事例として出てくるのはうなずける気がする。

 サークラは、シニグにおける祭祀場であり、そうであるなら、シニグにおける神アシャギをサークラと呼ぶというように、位相同型と見なしてよいのではないかと思える。

 また、いまだに、サークラの「サー」の意味について、自分を納得させられずにいるが、八重山に「座」と呼ぶ祭祀場があることは、興味深い示唆に思えたりする。


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2007/12/19

イザイホーの神アシャギ

 続いて、イザイホーの神アシャギを見てみる。長くなるけれど、記録自体が大切に思えるので、そのプロセスを引用しておく。

事例十 沖縄のイザイホー祭
 沖縄知念村久高島では、十二年目ごとの午年旧十一月十五日から五日間にわたってイザイホーとよばれる神祭がある。この島の祭祀組織には男子と女子の組織があるが、イザイホーに関係があるのは女子の祭祀組織である。最上位に外聞ノロ、久高ノロがおり、その下にナンチュ (祭りの時雑用を受けもつ、三十~四一歳)、ヤジグ(祭りの時の世話役・進行係、四二~五三歳)、ウンサグ(神酒を接待する役、五四~六一歳)、タムト(祭りの時白衣をつけてノロ・掟 神の供をする、六一~七十歳)などの神人がいる。イザイホーの神祭の本質は、第一には三十歳を迎えた島の全女性に神人としての資格を与えるための儀式、いわば巫女への入社儀式であるが、通過儀礼としての成女式の意味もある。第二にはニライの神という来訪神を迎えて歓待し、その神の祝福を受け、次いで神人共食を行なうための祭式儀礼であるという。

 祭りの前日までに御殿庭(久高殿)という祭場をはじめ、ノロヤー(祝女屋)、根所、イザイ山の七ツ家(イザイ屋ともいう)、沐浴するイザイ川などに白砂を敷きつめて清める。御殿庭の神アサギは間口・奥行とも四・五メートル、二つの出入口以外はすべて柱と貫で構成されている建物であるが、神祭時には。クバの葉で壁を成し、内部の土間には白砂をまき、その上に竹を編んだムシロを敷きつめる。神人たちが渡る七ツ橋(一メートル×〇・七メートルのグパの枝を梯子に組んだもの)をこの神アサギの入口の地面に半ば砂に埋めてかけられる。はじめてこの儀式に参加するナンチュたちが三日間お籠りする七ツ家は、イザイ山の中に、一軒(二メートル×五メートル)を三区画にしたもの二棟と、ほかに小さなもの一棟、いずれもクバの葉で葺いた片割れの掘立小屋が男手を借りて建てられる。新参のナンチュは「七ツ橋渡り」をし、七ツ家で三日間お寵りをする。その間、毎晩子の刻から寅の刻までオモロを唄い、毎朝早くイザイ川に行って沐浴する。厳しい物忌みの生活を経てナンチュになるのだという。

 第一日、ユクネーガミアシピ(夕神遊び)といっている。夕闇せまる頃、洗い髪をたらし、白衣をつけたナンチュと巻髪に自鉢巻をしたヤジグが、外間ノロ家、久高ノロ家から掟神の先導で、エーファィ、エーファィの掛け声で、御殿庭へ駆け足でやってくる。ここで神アサギの前の七ツ橋をナンチュが七回往復して、ヤジグ共々神アサギの中に入り、グバ戸を閉じてオモロ(神歌)が謡われる。それから、ナンチュは神アサギの後の戸を出てイザイ山の七ツ家に行く。この夜から三日間、夜はオモロを唱し、朝は沐浴潔斎する。
 第二日、朝神遊びという。山籠りしていたナンチュがノロ・掟神・ヤジグの先導で七ツ家から御殿庭に静かに列をなして出て来て、庭でノロ・掟神を中にして、まだ髪をたらしたままのナンチュ、その外側をヤジグが輪になり、静かに左右に手を合わせる動作を繰り返して円陣舞踊を行なう。
 第三日、花さし遊びという。昨日まで洗い髪をたらしていたナンチュたちが、この日になると髪を結い、自鉢巻をし、色紙で作ったイザイ花を前髪に飾って登場する。この日の儀礼はいよいよナンチュ(神人)になる資格を認定する儀式である。その資格を与える司祭者は島の根人とノロである。この日ナンチュは外聞ノロからシュジィ(米の粉団子)を額と両頬に押され、また外間根人から朱印をおされる。

