カテゴリー「21.道州制考」の22件の記事

2009/08/20

「奄美からも道州制議論を」

 沖縄の人から「奄美からも道州制議論を」という呼びかけがある。無関心が大勢を占めると思うので、こうした声かけは嬉しい。しかも、宮古島からであれば、なおのことだ。

 ことしは薩摩の琉球侵攻400年に当たる。沖縄本島ではこれを記念する追悼行事も行われた。沖縄県紙では薩摩軍侵攻時の徳之島での抵抗の歴史や400年記念シンポジウムの様子も紹介された。
 行政区分が違うとはいえ、一度でも奄美を訪れたことのある沖縄県民なら言葉や風土が沖縄に似ていることに驚き、奄美諸島が「兄弟島」であることを実感するだろう。わたしも10年ほど前、奄美大島を旅したことがある。それが奄美諸島に関心を持つきっかけになった。しかし、両者は沖縄本島-与論間の北緯27度線で分断され、琉球は過去の負の道産をいまだ清算しきれないでいる。

 この場合、「負の遺産」というのは、奄美と沖縄が分断されていることを指し、かつそれを政治的な意味で述べているのだと思える。

 ことし3月11日の沖縄タイムス投稿欄に「沖縄州へ参加、奄美は可能か。という投書を採用してもらった。沖縄では道州制導入を前提として知事の「沖縄は単独州が望ましい」という発言があり、地理的文化的独自性を生かした沖縄単独州を目指すべき、との主張が新聞紙上で度々みられるようになっている。
 それなら琉球系の文化が今も残る奄美諸島の奄美人々は琉球系日本という民族意識を持ち得るか。将来、道州制が導入された際、同じ琉球民族として沖縄州への参加は不可能か、「奄美の人々の意見を伺いたい」という内容だった。

 「琉球系日本という民族意識を持ち得るか」というテーマは、「琉球系」にアクセントが打たれていると思うが、ぼくなどには「民族意識」を持ち得るかどうかが難しい。現在、近代民族国家の向こう側へ行こうとしている時代のように思えるのだが、「民族意識」と言われると、改めて近代を通過しようとしているような疲労感がよぎる。言い換えれば、近代民族理念が持った排他性や膨張性をどう克服しようとしているか、その理念がどう盛り込まれているかを知りたくなる。それは琉球弧の島人が、多いに悩まされてきたものでもあるのだ。

 奄美関連の出版物から知る限り、奄美諸島は鹿児島に近いという地理条件もあり、大和文化混在している。島によって琉球系文化の影響の濃淡も異なる。過去400年間、奄美は薩摩藩民であり、鹿児島県民であり続けてきた。しかし、地方自治が推進される道州制の下では、従来の中央依存型の利益配分が望めない。地方は自力で経済を再建せねばならない。
 聞くところによると奄美は沖縄よりも公共投資が少なく、開発を免れた自然が観光資源になっているという。そうした条件下で奄美・沖縄間で同一の観光経済圏をつくろうとする動きも既に出てきている。小型機ではあるが、沖縄-奄美諸島間の航空便も増え、民謡歌手たちの共同イベントも行われるなど両者の交流は確実に活発になりつつある。
 観光の知名度においては沖縄が数歩先んじている。ゴーヤー、マンゴーなど沖縄産の農産物そその他の特産品は既に全国で認加されている。奄美が沖縄州に参加すれば沖縄が既に築いたブランドイメージがそのまま奄美の観光および産品に生かさふる。

 「両者の交流は確実に活発になりつつある」、それは嬉しいことだし、それが何より大切だと思う。

 奄美諸島は米軍銃撃から先に復帰を果たしもが、道州制導入の際は奄美から沖縄州参加を問う議論が出てきても面白のではないだろうか。
 先の新聞投稿が緑で最近、Sさんという沖永良部出身者と知遇を得る機会があった。Sさんの母親は「奄美は言葉も文化も琉球だ。薩摩の都会鹿児島になっているだけで、いつかは家に帰らなくてどうする」と言っていたという。奄美から琉球復帰を希望する声を聞き、沖縄州もしくは琉球州の成立は琉球民族にとって民族意識と自治の回復の機会ととらえることができるのではないかし考えた。

 いつかは家に帰らなくてどうする」。これは与論でも出てきうる声だが、沖永良部、与論だから出てきやすい声だろう。ここまでは言えるのだが、「奄美から沖縄州参加を問う議論が出てきても面白のではないだろうか」というところは、宮平さんが言うほど、面白いとは言えないかもしれない(苦笑)。奄美はこうした枠組みを提示する経験を持っていない。あるいは、その無力感に打ちひしがれている。宮平さんの声は励ましとして受け取りたい。

 そして、「琉球民族にとって民族意識と自治の回復の機会」というように「回復」として言われるものであれば、それは琉球王国を根拠にしたものだと思える。しかしこの根拠こそ、よく問われなければならないことだ。「回復」としてではなく「創造」として言うことはできないだろうか。琉球という同胞意識と自治の創造の機会、というように。

