『鹿児島戦後開拓史』 4
与論町での観光への芽生えは、昭和四十年ごろ、当時の竜野通雄町長(故人)らが過疎を防ぎ若者に夢を持たせる方法はないものかと、いいだしたのがきっかけである。それには自然の美しいこの島に客を誘致し、お金を落としてもらう観光産業をおこそうということになった。
手はじめに町民で東京を視察することになり、有志四百四十人が「波の上丸」で上京した。四十二年のことである。ちょうど高度成長の真っ最中で、首都圏には全国から人が集まり、反対に九州や東北などでは過疎が深刻になっていた。
その後、計画を具体化すべく四十四年に半官半民の「与論観光株式会社」が設立された。いまでいう〝第三セクター〟である。そして最初の事業としてキャンプ場を経営した。地元では豪華客船「クイーンコーラル」の就航(四十七年)、海中公園センター完成(四十八年)、与論島国定公園指定(四十九年)、「エメラルドあまみ」「クイーンコーラル1」就航(五十年)、「与論空港開港」(五十一年)など観光産業をもりたてるための整備が着々と進められた。しかし、与論観光ブームの火つけ役は沖縄返還運動に絡む海上集会である。対日講和条約によって、北緯二九度以南の奄美と沖縄は日本との行政分離が決まった。その後、昭和二十八年に奄美が本土復帰してからは北緯二七度線が新たな〃国境線〟となった。沖縄の日本復帰を促進するため、昭和三十八年以降は毎年四月二十八日に北緯二七度線の海上で本土側と沖縄側の代表団が交歓を行った。日本側の代表は鹿児島港から現地へ直行するか、前もって与論島に渡っていて、当日漁船などをチャーターして交歓会に参加する方法をとった。
「上陸した人たちは多いときで三千人ぐらいいたでしょうね。北緯二七度線は与論港の少し沖合ですから皆さんハシケなどに分乗して、それは独特の交歓風景でした」と語るのは、町観光協会会長の川畑辰雄さん(五八)。
4・28集会には労組員を中心にさまざまな職業の人たちが参加した。与論にとって、これは島おこしを進めるうえで強力な武器になった。畠の民宿や旅館に滞在した客を、地元は息子や娘が帰ってきかときのように温かく迎えた。素朴な人情と美しい畠のイメージは口コミで全国に広まった。やがて旅行業者が注目。与論出身の社長を持つ大島運輸がひと肌脱いだことも大きい。与論島が観光地として脚光を浴びてきたことは、島外の与論出身者にいい知れぬ誇りを与えているようだ。田代に入植した一世たちは語る。
「まぶたを閉じれば、あの美しい島が浮かんできます。狂おしいほど懐かしい。だけど、それは自分一代。子や孫にとっては遠い見知らぬ孤島でしかない。こうして人はまざり合い、時代は移ろうのですね。これでよいのだ、と納得するしかありません」『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』
当時人口7000人の島で440人の上京もすごいが、それ以上に、与論の観光化に沖縄の復帰運動が力になったのは知らなかった。
復帰前の沖縄にとって、与論島が日本の象徴を演じたのは、境界のなせる皮肉だったが、その力は観光という副産物も産み出したことが分かる。ぼくもこの境界の力とは無縁でない。観光地として脚光を浴びたときに少年期を迎えたので、「いい知れぬ誇り」を抱くことはなかったが、振り返ってみれば、出身を問われて、「与論島です」と、ためらいなく言えてきたのは観光化が背景に大きく預かっていたと思う。「与論?いいわねえ」という声を、仮にそれが観光イメージに基づくものであっても身に浴びてきたのだから。
けれど、「これでよいのだ」という与論一世の言葉はあまりに寂しすぎやしないだろうか。そんなこと言わずに、故郷の島のことを語ってあげればいいと思う。そのとき関心がなくても、いずれ島を訪れる契機を持つ子孫も出てくるだろう。そのとき彼らにとって島はかけがえのない存在になるのではないだろうか。
盤山を訪れたとき、墓地に足を運んだ。田代の土になる覚悟で入植した与論の人たちも、歳月の流れとともに、ここで永遠の眠りにつく一世は増えている。与論と田代にそれぞれ住んでみてその違いは何が一番大きいのだろうか。「台風なんかも島は吹き荒れ方が違う。それと病気になったとき、こちらはすぐ鹿屋にでも行けるけど、与論ではそうはいかない。地続きだという安心感、これは大変なものですよ」
二十七年、盤山から南風谷に移り住んだ池田さんはしみじみと語る。
近代以降、島の人は「日本人」になるために必死だった。けれど九州や本州に渡るのはそれとは別の欲求もあったことが分かる。それは、「地続きという安心感」だ。台風で被害にあったとき、病気になったとき、島では食や医を島では大きな障害が立ちはだかるが、地続きならその心配が要らない。地続きという安心感がほしい。そんな心情もいつわざるものだ。
ぼくはふと思う。それならなぜいにしえの島人は、あんなに小さな島に住むことにしたのだろう。南には辺戸が見え、大きな島があるのが分かり、北にも大島があり、少なくともそのどちらかの存在は知っていたろうに。そんな疑問が湧いてくる。でも、不思議なことではないのかもしれない。いにしえの島人にとって、海は隔てるものではなく道だったのだ、きっと。
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