カテゴリー「28.弓削政己の奄美論」の18件の記事

2016/03/09

文字の考古学者、弓削政己を送る

 弓削政己さんの訃報を受け取る。心づもりしておかなければならないということが不謹慎に思えて考えの外に追いやっていたのが露わになり、不意打ちのように動揺して、心の落ち着きどころが見い出せない。そういう時間が続いている。

 弓削政己の仕事は、百年のまどろみのなかで停滞している奄美の歴史に史実を突きつけるものだった。誰に頼まれたわけでもないのに、学者という職業的安定があるわけでもないのに、史料があると分かれば、東京であれ筑波であれ場所を厭わず参じて、古文書を読み解き、論文として公表してきた。その領域は、薩摩直轄時代の奄美、祝女の史料にはじまり、支庁問題、三方法運動、黒糖、大島商社、大島スキーム、ユタ、郵便等と多岐にわたる。

 発掘を通じた彼の仕事は、差別観にまみれた奄美の島人の認識に対して見直しを迫っている。しかし、弓削自身はそれを島人に突きつけるように提示するのを好まなかった。その静かな語り口は、モノに忠実であろうとする考古学者のように抑制的で、かつ、島人の気持ちを逆撫でして傷つけたいわけではないというように優しかった。それは島人らしい人柄を思わせるものだったが、そのことは彼の研究が穏やかだったことを意味するのでは全くない。誰に頼まれたわけでもない、経済的な保障があるわけでもないなかで行なわれる発掘作業には、鬼気迫る激しさを感じないわけにいかない。

 しかも、発掘から得られる「文字」はひとつの「事実」を提供する。その「事実」のピースを奄美の通念のなかに投げ込むと、ぼくたちが抱いているかすかな疑念が揺らぎだし、通念自体が疑問符のなかに叩き込まれる破壊力があった。だから、弓削政己の行動と言葉を失うということは、奄美大島が巨大な重心を失うことのように思えてくる。これから奄美はどうしていくのだろう、ぼくたちはどうすればいいのだろう。

 島に住んでいるわけではないぼくの弓削さんとの交渉は浅い。けれど、父亡き後に知り合い、年齢も近いこともあって、父の面影を弓削さんに重ねるように見ていたところがある気がする。昨年の九月、母の葬儀を終えて東京に戻ったときに、お電話をいただいた。両親を亡くしたことを伝えると、弓削さんは、いつでも視線を送ってくれた存在が無くなったとき、風が直撃してくるみたいにとても不安になったと、自身の経験を語り、慰めてくれた。それが最期のやりとりになった。

 これから彼は、奄美の郷土史家として知られていくことになるのだろうか。そうには違いないのだけれど、弓削の方法を思えば、「文字の考古学者」という言葉がぼくにはやってくる。それは単に研究の方法というにとどまらない。あくまで「文字」を求めるという姿勢そのものが、文字史料が乏しいと言われる奄美の通念に激しく抗うものだった。ぼくは文字なき時代の心の考古を追おうとしているので、領域は必ずしも重ならないかもしれない。けれど、抗いをいとわない熱量は、引き継げると思う。

 いや、かわしてはいけないのかもしれない。弓削さんは、史料の発掘と論文の公開というだけではなく、それら資料の共有ということにも心を尽くした方だった。道はきみたちの前に拓けている、決して塞がっていない。そう彼は言っているのだ。それは弓削政己さんからの、無償の、心からの贈り物だ。

 その姿勢は、彼が発掘した「事実」に対しても向けられたものだったろう。弓削が、発掘した「事実」から新たな「解釈」を揚々と施すのではなくそこにためらいを見せたのは、島人や鹿児島に対する配慮からばかりではない。本質的にいえば、それは遠慮すべきことではないことだ。そうではなく、発掘した「事実」が意味することを紐解き、そこに繋がっている別の事実たちとの関係を捉え直すには、考古学者が行なう編年のような緻密な編集と、諸関係を結ぶ世界観が要る。単に、たとえば「差別はあった」を「差別はなかった」に置き換えれば済む話ではない。弓削は自分の発掘した「事実」ピースの前に何度も立ち尽くしたことがあるに違いない。彼は、その「事実」の重みに誠実であり、どう理解するかは、後に続く者たちへ委ねたのだと思える。

 委ねられたぼくたちはとても心もとない。しかし、奄美という少数者のなかに弓削政己がいたことを誇りに思う。それは励ましとなってぼくたちのなかに生き続ける。弓削さん、ミヘディロ、トートゥガナシ。

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2013/10/28

与論島は鳥島と交換されたか?

 伊波普猷が薩摩への割譲の範囲について、はじめ与論島は入っていなかったと書いた文章を読んで以来、折に触れては思いだし気になってきた。2009年の400年イベントでは、歴史家に尋ねることもしてみたが、不知という回答しか得られなかった。

 その文章は昭和五年に記されて、こうある。

 翻つて奄美大島諸島はどうかと見ると、慶長役後間も無く、母国から引離された、大島、徳之島、沖永良部、喜界の四島(最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再び琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた)は薩摩の直轄にされて、爾来三百年間極度に搾取されるやうになつた(後略)。(伊波普猷「南島人の精神分析」1930年)

 伊波の書いたものを辿ってみると、これに触れたものは、その四年前にもあるのに気づく。

(前略)そこで如才のない島津氏は、慶長十五年、十四人の御傘入奉行と百六十人の官吏を琉球に派遣して、琉球諸島の検知をさせ、同十七年に、その報告書を提出させた。その結果、大島・徳之島・鬼界島・沖永良部島の四島をその直轄とし、其の余を琉球王国の所領とした。(伊波普猷「孤島苦の琉球史」1926年)

 伊波は、「南島人の精神分析」を序文にした「南島史考」のなかで、参考書を挙げている。「孤島苦の琉球史」と変わらない認識を、その四年後の「南島人の精神分析」に書いたのだから、これらの参考書は彼の認識のなかで生きていたことになる。そこに挙げられているなかで該当しそうな「南島沿革史論」、「喜安日記」、「島津国史」、「南島紀事外篇」、「琉球見聞録」にも当たってみたが、上記の根拠になるような記述を見つけることはできなかった。後は、伊波が古仁屋で見つけたとしている「中山並大島諸島責取日記」が未見で残っている。

 ところで、慶長十六年に発給された知行目録では、「悪鬼納、伊江、久米島、伊勢那島、計羅摩、与部屋、宮古島、登那幾、八重山島」が、王国の範囲とされているから、伊波普猷は「孤島苦の琉球史」では誤認していることになる。

 しかし、誤認として済ませたくない引っかかりは残る。1609年6月に鹿児島に入り、1611年9月に山川港を出るまでの王、尚寧は、割譲を巡って薩摩を交渉をしただろう。

