カテゴリー「28.弓削政己の奄美論」の10件の記事

2008/10/05

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」

 弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、近代初期の奄美が置かれた状況を見てみる。

 まず、驚くことに、大蔵省には「大島県」という構想があった。

一八七四(明治七)年九月一九日、大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ、大蔵省稟申」があり、大島県構想を打ち出してきた。このことは大島商社対策であり、砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる。

 その大島商社設立の背景。

・1871年(明治4) 翌年から大阪相場で「石代金納」とすることを決定。

一八七一(明治四)年に、県は政府の許可を得ずに、翌七二(明治五)年の貢糖から、大坂相場換算で石代金納とし、残糖である余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定していた。

 この決定、「県は政府の許可を得ずに」というところ、いかにも薩摩的だと思う。

 さて、1871年(明治4)といえば、西郷が大島商社設立に関して、賛意を表した年でもある。

 奄美諸島の専売制を廃止し、商社をつくって商売を独占し、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から聞いたが、その方策はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。[私訳](明治四年十二月十一日。桂四郎宛て)

・1872年(明治5) 大島商社設立の契約。

一方、貢糖以外の砂糖についても、鹿児島県は旧来の砂糖専売制を維持するために、大島商社を作り、その契約を一八七二(明治五)年夏、上鹿した大島与人職の太三和良と基優良の二名と結び、「翌年より開店相設、約定之通施行候」となった。

 これに対し、大蔵省は、当面一年限り、とする。

大蔵省に対する鹿児島県参事大山綱良の大島商社設置の「伺」(草案)によれば、「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産(筆者一砂糖)ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」であり、旧藩時代、貢粗以外の砂糖の私買を許可したところ「一ノ弊害ヲ生シ」たとし、専売制廃止はやむを得ないが時期早々である(後略)

 奄美を「会計ノ元根トセシ場所柄」と県は認めている。奄美は貧困にあえいできたが、その奄美は県を支えてきたということだ。しかし、この「砂糖の私買を許可したところ『一ノ弊害ヲ生シ』」たというのは何のことを言っているのだろう。薩摩藩の借金が嵩んだことを意味しているのだろうか。「専売制廃止はやむを得ないが時期早々である」というのは、廃止の前に士族を救済しなければならないという意味だと思う。

 この、「会計ノ元根トセシ場所柄」について、弓削は数値を挙げている。

 一八六九(明治二)年の「旧鹿児島藩産物出入比較表」
 黒糖、菜種、生蝋、鰹節、煙草、茶、牛皮など「産物晶建」の惣入金   
 171万9750両
 黒糖(奄美島嶼、琉球、ロ永良部、長島、桜島、垂水、新城、種子島等) 
 85万5000両(全体の49.7%)
 黒糖斤数 大島、徳之島、喜界島の三島だけでも61.9%。

・1873年(明治6) 貢糖現物納とそれ以外の自由売買。県の方針と対立。
・1874年(明治7) 石代金納。これは、県の方針を認める。

 と同時に、このとき、大島県の構想は出される。「大島県」によって、「砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる」。

 これは、砂糖輸入を減らし、国益を増加させるという国家意思によるものだった。
 そして、大島県構想は、伊藤博文が大久保利通の判断に任せることとし、大久保は「否」とし実現しなかった。

その代り、

・1875年(明治8) 「大島に大支庁が開庁、他の四島に支庁を置く結果」

・1877年(明治10) 柿原義則(大支庁長)は「意見書」

「明治八年大支庁ヲ建設シ藩製旧法ヲ廃シテ維新ノ政令ヲ布クト雖モ臣ヲ以テ之ヲ視レハ依然タル藩治二異ナラザル者ナリ」

 「大支庁」は県ではなく国の意思であり、その流れで大支庁長も長崎県出身の柿原義則がなったと思われる。その柿原は、藩政を廃して維新の政令をもってしても依然として藩治に変わるものではないと言っている。

しかし、島民の「商社解体」、砂糖自由売異の運動により、大島商社体制は終わり、一八七八 (明治一一) 年に 「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引となった。

 ここで、1873年の「自由売買」に関する大蔵省布達がやっと実施されることになった。

◇◆◇

 砂糖自由売買段階では、鹿児島商人対策として、農商務省から問屋構想が出されるが実施には至らなかった。

 この産地問屋方式が実施されなかったのは、この前田正名ら農商務省の地方産業近代化の路線が、松方正義大蔵卿らの日本資本主義発展の原始的蓄積を進めたと評される路線と対立するものであり、また、前田正名が一八八五(明治一八)年一二月、農商務省をやめさせられたこととも関係すると考えられる。しかし、大蔵省の 「大島県構想」、農商務省内部の「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」は、一方は行政の仕組み、他方は流通の仕組みの変更で、ともに砂糖の輸入量の減少を図るという点では共通していて、その方針は当時の奄美島嶼や鹿児島県の状況に対応していたと指摘できるであろう。

 松方正義といえば、西郷が沖永良部島の土持正照の歎願に応じて、大島商社の黒糖収奪を緩和するよう要請した人物だ。これは、自由売買の段階で、農商務省が地方産業近代化に挑むも挫折した過程と捉えることができる。

◇◆◇

・1885年(明治18) 金久支庁が設置される。

 この弓削の論考は、高江洲の考察に依拠しているというのだが、それを踏まえて弓削は書く。

しかし、大島支庁になって以後の一八八八(明治二二年から一九四〇(昭和一五)年の間、「独立経済」という鹿児島県財政と分離した島嶼財政の運営となったことへの評価について、西村富明『奄美群島の近現代史』(海風社一九九三年)批判も含めたものであった。

 西村は、『奄美群島の近現代史』で、県の敷いた独立経済は、差別政策だと断じている。

 それは、①「独立経済」成立過程と成立に関して、鹿児島県会と県令の質的違いがあり、県令の立場は、自治経済精神を強固にする「島嶼のための独立経済という内容」であった。②しかし、その後の展開は「産業の停滞を押し止どめるという不幸な結果になった」 のであり、「独立経済がもっていた正負の側面のうち、負の側面に歴史は動いたといえる」。③しかし、「独立経済は地方税経済がもたらした島嶼に対する差別的構造に着目し、それを打開しようとした点があった」と評価する。
 この独立経済について、西村富明論文の「差別政策」という評価に対して、高江洲昌哉論文は「負の側面で歴史は動いた」が、しかし、「島嶼のため」の内容であり、差別構造を「打開しようとした点があった」と、両論文は逆の評価となっている。奄美近代史における「論文として提示された論点」として浮上してきたことになる。今後検討が必要とされるものである。

