カテゴリー「33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』」の9件の記事

2007/06/04

察する力-琉球弧の場力

『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
口承文芸研究の坂田さんの論考で幕を閉じる。

これはいい幕引きだと思った。

坂田さんは、アイヌの口承文芸は、
記述中心の従来の歴史学では敬して遠ざけられる存在だが、
それこそが近代日本国家のレトリックに回収されない価値があると言う。

沖縄の歴史も、アイヌの口承文芸のように、
既存の枠組みに絡め取られない多元性が必要だ。

割愛のし過ぎだけれど、
そうして、坂田さんは、「おわりに」として書く。

 多元性を確保すること、その上で再び関係性を構築すること、
 そのために私たちは、生きた人間の感情や思いを察することのできる
 能力を模索しなければならない。
 多元的な歴史を叙述するための努力とは、
 身勝手な自意識に立てこもることやめ、他者を察し、
 より良い関係を築くために必要とされる前提作業なのである。

ぼくは、この、「おわりに」の終わりが好きだ。

それというのも、坂田さんの言う「察することのできる能力」こそは、
琉球弧の場の力ではないかと思えるからだ。

触れることがそのまま優しさであるような他者との関係。
それは日本のどこでも、ちょっと前までは、
隣近所の生活実態をよく知っていたから、
当たり前のように存在していた。
相互扶助と、いまは概念化された言葉として呼ぶものだ。

琉球弧の場は、そんな相互扶助はもちろんあった。
だが、琉球弧の場の力は、人間関係の察知に止まらない。
それは、近代が優位においた人間以外の存在、
動物や植物、そして無機物、他界にまで及んだ。

人以外の存在のことばを察することができること。
それこそは、アイヌに通じる琉球弧の場の力だと思う。

坂田さんは、沖縄の歴史が過去に価値を求めることに否定的だけれど、
琉球弧の魅力は、その原始・古代からの場の力を、
保ち続けることにあると思う。それこそ桁違いの過去に。

それは回顧の価値ではない。
ぼくたちが失いかけているものを、
ぜひとも未来に獲得したいものとしてある価値だ。

坂田さんが「多元的歴史認識」のために必要としているものは、
その価値に通じる。

琉球弧の場力とは、人と人以外の存在への察知の力である。



  琉球弧・重なりあう歴史認識
Photo_75














【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



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2007/06/03

「里帰り」から「方言」へ

米国ブラウン大学のスティーブ・ラブソンは、
「在関西のウチナーンチュ」
(『琉球弧・重なりあう歴史認識』)で、
関西へ移住した沖縄人の本土体験を明らかにしている。

移住の動機、本土での体験、集落の始まりと発展、
県人会の組織化、同化への圧力と抵抗などを取り扱う。

職を求めた本土への移住、そこでの差別・偏見と、
それゆえアジールとなった県人会など、
記述が物語るのは、近代琉球弧の島人の困難そのものだ。

ところでぼくは論考の中身以上に、
その語り口が印象に残った。

それは、外国人の立場から取り組んでいることに関わる。

これを読んでいると、何というか、
いつもはどの書き手からもやってくる、
あの、感じがない。

それは、言ってみれば、語りの情念である。
差別に対する憤りや諦念といった、
琉球弧論につきまとう、あの感じがない。
情念の抜き取られた差別論なのだ。

議論の補助線として出される例もそうだ。

その一方、いつしか沖縄は「かっこいい」という
イメージを持つようになったがそれには裏面もある。
たとえば、アメリカでは
スペイン系人の「情熱」には「暴力的」があり、
イタリア系人の「ロマンティック」には「不倫だらけ」、
ユダヤ系人の「賢さ」には「ずるさ」が、というように、
ほめ言葉の裏面にネガティブな意味は付着しがちだ。