 第四日、朝、御殿庭でアクリヤーの綱引きという行事がある。これは綱引きではなく、実は船漕ぎの神事であるという。午後は各ナンチュの家をノロが廻り、表座敷でその家のナンチュとヰキー(兄弟)とを対座させ、神酒を入れた椀をとりかわす。この時、ナンチュが兄弟を守護するオナリ神の資格をもって訪れたことを祝福するオモロが唱えられる。そのあと、外聞の殿といわれる所と御殿庭で「桶まわり」の儀式がある。ウンサク(神酒)を入れた桶のまわりを、ノロ・掟神・ヤジグ・ナンチュが二重の輪をつくって踊りながら神歌をうたう。舞踊が終ると、神酒を神前に供え、神人や村人にもふるまう。
 第五日、祭りの後始末と後宴の行事がある。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 このイザイホーの記述を読むと、吉本隆明の『共同幻想論』の言葉が思い出される。

 この<イザイホウ>の神事が島の女性だけの共同祭儀であるとともに、この祭儀に登場する男性が<夫>ではなく<兄弟>であることに注意すべきである。そして女たちがカトリックの受洗のように額と両頬に朱印をつけてもらうのは神人からであり、そのつぎに<兄弟>がつくった団子で印しなつけてもらうという儀式がおこなわれるのは、神の託宣を女たちが〈兄弟〉とむすびつけるものとかんがえられ、これが何を意味する擬定行為かはわからないとしても、共同祭儀の<姉妹>から<兄弟>への授受を物語っていることはほぼあきらかであろう。

 久高島はわが南島における神の降臨した最初の島として信仰されている島である。ここでは古代、男たちは漁蹄にしたがい、女たちは雑穀をつくっていた。この条件は規模はべつにしても、わが列島のすべての地域において古代にはほとんど変りがないものであったと推測することができる。もちろん<イザイホウ>の神事の形式は、鳥越憲三郎が採取しているそこで和唱される神歌から判断してもかなり新しい時代に再編成されたものであることは明瞭だが、この神事の原型にむかって時代的に遡行するとき、わが列島における<母系>制社会のありかたの原像をかなりな程度に象徴しているとかんがえることができる。すくなくとも神事自体の性格から、水田稲作が定着する以前の時代の<共同幻想>と(対幻想)との同致するへ<母系>制社会の遺制を想定することはできる。この(母系)制ほ、ある地域では(母権)制として結晶したかもしれない。なぜならば、<イザイホウ> の女性だけがかならず通過する儀式は、いわば共同祭儀であり、その資格は共同規範としての性格をもっているから、もし儀式を通過した巫女たちの<兄弟>が、部族において現世的な支配権をもつ条件を準備していると仮定すれば、巫女たちの共同規範はすぐに現実的な政治的強力へと転化することができるからだ。

 祭儀を行われているそのままに受け取るのではなく、そのなかに時間を見るという視線。この視線は、シヌグやウンジャミ、他の祭儀を見る上でも欠かせない。そして、神アシャギは、イザイホーにおいては、はっきりと祭祀場としての役割を担っている。御獄(ウタキ)のなかの御獄(ウタキ)なのだ。




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2007/12/18

「アシャギ」と「庫裡」

 池は、イザイホーの差屋型の神アシャギが、蒲葵の葉で壁をしつらえるやり方に着目、それが、聞得大君の即位式である「おあらおり」のときに臨時に建てられる「三庫裡」(サングーイ)と同じつくりであることから、「あしゃげ」が「庫裡」と呼ばれるようになったとしている。

『おもろさうし』 「うちいではおしかけ節」

斎場嶽(さやはたけ) 御嶽(みちやけ)
ゑよ ゑ やれ 押せ          
    (※「ゑよ ゑ やれ」 囃しことば。)
そこにや嶽(たけ) 卸嶽(みやちけ) 
    (※「そこにや嶽」と「斎場嶽」は同義語。)
三庫裡(さんこおり) 在つる
三庭(さんみや)あしゃげ 在つる   
    (※「三庭あしゃげ」と「三庫裡」は同義語。)

