カテゴリー「32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』」の12件の記事

2008/08/26

『奄美の債務奴隷ヤンチュ』の意義

 自分の関心の赴くままわがままに引用して、名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』を辿ってきた。

 この本なしに家人(ヤンチュ)を知ろうとすれば断片的に終わるか膨大な時間を費やす必要があっただろう。誰も手をつけていないテーマを掘り下げたことはこの本の意義として強調したい。名越は肌理こまやかな目くばせもしていて、沖縄や鹿児島に同様の存在はいないか調べていた。また、「島民の抵抗」では、「猿化運動」のように一文の記録しかないものをすくい上げたり、琉球弧の森の精霊ケンムンまで動員したりしているのには、島人を鼓舞したい気持ちが伝わってきて、胸に沁みた。

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 最後もわがままに、あとがきへのコメントで終えようと思う。

 資料を集め出したのは〇四年秋ごろだった。県立図書館や同奄美分館、鹿児島市立図書館に何度も通い、資料になりそうなものは手当たり次第収集した。本格的に現地奄美大島入りしたのは〇五年一月で、出水市の元高校教諭の田頭寿雄さんの運転で一週間、全集落をくまなく回り、写真撮影から始めた。結局、奄美には三回渡った。徳之島や沖永良部島でも現地苦した。さらに同じ薩摩藩の侵攻を受けた沖縄や宮古島にも飛んで「ヤンチュとの比較」を試みた。やはり沖縄もヤンチュと同じ“ンザ”という奴隷身分の人たちが苛、人身売買か存在したのをつかんだ。宮古島など先島諸島は、薩摩藩が奄美を見るように沖縄本島から差別されていたことも分かった。

 この本の足を使った考察のおかげで、ぼくたちはヤンチュをめぐるエピソードを身近なものに感じることができるのだ。

 結論としていえることは、藩政時代に薩摩藩が奄美で行った植民地政策が、ヤンチュ大量発生の根本原因ということだ。薩摩は奄美侵攻当初は自立農家の育成を第一に掲げてヤンチュの増大を防いでいた。そのうち大坂市場で高く売れる砂糖の魅力に傾き、四十万両という「宝暦治水」の莫大な出費や島津重豪の開化政策などで藩財政が火の車になった。この財政改革のため、一八三〇(天保元)年の調所笑左衛門広郷の「天保の財政改革」が実施されて、「黒糖は改革之根本」と位置づけられて奄美の人々の岬吟がさらに増した。

 これを受けると、薩摩の植民地政策は、家人という債務奴隷を生むほどの砂糖収奪により自立経済力を奪い、二重の疎外によりアイデンティティを奪った、と整理することができる。

 薩摩藩は膨大な藩財政を立て直すには奄美島民が犠牲になってもやむをえないとでも考えたのだろう。当初の志を捨てて自立農民の育成より、衆達層の大規模租放経営で手っ取り早く砂糖を生産できる道を選んだ。一方、衆達層は薩摩藩の与える一字姓と郷士格身分をめざして砂糖献上をせっせと続ける行為が幕末期には顕著になる。

 「犠牲になってもやむをえない」も何も、もともとそれが狙いで侵略しているのである。ぼくたちは、侵略後の3世紀をかけてその目的が実現するさまを振り返っているわけだ。

 そのため、奄美の耕作地はサトウキビ一色にされ、島民が作った砂糖は一片さえも島民の口にされず、すべて藩が独り占めした。奄美島民は山奥の「隠し畑」で収穫するサツマイモで餓えを凌ぐ毎日だった。ひとたび台風や日照りが続くと、ソテツや山野の草の根で命をつなぐ。それでも数年も続くと大量の餓死者を出すのだった。決められた量の砂糖が上納できない農民は衆達から借財して債務が拡大、ヤンチュ身分に転落するしかなかった。

 ヤンチュの大量発生は、収奪の強度に比例しただろう。

 もちろん、藩もヤンチュの増大に手をこまねいていたわけではない。幕末期の一八五五(安政二)年に「三十歳に達した膝素立は身代糖千五百斤で自由になれる」という藩命も出している。しかし、それは遅きに失した。その実効はほとんどなかった。奄美の郷土史研究者の弓削政己さんによると、この四年後の安政六年に身代糖を支払ってヤンチュ身分から自由の身になったのはたったの男女三百四十九人だけだった。逆に十九人がヤンチュに転落しており、差し引き減少したのは三百三十人だった。

