カテゴリー「29.奄美自立論」の151件の記事

2011/01/10

加計呂麻島瀬武15名の航跡

 弓削さんに『瀬武集落誌』を教えてもらった。
 そこには、清の役人から琉球王に宛てられた文書が引かれている。1768年3月18日、宮古島の者とともに、順流、佐喜波や15人が漂着したので船を修理させ、琉球へ帰国させるという内容のもの。

 この15名は実は、加計呂麻島の瀬武の者で、「順流、佐喜波」は琉球風に名前を変えたものだった。琉球の史料によれば、この15名の実名は、

 船頭の大勝、水主の安国、清三、栄幸、島安、清満、能富、池秀、金久名、対三、順統、佐喜岡、佐喜鶴、栄長、直三

 であった。琉球風に変えた「順流」は「順統」、「佐喜波」は「佐喜岡」か「佐喜鶴」のことだったのだろう。ぼくたちは、これまで、この名を変えなければならない事情を二重の疎外とその隠蔽として解いてきたけれど、『瀬武集落誌』によれば、ことのいきさつは劇的だ。

 この15名は、加計呂麻島の瀬武から宮古島に向かったのではなく、最初は喜界島へ「商売」のため渡ったものだった。ときは、1767年9月28日。清の文書の半年前である。商売を終えて喜界島を出帆したのは、10月18日夜。そこから、漂流して11日後の29日に宮古島に漂着して救助される。そして、翌1768年2月27日に宮古島を出帆して那覇に向かう途中にふたたび漂流して20日弱で漂着したのが清だったのだ。そこで彼らは名を変えて清に事情を説明する。

 清から那覇に着いたのはその年の夏。そこから15名は、二船に分乗して鹿児島に渡った。『瀬武集落誌』は、鹿児島へ渡って取り調べを受けて加計呂麻島に帰ったと考えられる、としている。

 15名の航路を辿ると、加計呂麻島→喜界島→宮古島→清→那覇→鹿児島→加計呂麻島、ということになる。『瀬武集落誌』は、「当時の船で中国まで漂着していたとは驚きである」と書くが、同感だ。同時に、喜界島から宮古島へ、宮古島から清への二度にわたる漂流は生きた心地がしなかっただろう。その苦難の規模にも驚く。『瀬武集落誌』は、瀬武から喜界島へ渡る「商売」の中味も説明している。黒糖生産のため、喜界島には材木が不足し、大島では喜界馬が必要だった。そこに奄美間交易が生まれる。

 奄美の島人たちの命運を想うとともに、これらの史実を史料から浮かび上がらせた『瀬武集落誌』の功績を島人の一人として感謝したい。

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2010/05/08

「奄美の『自分さがし』-アマミンチュとしての自覚-」3

 「奄美はあるのか」と、須山は奄美固有の問いを投げかける。

 高橋・喜山の両者に共通するのは,日本・沖縄・薩摩といった外部の影響を強調する観点である。高橋のいう境界性は,一方に琉球・沖縄を置き,もう一方に日本やヤマトや鹿児島を置く。その二項対立の狭間の存在として奄美や沖永良部島を描き出す手法である。喜山もまた,琉球対薩摩を基本的な分析軸として議論を展開している。
 高橋は奄美の立ち位置を「曖昧」といい,喜山は奄美の状況を「失語」と表現した。しかし,2人ともが奄美のことを論じようとして,結局は他者であるヤマトや琉球や薩摩を論じている。それこそが失語の実態であると喜山にしかられるかもしれないが,両者の説明様式はそろって他律的である。奄美以外の要素についてどれだけ綿々と語っても,奄美そのものを語らなければ,奄美の姿は見えてこないであろう。ただ,この2人の論客をして,このような見方をさせてしまうことこそが,400年にわたる被支配の根深さを端的に示すのかも知れない。

 そう、根深い、とぼくは言いたげなわけだ。

 「失語」や「暖味」,不明確性や空虚感は.消去法に基づいた語り方の結果あらわれた問題であるともいえる。しかしそうではなく,地域をより積極的に観察すれば,地域に関するさまざまな語りを兄いだすことが可能である。自分たちの足許,奄美という場所にもっと目を向けよう,ということを筆者は主張したい。