という具合いで、例の内容が、
ぼくたちが情念を込めにくい遠い世界の話なのだ。
それは、のっぴきならない自身の問題から、
共感をもとにした他者理解の話になる。

 ○ ○ ○

この情念を抜き取られた琉球弧論は、
情念から自由な分、それに引きずられな自由を持っている。
その成果は、アンケート結果にあると思う。

「現在あなたが持っている沖縄とのつながりは何ですか」

たとえば、この問いへの回答。

                【出身者】  【子孫】
□(出身者)>(子孫)
島唄などの娯楽          78(41.1%)  37(33.6%)
県人会参加、活動         73(38.4%)  27(25.5%)
郷土同胞の親戚や友人       97(51.5%)  51(46.4%)
政治的な支援           13 (6.8%)  5 (4.5%)
『タイムス』『新報』などの読書  19(10.0%)  7 (6.4%)
里帰り              134(70.5%)  32(29.1%)

□(出身者)<(子孫)
仕事あるいは実業関係       18 (9.5%)  11(10.0%)
沖縄滞在の親戚や友人      158(83.3%)  93(84.5%)
方言、料理などの文化や習慣    85(44.7%)  67(60.9%)
儀式や祭り            72(37.9%)  47(42.7%)
三線、流舞などの勉強       37(19.5%)  27(25.5%)
高校野球の応援         99(52.1%)  65(59.1%)
その他              4(2.1%)   9(8.2%)

複数回答した選択肢を、(出身者)>(子孫)のものと、
(出身者)<(子孫)のものに分けてみた。

(出身者)>(子孫)は、
「子孫」に比べて「出身者」の比率が高いもの。
(出身者)<(子孫)は、
逆に「子孫」に比べて「出身者」の比率が低いものだ。

これを見ると、「出身者」が「子孫」を上回る最たるものは、
「里帰り」だ。

ぼくも渦中の者だからよく分かるけど、
琉球弧への里帰りは高くつく。
経済的に問題なしとするのは決して楽なことではない。
でもそれが「つながり」の確認のトップに来るのは、
それこそが里帰りだとも言えれば、
琉球弧の魅力だとも言えよう。

当然、「子孫」になれば、
里帰りする場の有無と経済から、比率は落ちてくる。
「出身者」からみれば寂しい現象だろうだがやむを得ない。

他には、「島唄」、「県人会」など、直接的なものが
つながりの特徴だ。

しかし、「子孫」が「出身者」を上回るものに、
「方言、料理」が筆頭に上がってくるのは面白い。
これは二つとも、「里帰り」を代替するものだと言っていいからだ。

他には、「祭り」などのイベント、
「三線」などの芸能の勉強、
「高校野球の応援」など、「出身者」に比べて、
関係は間接的になるけれど、
固有の文化は大事なつなぎ手になっている。

つながりを維持するものは、
言葉や料理、イベントなど、共有できる「形」なのだ。


※与論でも、「ゆんぬふとぅば講座」の案内が出ている。
応援したい。


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)

多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)

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2007/06/02

ポストコロニアル

ポストコロニアル。

植民地以後、ということだろうか。

『琉球弧・重なりあう歴史認識』には、
「大城立裕文学におけるポストコロニアル」という論考がある。

書き手は、執筆者紹介を見ると、
日本の大学で日本文学などを専攻する教授で、
リース・モートンという方だ。

これを見て、「ポストコロニアル」というテーマ設定は、
西洋系の外国人の内省から生まれたものだろうか、
という予断が一瞬、過ぎったが、そういうことではない。

高橋さんは、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」で、
ポストコロニアルに関連するパッシング行為を紹介していた。

 パッシング行為 
 社会的に不利な個人の出自を隠し、
 ドミナント社会の構成員になりすますこと。

高梨さんも「琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究」で、

 奄美諸島史の現代社会は、
 「鹿児島県」に帰属した奄美諸島において、
 その植民地的社会構造は完全に解体されたわけではない。
 形骸化しながらも、そうした社会構造は生き延びている。
 そして「鹿児島県」における植民地主義的意識も
 解消されたわけではない。
 無意識の植民地主義的意識は、
 「鹿児島県」に確実に生き延びている。

