カテゴリー「25.「まつろわぬ民たちの系譜」」の10件の記事

2010/02/25

「Yay Yukar Park」65、が届いた

 計良さんから「Yay Yukar Park」、ヤイユーカラ・パークが届く。

 ぼくはいつものように、アイヌ刺しゅうのデザインを見る。なんとなく見入ってしまうし、与那国島で見たデザインと似ているので、南と北がつながるようで心地いいのだ。

 計良さんは、唐獅子に書いた「奄美が見えますか?」の記事を引いて、書いている。

 我々に見えていないのは奄美だけではない。自らに問いかけなければならないことが、あまりにも多すぎる。だからこそ、「見えますか?」と問い続けなければならないだろう。(「Yay Yukar Park」65)

 恐縮するのだけれど、自分に引き寄せれば、ぼくたちもまた自らのことに追われて見えないことは多い。自分たちを見つめ、可視化していくことが、他が見えてくることにつながると信じたい。


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2009/02/10

「ヤイユーカラの森」からニュースレター

 去年、仙台で「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」のパネル・ディスカッションをご一緒させていただいたヤイユーカラの森の計良さんからニュースレターが届いた。

 冒頭、田中優子の『カムイ伝講義』の、

格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会のことだ。

 という言葉が引かれていて、思わずうなった。まさにその通りだ。


 計良さんからはこんなメッセージ。

□ 国内にしろ国外にしろ、一人で動くのは“移動”です。けれども、二人で動くと“旅行”と 感じるのがおもしろい。食べたり見たりするものが、少し違って感じられます。
□ 今年は、1609年島津軍による琉球侵略から400年にあたります。“ヤマト”でもなく琉球でも ない“奄美”というものを、去年6月に仙台でおこなわれたシンポジウムに参加することによって初めて知りました。これは、衝撃でした。今年は奄美に“旅行”したいものですが……。

 ぼくは、奄美の受けた「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が、薩摩、沖縄以外の人たちにどのように受け止められるのか皆目分からなかったし、奄美に対する考えをしゃべるのは初めての機会だったので、計良さんの応答は、ありがたかった。

 ぼくもまた、アイヌ、沖縄と奄美を共通の土俵で考える絶好の機会をいただいた。アイヌのコタンと奄美のシマが似た概念であること、奄美は島に封じ込められたが、アイヌは土地を追われたこと、などだ。奄美、沖縄の島々は移住するには魅力的ではないということもあったろうが、それ以前に、琉球王国の存在を中国に見せる必要があったから、一部の役人と遠島人を除き、薩摩は琉球に移住していない。一方、北海道という広大な土地は魅力的で和人はそこに移住する。しかしそれはアイヌの土地が奪われるということを意味していた。

 奄美・沖縄は島に封じ込められたが、シマを維持し言葉をかろうじて保持し共同性を継続することができた。対して、アイヌは土地を奪われたがゆえに、不可視の存在として霧散するしかなかった。日本はアイヌに土地を返さなければならない。


 計良さんの奄美「旅行」が叶うことを願いつつ。



 

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2008/07/03

『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』

 計良光範さんの『アイヌの世界』は、書名の通りアイヌの世界が、心にそっと触れるように届けられる。押し付けがましくもなく、隠れているのでもない。淡々としながらやがてしっとりと心に沁みてくるようだ。こんな風に与論のことを書けたらいいなと思った。この感じはどこからやってくるのだろう。

Photo













 『アイヌの世界』には、99のエッセイが収められている。「春」「夏」「秋」「冬」の章があり、エッセイはそれぞれの季節のどこかに入っている。もっとも、もともとアイヌには「夏」と「冬」の概念しかなかったそうで、この春夏秋冬の区分も際立った違いは、「春夏」と「秋冬」の間にあると言ったほうがいいかもしれない。これなど、ぼくは「長い冬と短い夏」を「長い夏と短い冬」に置き換えれば、与論と同じだと思った。

 たとえば、「アイヌ文様」というエッセイ。

 冬の炉端では、男も女も手仕事に励み、その手元からは美しい文様が生み出されていきます。  アイヌ文様は木製の生活道具に彫刻されたものと、衣類などに刺しゅうされたものに分かれますが、彫刻と刺しゅう-立体と平面という特性から、デザインそのものに違いがあるのと、文様が持つ意味あいにもいくらか違いがあるようです。

