『それぞれの奄美論・50』を終えて
『それぞれの奄美論・50』の最後の奄美論まで終わってしまった。できればもっと読みたい。もっと色んな人の、特に若い人の奄美論を読みたい聞きたい。奄美の各島の表情が見えてくるほどに知りたい。
でもそれは贅沢というものかもしれない。奄美発の声が聞こえたというだけでひとまず充分だと言わなければならない。少なくとも、読みはじめたときの気分はそうだったのだから。語られない場所、語らない場所があるとしたら、それが奄美だ。そういう想いはぼくの偏見に過ぎないと分かっただけでもよかった。
『奄美の島々の楽しみ方』もそうだったけれど、この本は、90年代の前半頃の『おきなわキーワードコラムブック』を思い出させた。『おきなわキーワードコラムブック』は、与論島の感覚で読んでも、言葉といい気分といい共通しているのが楽しかった。ただそれだけに、そこには奄美が欠落しているのが寂しかった。それは、「おきなわ」キーワードであって、「あまみ」キーワードでも、「よろん」キーワードでもないことを思い知らされるようだった。
それを思うからか、『それぞれの奄美論』を、奄美版『おきなわキーワードコラムブック』と見てしまう。すると当然のことながら違いが際立って感じられてくる。
『おきなわキーワードコラムブック』は1960年代生まれが執筆の中心メンバーであるのに対し、『それぞれの奄美論』執筆者のボリューム層は1940年代生まれだ。それと関連して、『それぞれの奄美論』は方言を喋れるあるいは方言世界を知っている人々の手になるが、『おきなわキーワードコラムブック』は方言を喋れなくなった世代の記念碑のようなものだ。もっと言うことはできて、だから『おきなわキーワードコラムブック』は風俗学的視点で書かれているのに対して、『それぞれの奄美論』は民俗学的視点が大勢を占める。
この違いを並べて気づくのは、那覇は都市化が進み、名瀬には牧歌が遺されているということではない。そういうことではなく、奄美には、『おきなわキーワードコラムブック』の1960年代生まれがコラムネタにしているウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)と呼ばれるものが、無い、ということだ。シマグチという言い方は聞いても、アマミヤマトグチ(奄美大和口)という言葉は聞いたことがない。
ウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)のようなアマルガム言語を奄美は生んでいないのは、「方言撲滅運動」が激しくかつ長期化したからだと思えるが、ぼくたちはここでも、奄美の「日本人」への変身願望の強度を見るようだ。
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