と指摘していた。

我ながら可笑しいのだが、
奄美や琉球弧が、「ポストコロニアル」や「植民地主義」の
概念のもとに説明されていることが、実は、ショックだった。

ぼくは薩摩の思想に対し、
「薩摩を南島を喰らって明治維新をなしたと認めよ」と主張し、
日本は南島を喰らって近代化を果たし、
いままた南島(沖縄)を喰らって現在を凌いでいると考えるものだ。

「ポストコロニアル」や「植民地主義」より、
毒々しい言葉を使っているとも言える。

それなのに、与論島を取り巻く大きな環境を、
「ポストコロニアル」や「植民地主義」という言葉で
考えたことがなかった。

でも確かに、パッシング行為など、
「ポストコロニアル」や「植民地主義」の文脈を通すと、
すんなり理解できることが多い。

ぼくは実のところ、現実を直視してこなかったのだろうか。

 ○ ○ ○

ここはひとつ、大城立裕文学には悪いが、
論考は脇に置いて、自分の切実さに引き寄せてみる。

7年前、初めて本を書いた時、
プロフィール欄で、自分の名前の次に、
「与論島生まれ」と書いた。

「与論島生まれ」とだけは書きたかった。
というより、ビジネス書のプロフィールに
お門違いだとは承知しているけれど、
それ以外にアピールすることはないような気すらしていた。

こうするのは実のところ、
プロフィールに県名を記したくない思いとセットになっている。
強がっていえば、「わが名に鹿児島県と冠するな」と、
ずっと思い続けてきて、和らぐことはなかった。

それは、自分の駄目さ加減でしかないのだが、
これがぼくのポストコロニアルに対する身体反応なのかもしれない。

 ○ ○ ○

生前の祖父は、本のプロフィールを見て不思議そうだった。
ぴゅーましょーと、
「与論島生まれ」をアピールすることを不思議がった。

祖父の世代だけでなく、
近代以降、本土で出身地を聞かれたくないパッシング的心情は、
多くの島人の心を捉えたものだったに違いない。

その心情の普遍性を知る祖父にとって、
「与論島生まれ」のアピールは考えにくいことだったのだ。

けれど、祖父の感じ方は不思議さが全てだったわけではない。
言葉や表情に表さなかったけれど、
嬉しい気持ちも半分あったろうと、信じる。

ぼくはもちろん、祖父や島の人に喜んでほしかったのだ。

これからもそうだ。

書くこと行うことについて、
泉下の祖父や祖先の島人も喜んでくれるか、
問いつづけるだろう。

だから、ぼくにとってポストコロニアルとは、
ほぐすべき認識の問題であるとともに、
過去と現在の島人が喜んでくれることを通じて、
ぼく自身や与論、琉球弧のこわばりをほどく、
身体的な問題なのだ。



『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)

在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)


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2007/06/01

幻の島─琉球の海上信仰

『琉球弧・重なりあう歴史認識』の、
「幻の島」は、とてもいい。

 島に住む人たちは、海の向うの水平線に、
 もうひとつの世界を想像した。
 その世界は、
 ある場合は人間が求めてやまない楽土であり、
 またある場合は恐怖の漂う世界でもあった。

こう、酒井卯作さんは書き起こす。
酒井さんは、琉球弧に流布されているニライ・カナイの表象が、
紋切り型されてしまっているのではないかと危惧している。

 近年、琉球列島で好んで使われるニライ・カナイという
 海上聖地を指す言葉は、こうした島の深い歴史の跡を
 ふり返ってみれば、かなり短絡的で安易に使われて
 いるような気がする。

