カテゴリー「22.『それぞれの奄美論』」の46件の記事

2008/06/29

『それぞれの奄美論・50』を終えて

 『それぞれの奄美論・50』の最後の奄美論まで終わってしまった。できればもっと読みたい。もっと色んな人の、特に若い人の奄美論を読みたい聞きたい。奄美の各島の表情が見えてくるほどに知りたい。

 でもそれは贅沢というものかもしれない。奄美発の声が聞こえたというだけでひとまず充分だと言わなければならない。少なくとも、読みはじめたときの気分はそうだったのだから。語られない場所、語らない場所があるとしたら、それが奄美だ。そういう想いはぼくの偏見に過ぎないと分かっただけでもよかった。

『それぞれの奄美論・50―奄美21世紀への序奏』
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 『奄美の島々の楽しみ方』もそうだったけれど、この本は、90年代の前半頃の『おきなわキーワードコラムブック』を思い出させた。『おきなわキーワードコラムブック』は、与論島の感覚で読んでも、言葉といい気分といい共通しているのが楽しかった。ただそれだけに、そこには奄美が欠落しているのが寂しかった。それは、「おきなわ」キーワードであって、「あまみ」キーワードでも、「よろん」キーワードでもないことを思い知らされるようだった。

 それを思うからか、『それぞれの奄美論』を、奄美版『おきなわキーワードコラムブック』と見てしまう。すると当然のことながら違いが際立って感じられてくる。

 『おきなわキーワードコラムブック』は1960年代生まれが執筆の中心メンバーであるのに対し、『それぞれの奄美論』執筆者のボリューム層は1940年代生まれだ。それと関連して、『それぞれの奄美論』は方言を喋れるあるいは方言世界を知っている人々の手になるが、『おきなわキーワードコラムブック』は方言を喋れなくなった世代の記念碑のようなものだ。もっと言うことはできて、だから『おきなわキーワードコラムブック』は風俗学的視点で書かれているのに対して、『それぞれの奄美論』は民俗学的視点が大勢を占める。

 この違いを並べて気づくのは、那覇は都市化が進み、名瀬には牧歌が遺されているということではない。そういうことではなく、奄美には、『おきなわキーワードコラムブック』の1960年代生まれがコラムネタにしているウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)と呼ばれるものが、無い、ということだ。シマグチという言い方は聞いても、アマミヤマトグチ(奄美大和口)という言葉は聞いたことがない。

 ウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)のようなアマルガム言語を奄美は生んでいないのは、「方言撲滅運動」が激しくかつ長期化したからだと思えるが、ぼくたちはここでも、奄美の「日本人」への変身願望の強度を見るようだ。



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2008/06/28

「奄美 21世紀の可能性」

 二十一世紀の奄美とは
 近代とは、自然を征服することを可能とした理性を持つ人間によって、世界が作り上げられてきたとする。その過去から未来へと進歩・発展する歴史観のなかで、この「ハブ狩」の一文が内包した意味など、あたかも不在のごとく一顧だにされなかった。だが今、その歴史の細部へと目を向けた時、奄美人とハブとの関係は、そのまま私た ちの現代とその可能性を照射するものとしてあることが分かる。
 この非同一なものを排除するのではなく、受容する思考こそが新しい社会関係と共同性のありようを模索する可能性を与えてくれる。他者との共存、自然との共生という言葉で何かを展望したつもりになる表層の現実とでも言うべき位置から、その思考の同一化そのものを揺さぶるような、多様なあり方を生み出す具体的な一歩を踏み出 すことができる。

 このように奄美が暮らしのなかに鍛えてきた思考が、今こうして私たちの可能性へと力を与えてくれる。そして島峡地域社会としての多様な奄美の島々のありようが、その細部に宿す暮らしの多様に重層する知が、私たちを挑発する。
 奄美の苛立ちとは、近代とその変化に目が奪われ、こうした奄美の知をどこかに見過ごしてきたのではなかったかという疑心暗鬼によるものだとも言い換えていい。だから自信を持って改めて断言しよう。
 二十一世紀の奄美、それは語られない言葉に耳澄ませながら、暮らしのなかに培った多様に重層する知の遺産を活用する時の到来なのだと。(『それぞれの奄美論・50』