 1500斤は、900kgである。そんな量、そうそう用意できるわけはない。349人はむしろ多く見えるくらいではないだろうか。

 薩摩藩の台所は、奄美の黒糖収奪で赤字財政から見事に立ち直り、幕末には逆に余禄が三百万両にもなり、京都、江戸、国元にそれぞれ百万両ずつ積み置かれた。国元の百万両は西南戦争の軍資金に充てられた、という。つまり明治維新も、国内最後で最大の内乱といわれる西南戦争も、奄美の黒糖がなければ実現できなかったのである。日本の近代化は奄美の犠牲の上に成り立っているといっても過言ではなかろう。

 奄美は日本近代の縁の下を支え、近代幕開けの舞台を用意したのである。

 なのに、明治の世になっても鹿児島県は奄美の砂糖を手放さず、「大島商社」をつくって封建の世そのままの〝専売制″を続けた。それを続けさせたのは何と西郷隆盛の提案だった。「勝手販売」を訴える嘆願団は谷山の監獄にぶち込み、挙句の果ては若い嘆願団員を強制的に西南戦争の西郷軍に従軍させて八代の戦いで六人を戦死させている。さらに渡辺千秋知事は一八八七(明治二十)年、県議会に「大島郡経済分別に関する議案」を上程し、これが可決された。これは「県予算から奄美分を切り離す」という〝奄美切捨て政策″で、この不条理な県政は約五十年間も続き、奄美の近代化はさらに遅れてしまった。

 西郷は、大島商社を提案したというより、大島商社の提案に、大蔵省の干渉に注意せよというアドバイス付きで賛意を表した、あるいは後押ししたというのが正確だと思う。砂糖収奪と二重の疎外の永続化を図ったのは、渡辺千秋である。

 このように奄美の歴史をみると、その根底に「島差別」を感じるのは著者だけだろうか。県政の平等な発展のためには、差別された島民の声をもっと謙虚に聞く耳が必要だと痛感した。〇九年は薩摩藩の「奄美侵攻四百年」にあたる。それに向けて今後、各種の奄美論も活発化するだろう。この拙本がその〝きっかけ″の一つになれば、望外の喜びだ。

 「島差別」と呼ばれているものは、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外として抽出することで、関係の構造として捉え直すとができる。差別は、二重の疎外の一態様である。

◇◆◇

 さて、『奄美の債務奴隷ヤンチュ』には奄美の年表(「薩摩藩の黒糖支配とヤンチュ関連年表」)がついている。また、第一次定式買入や換糖上納制などの解説もあり、これらは他の奄美関連書との重複も多い。けれどそれでいいのだと思う。名護は家人(ヤンチュ)の具体像を浮かび上がらせることで奄美の歴史像を更新しているのだ。ぼくたちはこうしてその都度、新しい知見を加えながらくり返しくり返し語ることによって、明るみにしていかなければならない。何をか。知られざる奄美の歴史を、だ。



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2008/08/25

収奪の永続化と抵抗

 大島商社の設立と解体が、砂糖収奪の永続化とそれへの抵抗の最後の舞台ではなかった。

 一万、商人同士の争いもあって騒然としていた世相であった。その代表的な争いが南島興産商社と阿部商会の抗争である。奸商から島民側を守ろうとする新納支庁長と、南島興産商会側擁護の渡辺千秋県知事が対立。新納支庁長は突然解任され、一八八七明治二十)年四月に「砂糖は鹿児島商人以外に売ってはならない」という「県令第三九号」の知事通達が出た。このため、阿部商会は商いができず、店じまいして引き揚げてしまった。これに憤慨した県議の麓純別は有志らとはかって「県令三九号撤廃」 の運動を起こして、発布からわずか一年でこれを撤回させている。