この斎場嶽は沖縄本島南東部知念村にある嶽名であって、ここは沖縄一の霊地として東方海上を通して久高島を遥拝するための拝所などがあり、かつては琉球王の行幸や最高神女・聞得大君の「おあらおり」(即位式)に際して巡礼が行なわれるところであった。そして、このような国家的祭祀がある時、臨時に建てられる三庫裡(三庭あしゃげと同義語)は国王の「をなり神」すなわち聞得大君の祭場で、すべて神木蒲葵をもって造られたという。とすると、国家的祭祀の格式が重んぜられていく過程で、「あしゃげ」が「庫裡」と呼ばれるようになると同時に、本来神祭時ごとに新たに設けられた蒲葵の神アシャゲが、軸組だけ常設化した差屋型の建物になり、神祭時のみ蒲葵の葉をもって壁をしつらえる形式に変わったと考えられよう。次いで高級神女が関係する聖地や首里王府に近い村落の神アシャゲにこの形式が採り入れられ、王政解体後久しくたってから(五十~六十年前頃)奄美地方にも伝播したものと推察される。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』

 池は、「あしゃげ」の呼称変化として、「庫裡」を見ようとしているが、性急に移行を見なくてもいいのではないだろうか。祭場としての「神アシャギ」は、宮殿であり饗宴を催す場として「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」と同等と思えるが、これらと、「食」の意味を介して、台所である「三庫裡」(サングーイ)はつながっていると見なせばよいように思える。これは、宗教精神の移行という時間軸ではなく、並存という空間軸でみるべきではないか。


 ぼくはそれより、池は、「三庭あしゃげ」と「三庫裡」は同義語と繰り返し指摘しているのだが、その根拠を明示してほしかった。



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2007/12/17

神アシャギとしての祭祀場の原型

 池浩三は、ウンジャミ、シヌグの他に、神女継承式、ノロの葬式、加計呂麻島のウムケ、ウホリ、アラホバナ、ミニャクチ、ウチギヘイなどの祭儀で、神アシャギが登場するのを確認している。
 池の気づきによれば、神アシャギは、稲の収穫祭の祭り小屋としての性格が顕著である。

 ついで、池は、御嶽(ウタキ)、村落、根所との関係に触れ、神アシャギは、根所の庭を発祥の場にすると仮説している。

Saishizyo
Nidukuru_2




















さて、鳥越氏の論考の第四点、神アシャゲと根所(宗家)との地理的関係は認められないとしている点についてであるが、このことは、筆者の調査結果によれば事実に反するものである。

確かに神アシャゲは、一般的には沖縄ではアサギ庭、奄美ではミャーとよばれる村落の公共的な祭りの広場に所在することが多いのであるが、沖縄・伊是名島においては、神アシャゲは各村落(仲田・諸兄・勢理客・伊是名)の根所の屋敷内にあって、建物は根所が管理しているのである。

伊是名島は琉球第二尚王統をひらいた尚円王の出生した由緒ある島であるが、その一つの島全村落にこうした現象が見られることは、やはり注意すべきであろう。

根所(または根屋)とは、沖縄の血縁的村落マキヨの草分けの家のことで、その戸主を根人とよんでいる。沖縄の古代社会において、椒人は、村落の政治的自立の過程で、その支配者となったが、彼はその姉妹である根神の霊力を借りて、祭政一致の体制を作り上げたといわれている。

たしかに、伊是名島における根所と地アサギの関係は、現時点の民俗事例としては異例であろうが、奄美におけるトネヤとアシャゲの関係をも含めて考察すると、そこには、古代血縁的村落マキョにおける根人・根神主導による神祭の基本的な祭祀場の構成を認めないわけにはいかないのではなかろうか。

神アシャゲの所在が、村落の併合発展の過程で、根所の庭から公共的な祭りの庭(神祭の広場)に移っていくことは理解できるが、その逆は社会の発展形態に矛盾するものとして説明ができないであろう。この点においても、伊是名島の事例は神アシャゲを中心とした祭祀場の原型として認めたいと思うのである。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 池は、根所の神アシャギを原型とし、加計呂麻の広場の神アシャギが続くとしている。

 昨日、「神アシャギの建築形態の原型は何か」で書いたように、これは、逆だと思う。
 神アシャギは、まず、御獄(ウタキ)のなかの祭祀場として存在した。イザイホーで、ある時期ある属性の女性だけが、御獄(ウタキ)に入り、神アシャギに入ることが許されるように、御獄(ウタキ)も神アシャギもサンクチュアリである。正確に言えば、サンクチュアリである御獄(ウタキ)のなかに神アシャギはある。
 
