カテゴリー「23.『奄美戦後史』」の30件の記事

2008/08/11

コミュニケーションの島づくり

 奄美一四市町村の財政力指数をみると、平均〇・一五。最も高い名瀬市でさえ、〇・三一。住用村に至っては〇二〇という状況だ(〇三年度)。国の平均が〇二年度で〇・四一、県平均が〇・二五、沖縄県の平均が〇・二八だから、よくいわれる「三割自治」の下をいく。奄美の自治体がいかに貧しく、交付税や補助金に頼る、国や県におんぶに抱っこの財政運営をしているかが分かる。国、地方合わせた借金が七〇〇兆円を超え、交付税をはじめ地方への配分が減少する中、自治体財政は苦しくなることはあっても好転する要素は見当たらない。特例法の期限が迫るにつれて県の圧力も増してきた。通常なら、「合併」に駆け込みそうなものだが、ここまで「反対」が噴出したのはなぜか。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「3割自治」と同じ言い方をすれば、

 0.15自治 奄美
 0.41自治 平均
 0.25自治 鹿児島
 0.28自治 沖縄

 これをみても、奄美の自治力がいかに低いか分かるが、それでも「合併」に殺到しなかったのはなぜか、として久岡さんは、「海越え」合併であることを理由のひとつに挙げている。
 

 「一島一町」は住民生活にかかわる多くの部分を町内(島内)で完結させなければならない。ごみ処理施設しかり、空港や製糖工場、病院、特別養護老人ホームしかりである。火葬場もそうだ。「燃えるごみ」を他の島に持っていくことはできないのだから……。二島一町」が他の島と合併するということは、自分たちの島のことを決められなくなるということであり、「合併のメリットが見出せない」と多くの住民が反対した。

 これはその通りだが、「自分たちの島のことを決められなくなるということ」は、もっと本質的に言えば、島はそのひとつで世界であり宇宙であるという世界観があるから、合併は島を島でなくすことにつながるからである。「海越え」合併は、そのことを理解しない地図視点の為政者発想の産物でしかない。喜界島もそうだと思う。

 そういえば名瀬市はもうない。奄美市なんだよなと、時々思い出す。久岡さんの考察を読むと、奄美市もずいぶん乱暴なステップで合併している。あの飛び地合併のさまを見れば、それだけで何か歪みを感じさせるには充分なのだが、奄美市は大丈夫だろうか。気がかりだ。

 明確などジョンを示したところはまだないが、実は与論町の取り組みに注目している。住民投票の結果、「海越え合併」を拒否し、単独で歩むことを決めた町は行革を進める一方、地域再生計画による自立(自律)を目指す。  計画は「タラソテラピー(海洋療法)」 「情報の畠づくり」の二本立て。
 与論には「天然のプール」といわれる豊かなリーフが広がっている。町側は島の持つ海洋、島峡環境を生かして健康と食、有機農法、郷土史、生活習俗を活用して、人的交流の拡大、観光客の増加につなげたいと考えている。
 タラソを推進するためには裏付けとなるデータが欲しい。研究機関を誘致したところ、鹿児島大学が手を上げた。タラソに医学的な裏付けができれば、アトピーやアレルギー、自律神経失調症に悩む全国の人々を島に呼び込むことができる。町側はタラソによって「観光客が一〇%増える」と試算する。〇三年度の入り込みが七万二二二人だったから、七万七〇〇〇人を超えることになる。町は再生計画で休止中の町立診療所の用途変更を申請、認可を受けた。

 ハコモノを造らないことも特徴だ。行政は往々にしてハコモノを優先したがるが、与論の場合、財政状況を考慮して関連施設の整備をやめ、リーフやホテルのプールなどを活用することにした。「今ある施設を生かす。ハコモノを作る気はない」(南政吾町長)「情報の島づくり」は県内離島に先駆けて導入したADSLを生かした情報発信、企業誘致を旦削む。インターネット時代である。情報に格差がなければ畠で仕事ができる。そうなれば与論の自然、気候は魅力だ。実際、IT関係企業が試験的に操業を始めようとしている。こうした発想は「合併しない」ことが引き金になった。
 行革にも触れておきたい。
 単独を決断した南町政がまず手をつけたのが教育委員会。これまで学校教育、社会教育、図書館、給食センターに担当や部門が分かれ、それぞれに課長級を配置していたが、これを統合し、事務局体制にした。次に職員定数の削減。現在の一三一人を将来的には八〇人体制にする方針。収入役も廃止した。
 職員が減る分は住民参画を募る。自立化戦略会議がそれで、観光問題や地域の課題を町民と職員が一緒になってけんけんごうごうの議論を重ねている。「一島一町」ならでは、「住民一人ひとりの顔の見える」小さな町ならではのメリットを生かした新たな地域づくりが始まっているといえよう。

