カテゴリー「29.奄美自立論」の147件の記事

2009/08/13

コクーンビルのブックファーストには確かにあった

 仕事で新宿に寄ったので空いた時間に、モード学園のあるコクーンビルに足を運んだ。ここの地下にあるブックファーストは90万冊あるというから、それを実際に見たかったのもあるが、以前、友人がここで『奄美自立論』を買ったと聞いていたので、実際あるのか確かめてみたかった。

 円錐にカバーをかけたようなコクーンビルは間近で見ても異彩を放っている。見上げれば直方体があるのがビルの感覚なので、見上げるとなだらかな曲線が続くと、なんだか空間が曲がったように思えてくる。

 ブックファーストは、地下1楷から地下2楷の2層にわたって展開されていて、そこにAからGまでの7つのゾーンがあり、本が収められている。印象としては、巨大な書店というより、7つの専門書店が同居している感じだ。

 『奄美自立論』は、「郷土の本」という棚の最下段に、お馴染みの奄美の本たちに挟まれてあった。居心地よさげだった。棚の幅は1メートルくらいだったろうか、そんなに場所はとってないのだけれど。

 新宿の巨大な繭の底に眠る奄美の本。そんなイメージがやってくる。


Cocoon1Cocoon2
Cocoon3Cocoon4

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/08/01

「ヤイユーカラの森」に『奄美自立論』

 昨年、「まつろわぬ民たちの系譜」でご一緒させていただた計良さんから「ヤイユーカラの森」のニュースレターが届いた。アイヌの刺繍にいつも見とれるのだが、最近、先住民の問題で取り上げられることの多くなったアイヌについて、アイヌ自身はそれをどう受け止めているのか、ぼくたちはどう受け止めたらいいのか、切実で難しいテーマを考える手がかりをもらっている。

 さて、楽しみに封を開けると、扉のページに読んだことのある文章が。よく見ると、なんと『奄美自立論』のそれ。引用してもらった個所は、自分でも白熱したところ。恥ずかしいやら嬉しいやら。

 計良さん、ありがとうございます。

Yayyukar

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/27

山中貞則、再び

 教えられて「サンデー毎日」(8.2号)の連載、「新 忘れられた日本人」を読んだ。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の佐野眞一が改めて、薩摩の政治家、山中貞則について書いていた。

 佐野によれば、山中は「数々の伝説に彩られた破天荒な政治家」だった。鹿児島県会議員での地方選挙では、背中に「民族再建」というのぼりをくくり、馬にまたがって選挙区を回った。衆議院議貞に初当選時、国会で当時の総理大臣、吉田茂に挨拶して無視され、「こら待て、吉田」と怒鳴りつける。国政を一度、退いた後の次の衆議院議員選挙では、鹿児島に応援に駆け付けた元総理、中曾根に対し、「こういう政治家が日本をダメにした」と言ってのけた。かと思えば、日陰で選挙演説を聞いていた聴衆に向かい、「オレが暑い日向で演説しているのに、何でおまえらは日陰で聞いているんだ」と怒鳴りつける。

 一方、総理佐藤栄作の時代に総理府総務長官として初入閣した際、佐藤に向かい、「沖縄に関する限り、各省の権限をこの山中にすべてゆだねると約束してくれるなら、お引き受けしましょう」と、前代未聞の条件をつける。変動相場制への移行の際、本土復帰目前の沖縄にも適用されれば、沖縄経済が莫大な損害を蒙ると見るや、大蔵省、米国政府が猛反対するのを承知の上で、補填政策を命じる。金融機関保護のため、本土銀行の沖縄出店を阻止した。また、軍用地主の要求に対し、ほぼ要求通りに応じて軍用地主たちを喜ばせた。

 酒場では、さしづめ武勇伝として語られるだろう数々のエピソードを数え上げて、佐野は、

こうした点を見る限り、確かに山中は沖縄にとって余人に代え難い大恩人だった。だがその反面、現在の本土依存の補助金づけ体質にしてしまったという意味では、山中は沖縄の自助努力を殺いだA級戦犯でもあったといえる。

 と断じている。

 ぼくは、これらのエピソードを前に、山中が「沖縄の自助努力を殺いだA級戦犯」に値する大きさは無いように思える。確かに威勢はいいものの、日陰で選挙演説を聞いている聴衆に対し、「オレが暑い日向で演説しているのに、何でおまえらは日陰で聞いているんだ」と怒鳴るあたり、強きをくじき 弱きを助けるのではなく、肥大した妄想自我の住人である。そこからは、中曽根も聴衆も、自己を引きたてる存在になるだろう。ここからはかなり単細胞な印象、いわば、封建的風土に豊富に残る人間的情感に、あの、実際的武断の気質を接ぎ木した人物像がやってくる。

