神アシャギの位相同型
実は、ここまででも、池浩三の『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』について、三分の一の道程を辿ったに過ぎない。
池は、琉球弧の神アシャギの建築形態をつぶさに見ながら、高倉、稲積み、産屋との関連を探っていた。そしてこの後、新嘗祭や大嘗祭との関連を辿る道程へと舵を取る。この道程は自然な過程であり、当然、そこへ、向かうべきだと思える。
ただ、ぼくの琉球弧の神アシャギを探るという関心からすると、やや軌道を離れてゆくので、ぼくもここを別れ道としなくてはならない。池の方法とは分岐せざるをえないと思う。
わが国には、神社の境内の老樹・大木などに注連縄をはり、これを神木とする風習が広く見られる。また森そのものが神聖視され、木を伐ると祟りがあると伝えられているところもあって、これも古い習俗を示すものである。はるか原始の時代にあっては、多くの学者が説くように、あらゆる樹木に精霊が宿ると人々は考えていたかもしれない。すなわち草木すべて物いう時代である。そして未開人は落雷にしばしば撃たれ火に満たされる高樹を恐怖の眼をもって眺めたにちがいない。しかし、このことを、特定の樹木や森を神聖視すること、すなわち樹木崇拝と同一視することにはなお議論の余地があろうというものである。特にいわゆる「神髄信仰説」のように、常緑の自然木に神を迎える信仰形態、あるいは高樹に神が憑依すると考える観念形態から、祭儀に際して柱を立てて、これを依り代としたという通説には、筆者は、これまでのヒモロギや柱に関する諸現象考察を通してみると、どうも納得がいかないのである。すなわち柱の信仰は、こうした発展形態とは逆に、古代稲作農耕生活における収穫祭の折、神々を迎えるために、新室とよばれるような祭り小屋を毎年建てる行為のなかで生まれたのだと考えたい。自らの手で立てた柱という一つの存在に神観念が結合することによって柱の神聖視・象徴化が生じた。さらにその柱の垂直性が特定の樹木の神聖視へと進んだ、と考えられないだろうか。おそらく特定の森や山への信仰も、稲積みやそれを象どったムロやヒモロギをつくる祭祀行為のなかで生まれたものであろう。人間は自らの手で作った素朴な家に住むようになってはじめて、自分たちの世界、宇宙を認識するようになったといわれている。
池は、樹木信仰を、どうあっても稲作農耕の祭り小屋に起源を求めずにいられない。この欲求がどこから来るのは、ぼくにはよく分からない。ただそれは、「日琉同祖論」の欲求を分からないというのと似ていて、気持ちは分かるが、真実ではない、と感じる。
同じ論拠から、池にあっては神アシャギにしても、稲作農耕の祭り小屋としてが、その起源なのだ。しかし、それは、琉球弧の歴史を、あるいは日本の歴史を浅く掬うことだと思える。だから、この方法にぼくは袂を別たざるをえない。
伊勢や出雲の神社の原型は、去来信仰の消長・神の常在化の傾向とともに、祭祀の中心が仮設的なムロから常設の神庫(穂倉)に移行するなかで形成されたが、それが神の居所として建築的にまた造形的に整備されればされるほど、かつての祭り小屋(ムロ)がもっていた人と神とをつなぐ機能は失われていった。そのような意味では、本土における神社建築の成立は、神話的時代の一つの終焉であったともいえよう。 これに対して、沖縄の神アシャゲは伊勢や出雲のように建築として洗練された造形に発展しなかったが、しかしそれゆえに、農耕儀礼における祭り小屋の機能や、このささやかな空間のなかで生まれた信仰や観念を、比較的純粋なかたちで保存してきたのである。それは、やはりかけがえのない一つの文化遺産というべきであろう。 (『祭儀の空間―その民俗現象の諸相と原型』池浩三)
池にあっては、神アシャギは、洗練されてはいないが、本土の神社や大嘗祭施設の原型をなすものとしての意義があったのだ。
たしかに神アシャギは、大嘗祭施設との共通性を持っている。けれど、ぼくの問題意識は、神アシャギと大嘗祭施設の共通性をもとに、一方をその原型を長く保存したものであり、他方を建築形態が発達したものとはみなすことにはない。むしろ、神アシャギのなかに、大嘗祭施設にはみつけることのできない古型を見いだそうとするだろう。それこそが、琉球弧の魅力だと思えるからである。池の検討した、高倉や産屋やシラは、神アシャギとして形態化した宗教精神の位相同型物なのだと見做せば充分で、それを稲作農耕を起点に、時系列化するのは無理がある。宗教精神はそんなに底の浅いものではない。
ただ、池の、正方形という図形に根拠に置いた祭儀空間論には、「日琉同祖論」と同じ窮屈さを感じるが、いまだに古びない風通しのよさがあった。それは、奄美と沖縄の事例を同列に、等価に扱う視線のことだ。
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