(中略)

 女の人が刺しゅうして作り出していく文様は、それを身につけた人を災いや魔神(とくに病魔)から守るためのものです。
 絵や写真でアイヌの伝統的な衣装を見るとよくわかりますが、文様が入っている位置には二足のパターンがあります。襟、裾、袖口、そして背中に、大小やデザインの違いはあっても、必ず文様がほどこされています。それは、その場所が一番無防備で、魔神が侵入しやすい所なので、文様によってそれを防ぐためなのです。とくに背中は自分では見えない所ですから、文様の力でいつも守ってもらわなければなりません。背中にひときわ目立った大胆な文様が刺しゅうしてある着物が多いのはそのためです。(『アイヌの世界―ヤイユーカラの森から』(計良光範)

 こんな風に易しい言葉を使った「ですます」調で、話しかけるように書かれている。それでぼくたちは、この本の世界に構えなく入っていける。実はこの本は、「毎日中学生新聞」に連載されたもので、この易しい文体は、中学生向けに書くことを意識して選択されたものだ。

 けれどこの本は、中学生向けに書かれた易しい本と言ってしまえば、それが心にそっと触れる理由になるかといえばそうではない。書き手からしたら、中学生向けであることは連載中ずっと念頭にあるわけだが、そのために選ばれた易しい文体は、別の力も生んだように見える。

 苦難の経験はそれをどのようにすれば誰かに伝えることができるのか。そんな難しいテーマにこの本は応えているように思えた。それはどうしてだろう。易しい文体で書かれているから? そう答えてみても、それは必要条件かもしれないがとても十分にならない。抑制が効いているから? そうには違いないけれど、そんな風に言って終わらせたくない。

 この本には、アイヌの受けた受難もきちんと書かれている。胸が痛むしそれが現在の問題でもあることに気づかされる。けれどこの本から浮かび上がるアイヌ像は、巨大な受難にあえぐ姿ではなく、生き生きした姿のほうなのだ。浅い書き方しかできないのだが、それはアイヌの生き生きした姿の描写に大半の紙面を使い、まるで付録のようにおしまいにいくつかアイヌの歴史を綴っていることからやってくる。そしてこの構成が、難しい問いに応える力になっているのではないだろうか。受難について書かれた量が少ないから受け止めやすいという意味ではない。魅力が伝えられた後だからなお、受難は痛ましさとしてより純粋に読み手に受け止められる。そんな感じなのだ。

 中学生向けだから易しく書く。その制約の結果、計良さんは中学生の人生経験にも伝わるように、アイヌの世界を丁寧に子どもの目線で書いていった。そして、アイヌの歴史も中学生に分かるようにと事実を淡々と記述した。それが返って、受難の大きさを自然に伝える力になった。それは相手が中学生だからというだけではなく、経験の無い人に、苦難の経験を伝えるための条件もクリアすることになった。そんなことではないかと思った。 

◇◆◇

 ここには、「自分の心を述べる」即興歌、「ヤイサマ」がひとつ挙げられている。

私の大事な恋人が
どこか遠いところへやられた
あなたは今どこにいるのか
鳥になりたい
風になりたい
風よ 憎い風よ
お前は自由な風だから
お前だけは私の恋人の
まわりをまわり
さわっても歩けるだろうが
私は人間だから
行くことができないのだ
ヤイサマネナ
仕方ない
風にでも 鳥にでもなって
とんで行ったら
恋人にさわれるだろうか
ちょっとでも姿を見れないだろうか
ヤイサマネナ
ヤイサマネナ…………

 このヤイサマは、幕末期、労働力として強制連行された恋人を奪われた女性の想いを歌ったものだという。この詩は、同じ北の大地で生まれた中島みゆきの「この空を飛べたら」を思い出させる。

空を飛ぼうなんて 悲しい話を
いつまで考えて いるのさ
あの人が突然 戻ったらなんて
いつまで考えているのさ

暗い土の上に 叩きつけられても
こりもせずに 空を見ている
凍るような声で 別れを言われても
こりもせずに信じてる 信じてる

 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい

飛べる筈のない空 みんなわかっていて
今日も走ってゆく 走ってく
戻るはずのない人 私わかっていて
今日も待っている 待っている

この空を飛べたら 冷たいあの人も
やさしくなるような 気がして
この空を飛べたら 消えた何もかもが
帰ってくるようで 走るよ

 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい
 あぁ人は 昔々 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも 空が恋しい