 せっかくわが島に注目してくださっているので、長いけれど引用させてもらった。
 ぼくはのポテンシャルを生かすのは、コミュケーション力だと思う。顔を合わせた後のコミュニケーション力のことではない。それだったら、分け隔てない抱擁力はピカ一だし、ゆきすぎの与論献捧も極度の人見知りが瞬時に親密感を深めるたに編み出したものだ。ここで言いたいのは顔を合わせるまでのコミュニケーションのことだ。ネットを主な舞台とした顔を合わせるまでのコミュニケーション力は、与論のポテンシャルを現実化する最大の武器だと思う。


「奄美市誕生の軌跡-平成大合併の舞台裏-」久岡学
『奄美戦後史]32

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2008/08/10

原告、アマミノクロウサギ

 日本初の奄美「自然の権利」訴訟

 環境ネットワーク奄美は、1995年、鹿児島県知事を相手に奄美「自然の権利」訴訟を起こしている。その際の原告は、なんと、「マミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」だった。
 動物たちを原告にしたのは、「長老」のため息まじりのつぶやきだったという。

「カシガレィ イゥンクトウ キカンパ トウリニディン ウッタエラソヤ(こんなにまで言う事を聞かないなら鳥にでも訴えさせようか」と。みんな思わず笑ったが、長老の発言は単なるジョークではなかった。「人間は自然に生かされている」という先人たちの自然観に根ざした奥の深い発言だった。みんな本気で考えた。それでも決断するまでには三年近くの時間がかかった。

 悩む甲斐のある三年間だったと思う。ぼくは、この訴訟はとても奄美らしい、奄美的なやり方だったと思う。原告が「マミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」なのは、近代法の何たるかを無視しているが、奄美らしさの何たるかに応えている。それは、ここに、人間と動物とは等価な存在であり、人間は動物とも話ができるということが、奄美の身体に眠る記憶を呼び覚ますのだ。

 訴訟は、裁判所からの動物の背後には人間がいるはずだ、住所氏名を明らかにせよ、との補正命令を受け、「アマミノクロウサギこと00」と訂正して受理された。

 この間、原告団が主張した基本姿勢は原告弁護団団長が「この裁判は国際的な関心を集めている。野生生物とその生息地を確保することについては、法と正義を実現していくべき裁判所も無関心、無関係の立場をとることはできない。本件訴訟は原告、被告、そして裁判所による共同作業にょって、名実ともに裳の自然保護の前進に向けたよりよい方向と結論を探っていく作業である」と述べた。原告団はアマミヤマシギを代弁して「私たちは人間のじゃまをしません。ですから私たちを殺さないでください」、「環境ネットワーク奄美の願いはただ;、すべての生き物たちがにぎわう健康な環境の中で、ヒトと自然が、人間と人間が共に生きる社会の実現です。その中に奄美の個性を位置づけているのです。環境を守る運動はこれからが正念場です。この訴訟の結果いかんにかかわらず歩み続けなくてはなりません」と訴えた。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 判決は「これまでに立法や判例等の考え方に従い、原告らに原告適格を認めることはできない」と、資格がないので却下というものだったが、判決には原告の主張が相当に反映され、当初の期待をはるかに上回るものだったため、上告しなことにしたという。

 ぼくは、この自然の権利訴訟は、奄美の思想のオリジナリティが宿った底力があると思う。この発想ができるということが、奄美の力ではないだろうか。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史]31


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2008/08/09

護岸堤とゴルフ場

 薗さんは、奄美の主だった住民運動を挙げている。

用安(笠利町)の消波ブロック設置問題 1989

・護岸堤が張り巡らされてから後の1960年代、リーフ内の離岸堤、消波ブロックの建設が目立つようになる。
・用安の消波ブロック反対は、奄美大島の初の反対運動。

ヒン浜(大和村)の護岸堤問題 1990
徳之島(花徳の里久浜)護岸とモクマオ植樹 1990
呑之浦の遊歩道・桟橋建設問題 1990
・加計呂麻島呑之浦の島尾敏雄文学碑と震洋艇格納壕を結ぶ遊歩道計画
・「原風景」を残すことを根拠に反対。現在、遊歩道は縮小して建設。おおむね以前の風景は残された。

 これはぼくも訪れたことがあるので、よく分かる。

市理原(龍郷町)ゴルフ場建設反対運動 1990
市埼(住用村)ゴルフ建設反対運動 1992
 「自然でメシは食えない」という声。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 護岸堤、消波ブロック、ゴルフ場、反対運動の場所はそれぞれ違うが、どれにしても、自分の島で問題になった場所や出来てしまった場所を思い出すことができる。似たりよったりなことを一斉に行ったことがよく分かる。

 ちなみに与論にもゴルフ場がある。それを聞いたときには、与論に?ゴルフ場所?どこに?何のために?不思議で仕方なかった。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史]30


 

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2008/08/08

大宅壮一の大島来島

日本に復帰した当時(一九五三年十二月)、奄美はたいへん貧しかった。住民の生活はエンゲル係数八二・七%(当時の日本は六一・五%)が示すとおり「今や窮迫の極限に一日も猶予を許さない状況」(奄美大島即時完全復帰嘆願書、五三年六月)だった。ソテツから採れるでんぷんで粥をつくって飢えをしのいだ。日本復帰直後(一九五四年一月)来島した大宅壮一は「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」と書いた。青年男女の多くは職を求めて沖縄に流れアメリカ軍基地で働き、日本(本土)人の三分の一の賃金、労働三法の適用を受けない劣悪な労働条件下で苦しんだ。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」という大宅の評価を見ると、経済的困窮を脱するためにしゃにむに復帰を望んだ奄美の悲鳴が聞こえてくるようだ。ぼくは、「日本人」というアイデンティティの渇望の側面を強調するきらいがあるけれど、困窮という側面は決して軽く見ることはできない。

