カテゴリー「30.『ドゥダンミン』」の19件の記事

2008/03/26

イダウワーリヨウ

 「イダウワーリヨウ」は、「早くいらしてください」、そんな意味になると思う。

与論では自分の家以外のところで落命すると、葬式の朝、神官と喪主はその場所へ行って魂をお供してくる。今は便利な携帯電話があって、到着時間を正確に知らせてくれるから、親戚の者どもは門の外にまで出て出迎える。死者の名前を呼び「イダウワーリヨウ(お帰りなさい)」と泣き声とともに口々に言いながら迎え入れる。傍観者には見えないが迎える人たちには、その姿が見えているような振る舞いの光景である。勿論亡骸は前日から家の中に横たわっている。
 生前親しかった弔問客がくると、亡骸の耳に顔を近づけて、「何某がみえたよ」と教える。客も死者に話し掛ける。旅から兄弟、子や孫など肉親がくると「ニャマ ウレー○○が来たよ」と教える。食事をするときは枕辺の祭壇にお食事の膳を供え、祭り人が食事をはじめる詞を奏上し、みんな打ちそろって礼拝してからはじめる。体が動かず、口が利けなくなっただけで、そこに「います」がごとくに進められる。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ぼくの記憶のなかだと、祖母(ぱーぱー)の振る舞いを見ていると、まるでそこにいるかのような雰囲気が強く漂いました。神棚に祈る時の、話しかけ方や拝む手の挙措。神を迎え見送るときの手のやわらかな仕草。ぱーぱーがすると、まるで、そこに本当にいるように見えるんです。だから、自然と厳かな雰囲気になったものです。

 「傍観者には見えないが迎える人たちには、その姿が見えているような振る舞いの光景」は、魂は人から分離することができ、かつ人と同じ価値の存在であるという世界観のなかに生まれます。そしてそこでは死は生の向こう側にあるというより、生とつながっています。だから、誰が来たよ、と声をかけるし、「体が動かず、口が利けなくなっただけで」そこに「いる」と感じているわけです。そこに「いる」と考えているのではなく、そこに「いる」と見なしているのでもなく、そこに「いる」と感じているのだと思います。だからこそ芝居がかっているわけではない自然な仕草なのに霊的身体を浮かび上がらせることができるのでしょう。

 ぼくは、こんな世界観のなかにある習俗の優しさに心惹かれてやみません。


 さて、これにて、『ドゥダンミン3』の読書は終わります。『ドゥダンミン3』も、やっぱり、与論の漁の話、習俗の話が最高でした。もっともっと与論の話を読みたいものです。


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2008/03/25

島流し

 『ドゥダンミン3』読書も終盤です。今回は、心乱される響きのあるタイトルの「島流し」というエッセイ。

 薩摩藩から(文化三年二八〇六から嘉永五年二八五二までに)大島郡に遠島されたのが、大島一二八九人、喜界四〇〇人、徳之島七七一人、永良部三五人、与論六人である。薩摩藩本土からは、寛延三年(一七五〇)の頃から始まり、明治八年通達によって遠島人制度が廃止になるまでの百二十五年間は、毎年、各島々の人口の大体百分の一の割合で配流されていた。従ってその数は数千人を超えていた。与論の流人が極端に少なかったのは、代官所がなく、監視不行き届きのため配流しなかったからである。(以上は奄美の風土と人と心、水間忠光著二一五貢から)

 島流しは、西郷隆盛の例に見られるように罪悪人とは限らなかった。遠島人の知識教養において上中下があった。上は私塾を開き、地域の子どもに読み書きを教えた。永良部にはこうした私塾が二十数カ所あったそうである。ここで学問尊重が植え付けられた。この恩恵は絶大だと言っても言い過ぎではない。知的財産だけではなく、本土の文化、気質などがもたらされ、後世にも受け継がれているからである。島にとって「人財」になった。下には島民とトラブルを起こす「大罪」もいた。

 遠島人の中には島の人と結婚してそのまま居付き、子孫を残し、生涯を終えた者も少なくない。
 薩摩藩政下二百五十八年間で、大島四島(喜界、大島、徳之島、永良部)に在勤した代官は約四百五十名、横目、付役を加えた合計は約三千四百名である。代官が滞在している間、身の回りの世話ということで島トゥジがいた。代官は、藩主の名代として絶大な権限が与えられていた。島トゥジになるのは、極めて狭き門であった。それは島民による給与があり、髪には銀かんざしを挿すことが出来、家族・一族は優位に過されたからである(奄美の風土と人と心、二百十三頁)。

