カテゴリー「27.『近世奄美の支配と社会』」の10件の記事

2008/05/08

『近世奄美の支配と社会』のあとがきの与論島

 松下さんの『近世奄美の支配と社会』が届いて、この本を買って良かったとすぐに思いました。アマゾン経由だったので立ち読みしてなかったのですが、していればそれが決め手になったいたでしょう。それは「あとがき」ありました。なんとそこには、『近世奄美の支配と社会』の本文の中では、ご他聞に漏れず滅多に登場することのない与論島のことが、書かれてあったのです。

 奄美の海と空は美しい。深夜沖合いに停船した本船から艀に乗り移って与論島に上陸したことがある。一九六一年のことである。月のない夜空は半天宝石箱をひっくりかえしたように星だらけで手を伸ばせば届きそうな感じだった。私は夜空にそうするかわりに、艀のともで波に掌を浸した。へさきでは海中の夜光虫が二つに割れて金色のしぶきをあげる、たとえようもない情景であった。

翌朝島内に二軒しかない平屋の旅館で目覚めたとき、私は愕然とした。波に浮き沈みするのではないかと思われるくらいの薄い島空間しかない草茸の平屋が点々とへばりついている。私には前夜の美しい情景が夢のように思われた。塩っからい飲み水と粘り気のない御飯、それに具の入っていない味噌汁と四、五センチくらいの小魚二、三匹という食事が二週間続いた。上陸した翌日より私は台風に閉じ込められたのである。私は心中自分の不運と、島の生活に対する行政の怠慢とを呪ったが、同時に自己嫌悪の念をおさえることができなかった。私は旅行者である、二週間ほどで島を退散して奄美の一番賑やかな名瀬市に戻り、また平穏な高校教師の生活を送る身である、その事実が言いようのない恥ずかしさを覚えさせた。
『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ぼくが生まれる少し前の光景です。「草茸の平屋」がぽつぽつとある島の眺めを松下さんが描いてくれたことに感謝します。記述に登場することが稀な島だから、貴重な描写です。それに思うのだけれど、松下さんは自己嫌悪に陥る必要など何もない。島には島の生活がありそれは奄美の大都市、名瀬と落差があるにしても、一個人が倫理的に受け止める必要などないことです。それより、こうして記述することが、どれだけ島に寄与するか分かりません。

 「あとがき」の与論島は、『近世奄美の支配と社会』の付録のようなものです。松下さんは付録として与論島をつけてくれたわけです。ところで奄美を「付録」と見なす視線からすれば、与論島は付録中の付録です。その付録中の付録が、本の付録のなかで「奄美の海と空は美しい」という奄美美(あまみび)の引き合いとして引かれるとき、本のなかでの付録的扱いが吹き飛ぶくらい与論島が輝くのを感じます。付録って捨てたものじゃない。そう、松下さんは思わせてくれます。というか、付録って捨てられないですよね。

二週間の間、私は島内を歩き廻あり、郷土史家の増尾国恵氏を訪ねた。なかば朽ちはてようとしている陋屋から、ひとり暮しの老人があらわれ、熟をこめて与論島の歴史を物語られる。私はその島口を理解できないまま呆然としていた。

 その後、私が入手した増尾国恵著述『与論島郷土史』に、増尾氏の履歴書が付されている。それによると、増尾氏は明治十六年二月に生まれ、明治三十四年尋常小学校補習科を卒業後、戸長役場の小便に任用されたのを皮切りに、明治三十六年より同三十九年までの軍隊生活の時期を除き、あとは生涯与論島から外へ出られることはなかった。そして村会議員・農業調査員などを歴任されて、島の発展のために尽されている。『与論島郷土史』は、そのような実務の合間に乏しい資料を渉猟されての著述である。「わが与論島同胞が歴史上多くの貴重なものを有しながら、全然それを知らうともしない無関心な態度に鑑みて多数同胞の認識を高めることに努め、一方過去において薩藩や商人に圧迫された悲惨の思ひから潜在意識にまでなってゐた暗い心理から島民を解放して、明るい希望の生活に向け直した由来を闡明にした」と序文で述べられているが、それが狭い島内でどのように読まれるか覚悟しての言葉であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 増尾国恵著の『与論島郷土史』は大切な資料です。けれど、そこに昇曙夢の「奄美人の主体」をそのまま引いて、何がなんでも天孫族と自分たちを結び付けようとしているのを見ると、同じ島の出身者としては、厳しい目にならざるをえないところがあります。でも松下さんの描写が増尾さんを彷彿とさせてくれて、この老人の孤独に思い至り、自分の態度を反省しました。

 ここでは高校の講師である松下さんを前に、話し相手ができたとばかりに、与論言葉(ゆんぬふとぅば)だろうが何だろうが、構わず必死になって語りかける増尾さんの姿が浮かび上がってきます。これも、松下さんが書いてくれなければ、ぼくたちは手にすることのできなかった島の歴史のひとこまなのです。