 薩摩藩は鹿児島で尚寧王らに、この年の中国明への進貢船を行かせるようにすることを促し、尚寧王は、同道の王弟尚宏、池城親方(毛鳳儀)を琉球へ帰国させた。その際さまざまなやり取りがあったと考えられる。(弓削政己「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』

 この交渉の過程で、「鳥島」と「与論島」の取り引きがあったとしても不思議ではないし、それにこの話題にはリアリティがある。
 
 弓削は敗北直後で鹿児島に行く前の、尚寧の領土認識について次のように指摘している。

 (前略)ここで、指摘したいのは、尚寧王の認識として、島津氏への割譲領土を「北隅の葉壁一島」と伊平屋島を琉球領土の「北隅」としていて、奄美諸島について触れていないのとである。これは、尚寧王の琉球国領土認識が、伊平屋島という北隅までという事を示していると見てよいだろう。(弓削政己「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」)

 この通りなのかもしれないが、ここでもあわいに位置する者はわずかに動揺を覚える。琉球を「北隅」が伊平屋島だとする認識は、ほぼ同緯度にある与論島が圏外にあることを直接には意味しないからである。

 このテーマも、我ながらなぜ執着するのか、うまく説明できないのだが、伊波普猷が何を根拠に書いたのか、探求していきたいと思う。沖縄を訪ねる機会が訪れれば、その際に史料を漁りたい。

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2011/10/22

なぜ、与論島までが割譲されたのか

 なぜ、与論島までが割譲されたのか。これは言うまでもなく、1609年の薩摩の琉球侵攻の結果、奄美諸島は薩摩の直轄支配下になるが、その際、なぜ、与論島までがその範囲となったのかという意味だ。このことはいまだ明確になっていないという歴史の問題であるばかりではなく、日常的な問いである。たとえ、歴史の問いとして意識していなくても、なぜ鹿児島なのかという問いをぼくたちは手にしているからである。それはとりわけその境界に位置する与論の島人にとっては切実さを秘めている。だから、この問いは優れて現在的なものなのだ。

 ぼくなどもありていに考えて、支配者の上から目線からすれば、奄美大島から順次、島は小さくなり与論島で最小となり、ついで沖縄島という新しい単位が地図上の区切りとして適当だったからと見なしてきた。西の伊是名、伊平屋は伊是名が尚氏の出自だから、例外とされる。『奄美自立論』でも、間接統治下の琉球本体を睨むのに、与論島までと区切るのが緊張を与えられるという視点を導入した程度だった。

 弓削政己は、『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』で、この問題を取り上げている。むろん、与論島の問いとしてだけではなく、視野を広く取り、奄美全体のこととして、「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」と題されている。

 弓削はそこで、尚寧王の領土意識からのアプローチを試みている。

 まず、薩摩への降伏直後、尚寧王が冊封体制下の朝貢先である明に宛てた公文書の記述。
 

警を報ずるに、三月内、先ず葉壁山・奇佳山等の処、烽号を連放するに拠り、虚惨を伝報す。
(一六〇九年五月付、尚寧王咨文『訳注文』)

 「葉壁山」とは伊平屋島のことで、「奇佳山」は喜界島に当たり、内容は、伊平屋島、喜界島の辺りで狼煙があがり悲惨な状況になっている、ということだ。弓削はここで繊細な立ち止まり方をする。尚寧王は喜界島に対して「属地」と認識しているが、書く順番は薩摩侵攻の順ではなく、伊平屋島を先にし喜界島を後にしていることに注意を促すのだ。つまり、尚寧にとって伊平屋島の方が重みがあったということだ。

 そして公文書は領土問題に触れ、
 

議して、北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを拯(すく)う(同上)
 

 議して、「北隅」の伊平屋島一島を割いて、民のひどい苦しみを救いたい、と続ける。弓削は書いている。

 ここで、指摘したいのは、尚寧王の認識として、島津氏への割譲領土を「北隅の葉壁一島」と伊平屋島を琉球領土の「北隅」としていて、奄美諸島について触れていないことである。これは、尚寧王の琉球国領土認識が、伊平屋島という事を示していると見てよいであろう。

 それだからこそ、「先ず葉壁山・奇佳山等の処」と伊平屋島を先に書くのだと弓削は言いたいわけだ。

 この後、薩摩は領土を確定し、奄美諸島を除く琉球に対し知行目録を出し、領土面積と生産高を確定するが、そのことを明に告げる公文書には、

茲に疆土(きょうど)を平定すること故(もと)の如くにして、士民の維新するに当り、例として当に進貢し謝恩して蕃職を供修すべし(一六一二年正月、尚寧王咨文『訳注文』)

 と尚寧は書く。弓削は、疆土、つまり領土は「故(もと)の如く」であると表現したことについて、ひとつは割譲範囲を小さく見せるための表面上の取り繕いの意味もあるだろうが、それ以前に、尚寧王の領土認識の現れと観ることができるのではないか、としている。

 弓削の考えは、北山との関係を述べるところで説得力を増している。琉球は三山時代を経て尚寧の由来である尚氏によって統一されるが琉球北部は、敗れた側の北山の支配地域だった。1650年の『中山世鑑』には、北山の管轄について、「山北王トハ、今帰仁按司也。是モ、首里ニ背テ、羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平也、数国を討従ヘテ、自ら山北王トゾ申ケル」とある。

 ここで、「羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平」等の「数国を討従ヘテ」山北王になったと解すれば、与論と沖永良部はその範囲に入っておらず、両島が琉球国の領土になったのは1420年以降ということになり、「羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平」以外の「数国を討従ヘテ」山北王になったと解すれば、山北王時代に与論と沖永良部は1420年以前に琉球支配圏に入っていたことになる、と両方の仮説を挙げている。弓削はここで、沖永良部には山北王の次男がいたという伝承を取り上げているが、どちらの仮説が正当かについては、結論を出すのを慎重に避けているように見える。与論にも、北山系の三男、王舅(おーしゃん)が与論城を構築したという伝承がある。しかし別には尚氏系の花城真三郎が築城したという説もある。ぼくもまた、少なくとも与論については、どちらの仮説が正しいと判断する材料を持っていないが、弓削が、与論と沖永良部の言葉や民俗的事象が琉球北部と似ていることから、早い時期から人・モノの交流はあったのを前提として山北統治下に早期に入ったと考えることもできるとしているのと同じように、支配の有無に関わらず、交流はあったと見做すのは自然なことだと思える。