 しかし、いい話ばかりではなく、いやがるのを代官が強引に島トゥジにしようとした悲劇物語りもある。
 こうした島トゥジとの間に出来た子孫は莫大な数になるであろう。その中から明治以降活躍した有名人士は多い。
 代官所が与論に置かれなかったために、遠島人を含め「人財」に恵まれなかった。与論と永良部の合併問題があったときに、代官所(役場)がなかったときのこの歴史がドゥダンミン男の頭をよぎった。        平成十八年十月記。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ぼくは、ドゥダンミン男さんのように、代官所がなかったために「人財」に恵まれなかったとは全く思いません。これが、自分たちを劣性に置き、本土の人を優性に置く島人の哀しい心性と言えばいいのでしょうか。ぼくはむしろ、このエッセイに痛ましさを感じます。

 来訪神がしっかり存在し貴種流離譚がリアルに感じられる離島の環境のなかで、「遠島人」も「来訪神」や「貴種」のように見做されているようです。ただ、旅の人(たびんちゅ)にしても、「貴種」や「来訪神」に向かうようにもてなす気持ちはぼくも共有していたので、この心の傾斜は理解できます。

 けれど、その心の傾斜と歴史の理解は分けて考えなければなりません。与論は、「代官所がなく、監視不行き届きのため配流しなかった」ために「流人」は極端に少なかったが、そのために「私塾」も無く、そのために「人財」が育たなかったことを指摘するなら、同時に、島人とトラブルが起きる余地も無かったし、島トゥジをめぐって突然、優位劣位が持ち込まれる関係の不自然を感じることもなかったこともまた、同時に強調されなくてはならないでしょう。こうした歴史は、現在のゆんぬんちゅ(与論人)の純粋さ、世間知らず、喧嘩や自己主張は苦手という優しい性格の背景に脈々と受け継がれていて、それは現在にあっては、稀な美質と言うことだってできるとぼくは思っています。

 自分たちを劣性と見做す眼差しのなかで、こうした美質を看過してはいけないでしょう。「代官所がなく、監視不行き届き」の状況は、他の奄美の島々に比べてずいぶん安穏とした世界であったことを意味するのではないでしょうか。そのことを、ぼくは素直によかったなと思います。

 とりたてて取るもののない小さな島だからこそ与論は時の権力に無視されてきました。そのおかげでのんびりできたことが現在の与論の人となりに引き継がれているとしたら、それはかけがえのなさ与論らしさのひとつだと思います。「代官所が与論に置かれなかったために、遠島人を含め『人財』に恵まれなかった」と言う必要は全くなく、根拠のない劣性意識は、もう黒潮に流してもらえばいいと、ぼくは思います。



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2008/03/24

サーシマグトゥ

 サーシマグトゥは「逆さごと」のことだと思う。

サーシマグトゥ(逆さまこと)
 親友以上の付き合いをしている人が、危機的状態を脱して元気に退院してきた。父親は早くに他界し、高齢の母親が人一倍慈しんできた息子だった。横着者のトゥラは、そのお母さんに「サーシマグトゥ(親より先に子が死ぬこと)にならなくてよかった」と言ってしまった。
お母さんは一瞬戸惑い「ガシティボ(そうなんだよ)」といった。トゥラは悪戯の過ぎたと後悔したが後の祭。快気祝いの酒がまずかった。

 その一年数か月後、こともあろうにその友が急死した。トゥラは、母親にかける言葉なく、顔を見ることもできなかった。数十年後の今はそのとき言った言葉が、針になって心に突き刺さったままである。

 サーシマグトゥとは、死や死にまつわることである。①あの世はこの世の逆さまで、サーシマグトゥと忌み嫌われる。着物を裏返しに着たり、えりの前あわせが反対であったり、北枕にしたり、ちょっとしたことでも気にする人は忌み嫌う。②子が親に先立つことは順序が逆でサーシマグトゥの最たるもので、親不孝の最たるものである。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 サーシマグトゥは葬儀での「逆さごと」が、日常的な言葉として定着したもののように見えます。ところがその中でも、「子が親に先立つこと」をその最たるものとして取り出しているのは、この島の個性でしょうか。

