カテゴリー「24.『鹿児島戦後開拓史』」の4件の記事

2008/07/10

『鹿児島戦後開拓史』 4

 与論町での観光への芽生えは、昭和四十年ごろ、当時の竜野通雄町長(故人)らが過疎を防ぎ若者に夢を持たせる方法はないものかと、いいだしたのがきっかけである。それには自然の美しいこの島に客を誘致し、お金を落としてもらう観光産業をおこそうということになった。
 手はじめに町民で東京を視察することになり、有志四百四十人が「波の上丸」で上京した。四十二年のことである。ちょうど高度成長の真っ最中で、首都圏には全国から人が集まり、反対に九州や東北などでは過疎が深刻になっていた。
 その後、計画を具体化すべく四十四年に半官半民の「与論観光株式会社」が設立された。いまでいう〝第三セクター〟である。そして最初の事業としてキャンプ場を経営した。地元では豪華客船「クイーンコーラル」の就航(四十七年)、海中公園センター完成(四十八年)、与論島国定公園指定(四十九年)、「エメラルドあまみ」「クイーンコーラル1」就航(五十年)、「与論空港開港」(五十一年)など観光産業をもりたてるための整備が着々と進められた。

 しかし、与論観光ブームの火つけ役は沖縄返還運動に絡む海上集会である。対日講和条約によって、北緯二九度以南の奄美と沖縄は日本との行政分離が決まった。その後、昭和二十八年に奄美が本土復帰してからは北緯二七度線が新たな〃国境線〟となった。沖縄の日本復帰を促進するため、昭和三十八年以降は毎年四月二十八日に北緯二七度線の海上で本土側と沖縄側の代表団が交歓を行った。日本側の代表は鹿児島港から現地へ直行するか、前もって与論島に渡っていて、当日漁船などをチャーターして交歓会に参加する方法をとった。
 「上陸した人たちは多いときで三千人ぐらいいたでしょうね。北緯二七度線は与論港の少し沖合ですから皆さんハシケなどに分乗して、それは独特の交歓風景でした」と語るのは、町観光協会会長の川畑辰雄さん(五八)。
 4・28集会には労組員を中心にさまざまな職業の人たちが参加した。与論にとって、これは島おこしを進めるうえで強力な武器になった。畠の民宿や旅館に滞在した客を、地元は息子や娘が帰ってきかときのように温かく迎えた。素朴な人情と美しい畠のイメージは口コミで全国に広まった。やがて旅行業者が注目。与論出身の社長を持つ大島運輸がひと肌脱いだことも大きい。

 与論島が観光地として脚光を浴びてきたことは、島外の与論出身者にいい知れぬ誇りを与えているようだ。田代に入植した一世たちは語る。
 「まぶたを閉じれば、あの美しい島が浮かんできます。狂おしいほど懐かしい。だけど、それは自分一代。子や孫にとっては遠い見知らぬ孤島でしかない。こうして人はまざり合い、時代は移ろうのですね。これでよいのだ、と納得するしかありません」『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 当時人口7000人の島で440人の上京もすごいが、それ以上に、与論の観光化に沖縄の復帰運動が力になったのは知らなかった。

 復帰前の沖縄にとって、与論島が日本の象徴を演じたのは、境界のなせる皮肉だったが、その力は観光という副産物も産み出したことが分かる。ぼくもこの境界の力とは無縁でない。観光地として脚光を浴びたときに少年期を迎えたので、「いい知れぬ誇り」を抱くことはなかったが、振り返ってみれば、出身を問われて、「与論島です」と、ためらいなく言えてきたのは観光化が背景に大きく預かっていたと思う。「与論?いいわねえ」という声を、仮にそれが観光イメージに基づくものであっても身に浴びてきたのだから。

 けれど、「これでよいのだ」という与論一世の言葉はあまりに寂しすぎやしないだろうか。そんなこと言わずに、故郷の島のことを語ってあげればいいと思う。そのとき関心がなくても、いずれ島を訪れる契機を持つ子孫も出てくるだろう。そのとき彼らにとって島はかけがえのない存在になるのではないだろうか。

 盤山を訪れたとき、墓地に足を運んだ。田代の土になる覚悟で入植した与論の人たちも、歳月の流れとともに、ここで永遠の眠りにつく一世は増えている。与論と田代にそれぞれ住んでみてその違いは何が一番大きいのだろうか。「台風なんかも島は吹き荒れ方が違う。それと病気になったとき、こちらはすぐ鹿屋にでも行けるけど、与論ではそうはいかない。地続きだという安心感、これは大変なものですよ」
 二十七年、盤山から南風谷に移り住んだ池田さんはしみじみと語る。