 私的なことだけれど、ぼくはもうひとつ驚くことがあった。ぼくの名前は、大宅壮一から採ったものだ。そう、父から聞いていた。大宅壮一が好きだから、と。しかし、とはいっても本好きな父の書棚に大宅壮一の著作が並んでいるわけでもなく、その結果ではないけれど、ぼく自身も大宅の著作を読んだ経験がない。「一億総白痴化」の造語を知っている程度だ。父は大宅がどう好きだったのだろう。それは小さな小さな謎だった。

 しかし、薗さんの文章を読み、ひょっとしたらこれかなと思った。大宅が来島したとき、父は高校生として名瀬にいた。父は、大宅の来島と大島評の言葉を印象深く受け止めたのではないだろうか。

 ぼくには思わぬ収穫で、この引用をしてくれた薗さんに感謝したい気持ちだ。

「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史』28

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2008/08/07

奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみ-百合ケ浜

 薗さんは、奄振に目を凝らす。しかも、奄振の弊害のほうに。

 日本復帰翌年一九五四年六月)、「奄美群島復興特別措置法」(五年単位の時限立法)が制定され国の補助事業が始まった。群島民は「急速な復興」、「産業・生活基盤の整備」、「民政の安定」を目的とした公共事業を、国策として当然のことながらこれを歓迎した。社会資本の整備から放置された歴史を度々経験している群島民は、「産業、生活基盤の整備」に大きな期待をかけ、「本土なみ」、「格差是正」の謳い文句にそれぞれの希望を託した。以後、特別措置法は名称を変え延長をくりかえして半世紀を過ぎた今も続いている(総称して「奄振」と呼ぶ)。二〇〇三年度までの五〇年間の実績は、事業費一兆八三〇〇億円。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 奄振は、「本土なみ」、「格差是正」を謳い文句に掲げ、奄美の島人の希望を託されてきた。しかし、

 奄振事業の弊害がとりわけ目立つようになったのは振興開発事業前期(一九七四~七八年)からである。予算が前期の三・五倍に増え(二八二億→九九三億円)事業は大型化した。基盤整備は建前になり〝土木振興事業″と椰輸されるような事業に変質していった。地場産業や住民の生活に結びつかない無駄な工事、過剰な事業が増え、「こんなはずではなかった」と疑問の声があがるようになった。新聞紙上では「できたのは箱ものばかり」、「コンクリートづけにされた島」という表現がたびたび載るようになった。

 皮肉なことだが、奄美のために行うはずの奄振であるにも関わらず、奄振から島を守ることをしなければならなくなったのだ。その最初に、薗さんは与論の「百合が浜」を挙げている。

百合ケ浜港(与論町)建設問題

 一九八六(昭和六一)年九月、百合ケ浜に漁船やグラスボート、遊漁船の船だまりを五力年計画で建設する計画が持ち上がった(国庫補助一〇分の九で船航路を渡探し、防波堤、護岸、船揚げ場を建設する計画)。
 これを知った住民は一九八七年一月、「百合ケ浜の自然を守る会」を結成し、「防波堤ができたら潮流が変わり、百合ケ浜が消えるおそれがある」と町議会に計画撤廃を求めた(八八年三月)が不採択となり、町負担分を計上した当初予算が可決された。町当局は「地区民の要望」で計画したとし、東京の(株)エコーは「百合ケ浜の港建設に伴う流況及び地形変化予測調査」の結果を「百合ケ浜の存続に及ぼす影響はないものといえる」と報告、初年度分の入札を実施した。
 百合ケ浜の自然を守る会は、「住民説明の前に予算化しており既成事実の押しつけ」、「調査は不十分で納得できない」と、実力阻止も辞さない決意で行動した。町長は一九九〇(平成二)年五月、「百合ケ浜への影響は絶対にないとは言えない」と、船だまり建設を断念する意向を表明した。「百合ケ浜の自然を守る会」は、奄振事業推進の問題点として、①はじめに事業計画があって環境への配慮がない、②行政主導ですすめられ地域住民の声が反映されていない、③環境アセスに問題がある、④百合ケ浜の自然(景観) は与論の貴重な財産であることを指摘し、「半端な気持ちではできなかった。私財をなげうって闘う覚悟だった」 (喜山康三)たたかいは、奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみと言えるだろう。

 百合が浜は与論のなかの与論ともいうべき場所だから、百合が浜が百合が浜でなくなれば、与論が与論でなくなる。つまりアイデンティティにかかわる、これはそういう問題だったと思う。与論は奄美のなかでいちはやく観光化された場所だっただけに「最初のとりくみ」になったのかもしれない。開発というテーマは奄美大島からスタートしているとすれば、その逆のむやみに開発しないというテーマは、南端の、いつもは筆頭にくることはない与論島からスタートしているのが面白い。北進せよ、だ。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史』29