 島の信仰の歴史も、それを保ってきた人たちの感情も、
 そんな簡単なものではなかったと私は考えているからである。

この問題意識が、「幻の島」には底に流れている。

しかし、酒井さんはそのことを概念の整理によって行うのではない。

実のところ、「幻の島」は、詩情あふれる紀行文だ。
それは実際に、酒井さんが訪れた地の出来事であったり、
伝聞や既存の紀行文を元にしたものもある。

それらは琉球弧のみを舞台に選ばず、
本土にも触手を伸ばしている。

読むにつれ、ひととき延びやかな世界に
引き込まれて、海の向うに抱く思いを
振り返りながら、酒井さんとともに旅をするかのようだ。

それは最後の、老婆の言葉まで続く。

 -悲しかったり苦しかったりすると、
 浜に出て、座って、いつまでも海を見て過ごします。
 そうして広い海を見ていると、自然に心がなごみます-。

 島に住む人にとって、これは目新しい言葉ではない。
 しかし、こうした平凡な言葉の中に、
 海の哲学のすべてが語られているように思う。
 海上信仰の研究もここから出発するのである。

ぼくたちはまるで、柳田国男の『海南小記』や『海上の道』を
読むような愉楽を味わうことができるだろう。


酒井さんは、概念による正否ではなく、
紋切り型からはみ出る海上への想いののびやぎによって、
ニライ・カナイのイメージが紋切り型に堕していることを、
それとなく、けれどしっかりと伝えている。

そして、本質的なところでは、
ともすると「日琉同祖論」や「南島イデオロギー」の議論に
とらわれがちな琉球弧論に対して
問題提起をしているのだと思う。

琉球弧の島の連なりのように、
もっと伸びやかに、もっと自在に、
思考や想いを羽ばたかせていい。

そう、酒井さんの文章は言っているのだ。


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)

大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)




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2007/05/31

「琉球民族」は存在するか

『琉球弧・重なりあう歴史認識』に、
高橋さんは、「『琉球民族』は存在するか」と題して
論考を寄せている。

問い:琉球民族は存在するか。
解答:存在しない。日本民族が存在しないのと同じように。

ぼくは思わず、そう答えて、
高橋さんもそう説いているのだろうと思いながら、
読んでみると、必ずしもそうではなかった。

 さらに、国連の先住民作業部会に<琉球民族>は
 先住民族であると主張し代表を送っている奄美、沖縄の
 若い世代の主張を無視してはならない展開である。

 なぜなら、たとえ「民族」は、
 (国家が「想像の共同体」であるように)
 「想像上の旗印」にすぎないにしても、
 <琉球民族>の主張が、
 国家という外部からの「名付け」ではなく、
 新たな内部からの民族の「名乗り」だからである。

「『琉球民族』は存在するか」は、こう結ばれていて、
ぼくは好ましく思った。

概念の正否でことを判断しない、
しなやかな視線を感じた。

 ○ ○ ○

高橋さんはエスニシティの視点と呼んでいる。

エスニシティ。

耳慣れないので、辞書を見ると、新語として登場している。

 エスニシティー【ethnicity】
 共通の出自・慣習・言語・地域・宗教・身体特徴などによって
 個人が特定の集団に帰属していること。

ということは、ぼくが与論島の出身者として
「与論」に属していると感じていること、
また、それを拡大すると、「奄美」に属していると感じること、
さらに、地域の自然・文化の親和性から拡張すると、
「琉球弧」に属していると感じること。

これらは、エスニシティと理解していいということだろうか。
そう、受け止めてみる。

高橋さんは書いている。

 エスニシティは国民国家の枠組みの中で、
 ドミナント集団に対し、少数派のエスニック・グループが
 自集団に対して示す帰属性の総体であり、
 「日本人」と「沖縄人」の民族的起源の同一性を強調する
 日琉同祖論とは相容れない考え方である。

高橋さんの解説を受けとめると、
エスニシティは、民族論に回収されず、
その手前に止まるための概念であり、
また、民族の解体表現であるように見える。

高橋さんは、エスニシティという概念を手にすることによって、
沖永良部を単体で取り上げる論拠を得たのかもしれない。


ぼくは長いこと、与論島のことを書きたいと思ってきた。
けれど、何をどう語ればよいのか分からなかった。
与論島は歴史には登場しないことをもって旨とし、
島人も自己主張しなことを旨とすると言わんばかりで、
取るに足らない存在と自己規定しているように思えてくるのだった。