 西村が差別政策と断じるところ、高江洲は差別構造を打開しようとしてそうできなかったと評価している。弓削はこれを今後の検討が必要としている。

 それは第一に、「独立経済」実施地域は、一八八八(明治二二年四月一日に市町村制が成立したため、一年間のみ、旧熊毛郡、護講郡はその「独立経済」に含まれた。しかし、トカラの島々(上三島、下七島の十島)はその後も独立経済に含まれた。つまり奄美島映だけではなかったことは念頭に置かなければならない。この施策を単に「奄美差別」の根拠とすれば、トカラの古老の「県は奄美を差別し、奄美は十島を差別した。税と兵隊は確実にとられたが、港も道路亀未整備‥・電気も通信施設も零‥・学校は自分たちで建てた‥・近代化政策のおくれなんてものじゃない。何もしてくれなかった」という点をどのように位置づけるかということになる。

 ぼくは奄美の近代は、二重の疎外が顕在化する、したがってそれへの抵抗も顕在化する段階だと捉える。二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という構造を持っていた。近代以降、<大和でもない>という規定は「日本ではない」という含みを帯びるだろう。それが幕藩制期の直後であれば、容易に「日本ではない」が、「本土ではない」ということと結びついて不思議ではない。トカラにしても、奄美との関係で、琉球でもなく日本でもないという偽装を強いられた地域である。「独立経済」に含まれようが不思議ではない。また、奄美は薩摩が奄美を、沖縄が奄美を「中心ではない」と見なしたことの延長で、トカラに差別するのは容易に想像できることだ。

 第二に、「独立経済」に至る鹿児島県令など行政官と鹿児島県会の認識の差をどう見るかという点である。
 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。

 として弓削はこういうことを書いている。

 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。
 例えば、一八八五(明治十八)年五月七日、鹿児島県令渡辺千秋の内務卿山縣有朋あての「大島郡二島長ヲ置候儀再上申」 に 「去ル十二年郡制施行ノ後こ在テハ、地方税経済上内地ヨけ補充ノ金額不少ヨリ、県会こ於テ時〃経済分離ノ儀申出候得共、一朝之レヲ分離候時ハ、絶海島幌ノ人民費途二難堪、忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然二付」と述べている。

 あの県令第39号を出した渡辺は、独立経済にすれば、「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」という認識を持っていたことのほうがぼくには驚きである。

 これに対し、

鹿児島県会においては、トカラの島々を含めた島峡への「内地」よりの財政の持ち出しという現状認識とそれへの対策としての独立経済移行の認識である。それに対して県令は島峡の疲弊をもたらすという立場で、認識は確かに質的差異があった。

 県のほうは、奄美、トカラへの財政は「持ち出し」になるから独立経済がよいという認識を持っていたという。

 結局、「金久支庁の設置」、「島長」の設置と運営について国庫負担とすることで独立経済は施行されることになる。これは、県としてトカラ、奄美を「持ち出し」で負担したくないという県の意思を、県令が国家の負担としながら実現したことを意味する。そういうことなら、西村の見解に分があるのではないだろうか。

 よくやるよ、と思う。薩摩を救ったのは奄美の黒糖だという認識を持ちながら、奄美、トカラは負担だから「持ち出し」はご免こうむるというわけだ。ここに、薩摩は収奪の責任を何も取っていないことが明白になる。

 個別鹿児島県の明治初期の黒砂糖専売をめぐる「士族救済」での大島商社設立、島民の流通に力を尽くした柿原義則大支庁長や新納中三支庁長(後、島司)が罷免された。鹿児島県令の罷免要求とそれを追認した明治政府の立場をどのように見るかということも必要であろう。

 さあそれは究明を待ちたいところだ。これは、西南戦争後の薩摩への配慮が働いたものと思えなくもない。


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2008/05/10

「奄美から見た薩摩と琉球」

 『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

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 弓削政己さんは、2003年、「奄美から見た薩摩と琉球」と題した講演を行っている。これは、1989年の「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のリフレインのように、その延長線上まっすぐ先に来るものであり、弓削さんの持続する問題意識の確かな手ごたえを感じることができる。「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」では分かりにくかった箇所も切開されていて、新たな知見ももたらしてくれた。

 弓削さんの整理はこうだ。

 まず、薩摩による奄美の「黒糖上納」の仕組みについて。
 薩摩藩の特産品収入の50%は黒糖だが、奄美の黒糖で35%を占め比重は高い。

 1.薩摩藩は、黒糖を買い上げる
 2.買い上げた黒糖を「米」に換算する
 3.黒糖から換算された米から、税金としての米を差し引く
 4.さらに、砂糖きび生産のための「鉄輪車」や必需品購入のための米を差し引く
 (島人の受け取る米)=(生産した黒糖から換算された米)-(税金としての米)-(必需品購入のための米)

 薩摩は必需品を不等価交換したので、高くなっていた。結局、米は「一般の島民、百姓には渡らない」。

 なんとまあの搾取の構造だが、このなかで例外的な存在だったのが、「郷士格」と呼ばれる人々。「郷士格」は薩摩藩における士身分の存在のことで、奄美における士農分離を生み出す仕組みになっている。奄美の郷士格の発生を追うと、

 1番目 1726年 奄美大島の島人 新田開発の功績
 2番目 1752年 喜界島の島人  「唐通事」(通訳)の功績
 3番目 1761年 徳之島の島人  黒糖生産増産の功績

 こうして始まった郷士格への取り立ての結果、約1世紀後には、42家部(世帯を少し大きくした概念)の郷士格が成立している。

 この奄美の郷士格を薩摩はどう見ていたか、奄美の郷士格はどう振る舞ったか。弓削さんは追っている。
 郷士格は、士身分の呼称だが、1728年に薩摩藩は「皆百姓」という達しを出していて、結局は「百姓」だった。だから、月代(さかやき)、つまり武士のように髪を剃りあげず、格好も奄美の服装のまま。刀の所持も許されなかった。

 ところが明治に入り、士農工商がなくなった際、奄美の郷士格は「百姓」だから「平民」の位置付けになるのだが、奄美の郷士格一族は、県に「士族」としての戸籍編入を嘆願し、1880年にそれが認められる。