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2008/08/06

喜界島の「象のオリ」

 2006年に運用が開始された喜界島の「象のオリ」は、そもそも1985年に計画が公表されたものだが、そこには21年間にわたる反対運動があった。

喜界島「象のオリ」運用へ 防衛庁の通信傍受施設

 通称、「象のオリ」とは何のことなのか。

 そもそもOTHはオーバー・ザ・ホライズンの略語で、電離層に反射する短波を使い、電離層を経て目標に当たり、再び電離層を経て返ってくる電波をとらえるシステムで、約三〇〇〇キロという広い地域を監視することができる最新鋭のレーダー施設である。防衛庁は中期防衛力整備計画の目玉の一つとして同レーダー基地の建設を挙げ、一九八六年夏から米軍と協力して候補地の検討を急いでいた。候補地の条件としては、①監視域②用地取得の可能性③造成工事の難易度③補給⑤電波障害-などについて評価を行った。候補地としては、硫黄島、喜界畠、沖縄・伊江畠をそれぞれ中心とした三つのグループが検討された。
 その中で、喜界島と馬毛島が有力候補地として予定された。しかも残念ながら候補地としての条件が十分に整っていたのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「象のオリ」は軍事施設である。そこで、反対運動が起こるが、それには喜界島ならではの思いがあった。

喜界島は、奄美で一番最初に飛行場が出来るなど、第二次世界大戦のときは軍事基地化しており、大変な戦災を受けたのである。巨大円形アンテナ「象のオリ」は、核戦争を想定した米軍と自衛隊の最新鋭の軍事施設である。戦争になったら、喜界島は真っ先に攻撃される危険がある。

 喜界島は、大戦時に軍事基地化しており、そのため米軍の攻撃を受けている。そんな歴史が、「象のオリ」反対に切実さを加えているのだ。

 「象のオリ」反対運動に立った丸山邦明さんが、「どうしても奄美の社会運動の歴史を学ぶ必要を痛感させられた」として歴史を紐解いている。それは、「ヤンチュ解放運動」、「日本復帰運動」、「石油基地反対運動」、「使用済核燃料再処理工場反対運動」と並んでいるが、ぼくは奄美の歴史から指針を見出そうとする姿勢がとても大切なことに思えた。自らの歴史を失ってきた奄美であれば、この態度はとりわけ重要なものだと思える。

 それにしても、社会運動の系譜を追ってゆくと、いかにも辺境的課題が押し寄せているのがよく分かる。そして、軍事拠点としての役割として目をつけられる、古代から変わらない喜界島の宿命も。

 ぼくたちは、上空から「象のオリ」を監視しよう。喜界島を軍事拠点化する地図の視線を無意味化してくために。


大きな地図で見る


「軍事基地問題と奄美」丸山邦明
『奄美戦後史』27

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2008/08/04

「奄美を語る会」

 和(にぎ)眞一郎さんら奄美出身者たちが鹿児島で「奄美を語る会」を発足させて活動を開始した頃とすれ違うようにぼくは鹿児島を離れている。鹿児島にいてその存在を知っていたら足を運びたかった。81年にスタートして89年までの9年回に、48回も数を数えていて、精力的に開催されているのが分かる。テーマも、「民謡にみる奄美五島の個性について」、「奄美の人の生き方~日本復帰運動を中心に」など、真摯で本格的なものが多い。参加できなかったのは残念だが、こうした活動が鹿児島にあったというのは嬉しくなる。

 古代からの、特に近世以降の奄美の歴史・経済・文化のあらゆる面で語られるとき、奄美が常に犠牲を強いられてきたことが明らかにされてきた。確かに奄美は鹿児島(=薩摩)の社会から、多くは政治的・制荒に戦前まで連綿として差別され続けた歴史を有する。戦後になってもなお、鹿児島の社会の中で奄美に対する差別蓋は消えていなかった。鹿児島で生活する者たちが「奄美出身」と胸を張って生きる環境ではなかったのだろう。その出自を明かすのは身体的な特徴に加えて、奄美独特の一字姓であり、シマの裏やシマの生活習慣、文化そのものであった。このような鹿児島の社会環境の中で奄美の様々な個性を表出ることは困難であったし、シマの出身であることを明かすのはかなり勇気のいることであった。シマのリーダーといわれる人によって、主に教育の場でシマグチヤシマウタをはじめシマの風俗文化は恥ずべきものであり、シマの近代化の障害になるものとして、特に言葉は徹底して矯正されてきた過去の歴史もある。

 和は先の文章でこのことに関わって次のようなことも記している。
 「奄美の人間が、県庁大島支庁のお役人の鹿児島弁をまねると、私は不快だった。『方言を使うな』としかる鹿児島弁の教師に、島の高校生も反発するらしかった。
 「五年前、島を離れて鹿児島市の常盤町に移り住むようになったとき、家主の老夫婦のことばに、ところどころわからないながら、ことばのあたたかさ・美しきを感じた。が、かたくなに私は覚えようとはしなかった。        