 台湾で教鞭をとっていた屋良朝苗の日本復帰への情熱にふれたことが山中の沖縄への思いを決定づけ、それが薩摩の琉球出兵に対する沖縄への謝罪へとつながったと、山中は解説している。

 ぼくは、この実際的武断の単細胞に対し、沖縄への謝罪があって、奄美への謝罪がないのはなぜなのか、と問い、その態度のどこかに、陰影や含みを求めるのは土台、無理なのかもしれないと感じた。彼の行動型は、薩摩の実際的武断を、沖縄を拠点に日本に対して発動させるとどうなるかを演じてみせたもののように見える。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/25

沖縄県産本フェアに『奄美自立論』

 池袋ジュンク堂が沖縄県産本フェアを企画していて、そこに『奄美自立論』が!

 沖縄県産本フェアのなかに置いてくれるのは効果的だと思う。座りもいいような!?(笑)。表紙も見せてくれて、ジュンク堂の書店員さん、ありがとうございます。


Junku1Junku2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/06

雑誌「中部財界」『奄美自立論』書評

 雑誌「中部財界」、「注文の多い本のレストラン」に載った『奄美自立論』の書評。

 ん~。継はぎ感を否めないけれど、あり難い。

 緑の大地に覆われた島、奄美。世間一般のイメージは、青い海とサンゴ礁に囲まれた南の島のイメージである。琉球文化圏のため、沖縄県と勘違いをしている人も少なからずいる。奄美は鹿児島県だ。
 奄美に住む人は「奄美は琉球ですか」と聞かれると「鹿児島だ」と答え、逆に「鹿児島県ですか」と問われると、違和感を覚える人が多い。
 この著書では、奄美に関する疑問や、課題を島の歴史に基づき、奄美出身(与論島)の著者が、薩摩と沖縄に正面から向き合い、これまでにない奄美論を展開している。
 時は四〇〇年前、琉球が薩摩に侵略されることに始まる。一六〇九年の三月四日、薩摩の軍勢は琉球を侵略すべく出航。当時琉球支配下にあった南西諸島は約一ケ月で侵略される。トカラ列島を経て、奄美大島北部の笠利湾に着き、戦闘が始まったのが七日。その日以来、奄美は言葉を失ってしまった。
 奄美はそれ以来「琉球でもない」、「大和でもない」と二重に阻害されてきた。書はその「二重の疎外」の構造と由来を追い、それをどのように克服するかを、各地で出自を隠すように生きてきた六〇万奄美同胞に提起する。同時にそれは、国内植民地としての奄美の現実を広く明らかにするものでもある。
 奇しくも今年の七月二十二日皆既日食が奄美市で観測される。日食以外にも歴史も観測されるのではないだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/01

「中部財界」の7月号に

 月刊誌「中部財界」7月号の「本のレストラン」というコーナーに、『奄美自立論』の書評が載っている。載っているといっても現物は見ていない。目次にあったからわかった。

 「月刊中部財界」2009年7月号

 読みたい。

 それにしても、地元紙はともかく、日経にしても中部財界にしても経済系が反応してくれるのはどうしてだろう。不思議だ。ビジネスのかけらもない内容なのに。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/26

「実感するのは難しいが事実だけは胸に刻みたい」

 書店直販の版元として名高いトランスビューの工藤さんが、「いける本 いけない本」(2009夏10)に、「いける本」として書評を書いてくださっていた。

○喜山荘一『奄美自立論-四百年の失語を越えて-』(南方新社)

 琉球からも大和からも疎外され、同化と異化を同時に強いられた奄美の歴史を、資料を読み解きつつ明らかにする。与論出身の著者が自らのために記したともいえる、つまりは渾身の一冊。薩摩の琉球侵略から四百年、実感するのは難しいが事実だけは胸に刻みたい。溢れる郷土愛を育んだシマを羨ましくも思う。

 そうそう、その通りの141文字。圧縮簡潔。感謝。

 「自らのために記したともいえる」。そう、その通り。ぼくのために書いた。この本への批判と読みとった文章の、その批判のありように、「きみにこれを書かざるをえない切実さがわかるか」と、ゆうべ呟いたばかりだった。