 近世期の奄美の郷士格は何を演じたのか。
 1852年、奄美大島の郷士格の一族は、1000人で37000人の人口の2.7%。ところが、薩摩藩からの「詰役人」は、「代官が一人と、横目と呼ばれている検察関係の二人と、付役というのが五名」、計8名と足軽集団。奄美大島の黒糖収奪をするにはたった8名では不可能だが、それを可能にしたのが、島役人と郷士格の存在だったというのが弓削さんの分析だ。

 さらに弓削さんは、明治期に奄美大島の島民は多額の借金を抱え込み、それは「鹿児島商人」によるものだと言われてきたが、調べると、借金の63%は確かに鹿児島の商人なのだが、37%は実は島の郷士格からの借金になっている。島の郷士格の利息は、鹿児島の商品の利息が45%なのに対し、30%で低いが(比較したらという意味で、基本的にはどちらもべらぼうに高い)、借金返済ができない場合は土地を取り上げて土地集積を図っている。要するに、ひどいことしたのは、鹿児島商人だけじゃなく、島人なんだよというのが、弓削さんの言いたいところだと思う。

 弓削さんが追求している2つ目のポイントは、「一字姓」のこと。これは、元ちとせや中孝介のように、奄美に多い一字姓はどういう由来で起こったかということだ。

 もともとは、「皆百姓」だから、姓を持つ者はいなかったのだが、郷士格という存在が生まれるようになって、姓を与えることになった。このとき、「奄美は琉球の内」という隠蔽策を薩摩は敷いていたから、名前においても「琉球の内」であることを見せなければならない。沖縄では沖縄の名前の他に、唐名という一字姓の名を持って対応している。そこで、奄美の場合は、直接、唐名に対応するように一字姓にした。

 そういう点から言いますと、藩全体での郷士格の取り立てをしながらも、奄美の直接支配を隠蔽して、東アジアの交易を確保するという政策、意図の中から、東アジア全体に共通する一字姓を選ばせる。このように、奄美を検討する場合の聖の視点として、冊封体制との関係で把握する必要があり、そのことが奄美の表れ方の一つだと思っております。(『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

 弓削さんは講演のなかでは言及していないが、他の場所での発言などを合わせると、冊封体制への対応が一字姓の根拠という指摘を行うのは、従来、一字姓が薩摩による差別の現われとして説明がなされてきたことへの反論の意を含んでいるのだと思う。

 もうひとつ、弓削さんが追求しているポイントはある。奄美に対し、琉球と薩摩合意のもと、奄美に不利な政策を行うこともあったという点だ。例のひとつにウコンが挙げられている。奄美大島や沖永良部島でもウコンの栽培をしていたのだが、それらが大阪市場へ流れていくと、琉球のウコンの値段が下がる。「そういう中で、王府と鹿児島藩との利害の一致だろうと思いますけれども」、奄美に「ウコン栽培を禁止」させたということ。

◇◆◇

 弓削さんは、この講演で、「こういうことがある」という指摘にとどめて、その背景や、だからこう言えるという仮説に消極的になので、他の場所の発言を合わせて弓削さんの意を汲み取ってみる。

 ・薩摩の黒糖収奪は激しかったが、その収奪を現地で担ったのは、島人出身の郷士格、島役人だった。
 ・一字姓は、薩摩の差別感情のたまものと言われてきたが、実際には冊封体制に対応したものだ。
 ・奄美と琉球との同胞意識がいざというときに出てくるが、実際、琉球は、必ずしも奄美を身内と捉えてきたわけではない。

 「奄美から見た薩摩と琉球」は、奄美復帰50周年を記念して鹿児島で行われているのだが、弓削さんの講演を追ってくると、実際にはこれは、奄美の人向けに語られているように見える。奄美の人に、少し冷静になって物事を見つめよう。そう言っている気がする。

 ぼくたちは弓削さんの資料を丹念にたどり、史実を浮かび上がらせる作業から多くを学ぶことができる。その先で、弓削さんの発言をどう受け止めるか、考えなければならない。

 たとえば、被支配者は支配者から支配の仕方を学ぶ。だから、被支配者が支配者になると、もとの支配者以上に強度の支配をしがちであるということは、よく見られる現象だ。奄美の島役人、郷士格もそのご他聞に漏れない。その情けなさも止む無さも、ぼくたちにとって他人事ではない。それは行政や資本の意思としていまも引き継がれていると言ってもいいくらいだ。

 一字姓について、冊封体制に対応したものという指摘自体が重要だ。それは、二重の疎外の隠蔽の強制の象徴的な例だと分かるからだ。また、琉球が、琉球の利益のために奄美を不利益を優先することがあるのは、政治的共同体としていずれそんなものだと思う。それと、奄美と琉球の島人の感情としての同朋意識は分けて考える必要があると思える。

 ぼくは弓削さんの指摘はごもっとも思うだけなのだが、しかしそれは奄美の既存の歴史観を知らないから言えることで、こうした史実の指摘自体が、まだ貴重な段階にあるのかもしれない。現に、弓削さんはこの講演のあとのパネルディスカッションで「私の考えはまだ市民権を得るという段階まではいっていなくて」と発言している。

 ぼくの問題意識は、奄美の島人の困難の固有性を浮かび上がらせることだ。だから、郷士格の存在にしても、一字姓にしても、政治的共同体としての琉球の振る舞いにしても、奄美の困難がどんな構造を持っているのかを明らかにする点で関心を持つ。

 たとえば、昨年のパネルディスカッションで弓削さんはこう発言している。

奄美の歴史をどう把握するかという点で、学生時代、後輩に「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったのよ」と反論された。
 それに対して、何もいえなかったことを覚えている。それは、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿題であった。(「6.30奄美/発表内容」

 ぼくにも同じような場面はあった。ただ、そこから受け取る「宿題」の中身は、弓削さんとは違っている。
 ぼくは、鹿児島の人に言われた。鹿児島も大変だったので奄美は特別じゃない、と。簡単に言ってくれるじゃないのと思ったが、十代のぼくに返す言葉は貧困だった。「同じだった」と言える側面があるのは確かだとしても、そう言えるまでに多くのことが捨象されていて、また思想としての薩摩は自己吟味に晒されることなく延命する度し難い頑迷さが強烈だった。ぼくはそこから、それなら奄美の困難の固有性とは何だろうと考えてきた。それが他愛のないものであれ例を見ないものであれ、固有の構造がつかめれば、その解除ができるだろう。そしてそれとともに、他者に伝え比較可能なものにすることができると思ってきたからだ。そこが、弓削さんの問題意識との分岐点なのかもしれない。