 生徒たちとの響き合い、父母とのつながりを、私の共通語が微妙に妨げるのを感じた。地域のことばと人の結びつきとの関係を、頭のうわべで理解はするし、また奄美のことばをすぐ覚える人に親しみを感ずることもあるくせに、鹿児島弁を、私は使おうとはしない。
 薩藩圧政・収奪=奄美の黒砂糖地獄・疲弊という図式化もさることながら、今を生きている島の人の心のひだや感性、まだ生活の中に生きているウタやオドリなどの文化、いいかげんとも見えるおおらかな生き方、等々。これらが私の中ではどうなっているのか、私は自分を見つめる力などはとても持ててはいないのだが、ときほぐしてみたいなどと思うこともある。私の中の若気は、私こそだれにも負けない島の人、島のすべてを背負いたいなどと私を高ぶらせることさえあったのだ」『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ぼくも、鹿児島弁は「かたくなに」「覚えようとはしなかった」。アクセントすら拒否した。ぼくも、教師や友人たちとのつながりを「私の共通語が微妙に妨げるのを感じた」こともある。それはぼくが偏屈だからと思っているが、同じような人がいたのは嬉しいし親しみが湧く。

 ぼくも、「自分を見つめる力などはとても持ててはいない」のだけれど、それでも、なぜ鹿児島弁をアクセントもろとも拒否したのか内省したことはある。少年の時分でも、奄美の被った歴史について、おぼろげには知っているしし、鹿児島にいると、それが厚い雲となっていつでも空を覆っていると感じたから、それに抗いたかったのだと思う。奄美への差別に対して、それを行使する言葉を拒否するという気持ちだ。しかし、それがすべてかといえば、威勢がよ過ぎる気が自分でもする。

 たとえば、与論でも島の言葉が公然と使われ、それが自然なことだとしたら、かたくなにはならなかったのではないか。自分には禁止されていたものを、ぼくからみれば、与論の言葉と同じようにというか、輪をかけてどぎつく聞こえぼくの耳に意味も不明な鹿児島弁を、地元の少年たちは平気で使い、しかもとがめられない。ぼくはそれに驚いた。

 ぼくにとって、親しみのある言葉は覚えてはいけなかったのに、なぜこの地ではそれが許されるのか。しかも共通語との距離感は相当にあるように思えるのに。ぼくは、自分たちにはそれは許されていなかったことへのやりきれなさから、鹿児島弁を拒否したのだと思う。与論の言葉は自然に身につけていける環境だったなら、鹿児島弁への拒否感も生まれなかったのではないかと思えるのだ。

 話を戻そう。風の便りでは、「奄美を語る会」が再開されるという。いつか話を聞きに駆けつけたいものだ。


「『奄美を語る会』が語ってきたもの-『語る会』から見た鹿児島と奄美の社会-」仙田隆宜
『奄美戦後史』25



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2008/08/03

奄振はアキレスと亀

 桑原季雄さんの整理を参照して、あの、奄振を追ってみる。

■1954年 奄美群島復興特別措置法

目的
「復帰に伴い、同地域の特殊事情にかんがみ、その急速な復興を図る七ともに住民の生活の安定に資するために、特別措置としての総合的な復興計画を策定し、及びこれに基づく事業を実施すること」

目標
「奄美群島における住民の生活水準を概ね戦前(昭和九年)の本土並に引き上げる」ために、必要な産業、文化の復興と「公共施設の整備拡充」を図ること。

■1958年 10カ年計画

「群島経済の自立化を促進する」

郡民一人当たりの所得も、一九六三(昭和三八)年度は八万八〇〇〇円(国一八万五〇〇〇円、県一一万一〇〇〇円、対国四七・五%、対県七九二一%)となり、目標とされた戦前の本土並みの生活水準への引き上げもほぼ達成されたが、全国平均との比較でみれば、その半分にも満たない状況であった。

■1964年

「奄美群島振興特別措置法」(「振興法」)

目標
本土の著しい経済成長と群島の特殊事情を考慮して、復興事業を補完整備するとともに、主要産某の育成振興を重点として「群島の経済的自立を促進」し、計画終了年次における「群島住民の生活水準を、概ね県本土の水準に近づける」こと。

群島の農業経済に主要な位置を占める糖業の振興を最も票的な事業として、品種改良、耕種改善、大型機械の導入等が強力に実施されたほか、大型分露工場の誘致増設が促進された。
所得水準の格差は是正されつつあったものの、実質的生活水準においては県本土との間に著しい格差(昭和四三年度一九万二〇〇〇円(国四二万三〇〇〇円、県二三万円、対国四五・五%、対県八三・五%)が存在していた。

■1969年 改定10カ年計画

特に奄美群島の亜熱帯的特性を最大限に活用して、主要産業の育成振興を図るため、「産業基盤の整備」を霊的に推進し、「群島経済の自立的発展」のため必警金融対策の強化拡大を図り、地域社会の変動に即応しっつ、長期的な展望の下に社会基盤施設の効率的な整備を行うこととされた。