 「与論で自分たちのルーツを考える人なんていないですよ。変り者だと思われます」と、与論島の郷土研究家に言われたことがあります。松下さんが増尾さんの記述に見つけた「全然それを知らうともしない無関心な態度」は今も変わらないのだと思います。けれどそれは是非を言うべきではない島人の原像としてあるものです。

 この手のことは、たまたま関心を持った者が記述し語り継いでいくしかありません。それが聞く者にとって魅力的であれば、無関心な心も開かれるはずです。それは関心を持った人のやり甲斐ではないでしょうか。『近世奄美の支配と社会』を読み、ぼくは近世期奄美への関心を喚起されました。松下さんに感謝する所以です。



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2008/05/07

徳之島の抵抗力

 このような惨憺たる状況のなかで、文化十三年(一八一六)母間騒動が起こった。
 井之川噯の母間村百姓は隣村の轟木村に二〇五石ほどの土地を入作にして耕作しており、その出米賦課について、同年五月強訴に及んだのが騒動の発端である。そこで仮屋の詰役は首謀者である旧掟役の喜玖山を一室に監禁したところ、母間村の百姓六三〇人余が六月九日鉄砲・竹槍・魚突などで武装して、喜玖山のとじこめられた「格護所」を打ちこわし、村へ連れ帰ったのである。そして喜玖山と菩佐知・喜久澄そのほか一二人が板附船に乗りこんで十日夜出帆し、鹿児島の藩庁へ訴え出たが、いずれも入牢させられている。そうして惣横目富屋に鹿児島への出頭を命じ事の次第を説明させているが、富屋は首尾よくその勤めを果し褒賞をうけた上で帰島している。

 この騒動は、結局文政二年(一八一九)、母間村から無手形で鹿児島に渡海した一二人のうち、喜玖盛・富里その他四人の者が許されて帰島し、富奥は鹿児島で病死して、残り五人が文政三年七島へ遠島処分となることで決着をみた。文政二年夏には、文化十三年(一八一六)の越訴の際事情聴取のために呼び出された宙屋が上国与人として鹿児島へ渡っており、その富屋あたりの工作もなされたのかもしれないが、藩庁としては寛大な措置をとっている。おそらく厳罰に処することは、徳之島に騒動を一段と激化させることを怖れたからでもあろうか。
『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 「惨憺たる状況」というのは、母間騒動の2年前の台風がすさまじく、「死者八人、死牛馬三疋、流失家屋一七九軒、倒壊家屋七八六軒、流失・破損の操船・板附船三三艘」という被害を生じたこと。しかもそれだけでなく、次の年には疱瘡が流行して、「島民九六七ニ人が羅病し、そのうち一八九一人が死亡した」災害を指しています。書き写すだけでもため息が出てきますが、これだけの規模ならまるで島の滅亡のように感じてもおかしくなかったはずです。騒動は、その次の年に起こったのでした。

 この母間騒動の記述を読むと、徳之島はさすがだなあと思う。闘っている。そんな言葉が似合うのは奄美のなかでも徳之島が一番ではないでしょうか。他の島が闘っていないわけではありませんが、闘う姿が文字通りそれとして想起できるのが徳之島です。

 同胞を監禁場所から連れ帰り、そのまま出奔し七島灘を越え薩摩の藩庁に訴えるあたりは、闘う姿そのものです。ただ、藩庁に訴える行為の素朴さ、人の良さは、グラデーションなしに奄美の共通性ではないかと思えます。

 徳之島の原動力は何だろう。こう問うてみると、松山光秀さんの言葉を思い出します。徳之島の2つの特徴を追認して、松山さんは書いています。
 

 まず最初に示されたポイントが、スリ鉢の底に沈澱するような古い文化のたまり場としての特徴であり、次に示されているのが、南からすごい勢いで押し寄せてきた琉球文化と、北から同じように南下してきたヤマト(日本本土)文化をしっかりと両手で受け止め、生のままでは上陸させることのなかった徳之島文化のしたたかさについてである。特に私は後者に触発された。言葉をかえていえば、徳之島は南の文化と北の文化の流れの接点をなしているということであるが、この相反する南と北の力は互いにぶつかり合って渦をつくり、それがそのままスリ鉢の深い底に沈澱していったのではなかろうか。
『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ』(松山光秀)

 「南からすごい勢いで押し寄せてきた琉球文化と、北から同じように南下してきたヤマト(日本本土)文化をしっかりと両手で受け止め、生のままでは上陸させることのなかった徳之島文化のしたたかさ」という箇所に徳之島らしさは現れています。ここでの文脈に置き換えれば、徳之島は、大島のように北の文化の強力の前に南の文化が屈することもなく、また与論のように北の文化の波が希薄だったわけでもなく、南と北が拮抗しあった。そういうポジションが徳之島だった。この、拮抗に、徳之島の原動力はあるのかもしれません。