 サーシマグトゥについて、

三途川(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。

 という解説を参照して、これを本土への仏教流布後に与論にも伝わったものと見なせば、その歴史は比較的浅いことになります。しかし、サーシマグトゥを、「子の苦」というより「親の痛み」として受け止めているのは、与論的な受容の仕方のようにも思えます。今回の『ドゥダンミン』エッセイもそうですが、子に先立たれることの多かった背景を想像すると、サーシマグトゥという言葉が痛切に響いてきます。

 「サーシマグトゥ(逆さごと)」の琉球弧の分布を知りたくなりますね。



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2008/03/23

マーブイユシ

 抜けた魂を込めることを沖縄ではマブイグミ(魂込め)と言ったと思う。『ドゥダンミン』では、それをマーブイユシ(魂寄せ)と呼んでいます。今日は、そのマーブイユシの話。

 マーブイユシ(霊魂寄せ)
 弟は仮死状態で生まれてきた。産婆である伯母が背中をさすり、両足を持って逆さにしてたたいて蘇生させた。ヤーナー(家名)は、マサとつけた。ビニャ(虚弱)で育ちが悪かったので、名前を頑丈なウシ(牛)に後年付け替えた。
 彼が幼い頃、夜中に何かにおびえたように泣き叫んだ。それが二日続いた。祖母が「フヌワラビヤー、マーブイヌガチャイ。マーブイユシシリバドゥナユイ(この子は霊魂が抜けている。それを呼び寄せなければいけない)と言って、おむすびを数個作り、芭蕉の葉に包んでテル(竹かご)に入れて、泣き出した前日に遊んだトゥマイの浜へ行った。
 沖に向かって大声で「ワー マサガマ マーブイ ハックゥヨー(私のマサの霊魂よおいで)」と叫びながらおむすびを投げた。ナーバマ、湯浜と場所を移して同じことをした。  祖母はマサガマの目をみつめて、「マサガマ マーブイヤキチヤクトウ、イダウプヤカプドゥイリヨー(マサの霊魂が戻ってきたから、大きく成長しなさい)と言い聞かせた (言霊入れした)。その晩から不思議に泣かなくなった。それから日に日に元気になった。今日まで大きな病気をすることなく、東京で定年まで教員を勤め上げてなお元気でいる。

 トゥマイの浜でマーブイユシをしたのは、その子が前日遊んだ場所だからでしょうか。抜けた場所で寄せるのか、それとも寄せる場所は海と決まっていたのでしょうか。沖に向かって叫ぶ祖母の姿は真剣そのもので、こうした光景が何十年も前にはあったことを思うと、いとおしくなります。

 ここにいうトゥマイ、ナーバマ、ユバマは、映画『めがね』のあの浜なのだと言えば、与論に来たことがない人もその絵を想像できるかもしれません。
 

(マーブイユシその2)
 トゥラの長女が三歳の時、その母親は急逝した。葬式のとき親子の永遠の別れになるからということで、出棺前に、ふたを開けて顔を見せた。とたんに「わあ!」と大声を上げると同時に飛び退いた。そばにいた女の先生の首に飛びすがり泣きわめいた。女の先生が外へ連れ出してあやしたが泣きやまなかった。トゥラは余計なことをしたと後悔した。葬式が終わってもその先生から離れようとせず、手を焼いた。

 与論に帰ってきてある晩、その長女が夜中いきなり飛び起きて、夢遊状態で泣きじゃくった。何をどうしても泣くばかりである。翌日の夜も同じ状態になった。祖母(私の母)が、「フヌワラビヤーマーブイヌガチャイ、マーブイユシシリバドゥナユイ」 と言った。

 翌日、早速おむすびを作り、ソイ(竹製のざる)に入れてトゥマイの浜に行った。「ワー雅子マーブイハックーヨー(私の雅子の霊魂おいでよー)」と言って海に向かっておにぎりを投げた。場所移動をして繰り返した。隣のナー浜へ行って同じことをした。雅子に「よし、もう雅子のマブイを呼んだから、心配ないよ、大丈夫」と行って抱きあげた。トゥラは雅子に「おんぶして帰ろう」と言っておぶった。