近年の観光ブームにより増大しっつあった観光客に対応するため、受け入れ体制の整備として、貨客船の大型化や貨客輸送のスピード化、港湾整備も図られた。

しかし、県本土との諸格差を是正するには至らなかった(昭和四八年度四六万七〇〇〇円〔国八六万八〇〇〇円、県五九万八〇〇〇円、対国五三・八%、対県七八・一%〕)。

■1974年 「奄美群島振興開発特別措置法」 (「振興開発法」)

目標

復帰に伴い、奄美群島の特殊事情にかんがみ総合的な奄美群島振興開発計画を策定し、その「基礎条件の改善」ならびに地理的及び自然的特性に即した奄美群島の振興を図り、もって住民の安定及び福祉の向上に資すること。

「1道路、港湾、空港等の交通施設及び通信設備の整備に関する事項、2生活環境施設、保険衛生施設及び社会福祉施設の整備並びに医療の確保に関する事項、3防災及び国土保全施設の整備に関する事項、4地域の特性に即した農林漁業、商工業等の産業の振興に関する事項、5自然環境の保護及び公害の防止に関する事項、6文教施設の整備に関する事項」であり、奄美群島の特性と発展可能性を生かし、環境の保全を図りつつ、積極的な社会開発と産業振興を進め、「本土との諸格差を是正」し、明るく住み良い地域社会を実現すること。

昭和五一年に与論空港が開港し、各島に空港が整備されたほか、民間テレビ放送の基幹中継局が完成し、各島において視聴できるようになった。昭和五三年度の郡民一人当たりの所得は九九万三〇〇〇円(国一四四万九〇〇〇円、県二〇万五〇〇〇円、対国六八・五%、対県八九・九%)であったが、「奄美群島の後進性」を克服するには至らず、「県本土との諸格差を是正」するには至らなかった。

■1979年

「観光の開発に関する事項」が加えられ、「振興開発計画の実施に当たっては、必要に応じて環境影響評価を行うこと等により、公害の防止及び自然環境の保全について適切な考慮を払う必要がある」とされた。

■1984年

振興開発法が一部改正され、「新奄美群島振興開発計画」が策定された。 「本土との諸格差を是正」し、豊かでぬくもりに満ちた地域社会を重視することが目標とされた。昭禦三年葉の国・県道改良率は八六・四%、舗装率は九八・四%と整備が進み、奄美空港もジェット化され、交通基盤整備が大幅に進んだが、

成果報告は、「わが国の社会経済が持続的発展を続ける中で、群島をめぐる要件は依然として厳しく、本土との間にはなお格差が存在し、その後進性を克服するには至らなかった」と評価する。

■1989年

新振興開発計画では、五〇〇〇トン~一万トン級の船舶が接岸可能な港湾整備が進み、またバイパスやトンネルの開通が相次ぐなど交通基盤整備が大きく前進したが、群島をめぐる厳しい自然的・社会的条件を克服するには至らず、「所得をはじめとする諸格差」を是正するには至らなかったとされた。一九九四(平成六)年度の第三次奄美群島振興開発事業でも、「本土との諸格差」に加えて、若年層を中心とする人口流出や高齢化が進むなど、依然として解決すべき多くの課題が残されていることが指摘された。

■1999年

「第三次奄美群島振興開発計画」(改定一〇カ年計画)では、本土から遠く隔絶した外海離島、台風常襲地帯という厳しい自然的・社会的条件下にあるため、「本土との間にいまだ所得水準をはじめとする諸格差」が警れており、また、若年層を中心とする人口流出や高齢化が進み、活力ある地域社会の維持に多くの課題を抱えている一方、「奄美群島は、広大な海域にまたがって亜熱帯地域に位写るなど恵まれた自然的・社会的特性を有しており、これらの地域特性を生かした新たな産叢興による島おこしの機運がたかまりつつある」とみる。これまでにない新しい指摘としては、「隣接する沖縄との連携や国際化の進展に対応した東南アジア等との交流・協力をも考慮しつつ、積極的な振興開発を進め、奄美群島の発展可能性を最大限に活用することによって、群島経済の自立的な発展と群島住民の福祉の向上を図ることが重要」だとする。

目標

「奄美群島の特性と発展可能性を生かし、産業の振興と社会資本の整備を図り群島内外との交流・連携を進め、本土との諸格差を是正しつつ、自立的発展の基礎条件を整備することにより、住民が希望を持って定住することができ、充実した人生を送ることのできる地域社会を実現する」ことにあった。また、基本方針のなかには、「必要に応じた環境影響評価を行うこと等により、公害の防止および自然環境の保全について適切な対策を講ずること」が示されている。部門別構想では、「観光・リゾートの振興」にこれまでになく多くの計画が盛り込まれている。