 母間騒動から約半世紀後、犬田布騒動が起こります。これは拷問を受けた島人を救出すべく島の150人が起こした暴動です。徳之島の抵抗力は脈々としていました。



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2008/05/05

記憶の収奪

 薩摩が奄美に、所有する文書の提出を命じたのは、侵略から1世紀後のことでした。

 ところで道之島に対する支配は、宝永期に入ると一段と強化された。まず宝永三年(一七〇六)大島代官川上孫左衛門宛ての達書(「大島要文集」)によると、道之島の旧家より所蔵する系図・文書・旧記頬を提出させた。もし持ち合わせながら提出を怠った場合、以後それらの系図・文書類を家の由緒の証拠として認めないという厳しい措置で臨み、また正文・写ともに徴収している。さらには系図・文書類を所持しない者でも由緒や家伝のある場合は、それらを書き付けて提出するように命じている。『鹿児島県史』によると、すでに元禄五年(一六九二)伊地知重張が文書探訪のため徳之島に渡り、同地に残したことを記しているが、それらの徴収された系図・文書塀が伝承されているように記録奉行の手で焼き捨てられたかどうかははっきりしない。しかしいずれにしても道之島の旧家に伝来する史料が少ないことは事実であり、そこに薩摩藩政担当者の道之島に対するひとつの志向をうかがうことはできる。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 1世紀経っていたのは、政治的共同体としての琉球と断絶した後も、ユカリッチュ(旧家)が琉球とのつながりを存在根拠にし続けるので、それが薩摩の支配体制と矛盾していると徐々に感じられてきたということかもしれません。

 「正文・写」ともに徴収ということ、また、文書が無くても由緒がある場合は、それを書き付けた上で徴収ということ。これらは琉球とのつながりを断ち切るためになされた支配者の行為だったろう。けれどぼくは、それが記憶の収奪だった点で、奄美に深刻な影響を及ぼしたと思う。琉球とのつながりが見えなくなったということが現在にまで及ぼしている影響ももちろんあります。けれど、その由緒はいくらか遡れば神話世界や政治権力に仮託したフィクションにつながるもので、必ずしも事実の消去を意味しません。むしろ、事実であれフィクションであれ、奄美の島人が自分たちの手で過去を検証し現在と未来を編み直する術をなくしたということが本質的な被害なのだと思えます。

 文書を提出したのはいずれ奄美の富裕層であったでしょう。そういう意味では、文字を持たない衆庶には関係がありません。衆庶は、没収されるものを持ちませんが、その確かな口承の力で島の記憶を途絶えさせることなく伝えていきました。だから、決定的な打撃を受けているわけではありません。口承があれば島は島であり続けられました。

 ただ、当時の富裕層は、島の権力層でもあれば知識層でもありました。彼らが記憶を失ったことで骨抜きにされ、文字としての抵抗を生むこともできなかったのも確かだと思えます。その情けなさの原因は、ひとえに文書の徴収に帰することはできませんが、島の知識層はそれだけ虚弱だったのではないでしょうか。また、徴収する側も、観念的行為の軽視もはなはだしいの実際的武断のお国柄でした。



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2008/05/04

奄美、琉球の相互扶助

 松下さんは、宮城栄昌の考察を引いて、奄美が凶作のときに、薩摩だけでなく琉球にも「米」を頼った事例を挙げています。

Photo_2



















 この表によれば、徳之島、沖永良部島が薩摩だけでなく、琉球からも「米」を借り入れたことが分かります。わが与論も天明1年、1781年に340石を借りています。徳之島、永良部もそうですが、与論の名前を見つけると、借金の話なので、背景の凶作などの苦難を思うのですが、不謹慎にもちょっと嬉しい気もしてきます。琉球とのつながりを感じられるからということもありますが、それ以上に、滅多に歴史に登場することのない島だからこそ、島名を認めると与論島の存在を感じることができるからかもしれません。

 これらの凶作に直面して貯えらしい貯えもない道之島では、救米の借り入れで急場を凌ぐしかなかった。地理的な条件からのみでなく、「本琉球と道之島との共同体的な歴史関係」に基づいて、琉球からの救米借り入れが常套化してくるという。『道之島代官記集成』などの記事によって、宮城栄昌は救米の事例を表14のように掲げている。それらの救米の個々の事例については、ここでは立ち入らないが、ただし琉球側が道之島からの救米の要請に接して、どのような対処をしていたか、簡単に検討しておこう。

「琉球雑記」(京都大学文学部蔵) によると、道之島の島民が飢饉に際して飯米の借用を申し入れてきた場合、這之島の島民を見殺しにすることはできないし、また琉球人が道之島へ漂着した場合飯米などを調達してもらっていることもあるので、貸し出すことにしているとしている。そして琉球へ直接返済して欲しいのだけれども、道之島は琉球支配下にはなく、督促するにも海路を隔てていて困難であるので、薩摩藩において琉球出物と相殺するようにして欲しいと願い出ている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 この箇所は、「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」のなかで、弓削政己さんも説明していたのでよく分かります。