 「実感するのは難しいが事実だけは胸に刻みたい」。そう、そうだよね。正直な述懐はむしろありがたい。どうしたら、この、所在定まらない、いつも言葉を飲み込んでいるような感じを伝えることができるだろう。もっとも身近な人にさえ言葉を届かせるのは難しい。シンパシーを感じてくれる友人が、邪気なく「シマ」を劣位のキーワードとして使うとき、言葉を失う。それが傷つけると、言えない。ただ、悲しくなる。でも、それはもはや彼ら彼女らの責任ではない。歴史が醸成した共同幻想を解体するしかないのだ。それに、こういう自分が他者の痛みに配慮を行き届かせているかは、かなり覚束ない。ぼくは、ぼくの表現を深める努力を続けようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「奄美同胞」の響き

 syomuさんが、『大奄美史』序文の「奄美同胞」のことに触れていて、あそうか、と気づくことがあった。

私が高校生の時にこの序文を初めて読み“奄美同胞”という言葉に物凄く衝撃を受けたわけです。
奄美二世のエントリーでまた触れたいと思いますが、『同胞』という意識がまったくなかったからです。(『大奄美史』 昇曙夢

 『奄美自立論』の装丁を見たとき、「帯のメッセージ」に怖気づいて代案を出したのだが、思えば、「奄美同胞」という表現にも大きく躓いたのだった。syomuさんは「同胞」という意識が無かったと書いているが、ぼくはもっと性質悪く、「同胞」という語彙が自分にとって生きたものになってないからだった。

 でも、syomuさんの記事を見て、そうか、これは『大奄美史』の言葉を継いだものだったのだなと、遅ればせながら気づいた。ぼくは、『大奄美史』の戦前的精神の流れに目を奪われて、「奄美同胞」を注視していなかったと思う。

 ただ、「同胞」という言葉が蘇ってくるのを感じたことはあった。子どもが読んでいる漫画『ワン・ピース(ONE PIECE)』では、海賊の「仲間」であり、魚人族の「同胞」でありという言葉がよく出てくる。それが、アナクロニズムではなく、新鮮なものにみえ、「仲間」や「同胞」が時代のなかで蘇るのを感じた。ぼくも、半ば自滅的に「仲間」や「同胞」を拒んできたのに、『ワン・ピース(ONE PIECE)』のそれには心を動かされて、我ながら驚いている。

 しかし思い返してみれば、ブログ縁や「奄美を語る会」では、奄美の島と同じ目線で考えてくれる人や、同じことに悩んできた人との出会いがあった。それは望んでも叶わないことと、望むことを諦めてきただけに、それこそ望外な想いがしている。ぼくに、「奄美同胞」という言葉はやっぱり定着しにくいけれど、『ワン・ピース(ONE PIECE)』が表現している「仲間」や「同胞」の言葉は、いま、リアルに響いてくる。

 何年も前、小学生だった下の子に、「お父さんも友達つくったほうがいいよ」と冗談ぽく言われたことがあった。ぼくは、そのとき「そうだよね」と答えたけれど、胸の内では何度も繰り返し、「そうだよね」と呟いてきた。


Obi

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/06/14

『奄美自立論』新聞書評

 これまでに出た『奄美自立論』の新聞書評を一覧にした。取り上げてくれたのは顔を知っている方もいれば、どなたかも分からない記者の方もいる。とにかく、こんなマイナーなテーマの本を見つけて取り上げてくださったことに感謝したい。


    ◆「薩摩侵略から400年 「奄美」再考各地で」(篠崎弘「朝日新聞」 2009/04/25)

喜山さんも「『奄美は一つ』という言葉が成立しづらいのは、実は奄美の良さと考えるべきだ。中央集権の抱える問題を解決するためには、奄美の歴史を問い直すことが意味を持つのではないか」。
 元(はじめ)ちとせ、中(あたり)孝介ら、奄美の歌手たちの活躍を喜山さんは高く評価する。「歌で奄美が知られることの意味は大きい。奄美はあまりにも発語がなさ過ぎた」
 
    ◆「奄美自立論。」(「日本経済新聞」 2009/04/26)
与論島生まれの著者は琉球でなく、大和でもないという「二重の疎外」を受けた歴史を反転させ、沖縄と日本本土双方をつなぐ架け橋として奄美をとらえなおをうと呼びかける。


    ◆「琉球侵略400年」(向原祥隆「西日本新聞」 2009/05/03)

今年は植民地化されてからちょうど400年。この節目の年に『奄美自立論-400年の失語を越えて』を出した。
 奄美は今、鹿児島県に属している。だが、自分が鹿児島県人だと思っている奄美の人は多くない。


    ◆「一六〇九年問題を考察」(仲川文子「南海日日新聞」 2009/05/23)

 これ程、多くの文献を参照し、多方面から一六〇九年問題を検証、考察した著書は、他に類をみないのではないだろうか。
 「奄美は琉球でもない、大和でもない」とその出自を正面切って論じ、そして奄美の自立への道を強く促している喜山荘一著「奄美自立論(南方新社刊)。