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2008/04/27

「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のむすび

 雑誌「新沖縄文学」の1989年の企画、「奄美から見た沖縄」の特集に寄せた論考、「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」の終わりに、弓削さんは書いています。

むすび

 接近できたか否か心許ないが、奄美からみて奄美とその島嶼群はどういう関係であったかという問題意識で接近してみた。

 希少であろう文献に当たり史実に基づいて実態を浮かび上がらせようとする弓削さんの態度に好感を持ちます。しかし、弓削さんにとって所定の文章量はあまりに少なかったに違いありません。予備知識の心もとないぼくには分からない点も多くありました。実際にお目にかかれる時があれば、直に質問させていただきたいと思っています。

 一つは、薩摩の直轄地でかつ琉球国の奄美は、幕府・薩摩・琉球・東アジアという関係での琉球への隠蔽政策も、複雑なあらわれ方をするということ。たとえ、架空の国、度佳噺をうきだたせる目的だとしても、容貌は大和めかず、また幕末は対外関係の変化であるかも知れないが逆に非琉球化を要求される。琉球の押えという位置で政治的には非琉球化、逆に生活においては非大和化、対外的には琉球化という点で複雑である。

 薩摩はまず奄美に対し二重の疎外を強い、かつそれだけでなく、その隠蔽をも強いたということです。ここにいう「複雑」さは、二重の疎外とその隠蔽として構造化することができます。そして、被支配形態としての奄美の困難の固有性もそこにあります。

 二つには、時期や契機は課題だが、先行する平木貢納の屋久島と奄美の砂糖貢納とその米の一定の供給が、薩摩船を媒介として、琉球も含めた各島嶼群間の組合せ・仕組みを薩摩藩は、作り上げてきたということ。その点では、「歴史的一体性を前提においた」のか、各島嶼群の特徴を把超して、薩摩藩は統治したということになろう。

 ぼくたちはここで、薩摩支配を同型で持った地域としての屋久島を見いだします。おそらく、弓削さんの考察のなかでも、ここは力点を起きたいポイントに違いありません。奄美の被った施策は、こと奄美に限らず、屋久島に原型を持つものだったということだからです。それは少なくとも、被支配地域としての奄美を相対化させてくれます。

 三つは、薩摩が作り上げてきた奄美の機構の中で、それを突破しょうという動きも含みながら一定の活発な交易に従事したこと。幕末、砂糖専売制の強化が逆に砂糖樽という分業を生み出し、それがまた藩にとって砂糖生産をおろそかにするということなのか。

 二重の疎外とその隠蔽により、奄美には硬直した境界が引かれたようにも思えますが、その一方で、奄美島嶼間の浸透圧を遮ることはできず、相互扶助のような行き交いが島々の間でなされたのでした。そのことを知ることができたのはとても嬉しいことです。当時の島人の生きようとする姿を垣間見れる気がするからです。

 このような歴史を辿った奄美の対琉球意識とはどのようなものであったか。一八九四年(明治二七)から九八年(明治三一)まで大島島司をした笹森儀助「大嶋々政方針」には、「秘」とされた記述がある。

「古老会スレハ神ノ世ノ支配ヲ望ムト云フ。其意ヲ推窮スレハ元琉球藩属タルノ時ヲ指ス。慶長十四年鹿児島ノ制御ヲ受ケシ以来、今日二至ルモ神ノ世ノ政徳ヲ忘ル、能バスト云フテ老人流沸スルニ至ル。然トモ決シテ内地人手語ルヲ禁スト。鳴呼嶋政ノ大方針夫レ神世政事ナルカナ」と。

 他方、一九一〇年(明治四三)八月「採集」の、「東恩納寛惇史料ノート」(沖縄県立図書館)には、次のことが記されている。

「大島人は琉球人を軽侮す。大島人は琉球の支配の下こ有りし事を知れり。然れども彼等は其記憶を忘れん事を希望せり。」

 これらの意識が、歴史と「近代化」の中で成立したのだろうか。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)

 ここで弓削さんは、奄美と沖縄の関係づけを急ぎすぎているように思えます。琉球が奄美に相互扶助的な態度で臨んだけれど、薩摩の強いた制度を越えることが無いというのは、当然ではないでしょうか。ぼくならばここは、政治的共同体としては薩摩の強いた制度に則って行動したが、現実的な島人相互の場面では相互扶助的に振る舞ったと言うところです。

 にもかかわらず奄美が、ある場合琉球を蔑視するような態度になるのは、支配者の態度の転化だと、ぼくは思います。あまりにきつい思いを強いられながら、それが半永続化してしまうものなら、もともと薩摩に属するものとして自らを見なしたいという、無理もない欲求があると思います。復帰をめぐって日本人に総雪崩れを打つ下地はここに出来上がっています。だから、対流意識は、それを問う前に奄美への対自意識を明確にすることが大切だというのは、現在にも通じる課題ではないでしょうか。




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2008/04/26

砂糖樽が足りない

 黒砂糖を作るということは、黒砂糖を入れる樽も必要になります。砂糖樽(さただる)、です。(こんな感じで、こんな風に運んでいたようです↓出典:『近世奄美の支配と社会』松下志朗)

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 薩摩による擬態支配下の奄美の歴史を、黒砂糖生産量を上げる過程だと捉えれば、それは言い換えると、砂糖樽の需要が増大した時代でもあったわけです。勢い、砂糖樽は不足していきます。

 弓削さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」によれば、砂糖樽の不足分は薩摩藩が売ったとあります。人に黒砂糖生産を強制しておいて、砂糖樽は買えというのはなんとも厚かましい理屈ですが、その上、島毎に樽の値段が違っていたそうです。たとえば、喜界島は奄美大島より高かったのです。

 するとここに、価格差(やきっと交易のしやすさも手伝ったと思いますが)を理由に、喜界島の島人は奄美大島から砂糖樽を購入しようとし、奄美大島では、砂糖樽製造を請け負おうとする気運が生まれます。