 ※「漂着・飢饉時の借米機構」


 琉球と道之島との緊密な関係は、飢饉のような非常時のみではなく、中国からの冊封便来琉のときにもみられた。享保四年(一七一九)をはじめとして宝暦六年(一七五六)、寛政十二年(一八〇〇)、文化五年(一八〇八)、天保九年(一八三八)、慶応二年(一八六六)に徳之島・沖永良部島より調物が進覧されている。慶長の琉球侵攻以来琉球王朝の支配下からはずされているにもかかわらず、道之島を琉球三十六場内の島と対外的に宣揚している以上、中国の冊封使の前では体面を取り繕ろう必要もあったのであろう。

 いずれにしても歴史的に深いつながりをもち、地理的にも近く、しかも薩摩藩への交通において琉球と道之島は互いに協力しあうところがあって、道之島の琉球に対する思慕の念は深いものがあったと考えられる。それは逆に薩摩藩に対しての異和感として投影され、薩摩藩の収奪が激しくなるにしたがって憎悪へと変化するものであったろう。道之島において、薩摩藩内では数少ない農民の抵抗が度々記録されるゆえんでもある。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ここで改めて、弓削さんの考察を思い出せば、松下さんの考察とは少し違っています。対立しているというのではありません。対立しているわけではないですが、両者には温度差があります。「薩摩藩への交通において琉球と道之島は互いに協力しあうところがあって、道之島の琉球に対する思慕の念は深いものがあったと考えられる」と、松下さんは奄美の琉球への思慕の強さを指摘するのですが、確か弓削さんはそこで、琉球はどうだったのかと問い、制度以上の振る舞いは無かったと解していました。弓削さんは冷や水を浴びせようというのではない。そうではなく、史実としての距離感をできるだけ正確に測りたい。そんな欲求をそこに感じたのでした。そしてそれは大切な営為に思えます。

 ぼくは、奄美と琉球は、島人の相互の交流は相互扶助的であったが、政治的共同体としての琉球は制度以上の振る舞いはできなかった、と理解すればいいと考えます。




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2008/05/03

収奪の槌音

 このような琉球王朝による寛文期の砂糖生産の増加は、当然薩摩藩の承知するところとなり、その利潤の大きさは財政難に苦しむ藩政担当者の食指を動かすに充分であった。地理的に近い道之島が新しい相貌で藩政担当者の念頭に浮かび上ってくるまでに時間はそうかからなかった筈である。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 ときは17世紀後半。奄美にとって収奪の槌音は南からやってきた。
 ここでの松下さんの筆致は迫力があり、不気味な空気を漂わせています。今につながる奄美の宿命の予兆です。

◇◆◇
 
 ただ、今回、松下さんの考察を読み、黒砂糖の生産開始は、薩摩の強制ではなく、琉球の内発的な行為であったことを確認すると、かすかな安堵感がやってきました。いままで与論島の砂糖きび畑を眺めるとき、ともすると薩摩に収奪された貧困と圧制の象徴を目にしているという思いにかられることもあったのですが、改めて思えば、琉球の黒糖生産に薩摩が付け込んだのか、そもそも薩摩が強制したのかでは、受け止め方が違ってきます。琉球の島人が作り始めたものなら、あくまで自分たちのものという眼差しを持つこともできるわけです。

 砂糖きび栽培は、その粗放さゆえに文化を育てないと言われることもありますが、それでも、そこに自分たちの文化の土壌はあります。TV番組「ちゅらさん」で、小浜島の砂糖きび畑の道を「シュガーロード」と呼んだとき、ぼくは貧困と圧制の象徴をポップに置き換えたことに驚きましたが、砂糖きびはそもそも琉球の島人が内発的に始めたことだと思えば、呼び名を変える根拠と権利はあると思えてきます。

 砂糖きびは、いまも島の経済の柱であるとともに問題でもあり続けているわけですが、砂糖きびとともに培われてきたものは何だったのでしょう。砂糖きび文化。いつか取り組みたいテーマです。



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2008/05/02

奄美直接支配、隠蔽の意図

 1609年、琉球侵攻後、1613年、大島奉行設置、1623年には「大嶋置目条々」を発布、年貢徴収法や大型船(楷船)の建造禁止、薩摩藩への貢納の方針を示します。そして、1624年、奄美は薩摩藩の「御蔵入」、直轄地となります。