 近代以降、島の人は「日本人」になるために必死だった。けれど九州や本州に渡るのはそれとは別の欲求もあったことが分かる。それは、「地続きという安心感」だ。台風で被害にあったとき、病気になったとき、島では食や医を島では大きな障害が立ちはだかるが、地続きならその心配が要らない。地続きという安心感がほしい。そんな心情もいつわざるものだ。

 ぼくはふと思う。それならなぜいにしえの島人は、あんなに小さな島に住むことにしたのだろう。南には辺戸が見え、大きな島があるのが分かり、北にも大島があり、少なくともそのどちらかの存在は知っていたろうに。そんな疑問が湧いてくる。でも、不思議なことではないのかもしれない。いにしえの島人にとって、海は隔てるものではなく道だったのだ、きっと。




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2008/07/09

『鹿児島戦後開拓史』 3

 それほど大げさではないけれど、与論の人たちにとってふるさととは何だろうか。
 「泣きだしたくなるほど懐かしい。でも与論は心のなかに生きているのです。親せきの不幸などで向こうへ行くとホッとするより、早くわが家へ帰りたくて落ち着かないんですよ。知人も年ごとに減り、ますます〝心の島〃になるばかりです」
 与論を離れて四十三年の町さんの弁である。後を継いだ町議の有馬さんの場合、郷里にいたのは十七年間だ。田代にはその倍以上住んでいる。だから「あなたはよそからきて町議になり、えらい出世ですね」などとひやかす人には、本人はムキになってやり返すそうだ。「何をおっしゃいますか。私の田代暮らしは間もなく半世紀。もう〝地ゴロ″ですよ」

 町さんは田代に入植して自立のメドが立つと、墓から先に造った。「再び故郷には帰るまい」と誓ってのことである。満州のときも大陸に第二の与論を築く意志は固かったが、敗戦でままならなかった。町さんら移住一世はふだんは与論の方言を使う。そんな家庭に育ったので、二世たちも方言はわかる。しかし、二世は田代出身であり、与論に特別の愛着は感じない。さらに三世になると、島言葉もわからないし関心もない。
 「命がけで日本に引き揚げてきたこと、血を吐く思いで田代開拓に打ち込んできたことなどを話しても、〃それは時代がせしめたんだ″ぐらいにしか考えませんからね、若い人たちは。たまに昔話をするけど、相手にされませんなぁ」(町さん)
 ふるさとから思い浮かぶ具体的なイメージは自然、言葉(方言)、郷土芸能などである。それはそれぞれの生活体験に根ざしている。島で暮らしたことのない二世、ニ世と一世がふるさと意識を共有できないのは当然のことであろう。
 盤山の二世たちは地元の人と結ばれるケースが目立つ。(田代のなかの与論〉意識は時とともに確実に風化していく。「田代の土に骨を埋めるのだと決心した以上、それでよいのだ」としながらも、一世たちはちょっぴり寂しげでもある。(『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』)

 寂しくないわけがないと思う。ぼくも以前は何とも思ってなかったはずだった。というのか、無意識にいつまでもあるものだと思っていただろうか。けれど今、「なぐりゃーや」と言ってくれるぱーぱー達や、「きちゃんむい」と言ってくれるうばたーがやがていなくなると思うとたまらなく寂しい。自分は中途半端にしか喋れなくても、与論言葉を喋れる人の輪がなくなることがあるかもしれないと思うと、たまらない。

 父も鹿児島に墓を買ってあった。それを亡くなった晩に知って心底、驚いた。与論の墓に入るものと思って疑ってなかったからだ。ぼくはどうしたらいい。そう思わずにいられなかった。

与論の人たちにとってふるさととは何だろうか。

 泣き所。ぼくにとって与論というふるさとは、もしここ以外だったら愛着ほどほどに生きられただろうにと思わせる強烈な宇宙だ。どうやったら収まりがつくのか分からない。文章にして気持ちを鎮めるので精一杯だ。


 ところでこの本を読んで、与論ゆかりの地としての田代に、いつか行ってみたいと思った。

P.S.
 昨日の地震。あんまーは、「なんともないよ、ははは」と笑っていたので、たいしたことはないと思っていたが、今日の報道を見ていると、相応に大きかったように見える。南日本新聞では、「本土に比べ観測網の密度が低い」などと、ここでもか、な文言も見られる。ともあれ、大事に至らずほっとしています。