 ここで弓削はもうひとつ、千竃(ちかま)文書についても取り上げている。千竃家は鎌倉幕府の薩摩国河辺郡の代官職と郡司職を務めた者で、千竃文書とは1306年に、子どもたちへの所領の分割譲与について書かれたものだ。ここで奄美諸島にも触れられているが、ここでは与論島のことだけ取り上げれば、「わさのしま」とある記述が、与論島かどうかは研究者により説が分かれているそうだ。弓削がここで言わんとしているのは、14世紀の初頭での奄美に対する北からの影響のことで、境界が南北に上下する様を想定している。

 弓削のまとめはこうだ。

 これまで、なぜ、薩摩藩は、与論島までを割譲したのかというのが、特に奄美諸島に住んでいる人々の疑問であった。その疑問に明快に対応する事はできないが、そのことを最後に検討したい。筆者は、基本的考えとして、幕府・薩摩藩、琉球国、中国明、相互の立場が接近していたからだと考える。

 これは難しい言い方だが、その後、「幕府の勘合貿易復活、蕃の大島割譲という当初の意向、伊平屋島以南が本来の琉球国領土という尚寧王の底流にある認識、明の進貢貿易の継続の意向が集約された結果として、奄美諸島が薩摩藩の直轄領となったのではないかと考える」と続けている。

 ぼくたちはここで、「お国はどこですか?」と聞かれた時のあの、引き裂かれた意識に宙づりになって言い澱む感覚が、歴史に裏打ちされているのを改めて知るとともに、山原(やんばる)への親近感がそのなかの要素になっているのも歴史的なものだということを改めて実感するだろう。尚寧王の領土認識はそれを裏返した形で示している。

 ただ、与論の島人である者には、なぜ、与論島までが、という問いが氷解するわけではない。伊波普猷が「南島人の精神分析」に記した注釈、「最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再ぴ琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた」という出所不明(ぼくが)の言葉の謎も解けないままだ。こうしてぼくはまた自分の身体感覚に耳を澄ます場所へ戻っていくことになる。しかし、この論考のおかげの分だけは、身体が発する弱いシグナルを受信しやすくなっているのは確かだ。


 

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2010/02/22

「経済の近代化」2

 その弓削が披歴する新たな知見から浮かび上がるのは、島役人の二重性である。

 ■1874年春に大島商社の専売制

 もともと、鹿児島県の「産物品建」(明治2年)の総入金の49・7%は黒糖であり、県歳入中の島々砂糖は、その17.4%(明治4)を占めるほど比重が高かった(『鱈児島県史』3巻)。1072(明治5)年9月11せ琉球が県の支配地から分離され「琉球藩」となった。それは県の税収減を意味する。

 鹿児島県の支配地から沖縄が分離されたことは、「県の税収減を意味する」。この指摘は重要である。鹿児島県にとってそれは奄美からの税収増への欲望の契機となっただろうからである。

 同年5月、県は大蔵省の当面1年限りの専売制許可を背景に、夏には大島の太、基と国産会社との専売制を結ばせようとした。しかし、島役人らは「島中歎願二付」という状況を背景に奮闘して、黒糖自由売買となった。「壬申(注・明治5)9月」付で、「鹿児島県庁」は「諸島詰在番」へ「勝手売買申付侯」と「申渡」があった(宮崎県文書センター所蔵)。それは1873(明治6)年】春の島民との取引から始まり、砂糖一斤=真米五合替えで、入手品物も安かったと感じていた。この県の申渡は、1875(明治8)年8月の「名瀬方伊津部村百姓中」は「壬申年…御年貢唐外は、勝手商売之段、御布告承知奉り候」と知っていた(『御廻文留写』)。

 しかし、1873(明治6)年3月30日付で、大蔵省も島民の黒糖自由売買を認めたが、大山県令は、前年に黒糖自由売買を認めながら、逆に「鹿児島商人某等ヲ遣ハシ、旨ヲ与人二諭シ「与人」(戸長)と「恣ニ一手売買ノ契約」を結んだ。大蔵省布達は「人民」に知らせなかった。そして、旧藩時代と同じく「脱糖取締役ヲ置キ、密売ヲ禁」じた。「大島商社是ナリ」という(『奄美史談』)。大島商社と島民との取引は、1874(明治7)年春の砂糖から実施。
この経過をみると、県の専売制の計画を島役人が承諾し実施されたのである。この時、島役人には、大島商社からの品物の注文権、保管権、島民への頒布権を与えられた(『意見書』)。さらに大蔵省通達は「人民」に知らされなかったが、役人層は知っていた可能性がある。

 これまで大島商社との契約のために上鹿した「太、基」の両島役人は、ただ判子を持って印を押してきた子どもの使いのように描かれてきたと思える。島中からの嘆願を背景にした奮闘もあったが、どうしても受動的な印象はぬぐえなかった。実は、両島役人は子どもの使いではなく、奄美のために奮闘したのである。

 しかし、それだけではなかった。島役人は同時に、「品物の注文権、保管権、島民への頒布権」が与えられた。つまり島役人としての奄美への支配力も維持できる手段を確保したのである。これは、薩摩藩支配の構造の形態の維持を意味した。ここに、島役人が、奄美の島人としては奄美のために奮闘し、だが奄美の実質支配権者としての島人としては藩政時代からの特権を保持しようとした二重性が現れる。しかも、弓削によれば、勝手売買に関する大蔵省通達は、島人の知るところではなかったが、島役人は知っていた可能性がある。島役人は奄美のために奮闘したかもしれないが、尽力はしたとは言えなかった、ということだ。

 そして、島津家か県か不明であり、実現はされなかったと考えられるが、黒糖増産2年計画で、数年後黒糖増産見込みであるとして、1876(明治9)年、政府に15万8千余円の拝借金を願い、黒糖取引を拡大する計画を持っていた(「鹿児島県大島開墾ニ関スル島津家願書)。また、大島商社ではなく他商人、船頭・水夫などと取引をした場合の罰則規定まで設けられていた。

 ■「薬糖」で抵抗、専売制を廃止

 大島島民は抵抗の一手段として、黒糖を「薬糖」と称して蓄えて、密かに他商人などと品物を交換し、1876(明治9)年1月から8月までの抜糖は6万斤余になるという(『鹿児島県史料四』)。また、自由売買運動の中で自由売買を実施すると大島商社との取引より1.5倍以上の利益があると試算をする(『御廻文留等写』)。運動の結果、1878(明治11)年5月18日、岩村県令は翌年からの大島商社との一手販売(専売)を廃することを決定した(「柿原意見書」)。

 他の島では、国産会社取引であったが、1873(明治6)年徳之島商設立、翌年沖永良部島商社設立、喜界島は「国産会社-生産会社」と取引をし、1875(明治8)年5月、喜界島商社が設立され商社との取引となった(『鹿児島県芝第三巻、『徳之島沿革概要』)。このような経過を経た商社体制確立と奄美諸島の島民との商取引が、近代奄美諸島の経済的出発であった。(奄美郷士研究会)