 これは抽象的な言い回しに躓かなければ、共感できる。与論にはハブがいないので実感を込めにくいところはあるが、ハブを違うものと見なすのではなく、ハブと人間を同じと見なす視線。もともと奄美が持っていたこの視線が、奄美の未来の可能性なのだ。言い方は逆に聞こえるかもしれないが、そういうことだ。

 ぼくもそう思う。21世紀、奄美はその視線を回復させているだろうか。


「奄美 21世紀の可能性」高橋一郎


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2008/06/25

「民俗文化、その記述をめぐって」

 既刊の記述内容から読みとれる目的として、茅葺き屋根の頃の、消えつつある暮らしの記録、あるいは伝承世界の再構築に主眼がおかれていることはわかるのだが、危惧感を覚える。
 こうしたことを、市町村誌に共通する記述の理想として今後も持ち続けたならば、十年単位の間隔で改訂版の刊行が遵良く繰り誉れたとしても、民俗文化の記述は衰弱化するであろう。古き奄美の暮らしを記そうとすればするほど、伝承と経験から記述を進めている民俗文化の情報量は圧倒的に制限されてくることは想像に難くない。

 極端に言いかえてみよう。既刊の市町村誌の記述は、いわば百年近く前の暮らしを再現した記述が中心である。では、百年後(=〇〇年)に再び二百年前の暮らしを追い求めて記述するのか、その百年後(つまり現在)は記述されなくてもよいのか、と間いたいのである。
 既刊の記述を全面否定して異論を唱えているわけではない。これまでの記述目的に加えて、現在を意識した民俗の動態を見つめる眼差しを望んでいるのである。「伝統」的な事象の古形を求めつづけ、郷愁やルーツ論に資する記述のみが、民俗文化の記述の全てではなかろう。(『それぞれの奄美論・50』

 町さんの文章を読んで、奄美も都市化したのだなとつくづく思った。現在の市町村誌が民俗学的視点に貫かれているのに対し、町さんは変化する街を記述する風俗学の視点の必要性を訴えている。ぼくはふいを突かれるように、奄美風俗学の必要性を考える前に、風俗学へのニーズが浮上する奄美の都市化という事態に目を見張る。

 奄美がその豊富な民俗を記述し終わらないうちに、変化を記述する風俗の視線が要請されてきた。要は民俗が瀕死に追い詰められているということだ。沖縄、特に那覇はその世界を既に走っている。彼らの風俗の記述から学ぶこと真似てはいけないこと、そんな配慮が奄美にも既に必要なのかもしれない。元ちとせや中孝介が、表現として「還る」という課題を既に持っているように。


「民俗文化、その記述をめぐって」町健次郎


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2008/06/24

「復帰運動の語り継ぎ及び奄振のあり方」

 現在の「奄美を問う」ためには、以上のような歴史をふまえたうえで、米軍政下での民族運動としての「親米的」島ぐるみの復帰運動を起点にして、考えを構築することが大切である。この連載の五月二十四日付けでロバート・D・エルドリッヂさんが指摘するように、復帰運動が「奄美群島の早期返還」の決定的な要因の一つであったことを、私たちは今一度認識しておかなければならない。さらに奄美大島日本復帰協議会(復協)議長・泉芳朗というヒューマニスティックな指導者のもとで、群島民が心を一つにして「日本復帰」を闘いとった運動を奄美歴史上の金字塔として、私たちはこれを最大限に評価し、語り継いでいくことが大切である。(『それぞれの奄美論・50』

 ぼくは、いま大切なのは復帰運動を「最大限に評価」することではなく、「充分に内省」することではないか。貧困や孤立感から復帰に雪崩れ込んだのはやむを得なかったとしても、「群島民が心を一つ」にしたことが、本当に主体的な意思だったのかどうか、「心を一つ」にしたこと以上に、「心」の中身を吟味するのだ。そのほうが、奄美にとって得られるものはずっと豊かだと思う。