 御獄(ウタキ)の終わるところから集落は始まる。そして集落が政治的共同性の色合いを持つようになれば、その首長は、御獄(ウタキ)の外縁との接点に、住居を定めるだろう。それが根人が根所につくる根屋である。根人は根所の中心性を高めるべく、御獄(ウタキ)の入口に根所を構える。そして、政治的権力の中心性を高める段階になると、根所のなかに、サンクチュアリのミニチュア、縮減模型をつくるだろう。それが、根所の神アシャギとなる。

 だから、形態としては、加計呂麻の神アシャギが先にあり、伊是名の神アシャギは、その後に来るものだ。


 ところで、根所の内部に御獄(ウタキ)のミニチュアを再現することが、どうして力を持つのか。そのことに関わると思えることを、クロード・レヴィ=ストロースは、『野生の思考』のなかで書いているという。

人はなぜ縮減化されたものを見ると喜ぶのか、と問いを立て、レヴィ=ストロースは、認識過程の逆転が快感のもとだと述べている。ふつう人間はたとえばタイタニック号のような巨大な実物大の対象を前にした場合、部分の認識からはじめ、これを綜合することで全体の認識に達する。しかし、それがミニアチュアになり、巨大だったものが手のひらに乗ると、全体の認識が真っ先に到来し、次に部分の認識がくる。その認識の逆転をもたらすのは、さまざまな要素の縮減、そして削除である。ミニアチュアではサイズが縮減される。
(「群像」4月号、「グッバイ・ゴジラ、ハロー・キティ」加藤典洋)

 ここにあるミニチュア(縮減模型)化に対する快感は、御獄(ウタキ)のミニチュアが力を持つ根拠を構成していると思える。


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2007/12/16

神アシャギの建築形態の原型は何か

 池浩三は、神アシャギの建築形態を、「穴屋型」、「差屋型」、「伏屋型」の三つに類型化している。

穴屋型
奄美・加計呂麻島瀬相のアシャゲは約三〇〇平方メートルのミャーとよばれる祭祀広場の南西側の一隅にある。またその北側には斎部加那志という聖所がある。建物の平面は三・六メートル四方で、軒高は土居桁下端で土間より約一・五メートル、頭を屈めて入れる程度である。柱は四隅と四辺中央に四本、計八本あって、股状の先端をもった椎の木の外皮を荒落ししただけの掘立丸太柱である。

柱は四囲の土居桁を支え、平サスは放射状に、対向する土居桁上に差し、その先端は交差して棟木を受ける。

沖縄諸島には、第二次世界大戦以前まで多く見られた穴屋(据立て)という家屋がある。現在では、納屋や作業小屋に使用しているのを散見しうるにすぎないが、この建物は松・椎などの索丸太を柱・桁に利用し、草・茅・麦稗などで壁をしつらえたもので、その軒高・軸組・小尾組などの構造は瀬相のアシャゲとよく似ているので、このタイプの神アシャゲは一応「穴屋型」としておこう。

Anaya_2





















差屋型
アシャゲの平面は四・五メートル四方で、四面外周には九十センチ間隔に木柱があり、五カ所の出入口を除く柱相互間を貫で連結し、板壁はない。外周の木柱は玉石地形の上に立て、平方向に大引きを四本通し、さらに九十センチ間隔に根太を並べ板張りの床をつくっている。内法高は約二・二メートルで、柱頂部には土居桁を四周めぐらし、柱相互間は床と土居桁との間を三十センチ間隔に貫で構成している。平面内には四五センチ偏心して妻方向に二本の中柱があり、これと外周本柱とは大きなツナギ梁で達姑されている。


Sasuya_2
























伏屋型
沖縄・伊是名島仲田の神アサギは根所(仲田部落の宗家)の屋敷内の南東、主屋から見て左手に位置していて、地元では地アサギとよばれている。建物の平面は土居桁真四・四メートル×四・八メートルでほぼ正方形である。床張りはなく土間、軒高は土居桁下端七十センチで、這うように屈まないと中に入ることができない。