 それを見た代官が役人に言います。

 渡遠方の儀、喜界島用分の樽木を銘々手当り次第に外の間切から請け負っていることについて、暇なときに働いて代米を受け取ることは特にためになるとの考えが聞こえるけれども、そうするだけの暇があったら作職(砂糖黍)に振り向けた方が、なお為になる。心得違いがないように、他の間切より請け負うことはやめること。かつ時節も厭わず漁に志し、または商売に熱心で他の間切へ行くものもいる。これらは第一作職の手入れをしない基であるので、役人どもは取締りをするように。よんどころない用事で他間切へ行かなければならない場合は、理由を役人は聞いて、日限をきって銘々1名札を渡して行かせること。

 また、同時期と推察するが、住用間切でも、喜界島用の樽木・尺の請負、材木を伐採し商売していることは、農閑期の時はいいが、諸作手入れの時に当座の利欲に迷い、このようなことは良くない。食糧の唐芋も不足し、諸手入れも届きかね、年々困ってくることはわかりきったことであるので一切やめることと布達された。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)

 教訓的な物言いに苦笑してしまいますど、要は砂糖樽づくりにいそしまないで、黒砂糖づくりにいそしむようにと「指導」するような事態が生まれていたのです。弓削さんはこれを、「薩摩藩役人が黙過できないような『分業』の動きを奄美島民が、進めたのではなかろうか」と考察しています。

 ここからは、支配の形態とは別に、奄美の島間交流によって生きようとする島人たちの姿が浮かび上がってきて嬉しくなります。



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2008/04/25

小さな奄美の地船-疎外の強化と絶えない交流

 「大島置目之條々」(1623年)、「大島御規模帳」(1728年)には「楷船は作らないこと」という規定があったと言います。「楷船」は、「江戸時代、島津氏の支配下に入った琉球国が毎年薩摩藩へ米・砂糖などの貢納物を送るために派遣した官船」(「大辞林」)のことで、とどのつまりは、奄美は大型船は作るなということでした。

 このことにより奄美の島人は自らの大型船で交易することができなくなったのですが、ここでの文脈から言えば、それは疎外の強化に他なりません。

 弓削さんは、漂着船の大きさを各資料から引用しています。

 2名乗りクリ船1艘
 3名乗り2艘(1艘は帆柱船)
 5名乗り2反帆4反帆船各1艘
 6名乗り1艘
 7名乗り3反帆5反帆船各1艘
10名乗り2艘(『宮古島在番記』(1706年~1867年)
13名乗り3反帆船(「琉球史料」)
15名乗り(『平良市史』)

 また、『大島私考』によると、1804年の大島の船は、

上屋がある3枚帆船8艘
板付船280艘
長さ1丈余の丸木をえぐったクリ船205艘

 で、いずれ小さな地船であったことが分ります。

 こうした状況は規定を強いた薩摩にとっても公用への支障があったようで、1774年の与論島役人の文書には、「山原船を借用することが、しばしばある」と、書かれているそうです。

 大型船を山原から借りるという構図は、山原(やんばる)への親近感の由来のひとつを知ることができて嬉しくなりますが、大型でなくても船をつくる材木をどこから調達していたのか。弓削さんは、『南島誌各島村法』から挙げています。

奄美大島
・建築材は自ら深山に入りて採り、米・麦で交易をするのは甚だまれである。
・馬は運搬用で、島民は毎年喜界島から買う。
・富豪の者は鹿児島、屋久島から良材を買う。

喜界島
・山林が乏しく、築造の材木は鹿児島・大島から買う。

徳之島
・大島と同じで自ら山林に入りて採り、敢えて米・麦と交易しない。
・手々相、山村には、製塩して交易を職業とするもの為り。

沖永良部島
・山林に乏しく築造の材は琉球国頭に求め、麦・粟で易する。
・製塩に暇がないときは、皆鹿児島に迎給する。

与論島
・山林はなく、薪は皆蘇鉄・アダン葉を使う。
・塩は絶えて産せず、皆琉球国山原に仰ぐ。

 ここでも、わが与論の山原(やんばる)依存が分ります。弓削さんも注目したのでしょう。こう書いています。

 沖永良部・与論と琉球山原との結び付き、喜界と大島の相互交易と鹿児島との関係、徳之島は製塩を売るということが、特徴的なものとして把握できる。沖永良部・与論と琉球の関係は、一八〇五年(文化二)の島役人の申し立ての中で、「薩摩役人、島役人、百姓までも、居宅・農具・諸木・たいまつなど皆山原で買い求める」というほどである。
 琉球も、一七五四年(宝暦四)の記録には「与論島・沖永良部島の者、木・竹 の買用で来着したら、承け届けて相対商売を許可し、帰りに荷物を改める」という。

 こうした記述を追うと、二重の疎外で境界が引かれ、かつ大型船建造を禁じられるという境界の強化にも関わらず、近しい島同士のつながりは必然的に絶えることなく続いていたのが分ります。ぼくも少しほっとします。


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2008/04/24

漂着・飢饉時の借米機構

 18世紀末の『琉球館文書』に書かれた、漂着借米(他島に漂着したために借りる米のことだと思う)の返済方法を、弓削さんは挙げています。

1.以前は薩摩船頭・道之島のものが漂着して借米を渡す時、薩摩への上納米から「引合」っていた。

 これは、どこかの島へ漂着した奄美の島人に米を貸す場合、薩摩への年貢から出していたということだと思う。

2.1772年、薩摩藩は川上弥五太夫取り次ぎで、自分用事できたものに対し、借米を「出物米の内より相渡す」ことはいかがと思うので、今後、御用の者・格別なわけがある者は拝借させ、「島人ども自分用事につき罷渡り候面々」は拝借させないようにといってきた。

 「自分用事」とはいわゆる私事のことだろう。自分の都合で来た者に年貢から渡すのはよろしくないので、公用でない場合は、米を貸さないようにと言ってきたのだと思う。

3.以後、御用できた者には従来通り出物から渡す。それ以外の「薩摩船頭・水主・道之島の者共」が在番所を経て申し出る借米は、鹿児島の「琉球館」へ納めるという証文を受け取って借米させた。(在番所を経由はするが、その決済は琉球・奄美の直接決済ということになる。)