ただ、与論島に感じる、
あの得も言われないとろける感じは無類で、
他に代わるものがないことは、
何にも増して確かだった。
ぼくはその実感に固執してきた。

沖永良部の隣島に出自を持つ者として、
高橋さんの論考は、ぼくのやりたいことの先行に見えた。

それは嬉しい出会いだ。

『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)

幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



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2007/05/30

ゆんぬ・与論・ヨロン2

『琉球弧・重なりあう歴史認識』で、
与那覇さんは、近代糸満人の表象史を扱っている。

近代沖縄で「糸満人は異人種である」とする説が登場する。
この説は糸満人が西洋人であると含意したものだった。
来沖して物議をかもした河上肇の
「琉球糸満ノ個人主義的家族」という論文は
それに拍車をかけてしまう。

そもそもポジティブだった糸満人のイメージは、
ネガティブなものに転じ、揺れるが、
やがて門中の研究を通じて、
家族主義的であることが言われるようになり、
そして戦争という機会が、日本人化の契機を与え、
「糸満人は異人種である」であるとする表象が消えてゆく。

与那覇さんはその流れを追っている。

 ○ ○ ○

この表象史は、近代において、
「日本人ではない」という本土からの表象に悩む沖縄・琉球が、
その内部に、「沖縄人ではない」という表象を
生み出した背景を連想させる。

「日本人ではない」という表象は、
戦争を契機に、戦争のさなかにおいては、
「日本人」という表象に解消され、
沖縄・琉球が、その内部に外部を持つ必然性が
無くなった過程とみることもできる。

 ○ ○ ○

表象史というテーマを、
ぼくは自分にとって切実な
「与論」の表象史として受け取ってみよう。

与論を、島の人は「ゆんぬ」と呼ぶ。
「ゆんぬ」は口承のなかで生きてきた。
「ゆんぬ」は、琉球・薩摩の島外からの政治的共同性が
かぶさったときに「与論」になり、文字としても表記される。

近代与論において、
「与論」の公的な意味は、本土化を意味するようになる。

そこで、島の表象は、
標準語としての「与論」と、
与論言葉としての「ゆんぬ」に分裂する。

与論島の内部においては、
生活空間としての「ゆんぬ」と、
公的空間における「与論」の二重性が存在した。

「与論」は、標準語世界という意味では、
日本人を表象するものだから、
島人にとっての活路だったが、
本土からみれば、ネガティブな表象のなかにあったので、
本土のなかでは、隠したいものでもあった。

「与論」は、そういう島人のきつさを表してもいた。
そして、糸満人と同じく「与論人」も、
戦争期、その表象は「日本人」のなかに解消されたかにみえた。

しかし、戦後もこの二重性は生きる。
与論言葉と標準語の盛衰と同様に、
そこでは、衰退する「ゆんぬ」と、強化される「与論」としてあった。

ただ、「ゆんぬ」はもともと与論言葉の
長い時間の蓄積を持った世界なのだから、
その衰退はきついものだった。

その表象に変化が現れる契機になったのは、観光である。

ここで、与論には、三つ目の表象が加わる。
それは、カタカナの「ヨロン」である。
ヨロンの表象には幅があった。

ひとつは、沖縄復帰前の日本最南端の地としてのヨロン。
ついで、復帰後は、沖縄とセットのヨロン・オキナワのなかのヨロン。
そしてそれだけでなく、海外旅行が大衆化されて以降、
プーケットなどの海外のリゾート地と並んであるヨロン。

この三つのヨロン表象の幅は、
ぼくも体験したものだ。

日本最南端の地としてのヨロンは、
全学連委員長、唐牛健太郎が一時期、
潜伏したこともあったように、隠れ家的な意味を持った。

それが、オキナワ・ヨロンになると、
途端に明るい海と空の観光地イメージに取って代わる。
浜辺に行けば、東京弁や大阪弁の若者たちと触れ合うことができた。
彼らはきれいな珊瑚をみかけるとお土産に取っていったりと、
おおらかに自然を壊してもくれたが、親切で優しかった。