穴屋型との形態上の相違はこの極端に低い軒高にあるといってよい。四隅の石柱は四周の土居桁を支え、妻サスはサス頭を棟木に貫通し、サス尻は土居桁に差し込んでいる。一組の平サス、四組の隅サスは、サス尻を土居桁上に差し、サス頭は棟木上に交差させている。母屋丸太は六十センチ間隔に渡し、その上のタルキとともに縄でからげ、さらに細木を編んだスダレ状の茅下地をのせる。

ちょうど屋根を伏せたように見えるこの仲田の地アサギと穴屋型の神アシャゲとの相違は、形の上では軒高の高低の遠いだけであるが、前者の場合は、中に座って外が見えない。このことは建築空間としては全く異質のものと考えねばならないだろう。したがって類別上一応「伏屋型」として区別しておきたいと思う。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

Husiya






















 「伏屋型」を、「穴屋型」と「差屋型」とは別の類型として括りだしているのは、池が、「伏屋型」を神アシャギの原形と見なしているからである。

 しかし、ぼくは、「伏屋型」は、原型なのではなく、新しい型だと思う。御獄(ウタキ)の神アシャギが原型であり、根所の神アシャギが原型なのではない。

 御獄(ウタキ)に神アシャギがあり、そこが祭場の核である。しかし、御獄(ウタキ)に接する村落共同体に、政治的共同性が生まれた時、事態は変化する。根所の根人は何によって、政治的共同性の首長を任じるのか。それは、御獄(ウタキ)の持つ宗教性の核を根所内に持つことによってである。根人は、根所の内部に御獄(ウタキ)のミニチュアを再現する。それによって、宗教性の核を御獄(ウタキ)から根所へ移行させるのだ。そしてこうなった場合、本来の御獄(ウタキ)は、宗教性の核としての機能を失い、忘れられてゆく。

 池は、「伏屋型」の軒の低さを古型の根拠として挙げるのだが、ぼくは全く同じ点で、軒が低いのは、それがミニチュアとしての再現であるからだと見做す。だから、神アシャギの変遷は、「穴屋型」から「差屋型」へのゆるやかな流れを想定すれば済み、それが、政治的首長の屋敷内に展開されたとき、「伏屋型」になったのだと思う。




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2007/12/15

神アシャギと「足一騰宮」

 さて、伊波氏が提出している「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」とは、神武天皇東征の折、豊国(後の豊前・豊後、今の大分県のあたり)の宇佐に到った時、土人のウサツヒコとウサツヒメ二人が天皇に卸饗するために作った宮のことであるが、これとアシアゲの縁故を説く氏の念頭には、九州あたりから農耕文化をもった一族が奄美諸島を経て沖縄に定着したとする「日琉基層文化同一論」とか「海部族の南下説」などがあることはいうまでもない。

 次に仲松・外聞両氏の機能説についてであるが、仲松氏のあげる「アシー」には神供の義は全くないようであるし、外聞氏の「あさ(祖先神)揚げ」説は示唆に富むものとはいえ、やや観念的な呼称のようにも思える。沖縄では、稲穂(穎稲)を収納する高倉は、柱の数に応じて四ツ股倉・八ツ股倉などと、視覚的な形態に即した名称がつけられていることは参考になるかもしれない。
 軒の低い伏屋のような神アシャゲの語源としては、むしろ「足揚げ」形態説の方に相応の説得力があるように思うが、どうであろうか。
『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)

 ぼくも、「神アシャギ」は、神武東征神話に出てくる饗宴のための宮殿、「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」と同型のものを指していると思う。

 そして、ここでの文脈が敷いているところに従えば、九州から南下した稲作農耕族が、「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」を南島に輸入し、三母音化の世界のなかで、「神アシャギ」に変化ということになる。

 しかし、ぼくたちはここでも、必ずしもこの文脈に固定化して考える必要はないと思える。これに従うと、まるで稲作農耕族の南下以前には、神アシャギは存在しなかったかのような印象を受けるが、神アシャギは、御獄(ウタキ)の発祥とともにあると見做すのが妥当だと思う。ただ、その名づけには歴史的な変遷を想定することができる。その文脈のなかで、アシャギが北上し、五母音の稲作農耕族によって「足揚げ」と呼ばれるようになったことも想定のなかに入れていいはずなのだ。

 「日琉基層文化同一論」や「海部族の南下説」は、多様な混合と交流のなかで形成された民族的な起源を、あるひとつの流れの中に封じ込めようとする窮屈さをどうしても免れがたいものとして持っている。


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