 その晩からぐっすり眠り、二度と泣くことはなかった。母は、祖母がしたような「マーブイユシ」をした。与論での昔のマーブイユシは、祖母のやり方と違って、ヤブを頼んで家でしたと伝え聞いている。祖母が北の海に向かっておむすびを投げたのは、昔日本各地であったという「魂呼ばい」が北に向いてしたからだろうか。それとも、海の彼方のニライ・カナイ信仰からだろうか。おむすびはご馳走なので魂も欲しがるそうである。父や私は、祖母や母がすることをただみているだけであった。皆さんは、俗信だと一笑に付すだろうか。
               平成十九年四月記(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 笑うわけがありません。つい数十年前にも、魂が身体を抜け出して自然につくことがふつうにありえた与論の世界の奥行きがいとおしくなるだけです。いまはいまで、ぼくは自分に与論(ユンヌ)のマーブイユシをしたくてなりません。



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2008/03/19

イシャトゥ

 与論精霊(スピリット)のなかで馴染みナンバー1は、イシャトゥではないだろうか。このブログでもこれまで何度も登場してきています。今回は、『ドゥダンミン』版イシャトゥです。

 《イシャトゥ》
 Y氏は、ある晩、岩の上から投げ竿で釣りをしていた。魚がかかった。するとそこに灯りが見えた。デントウアイキ(懐中電灯を使った漁)の人だと思い、「ヌガ、ワヌワジャクシュルムナァー(何で私の邪魔をするのか)」と言った。すると灯りが無数に増えて、さざ波さえ立ってきた。
 ああ、これはイシャトゥだなあー、と思った。そう思ったとたん恐怖でがたがた震えた。あわてて釣り糸を断ち切り、今まで釣ってあった魚もうち捨てて這々(ほうほう)の体で逃げ帰った。その灯りは南側の岩の所へ入っていった。気が付いたら被っていた帽子もなかった。
それ以来、魚釣りは一切止めた。
 Y氏が五十歳代のときの実体験として語ったことである。

 母が若い頃、さとうきびの搾りがらやススキを束ねてたいまつを作り、いざり漁をしたそうである。ある闇夜、弟の静治と漁をしていたら、小人が小さな明かりをつけて、二人の前になったり後ろになったりして歩いていた。気にかけながら、二人とも押し黙ったままでいた。

 目の前に大きなシガイ(手長たこ)が手を広げ、真っ赤になって座っていた。錆(もり)で突き、頭上にあげ「シガイとった」とやや大きな声で言った。弟にというより怪しげなものに聞かせるためであった。

シガイはたいまつの明かりを浴びながら、長い手で盛んに蛸踊りをした。その後小人は姿を消した。

 帰宅して弟に「小人を見たか」ときいたら、「うん、見た」と言った。
 ばあさんが、「ウワーシギヤー、イシャトゥエータイ」と言った。

 姉が十歳の頃、母は姉を連れて寺崎海岸にいざり漁に行ったそうである。すると舟に乗って近づいてきて「トゥラリュイヰー」といってから去っていったという。あれは「イシャトゥだった」と確信的に母が晩年話していた。

 イシャトゥは想像上の妖怪だが、イシャトゥの体験談は与論でいろいろ語られている。岩やウシクの大木に棲んでいて、夜、海に行く。

 悪口を言ったら仕返しをされると恐れられている。片足でケンケンをして歩く、ハタパギと言われる妖怪もいる。
 これらに似た妖怪は、大島ではキンムン、沖縄ではキジムナー、本土ではカッパである。
              平成十八年四月記。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 イシャトゥは人に悪さをする。与論の人はイシャトゥを恐れ、海で襲われて命からがらに逃げ帰る経験をしている人も多い。座敷童士のようなおどけた感じはない。もっぱら海にいるのかと思ったので、「岩やウシクの大木に棲んでいて、夜、海に行く」という生態は新鮮な知見です。与論にケンムンやキジムナーはいないと思うのですが、大木に住んでいるなら、イシャトゥは海イグアナのように海上に適応したケンムン(キジムナー)なのでしょうか。

 けれど、「イシャトゥは想像上の妖怪」と言って済ませないほうがいい。それは、海上でリアルな体験を与論の人が共有している限りにおいて、存在しているわけです。イシャトゥ話が尽きない限り、与論の自然は大丈夫だとも言えるのです。