 ところで二十一世紀は、奄美群島にとって経済的な自立(自律)が課題になる。直接占領の償いとして始まった補助金政策「奄振事業」は、二〇〇三年(平成十五年)度で五十年を迎える。五年の時限立法である特別措置法が改正を繰り返し、奄美群島十四市町村へ一兆五千億円を超える多額の投資がなされることになる。現在では社会資本(道路・港・空港など)が整備され、農業振興の一環として農業基盤整備も充実してきている。しかし、数字計測の「所得水準」のモノサシでは、本土との格差は依然として続いている。今後はこの現状を「格差是正」として単眼的に捉えることなく、自然を含めた資源の豊かさ・奄美文化の豊かさ・生活習慣の豊かさ・地域共同体の豊かさなどを総合的に捉える複眼的思考が大切である。そして、これらの「豊かさ」を活用する起業家を育てる奄振事業が必要になってくる。そのためには十四市町村がこれまでの「上意下達」から「分権と参加」の住民主体の自治体へと意識を転換することである。地域政策の主体は地域住民であるからだ。

 奄振は延長が満場一致で可決されたという。「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島さんは、「開発行政によっては島は自立しない」(「奄振の延長が満場一致で決議された」)と問題提起している。「奄美の家日記」の圓山さんは、「ハード面だけでなく、是非ソフト面にも」と提案している。奄振の予算は300億くらいだろうか。奄美の人口は約15万人(正確な数値ではありません)だとしたら、2万円/人ということだ。いっそこの2万円を一人ひとりに提供。その使い方は島人みんなで決めるとしてはどうだろうか。しかしその前に、「奄美群島振興開発特別措置法」の主体がなぜ「県」なのかが分からない。奄美はこの主体を「県」から取り戻してはどうだろうか。


「復帰運動の語り継ぎ及び奄振のあり方」西村富明


 

 

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2008/06/23

「奄美に暮らす」

加計呂麻バスツアー
 今年八月、明治生まれの母が逝った。長期の在宅介護だったので、十月のある日、友人たちが「お疲れさま」と、バスツアーをプレゼントしてくれた。加計呂麻を訪ねて、諸鈍シバヤを見るという日帰りのツアーだった。
 二十年ほど前、諸鈍シバヤを見に行ったことがあったが、久しぶりの加計呂麻だった。以前より諸鈍のデイゴの木がやせ細った感がしたが、諸鈍シバヤは変わっていなかった。演目も装束もカビディラも。単純で素朴なものほど、昔の古い型が残されているように思う。伝承を考えると子どもたちの参加は嬉しかった。
 加計呂麻までの遠い道程も、島のことをよく勉強しているバスガイドの案内で、時間のすぎるのが早かった。島に住む人に、島のことをよく知ってもらいたいと企画したということを聞いて、私たちは感激した。(『それぞれの奄美論・50』

 このエッセイのタイトルは、「奄美で暮らす」。これからも島人が奄美で暮らすための条件は何だろう。最低限言えるのは、自活できる産業を内在化することだ。

 現状のまま開発を続けていったら開発する余地が無くなった時点で住めなくなる。開発する理由が、「自然では食えない」、「珊瑚礁では食えない」ということだとしたら、「自然で食える」、「珊瑚礁で食える」という状況を作り出す必要がある。そして確かに奄美の可能性ある資源は、森と珊瑚礁だと思える。

・島の訪問者への治癒力を維持するだけの珊瑚礁と森を確保する。
・本土の資本で事業を行わない。
・集客と交流に最大限、インターネットを活用する。
・島を開発しない第三次、第四次産業を育成する。
・島の特産物をもとにした地域ブランドを数多くつくる。