 「琉球館」とは、「薩摩に置かれた琉球王府の代表である在番親方等が詰める施設」のことだと言います。公用で来た以外の者には、琉球の責任で返済する証書を取った上で貸したということに思えます。

4.ところが返済はうまくいかず、遠海であるので催促もできず、それ故、琉球への未返済が米・粟で五百石余となっている。

 漂着した奄美の島人が琉球館経由で借りた米を返済できずに溜まっているということだろうか。

5.したがって、この滞納分を薩摩への上納米と相殺することを願い、かつ、以後は自分用事の者の借米も、以前のように上納米から渡すことを願っている。

 奄美の滞納分を、薩摩への年貢から差し引いてほしい。かつ、私事で借りる米も以前同様に年貢から渡してほしい。そういうことだと思う。

6.琉球の者が薩摩へ漂着して藩から借米したら、鹿児島の琉球館へ上納を命じられている(ということは、藩へ確実に返済されるということか)こともあるので、願を開いてほしい。

 弓削さんによると、琉球の願いが達せられたかどうかは不明です。ただ、「漂着船が際限なく、その一方、借米返済が首尾よく行かない実情を前提に、薩・琉が自らのリスクは回避しよう」としていたということを指摘しています。

 また、徳之島が飢饉にあえいだ1777年に、こんなやりとりがあったそうです。

 徳之島が、度重なる台風や塩害で飢饉になったとき、代官経由で島役人が那覇へ赴き、薩摩の在番役人に島の実情を話す。薩摩の役人は、琉球へ相談しないわけにいう反応。しかしそれ以後、薩摩の役人からは琉球へ問い合わせたからいずれ連絡があるだろうと言われたものの、音沙汰がないので、島役人から願書を書いたら、琉球から返答があった。両先島が凶作で八重山では流行病で死人がだいぶ出たので余裕がない、と。そういう事情なので、徳之島へは「二百石」ほど渡すという返事。それではあまりに僅かだからとその後もいくらかの交渉をした結果、「三百石」を徳之島へ卸すことになったという。

 弓削さんはこう考察しています。この琉球の対応は、飢饉での負担義務はないということにはならない。飢饉時についても拝借・返済の仕組みが出来上がっていたのだろう。自分都合で米を借りに来た奄美の島人に対して、薩摩が米を貸すなと言っても琉球は、それはできないという対応をしたのは、奄美との歴史的な一体感があったのかもしれない。けれど、一体感はあったとしても、琉球側の対応は、「藩の政策のもとで薩摩藩領土としての対応であったといえよう」。

 この考察を読むと、琉球を含めた、薩摩-奄美-琉球での貸借と返済の仕組みを説明するのと一緒に、琉球の採った態度が奄美にとってどういうものであったのか、それを敏感に察知しようとしている弓削さんの息遣いを感じます。そして弓削さんは思うのです。琉球は、制度以上の態度をとれたわけではなかった、と。

 ぼくは弓削さんの気持ちを察しながらも、琉球の制度的な対応はともかく、実際的な交流は絶えていなかったことに気持ちが和みます。



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2008/04/23

米の島間流通

 屋久島では平木を薩摩へ上納して、島民は「生活必需品を藩の換算率で支給されるというシステム」が成り立っていました。奄美も同様のシステムで、屋久島の平木の代わりに「砂糖」がその任を担います。

 弓削さんが整理しているところによれば、砂糖買入制の変遷は、

大島、喜界、徳之島
1722~1777年 第一次定式買入制(定額買上制)
1787~1830年 第一次惣買入制
1830~1872年 第二次惣買入制

沖永良部島
1853年~     惣御買入制

与論島
1858年~     惣御買入制

 と島によって異なっています。

 そして、

藩は、毎年諸蔵、諸所の必要な米の数量を八月二〇日期限を決めて申し出させて、諸払数量を決めている。

 と申告制になってましたが、

問題は、この米、すなわち、「屋久島御続米」「大島御続米」「道之嶋御続米」「砂糖代米」、または役人への扶持米は、すべて鹿児島から運ばれているのではない。

 のだそうで、奄美・琉球間の流通でもまかなっていたそうです。

 ・沖永良部島→徳之島
 ・奄美大島→屋久島
 ・琉球→奄美大島、屋久島

 というように、薩摩-屋久島、奄美、琉球の各島のみで行っているのではなく、そのサブシステムのように、島間の流通によっても賄っていたということです。

 弓削さんはこんなエピソードを引いています。薩摩が、琉球製の米、「琉米」は大阪で値段が下がるので、奄美大島向けの米として使うようにと琉球に言う。琉球は、前から奄美大島向けの米は国頭から積み渡しているから構わないと返事したということ。

 ぼくは理由はともあれたったこれだけのエピソードでも、奄美、琉球の島々での交流のあったことを思うと、ほっとしてきます。

 また、琉球は、「出物総」(年貢皆済)の期限を8月から12月に延ばしてほしいと要望したこともあったようです。それというのも、那覇を出航しても、奄美大島や屋久島で米を下ろして滞在すると期限を守れないことがあり、しかもそうなると「利米」(米としての利子だと思う)を上納しなければならないから、というものです。

 弓削さんは整理しています。

1.薩摩への貢納期限が間に合わず、「利米」の負担が生ずる。
2.国頭米を積むため、出船が遅く、風で船が大島から再度琉球へ戻右場合も生じ、そのため運送中の欠損補顛分の「欠米」を差し足すことがある。
3.大島卸米用の囲い米は、琉球農民の夫役増にもなる。
4.薩摩商人にとっては、琉球が大島砂糖代米に不足が生じたときそれを立て替え、琉球に十割増しでの返済を要求したりするなど、琉球には負担となること。

 ここでは、薩摩が、「薩摩-各島」の一極集中ではなく、加えて、「島-島」の多極的な経済システムを組むことによって循環の合理性を求めたことと、同時に、利潤発生源を作ったという両方の側面があったことを注記します。



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2008/04/22

琉球でもない薩摩でもない。だが、琉球にもなれ薩摩にもなれ。

 薩摩の直轄支配であり、かつ「琉球国の内」の奄美への隠蔽政策は、複雑なものとしてあらわれたのである。とともに、その複雑さは一層徹底される。そのことは、特に異国船漂着や奄凄・琉球間の船への対処にみられる。