 しかし、薩摩は直接支配にしたにも関わらず、「琉球道之島」と対外的には表明します。それは江戸時代を通じて変更されることはありませんでした。

 このような施策を着々と講じながらも薩摩藩は幕府に対して「琉球道之島」として、その行政区画を設定し、それは江戸時代を通じて変更されることはなかった。実質的には薩摩藩の蔵人地でありながら、表向きは琉球王朝支配地として押し通したのである。そのような状況は慶長期末・元和期の道之島の歴史的事情に由来すると考え られる。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 なぜそうしたのか。松下さんはここで、面白い仮説を提出しています。

 ここで敢て大胆な推定をするならば、薩摩藩政担当者にとって、道之島は当初唐船着岸貿易の市場として意識されていたのではないか。「薩州唐物来由考」によれば、元和二年(一六一六)ごろ、江戸幕府は唐船との貿易は長崎で行なうよう命じたにもかかわらず、中国側の嘆願の形をとった薩摩藩の訴えにより、その禁止令を撤回したという。また同年八月の芝家蔵「船切手」は積荷として「船釘六百三拾四斤」等を記しているが(『名瀬市史』上巻)、それは「楷船」(交易船)建造用であろうという。このような中国との直接貿易に対する薩摩藩の執心は、奄美諸島を表向き(幕府に対し)琉球に附属せしめて、唐船着岸による交易の場所として設定しようとするものであり、その思惑が奄美諸島を琉球から行政的に分離しながらも直ちに蔵入地にしなかった理由ではなかろうか。

 明(中国)と貿易の窓口を持っているのは琉球。だから、対明貿易を維持するには琉球は琉球でなければならない。奄美が対明貿易の窓口になるのも、奄美が琉球だからである。もともと琉球侵攻したのは、対明貿易が目当てだったくらいだ。そこでもっと考えると、その利益をより得るためには、奄美を表向き琉球のまま直接支配し、貿易拠点にしてしまえばいい。そういうことだろうか。

 松下さんは、貿易拠点としての構想があったから、すぐに「蔵入地」にしなかったのではないだろうかと考えています。この仮説は、その後支持されているのかどうかを知りませんが、素直な仮説に思えます。松下さんは続けます。

行政区域は異なるが、種子島への唐船漂来の状況をみると、鎖国が完成する寛永十六年(一六三九)以降でも移しいものがあり、寛永二十年(一六四三)には「唐船しばしば漂来し、事煩わしき故を以って、官に検便を請う」(『種子鳴家譜』六)としている。それは寛永十一年(一六三四)薩摩藩着岸の唐船貿易を禁止されて、唐船を長崎へ護送することの煩わしさがあり、また経費増加に音をあげての請願だったのであろう。以上のことは、鎖国完成以前の慶長・元和期において、南島着岸の唐船貿易の盛行を示唆するものである。

中国南部との地理的近さからも、学事をふくめての人々の交流からみても、唐船が道之島に数多く漂来し交易を盛んに行なったことは充分肯定できることであろう。薩摩藩はそのような交易市場として、奄美諸島を処遇することを模索していたのではなかろうか。そのような交易利潤をも含めて道之島高四万三二五七石余が籾高によって設定されたものと考えられる。そして「琉球道之島」という表現に藩政担当者の志向がよく表現されているように思われる。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 奄美の対明貿易拠点は、正確には、「唐船着岸貿易」の拠点ということでした。これは、奄美に着眼した唐船との貿易という意味だと受け取れます。そういえば、弓削さんも「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」(「漂着・飢饉時の借米機構」)で漂着の多さに注目していましたが、それは、琉球弧の島々の船が琉球弧のどこかの島に漂着するというだけでなく、唐船が漂着することも含まれていました。奄美には唐船が漂着することが多い。そんな実態に着目して「唐船着岸貿易」は構想されたのかもしれません。


 昨年、『しまぬゆ』を読んだときにも感じたことですが、松下さんにこうした仮説を構想させる薩摩は、このとき国家への欲望を宿していたと思います(「侵略の根拠」)。

 琉球王国というまがりなりにもの国家に対して支配者として振る舞い、奄美を直接支配するもそれを幕府、明(中国)という両国家に対して隠蔽するという振る舞いは、自らを暗に国家と擬していることを意味しているのではないでしょうか。薩摩の琉球侵攻は、藩財政の建て直しと対明貿易の利益確保を根拠にすると言われますが、ぼくたちはそこに、その意図を破って奔流する国家への欲望を見るのです。


追記
 松下さんは、奄美の唐船着岸貿易の交易市場化を、幕府の鎖国令によって諦めたのではないかとしています。



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2008/05/01

粟粥の呪力

 昨年出版された『しまぬゆ』は、薩摩の侵略に際し、沖永良部の島人が「大量の粟粥を炊き、もうもうと湯気の立ち上る鍋を渚から村口まで並べて」待ったが、島津軍はそれを食料にしてしまい、以来、その地が「馬鹿島尻」と呼ばれた伝承を取り上げて、「伝承のような事実はなかったろう」と結論していましたが、ぼくはそれは事実と見なして構わないものであり、沖永良部は闘わなかったのではなく闘ったのだと書いたことがありました。