 ぼくも内側からの視点を持ちたいと考えるものだ。言い訳めくが、内側から語るのに他者を語るのは内側を無価値と思いこんできた慣性を止めるための労力でもあれば、内側からしか開かない扉へ向かうための道筋だとも言える。自己からみた自己像の不在というだけではない。他者からみた自己像の不在も、他者へ向かわせる動因にもなっている。

 喜山は「個々のシマ/島こそが主役である」というのが奄美的態度であると主張するが,シマと島を区別しない表現は,彼がシマと島の重なりが大きい与論島出身者であるから言えることであろう。奄美が奄美らしさを回復するためにシマに回帰するというのは,正当な姿勢であるように見える。しかし,そうするにはシマの衰退は進行しすぎたといわざるを得ない。シマが蓄積してきた豊かな語りは現在急速に失われつつある。

 シマ/島は急速に失われている。そう、だからぼくたちの焦慮も深い。一方、須山が言うように、他者からの奄美発見が広がり、奄美は他者からみた自己像を知りつつある。そうなれば、ぼくたちは自己による自己像に向き合いやすくなるだろう。そのとき、シマ/島は実態であるというより、掘り下げるべき像へ転化するのだと思える。それは沖縄の音楽に反応するように身体的なものかもしれない。

 まるで言い訳するようにしか須山の書評に対してないが、対話の緒が開かれることが何より嬉しいことだ。

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2010/05/07

「奄美の『自分さがし』-アマミンチュとしての自覚-」2

 喜山荘一の『奄美自立論』は「奄美を語ることができない」という絶望的な心情から書かれた。同書は学術書ではなく,奄美出身者が自らの故郷について省察と発言を繰り返して得られた論考である。

 そう、これは学術書ではない。
 須山は「二重の疎外」について、

 A/Bという二項対立では,AでなければBである。すなわち琉球でないならば大和,大和でないならば琉球であるはずなのに,2つの否定が同時になされたために論理矛盾が生じた。その矛盾が顕現した地域が奄美である。「二重の疎外」の意味内容はこのようなことであろう。

 と、説明している。奄美の困難の核心はこの二重否定による空無にあると思える。一方これは政治的な規定であり、島人の生活からみれば、多層的に現れた。

 政治 薩摩
 宗教 琉球
 文化 琉球
 経済 薩摩/琉球
 自然 琉球(亜熱帯珊瑚礁として)

 このことが本土の人びとに理解されないこと,それ以上に自分たち奄美の人間がその歴史を知らなかったことが,喜山のいらだちを生んだものと思われる。その状況を説明するためには,いささかエキセントリックな言辞を弄する必要があったのであろう。レトリックに依存した論理の展開に無理を感じるものの,論理の行く先を見きわめたいという気分を,読者に抱かせる力量のある文章である。

 ときにエキセントリックなのは、必要からではなく切実だからである。それが言い訳めくとしたら、単に柄が悪いということだ(苦笑)。

 喜山の奄美論の背景には,薩摩に対する峻烈な怒りがある。そして怒りの対象としての薩摩を象徴するのが,歴史学者の原口虎雄である。原口は『名瀬市誌』全3巻を編纂し,奄美の姿を丹念に採集した研究者である(名瀬市誌編纂委員会1968,1971,1973)。その原口を喜山lは,薩摩的史観で奄美を睥睨したと批判する。蕃山の批判はあまりに先鋭で,原口に気の毒なくらいである。しかし,奄美が自分自身で語るすべをもたなかったことが,原口という薩摩人による語りを許したという点では同意できる。喜山は,奄美の自家製の語りが必要なのだという。そしてその語りの基盤に文化的共同体としての琉球を認め,「奄美は坑球である」というテーゼを復活させるべきであると主張する。

 エキセントリックさの極みは原口批判に現れているだろう。「気の毒なくらい」に見えることすら、言われなければぼくにはなかなか分からない。しかし、怒りが怒りである所以は、語る術を持たないことが「原口という薩摩人による語りを許した」からではなく、それを知りつつ拍車をかけるように原口はさらに口をふさぐことをしたからだと、ぼくが考えているところにある。