 そう弓削さんは解説しています。

1.1696年

 「琉球へ漂着・破損の唐船は直接清へ送還するよう」にという清からの要請が、琉球、薩摩藩、幕府を通して許可される。そしてそれは、「奄美へ漂着した唐船は従前、長崎送りとなっていたが、以後、琉球から清へ送還するように」という指示となって現れる。

 これはどういう意味でしょう。薩摩としては、奄美が薩摩の直轄領であり、琉球も支配しているということは隠蔽しなければならない。そこで、奄美に唐船が漂着した場合、薩摩との関係を隠し、琉球の一部であることを示すために、一度、琉球へ送ってから清へ送る手順を踏んだと理解すればいいのでしょう。

2.1742年

 長崎帰りの唐船が大島の大和浜へ漂着。この場合、前述の規定に従えば、この唐船は琉球経由で清へ送還することになります。事実、そうなるわけですが、弓削さんは、

・この船は奄美、琉球、清へと送還された。そのやり取りは奄美島役人と琉球役人とではなく、大島代官・琉球在番の薩摩役人同士でなされ、藩への報告は大島代官からもなされるという手順を踏み、
・琉球送還の薩摩船は「宝島船」とした。

という2点を指摘しています。

 つまり、唐船の送還手順の段取りは薩摩が行い、船も薩摩の船を用いて、ここに奄美、琉球はことの主体としては登場していません。にもかかわらず、隠蔽のために、船は薩摩船ではなく「宝島船」と称したわけです。

 厳密には分からないところがりますが、明らかに琉球船とは異なる船体と人員について、「宝島」という吐喇列島に着想源を置いた架空の国家あるいは集団を仮構して、その名のもとに薩摩を意味したということだと受け止めてみます。

3.1768年

 人数一五人乗組の大島船が前年一〇月、喜界島から帰島の時、宮古島へ漂著したので、二月に大島船を宰領して那覇に行く途中唐へ淳着した。唐では、船は琉球船の形と変わっているので不審をかったので、諸書付けを焼捨て、大島人の所持する京銭を海中へ沈め、武具は隠し首尾よくすんだということによる。

 こんどは、奄美の船が唐へ漂着した場合も、琉球として振る舞うことを強いられていた例として考えることができます。奄美は、中国に対して琉球として振る舞う、つまり二重の疎外が無いかのようにしなければならなかったのです。

 ところで、ここで弓削さんはこう付言しています。

ここで指摘しなければならないことは、船に対する対応についても、琉球は、奄美を清へ「琉球国」だと述べる。しかし琉球での奄美船への対応は、薩摩藩の政策のもとで日本他領の船の対処と同一であった。

 ここで、弓削さんは薩摩支配後の奄美と琉球の関係の感触をつかもうとしているのだと思う。琉球は、奄美を「琉球国」だと言うけれど、それは奄美を琉球の内部にあることを意味しておらず、奄美船については、他領の船と同等の扱いであったことから、薩摩の支配下にある琉球として奄美を疎外したのだということを指摘しているのだと受け止めることができます。

◇◆◇

 薩摩は清との関係で、奄美を「琉球道之島」とるすために徹底した隠蔽政策を採ってきたが、幕末に欧米諸国の艦船が、奄美・琉球に寄港するという新しい状況なで、崩れてきたといいます。

 一八四四年(弘化元)、フランス艦隊アルクメール号が那覇へ入港し、琉球へ通商・貿易・布教の三項目を要求。四六年にはフランス艦隊三艘が来て、再度要求。その内のヴィクトリユーズ号が逼天に停泊した。同年にはイギリス人宣教師ベッテルハイムがくる。このような状況下、薩摩藩は運天に商館を建て、そこで琉球・フランス貿易を計画した。四七年二月、新在番奉行の倉山作太夫らは運天周辺を調査した。

 このような動きの中で、四六年のフランス艦隊に対し琉球王府は「三島(喜界・大島・徳之島)並びに輿論島・沖永良部島・与路・請・加計呂麻八力島は当分トカラ島支配である」とし、奄美では薩摩藩のことを「異人共」へ「トカラ島」と答えることとなった。

 正確な理由を推し量ることができないのですが、薩摩は西欧との貿易を試みるために、沖縄本島北部にある本部の運天港に拠点を設けようとします。そのとき、奄美を琉球として擬態させるのではなく、こんどは「トカラ列島」支配に擬態させます。あくまで薩摩支配であることは隠蔽するわけですが、こんどは琉球ではなくトカラとなったわけです。

 これまでのように、清の船が奄美に漂着したり、奄美が清へ漂着したときのように、奄美と清が対する場合、奄美は琉球として振る舞うことを強いられたわけですが、西欧との貿易で薩摩が実際に登場しなければならなくなったとき、それでも薩摩が琉球内で登場することを避けようとすれば、薩摩ではない顔をしなければならない。そこで持ち出されたのが「トカラ」だったのかもしれません。

 トカラは確か、薩摩の琉球侵攻の際には、七島灘を越える船頭として動員されたはずです。そして、薩摩の隠蔽政策のなかで、「宝島」だったり「トカラ」だったりという現れ方で、奄美・琉球に関わったことになります。ぼくは時代に翻弄されたトカラと奄美・琉球の宿命について想いを馳せないわけにいかない気持ちになります。

◇◆◇

 ところで、ここでは、奄美はもっぱら琉球として振る舞う例が挙げられているわけですが、前利潔さんは、その逆、薩摩として振る舞わされる場面もあった例を挙げています。

 薩摩支配の隠蔽政策は、徹底されていた。一七九〇年、沖永良部島民が朝鮮に漂着。船内に大日本年代記や寛永通宝があったことから、朝鮮の役人は<倭人>ではないかと疑うが、島民たちは「琉球国中山王」の支配下の者であると主張し、寛永通宝も琉球の銭であると言い張った。つまり、<琉球人(非倭人)>であると主張したのである。(『朝鮮王朝実録』)

 <薩摩人>になることもあった。一七七三年、中国の寧波に漂着した薩摩船に、沖永良部島民二人が水主として乗りこんでいた。島民たちは月代をさせられ、「登世村」「嶋森」という名も「村右衛門」「嶋右衛門」というように、<薩摩人>として中国側に対応させられていた。薩摩の船であることが明白なときは、<非琉球人>になったのである。(『薩州人唐国漂流記』)
(「時評2006 10月」「琉球新報」前利潔)