 「この空を飛べたら」は、ヤイサマに似ている。そういうより、「この空を飛べたら」は、ヤイサマを元歌にしているのかもしれない。「この空を飛べたら」は失恋歌だが、この曲からやってくる哀しみの大きさを想うと、ヤイサマは聞いたことがなくても、「この空を飛べたら」を通じてヤイサマを聞いたような気分になることもできるのではないかと思えた。

 こんな連想を許すのも、この本は囲いを作らず、そこに風が吹いていると感じられるからだと思う。また、表紙にある切り絵は、本のところどころにも登場して、この作品に力強い表情を加えている。人間力がやせ細ってきたのを感じたら読みたい本だ(するといつもか)。

追記
 ところでぼくは、与那国島で見た衣裳のデザインがアイヌ文様とそっくりだったのをとても興味深く思っている。あ、それから、せっかくお会いしたのに軽率な気がして、計良さんにサインをいただかず仕舞いだった。次回、ぜひにである。



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2008/07/01

ピリカのバッグ

 今日はeメールコミュニケーションのセミナーで一日立ちっ放し。足が疲れた。マネジメントスクールは代官山にあるのだけれど、いつも場違いだよなと思いつつ歩いている。でも、まわりは緑があってほっとするのだ。

 おとついは仙台だったなんて、嘘みたいだ。

ManagementschoolTopWood














 思い出してみると、去年の6月23日、ぼくは札幌への出張の最終日、アイヌ文化交流センターへ足を運び、そのまま市内のピリカ民芸店で買い物をして東京に戻った。そしてその翌日に父の危篤の報を聞いて鹿児島へ向かいそのまま父の他界を見届けた。

 そして今年、父の一年祭を終えた翌週に、今度は仙台でアイヌの歴史を直接、聞くことができた。計良さんに、ピリカのおばちゃんは近所だよと教えられて驚きながら、一年前のことを思い出した。気づいてみれば、ぼくはピリカに行ったときと同じいでたちでおり、その時買ったバッグで会場に来ていた。

 あまり整理できないけれど、なんだか不思議なありがい縁だ。

Pilica_bag


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2008/06/30

「まつろわぬ民たちの系譜」を終えて

 29日、「まつろわぬ民たちの系譜」というサブタイトルでパネル・ディスカッションに参加した。というより、参加させてもらった。

アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜
Ainu, Amami, Okinawa: RE-collection Of Occupied Memories

○パネラー
・計良光範氏
(アイヌの積極的自律を目的とする「ヤイユーカラの森」運営委員長。)
・田場由美雄氏
(思想史研究家、法政大学沖縄文化研究所研究員、その他多くの肩書きを持つ。首里在住。)
・前利潔氏
(沖永良部島在住。知名町中央図書館勤務。図書出版まろうど社から第一評論集『無国籍の奄美』を現在編集中。)
・喜山荘一氏
(与論島出身。与論・奄美・琉球弧から思索するブログ「与論島クオリア」を主宰。)

 ぼくは、「まつろわぬ民」という投げかけに対して、そういうより、奄美は「失語の民」というのがふさわしいのではないかと受けて、「失語」の起点である1609年をどう受け止めるのかというテーマでレジュメにあるような話をした。

 田場さんは、「失語」を受けて、沖縄をめぐる言説は氾濫しているけれど、中身は空しくなっているのではないかとおっしゃった。一方、沖縄は国家に対しては地上戦のこと、沖縄を踏み台に平和条約を結んだことなど、謝罪を求めるけれど、受け止めてくれない、なぜ、そうしないのか分からない。沖縄の内部ではそこで、もう日本はいいからと、香港や台湾や南洋の島々など近隣の地域と交流を深めはじめている。こうした中で、基地問題などのネガティブな問題は依然として存在し、それを隠蔽するかのように「癒しの島」というポジティブな側面が語られる。ルサンチマンを梃子にした言説は終わりつつあると感じられるのと同時に、そのポジティブな側面もネガティブな側面も言葉は氾濫するけれど空疎であるのと同じように力を無くしていっている様に見える。ぼくの意訳もあるけれど、こんな沖縄の内側からの課題をまっすぐに話されていたと思う。