 ※「沖永良部の抵抗」

 松下さんによれば、同様のことは徳之島でもあったことが分かります。

尚真時代の神女組織の確立は政教の分離をはかり、宗教に対する政治の優位化を目的としたものだというが、その神女組織自体が(中略)政治に密着しており、根神・ノロ・聞得大君などの神女は「おなり神」の霊力を通じて、根人・按司・国王などの政治を補佐する存在であったともいう。琉球王朝の政治の世界でもそうであるから、まして奄美の島々の場合呪術の力が支配的であっても不思議ではない。

大山麟五郎によると、奄美の場合栗の穀霊による悪霊払いの呪術が信じられていたのだという。「琉球入記」で徳之島掟兄弟の兄が「家ごとに粥をたざらかし、大和人の膝を火傷させるために坂や道に流せ」と命じた粟粥は、そのような霊力をもつものであった。名瀬間切の伊津部村にある拝山はうしろの尾根に堀切があり、それは敵を直接防禦するたあのものというより、ノロが粟粥を注ぐ儀式を行なった所であって、悪霊が部落に侵入するのを防ぐものだったという。このような栗の穀霊に対するアニミズムは、中尾佐助が照葉樹林の農耕文化を分類した第四段階、すなわち雑穀栽培の開始以来、島の人たちをとらえていたものであろう。焼畑の灰の中から芽をふき出してくる菜に対して古代人が畏怖の念をもつことは別に奄美だけのことではなかったが、農耕文化の発達が充分でない南の島々で、「按司世」までそのような素朴なアニミズムが生き続けていても当然であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 松下さんは控えめに、「素朴なアニミズムが生き続けていても当然であろう」としているけれど、ぼくは、それこそは奄美(琉球弧)が長く保存した世界観だと思っています。雨よ降れと念じれば雨が降るという雨乞いの世界観は、人間と自然の関係の原型のひとつを示すものでありますが、劣った世界観ということでは全くないので、「農耕文化の発達が充分でない」とへりくだって言う必要はないことです。この、人間と自然の関係の原型を保存した世界への侵入と支配は、薩摩の琉球侵略の特徴であり、薩摩にとっては奄美を植民地化するのに好都合な条件に見えたかもしれません。

 松下さんは、島津の沖永良部侵攻についても触れています。

「琉球入記」は、その後の沖永良部島侵攻の経過を次のように記している。すなわ薩摩藩の琉球侵攻ち、沖永良部島に船団を進めたところ、荒波や夥しい岩瀬のために陸地に近寄るすべもなかった。一方沖永良部島の世の主は、それをみて、もはや軍船が攻め寄せることもあるまい、もし陸地に近寄れば船は悉く難破するから、直に郵覇の方へ向かうだろうと評定していたところ、丁度大潮が満ちてきて岩瀬の上を浪が越すようになり、薩軍の船団もそれに乗じてなだれこみ、そこで沖永良部島の世の主は僧を達して降伏したという。

それに対して大将樺山が「一戦にも及ばず、馬鹿者共よ」と言ったので、その後、その所を馬鹿尻というようになったのだという。この樺山の三一日はおそらく薩軍の将兵みなが一様に抱いた感懐かもしれない。武力の優越が全ての価値基準である封建社会の薩軍将兵にとって、奄美の風土が異国的に美しければ美しいほどに、その島々の集落や生活が侮蔑の対象となったのであろう。一方「琉球渡海日々記」は、三月二十四日「えらふの島崎に日の入る時分こちと御かゝり成られ候」と簡潔に記しているのみである。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 松下さんは、「奄美の風土が異国的に美しければ美しいほどに」と奄美への愛情を下敷きに書いてくれていますが、ぼくは、樺山が「一戦にも及ばず、馬鹿者共よ」と言ったのなら、馬鹿という人が馬鹿なんです、と返そうと思う。



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2008/04/30

島津軍、乱暴狼藉の規制

 松下さんによれば、島津軍は、琉球侵攻に当り、規律を守るよう軍律を発布しています。

 前にも述べたように、島津家久・同義弘・同義久は連署して「琉球渡海之軍衆法度之条々」一三ヵ条の軍律を発布したが、それは軍団の指揮命令系統を明確にして規律を守ること、とくに喧嘩口論や鉄砲のめくら打ち、島々の百姓などに対する乱暴狼籍や堂宮尊、経・書籍などの取り扱いなどを規制しており、ただでさえ粗暴なところのある軍団の綱規粛正を図ったものであった。このことは藩政担当者の単なる杷菱にとどまるものではなかった。たとえば種子嶋の領主久時は家臣数十人を琉球侵攻に参加させたが、そのうち家臣六郎右衛門を琉球における所業を理由に放逐しており、その後その子孫にも領主への面謁を許さないことを遺言している(「徳子嶋家譜」四)。その所業の内容については記事が簡潔なために知ることができないが、琉球での軍規違反であろう。また、市来家元が記すところでも、首里城内には混乱をおそれてか「大将分の御大衆」ばかりが入城して、その出入りの検査については厳格を極めたとしている。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 以前、16世紀末の薩摩で、武門の子弟に向けられた「二才咄格式定目」を読み、定目成立の背景には、ささいなことで諍いや喧嘩に及ぶ武門の青年たちの実態が控えていると考えてきました。