 この、黒糖を「薬糖」と称して大島商社に抵抗したという指摘もすがすがしい気持ちにさせてくれる。奄美の島人の、これは知恵である。


 ※下記は、明治5年9月、鹿児島県から各島庁詰役人への「勝手売買申付」文書。

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2010/02/21

「経済の近代化」1

 ふたたび、弓削政己が奄美の史実認識を塗り替えようとしている。

 近世期、各藩は財政確立のために専売制など経済統制を実施した。例えば、熊本藩は1774(安永3)年櫨専売制実施、九州各藩も樟脳、紙、櫨蝋、莚、苧、茶、明礬、石炭、鶏卵を専売、統制した。その多くが「国産」「物産方」「国産会所」「産物会所」などの組織を設置してきた(『相模女子大学紀要25号)。ところが近代になり1869(明治2)年6月、政府は「商会所廃絶」の太政官布達を出した。そのため、変更をしながら専売制・統制を続けようとした。

 たとえば、熊本藩も近代以降、専売制を維持しようとした。

 ■商社との対立、県外他地域でも

 鹿児島県も同年、「琉球産物方」と奄美諸島黒糖専売の管轄役所の「三島方」を廃止し、島津家の出資金98万円を資本金として「生産方」を設立。さらにそれを引き継いで、翌1870(明治3)年に「国産会社」を設立して、薩摩藩の従来の専売の茶、養蚕の一部自由売買、黒糖の専売制などを続けてきた。奄美諸島の黒糖取引も各島の商社設立以前は、「国産会社」の専売下にあった。

 隣の宮崎の場合、島津氏の支藩佐土原藩も明治初夏佐土原商社を設立。飫肥藩は1869(明治2)年の「物産居」設立で専売制を継続、その2年後の71(明治4)年物産局は「物産会社」となった。この佐土原藩では、1872(明治5)年の第1次一揆で、「商社廃止ノ事」「(商社代表薩人)魚住源蔵、当地二おいて売買差止ノ事」が起こった(『宮崎県百姓一揆史料』、宮崎県総合博物館『研究紀要』第6号)。つまり、百姓の大豆購入を仕切っている商社を廃止。百姓の櫓・槍は「勝手次第売買と自由売買となったが「百姓からの買い上げ値腰が「下値」(安い価格)であったため、その改善を要求したのだ。

 当事者の一人、魚住源蔵は後の徳之島商社の商人の一人であった(『徳之島沿革概要』)。奄美諸島でも同年夏、太、基の両与人職と国産会社との黒糖自由売買交渉以後、丸田南里らの「勝手世運動」、黒糖自由売買連動が起きている。このよろ一な動きが他地域でも起こってきた。旧慣同様な専売制志向の県およびそれと結びついた商人らと百姓との対立は、内容に違いがあるにしても、奄美諸島だけの運動ではなかった。そのことを前提に、奄美諸島の自由売買運動を新しい知見で概観する。(「南海日日新聞」2月12日)

 宮崎でも商社による専売制が敷かれ、買い上げ価格の改善を求める一揆が起こっていた。ことは奄美だけではなかったのだ。弓削がここで最も強調したいのも、「旧慣同様な専売制志向の県およびそれと結びついた商人らと百姓との対立は、内容に違いがあるにしても、奄美諸島だけの運動ではなかった」ことであるに違いない。

 むろん、奄美では、奄美だけが専売制が敷かれてきたと言われてきたわけではない。しかしそれは比較対象を欠いてきた。そのため大島商社は相対化される契機がなく、奄美の被った困難が絶対視される傾向を生んできたのは否めない。だから、弓削の指摘は奄美にとって鎮静剤になるのである。

 一方、ぼくはここで、あの、みんな同じだったという歴史の回収思考に委ねようとは思わない。他地域との差異と同一をめぐる新たな知見を手にしたことで、奄美にとっての事態がどのような強度を持っていたのか、その固有性を精緻にする手掛かりとして弓削の史実更新を受け取るのだ。


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2010/02/18

「近代化への出発」3

 せっかくだから弓削の作成した表から、与論島の経緯を追ってみたい。

1875(明治8)年
・与論島支庁、設置。

1879(明治12)年
・郡役所出張所、設置。

1880(明治13)年
・郡役所出張所、廃止。沖永良部管轄に。

1887(明治20)年
・瀬利覚を立長に
・中間を那間に

・1村。立長村。

1908(明治41)年
・1村。与論村。


 なんと、与論は21年間、「立長村」と呼ばれていたことがあった。この間、島名は「立長島」だったのだろうか。まさかね。

 大島がぶつかっている近代化をまるで余波のように受け取りながら、確実に奄美としての近代のなかに取り込まれていく姿を見るようだ。


 P.S.今日は方言の日。ゆんぬんちゅちち、あわりしちあいちきちゃいやー。なぐりゃー。


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2010/02/17

「近代化への出発」2

 弓削政己による「近代化への出発」、続き。

 ■実現しなかった「大島県」構想

 奄美諸島の行政官庁名・区域はめまぐるしく変わったが、その変遷を表「近代(明治初智の奄美諸島の行政変遷」としてまとめた。ただ、このめまぐるしさには、明治政府と県との奄美を巡る攻防があった。以下、結論的に1大支庁・4支庁制度と金久支庁、および種子島に郡役所が新設された背景について触れておきたい。

 弓削によれば、明治初期の奄美における行政のめまぐるしい変遷の背後には、政府と県による攻防があった。

 1875(明治8)年6月12日に大島大支庁・喜界島支庁・徳之島支庁・沖永良部島支庁・与論島支庁が設達された理由は、当時日本が赤字貿易であったことだ。その第2の輸入品が砂糖であり、大蔵省は貿易赤字対策として国内の砂糖増産を計っていた。奄美諸島の砂糖増産は鹿児島県下では望めないとして、独立県の「大島県」を設達しようとした。その提案は大久保利通内務卿の反対で実現されなかった。逆に大山県令は、「表」にあるように鹿児島県下の行政区として1大支庁・4支庁制を提案し、大久保内務卿を通して決定されたのである。

 「奄美諸島の砂糖増産は鹿児島県下では望めない」として、大蔵省は「大島県」を構想する。これは大久保利通の「否」によって実現されなかったが、代わりに「大島大支庁・喜界島支庁・徳之島支庁・沖永良部島支庁・与論島支庁が設達された」。相変わらず、文脈がうまく飲み込めないのだが、大蔵省案は否定されたものの、鹿児島県としても砂糖増産を目論むから、与論という小さな島まで「支庁」を置く案が通った、ということだろうか。

