加計呂麻島瀬武15名の航跡
弓削さんに『瀬武集落誌』を教えてもらった。
そこには、清の役人から琉球王に宛てられた文書が引かれている。1768年3月18日、宮古島の者とともに、順流、佐喜波や15人が漂着したので船を修理させ、琉球へ帰国させるという内容のもの。
この15名は実は、加計呂麻島の瀬武の者で、「順流、佐喜波」は琉球風に名前を変えたものだった。琉球の史料によれば、この15名の実名は、
船頭の大勝、水主の安国、清三、栄幸、島安、清満、能富、池秀、金久名、対三、順統、佐喜岡、佐喜鶴、栄長、直三
であった。琉球風に変えた「順流」は「順統」、「佐喜波」は「佐喜岡」か「佐喜鶴」のことだったのだろう。ぼくたちは、これまで、この名を変えなければならない事情を二重の疎外とその隠蔽として解いてきたけれど、『瀬武集落誌』によれば、ことのいきさつは劇的だ。
この15名は、加計呂麻島の瀬武から宮古島に向かったのではなく、最初は喜界島へ「商売」のため渡ったものだった。ときは、1767年9月28日。清の文書の半年前である。商売を終えて喜界島を出帆したのは、10月18日夜。そこから、漂流して11日後の29日に宮古島に漂着して救助される。そして、翌1768年2月27日に宮古島を出帆して那覇に向かう途中にふたたび漂流して20日弱で漂着したのが清だったのだ。そこで彼らは名を変えて清に事情を説明する。
清から那覇に着いたのはその年の夏。そこから15名は、二船に分乗して鹿児島に渡った。『瀬武集落誌』は、鹿児島へ渡って取り調べを受けて加計呂麻島に帰ったと考えられる、としている。
15名の航路を辿ると、加計呂麻島→喜界島→宮古島→清→那覇→鹿児島→加計呂麻島、ということになる。『瀬武集落誌』は、「当時の船で中国まで漂着していたとは驚きである」と書くが、同感だ。同時に、喜界島から宮古島へ、宮古島から清への二度にわたる漂流は生きた心地がしなかっただろう。その苦難の規模にも驚く。『瀬武集落誌』は、瀬武から喜界島へ渡る「商売」の中味も説明している。黒糖生産のため、喜界島には材木が不足し、大島では喜界馬が必要だった。そこに奄美間交易が生まれる。
奄美の島人たちの命運を想うとともに、これらの史実を史料から浮かび上がらせた『瀬武集落誌』の功績を島人の一人として感謝したい。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント