『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』
弓削政己さんは、2003年、「奄美から見た薩摩と琉球」と題した講演を行っている。これは、1989年の「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のリフレインのように、その延長線上まっすぐ先に来るものであり、弓削さんの持続する問題意識の確かな手ごたえを感じることができる。「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」では分かりにくかった箇所も切開されていて、新たな知見ももたらしてくれた。
弓削さんの整理はこうだ。
まず、薩摩による奄美の「黒糖上納」の仕組みについて。
薩摩藩の特産品収入の50%は黒糖だが、奄美の黒糖で35%を占め比重は高い。
1.薩摩藩は、黒糖を買い上げる
2.買い上げた黒糖を「米」に換算する
3.黒糖から換算された米から、税金としての米を差し引く
4.さらに、砂糖きび生産のための「鉄輪車」や必需品購入のための米を差し引く
(島人の受け取る米)=(生産した黒糖から換算された米)-(税金としての米)-(必需品購入のための米)
薩摩は必需品を不等価交換したので、高くなっていた。結局、米は「一般の島民、百姓には渡らない」。
なんとまあの搾取の構造だが、このなかで例外的な存在だったのが、「郷士格」と呼ばれる人々。「郷士格」は薩摩藩における士身分の存在のことで、奄美における士農分離を生み出す仕組みになっている。奄美の郷士格の発生を追うと、
1番目 1726年 奄美大島の島人 新田開発の功績
2番目 1752年 喜界島の島人 「唐通事」(通訳)の功績
3番目 1761年 徳之島の島人 黒糖生産増産の功績
こうして始まった郷士格への取り立ての結果、約1世紀後には、42家部(世帯を少し大きくした概念)の郷士格が成立している。
この奄美の郷士格を薩摩はどう見ていたか、奄美の郷士格はどう振る舞ったか。弓削さんは追っている。
郷士格は、士身分の呼称だが、1728年に薩摩藩は「皆百姓」という達しを出していて、結局は「百姓」だった。だから、月代(さかやき)、つまり武士のように髪を剃りあげず、格好も奄美の服装のまま。刀の所持も許されなかった。
ところが明治に入り、士農工商がなくなった際、奄美の郷士格は「百姓」だから「平民」の位置付けになるのだが、奄美の郷士格一族は、県に「士族」としての戸籍編入を嘆願し、1880年にそれが認められる。
近世期の奄美の郷士格は何を演じたのか。
1852年、奄美大島の郷士格の一族は、1000人で37000人の人口の2.7%。ところが、薩摩藩からの「詰役人」は、「代官が一人と、横目と呼ばれている検察関係の二人と、付役というのが五名」、計8名と足軽集団。奄美大島の黒糖収奪をするにはたった8名では不可能だが、それを可能にしたのが、島役人と郷士格の存在だったというのが弓削さんの分析だ。
さらに弓削さんは、明治期に奄美大島の島民は多額の借金を抱え込み、それは「鹿児島商人」によるものだと言われてきたが、調べると、借金の63%は確かに鹿児島の商人なのだが、37%は実は島の郷士格からの借金になっている。島の郷士格の利息は、鹿児島の商品の利息が45%なのに対し、30%で低いが(比較したらという意味で、基本的にはどちらもべらぼうに高い)、借金返済ができない場合は土地を取り上げて土地集積を図っている。要するに、ひどいことしたのは、鹿児島商人だけじゃなく、島人なんだよというのが、弓削さんの言いたいところだと思う。
弓削さんが追求している2つ目のポイントは、「一字姓」のこと。これは、元ちとせや中孝介のように、奄美に多い一字姓はどういう由来で起こったかということだ。
もともとは、「皆百姓」だから、姓を持つ者はいなかったのだが、郷士格という存在が生まれるようになって、姓を与えることになった。このとき、「奄美は琉球の内」という隠蔽策を薩摩は敷いていたから、名前においても「琉球の内」であることを見せなければならない。沖縄では沖縄の名前の他に、唐名という一字姓の名を持って対応している。そこで、奄美の場合は、直接、唐名に対応するように一字姓にした。
そういう点から言いますと、藩全体での郷士格の取り立てをしながらも、奄美の直接支配を隠蔽して、東アジアの交易を確保するという政策、意図の中から、東アジア全体に共通する一字姓を選ばせる。このように、奄美を検討する場合の聖の視点として、冊封体制との関係で把握する必要があり、そのことが奄美の表れ方の一つだと思っております。(『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』)