 金久支庁設置は、奄美の行財政を奄美島民の地方税、国の支出、奄美内の県施設の収入からなる鹿児島県財政から切り離した「分離経済」「独立経済」との関係があった。

 県当局は、分離経済を実施したら、奄美諸島は「忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当野という認識で反対をしていたが、県議会の多数は分離経済を求めた。その折衷案上して行政運営費を国が負担する長崎厳原支庁の例に倣って金久支庁が設麿されたのである。

 県当局は「独立経済」にすれば奄美は、「言うべからざる惨状に陥る」のは当然との認識から反対するが、議会の多数は独立経済を求めた。その折衷案として、「行政運営費を国が負担する」ことになり、その施行のために「金久支庁」が設置される。

 その後、金久支庁の行政運営費が余った。時の島司の森岡真は、1887(明治20)年8月奄美の地方税が5400円余ったが、このような地方税を「内地事業へ補翼(ほよく)」するよりは、奄美諸島で使用する「分離経済」がよいとの考えを上申(「大島一件」)、そして、結果的・本質的には疲弊をもたらす分離経済の方向をとった。

 余った行政運営費を「内地費用」に充てるよりは奄美に、という経緯で、独立経済を島司は受け入れた。

 この解説でぼくたちはようやく、「独立経済」突入の契機を知る。しかし、ことはある意味、成り行きだったということではないか。

 種子島へ郡役所を県は新たに遷したが、国は鹿児島裕山北大隅郡役所の管轄区域に編入の指示を出していた。県は甑島の風災害による甑島島民の移動が離島同士の種子島へ設置をした方がスムーズにいくという考えであった。政府方針に反した措置をとった渡辺千秋県知事は1889(明治22年4月「処分伺」を政府に提出したが、政府はやむをえないということで処分をしなかった。

 このように、奄美諸島の行政編成は、当時の国際貿易への大蔵省の対応、政府部内の考え、県内の方策などとの関連、また、1884(明治17)年、瀬戸内への支庁設置の3度にわたる「移転請願」運動という奄美諸島内部の動きも孕みながらの単なる名称変更ではなかった。このような背景を抱えながら、奄美諸島の近代は歩み始めるのである。(奄美郷土研究会)

 ぼくたちは、弓削のこのたびの論文により、。高江洲昌哉の「近代日本の地方統治と『島嶼』」でもなかなか理解に至らなかった、「独立経済」突入の契機を知ることができた。「独立経済」ではやっていけない。しかし、それを県議会の多数が望み、奄美のためのことができないのであれば、国庫負担の余剰も出たこともあり、独立経済を選択するしかない。つづめていえば、そういうことになると思える。



 

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2010/02/16

「近代化への出発」1

 南海日日新聞で、「薩摩侵攻401年目の視座」と題して「シマジマの海路」の連載が始まった。待望のものだ。
 まず、弓削政己による「近代化への出発」。

 薩摩藩支配下の奄美諸島は、廃藩置県後の1869(明治2)年2月、藩全体の旧来の職員・職制は改廃された。奄美諸島の代官は、大島を「(一等)在番」、喜界島、徳之島と与論島を含めた沖永良部島を「(二等)在番」とし、「代官所」は「在番所」と名称変更行政した。鹿児島からの詰役人は旧藩の「見聞役」が「検事」に、「附役」が「筆者」となり、ついで1873(明治6)年には検事・筆者は、それぞれ「監督掛」「附属」となった。しかし、詰役人は1875(明治8)年6月までに引き上げられた。

 薩摩藩支配の象徴である「詰役人」は、明治8年に引き上げられた。

 ■大島に大支庁、4支 庁を設置

 官庁名は、1871(明治4)年8月、知政所を鹿児島県庁と改め、行政区を大区・小区とし、1873(明治6)年7月27日付、鹿児島県権令大山綱良名で、県内の「大区」に「戸長役所」設置を布告した。なお、同年8月に県は県内生六つの支庁に区分した。第6支庁である奄美の支庁は設置されなかったようだという見解もあるが、トカラの七島を奄美諸島の第6支庁所管としたとある点から、第6支庁は設置されたと考えられる。

 1875(明治8)年6月12日、鹿児島県は名瀬方伊津部・金久(現奄美市名瀬)の金久に設置されていた名瀬方管轄の「名瀬方戸長役所ヲ廃し」て、そこに大島全体を管轄する「大支庁」を建設し開庁した。他の四島は「喜界島支庁」「徳之島支庁」「沖永良部島支庁」「与論島支庁」とし、奄美諸島に「1大支庁」「4支庁」を置いた。この時初めて与論島に沖永良部島管轄から分離lされて、個別の行政官庁の与論島支庁が設置されたのである。

 与論が沖永良部管轄から離れて独立した行政官庁が置かれたのは明治8年。「与論島支庁」。

 しかし、大支庁は1878(明治11)年6月までには廃止され「支庁」となり、他の4カ所の支庁と同じ名称となった。つまり5支庁の官庁制度になった。

 同年7月22日布告の郡区町村編成法により、鹿児島県令宕相通俊は、奄美諸島は「従来、国郡の名称がないので、(郡区町村編成法の)施行に差支える」ということで、「大島外四島国郡名御足メ相成度儀二付上申」をし、岩村県令の上申をうけて、内務省は当初、4島を大島郡、喜界郡、徳ノ島郡、沖永良部郡、与論郡と各島を郡とすることを「追伸」したが、与論島は村数が6しかないことで、結局、政府は翌1879(明治12)年4月8日、太政大臣三傑実美、右大臣岩倉具視名で「大隅国大島郡」となった。

 奄美が「大島郡」の名称になったのは、明治12年。高江洲昌哉の「近代日本の地方統治と『島嶼』」で見たように、郡名について鹿児島県の案はなく、名づけは元老院によるものだった。

 同時に「本年六月三十由限、大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島各支庁廃止候条、此旨布達候事 明治十二年末月廿五日 鹿児島県例岩村通俊」と甲第90号布達で5支庁を廃止、7月1日名瀬方金久村に「郡役所を開庁し、1郡に1郡長として、支庁長は郡長となった。廃止された4島の支庁は、「郡役所出張所」とされた。

 その後、与論郡役所出張所は1880(明治13)年7月廃止され、1883(明治16)年6月限りで大島以外の3島の郡役所出張所は廃止された。

 1885(明治18)年10月19日、名瀬方金久の郡役所が廃止され、その前の17月17日に、「金久支庁」が設置され、10月21日に開庁した。これまで諸書に「明治18年7月15日に至って、大島郡名瀬方金久に再び支庁が設置され」たと記述されているが、誤記である。

 そして、「鹿児島県公報」に「告示墾ハ十三号本県金久支庁ヲ自今大島島庁ト改称ス 明治十九年十一月十三日鹿児島県知事渡辺千秋」とあの攻一るように、翌1886年11月13日、金久支庁は「大島島庁」と改称され、支庁長は島司となった。