 この機会に、これまでのイシャトゥ記事も載せておこう。

 「アーミャー - 赤い猫」 
 「海霊イシャトゥ」



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2008/03/18

ウンワラビ

 直訳すると「海の子」になる「ウンンワラビ」のお話。

ウンワラビ
 ウンワラビは、人魚のことだと言われている。人魚は上半身が女、下半身が魚の想像上の生物とされ、ジュゴンがそれに近いと思われている。沖縄では犀漁(ざんのうお)と呼ばれ辺野古沖や名護湾沖で見つかっている。天然記念物である。
 与論ではウンワラビが釣れたときには、ウンパフ(海に小物を入れて持っていく二十センチ四方程の木箱)の中に入れて泣かさないようにする。そのためにウンパフを持って行く。泣かすと台風が吹くと恐れられている。ウンワラビをいじめたり、陸に揚げてもいけないとされている。この話からすると人魚とは別ではないかと思われる。
 K氏があるとき、ウンワラビを釣って浜に置いていた。それをある婦人が持ち帰り、ウプナビ(口の広い大きな鍋)で煮て豚に食べさせた。すると与論の空がにわかにかき曇り、大風が吹き荒れ、災害が起きた。その日、沖永良部に電話をかけて天気をきいたら、風のないべた凪だということだった。それ以来、K氏は海に行くことをやめたそうである。K氏は糸満漁業の経験もある海達者な人である。この話は、K氏本人が実体験として話したことである。
 与論でいわれているウンワラビは、ワラビ(子ども)という名前が付いているし、ウンパフにはいる程の小さなものだから、ジュゴンとは異なるものではなかろうか。ジュゴンの子どものことなのか、はたまた海にいると信じられている妖怪なのか、誰か教えてもらいたい。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 ウンワラビを釣って豚に食べさせたら、「与論の空がにわかにかき曇り、大風が吹き荒れ、災害が起きた」。ここを読んでいる時には、すっかり昔の民話のように思っているのに、沖永良部に「電話した」と出てきてびっくりします。そう、いまどきの話なんですね。現代の民話です。都市は都市伝説を生みますが、与論には昔ながらの民話の世界がすぐそこに広がっているんですね。

 与論には森がないので、キジムナーやケンムンなどの樹木の精霊(スピリット)は育ちにくいけれど、その分、ウンワラビにしてもイシャトゥーにしても、海の精霊(スピリット)は豊かに育つ気がします。海の子、ウンワラビ。会って見たいですね。


追記
 康三兄さんには、ウンワラビはボウボウのことではないかと教えられました。

 ボウボウ

 ボウボウは「ぐうぐーぐうぐー」と鳴くそうなので、「泣くウンワラビ」と符合していますね。海の精霊(スピリット)の背景には、現実の魚の存在があって、それが精霊(スピリット)のリアリティを支えるのかもしれません。



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2008/03/13

シニグ道

 以前、盛窪さんがシニグ道を記録したいと書いていて、とても嬉しくなりました。

 ※「シニグクとアマミク」

 シニグ祭のときに通るシニグ道は、与論島の民にとってとても重要な道です。『ドゥダンミン』でも触れられています。

 以前はシニグ道(神道)を通ってハジピキパンタ経由でターヤパンタまで行ったということだが、引き継いでないので道順もわからず、しかも道を違えることはできないこととしていたので寺崎の地だけで祭るのみにしたということである。
 寺崎シニグ道は、二年に一度行われるシニグのときだけ通る神道である。特殊な道で通るのがとても難儀だったという。クルパナシニグは、増木名池を通らなければならなかった。水かさが増しているときは、荷物を頭に載せて胸まで水につかって渡ったという。
 最初に開発祖神が与論島に上陸したのは、赤崎だといわれている。その次は、黒花と寺崎だといわれ、その祖神が通って行った道がシニグ道だといわれている。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 「引き継いでないので道順もわからず」という与論ぽさが何とも残念ですが、引き継がないと道順が分からないということのなかにシニグ道の性格もよく表れています。それは必ずしも日常的に使っている道ではなく、主に口承で、祭儀のときの反復によって伝承されてきたから、祭儀に参加できない引き継げないとなった途端に復元が困難になるということなのでしょう。