 薩摩船に乗り組んでいた場合、奄美は薩摩として振る舞わなければならなかったという例です。

 二重の疎外とその存在の隠蔽と。ということは、二重の疎外を受けつつ、隠蔽のなかでは、疎外された当の者に変身することも求められたということを意味しています。奇妙なことに、この二つの場面では、一見、二重の疎外は解消され、一方で奄美人は、過去とのつながりを回復した琉球人になり、一方では、獲得すべき未来としての薩摩人になったかのように見えます。ではその場に出くわした彼ら奄美人は、琉球人として懐かしく振る舞い、薩摩人おしては晴れがましく振る舞ったでしょうか。

 いや、グロテスクな冗談はよそう。だいたい、そう振る舞わなければならない時とは、隠蔽がばれてはいけない当の中国に対しているのだから、奄美人にとっては命がけの場面であったに違いありません。しかもその前に、二重の疎外で、もともと否定されているものになるという行為は、演じることによってしかなしえない変身です。薩摩人を新たに演じるというだけではない、もともとそれであったはずの琉球人ですら演じるものに転化してしまったわけです。

 お前はAではない、Bでもない。だが、ある場面ではAになれ、別の場面ではBになれ。こういうあり方は自己存在を消去して演じることによってしか成り立たせられないでしょう。ぼくたちはここで、奄美の島人が自己喪失者としてあり、島尾敏雄が奄美の人は長い間、自分を無価値のように感じてきたということの具体的な理由に触れかけているのではないでしょうか。



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2008/04/21

「琉球国の内」の奄美

 「琉球国の内」という擬態は、奄美にどういう問題をもたらしたか。弓削さんは、航路、対琉球、対薩摩の観点から整理しています。まず、航路について。

1.琉球上下船の難破、漂着、滞留時の船や船頭・水主などの保全
2.藩へ上納する「仕上せ船」が期日どおり到着するような手だてと監視
3.唐物、抜荷の禁止と監視
4.薩摩役人など諸役人と共に「琉球人」を特定して彼らへ酒・酢・醤油を百姓が出すことの禁止
(「大島規模帳」)

 これらの項目は航路のマネジメントという感じですが、弓削さんは屋久島と比較して、「奄美は琉球・薩摩藩間の安定した交通ルートの確保、監視の役割を担わされている」と指摘しています。

 対琉球との関係ではどうでしょう。

1.以前から布達されていた「島中の者」が本琉球へ行き、琉球位階制の一つである鉢巻をもらうことの禁止
2.島津侵略以後は菅平百姓であり、家柄を申し立てることは「無用」であるという身分編成が理由ではあるが、本琉球支配の家柄を今もって申し上げることは「遠慮」すべきであること

 これは社会構成として琉球との断絶を意味していますが、二重の疎外のうち、「地勢と自然と文化の同一性の親和感から沖縄を向けば政治的共同性が異なると無視され」(「二重の疎外の力学」)という疎外の側面をなぞるものです。ただ、鉢巻や家柄は、厳密に言えば政治的共同性が異なるというだけでなく、文化的な交流も絶たれることを意味していました。

 対薩摩の関係はどうでしょう。

1.島中の者どもは日本人のごとく髪を刺して売買のために他出しないこと
2.薩摩役人の代官・附役・運賃船に至るまで島人を鹿児島へ召し連れることの禁止
3.島人どもの容鉢・名は今までどおりにすること、日本人の名をつけることはやめること、剃刀禁止

 ここには、政治共同体の傘下にあるとはいえ、植民地的な状態に置くことの具体的な中身を見ることができます。これは、二重の疎外のうちの「政治的共同性の同一性から薩摩に顔を向ければ地勢と自然と文化により差別される」の側面を物語ります。(「二重の疎外の力学」

 琉球との政治的な関係を絶たれながら、大和となることを禁ずる。もし、薩摩藩の直轄領が新しい時代の運命であるなら、琉球は過去、薩摩は未来を意味することになったでしょう。ところが、二重の疎外の疎外たる所以は、過去を絶たれ未来も絶たれることのなかにあったということです。そのなかで、薩摩-琉球の航路のマネジメント、主体として行き交うことのない航路の監視員であり続けることを強いられたのでした。



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2008/04/20

「琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」

 奄美の困難を「二重の疎外」と捉え、そこから、奄美を「琉球と大和の二重意識」として掴み直しました。けれどこれでもまだ奄美を充分に掬い上げているとは言えないでしょう。まだまだほどけないものを感じます。

 ここで、弓削政己さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」という考察を手がかりに、奄美の「二重の疎外」の構造をもう少し掘り下げてみたい。残念ながらぼくの知識では、弓削さんの考察を充分に理解するのは難しいのですが、やってみます。

 さて、薩摩藩が直轄支配した近世奄美は、どういう位置づけを持った支配形態であったのか。このことについて、一八七四年(明治七)に汾陽光達は『租税問答』で次のように指摘する。
 間て日、右判物の趣(註、奄美の高が琉球高とされていること)を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、

  答て日、然り、内地(註、薩摩藩)の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物骨替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之鳥人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王便渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。

 薩摩は幕府から一六三四年(寛永二)奄美の高を含めて琉球国高として領知されている。

 ここで明らかなように、薩摩の直轄地でありながら琉球国の内という奄美の支配形態は、別言すれば、「琉球に似せた直轄地」として、いわば擬態的直轄支配の島嶼である。(弓削政己「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」1989年)

 奄美の収穫高が、琉球高とされていることからすると、「道之島」は中山王の領地になるのが筋だが、そうなっていないということは、慶長から琉球を離れて薩摩に付属しているのは内証のことか? 答え言うに、「そう、薩摩藩の付属である」。

 こういう意味だと思う。これを指して、弓削さんは、奄美の支配形態を「擬態的直轄支配」と名づけています。薩摩による琉球侵攻によって奄美は、薩摩の直接統治下に入る。実はそれだけではなく、表向き、奄美は琉球王国下にあるように見せて、直接統治を隠していたということです。

 ぼくたちの文脈からいえば、弓削さんの言う「擬態的直轄支配」は、奄美は二重の疎外を強いられていたというだけではなく、外に対して二重の疎外は存在していないかのように振舞うことも強いられたと言うことができます。

 改めて、奄美は途方もない関係を強いられていたのが分かります。いじめられた上で、いじめられていることを誰にも言うなと口止めされているようなものですね。

 つづく



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