 渡辺知事はさらに奄美にとってあくどい政治もしている。一八八七(明治二十)年九月の臨時県読会で「大島郡経済分別に関する議案」を上程して、可決させているのだ。“経済分別”とは「鹿児島県の予算から奄美分を切り離して独立させる」ということだ。独立とは体のいい言葉だが、「自前でやって行け」という荷厄介の離島の〝奄美切捨て政策″だ。原井一郎さんは著作『苦い砂糖』 のなかで「すでに砂糖という金の卵を産まなくなった奄美を廃鶏にした方が得策という計算から、薩摩藩閥の政治要路に取り入って根回しした結果だというのだ」と憤慨している。(『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 象徴的にいえば、砂糖収奪の永続化とそれへの抵抗は、第一幕が知事の大山綱良と丸田南里のあいだでなされたとすれば、第二幕は、渡辺千秋と新納忠三、麓純別、そしてここに岡程良も加えるべきかもしれない、彼らの間で演じられた。そしてヤンチュ解放運動もそうだが、抵抗の戦列に新納忠三という鹿児島出身者が加わってくる。

 それにしても、「県令三九号」と「大島独立経済」は同一人物の政権下でなされているのに目を見張る。渡辺千秋は、砂糖収奪永続化の象徴的人物かもしれない。「県令三九号」と「大島独立経済」に共通するのは、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外の視線だと思う。<琉球ではない、大和でもない>から、収奪の対象とすることも予算の対象外と見做すこともできるのだ。

 こう書いて思うのは、二重の疎外の規定は、砂糖の収奪の実行を容易にしたのではないかということだ。薩摩は、<琉球ではない、大和でもない>という規定による空虚を、薩摩の利益のための存在として埋めたのである。



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2008/08/24

奄美近代の第一声

 イギリスで過ごし近代の何たるかに触れて帰国した丸田南里は、故郷奄美の実態を見て立ち上がる。よく知られたそのときの第一声がこれだ。

 人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 大島商社の設立とその解体は、ある意味では西郷隆盛と丸太南里の闘いだったかもしれない。この丸太の第一声は、二重の疎外を解放せよ、とも聞こえてくるのだ。

 丸太南里の第一声は、奄美の近代を告げたのである。この声はまだ意味を失っていない。



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2008/08/23

二つの西郷

 奄美の近代は、砂糖収奪の永続化とそれへの抵抗が顕在化する。面白いことに、あの西郷はその永続化にも抵抗にも一役買っている。

 奄美諸島の専売制を廃止し、商社をつくって商売を独占し、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から聞いたが、その方策はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。(明治四年十二月十一日。桂四郎宛て)

 これは砂糖収奪の永続化にかかわるものだ。悪名高い大島商社の設立に西郷が士族救済のために賛意を表したと言われている箇所である。大島商社の設立に当たっては、「こいで維新はなりもした」と西郷に言わしめたという。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』では、「鹿児島の士族救済を最優先する西郷の『視野の狭さ』が露呈している手紙の内容だ」として批判されているところだ。

 ところが、西郷はこの2年後、沖永良部島で信頼関係を結んだ土持正照の嘆願に心を動かされる。

 沖永良部島の与人、土持正照が、嘆願のために訪れた。土持は流罪中、大いに世話になった者で至極の恩人の人物だ。話を聞いていると(中略)、もしやこれまでの交換値段で砂糖を上納しているとしたら実に無理な扱いである。鹿児島県では数百年代の恩義もあり、島人も安心すべき道理もあったから無理な交易もできたが、これからはとても無理が出来る話ではない。ただいまも過酷に苦しむ島人であれば、よほど難渋を免れたく思うのはあるべきことと察せられる。島は不時凶行が到来しやすいところだ。その時は飛脚船を仕立てて救うこともできたけれど、今日ではそれも頼みにできなくなった。砂糖現物で上納しても、米八合と砂糖一斤の割合で納めるとか、これまでの交換より少しは仕組みを変えないと、人気を損し先行き必ず不都合を生む、これまで通りでは不条理である。県庁の申し立てであってもそのことを問いたださないと済まないことである。あと後、大きな害になることもあるから、条理が立つように世話をしてくれるよう、私からもお願いしたい。土持正照もここまで来てはっきりしないまま帰ったのでは、島中の人々にも申し訳ないことだと配慮しているので、どうか聞き入れてもらうようお願い申しあげる。(明治六年六月十九日。松方正義宛て)