 シニグ道は、与論島の東西南北から上陸した島の民の移住の足跡を記憶に封じ込めたものに違いありません。その道を辿れるということは、島の歴史を辿れるということでもあるのです。寺崎シニグ道は、もう叶わないかもしれませんが、それでもいつか辿ってみたいと思うシニグ道です。



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2008/03/10

グー

 『ドゥダンミン3』を続けます。今日は、「グー」です。「グー」といえば、沖縄ではクジラを指すと思いますが、与論では、「グージャー」となっていました。「グー」はどういう意味でしょう。

 与論語で友達のことを「ドゥシ」又は「アグ」という。アグは、「合う具」の「う」が脱落してアグになったと思われる。
 グー=具。
 料理では、みそ汁や雑炊に入れる野菜・魚肉のことを具と言う。豆腐にイウガマをのっけると酒の肴にもってこいである。下駄や草履のように対をなすもの、蛤やアナグーの二枚貝、セットや組み合わせになっているものなどをグーといい、片割れをハタグーという。グーには「良くあう」意味が含まれている。
 シャコ貝のことを与論語でアナグーという。アナグーとは穴によく合うということである。穴に合うというより、実際は自分で大きさに合わせて穴を作っているのである。
 「グーナティ」、「グーナユン」と言えば「夫婦になる」ことを意味する。最も現代では通用しないかもしれないけれど。年頃の成年に「アグ、トゥメーティクー」といえば、結婚相手を接してこいという意味である。古代語が今も残る与論語である。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 グーを考えるのに、アグに遡るなら、アグは、「首飾り」から来ていると、去年、考えました。

 ※「アグはブローチ」

 これは、「日本国内には海岸や河川などの、水に縁のある場所にアゴやアンゴの地名」があるが、その由来はマレー語にある、アゴは「頸飾」、アゴックには「ブローチ」「珠数の頸飾」から来ているのではないかという鏡味完二の『日本地名学』から引いたものでした。

 この地名は最初は真珠などの飾玉を採集する海岸に命名せられたものが、そこから真珠のない海岸に移住した漁夫らを呼ぶ名ともなって、そこには地名の根が下されたと考えられる。青森県の方言に「漁夫仲間」を指して、Akoというのがある。(鏡味完二『日本地名学』)

 この説を教えてくれた牧野哲郎さんはそこから連想して、徳之島南端の阿権(アグン)、竜郷の赤尾木(アーギ)、竜郷、瀬戸内のアンキャバ、糸満の阿波根(アーグン)、与論の赤佐(アガサ)などを同じ系列と捉えていました。

 これは今見ても面白い連想だと思います。飾玉になる真珠を採集した海岸名は、次に真珠の取れない海岸に移住した漁夫の名称になる。それは漁夫仲間の意味にもなる。こういう経過を辿ると、アゴは、海岸名から漁夫仲間の意味になり、ついで、友達そのものの意味になったと解釈すると、与論でいう友達のアグにつながります。

 するとアグ(友達)は、アガサ(赤佐)の海岸名を由来は同じだということになります。この連想、やっぱり今たどっでも面白いですね。

 で、「ドゥダンミン」のアグ考と対比してみると、グーは「道具」ではなくて、「首飾り」のアゴからの転訛したアグの「ア」が脱落したものと見做すことになります。すると、グーには「良くあう」意味が含まれるのも、「グーナティ」、「グーナユン」が「夫婦になる」ことを意味するのも、素直につながります。

 「グーナユン」なんて与論で使われると楽しいでしょうね。



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2008/03/09

イイジマハンドゥーグワァ

 久しぶりに『ドゥ・ダンミン』の世界に入ってみます。心が波立つときには、昔の与論の話が心地いいですから。

 イイジマハンドゥーグワァ 子どもの頃、沖縄から来る旅芝居を祖母に手を引かれて見に行った記憶がある。那間の夜学(公民館を当時夜学といった)で公演があった。木戸銭を払って入る。演目に「イイジマハンドゥーグワァ」という実話にもとづいた恐ろしい悲恋物語があった。次はその概要である。

 伊江島の島村屋の伊江親方色館の息子にカナヒートいう若者がいた。あるとき、カナヒーは綿の買い付けのために辺土名へ渡った。辺土名滞在中にカナヒーは美女ハンドウーグワァを見染め恋仲となった。二人は若い血を燃やして青春のロマンにふけった。