少年期に味わった浜辺でのヨロン表象は明るく朗らかなもので、
それが鹿児島のなかで味わう与論表象の暗くきついものとは
対象的だった。

ヨロンはそれに止まらず、オキナワとセットの位置から遊離し、
南の島として浮遊しはじめる。
それは、プーケットの隣にあるかもしれない島としてあった。
当時、ぼくは、ヨロンはどこの国?と聞かれることもあった。

しかし、この場合、近代初期の島人が、
どこの人?と聞かれるのとは違い、むしろ楽だった。

沖縄に近い、沖縄ではない、鹿児島県に属する。
などの正確だけれど、言うほうも不満が残る散文的な説明より、
どこか分からない日本か外国かも分からない
南の島という表象は、投身しやすかった。

「ヨロン」として軽さ、明るさを知り、
「与論」の重さ、暗さはやわらいだ。

与論表象史でいえば、
「与論」と「ヨロン」のイメージの対照性と、
(与論)>(ヨロン)から(与論)<(ヨロン)への逆転劇は、
最大の転換点だった。

この転換は、おそらく、
瀕死にあった「ゆんぬ」に
再び視線を向ける契機にもなったのだ。

関連記事:「ゆんぬ・与論・ヨロン」


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)

「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)


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2007/05/29

隆起せよ「島の身体」

『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
琉球弧の民俗学が立ち会っている困難を教えてくれる。
吉成さんは解説している。

比嘉政夫によって1996年、「琉球民俗学」が提唱される。
けれど、現在までのところ本格化していない。

比嘉によれば琉球民俗学は、
具体例を見ていくと一般化は困難である。

一方、民俗学は他地域との比較によって成り立つとする。
琉球民俗学は本土の民俗学と比較されなければならない。
では、比較というけれど、比較するときに、
琉球とはこういうものであるという同質性は
何によって担保されるのか?

その回答は比嘉にない。

それはきっと日琉同祖論によって、
本土との奥底での同質性を担保することでなしている。

沖縄の具体例をみると一般化はとても無理と思っているのに、
本土とは比較できると言うし、
比較するときは琉球はまるで一般化されたようにイメージしている。
それは、本土とも同質だし、
琉球内部も同質であるという前提があるからだ。
その前提を用意しているのが、日琉同祖論である。

日琉同祖論では、
琉球は本土から分化したものと見なされる。
だから、琉球に古代日本をみる見方を定着させてしまった。
過剰に古代本土的に言われてきたきらいがないわけではない。
それは本土研究者の責任もあるが、
やっかいなのは、日琉同祖論を推進したのは、
伊波普猷はじめ沖縄の人々だった。

 したがって、「琉球民俗学」の構想のなかには、
 従来の「日琉同祖論」による成果を一旦破棄し、
 破棄されることによって生じる空白部分を埋める作業
 から行う必要があるのではないか。
 「日琉同祖論」からの訣別という過程を踏んで、
 はじめて「琉球民俗学」の道が拓かれるのではないかと思う。