 拙いけれどこんな発想をしていると、ぼくは「産む島・帰る島・逝く島」はどうだろうとまた思い出すのでした。

「奄美で暮らす」泉和子


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2008/06/22

「『てげてげ』の先にあるもの」

 与論島に通い詰めているジャーナリスト、吉岡忍さんが『路上のおとぎ話』という本の中で、焼酎の杯をみんなで回して飲み干す「与論献奉」について触れ、「人生、投げたっていいんだよなあ」という気持ちを抱いたことを書いている。まさしく、これだ、という感じだ。吉岡さんが書くように、これは「投げやり」ということとは全く違って、人生に対する、本土でのこわばった、凝り固まった感覚から解き放たれる思い、ということなのだ。「良いてげてげ」の極致と言えるかもしれない。
 さて、新世紀である。新世紀の奄美。ここはやはり、「てげてげ」を良い方向に伸ばしてほしい。よそ者の私としては、そう願うばかりである。大げさに聞こえるかもしれないが、どうにもこうにも動きが取れなくなってきた日本の政治・経済・社会のシステムを揺り動かすには、「てげてげ」しかないのではないか。「てげてげ」は、こわれやすい(フラジャイル)、いわば「揺らぎ」の状態である。だからこそ、その延長線上にあるであろうものに私は期待する。(『それぞれの奄美論・50』

 こう書かれると、「与論献奉」も悪いもんじゃないと思ってしまいそうになる。
 でも、「人生、投げたっていいんだよなあ」という感覚は分かる、と思う。唐牛健太郎もそんな気分で与論島に滞在したろうか。それは隠者の心持ちに似ている。

 この気分はぼくたちのなかにもあると思う。それが、「人生に対する」「こわばった、凝り固まった感覚」を相対化させてもくれるし、それが本土での生き難さのもとになったりもする。

 でもフラジャイルではあろうが、なかなかどうして、しぶとくもあるたくましさもあると思う。


「『てげてげ』の先にあるもの」神谷裕司



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2008/06/21

「奄美との出会い」

 油をしいたような海面に、船ばたにぶつかる椎の音と水の流れる音だけが聞こえた。
 少女は標準語を使わなかった。ときたま思い出したように短く私に話しかけてきたが、純粋の方言であったから、私にはほとんど理解不能の言葉であった。私は大阪弁丸出しであった。少女はまた私の大阪弁が理解できないというふうであった。
 目的の釣り場所は集落の近くにあった。伯父は舟の上でヤドカリを殻ごと叩きつぶし、釣り針に引っかけると釣り糸を小石にぐるぐる巻きにして船ばたから海中に放り込んだ。
 海面を、桶に取り付けたガラスを通してのぞき込むと、透明な水の底に色とりどりの魚がちいさく群れているのが見える。小石はくるくるまわりながら魚の群れをめがけて落ちていく。魚と触れあうころを見計らったように小石が釣り糸から離れていくと、周囲の魚が興味をみせて寄り集まってくる。魚が釣り針のヤドカリをついばむタ イミングにあわせて伯父は釣り上げる。
 伯父はつぎつぎと釣り上げた。魚がえさに食いつくのを見ながら釣るのだから、こんな簡単なことはないと思った。(『それぞれの奄美論・50』

 澤さんによれば、昭和39、1964年、加計呂麻島へ向かうときの光景だ。
 釣りは魚との対話だとすれば、琉球弧での対話は釣り糸を通じて存在を確かめるものではなく、魚はそこに見えるから魚の口元と直接、話しているようなものだ。

 ここでは魚との対話より人間同士の対話のほうが難しいもののように見えている。澤さんは、1964年からの歳月のうちに、「あのゆたかで美しかった白浜が、やせ細った、うすっぺらなものになってしまった。海岸沿いに棲む魚は激減した。」と、加計呂麻島の海を嘆くのだが、ひょっとしたら、「やせ細った、うすっぺらなものになってしまった」のは海以上に方言だったかもしれない。そしてそっちのほうが自然より取り戻すのは難しいかもしれない。