弓削さんは講演のなかでは言及していないが、他の場所での発言などを合わせると、冊封体制への対応が一字姓の根拠という指摘を行うのは、従来、一字姓が薩摩による差別の現われとして説明がなされてきたことへの反論の意を含んでいるのだと思う。
もうひとつ、弓削さんが追求しているポイントはある。奄美に対し、琉球と薩摩合意のもと、奄美に不利な政策を行うこともあったという点だ。例のひとつにウコンが挙げられている。奄美大島や沖永良部島でもウコンの栽培をしていたのだが、それらが大阪市場へ流れていくと、琉球のウコンの値段が下がる。「そういう中で、王府と鹿児島藩との利害の一致だろうと思いますけれども」、奄美に「ウコン栽培を禁止」させたということ。
◇◆◇
弓削さんは、この講演で、「こういうことがある」という指摘にとどめて、その背景や、だからこう言えるという仮説に消極的になので、他の場所の発言を合わせて弓削さんの意を汲み取ってみる。
・薩摩の黒糖収奪は激しかったが、その収奪を現地で担ったのは、島人出身の郷士格、島役人だった。
・一字姓は、薩摩の差別感情のたまものと言われてきたが、実際には冊封体制に対応したものだ。
・奄美と琉球との同胞意識がいざというときに出てくるが、実際、琉球は、必ずしも奄美を身内と捉えてきたわけではない。
「奄美から見た薩摩と琉球」は、奄美復帰50周年を記念して鹿児島で行われているのだが、弓削さんの講演を追ってくると、実際にはこれは、奄美の人向けに語られているように見える。奄美の人に、少し冷静になって物事を見つめよう。そう言っている気がする。
ぼくたちは弓削さんの資料を丹念にたどり、史実を浮かび上がらせる作業から多くを学ぶことができる。その先で、弓削さんの発言をどう受け止めるか、考えなければならない。
たとえば、被支配者は支配者から支配の仕方を学ぶ。だから、被支配者が支配者になると、もとの支配者以上に強度の支配をしがちであるということは、よく見られる現象だ。奄美の島役人、郷士格もそのご他聞に漏れない。その情けなさも止む無さも、ぼくたちにとって他人事ではない。それは行政や資本の意思としていまも引き継がれていると言ってもいいくらいだ。
一字姓について、冊封体制に対応したものという指摘自体が重要だ。それは、二重の疎外の隠蔽の強制の象徴的な例だと分かるからだ。また、琉球が、琉球の利益のために奄美を不利益を優先することがあるのは、政治的共同体としていずれそんなものだと思う。それと、奄美と琉球の島人の感情としての同朋意識は分けて考える必要があると思える。
ぼくは弓削さんの指摘はごもっとも思うだけなのだが、しかしそれは奄美の既存の歴史観を知らないから言えることで、こうした史実の指摘自体が、まだ貴重な段階にあるのかもしれない。現に、弓削さんはこの講演のあとのパネルディスカッションで「私の考えはまだ市民権を得るという段階まではいっていなくて」と発言している。
ぼくの問題意識は、奄美の島人の困難の固有性を浮かび上がらせることだ。だから、郷士格の存在にしても、一字姓にしても、政治的共同体としての琉球の振る舞いにしても、奄美の困難がどんな構造を持っているのかを明らかにする点で関心を持つ。
たとえば、昨年のパネルディスカッションで弓削さんはこう発言している。
奄美の歴史をどう把握するかという点で、学生時代、後輩に「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったのよ」と反論された。
それに対して、何もいえなかったことを覚えている。それは、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿題であった。(「6.30奄美/発表内容」)
ぼくにも同じような場面はあった。ただ、そこから受け取る「宿題」の中身は、弓削さんとは違っている。
ぼくは、鹿児島の人に言われた。鹿児島も大変だったので奄美は特別じゃない、と。簡単に言ってくれるじゃないのと思ったが、十代のぼくに返す言葉は貧困だった。「同じだった」と言える側面があるのは確かだとしても、そう言えるまでに多くのことが捨象されていて、また思想としての薩摩は自己吟味に晒されることなく延命する度し難い頑迷さが強烈だった。ぼくはそこから、それなら奄美の困難の固有性とは何だろうと考えてきた。それが他愛のないものであれ例を見ないものであれ、固有の構造がつかめれば、その解除ができるだろう。そしてそれとともに、他者に伝え比較可能なものにすることができると思ってきたからだ。そこが、弓削さんの問題意識との分岐点なのかもしれない。
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