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2008/07/08

『鹿児島戦後開拓史』 2

 引き揚げ者は伊敷収容所からのちに鴨池収容所に移った。当時は伝染病がはやり、せっかく日本に帰りながら栄養失調と過労から命を落としたケースは数えきれない。ただ、いつまでも収容所にとどまってはいられない。やがて与論に帰る者、大牟田市の親せきを頼って出て行く者、それぞれ身のふり方が決まった。
 そのなかで挫折を乗り越え再び開拓で生きようと決心した人は七十五戸に達した。県開拓課、開拓日興会とも相談、入植地探しがはじまる。これらの指導機関は土地条件や人情など総合的に判断して、はじめ種子島行きを勧めた。甑島や坊津などの種子島移住が成功していることが大きな理由であった。

 けれど、与論開拓団の代表は首を縦にふらなかった。何でも相談してきた野村県諌宅で、町団長らは次々に訴えた。「与論島に比べ種子島は本土に近く面積も広いことは確かです。でも緊急を要するとき、未永い子孫の繁栄を願うとき、本土にしたいのです」「総合的に判断して、入植地は肝付郡の田代にしたいと思いますので、その線で県との折衝を願います」
 それほどまでなら…と県議も了承、政治折衝を約束してくれた。実は、郷里でも満州でも水と燃料(マキ)に恵まれずに苦労した与論開拓団の人たちは、再出発に当たり水とマキの豊富な入植候水が田代入植の決め手に補地として田代を選び、関係者の協力を求めたのだった。
 鹿児島には離島が多い。離れ島は自然の美しさとそこで暮らす人たちの厚い情けがかけがえのない宝だ。半面、教育・医療・娯楽面などは都会の尺度では測れないほど立ち遅れている。
 いまでこそ与論~鹿児島間は飛行機で九十分で結ばれるが、当時は船で五日もかかっていた。これでは親が危篤との知らせを受けたとしても、子どもは死に目にもあえない。本土であれば、こんな悲しい思いをしないですむ。〈肉親に会いたいとき、本土にさえ住んでいれば)これは島の人たちに共通した切実な気持ちなのだ。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 なぜ、与論開拓団は命からがら満州から本土へ戻った後、与論へ帰らなかったのだろう。一旗揚げようと出た手前、島の人に会わせる顔がないと思ったからだろうか。満州で事態が急変したため、開拓精神がくすぶっていたからだろうか。『鹿児島戦後開拓史』は、答えはそのどちらでもなく、いわゆる離島苦を避けるためだったように見える。であればこそ、種子島への移住も断り、田代に決めたのだった。

 この決断をぼくたちは軽んじられない。大型船ができ、TVが出来、航空機ができ、インターネットが出来、島と九州島や本州島との距離は格段に縮まっている。それでも離島の不安が根こそぎにされるわけではない。まして交通、交流手段が限られていた段階では、島の孤絶感、不安は現在と比べ物にならないくらい大きかったのだ。ぼくの父も退職後は島に帰らなかった。身体にひと一倍不安のある父も、離島苦あるいは離島不安を避けたかったのだと思う。



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2008/07/07

『鹿児島戦後開拓史』 1

 久しぶりに与論の話題に戻る。それだけで何だかほっとする。
 与論から満州へ、満州から鹿児島の田代へ、移住した島人の話だ。

『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

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 健康に自信がある。働くことは少しも苦にならない。そんな若者にとって十分に活躍する場がなければ、閉そく状態に陥りやすい。戦前の与論は、まさにその通りであった。
 昭和十六年六月、池田福利さんは三年半の兵役を終え郷里に帰ってきた。与論町那間出身の父は、茶花と朝戸に小さな雑貨店を開いていた。日用品や砂糖など食料品を扱う店の売り上げはしれていた。畑はあったものの、元気な父子で存分に腕をふるえる広さではなかった。
 与論島は先にあげたほかに古里、叶、立長、城、東区、西区の各集落から成る。夜遊びなどで集まる青年たちの共通の話題は「六十四ヘクタール(島内農家の平均耕作面積)ではどうしようもない」で、いつも壁にぶち当たっていた。  そんなときである。屈折した不満を抱えた青年たちを〝孤島脱出でデッカイ人生へ〃と目覚めさせる人が現れた。池田さんの小学校時代の同窓生で満州拓殖委員会に務めていた竜野健之助さんが休暇で帰郷し、満州開拓の夢を吹き込んだのである。