 そこで言わなくてはならない。リメンバー・アマミ、奄美を思い出せ。それが新しい世紀の合言葉だ。

「奄美との出会い」澤佳男


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2008/06/20

「周縁こそ最先端」

 ところで、こうした奄美の民俗伝承は枚挙に暇がない。年取りの晩にウァンフヌィ(豚骨料理)を食べる食習俗は、ラオス北部のモン族の正月前に豚を殺し、豚骨料理を食べないと年を越せないとする習俗につながる。また、カネサル(旧暦十月の頃の庚申の且に牛や豚、山羊、鶏などの家畜を殺して食べ、その骨を集落の入り口や出口に張った縄に掛けてシマガタメ(集落強化)をする。こうした習俗も、ラオス北部のアカ族が陸稲播種前に牛・豚・鶏などの家畜を殺して集落内を清浄化するミシヨロの祭りやカム族が村の中に病人が出たときに家畜を供犠する祭りなどの防災儀礼につながる。
 少数民族とのつながりは、精神文化のみに止まらない。日本列島では奄美にしかないと言ってよいチヂン(楔締め太鼓)は、ほとんどヤオ族とその支族しか持っていない。藍染めと餅、浮き織り、焼酎造り、瓜食、芋食、離れ二つ家、ティルと挙げれば際限がない。
 もはや、日本はおろか、琉球文化の中にさえ収まらない奄美を認識せざるを得ない。一つでない日本、一つでない沖縄、ましてや一つでない奄美までをもえぐり出す、しなやかで深みを持った奄美の民俗の力が予感される。奄美の目による東南アジアの少数民族の文化への眼差しは、そのまま「内なる奄美」の自己確認を深め、「外なる奄美人」すなわち「多様な奄美」の発見への逆照射となることは間違いない。そこには「日本文化の故郷」という呪縛から解放された奄美の自立への道が見える。(『それぞれの奄美論・50』
   90年代に日琉同祖論と柳田國男は批判に晒されたというが、その批判の一系譜がこれだと思える。たしかに奄美がいつも「日本文化の故郷」と見なされるのは息苦しいに違いない。ぼくも、与論には古い日本が残っているとあまり強調されると、ここは日本じゃなくてよと半畳を入れたくなるときがあるというものだ。

 しかしここにあるのは「点」の論理ではないだろうか。少数民族と比較する限り、このような共通性は、奄美とどこかだけではなく、それこそ大和朝廷勢力とどこかともすぐに見つかるに違いない。だが、その「点」に着目するだけでは面にならないし流線を描かない。日本人から離れることはできるかもしれないが、奄美人とは誰かを見いだすことも難しいのではないか。

 「日本文化の故郷」への嫌悪は分からなくはないが、その呪縛を解くのは、「点」の発見による日本文化からの逸脱ではなく、奄美文化の時間性の遡行により日本文化を豊かにすることあるいは解体することではないだろうか。

「周縁こそ最先端」川野和昭


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2008/06/19

「情報量八面の限界性」

これまで、南海日日と大島の両紙は、互いに競い合って紙面を充実し、住民の知る権利に応えてきた。しかし、その競争も、購読料、一月一八三五円、一七五〇円という現実的な制約の中で、白紙のカラーをきわだった違いとして紙面に反映させることは難しかったように思える。何にもまして、喜界島、与論島に常駐の記者が同様にいないことは地元紙として致命的であり、地元紙と全国紙の二紙購読を経済的に負担できない一般的購読者にとって、紙面八面の情報量は少なすぎる。
 企業の統合合併が世界的な規模で行われている。ディズニー文化が示すように、資本は力であり文化でもある。そんな時代だからこそ、奄美が奄美で在り続けるために、地元紙により力強い発信力を期待する。

 新世紀の社会的要請に、地元紙二紙はどう応えていくのだろう。広告・購読料金の問題や奄美全体の購読者数の問題もあり、それを現在の二紙体制で実現するのは、極めて困難に思える。それならば思いきって両紙が現在の取材力を維持したまま統合し、一たす一を三として機能強化と紙面の充実をはかることは非現実的なことであろうか。

 社会の健全な発展には健全で力強いジャーナリズムが不可欠である。地元紙がもっと多岐・多彩・多様な記事や論評を多数である六割の読者に伝えること。そしてその六割がもっと広く高い視点から奄美と世界を見つめること。時間はかかるが、そこからしか奄美の二十一世紀は始まり得ないであろう。(『それぞれの奄美論・50』

