『奄美の債務奴隷ヤンチュ』の意義
自分の関心の赴くままわがままに引用して、名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』を辿ってきた。
この本なしに家人(ヤンチュ)を知ろうとすれば断片的に終わるか膨大な時間を費やす必要があっただろう。誰も手をつけていないテーマを掘り下げたことはこの本の意義として強調したい。名越は肌理こまやかな目くばせもしていて、沖縄や鹿児島に同様の存在はいないか調べていた。また、「島民の抵抗」では、「猿化運動」のように一文の記録しかないものをすくい上げたり、琉球弧の森の精霊ケンムンまで動員したりしているのには、島人を鼓舞したい気持ちが伝わってきて、胸に沁みた。
最後もわがままに、あとがきへのコメントで終えようと思う。
資料を集め出したのは〇四年秋ごろだった。県立図書館や同奄美分館、鹿児島市立図書館に何度も通い、資料になりそうなものは手当たり次第収集した。本格的に現地奄美大島入りしたのは〇五年一月で、出水市の元高校教諭の田頭寿雄さんの運転で一週間、全集落をくまなく回り、写真撮影から始めた。結局、奄美には三回渡った。徳之島や沖永良部島でも現地苦した。さらに同じ薩摩藩の侵攻を受けた沖縄や宮古島にも飛んで「ヤンチュとの比較」を試みた。やはり沖縄もヤンチュと同じ“ンザ”という奴隷身分の人たちが苛、人身売買か存在したのをつかんだ。宮古島など先島諸島は、薩摩藩が奄美を見るように沖縄本島から差別されていたことも分かった。
この本の足を使った考察のおかげで、ぼくたちはヤンチュをめぐるエピソードを身近なものに感じることができるのだ。
結論としていえることは、藩政時代に薩摩藩が奄美で行った植民地政策が、ヤンチュ大量発生の根本原因ということだ。薩摩は奄美侵攻当初は自立農家の育成を第一に掲げてヤンチュの増大を防いでいた。そのうち大坂市場で高く売れる砂糖の魅力に傾き、四十万両という「宝暦治水」の莫大な出費や島津重豪の開化政策などで藩財政が火の車になった。この財政改革のため、一八三〇(天保元)年の調所笑左衛門広郷の「天保の財政改革」が実施されて、「黒糖は改革之根本」と位置づけられて奄美の人々の岬吟がさらに増した。
これを受けると、薩摩の植民地政策は、家人という債務奴隷を生むほどの砂糖収奪により自立経済力を奪い、二重の疎外によりアイデンティティを奪った、と整理することができる。
薩摩藩は膨大な藩財政を立て直すには奄美島民が犠牲になってもやむをえないとでも考えたのだろう。当初の志を捨てて自立農民の育成より、衆達層の大規模租放経営で手っ取り早く砂糖を生産できる道を選んだ。一方、衆達層は薩摩藩の与える一字姓と郷士格身分をめざして砂糖献上をせっせと続ける行為が幕末期には顕著になる。
「犠牲になってもやむをえない」も何も、もともとそれが狙いで侵略しているのである。ぼくたちは、侵略後の3世紀をかけてその目的が実現するさまを振り返っているわけだ。
そのため、奄美の耕作地はサトウキビ一色にされ、島民が作った砂糖は一片さえも島民の口にされず、すべて藩が独り占めした。奄美島民は山奥の「隠し畑」で収穫するサツマイモで餓えを凌ぐ毎日だった。ひとたび台風や日照りが続くと、ソテツや山野の草の根で命をつなぐ。それでも数年も続くと大量の餓死者を出すのだった。決められた量の砂糖が上納できない農民は衆達から借財して債務が拡大、ヤンチュ身分に転落するしかなかった。
ヤンチュの大量発生は、収奪の強度に比例しただろう。
もちろん、藩もヤンチュの増大に手をこまねいていたわけではない。幕末期の一八五五(安政二)年に「三十歳に達した膝素立は身代糖千五百斤で自由になれる」という藩命も出している。しかし、それは遅きに失した。その実効はほとんどなかった。奄美の郷土史研究者の弓削政己さんによると、この四年後の安政六年に身代糖を支払ってヤンチュ身分から自由の身になったのはたったの男女三百四十九人だけだった。逆に十九人がヤンチュに転落しており、差し引き減少したのは三百三十人だった。
1500斤は、900kgである。そんな量、そうそう用意できるわけはない。349人はむしろ多く見えるくらいではないだろうか。
薩摩藩の台所は、奄美の黒糖収奪で赤字財政から見事に立ち直り、幕末には逆に余禄が三百万両にもなり、京都、江戸、国元にそれぞれ百万両ずつ積み置かれた。国元の百万両は西南戦争の軍資金に充てられた、という。つまり明治維新も、国内最後で最大の内乱といわれる西南戦争も、奄美の黒糖がなければ実現できなかったのである。日本の近代化は奄美の犠牲の上に成り立っているといっても過言ではなかろう。
奄美は日本近代の縁の下を支え、近代幕開けの舞台を用意したのである。
なのに、明治の世になっても鹿児島県は奄美の砂糖を手放さず、「大島商社」をつくって封建の世そのままの〝専売制″を続けた。それを続けさせたのは何と西郷隆盛の提案だった。「勝手販売」を訴える嘆願団は谷山の監獄にぶち込み、挙句の果ては若い嘆願団員を強制的に西南戦争の西郷軍に従軍させて八代の戦いで六人を戦死させている。さらに渡辺千秋知事は一八八七(明治二十)年、県議会に「大島郡経済分別に関する議案」を上程し、これが可決された。これは「県予算から奄美分を切り離す」という〝奄美切捨て政策″で、この不条理な県政は約五十年間も続き、奄美の近代化はさらに遅れてしまった。
西郷は、大島商社を提案したというより、大島商社の提案に、大蔵省の干渉に注意せよというアドバイス付きで賛意を表した、あるいは後押ししたというのが正確だと思う。砂糖収奪と二重の疎外の永続化を図ったのは、渡辺千秋である。
このように奄美の歴史をみると、その根底に「島差別」を感じるのは著者だけだろうか。県政の平等な発展のためには、差別された島民の声をもっと謙虚に聞く耳が必要だと痛感した。〇九年は薩摩藩の「奄美侵攻四百年」にあたる。それに向けて今後、各種の奄美論も活発化するだろう。この拙本がその〝きっかけ″の一つになれば、望外の喜びだ。
「島差別」と呼ばれているものは、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外として抽出することで、関係の構造として捉え直すとができる。差別は、二重の疎外の一態様である。
◇◆◇
さて、『奄美の債務奴隷ヤンチュ』には奄美の年表(「薩摩藩の黒糖支配とヤンチュ関連年表」)がついている。また、第一次定式買入や換糖上納制などの解説もあり、これらは他の奄美関連書との重複も多い。けれどそれでいいのだと思う。名護は家人(ヤンチュ)の具体像を浮かび上がらせることで奄美の歴史像を更新しているのだ。ぼくたちはこうしてその都度、新しい知見を加えながらくり返しくり返し語ることによって、明るみにしていかなければならない。何をか。知られざる奄美の歴史を、だ。
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