 二つの手紙ともぼくの私訳なので精度は上げなければいけない。我ながら腑に落ちないところもある。特に、「鹿児島県において数百年代の恩義もこれあり、島人共にも安心致すべき道理もこれあり」の意味がよくわからない。ここではそれは置くとして、土持の嘆願に対して、奄美への砂糖収奪は不条理なものだから、続けてはいけないと言っている。

◇◆◇

 この二つの手紙には、約1.5年の間隔はあるが、何か、舌の根も乾かぬうちに正反対のことを言っているようにも見える。そして、この二通について、どちらが本来の西郷であるかというように議論されている印象を受ける。もっといえば、どちらが本来の西郷かという議論は、これだけにとどまらず、大島遠島の初期に、島人に蔑視を加えた西郷と、その後、酷い扱いに憤る西郷や、維新をなした西郷と西南の役を起こした西郷、敬天愛人と征韓論の西郷のように、西郷隆盛という人物につきまとっている。これは西郷的問題なのだ。

 ぼくは、これはどちらが本来の西郷かということではなく、どちらも西郷であると思う。たとえば「敬天愛人」はそれをよく示した言葉ではないだろうか。

 農耕社会を基盤にした政治形態の特徴は、天皇と民衆がそうであったように、専制君主と民衆との距離が無限大化されることと民衆相互の相互扶助の理想的な関係が共存するところにある。君主の専制も無限大の距離によって無関係化される一方、身近な人間関係は理想的な側面を持つ。西郷の言う「敬天」は、政治権力のことではないだろうが、無限大の距離を介して「天」と政治権力とは接近する。また、「愛人」はそのまま相互扶助の世界に通じるだろう。

 そうとらえると、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を素直にトレースしたものだ。しかしそこには西郷の特徴があり、西郷はそれを、「天」からではなく「人」に視点を置いて言ったことだ。ここで、視線は天から民衆に下ろされるのではなく、民衆と同じく天を仰ぐ方に向けられている。だから、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を、民衆の側から素直になぞったものだ見なせる。そしてここに西郷の魅力や人気の根拠があると思える。

 だが、西郷が政治権力者として自分を擬すれば、逆「敬天」の視点を持つことは想像に難くない。そしてそれは矛盾ではない。一方は、政治家としての西郷であり、一方は人間あるいは私人としての西郷なのだ。そしてこのあり方を支えたのはあまねく広がる農耕社会だった。ぼくは、西南の役は、そのあり方がもはや生きてはいけない政治形態としての死の始まりであったと思う。

 そうみなせば、桂宛ての手紙の西郷は政治家であり、松方宛ての西郷は私人である。実際、土持の嘆願を受けた西郷の手紙には、焦りが感じられる。しまったと、内心、思ったのではないだろうか。

 あるいはこうも考えられる。農耕社会型を基盤にした政治家は、地元への利益誘導を根拠にしている。西郷は奄美にとどまる時間が短かったにせよ、「愛人」を知った地である奄美には「地元」としての愛着を抱いただろう。西郷には薩摩と奄美という二つの「地元」があったのだ。そう考えれば、最初の手紙は、薩摩士族という地元を考え、次の手紙は奄美という地元を考えたものだ。しかし、ニ者は、利益誘導という視点からは矛盾した存在である。結局、西郷は薩摩士族に殉じることで最後の利益誘導を図ったのだ。

 どちらにしても、相反する二つの相貌は、どちらかが西郷なのではなく、どちらも西郷隆盛と捉えるべきだと思える。



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2008/08/22

三島物語-ウラトミ伝説

 名護は、「島民の抵抗」としてウラトミ伝説を挙げている。

 ウラトミは瀬戸内町加計呂麻島の生間の農家の生まれ。当時は薩摩藩の支配が始まったばかりで、代官の権力は絶大だった。十八歳の娘盛りのウラトミは島一番との評判が高かったので当然、代官(竿入奉行だったという説もある)の目に留まった。さっそく島役人が代官の「上意」を伝えにきた。ところがウラトミは一言のもとにこれを拒絶する。いくら口説いても首をタテに振らない。
 この代償は余りに大きかった。面目の潰れた代官と島役人はウラトミ一家だけでなく、地区全体に過酷まりない重税を課し、あらゆる圧迫を加えた。娘の貞操は守りたいし、世間への申し訳に困った両親は、愛娘を生きながら葬ることとし、わずかの食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟に乗せて流した。