 奄美の21世紀は、ネットの市民ジャーナリズムから始まる、としたらどうだろうか。
 市民が記者でありネットを通じてリアルタイムに島つながりの出来事を投稿する。メディアとしての新聞社は、ネットのニュースのエッセンスを集約して紙として配布する。その際、採用された記事の市民に対していくばくかの報酬を支払う。いくばくかでいい。紙面の記事は、ネットのブログやホームページのURLにリンクして、より詳細を知りたい場合や議論をしたい場合はネットで行う。メディアとしての新聞社の役割はネットのニュースの抽出と編集になる。もちろん新聞社の記者自身もプロの市民ジャーナリストとしてネットにニュースを配信している。

 新聞社は取材力を維持するのではなく、ある部分を市民に委託し編集力を維持するのだ。どうだろう。


「情報量八面の限界性」得本拓


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2008/06/18

「島唄アレンジの現場にて」

 ある夜、孝介が、文紀とイジチに伴われて「かずみ」(島唄と烏料理の店)を出てきた。二十歳の若手ウタシャのホープ孝介。今や、二年上の康男と並び、島唄スター。三人は、近くの喫茶店「樹乃」でテーブルを囲む。ヨーロッパから来たクラシック音楽と、アフリカからアメリカへ入って完成したジャズと、島唄とが出会っている! それも奄美で。この三人の、この場は、この「国境撤廃」は、世界の音楽史の必然的方向性の縮図で、ここで起こっていることは世界で起こっていることだ、と力説するィジチ。強調の相の手を入れる文紀。二枚のCDアレンジの限界を共通して越えるには、クラシック・ポピュラー・島唄と三つの畑にまたがれるウタシャとの共演が必要だった。孝介は最適だった。孝介も新しい可能性への挑戦に一致してきた。音楽に国境はあるけれど、超越することも撤廃することもできるのだと力説するイジチ。そして、可能な限り忠実に踏襲するべき「伝統」と日々生まれ変わる「革新」とはひとつのものだと力説するイジチ。でも、自分が喜び生きる島の音だから、それを愛し、奏でるのは、自然な生活の行為なのだと結論するイジチ。さらに、ヤマトの人に安易に触れられたくない「島の想い」を私だって持ってるのよ、とイジチ。静かな興奮が三人を包んでいる。(『それぞれの奄美論・50』

 ここにいう孝介は中孝介のことだ。元ちとせ以降の奄美の島唄はみんなが知っていて、かつみんなが歌えるという水準を獲取した。それは奄美の表現にとって初めてのことだった。いやひょっとしたらヤコウガイの流行以来のことかもしれなかった。いやもっと遡れば、三母音を本州島に流行させて以来かもしれなかった。

 けれど奄美にとって相当困難な達成を果たしたということは、いままでには無かった課題を引き受けるということでもある。それは、帰れるかどうか、ということだ。仕事が忙しく奄美になかなか帰れなくなるという意味ではない。表現として帰れるかどうか、ということだ。自分の本来的な表現の場を保てるかどうかということだ。

 吉本隆明に教わってきたことだが、資本主義は往く(行く)道は助けてくれる。つまり良い表現をすればそれをさら大きな場で提供できるように助けてくれる。それは否定すべきことではない。課題はその次に来る。つまり、資本主義は往く(行く)道は助けてくれるけど、還る(帰る)道は助けてくれない。そして往く(行く)道に歩みを進めた者にとって還る(帰る)ことは難しくなる。だから、往き(行き)っぱなしで還れ(帰れ)なくなってしまう表現者が多い。自分にとっての本来の表現の場所、還る(帰る)場所は自分で確保しなければならないのだ。

 奄美の表現も、それを課題にする段階に入った。奄美大島のあの森の呪力を失わない、そういう場所を、往く(行く)道でのある達成を果たした表現者には期待したい。


「島唄アレンジの現場にて」伊地知元子




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