29日、「まつろわぬ民たちの系譜」というサブタイトルでパネル・ディスカッションに参加した。というより、参加させてもらった。
アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜
Ainu, Amami, Okinawa: RE-collection Of Occupied Memories
○パネラー
・計良光範氏
(アイヌの積極的自律を目的とする「ヤイユーカラの森」運営委員長。)
・田場由美雄氏
(思想史研究家、法政大学沖縄文化研究所研究員、その他多くの肩書きを持つ。首里在住。)
・前利潔氏
(沖永良部島在住。知名町中央図書館勤務。図書出版まろうど社から第一評論集『無国籍の奄美』を現在編集中。)
・喜山荘一氏
(与論島出身。与論・奄美・琉球弧から思索するブログ「与論島クオリア」を主宰。)
ぼくは、「まつろわぬ民」という投げかけに対して、そういうより、奄美は「失語の民」というのがふさわしいのではないかと受けて、「失語」の起点である1609年をどう受け止めるのかというテーマでレジュメにあるような話をした。
田場さんは、「失語」を受けて、沖縄をめぐる言説は氾濫しているけれど、中身は空しくなっているのではないかとおっしゃった。一方、沖縄は国家に対しては地上戦のこと、沖縄を踏み台に平和条約を結んだことなど、謝罪を求めるけれど、受け止めてくれない、なぜ、そうしないのか分からない。沖縄の内部ではそこで、もう日本はいいからと、香港や台湾や南洋の島々など近隣の地域と交流を深めはじめている。こうした中で、基地問題などのネガティブな問題は依然として存在し、それを隠蔽するかのように「癒しの島」というポジティブな側面が語られる。ルサンチマンを梃子にした言説は終わりつつあると感じられるのと同時に、そのポジティブな側面もネガティブな側面も言葉は氾濫するけれど空疎であるのと同じように力を無くしていっている様に見える。ぼくの意訳もあるけれど、こんな沖縄の内側からの課題をまっすぐに話されていたと思う。
ぼくは、沖縄が日本に向き合うのに疲れてしまわないようにと願いながら、脱ルサンチマンの沖縄言説のありようを考えるのが課題なのかなと思った。沖縄の内部から「沖縄は本土を癒すために存在しているのではない」という声を最近、聞くように思う。これはルサンチマンを梃子にした声だ。これをルサンチマンとして言わないとしたらどうなるのだろう。たとえば、観光客が「癒された」と感じる力を沖縄は確かに持っているのだから、本当の癒しの島を実現するために、基地撤廃の運動にコミットしてほしい、と、そう本土の人に伝えること。これは脱ルサンチマンの言説になりうるだろうか、と考えた。
計良さんが、幕藩体制期、松前藩はアイヌの生産物を低いレートで米などと交換してアイヌを収奪したと話したとき、薩摩藩が奄美から黒糖専売を行い、やはり低いレートで米や生活用品と交換して奄美を収奪したのと同じだと知り、驚いた。だが、相違点も強烈だ。琉球は薩摩から大型船建造を禁じられ、島に封じ込められる。そして国家からは島は「点」と見なされ、移住はしないが対中国との貿易拠点やアメリカの軍事拠点として存在させられてきた。一方のアイヌの地は、「面」と見なされたのだろう。軍事拠点よりは人々が移住するのだが、その時、「無主の地」として土地を大地を奪われる。
奄美はしばし実体が問われる。実体が希薄、もしくは無い、という意味で。しかし、実体は、いかに心細い場であるにはしても、「点」としての島が実体の可能性を担保してきた。だが、アイヌは実体を支える場を奪われたのだ。だから、「先住民族」を国家が認めるとき、そこには当然、土地の返還が伴わなければならない。それはひとつ民族としてのアイヌのためにというだけではなく、情けは人のためならず、わたしたちの中のアイヌのために、とも思った。
前利さんは東北の地という場を意識して、島尾敏雄のヤポネシアの言説の変遷を追っていた。そのなかから、沖縄と奄美のヤポネシア受容の仕方の違いを浮き彫りにした。島尾の手を離れてヤポネシアが思想として独り歩きしたとき、沖縄にとってはそれは反国家思想の根拠となり、奄美にとっては奄美=日本の根拠になった、と。二重の疎外の文脈からいえば、<大和ではない>という規定を強いられた沖縄は、「反大和」の規定を育て、<大和ではない、琉球でもない>という規定を強いられた奄美は、「でも日本ではある」という規定に救いを求めた、といえばいいだろうか。
前利さんの発表の白眉は、日本、沖縄、奄美、アイヌについて国税、学校教育、徴兵制、参政権について比較したことだった。この一覧表をみたとき、自分のアイデンティティが近代化の過程の相違としてあらわすことができるみたいで、一瞬、やれやれと思ったが、アイヌ、沖縄、奄美を共通に語る視点が提供されてとてもよかった。それは、今回のパネル・ディスカッションの最大の収穫でもあるはずのものだ。そして前利さんによれば、共通の視点でみるとき、国家としての日本は、奄美、沖縄に対して包摂という態度で臨むが、アイヌに対しては排除の態度で臨んでいる。
終わってみて改めて思うのは、今回のテーマの意義は、それぞれの語が等価ではないにしても、アイヌ、沖縄、奄美が同時に語られたことにあるのではないかと思えた。これは奄美内部からは決してできない土俵設定だと思う。たとえばぼくでも気後れしてできないだろう。その意味で、これは大橋さんのおかげだ。でも、それは自然になされなければならないことだ。ぼくにしても、困難の無限連鎖(あそこのほうがここよりもっと大変だ)と、なし崩し的な同一化(みんな大変なんだ)による思考停止を止めるために奄美の固有の困難を明らかにしたいと考えているのだから。
◇◆◇
テーマがヘビー級だから雰囲気も終始ヘビー級だったかといえば、そうではない。むしろ、逆だった。
初日、時間になってもやってこない田場前利組を気にして、大橋さんは何度か入口まで見に行っては引き返してくることを繰り返していた。で、たまたま大橋さんが再び見に席を立ったところへ田場前利組、到着。そのときの開口一番が「なんだ大橋段取りワルイナア」である。苦笑。それから、仙人の風貌の田場さんの初日のいでたちはミツヤサイダーのTシャツ一枚。寒くないですか?と肩をさすると、「なんで?」とこれまた仙人のお答えなのであった。
また、お店に入るたびにビール6本、などと頼んであっという間に飲み干す南チームを見て、計良さんは、「本当によく飲みますねえ」と驚かれていた。呆れられていませんようにと祈るところです。でも、計良さんはシカのソーセージを振る舞ってくれて、これが美味しかった。お酒の肴にもとてもよかった。奄美、沖縄料理屋さんのとっておきメニューかなんかで用意しておくとすごく受けるのではないかと、また酒つながりの発想をしてしまった。
ぼくはといえば、奄美・琉球に対する考えを人前で話すのははじめての機会だった。失語というのは自分のことではないかと笑ってしまう。もちろん発語すりゃあいいってもんではないが、潮時と受け止めたい。
聞いてくれたみなさん、計良さん、田場さん、前利さん、大橋さん、山内さん、安西さんに感謝です。とおとぅがなし。
あ、そうそう。「島唄館・沖縄」だっけ?違うかな?そこで、山内さんの三線と唄を堪能できました。仙台で懐かしい音が聞けるとは。波照間島出身の店主さんは、与論小唄が元唄だよねといって、「十九の春」を歌ってくれたのも嬉しい出来事でした。
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