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2010/05/06

「奄美の『自分さがし』-アマミンチュとしての自覚-」1

 駒澤大学の須山聡教授から『奄美自立論』の書評をいただいた。正面から取り上げてもらう機会は当然ながら少ないので、感謝である。

 須山は「奄美は自らの帰属を自ら決定する機会を持た」ず、現在、「深刻なアイデンティティの危機」にあるとして、

 2006年そして2009年に,本土に暮らす2人の奄美出身者が奄美を見つめ直す著作を刊行した。高橋孝代『境界性の人類学-重層する沖永良部島民のアイデンティティ-』と,喜山荘一『奄美自立論-400年の失語を越えて-』である。高橋は沖永良部島で高校卒業までを過ごした,文化人類学を専門とする研究者である。与論島出身の喜山は研究者ではないが,ブログを通じて与論島・奄美に関する議論を展開している。

 と、高橋と私の二著を取り上げている。

 2人はともに1960年代に生まれた,米軍統治を経験したことのない世代である。したがって,彼らは生まれたときから本土の日本人と同様の政治的権利を有してきたはずである。その彼らが,本土と日本人に対して違和感や相容れない感覚を抱き,沖縄の音楽や言葉に身体的な共感を感じた経験を吐露している。これらの著作には,日本人でありながら日本の枠組みに入り切れていない奄美の人びとの迷いや苦悩が表現されている。いわば奄美出身者の「自分さがし」の記録がこの2著である。しかし著者らはただ思い悩むだけではなく,真撃で客観的な分析と懸命な省察の中から,それぞれの奄美像を見いだそうとしている。

 「沖縄の音楽や言葉に身体的な共感を感じた経験」は、『境界性の人類学』を読んだとき、同じであることに驚いた個所だった。それと同時に、自分が書く段になった際には、『境界性の人類学』が沖永良部発の奄美論であるとするなら、与論発の奄美論を書きたいモチーフも生んだ。与論は沖永良部と多く重なるところがあるが、またそれゆえ差異も気になるからである。

 須山は、高橋の引く、「鹿児島/沖縄」「日本/沖縄」「奄美/沖縄」という境界に対し、

 3つの境界がどのように導かれたかを高橋は明示的に示していない。おそらく筆者の20年弱にわたる生活体験が,「参与観察」の役割を果たしたのであろう。そのなかからこれら3つの境界が,ほぼ自明のものとして立ち現れたものと考えられる。これら3つの境界は議論の前提として提示されその妥当性が厳密に検証されることはない。

 と指摘するが、そう言われて初めてぼくもこれらが自分にとって自明の概念になっているのに気づく。生まれ島に対して、奄美、沖縄、鹿児島、日本は、自己であるとともに他者として世界観をいつも揺るがせる存在だった。それは所与の条件だったと思える。

 高橋は境界域に特徴的に見られるこのようなアイデンティティを「ボーダーアイデンティティ」と名づけた。沖永良部島には複数の境界がオーバーラップし,それらが複合しているが,だからといって住民のアイデンティティが境界によって引き裂かれたり,混乱しているのではない,と高橋は主張する。例えば日本復帰運動に見られるように,政治的には沖縄を拒否する心性が働こうとも,島民はエイサーに興ずることができる。政治的なアイデンティティと文化的なアイデンティティのありようは乖離しているが,島民はそれに無自覚であり,そこにある矛盾を矛盾と感じない。輻輳するアイデンティティを島民はありのままに受け入れている。

 ぼく個人は、「アイデンティティが境界によって引き裂かれたり,混乱しているのではない」とは言い切れない。分裂や混乱はむしろ常態である。しかしそれはぼくが島を離れた個人であることを自覚せざるをえないことからくる自己意識なのかもしれない。ぼくからすれば、島民は「輻輳するアイデンティティを島民はありのままに受け入れている」というより、アイデンティティに対して距離があるのだと思う。