 開拓という国策を実地に移す機関として当時、満州拓殖公社(通称蒲拓)が設立されていた。この日満両国籍を持つ特殊法人を監督する目的でできたのが満州拓殖委員会である。
 両国政府から六人ずつの委員と七人ずつの随行員が任命され、満州開拓政策の全般について両国政府に建議する権限も持っていた。それだけに「未開の大陸は君たちの腕をふるう絶好の舞台だ。狭い与論で不遇を嘆いているときではない」と説く竜野さんの口調は若者の心をとらえた。
 これに触発されて大陸に青いニジをかける青年たちはたちまち十人を超えた。「この日で現地を確かめよう」と話がまとまり、池田さんが行くことに決まった。十八年三月、単身船でまず鹿児島市に渡る。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 ぼくの祖父も満州へ行った。だが、帰島して以降、なぜ満州へ行ったのか、多くを語らなかったという。なぜ、祖父は祖母や子どもたちを連れて満州へ行ったのだろう。その胸の内を知る機会はなかったけれど、ここでその背景が語られている。移住を余儀なくされる飢餓が控えていたというのではなく、占領意識があったわけでも当然なく、狭い島を出て広い土地を開拓したいという高揚感があったのだ。母によれば祖父が家族を連れて渡満したのは、昭和18年8月だから、先遣のすぐ後だ。ここにも、満州開拓の当時の熱が伝わってくるようだ。

 一戸当たり二二一ヘクタールのコメ作り。水田のない与論の人たちにとっては夢のようなことが、満州移住で現実のものとなった。けれど、〝荒野の理想郷づくり″の前に予期せぬ運命が待ち受けていた。
 昭和二十年七月六日、開拓団の警備指導員・池田福利さんは盤山県の兵事官署から「すぐ出頭せよ」との通知を受けた。軍隊にいたことがあるので、新しく(在郷軍人分会)設立の話でもと想像しながら出かけた。
 ところが、差し出されたものをみて驚いた。三枚の召集令状ではないか。確かめると池田さんら開拓団にいる予備役三人の名前が記入されていた。与論開拓団の召集第一号である。中一日おいて奉天の関東軍の部隊に入隊、さらに二日後には朝鮮全羅南道の光州市へ転属になった。
 しかし、池田さんはここで運よく?アメーバ赤痢にかかって入院し、八月十五日の日本降伏の報を聞く。開拓団には妻の久子さんと長女を残しており、家族や団員の安否を思うと胸も張り裂けんばかりだった。が、どうすることもできなかった。

 与論開拓団は百四十五戸から百人の男たちが赤紙一枚で兵役に駆り出された。当時の開拓団では日本国の名を借りた〝男狩り旋風″が吹きまくっていた。日本の開拓団員のなかには町を歩いているところを巡査に呼びとめられ、「まだ召集されていなかったのか」といって白紙にその場で名前を書いて渡され、有無をいわきず入隊させられた人もいる。
 満州開拓者を募る際、当局は暗に〈開拓は兵隊に準ずるので召集されることはない〉と兵役免除をにおわせた。これも魅力の一つになって渡満した者も少なくなかった。けれど、与論開拓団の先遣隊と幹部のなかにはそんな例は皆無だと信ずる-と池田さんは、いまでも強調する。
 「国が存亡の危機に直面しているときに、軍務を忌避するなんて考えられないこと。ただ唐突で戸惑ったのは事実ですけど」
 召集された男たちは家をあとにする際、異口同音に「万一のとき、自分のことは自分で始末するように」と言い残した。戦陣訓が金科玉条とされていた時代には仕方のないこととはいえ、それは最大の悲劇につながった。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 「兵役免除」がにおわされたのもそれが簡単に裏切られるのも、そうだろうなというリアリティがある。ぼくの祖父の行く先はハルピンなので、盤山の池田さんとどこまで状況が同じだったかは分からない。そもそも、同じ与論から出発して、ハルピンと盤山という近くはない場所に移住する背景も分からない。しかし、夢から修羅へ、舞台は急展開して命からがら脱出したのまでは共通している。


追記
 たまたま与論の兄(やか)から、与論言葉で助かったという話を聞いた。満州から徒歩で引揚げ途中に満人に捕まり会話をしたとき、与論言葉で話すと「日本人ではない、朝鮮人だ」と解放されたというのだ。与論の民は、日本人である証を立てるために戦時中も必死だったが、ここでは言葉により非日本人と見なされることが命をつなぐことになった。ここに、朝鮮や中国から、非琉球を疑われたときは琉球人として振る舞い、薩摩の同行者であるときは、大和人として振る舞った近世期奄美人の投身が続いているのを見るようだ。誰にでもなれと命じられた強制は、誰にでもなれるという強みとして生きた。どちらも必死な場面の投身を、ぼくはポジティブに受け止めたいと思う。



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