察する力-琉球弧の場力
『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
口承文芸研究の坂田さんの論考で幕を閉じる。
これはいい幕引きだと思った。
坂田さんは、アイヌの口承文芸は、
記述中心の従来の歴史学では敬して遠ざけられる存在だが、
それこそが近代日本国家のレトリックに回収されない価値があると言う。
沖縄の歴史も、アイヌの口承文芸のように、
既存の枠組みに絡め取られない多元性が必要だ。
割愛のし過ぎだけれど、
そうして、坂田さんは、「おわりに」として書く。
多元性を確保すること、その上で再び関係性を構築すること、
そのために私たちは、生きた人間の感情や思いを察することのできる
能力を模索しなければならない。
多元的な歴史を叙述するための努力とは、
身勝手な自意識に立てこもることやめ、他者を察し、
より良い関係を築くために必要とされる前提作業なのである。
ぼくは、この、「おわりに」の終わりが好きだ。
それというのも、坂田さんの言う「察することのできる能力」こそは、
琉球弧の場の力ではないかと思えるからだ。
触れることがそのまま優しさであるような他者との関係。
それは日本のどこでも、ちょっと前までは、
隣近所の生活実態をよく知っていたから、
当たり前のように存在していた。
相互扶助と、いまは概念化された言葉として呼ぶものだ。
琉球弧の場は、そんな相互扶助はもちろんあった。
だが、琉球弧の場の力は、人間関係の察知に止まらない。
それは、近代が優位においた人間以外の存在、
動物や植物、そして無機物、他界にまで及んだ。
人以外の存在のことばを察することができること。
それこそは、アイヌに通じる琉球弧の場の力だと思う。
坂田さんは、沖縄の歴史が過去に価値を求めることに否定的だけれど、
琉球弧の魅力は、その原始・古代からの場の力を、
保ち続けることにあると思う。それこそ桁違いの過去に。
それは回顧の価値ではない。
ぼくたちが失いかけているものを、
ぜひとも未来に獲得したいものとしてある価値だ。
坂田さんが「多元的歴史認識」のために必要としているものは、
その価値に通じる。
琉球弧の場力とは、人と人以外の存在への察知の力である。
【目次】
琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (1)
最近のコメント