 だが、カナヒーは伊江島に妻子があり、ままならぬ身の上。伊江島ではカナヒーの帰りが長引いていると身内の者は心配し、まもなくカナヒーは叔父によって島に連れ戻された。最愛のカナヒtとの仲を裂かれたハンドゥーグワァはつのる思慕の情に身を焼き、悶々の日々を過ごしていた。が、ついに思いあまって、カナヒーの真情を確かめようと伊江島へ渡る決心をした。こうしたハンドゥーグワァの一途な気持ちに同情した伊江島のシンドゥスー(船頭主)は彼女を島まで連れ帰り、親切に面倒をみてやった。

 島に渡ったハンドゥーグワァは愛するカナヒーとの再会に胸躍らせながら島村屋を訪ねた。ところがカナヒーの態度は冷たかった。あまりのひどい仕打ちにハンドゥーグワァは失望して、島村屋の向いの松林へ入り、自らの黒髪を首に巻き付けて若き命を捨てた。

 ハンドゥーグワァの亡霊が島村屋を襲うようになった。夜な夜な島村屋の家族を苦しめ、悩ました。食事をしていると、お膳が宙に浮いた。家畜も死んだ。数々の不吉な出来事のうちに島村屋の子孫は絶え果てた。反対に船頭主の子孫は代々栄えた。(沖縄村の伝説、青山洋二著、那覇出版社)全てヤンバル語で演じていたが聴衆はよく分かっていて、泣き笑いしていた。(『ドゥダンミン3』竹下徹)

 イイジマハンドゥーグワァは、「伊江島ハンドー小」という字を当てる沖縄の歌劇です。この歌劇は、念じることが世界を動かすという呪いが生き生きしていた琉球弧の世界を伝えてくれます。でも、ぼくは近所の伊江島発祥の歌劇が与論島にも芝居としてやってきた事実に、歌劇の恐ろしさとは別に、心が和みます。こんな芝居を観にいけた、竹下少年をうらやましく思います。身体の記憶として沖縄とのつながりを持っているなんて、いいですねえ。


 今日はヨロンマラソンの日。島はいまごろ、完走後の宴なんでしょうね。楽しそう。



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2008/02/19

アマン

 『ドゥダンミン3』で、「ユンヌヌパジマイヤアマンから」という昔話について、「アマンはヤドカリのアマンのことではない」と解している。でも、これは、やっぱり、アマンのことだと思う。

 「ユンヌヌパジマイヤアマンからテューサ(与論の始まりはアマンからだそうだ)」という昔物語を読んで、思わず 「ウソー」 と言いそうになった。それは認識不足で、このアマンはヤドカリのアマンのことではない。
 アマは、辞典に海、海女、海人と出ている。物語り中のアマンは、アマビト(海人)を言ったのであろう。赤崎の小字名に、アマンジョウがある。またアマンジョウゴウという神井戸がある。ここで言うアマンは「海人」のことではないかと思われる。ここの地域は与論に最初に上陸した人々が住み始めたところだといわれる。その近くのウワイグスク(上城)遺跡は発掘調査によって住居跡だったことがかなりな部分明らかになっている。「アマンジョウ」のアマンとは、アマン自身が言ったのか、それよりも先に住んでいた人が言ったのか。
 「与論の始まりはアマンから」という昔物語りの「アマン」をヤドカリの与論語名アマンと勘違いするような脳タリントゥラの連想である。お笑いあれ!
                      平成十八年九月記

 アマンジョーのことは別にするとして、大丈夫、トゥラは、勘違いしたのではなく、アマンはヤドカリのことだ。

 たとえば、与那国島には、陸地を見つけた人間が、住めるかどうかを確かめるために、弓矢でヤドカリを放ち、何年後かに再び訪れると、ヤドカリが繁殖しているのに気づき、人が住むようになった。それが与那国島だという伝承が残っている。

 太陽所(てぃだんどぅぐる)

 ここから感じられるのは、この伝承を口にした古代の人たちは、ヤドカリの次に現れたのが人であり、ヤドカリと人は同じだと見なしていたということだ。いまのぼくたちは、これを、単純に、ヤドカリで生物が住めるかどうか実験したというようにしか読めないかもしれない。そしてこの伝承を、荒唐無稽にしか感じられないかもしれない。