 与論の場合でいえば、与論は沖永良部よりもさらに薩摩色は希薄化する。ここは西郷隆盛の訪れなかった島だ。その無色化ゆえに沖縄へのシンパシーも率直なものとして現れることもあれば、屈折のない分、鹿児島に属することへも当然のことと見なすこともある。アイデンティティは島の共同体のなかでは潜伏してこと極まらなければ先鋭化されない。


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2009/08/13

コクーンビルのブックファーストには確かにあった

 仕事で新宿に寄ったので空いた時間に、モード学園のあるコクーンビルに足を運んだ。ここの地下にあるブックファーストは90万冊あるというから、それを実際に見たかったのもあるが、以前、友人がここで『奄美自立論』を買ったと聞いていたので、実際あるのか確かめてみたかった。

 円錐にカバーをかけたようなコクーンビルは間近で見ても異彩を放っている。見上げれば直方体があるのがビルの感覚なので、見上げるとなだらかな曲線が続くと、なんだか空間が曲がったように思えてくる。

 ブックファーストは、地下1楷から地下2楷の2層にわたって展開されていて、そこにAからGまでの7つのゾーンがあり、本が収められている。印象としては、巨大な書店というより、7つの専門書店が同居している感じだ。

 『奄美自立論』は、「郷土の本」という棚の最下段に、お馴染みの奄美の本たちに挟まれてあった。居心地よさげだった。棚の幅は1メートルくらいだったろうか、そんなに場所はとってないのだけれど。

 新宿の巨大な繭の底に眠る奄美の本。そんなイメージがやってくる。


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2009/08/01

「ヤイユーカラの森」に『奄美自立論』

 昨年、「まつろわぬ民たちの系譜」でご一緒させていただた計良さんから「ヤイユーカラの森」のニュースレターが届いた。アイヌの刺繍にいつも見とれるのだが、最近、先住民の問題で取り上げられることの多くなったアイヌについて、アイヌ自身はそれをどう受け止めているのか、ぼくたちはどう受け止めたらいいのか、切実で難しいテーマを考える手がかりをもらっている。

 さて、楽しみに封を開けると、扉のページに読んだことのある文章が。よく見ると、なんと『奄美自立論』のそれ。引用してもらった個所は、自分でも白熱したところ。恥ずかしいやら嬉しいやら。

 計良さん、ありがとうございます。

Yayyukar

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2009/07/27

山中貞則、再び

 教えられて「サンデー毎日」(8.2号)の連載、「新 忘れられた日本人」を読んだ。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の佐野眞一が改めて、薩摩の政治家、山中貞則について書いていた。

 佐野によれば、山中は「数々の伝説に彩られた破天荒な政治家」だった。鹿児島県会議員での地方選挙では、背中に「民族再建」というのぼりをくくり、馬にまたがって選挙区を回った。衆議院議貞に初当選時、国会で当時の総理大臣、吉田茂に挨拶して無視され、「こら待て、吉田」と怒鳴りつける。国政を一度、退いた後の次の衆議院議員選挙では、鹿児島に応援に駆け付けた元総理、中曾根に対し、「こういう政治家が日本をダメにした」と言ってのけた。かと思えば、日陰で選挙演説を聞いていた聴衆に向かい、「オレが暑い日向で演説しているのに、何でおまえらは日陰で聞いているんだ」と怒鳴りつける。

 一方、総理佐藤栄作の時代に総理府総務長官として初入閣した際、佐藤に向かい、「沖縄に関する限り、各省の権限をこの山中にすべてゆだねると約束してくれるなら、お引き受けしましょう」と、前代未聞の条件をつける。変動相場制への移行の際、本土復帰目前の沖縄にも適用されれば、沖縄経済が莫大な損害を蒙ると見るや、大蔵省、米国政府が猛反対するのを承知の上で、補填政策を命じる。金融機関保護のため、本土銀行の沖縄出店を阻止した。また、軍用地主の要求に対し、ほぼ要求通りに応じて軍用地主たちを喜ばせた。