 その後1926(昭和元)年7月1日に「大島支庁と支庁長」に改められた。この金久支庁が設置れた時、行政管轄は、旧熊毛郡、旧護謨郡と川辺郡のうち十島も含まれた。それが1888(明治21)年4月1日から市制・町村制が定められたため、行政区として翌年4月1日から、旧熊毛郡、旧護謀郡は熊毛郡・護謨郡を1区域とした種子島に新設された郡役所所管となり、大島郡から分離された。

 大島郡が現在の奄美と同じ範囲になったのは、明治21年。この間の変遷はめまぐるしく、何度たどってもなかなか頭に入ってこない。おさらいすれば、大支庁、支庁の設置は、大島県構想の挫折の次の展開であり、金久支庁設置は独立経済の前触れだった。


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2008/10/05

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」

 弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、近代初期の奄美が置かれた状況を見てみる。

 まず、驚くことに、大蔵省には「大島県」という構想があった。

一八七四(明治七)年九月一九日、大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ、大蔵省稟申」があり、大島県構想を打ち出してきた。このことは大島商社対策であり、砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる。

 その大島商社設立の背景。

・1871年(明治4) 翌年から大阪相場で「石代金納」とすることを決定。

一八七一(明治四)年に、県は政府の許可を得ずに、翌七二(明治五)年の貢糖から、大坂相場換算で石代金納とし、残糖である余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定していた。

 この決定、「県は政府の許可を得ずに」というところ、いかにも薩摩的だと思う。

 さて、1871年(明治4)といえば、西郷が大島商社設立に関して、賛意を表した年でもある。

 奄美諸島の専売制を廃止し、商社をつくって商売を独占し、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から聞いたが、その方策はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。[私訳](明治四年十二月十一日。桂四郎宛て)

・1872年(明治5) 大島商社設立の契約。

一方、貢糖以外の砂糖についても、鹿児島県は旧来の砂糖専売制を維持するために、大島商社を作り、その契約を一八七二(明治五)年夏、上鹿した大島与人職の太三和良と基優良の二名と結び、「翌年より開店相設、約定之通施行候」となった。

 これに対し、大蔵省は、当面一年限り、とする。

大蔵省に対する鹿児島県参事大山綱良の大島商社設置の「伺」(草案)によれば、「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産(筆者一砂糖)ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」であり、旧藩時代、貢粗以外の砂糖の私買を許可したところ「一ノ弊害ヲ生シ」たとし、専売制廃止はやむを得ないが時期早々である(後略)

 奄美を「会計ノ元根トセシ場所柄」と県は認めている。奄美は貧困にあえいできたが、その奄美は県を支えてきたということだ。しかし、この「砂糖の私買を許可したところ『一ノ弊害ヲ生シ』」たというのは何のことを言っているのだろう。薩摩藩の借金が嵩んだことを意味しているのだろうか。「専売制廃止はやむを得ないが時期早々である」というのは、廃止の前に士族を救済しなければならないという意味だと思う。

 この、「会計ノ元根トセシ場所柄」について、弓削は数値を挙げている。

 一八六九(明治二)年の「旧鹿児島藩産物出入比較表」
 黒糖、菜種、生蝋、鰹節、煙草、茶、牛皮など「産物晶建」の惣入金   
 171万9750両
 黒糖(奄美島嶼、琉球、ロ永良部、長島、桜島、垂水、新城、種子島等) 
 85万5000両(全体の49.7%)
 黒糖斤数 大島、徳之島、喜界島の三島だけでも61.9%。

・1873年(明治6) 貢糖現物納とそれ以外の自由売買。県の方針と対立。
・1874年(明治7) 石代金納。これは、県の方針を認める。

 と同時に、このとき、大島県の構想は出される。「大島県」によって、「砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる」。

 これは、砂糖輸入を減らし、国益を増加させるという国家意思によるものだった。
 そして、大島県構想は、伊藤博文が大久保利通の判断に任せることとし、大久保は「否」とし実現しなかった。

その代り、

・1875年(明治8) 「大島に大支庁が開庁、他の四島に支庁を置く結果」

・1877年(明治10) 柿原義則(大支庁長)は「意見書」

「明治八年大支庁ヲ建設シ藩製旧法ヲ廃シテ維新ノ政令ヲ布クト雖モ臣ヲ以テ之ヲ視レハ依然タル藩治二異ナラザル者ナリ」

 「大支庁」は県ではなく国の意思であり、その流れで大支庁長も長崎県出身の柿原義則がなったと思われる。その柿原は、藩政を廃して維新の政令をもってしても依然として藩治に変わるものではないと言っている。

しかし、島民の「商社解体」、砂糖自由売異の運動により、大島商社体制は終わり、一八七八 (明治一一) 年に 「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引となった。

 ここで、1873年の「自由売買」に関する大蔵省布達がやっと実施されることになった。

◇◆◇

 砂糖自由売買段階では、鹿児島商人対策として、農商務省から問屋構想が出されるが実施には至らなかった。

 この産地問屋方式が実施されなかったのは、この前田正名ら農商務省の地方産業近代化の路線が、松方正義大蔵卿らの日本資本主義発展の原始的蓄積を進めたと評される路線と対立するものであり、また、前田正名が一八八五(明治一八)年一二月、農商務省をやめさせられたこととも関係すると考えられる。しかし、大蔵省の 「大島県構想」、農商務省内部の「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」は、一方は行政の仕組み、他方は流通の仕組みの変更で、ともに砂糖の輸入量の減少を図るという点では共通していて、その方針は当時の奄美島嶼や鹿児島県の状況に対応していたと指摘できるであろう。

 松方正義といえば、西郷が沖永良部島の土持正照の歎願に応じて、大島商社の黒糖収奪を緩和するよう要請した人物だ。これは、自由売買の段階で、農商務省が地方産業近代化に挑むも挫折した過程と捉えることができる。

◇◆◇

・1885年(明治18) 金久支庁が設置される。

 この弓削の論考は、高江洲の考察に依拠しているというのだが、それを踏まえて弓削は書く。

しかし、大島支庁になって以後の一八八八(明治二二年から一九四〇(昭和一五)年の間、「独立経済」という鹿児島県財政と分離した島嶼財政の運営となったことへの評価について、西村富明『奄美群島の近現代史』(海風社一九九三年)批判も含めたものであった。