(中略)
 数日後、幸運にもウラトミの舟は喜界町小野津に漂着した。やがてウラトミは村の青年と結婚、愛娘ムチャカナも生まれ、人もうらやむ幸福な日々を送った。ムチャカナも母にも優る美人だった。やがてムチャカナは島の男たちの評判を一身に受けるようになった。これが他の娘たちの妬みを買った。ある春の日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行った。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落とした。これを知った母ウラトミは、娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇に包まれた運命の幕を閉じた。

(中略)
 娘ムチャカナの遺体は数日後、対岸の奄美市住用町青久の海岸に流れ着き、青久の人たちが墓碑を建ててねんごろに弔った(後略)。(『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 代官の横暴に端を発するが、閉鎖共同体の嫉妬で幕を閉じる。痛ましいのは、代官の横暴に追われただけではなく、嫉妬によっても追われ、結局は共同体から弾き出されたことだ。

 ぼくが心惹かれるのは、この説話が世代をまたぎ、加計呂麻島、喜界島、奄美大島の三島を舞台にした物語だということだ。加計呂麻島が代官の横暴に追われる舞台、喜界島は難を逃れたウラトミが幸福を手にするが、娘のムチャカナが、ウラトミと同じ女性美によってふたたび難を受け死に追いやられる舞台、そして奄美大島は、ムチャカナを引き取り鎮魂する舞台になっている。ウラトミ伝説は、三島を世代をわたってつなぐ奄美物語でもある。外からの強制でしか奄美という共同性を見つけるのは難しいなかにあって、複数の奄美を語れる、これは話なのだ。

 この説話の痛ましさが消えないのは、奄美大島の青久で弔われるのはムチャカナだが、ウラトミはそうではないことだ。ウラトミの鎮魂は、この話を聞くひとりひとりに託されているのだと思う。



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2008/08/21

ケンムンは奄美人のいちばんの馴染み

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(『南島雑話』)

奄美の人々が「ケンムン」という名で登場させた妖怪は、砂糖地獄の抑圧からの解放と自由を求めて人跡未踏の地に逃避を切望してやまなかった多くの人々の願望を象徴したのだろうか。そうすると、ガラッパにも似た妖怪の「ケンムン」は、砂糖地獄の副産物だったことになる。言いすぎだろうか。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 これは、昭和五十年代にあったという奄美郷土研究会での「ケンムンは実在するか」という論争を受けた名護の言葉だ。ぼくはヤンチュをすくい上げようとする名護さんの考察に異を唱えるつもりは全くないのだけれど、ここはケンムンの名誉のために書いておきたい。

 ケンムンは黒砂糖が登場するより遥か昔から奄美にいる。沖縄のキジムナーと同様、古くから奄美人と付き合ってきた。砂糖地獄の副産物がケンムンなのではなく、奄美人の副産物がケンムンと言ってもいいくらいだと思う。ケンムンは奄美人のいちばん旧い馴染みなのだ。

 ただ、薩摩支配下にあったとき、この妖怪が、そうなりたい願望の対象になったとしても不思議ではない。そういう意味では、ケンムン的になりたいという願望を、猿化騒動に見る気がする。