 ぼくは、沖縄が日本に向き合うのに疲れてしまわないようにと願いながら、脱ルサンチマンの沖縄言説のありようを考えるのが課題なのかなと思った。沖縄の内部から「沖縄は本土を癒すために存在しているのではない」という声を最近、聞くように思う。これはルサンチマンを梃子にした声だ。これをルサンチマンとして言わないとしたらどうなるのだろう。たとえば、観光客が「癒された」と感じる力を沖縄は確かに持っているのだから、本当の癒しの島を実現するために、基地撤廃の運動にコミットしてほしい、と、そう本土の人に伝えること。これは脱ルサンチマンの言説になりうるだろうか、と考えた。

 計良さんが、幕藩体制期、松前藩はアイヌの生産物を低いレートで米などと交換してアイヌを収奪したと話したとき、薩摩藩が奄美から黒糖専売を行い、やはり低いレートで米や生活用品と交換して奄美を収奪したのと同じだと知り、驚いた。だが、相違点も強烈だ。琉球は薩摩から大型船建造を禁じられ、島に封じ込められる。そして国家からは島は「点」と見なされ、移住はしないが対中国との貿易拠点やアメリカの軍事拠点として存在させられてきた。一方のアイヌの地は、「面」と見なされたのだろう。軍事拠点よりは人々が移住するのだが、その時、「無主の地」として土地を大地を奪われる。

 奄美はしばし実体が問われる。実体が希薄、もしくは無い、という意味で。しかし、実体は、いかに心細い場であるにはしても、「点」としての島が実体の可能性を担保してきた。だが、アイヌは実体を支える場を奪われたのだ。だから、「先住民族」を国家が認めるとき、そこには当然、土地の返還が伴わなければならない。それはひとつ民族としてのアイヌのためにというだけではなく、情けは人のためならず、わたしたちの中のアイヌのために、とも思った。

 前利さんは東北の地という場を意識して、島尾敏雄のヤポネシアの言説の変遷を追っていた。そのなかから、沖縄と奄美のヤポネシア受容の仕方の違いを浮き彫りにした。島尾の手を離れてヤポネシアが思想として独り歩きしたとき、沖縄にとってはそれは反国家思想の根拠となり、奄美にとっては奄美=日本の根拠になった、と。二重の疎外の文脈からいえば、<大和ではない>という規定を強いられた沖縄は、「反大和」の規定を育て、<大和ではない、琉球でもない>という規定を強いられた奄美は、「でも日本ではある」という規定に救いを求めた、といえばいいだろうか。

 前利さんの発表の白眉は、日本、沖縄、奄美、アイヌについて国税、学校教育、徴兵制、参政権について比較したことだった。この一覧表をみたとき、自分のアイデンティティが近代化の過程の相違としてあらわすことができるみたいで、一瞬、やれやれと思ったが、アイヌ、沖縄、奄美を共通に語る視点が提供されてとてもよかった。それは、今回のパネル・ディスカッションの最大の収穫でもあるはずのものだ。そして前利さんによれば、共通の視点でみるとき、国家としての日本は、奄美、沖縄に対して包摂という態度で臨むが、アイヌに対しては排除の態度で臨んでいる。

 終わってみて改めて思うのは、今回のテーマの意義は、それぞれの語が等価ではないにしても、アイヌ、沖縄、奄美が同時に語られたことにあるのではないかと思えた。これは奄美内部からは決してできない土俵設定だと思う。たとえばぼくでも気後れしてできないだろう。その意味で、これは大橋さんのおかげだ。でも、それは自然になされなければならないことだ。ぼくにしても、困難の無限連鎖(あそこのほうがここよりもっと大変だ)と、なし崩し的な同一化(みんな大変なんだ)による思考停止を止めるために奄美の固有の困難を明らかにしたいと考えているのだから。