自然回帰型の観光拠点の整備、自然や風俗、文化等の観光資源との調和を図り、観光客の周遊を促進することや、「県際交流の促進等により、沖縄と連携した観光ルートづくりを進めるとともに、スポーツ合宿の誘致やアイランドテラピー構想を促進する」、「魅力ある特産品や郷土料理の開発、見学・体験が可能な工場等の整備を促進し、観光と地域産業との緊密な連携を図る」、「接客研修等によるホスピタリティーあふれるサービス提供体制づくりやマリンスポーツ教室などの体験・研修システムの整備を促進するとともに、地域おこし運動との連携を園りつつ、観光客も参加できる多彩な伝統芸能等の各種イベントの開催等ソフト面の充実強化を促進する」とあり、従来になく踏み込んだ内容が盛り込まれている。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

「21世紀奄美へ期待するもの~奄美が奄美であるために~」

「奄美人の目からみた格差社会」

 こうして奄振の経緯を振り返ってみると、南島開発の工場、客船の大型化、空港など、島の光景を一変させたものが、奄振とともにもたらされたものだということが分かる。それだけでもどれだけ島の生活に影響が大きいのかも分かる。

 ついでに、でも忘れずに付け加えておかなくてはならないのは、これ何のために?と思う漁港やいわゆるハコモノも、奄振の産物だ。

◇◆◇

 奄振の成果は、福永法弘さんの「21世紀 奄美へ期待するもの~奄美が奄美であるために」に数値化されていたのを参照したことがあった。

            【対県】  【対国】
1963年(昭和38年) 8割弱  5割弱
1978年(昭和53年) 9割   7割
1998年(平成10年) 9割   7割
「奄美人の目からみた格差社会」

 これでみると、70年代までは成果が顕著だが、それ以降は停滞しているようにみえる。
 ここで、それぞれの段階での評価をたどってみると、「その半分にも満たない状況であった」、「実質的生活水準においては県本土との間に著しい格差が存在していた」、「諸格差を是正するには至らなかった」、「『奄美群島の後進性』を克服するには至らず、『県本土との諸格差を是正』するには至らなかった」、「格差が存在し、その後進性を克服するには至らなかった」と、「至らなかった」がお決まりの述語と化している。

 この、「格差を克服するには至らなかった」という言い回しを連なりをみると、奄振は、アキレスと亀だと思う。アキレスは亀の2倍の速さで走るとする。亀はアキレスの10メートル先を走っているとして、アキレスが亀のいたところまで辿り着いたとき、亀はアキレスの5メートル前を走っている。次にアキレスが亀のいたところに辿り着いたときは、亀はアキレスの2.5メートル前を走っている。次にアキレスが亀のいたところに辿り着いたときも亀はアキレスの前にいる。こどんなに繰り返しても、アキレスは亀を永遠に追い越せない。

 奄振は、この、アキレスと亀のパラドクスを地でいっている。亀を基準にする限り、アキレスは亀を追い越すことはできない。と同じように、奄振は、本土(日本)を基準にする会議、永遠に追い越すことはできない。

 本土との格差是正をテーマとする限り、アキレスと亀のパラドクスにはまってしまいやすい。それは、このテーマで奄振の永続化を目論もうとするならいざ知らず、奄美の豊かさを実現することが目標なら、パラドクスからは抜け出なくてはいけない。抜け出るには、本土との比較を止めることも選択肢になるが、それは目標そのものを見失うと映るかもしれないから、現実的にいえば、所得以外の指標をいくつも持たなければならない。

 去年は、「山原(やんばる)率」など、林野の占める割合などを考えてみたが、同様に、珊瑚率なども設定してみるといい。通勤時間率とか、海水浴率とかもある。自然では食えないと言われてきたけれど、でも実態はそうじゃなかった。実際、珊瑚礁の海の畑の恵みで島は潤っていたのだから。いままで「島にないもの」を基準にしてきただろうが、逆に、「本土にないもの」を指標にしたらいい。いま、それは本土の人が切実にほしいと思っているものが多くなっているのだから。そして交流人口を同時に取り、山原率、珊瑚率との相関を見ていく。


「奄美開発再考」桑原季雄
『奄美戦後史』24


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2008/08/01

アイデンティティの問い直し

 沖永良部島は、二〇〇三年に復帰五〇周年を迎えた。日本復帰のために沖縄との差異を強調し日本復帰を果たした時期から半世紀が経過した。奄美群島日本復帰五〇周年記念式典には、天皇皇后両陛下が臨席した天皇の奄美大島行幸に郡民は大いに歓喜した。他方、沖縄は一九七二年に日本に復帰した後も米軍基地問題などを抱え、本土との間に確執を持ち続けている。歴史の中で、帰属の変更を余儀なくされてきた狭間の島であるがゆえに、沖縄に属しても本土に属しても、奄美は、沖永良部島は、「周辺」であり続けた。