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2008/08/20

ヤチャ坊よ、永遠なれ

 薩摩藩政下に、奄美人の原像を告げ知らせてくれたのはヤチャ坊だ。

ヤチャ坊は木の皮のフンドシを締め、昼間は海近くの洞窟の中や山中の木の枝に隠れていて、夜になると里に出てきて人家を荒らし回り、手のつけようがなかった。ある夜に海岸に繋いでいる舟を失敬して単身喜界島に渡り一晩で帰ってきたこともあったという。
ヤチャ坊は力が強く、動作も敏捷で超人的な「ターザン」のような男だったという。ごうごうと山の水音のとどろき以外に何も聞こえない。ここは彼の住むにふさわしい場所だ。
 ヤチャ坊はあるとき、漁師三人が舟揚げに困っていると手伝ってくれたらしい。ヤチャ坊は舟を運びながら、舟の中の一番大きな魚に日をつけて、素早くかっぱらってこれを足で砂の中に埋め、漁師たちが帰った後何食わぬ顔でこの魚を取り出し山中に持ち帰った。それ以来、彼がかっさらった魚の名前が「ヤチャ」(カワハギの一種)だったため、彼は「ヤチヤ坊」と呼ばれるようになったらしい。
 だが、ヤチャ坊は悪さばかりしているのではない。気が向けば病苦に喘ぐ村人に、こっそり盗品を配ったり、路傍で泣いている子に大きな握り飯を与えたりする義人的な優しい一面もあった。
 目に余るヤチャ坊の農作物荒しに困り果てた農民たちが「ヤチャ坊狩り」をしたこともあったが、農民たちは彼の一夜に二十里 (八十キロ)も駆ける超人的で敏捷な行動になすすべがなかったという。しかし農民たちは本気で「ヤチャ坊狩り」をしたのだろうか。「可哀想なヤチャ坊」と、いまもシマウタで歌われているほど親しみを込めて語られる彼だから、きっと本気の追跡劇ではなかったのではと思われる。

 「砂糖収奪」の激しい時代だからヤチャ坊のような現実逃避型の人物が現れても不思議ではない。素っ裸になってすべての拘束から逃れ、ヤチャ坊のように思うままに生きてみたいと思うのは誰でもあること。そうした庶民の夢を叶えたヤチャ坊に奄美島民が憧れたとしても当然だろう。奄美島民はいつまでも「ヤチャ坊節」を歌うことで、薩摩藩の砂糖収奪の厳しかった昔を、いまに反すうするのだろうか。(『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 ヤチャ坊伝は、実在の人としても伝説の人としての、似た人を知っているような身近な感じがする。たとえば与論には与論のヤチャ坊がいると思う。島全体が強いられる生き難さがあるからこそ、その束縛を離れた存在があってほしいという願望がヤチャ坊を生みだす。その願望があるから、ヤチャ坊狩りをしても追い詰めるまでにはいたらない。島唄にもなる。ヤチャ坊よ、永遠なれ、だ。

 あるいは、ヤチャ坊に愛着を感じるのは、彼が大島でいえばケンムン、与論でいえばイシャトゥのような土地の精霊に似ているからかもしれない。悪さもするが憎めない。ヤチャ坊が醸し出している雰囲気はどこか妖怪だ。人間化した妖怪がヤチャ坊なのだ。




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2008/08/19

猿化騒動

 名護は「島民の抵抗」として、猿化騒動を挙げている。ただ、これは誰が何をしたのかはっきりしない、「猿化騒動」が起こったという記述があるだけなのだという。

猿化騒動はどうして、どんなように起こったのかは不明だが、ただ「大島代官記」には、一八三三(天保四)年の項に、

  此年何国ヨリ出デ来タル侯ヤ猿化騒動ト名付シ書見得タリ、按ズルこ百姓之窮(状)ヨリ出デ来タリト見ユ、後年見合二書記

 とのみあるだけだ。「俺たちは人間でない、猿だ」と踊りくるったのだろうかー。ところが、奄美にはサルはいない。猿がいないのに「猿化騒動」というのはおかしい。それはどういう「書」に書かれていたのだろうか。諸国を巡る山法師が伝えたのだろうか。疑問点はいくつも出てくる。

 南海日日新聞の専務だった故籾芳晴さんの著『碑のある風景』は、「ここでいう書について"書本"という人もいるが、簡単な回覧用の書きつけではなかったか」と、想像している。

 藩命による砂糖収奪は少しも変わらず、空腹のままの農作業、強制労働は続く。このようなとき、祖先たちは見たこともないまでも〝山野を自由にかけめぐるサル〟に自分たちを擬し、俺たちはサルだ″といい切ったのではないか。居住を制限されたまま、ただ額に汗することだけが生涯の総てだった人々が、収奪する側も、自分たちも含めて〝サルだ〟といい放ったとき、悲しいまでの開き直りを感じる。まさに、最下層の人々が野に棲むサルに解放の姿を見たとしても、何ら不思議でない。それほど厳しい日々の積み重ねがあったということは知られてよいことだろう。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 この話は、シャリンバイで赤く染めた着物を着た老ヤンチュが、酒が進んだところで、クッカルと、アカショウビンの鳴き声を真似たというもうひとつの話を思い出させる。ただし、老ヤンチュはアカショウビンという身近な鳥に自分を擬したのだけれど、猿は奄美にいない。猿は物語や伝聞のなかでしか知られていない動物だった。人を離れ、自分を動物に擬するのは、現世超出の願望だが、見たこともない猿に擬したのは、何というか、動物というよりケンムンになりたかったのかもしれない。言ってみれば、妖怪化である。妖怪は、身近な異界の存在であり、人間に親しまれたり恐れられたりする。ケンムンと化して自分たちの存在を保ちたい。それが、猿化(さるばけ)の意味だったかもしれない。