◇◆◇

 テーマがヘビー級だから雰囲気も終始ヘビー級だったかといえば、そうではない。むしろ、逆だった。
 初日、時間になってもやってこない田場前利組を気にして、大橋さんは何度か入口まで見に行っては引き返してくることを繰り返していた。で、たまたま大橋さんが再び見に席を立ったところへ田場前利組、到着。そのときの開口一番が「なんだ大橋段取りワルイナア」である。苦笑。それから、仙人の風貌の田場さんの初日のいでたちはミツヤサイダーのTシャツ一枚。寒くないですか?と肩をさすると、「なんで?」とこれまた仙人のお答えなのであった。
 
 また、お店に入るたびにビール6本、などと頼んであっという間に飲み干す南チームを見て、計良さんは、「本当によく飲みますねえ」と驚かれていた。呆れられていませんようにと祈るところです。でも、計良さんはシカのソーセージを振る舞ってくれて、これが美味しかった。お酒の肴にもとてもよかった。奄美、沖縄料理屋さんのとっておきメニューかなんかで用意しておくとすごく受けるのではないかと、また酒つながりの発想をしてしまった。

 ぼくはといえば、奄美・琉球に対する考えを人前で話すのははじめての機会だった。失語というのは自分のことではないかと笑ってしまう。もちろん発語すりゃあいいってもんではないが、潮時と受け止めたい。

 聞いてくれたみなさん、計良さん、田場さん、前利さん、大橋さん、山内さん、安西さんに感謝です。とおとぅがなし。


 あ、そうそう。「島唄館・沖縄」だっけ?違うかな?そこで、山内さんの三線と唄を堪能できました。仙台で懐かしい音が聞けるとは。波照間島出身の店主さんは、与論小唄が元唄だよねといって、「十九の春」を歌ってくれたのも嬉しい出来事でした。



 

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2008/06/29

仙台雨

 仙台から戻ってきました。
 仙台メディアテークは、建築物そのものが面白くて、パネルディスカッションが始まるまでは、ひたすら写してました。

 本番の「アイヌ、沖縄、奄美-まつろわぬ民たちの系譜〈記憶の更新・再構築〉」も濃密な時間でしたが、それは追ってご報告するとして、まずはこの未来的な?空間を紹介します。

 今日の仙台は雨でした。仙台ぽくない(本当は知らないけど)、南のような大粒の雨でした。

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2008/06/28

仙台涼風

 仙台に着きました。
 日差しは強いものの、気持ちのいい風が吹いています。

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 滞在時間は短いですが、胸いっぱい仙台の空気を吸ってきます。



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2008/06/27

奄美にとって1609年とは何か

 29日のパネルディスカッション用のレジュメです。メモなので舌足らず、あしからず。

◇◆◇

“失語の民”- なぜこれほど失語しているのか?
1609年 - 失語、自失の起点

1.二重の疎外

<大和ではない、琉球でもない>
・「地勢と自然と文化の同一性から<琉球>を向けば政治的共同性が異なると疎外され、
政治的共同性の同一性から<大和>を向けば地勢と自然と文化が異なると疎外される。」
・出自を明かさない。さもなければ、「奄美は沖縄?」と聞かれると「鹿児島県」と主張する。あるいは「奄美は鹿児島?」と聞かれると「文化は琉球」と主張する。失語でなければ主張という自認の形をとらざるをえない。この幅。

2.その隠蔽

<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>
・自己を消去することによってしか対応できない。
・「日本人」という脱出口への総雪崩。「方言撲滅運動」、「日本復帰運動」。
・島尾敏雄の「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」という言葉の意味。

「二重の疎外とその隠蔽」を解くには。
関係から生まれたものは関係で解くしかない。<薩摩>と<沖縄>の二者との対話。

対<薩摩>
植民地化
・砂糖島としての収奪
・二重の疎外とその隠蔽の強要
薩摩の思想への繰り込みの要請

「ふるさと納税窓口一本化」 ・終わらない植民地発想
「アイヌ先住民族認定」 ・単一民族幻想の終わり


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2008/06/26

1609年との糸電話

 29日のパネルディスカッションのテーマで、「アイヌ・奄美・沖縄―まつろわぬ民たちの系譜」と投げかけに対して応答した千字の挨拶文です。

◇◆◇

1609年との糸電話-「まつろわぬ民の系譜」と投げかけられて

 来年は何の年かと聞かれたら、「皆既日食」と奄美の多くの人は答えるのではないだろうか。日食の舞台となる喜界島や奄美大島の若い世代では特にそうだろう。ぼくは、来年を「皆既日食」と答える事態をまずは歓迎したいと思う。これがもし「皆既日食」ではなく「1609年」を真っ先に想起するとしたら、それは奄美の不幸が永続化していることを意味するだろうからである。1609年より皆既日食。それだけ奄美は豊かになった。