 けれどそれは、いまのぼくたちが、この伝承を語った人たちのような自然の感じ方から遠ざかっているということに過ぎないと思う。ヤドカリの次に人、ヤドカリと人は同じ。そのような世界観のなかにあったということだ。

 孫引きになるけれど、かつて沖永良部島で、アマン(ヤドカリ)をシンボライズした入墨をした女性に、なぜヤドカリを?と聞くと、「先祖だから」と答えたという。

 小原一夫の論文「南島の入墨(針突)に就て」は、わが南島では島ごとに女たちのいれずみの文様と個処がちがっており、その観念は「夫欲しさも一といき刀自欲しさも一といき彩入墨欲しさは命かぎり」という歌にあるように、宗教的ともいえる永続観念にもとづいているとのべている。そして、奄美大島で魚の型をしたいれずみをした老婆たちに、なぜ魚の型をいれずみしたかときくと「魚がよく取れるように」と一人がこたえ、他のものはわからぬとこたえたとのべている。また、沖永良部島で左手の模様を「アマム」とよび「ヤドカリ」をシソポライズした動物紋で、島の女たちは質問にこたえて、先祖は「アマム」から生れてきたものであるから、その子孫であるじぷんたちも「アマム」の模様をいれずみしたのだとこたえたと記している。

 小原一夫によれば、南島のいれずみの観念も〈婚姻〉に関係した、永続観念と〈海〉に関係した南方からきたらしい信仰的な観念とが複合しているらしいとされている。貌志に記きれた漁夫たちのいれずみと、身分や地域によって異なるいれずみとは、まったくちがった意味をもつものの複合らしくおもわれる。ただ魏志の記した漁夫のいれずみは観念の層としては、南島の女性たちになされたいれずみの観念よりも新しいだろうと推測することができよう。なぜならば、魏志に記されている漁夫たちのいれずみは、宗教的な意味をすでにうしなっており、ただ装飾性や生活のために必要な擬装の意味しかもっていないからである。(『共同幻想論』吉本隆明)

 アマンは人の先祖である。それが信じられていた時が確かにあった。「ユンヌヌパジマイヤアマンからテューサ(与論の始まりはアマンからだそうだ)」という昔話も、これと同じ宗教観念の産物なのだ。

 このことを、昔の人は非科学的なことを信じていたと、卑下するように受け取ってはいけない。そういうことではない。むしろ、この認識を身近に持っているということは、奄美・琉球弧の可能性なのだ。

 アマン(ヤドカリ)を祖先だと考える背景には、人と動植物や珊瑚や石などの自然物は同じ価値であるという世界観がある。それは、人が動物や植物や自然物と対話ができる力を持っていたということだ。少し前まで、特にパーパーたちにはその力は残っていたと思う。彼女たちの仕草や振る舞いは、動物や植物の心が分かるようだった。しかし特に近代以降、人と動植物や自然物などの上位に、人間を置くようになって、ぼくたちはその力を失ってきたのだ。

 ただ、いまになって、人間を中心に置く、人間を上位に置く考え方は反省を強いられるようになった。そうなってみると、与論ではまだその力を感受できるということは、「遅れている」ということではなく、稀有な価値であることを意味してくる。それは、未来に対する展望を拓く力を持っていることにだってなるのだ。

 与論の始まりはアマンから。このアマンはヤドカリのことであり、ユンヌンチュはアマンを祖先と思ってきたのだ。この発想、どこかチャーミングでぼくは好きだ。ぼくもアマンがご先祖様だったと思ってみようとする。でも、科学的な認識を持った後だと、心底は難しい。いや、科学的な認識を持っていたとしても、完全にかつての世界観に自己移入できたら信じられるのだと思うけど、いまのぼくでは力不足だ。

 それでも、アマンを先祖と見做したことにはリアリティを感じる。だって、珊瑚の岩場に入れば、カサコソと、あれだけのアマンが出てくるのだから。島の先住民はアマンに違いなかったのだ。あのカサコソ登場を目の当たりにしたとき、先祖という見立てが生まれたとしても不思議ではないと思う。だから、子どもの頃は、魚の餌にと、平気でアマンの胴体を千切っていたけれど、いま小さな森で出会うと、ちょっと敬うように眺めたりしている次第だ。



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