 名護さんが、「猿化運動」を島人の抵抗として挙げる気持ち、分かるなあ。



 

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2008/08/18

大島への脱島

 徳之島では台風などの自然災害と相次ぐ疫病の流行で、生き抜くために奄美大島へ脱島する者が多かった。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 1755年 飢饉で、徳之島の農民3200人余が亡くなる。
 1772年 熱病などの流行で、徳之島の農民1700人が亡くなる。

 1753年の徳之島の人口は、22400人というから、1755年の餓死者は、約14%。当時の世帯人数は分からないけれど、7人に1人が亡くなるというのは、家族や身近な人が誰かいなくなるという割合で、すさまじい事態だ。

 こうした窮地を大きな引き金にして、徳之島からは大島への脱島が相次いでいる。脱島は重い。行政的には隣の町でも、ちょっと隣町までというのとは訳が違う。島は世界であり宇宙なのだから、島を抜けるというのは、世界が変わるに等しい断絶感があるはずだ。島に絶望しなければ、ありえない事態である。

 1745年に米ではなく黒砂糖で納める換糖上納制が敷かれる。ぼくたちはそのあとの、1777年の第一次専売制を砂糖収奪の大きな契機とみなしているけれど、第一次専売制を待たず、換糖上納制の10年後の1755年に3200人もの島人が亡くなっているのをみると、1722年以降の定式買入と換糖上納制による砂糖きびの単作が、農としての奄美の弱体化を招いたのが分かる。収奪だけではない、農の弱体化も被ったのだ。



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2008/08/17

琉球への脱島

 薩摩藩の強制的なサトウキビ単作で、台風など自然災害の多い奄美は不作による飢饉に見舞われた。そこで「いまより琉球時代の方が米も野菜も作れてよかった」と昔を懐かしむ島民の雰囲気さえあった。天災地変で飢饉や疫病の発生が多かった徳之島では特にその風潮が強かった。だが、琉球王国は百二十七年前の一六〇九(慶長十四)年に薩摩藩に無条件降伏し、その薩摩のいいなりになっている、とは彼らは知らなかった。そこで「琉球王が薩摩藩主より偉い」と信じていたらしい。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 二重の疎外をもたらした奄美直接支配と琉球間接支配を、奄美は政治的共同性として認識しているが、島人一般の認識としてあるわけではなかった。島人には、薩摩と琉球とはともに存在する政治的共同性だった。ところが、琉球とは政治的断絶の関係に置かれているので、思慕も起こりやすかったのである。

 そこで、島人の抵抗は、はじめ琉球への嘆願を目的にした脱島となった現われたのである。しかし徳之島の脱島組は沖永良部島で見つかり、説得され、やむなく島へ戻る。


 徳之島前録帳には、

  右栄文仁ハ勇気不敵ノ者、喜志政・能悦ハ強力者二アコレアリ

 と記して、この項を終え、栄文仁らの処分については何も書いていない。ただ、彼らが脱島者として処断され、七島に流罪されたことは民謡「能悦節」に次のように唄われているだけだ。

  栄文仁主と能悦と喜志政主と
  ナーみちゃり(彼ら三人)
  島のことじゆんち(島のことをしようとして)
  トカラかちいもち(トカラに行かれた)

 多分三人はトカラのどの島かに流罪になったのだろう。

 この時期の奄美を知ろうとするとき、記録がないということがいつも障害となって立ちはだかる。この場面も同様のことが言えるが、しかしそれと同時に、島唄は、その欠落を補うように、歴史を保存してきたことも教えている。しかも、この保存には唄であることによって情感も伝えたのである。


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