 ただ、それで話は終わらない。ひょっとしたら「1609年より皆既日食」を想起するのではなく、「1609年」を想起できないのが実態かもしれない。もしそうならそれは1609年が過去になりつつあるという以上に、1609年のことが伝えられていないからだ。というのも奄美では、1609年より1600年の方がよく知られている。前者が奄美史で後者が日本史だからだ。なぜ、身近な奄美史より日本史の方が詳しいのか。それは、奄美の島人が奄美自身を捨てることによって困難を克服しようとしてきたからに他ならない。想起される皆既日食と想起されない1609年。このことはつまり、奄美の困難への対処法が完遂されつつあることを意味しているのである。

 だが言うまでもなく、自己喪失は克服とは似ても似つかない。だから奄美の自失という事態にはまつろわぬがよいのだ。実のところ奄美の島人はこれまでまつろわぬ民であり続けてきたわけではなく、奄美という存在がまつろわぬ可能性を保持してきたというのが正確だ。この意味で奄美の自失はその可能性の消滅を意味しており、ぼくたちはせめてここでは、まつろわぬ民でありたいと思う。

 そこで奄美の自己喪失の源を尋ねれば、すぐに1609年に突き当たるだろう。1609年こそは、奄美の自失の起点である。そしてそう認めるとき、1609年と今との間にピンと糸電話が張られる。糸電話に耳を澄ませば、今でも当時の島人の声が聞こえてくるようだ。ぼくたちはこのとき奄美の四百年を深呼吸する。しかしそれは何と贅沢なことだろう。1600年のことは知識としてしか反芻できないが、1609年のことは、今につながることとしてありありと感じることができる。

 ここでぼくたちは、四百年の深呼吸を頼りに、奄美を捨てるのではなく、かばいながら克服する方へ選択し直さなければならない。そのためにはまず、奄美が受けた困難の固有の構造が明らかにされなければならないのである。




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2008/06/16

仙台でアイヌ・奄美・沖縄のパネルディスカッション

 6月29日、仙台にて、「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」というテーマでパネルディスカッションが行われます。

 CULTURAL TYPHOON 2008 in SENDAI

<6/29 13:00~15:30>

まつろわぬ民たちの系譜
RE-collection of Occupied Memories

アイヌ・奄美・沖縄――まつろわぬ民たちの系譜〈記憶の更新/再構築〉
Ainu, Amami, Okinawa: RE-collection of Occupied Memories

司会/chair:大橋愛由等

 日本本土からみれば、「周縁」にあたるアイヌ、奄美、沖縄。これらの地域は、永く日本/ヤマトにまつろわぬ地域・国家として対置してきたが、近代化(国民国家の誕生)と共に「日本国」の一部となり、徹底した同化政策によって「日本人」という単一民族幻想が定着するまでにいたった。しかし今、この幻想の捉え直しが、進んでいる。アイヌ民族を先住民であると認める国会決議が採択され、アイヌ政策の見直しへの希求が内外から高まっている。奄美・沖縄では、来年(2009年)が島津軍の琉球侵略(1609年)からちょうど400年にあたることをキッカケに、薩摩・ヤマト・米国に絡め取られてきた来し方を総括しようという動きが活発化している。こうした動きは、各民族・地域住民の歴史を呼び覚まし〈記憶の更新〉、あらたに未来に向けて自らの立ち位置を確認していく〈記憶の再構築〉という動きに他ならない。今回のセッションは東北という同じくまつろわぬ場から発信することを噛みしめながら進めていきたい。

 仙台にいらっしゃる方、時間がありましたらぜひ覗いてみてください。

 あまみんちゅドットコムでも紹介されています。

 仙台でアイヌ・奄美・沖縄のパネルディスカッション



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