 「二才咄格式条目」とは何か
 <こわばり>としての薩摩の思想

 これを踏まえれば、「喧嘩口論や鉄砲のめくら打ち、島々の百姓などに対する乱暴狼籍や堂宮尊、経・書籍などの取り扱いなど」の規制をなぜ改めて行なわなければならないのか、頷ける気がします。特に、「武人的知謀」の長州、「理論的武断」の土佐、「文弱的知謀」の肥前に対し、「実際的武断」と呼ばれたように観念的行為を軽視する薩摩の武門であれば、軍律は必須で要請されたのかもしれません。

 侵攻について、ぼくたちはともすると武門の粗暴さのまま無規律に破壊の限りを尽くしたのではないかと想像しがちなので、ここでは侵攻時に軍律が発布されたことを押さえておきたいと思います。



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2008/04/29

粗暴な西郷の転換

 名越左源太と対照的に取り上げられているのは、あの、西郷です。最初、奄美大島に配流された時、島人も困惑するほど、彼は粗暴だったといいます。

『大西郷全集』によると、着島後一カ月ほど経て同志の税所喜三左衛門・大久保正助宛てに出した書状では、島の娘たちを「垢のけしよ(化紅)一寸ばかり、手の甲より先はぐみ(入墨)をつき、あらよふ」とからかい、さらに「誠にけとふ人には込り(困)入り申し侯」と記している。そのことは「当島の体、誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人捌よりはまた甚だしく御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれあるまじくと相い考え居り候処、驚き入る次第に御座候」という表現にも、侮蔑の念を端的に露呈している。また同年四月の吉田七郎宛ての書状では「……迚(とて)も居られざる所に御座候。只物数奇はかりにてもこれなく、旁のし申さず(忍びかねる)候儀のみこれあり、込り(困)入り候」と配流先には住みかねるので場所替えして欲しいと音をあげている始末である。また六月には「此のけとふ人の交(まじわり)いかがにも難儀至極。気持も悪しく、唯残生恨むべき儀に御座候」と島民との対応に嫌悪の情を隠さなかった。

 この西郷隆盛の言動は名越左源太と対極にあるものであり、薩摩人の思い上った一般的な対応を示すと考えてよい。『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 垢の化粧に甲の入墨の毛唐人に困っているとは、西郷も言ってくれるものです。ただ、これを「薩摩人の思い上った一般的な対応」と見なすのは言い過ぎかもしれません。言ってみれば、主たる産業が農業の段階にあり、かつ、被支配者として虐げられたきた者が、自然採取の段階の社会に支配者として直面したときの差別感情の一般というようなものではないでしょうか。ぼくたちは、自然採取の段階を優劣の感情なしに見つめることができるまでに、農業、製造業、サービス業などの段階を踏む必要があったほどです。

 松下さんによれば、そんな粗暴な西郷が転換したのは、島の娘、愛加那との結びつきがあったからだと言います。配流されて二年後、一子をもうけたことを知らせる書状では、「私には頓と島人に成り切」っていると記しているといいます。

 この後、次に徳之島に配流された時には、

 私にも大島え罷り在り候節は、今日ゝと(赦免を)相い待ち居り候故、肝臆も起り、一日が苦しみにこれ有り候処、此の度は徳之島より二度と出申さずと明(諦)め供処、何の苦しみもこれなく、安心なものに御座候。もしや乱に相い成り候はば、其の節は罷り登るべく候えども、平常に候はば、たとえ御赦免を蒙り候ても、滞島相い顧ひ申すべき含みに御座候

 とあり、松下さんはこう続けています。

 たとえ赦免されても道之島に永住する決心であると言っている。西郷をここまで言い切らせたものが何であるかは、必ずしもはっきりしないが、この文面のすぐ後に「迚(とて)も我々位にて補ひ立ち候世上にてこれなく候問、(藩主への)馬鹿らしき忠義立は取り止め申し候」と続けているその心情は、全く藩意識を超克しょうとした反封建的なものであったに違いない。

 ぼくは、西郷に道の島永住を決意させたものは、それこそ愛加那と奄美(琉球弧)の力だと思う。それは、「全く藩意識を超克しょうとした反封建的なもの」というより、愛加那の人としての力と藩意識をはじめあらゆる作為を溶かしてしまう琉球弧の解体力です。