 西村は、『奄美群島の近現代史』で、県の敷いた独立経済は、差別政策だと断じている。

 それは、①「独立経済」成立過程と成立に関して、鹿児島県会と県令の質的違いがあり、県令の立場は、自治経済精神を強固にする「島嶼のための独立経済という内容」であった。②しかし、その後の展開は「産業の停滞を押し止どめるという不幸な結果になった」 のであり、「独立経済がもっていた正負の側面のうち、負の側面に歴史は動いたといえる」。③しかし、「独立経済は地方税経済がもたらした島嶼に対する差別的構造に着目し、それを打開しようとした点があった」と評価する。
 この独立経済について、西村富明論文の「差別政策」という評価に対して、高江洲昌哉論文は「負の側面で歴史は動いた」が、しかし、「島嶼のため」の内容であり、差別構造を「打開しようとした点があった」と、両論文は逆の評価となっている。奄美近代史における「論文として提示された論点」として浮上してきたことになる。今後検討が必要とされるものである。

 西村が差別政策と断じるところ、高江洲は差別構造を打開しようとしてそうできなかったと評価している。弓削はこれを今後の検討が必要としている。

 それは第一に、「独立経済」実施地域は、一八八八(明治二二年四月一日に市町村制が成立したため、一年間のみ、旧熊毛郡、護講郡はその「独立経済」に含まれた。しかし、トカラの島々(上三島、下七島の十島)はその後も独立経済に含まれた。つまり奄美島映だけではなかったことは念頭に置かなければならない。この施策を単に「奄美差別」の根拠とすれば、トカラの古老の「県は奄美を差別し、奄美は十島を差別した。税と兵隊は確実にとられたが、港も道路亀未整備‥・電気も通信施設も零‥・学校は自分たちで建てた‥・近代化政策のおくれなんてものじゃない。何もしてくれなかった」という点をどのように位置づけるかということになる。

 ぼくは奄美の近代は、二重の疎外が顕在化する、したがってそれへの抵抗も顕在化する段階だと捉える。二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という構造を持っていた。近代以降、<大和でもない>という規定は「日本ではない」という含みを帯びるだろう。それが幕藩制期の直後であれば、容易に「日本ではない」が、「本土ではない」ということと結びついて不思議ではない。トカラにしても、奄美との関係で、琉球でもなく日本でもないという偽装を強いられた地域である。「独立経済」に含まれようが不思議ではない。また、奄美は薩摩が奄美を、沖縄が奄美を「中心ではない」と見なしたことの延長で、トカラに差別するのは容易に想像できることだ。

 第二に、「独立経済」に至る鹿児島県令など行政官と鹿児島県会の認識の差をどう見るかという点である。
 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。

 として弓削はこういうことを書いている。

 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。
 例えば、一八八五(明治十八)年五月七日、鹿児島県令渡辺千秋の内務卿山縣有朋あての「大島郡二島長ヲ置候儀再上申」 に 「去ル十二年郡制施行ノ後こ在テハ、地方税経済上内地ヨけ補充ノ金額不少ヨリ、県会こ於テ時〃経済分離ノ儀申出候得共、一朝之レヲ分離候時ハ、絶海島幌ノ人民費途二難堪、忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然二付」と述べている。

 あの県令第39号を出した渡辺は、独立経済にすれば、「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」という認識を持っていたことのほうがぼくには驚きである。

 これに対し、

鹿児島県会においては、トカラの島々を含めた島峡への「内地」よりの財政の持ち出しという現状認識とそれへの対策としての独立経済移行の認識である。それに対して県令は島峡の疲弊をもたらすという立場で、認識は確かに質的差異があった。

 県のほうは、奄美、トカラへの財政は「持ち出し」になるから独立経済がよいという認識を持っていたという。

 結局、「金久支庁の設置」、「島長」の設置と運営について国庫負担とすることで独立経済は施行されることになる。これは、県としてトカラ、奄美を「持ち出し」で負担したくないという県の意思を、県令が国家の負担としながら実現したことを意味する。そういうことなら、西村の見解に分があるのではないだろうか。

 よくやるよ、と思う。薩摩を救ったのは奄美の黒糖だという認識を持ちながら、奄美、トカラは負担だから「持ち出し」はご免こうむるというわけだ。ここに、薩摩は収奪の責任を何も取っていないことが明白になる。

 個別鹿児島県の明治初期の黒砂糖専売をめぐる「士族救済」での大島商社設立、島民の流通に力を尽くした柿原義則大支庁長や新納中三支庁長(後、島司)が罷免された。鹿児島県令の罷免要求とそれを追認した明治政府の立場をどのように見るかということも必要であろう。

 さあそれは究明を待ちたいところだ。これは、西南戦争後の薩摩への配慮が働いたものと思えなくもない。


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2008/05/10

「奄美から見た薩摩と琉球」

 『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

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 弓削政己さんは、2003年、「奄美から見た薩摩と琉球」と題した講演を行っている。これは、1989年の「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のリフレインのように、その延長線上まっすぐ先に来るものであり、弓削さんの持続する問題意識の確かな手ごたえを感じることができる。「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」では分かりにくかった箇所も切開されていて、新たな知見ももたらしてくれた。

 弓削さんの整理はこうだ。

 まず、薩摩による奄美の「黒糖上納」の仕組みについて。
 薩摩藩の特産品収入の50%は黒糖だが、奄美の黒糖で35%を占め比重は高い。

 1.薩摩藩は、黒糖を買い上げる
 2.買い上げた黒糖を「米」に換算する
 3.黒糖から換算された米から、税金としての米を差し引く
 4.さらに、砂糖きび生産のための「鉄輪車」や必需品購入のための米を差し引く
 (島人の受け取る米)=(生産した黒糖から換算された米)-(税金としての米)-(必需品購入のための米)

 薩摩は必需品を不等価交換したので、高くなっていた。結局、米は「一般の島民、百姓には渡らない」。

 なんとまあの搾取の構造だが、このなかで例外的な存在だったのが、「郷士格」と呼ばれる人々。「郷士格」は薩摩藩における士身分の存在のことで、奄美における士農分離を生み出す仕組みになっている。奄美の郷士格の発生を追うと、

 1番目 1726年 奄美大島の島人 新田開発の功績
 2番目 1752年 喜界島の島人  「唐通事」(通訳)の功績
 3番目 1761年 徳之島の島人  黒糖生産増産の功績

 こうして始まった郷士格への取り立ての結果、約1世紀後には、42家部(世帯を少し大きくした概念)の郷士格が成立している。

 この奄美の郷士格を薩摩はどう見ていたか、奄美の郷士格はどう振る舞ったか。弓削さんは追っている。
 郷士格は、士身分の呼称だが、1728年に薩摩藩は「皆百姓」という達しを出していて、結局は「百姓」だった。だから、月代(さかやき)、つまり武士のように髪を剃りあげず、格好も奄美の服装のまま。刀の所持も許されなかった。