    ◆「与論人による自立への叫び」(松島泰勝「沖縄タイムス」 2009/05/31)

本書は、同じ琉球文化圏の仲間である「与論人(ゆんぬんちゅ)」による、どこにも帰属しない島の自治・自立を求めた魂の叫びである。


    『奄美自立論』

Amamijiritsuron_design

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/12

汾陽光遠、「租税問答」註。

 小野武夫による汾陽光遠「租税問答」についての注。

明治七年薩摩の人汾陽光遠の著す所にして(中略)、薩隅日三州幵に琉球群島の租税沿革を記したるものなり。(中略)島津藩の田制を調ふる上に於て最も参考に資すべきものとす。(『近世地方経済史料』1958年)

 明治7年は、1874年。丸田南里が、勝手商売のメッセージを出した年。

 また、汾陽とは。

 汾陽家の祖先は、永禄二年(一五五九)に来日して島津氏第十六代義久に仕え、汾陽光禹(号理心)と改名した明国汾陽の郭建演(国安)であるが、現存する汾陽文書の多くは、所謂「汾陽二男家」の記録・古文書類である。汾陽二男家は、寛永四年理心の跡を二男光昌が継いだのに対し、嫡子光裎の聟春子とされていた法元仁右衛門盛尚の二男光東が別立(分家)して、二代盛春、三代盛賢(光来二男)、四代盛昭(光克一二男盛常の四男)、五代光亨(感昭二男)、六代光明、七代盛徳(光遠)と承け継がれ幕末・維新に至った系統である。初代の次郎右衝門光東は、島津氏第十九代藩主光久に近侍して惣田地奉行ときれた地方功者(農政の権威)であった。またその三男盛常は三十七年間も郡奉行職にあって、近世中期幕藩典故の理念とその政策展開の在り方を窺うに好個の農書である『農業法』の著者として知られる。そして大代光明は物奉行、琉球在番、町奉行等の要職に、七代盛徳は御記録奉行、御納戸奉行、江戸御留守居等の重職を歴任し、ともに幕末にかけて、「汾陽氏要用万留」とその間の往復書翰類をほぼ纏まった形で残している。(黒田安雄「藩政改革と対外的危機-汾陽文書の紹介-」「人間文化・第2號」愛知学院大学、1986年)

 汾陽は1559年に明から来日した家系。光遠はその七代目に当たり、藩の「御記録奉行、御納戸奉行、江戸御留守居等の重職」に就いていた。

 汾陽光遠は「薩摩の人」であるにもかかわらず、「租税問答」のなかで藩の方針に疑義を呈したり、藩の秘密を書いたりすることができたのは、明から来た家系の閲歴が、外部から客体する視線を喚起したからではないだろうか。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

0.プロフィール | 1.与論島クオリア | 2.与論・琉球弧を見つめて | 3.与論の地名 | 4.奄美の地名 | 5.琉球弧の地名 | 6.地域ブランドをつくる | 7.小説、批評はどこに | 8.島尾さんの作品 | 9.音楽・映画・絵画 | 10.自然の懐 | 11.抒情のしずく | 12.祖母へ、父へ | 13.超・自然哲学 | 14.沖永良部学との対話 | 15.『しまぬゆ』との対話 | 16.奄美考 | 17.『海と島の思想』 | 18.『ヤコウガイの考古学』を読む | 19.与論砂浜 | 20.「対称性人類学」からみた琉球弧 | 21.道州制考 | 22.『それぞれの奄美論』 | 23.『奄美戦後史』 | 24.『鹿児島戦後開拓史』 | 25.「まつろわぬ民たちの系譜」 | 26.映画『めがね』ウォッチング | 27.『近世奄美の支配と社会』 | 28.弓削政己の奄美論 | 29.奄美自立論 | 30.『ドゥダンミン』 | 31.『無学日記』 | 32.『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 | 33.『琉球弧・重なりあう歴史認識』 | 34.『祭儀の空間』 | 35.薩摩とは何か、西郷とは誰か | 36.『なんくるなく、ない』 | 37.『「沖縄問題」とは何か』 | 38.紙屋敦之の琉球論 | 39.「島津氏の琉球入りと奄美」 | 40.与論イメージを旅する | 41.「猿渡文書」 | 42.400年 | 43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』 | 44.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 | 45.「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」 | 46.「奄美と沖縄をつなぐ」(唐獅子) | 47.「大島代官記」の「序」を受け取り直す | ★奄美と沖縄をつなぐ(イベント)