 酒場では、さしづめ武勇伝として語られるだろう数々のエピソードを数え上げて、佐野は、

こうした点を見る限り、確かに山中は沖縄にとって余人に代え難い大恩人だった。だがその反面、現在の本土依存の補助金づけ体質にしてしまったという意味では、山中は沖縄の自助努力を殺いだA級戦犯でもあったといえる。

 と断じている。

 ぼくは、これらのエピソードを前に、山中が「沖縄の自助努力を殺いだA級戦犯」に値する大きさは無いように思える。確かに威勢はいいものの、日陰で選挙演説を聞いている聴衆に対し、「オレが暑い日向で演説しているのに、何でおまえらは日陰で聞いているんだ」と怒鳴るあたり、強きをくじき 弱きを助けるのではなく、肥大した妄想自我の住人である。そこからは、中曽根も聴衆も、自己を引きたてる存在になるだろう。ここからはかなり単細胞な印象、いわば、封建的風土に豊富に残る人間的情感に、あの、実際的武断の気質を接ぎ木した人物像がやってくる。

 台湾で教鞭をとっていた屋良朝苗の日本復帰への情熱にふれたことが山中の沖縄への思いを決定づけ、それが薩摩の琉球出兵に対する沖縄への謝罪へとつながったと、山中は解説している。

 ぼくは、この実際的武断の単細胞に対し、沖縄への謝罪があって、奄美への謝罪がないのはなぜなのか、と問い、その態度のどこかに、陰影や含みを求めるのは土台、無理なのかもしれないと感じた。彼の行動型は、薩摩の実際的武断を、沖縄を拠点に日本に対して発動させるとどうなるかを演じてみせたもののように見える。


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2009/07/25

沖縄県産本フェアに『奄美自立論』

 池袋ジュンク堂が沖縄県産本フェアを企画していて、そこに『奄美自立論』が!

 沖縄県産本フェアのなかに置いてくれるのは効果的だと思う。座りもいいような!?(笑)。表紙も見せてくれて、ジュンク堂の書店員さん、ありがとうございます。


Junku1Junku2

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2009/07/06

雑誌「中部財界」『奄美自立論』書評

 雑誌「中部財界」、「注文の多い本のレストラン」に載った『奄美自立論』の書評。

 ん~。継はぎ感を否めないけれど、あり難い。

 緑の大地に覆われた島、奄美。世間一般のイメージは、青い海とサンゴ礁に囲まれた南の島のイメージである。琉球文化圏のため、沖縄県と勘違いをしている人も少なからずいる。奄美は鹿児島県だ。
 奄美に住む人は「奄美は琉球ですか」と聞かれると「鹿児島だ」と答え、逆に「鹿児島県ですか」と問われると、違和感を覚える人が多い。
 この著書では、奄美に関する疑問や、課題を島の歴史に基づき、奄美出身(与論島)の著者が、薩摩と沖縄に正面から向き合い、これまでにない奄美論を展開している。
 時は四〇〇年前、琉球が薩摩に侵略されることに始まる。一六〇九年の三月四日、薩摩の軍勢は琉球を侵略すべく出航。当時琉球支配下にあった南西諸島は約一ケ月で侵略される。トカラ列島を経て、奄美大島北部の笠利湾に着き、戦闘が始まったのが七日。その日以来、奄美は言葉を失ってしまった。
 奄美はそれ以来「琉球でもない」、「大和でもない」と二重に阻害されてきた。書はその「二重の疎外」の構造と由来を追い、それをどのように克服するかを、各地で出自を隠すように生きてきた六〇万奄美同胞に提起する。同時にそれは、国内植民地としての奄美の現実を広く明らかにするものでもある。
 奇しくも今年の七月二十二日皆既日食が奄美市で観測される。日食以外にも歴史も観測されるのではないだろうか。


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2009/07/01

「中部財界」の7月号に

 月刊誌「中部財界」7月号の「本のレストラン」というコーナーに、『奄美自立論』の書評が載っている。載っているといっても現物は見ていない。目次にあったからわかった。

 「月刊中部財界」2009年7月号

 読みたい。

 それにしても、地元紙はともかく、日経にしても中部財界にしても経済系が反応してくれるのはどうしてだろう。不思議だ。ビジネスのかけらもない内容なのに。


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