 ところが明治に入り、士農工商がなくなった際、奄美の郷士格は「百姓」だから「平民」の位置付けになるのだが、奄美の郷士格一族は、県に「士族」としての戸籍編入を嘆願し、1880年にそれが認められる。

 近世期の奄美の郷士格は何を演じたのか。
 1852年、奄美大島の郷士格の一族は、1000人で37000人の人口の2.7%。ところが、薩摩藩からの「詰役人」は、「代官が一人と、横目と呼ばれている検察関係の二人と、付役というのが五名」、計8名と足軽集団。奄美大島の黒糖収奪をするにはたった8名では不可能だが、それを可能にしたのが、島役人と郷士格の存在だったというのが弓削さんの分析だ。

 さらに弓削さんは、明治期に奄美大島の島民は多額の借金を抱え込み、それは「鹿児島商人」によるものだと言われてきたが、調べると、借金の63%は確かに鹿児島の商人なのだが、37%は実は島の郷士格からの借金になっている。島の郷士格の利息は、鹿児島の商品の利息が45%なのに対し、30%で低いが(比較したらという意味で、基本的にはどちらもべらぼうに高い)、借金返済ができない場合は土地を取り上げて土地集積を図っている。要するに、ひどいことしたのは、鹿児島商人だけじゃなく、島人なんだよというのが、弓削さんの言いたいところだと思う。

 弓削さんが追求している2つ目のポイントは、「一字姓」のこと。これは、元ちとせや中孝介のように、奄美に多い一字姓はどういう由来で起こったかということだ。

 もともとは、「皆百姓」だから、姓を持つ者はいなかったのだが、郷士格という存在が生まれるようになって、姓を与えることになった。このとき、「奄美は琉球の内」という隠蔽策を薩摩は敷いていたから、名前においても「琉球の内」であることを見せなければならない。沖縄では沖縄の名前の他に、唐名という一字姓の名を持って対応している。そこで、奄美の場合は、直接、唐名に対応するように一字姓にした。

 そういう点から言いますと、藩全体での郷士格の取り立てをしながらも、奄美の直接支配を隠蔽して、東アジアの交易を確保するという政策、意図の中から、東アジア全体に共通する一字姓を選ばせる。このように、奄美を検討する場合の聖の視点として、冊封体制との関係で把握する必要があり、そのことが奄美の表れ方の一つだと思っております。(『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

 弓削さんは講演のなかでは言及していないが、他の場所での発言などを合わせると、冊封体制への対応が一字姓の根拠という指摘を行うのは、従来、一字姓が薩摩による差別の現われとして説明がなされてきたことへの反論の意を含んでいるのだと思う。

 もうひとつ、弓削さんが追求しているポイントはある。奄美に対し、琉球と薩摩合意のもと、奄美に不利な政策を行うこともあったという点だ。例のひとつにウコンが挙げられている。奄美大島や沖永良部島でもウコンの栽培をしていたのだが、それらが大阪市場へ流れていくと、琉球のウコンの値段が下がる。「そういう中で、王府と鹿児島藩との利害の一致だろうと思いますけれども」、奄美に「ウコン栽培を禁止」させたということ。

◇◆◇

 弓削さんは、この講演で、「こういうことがある」という指摘にとどめて、その背景や、だからこう言えるという仮説に消極的になので、他の場所の発言を合わせて弓削さんの意を汲み取ってみる。

 ・薩摩の黒糖収奪は激しかったが、その収奪を現地で担ったのは、島人出身の郷士格、島役人だった。
 ・一字姓は、薩摩の差別感情のたまものと言われてきたが、実際には冊封体制に対応したものだ。
 ・奄美と琉球との同胞意識がいざというときに出てくるが、実際、琉球は、必ずしも奄美を身内と捉えてきたわけではない。

 「奄美から見た薩摩と琉球」は、奄美復帰50周年を記念して鹿児島で行われているのだが、弓削さんの講演を追ってくると、実際にはこれは、奄美の人向けに語られているように見える。奄美の人に、少し冷静になって物事を見つめよう。そう言っている気がする。

 ぼくたちは弓削さんの資料を丹念にたどり、史実を浮かび上がらせる作業から多くを学ぶことができる。その先で、弓削さんの発言をどう受け止めるか、考えなければならない。

 たとえば、被支配者は支配者から支配の仕方を学ぶ。だから、被支配者が支配者になると、もとの支配者以上に強度の支配をしがちであるということは、よく見られる現象だ。奄美の島役人、郷士格もそのご他聞に漏れない。その情けなさも止む無さも、ぼくたちにとって他人事ではない。それは行政や資本の意思としていまも引き継がれていると言ってもいいくらいだ。

 一字姓について、冊封体制に対応したものという指摘自体が重要だ。それは、二重の疎外の隠蔽の強制の象徴的な例だと分かるからだ。また、琉球が、琉球の利益のために奄美を不利益を優先することがあるのは、政治的共同体としていずれそんなものだと思う。それと、奄美と琉球の島人の感情としての同朋意識は分けて考える必要があると思える。

 ぼくは弓削さんの指摘はごもっとも思うだけなのだが、しかしそれは奄美の既存の歴史観を知らないから言えることで、こうした史実の指摘自体が、まだ貴重な段階にあるのかもしれない。現に、弓削さんはこの講演のあとのパネルディスカッションで「私の考えはまだ市民権を得るという段階まではいっていなくて」と発言している。

 ぼくの問題意識は、奄美の島人の困難の固有性を浮かび上がらせることだ。だから、郷士格の存在にしても、一字姓にしても、政治的共同体としての琉球の振る舞いにしても、奄美の困難がどんな構造を持っているのかを明らかにする点で関心を持つ。

 たとえば、昨年のパネルディスカッションで弓削さんはこう発言している。

奄美の歴史をどう把握するかという点で、学生時代、後輩に「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったのよ」と反論された。
 それに対して、何もいえなかったことを覚えている。それは、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿題であった。(「6.30奄美/発表内容」

 ぼくにも同じような場面はあった。ただ、そこから受け取る「宿題」の中身は、弓削さんとは違っている。
 ぼくは、鹿児島の人に言われた。鹿児島も大変だったので奄美は特別じゃない、と。簡単に言ってくれるじゃないのと思ったが、十代のぼくに返す言葉は貧困だった。「同じだった」と言える側面があるのは確かだとしても、そう言えるまでに多くのことが捨象されていて、また思想としての薩摩は自己吟味に晒されることなく延命する度し難い頑迷さが強烈だった。ぼくはそこから、それなら奄美の困難の固有性とは何だろうと考えてきた。それが他愛のないものであれ例を見ないものであれ、固有の構造がつかめれば、その解除ができるだろう。そしてそれとともに、他者に伝え比較可能なものにすることができると思ってきたからだ。そこが、弓削さんの問題意識との分岐点なのかもしれない。



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