 「琉球民俗学」を構想する前に、
 少なくとも「奄美民俗学」「沖縄民俗学」「宮古民俗学」
 「八重山民俗学」のあり方が考慮されてしかるべきである。

こうみてくれば、琉球民俗学が、
その名称の魅力にもかかわらず深化していない理由は、
門外漢のぼくにもおぼろげながら見えてくる気がする。

きっと、琉球弧を構成する島々にとって、
切実で魅力的な枠組みに映らないのだ。

 ○ ○ ○

ぼくはこのアポリアを突破する鍵は、
地図の視点を解体することだと思う。

この一帯は自分たちのものにしようという支配者の論理から、
こことここは近いから一括りにするという、
行政区分や文化の論理まで、
地図の視点を止めることだ。

言い換えれば、
ひとつひとつの島がクニであるという視点にするのである。

島は、ひとつでクニである。
島は、ひとつでクニであり、世界であり宇宙である。
そのことが踏まえられなければならない。

個々の島の民俗が、まず語られなければならない。
奄美民俗学でも広すぎる、のである。

檻だったら外から開けることができる。
でも、島の民俗学は、内側からしか開けることができない。
内側からというのは、出自を意味しない。
島の出身者でなければ資格はないことではない。
また、他の島との比較が第一義なのでもない。
誰であろうが、井の中をどこまでも掘り下げて、
共感と洞察で島の民俗を取り出したら、そのとき扉は開くだろう。

だから、関係性を担う島の主体をつくる、というより、
「島の身体」を浮かび上がらせることがテーマになる。

近年の奄美考古学の成果も
この視点が寄与したものではないだろうか。

ひとつひとつの島の身体を明らかにすること。
それが民俗学の政治性を解体する方途でもあると思う。


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)

「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



 

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2007/05/27

奄美諸島史の主体化

『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
高梨修さんの論文から始まる。

高梨さんは、奄美・沖縄に共通してある考古資料として、
グスクを取り上げている。

そして、「名瀬市グスク詳細分布調査」を担当し、
四五個所に及んだグスクについて、
その地形、構築物の形態、年代を実証的にたどり報告している。

その成果は、文書の希少な奄美諸島において、
歴史をひもとく意義を持つものだ。

ぼくには、グスク名称の有無、形態の相違、地形の相違を
明らかにしたことが、
グスクの概念と実態の幅の広さが迫ってくるようで、
ひときわ関心を引いた。

事実は、ゆるぎない。
そんな力がある。

 ○ ○ ○

ぼくなど、グスク(城)は、
与論の言葉で言えば、
ウガン(御願)との対比で考えてきた。

宗教的共同性の中心地であるウガンが、
その胎内から政治的共同性を分離するにいたったとき
グスクと呼ばれるようになる。

だから、グスクの起源は、
宗教的共同性の場、聖地に求められる。

言い換えれば、ウガンは聖地そのものであり、
聖地の境界から集落の広がりを生んだ地域をグスクと呼ぶ。

だから、グスクは聖地周辺を指すこともあれば、
首長の城郭を表すこともあれば、
政治的中心地にある集落を指すこともある。

空間としても時間としても、
ウガンの終わるところからグスクが始まるのである。

でもこれは、ぼくの乱暴な仮説に過ぎない。

高梨さんの調査結果は、
こうした勝手な仮説に、
勝手を許さない事実を突きつけて心地いい。

 ○ ○ ○

高梨さんは、奄美諸島のグスク調査を通じて、
沖縄のグスク考が、本島の研究に基づき奄美を理解するものであり、
また、鹿児島の奄美グスク理解も、
沖縄のグスク考を援用しているものが多いとして、
奄美主体の研究の意義を指摘している。

そして、言うのだ。

 まず、沖縄県側からみるならば、一六〇九年以前の奄美諸島史は、
 琉球王国が奄美諸島を統治しているので、
 「沖縄県と共通する歴史(鹿児島県と相違する歴史)」として
 認識されるのである。
 しかし、一六〇九年以後の奄美諸島史は、
 薩摩藩が奄美諸島を統治しているので、
 逆に「沖縄県と相違する歴史(鹿児島県と共通する歴史)」
 と認識されるわけである。

 次に鹿児島県側からみるならば、一六〇九年以前の奄美諸島史は、
 琉球王国が奄美諸島を統治しているので、
 「鹿児島県と相違する歴史(沖縄県と共通する歴史)」として
 認識意されるのである。
 しかし、一六〇九年以後の奄美諸島史は、
 薩摩藩が奄美諸島を統治しているので、
 逆に「鹿児島県から離別される歴史(沖縄県と相違する歴史)」と
 認識されるわけである。