 奄美各地や本土では、復帰五〇周年にちなんだイベントが開催された。例えば、二〇〇三年三月元日には大阪市中央公会堂で、沖永良部出身の古村好昭が会長を務める関西奄美会主催の「奄美群島日本復帰五〇周年記念奄美サミットin関西」が、そして二〇〇三年九月五、六日には名瀬市の「奄美文化センターで第二回「世界の奄美人(アマミンチュ)大会」が開催された。奄美の人々は今アイデンティティを問い直している。日本復帰後、激しさを増した本土化にもかかわらず、なくなることのない「大和」との違和感と、修復困難な沖縄との精神的別離に、奄美の人々はヤマトンチュでもウチナンチュでもない「アマミンチュ」としてのアイデンティティを見出そうと
している。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「天皇の奄美大島行幸に郡民は大いに歓喜した」というのが、戦前のことではなく復帰五〇周年であることに、ぼくは愕然とする。ぼく個人の感じ方からすれば、同じあまみんちゅでも隔絶感を覚えるところだ。

 どうして「天皇の奄美大島行幸に郡民は大いに歓喜」するのだろうと考えて、ぼくが思うのは、奄美はきちんと敗戦に出会っていないのではないかということだ。敗戦の詔勅もまともに伝わらず、どこかからの風聞のように聞き届け、その意味を受け取る間もなく、米軍占領下に置かれ、あとは日本復帰に躍起になっていった。だから、日本人意識が戦前のまま復帰後の世界へ地すべり的に入っていったのだ。そうでなければ、この「歓喜」は理解できないのではないだろうか。

 奄美は、復帰の相対化がなされていないのと同じように、天皇の相対化がなされていないのだ。

◇◆◇

 「奄美の人々は今アイデンティティを問い直している。」

 ぼくもこの問いに答えたいのだと思う。
 復帰後、獲得した「日本人」意識を、ぼくは国家と社会を分けて考えることができる近代市民社会の自己意識として捉え返して大事なものとするとともに、一方でゆんぬんちゅとしてのアイデンティティを掘り下げながら、大和と沖縄との対話により、ゆんぬんちゅのよりよい形を編んでゆけたらと思う。

「沖永良部島の戦後史から現在をみる」高橋孝代
『奄美戦後史』23


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2008/07/31

奄美内部からの日本復帰相対化の声

 高橋さんの沖永良部学に触れて、杉原さんや黒柳さんのように奄美の日本復帰を相対化する考えを、奄美内部からも聞くことができた。

 日本復帰後の約三〇年間は、本土への応化が進み、「中心主義」に発展する。この時代には島民の意識に大きな変化がみられた。日本への復帰運動の中で、沖永良部島民は「本土」か「沖縄」かという二者択一を迫られた。本土と沖縄を両極(中心)として、その狭間で生きてきた沖永良部島民は、復帰運動の勃興とその結果達成された復帰という歴史的事実により、自らのアイデンティティを大きく揺さぶられた。漠然と捉えられていた生活習慣や芸能は、この復帰を境に、それらが「本土」のものであるのか「沖縄」のものであるのかということが意識され、その正統性を追求するという「中心主義」に発展する。しかし、これは同時に、自ら固有のアイデンティティの存在に目を背けてしまうことに他ならなかったのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 高橋さんは戦後の沖永良部島を3つに区分している。まず、第一期は敗戦から復帰までの米軍施政権下の時代で、特殊な状況のなかで芸能が盛んになった。第二期が、引用した箇所で、本土への「中心主義」に傾斜する時期である。だがこの時期は、本土に目が向くことは「自ら固有のアイデンティティの存在に目を背けてしまうことに他ならなかった」としている。復帰が相対化されていると感じられるのはこういう箇所だ。日本復帰をして日本人になったということだけが結論の文脈のなかからはこの言い方は出てこない。

 そして第三期は、1980年代後半で、高橋さんによれば、

この頃になると、標準語推進運動の成果により標準語を話せる子供は多くなったが、反対に方言を話せる子供が少なくなり、教育者たちは島の方言が消滅してしまう可能性に気づき始めた。方言を話せない子供たちが親になる時代を想像し始めた。現時点では方言を話せる老人もいるが、次第に少なくなることは明らかで、子供に方言を伝承できる者がいなくなれば、方言の消滅は必然であると容易に推測できるからである。島の文化である方言消滅に強い危機感をもったため、学校や社会での方言使用禁止の方針はなくなり、逆に方言の大切さが説かれ始めた。

 与論でもいまでは、学校の教室で「方言」の授業がある。方言を徹底的に禁じたその同じ空間で方言を教えるというのだから、隔世の感があるというものだ。

 郷土の再評価の時代の影響もあり、沖永良部島民の多くは、島の文化に誇りをもっている(中略)。そしてまた、島民は、復帰運動では、日本人、鹿児島県民であることを主張したが、文化的には鹿児島より沖縄の文化に愛着や親近感を強く感じている。その中でも歴史的に長期にわたって島民が志向し続けた沖縄の芸能は、特に島民には愛着があるようである。(中略)地域や地方の足元の文化を見つめ直す中で、改めて沖縄との文化的繋がりが再認識され始め、沖縄との交流も盛んになってきている。

 これは与論もそうだと思う。沖永良部や与論にとっては、「沖縄との交流」は自己回復という側面を持っている。それは理屈ではない。高橋さんが冒頭に書いているように、沖縄の民謡を聞いて「血が騒ぐ」のだ。


「沖永良部島の戦後史から現在をみる」高橋孝代
『奄美戦後史』22



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