 ぼくは西郷の粗暴な面を取り上げてくさしたいわけではない。島人に侮蔑な視線を浴びせながら転換したところ、あるいは名越左源太は、稀有な理解者だったがあくまで観察者の位相にとどまったのに対し、西郷隆盛は大胆にも島人になりきろうとしたところに西郷ならでは魅力はあるだろう。ぼくは、その転換を好もしく感じるのと同じように、転換を促した奄美・琉球弧の力を誇ってもよいと思うのです。



 

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2008/04/28

薩摩の奄美理解者-名越左源太

 弓削政己さんの「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」を辿って、奄美の二重の疎外は、それだけではなく、二重の疎外の隠蔽も強いられていたことを知りました。ここで二重の疎外により引かれる境界は、隠蔽により透明化されます。これに対応するには、奄美の島人が自身を透明化するしかありません。それはつまり、島人が自身の存在価値を空虚化することを意味するはずでした。事実、そうであったのですが、弓削さんの考察からはそれだけではない側面も見えてきました。透明化された境界には、無数の穴がありそれが浸透圧を発生させるみたいに、大島と徳之島のような内部と大島と屋久島、沖永良部島と沖縄のような奄美外部との間に物資の行き交いが生まれました。そこに、二重の疎外を越えて呼吸しようとする島人の抵抗を感じることができます。

 ぼくはもう少し詳しく二重の疎外下にある奄美の実態に迫ろうと思います。頼りにするのは、松下志朗さんの『近世奄美の支配と社会』です。

『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

Photo_8










 薩摩支配下後期の奄美(大島)の実態は、ある人物のおかげで記述と絵の両方で知ることができます。流人として奄美大島に滞在した名越左源太(なごやさげんた)です。

 名越左源太は『遠島録』をみると、詐虚な人柄であったことが知られる。五月八日小宿村藤由気宅を借りるときも三畳問の小部屋を希望し、藤由気の好意で一軒家を明け渡されたことを気にして「拙者壱人には別して広過ぎ候」と記しているくらいである。『遠島録』によれば、いろいろな人物がその蟄居先を訪れているが、その中でも村人たちとの交歓は情こまやかなものがあって、近辺の者が野菜や魚などを手土産に気楽に立ち寄っている様子が生々と描写されている。たとえばハブに喰いつかれた老人の様子が痛々しかったので、菊池を贈ったところ、早速お返しに刻み煙草をもらい、「皆少しの事に別して悦び申し候」、「村中の著共、追々見舞申し候て、一銃叮嚀の向に御座候。別して仕合せに御座候」と記していることなどにも、その有様がよくうかがえる。

 名越左源太の日々の生活は、陣監経の読経と村人との交歓にほとんど明け暮れしているが、なかでも藤由気の養子、嘉美行は左源太の居所に入り浸りだった。すでに五月十六日には「碁より寡美行へ大島言葉を習ひ申し候」と記されているが、連日連夜のように咄相手として左源太を訪ねており、七月に入ると「嘉美行と両人にて事物共見申し候」とか「暮過より嘉美行へ算術を習ひ申し供」といった記事が毎日のように記されていて、茅英行に手習を教えたり算術を教えられたりの日日であった。嘉美行に代表されるような村人たちとの交歓は、八月踊にもよくあらわされている。

 八月踊の酒宴に村人たちから再三招かれて、それを断りきれずにやや当惑しながらも招待に応じている人の良い左源太の姿が『遠島録』の記事から浮かび上ってくる。一日中雨に濡れながら踊り抜く島民の「元気強さ」について驚嘆しているが、そのような異質な文化や生活に対する率直さは、左源太をして珍しい貴重な記録を残さしあることとなる。彼の大島における見聞は「南島雑話しとして、歴史学・民俗学・動植物学などについての多くの知識を私たちに残してくれたが、それは叙述の客観性のみではなく、その淡々とした記述の背後に先述したような村人たちとの交歓があり、彼の村人たちへの温い眼差しは、深い感動をよぷものがある。
『近世奄美の支配と社会』(松下志朗)

 その名越の人柄は、こんな綱引きの絵にも現れている気がします。

 「綱引きの絵」

 「異質な文化や生活に対する率直さ」が松下さんの言うとおりなら、世が世なだけに、かつ、その後、制度的な根拠を無くしても続く奄美蔑視の慣性の強度を鑑みると、名越の態度は稀有に思えます。名越は薩摩支配下南島における、他に例のない理解者だったのではないでしょうか。

◇◆◇

 ところで、名越左源太のことを知るなら、bizaさんの「幕末奄美遠島生活」が最高です。「大島遠島録」や「南島雑話」を追って現代語訳してくれているのですが、なんといっても名越を「左源太さん」と呼んで親しんでいる姿勢に、ほっとさせられるのです。これも名越左源太の人徳になせる業でしょうか。追っかけは一世紀半経ってもできる。そんなことを教わる気がします。

 「幕末奄美遠島生活」



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