 それから鹿児島県側における奄美諸島史について、
 琉球王国統治時代以前の
 「鹿児島県と相違する歴史(沖縄県と共通する歴史)」とは
 琉球文化地域の歴史であり、
 「鹿児島県から離別される歴史」なのである。
 また薩摩藩統治時代以後の
 「鹿児島県と共通する歴史(沖縄県と相違する歴史)」とは
 植民地支配の歴史であり、
 「鹿児島県から封印される歴史」なのである。
 
 さらに奄美諸島側からみるならば、
 琉球王国統治時代以前の段階とは、
 文字史料がほとんど残されていない
 考古学研究が中心となる段階である。
 当該段階は、すでにグスク研究の事例にみてきたように、
 沖縄県側の考古学研究が中心で、
 奄美諸島は補助的立場に置かれている。
 「沖縄県と共通する歴史」ではあるが、
 その周縁の歴史に位置づけられているわけであり、
 沖縄県側からの接近は弱いのである。
 また「鹿児島県から離別される歴史」であるから、
 鹿児島県側からの接近も弱いのである。
 結局、奄美諸島史における考古学的成果については、
 研究姿勢がきわめて虚弱であるといえる。

奄美諸島史を、
沖縄県と共通する歴史から鹿児島県と共通する歴史と、
単純線型に捉えるのではなく、
沖縄県と共通するが周縁である歴史から、
鹿児島県から封印される歴史であるとして構造化している。
そこにはねじれがある。

ぼくたちは、奄美は、
かつて、こんな風に、奄美の二重の疎外に届く言葉を
投げかけてもらえたことがあっただろうか。

高梨さんの言葉は、
二重の疎外でまちぶった(もつれた)糸を
ほぐそうとしている。

ぼくたちは、こわばりがほどけて、
心が開くのを感じる。

 奄美諸島史の現代社会は、
 「鹿児島県」に帰属した奄美諸島において、
 その植民地的社会構造は完全に解体されたわけではない。
 形骸化しながらも、そうした社会構造は生き延びている。
 そして「鹿児島県」における植民地主義的意識も
 解消されたわけではない。
 無意識の植民地主義的意識は、
 「鹿児島県」に確実に生き延びている。

 本稿は、沖縄県側の考古学研究を中心に、
 奄美諸島史をめぐる歴史認識について考察してきたが、
 「鹿児島県」を基盤に営まれてきた考古学研究についても、
 「植民地主義以後」の課題から考察しなければならないと考えている。
 いくつかの意味で、筆者自身にも過酷な作業となるが、
 別稿で考察を果たしたいと決意している。

その通りだと思う。
二重の疎外は、まだ解けきれていない。
それは解かれなければならないと、ぼくは考える。

高梨さんが過酷を承知で、決意を語るとき、
それを支援しない理由がないのである。

こういう人を持つにいたった奄美の幸運、
いや幸運と言いたくなければ魅力を、喜ぼう。

奄美は高梨さんから励ましを受け取る。

こんどは、奄美が高梨さんを励ます番だと思う。



『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)

関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



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2007/05/26

琉球弧・重なりあう歴史認識

高橋孝代さんの論文はインターネットで読むことができたし、
遠慮しとこうかなぁ、なにしろ高いしと、
一度は書棚に戻したのだけれど、
ややあって、やっぱり読まなきゃと
手にしたのがこの本だった。

  琉球弧・重なりあう歴史認識
Photo_75












この本には、「沖縄研究のアポリア-歴史認識の多元化を求めて」
というタイトル案もあったそうだ。

でも最終的には、
 『琉球弧・重なりあう歴史認識』に落ち着いてよかった。

こちらのほうが、広がりや前向きなトーンが出るというものだ。

そしてその名の通り、
この本からは、従来の沖縄本には無かった響きを聞くことができた。

そのことをこれから少しでも紹介できたらと思う。

「琉球弧」認識は、ようやく内実を持ちつつあるのかもしれない。


【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)




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