 わたしは沖縄の日本復帰後、自分が日本人であることを疑うことなく育った世代に属する。成長して後、自分が琉球人か日本人かという葛藤を経て自分は琉球系日本人あり、日本は大和民族、琉球民族、アイヌ民族を含む多民族国家なのだと結論づけた。
 日本は先の敗戦以来、国民国家を再構築する努力を積み重ね、多民族国として異文化への排他性を克服した社会へと変わりつつある。この夏の総選挙の後には本格的な道州制論議が始まることが予想される。わたしはこの時代の日本に生きることに対して決して悲観的ではない。道州制実現の際に沖縄、奄美が同一の自治圏をつくる利益は決して少なくないと信じる。沖縄と奄美、鹿児島の間で何らかの意見交換が行われることを強く願っている。宮平佳和(沖縄県宮古島市)「南海日日新聞」2009/08/10)

 文脈を自分に置き換えてみる。ぼくは、奄美の日本復帰後、「自分が日本人であることを疑うことなく育った」ものの、長じて以降の皮膚感覚は、どうやら日本人という範疇には入れられてないらしいと感じてきた。同時に、国のレベルから下げれば、鹿児島人とは露も思えず、とはいえ沖縄人でもない。そうだとしたら、受け皿としての言葉がない。奄美人が、大島に収斂してしまわない空間の広がりを持つか、琉球人が琉球王国に止まらない時間の広がりを持てば、座りいい自称がありうるのではないかと夢想したりしている。呑気な書き方だが、切実である。

 道州制という枠組みと琉球王国という根拠は、問いなおさなければならないと思うが、「沖縄、奄美が同一の自治圏をつくる利益は決して少なくない」というのは共感とともに議論を積み重ねていきたいポイントだ。


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2009/05/28

続、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」

 松島さんが「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」をレポートしてくれるおかげで、新聞記事だけでは物足らないところが詳細化されて嬉しい。

 「沖永良部島の集い 8」

次に報告された皆吉さんは、祖父、父親の代から南琉球と沖永良部島との関係を強めるための活動をされており、皆吉さん自身も沖縄州への沖永良部島の統合を主張されました。他の参加者からも南琉球に対する熱い思いの声が出て、私自身、面映ゆくもあり、また同じ琉球文化圏の仲間であることも改めて感じました。

 前回の繰り返しになるが、まず率直な表明に心を動かされる。これは、自然と文化の親近性が4世紀の境界でも失われていない強さを示すと共に、それと隔たってあることの苦痛を両方、意味しているのだと思う。松島さんの面映ゆさも伝わってくる。

ただ、道州制という法制度が実現すれば、繁栄する、自治が実現するのかという疑問があります。道州制は国主導の「地方分権化」政策であり、市町村合併の拡大版でしかありません。国は大きな権限の移譲をせずに、補助金だけを減らすでしょう。

 地方自治という理念に照らせば、道州制はあるべき方向だと思う。そこでぼくたちは、奄美が九州に組み込まれるのは失語の永久化に思えて危機感を持つ。あとはいつものように時勢はいつも島の小ささを吹き飛ばすようにやってくるので、焦ってしまう。そこで、松島さんの分析にはっとするのだ。

また沖永良部島が沖縄州の一部になった場合、沖縄諸島の北部に位置付けられます。そうすれば、米軍基地の移設場所、軍事訓練場として島が使われ、さまざまな事件事故が発生するおそれもあります。沖縄と一体になるということは、基地を引き受けることとセットになるおそれも高くなると思います。

 「覚悟」という新聞記事のひと言と異なり、ニュアンスが伝わってくる。基地の引き受けとセットになる可能性というのは、確かに勘定に入れる必要のあることだ。

県境を越えた経済的交流、文化交流を住民自治によってさらに深めていく必要があります。このゆいまーるの集いも、島嶼間の連合を強化することが目的の一つです。

 ぼくも、政治がどうあれ、経済、文化交流を進めることは重要だと思う。それこそが必要だ、と。

宮當さんも、南琉球と沖永良部島との言葉が同じであり、皆が住みたいと考えている沖縄とさらに交流したいと発言されました。他方、沖縄の人は沖永良部島のことをよく知らない、どこにあるのかわからない人が多いとも指摘されました。南琉球の人の目が奄美を飛び越えて、日本本土に注がれているのではないでしょうか。反基地運動、近代化への希求にしても。奄美をどのように沖縄の人間が認識しているのかが問われています。

 これは両者に共通している。奄美も沖縄も本土に視線を向ける。だから、お互いが視野に入らない。

400年の植民地支配は、現在、そして将来の問題と直結しているのであり、400年間の植民地支配を打破できるのは自治しかないという確信が私の胸にわいてきました。

 「400年の植民地支配」というくくり方は、アイヌ、南琉球、奄美それぞれの差異が削がれる分、乱暴な印象を受けるが、確かにその視点からは自治が必要であることはよく分かる。

◇◆◇

 失語を克服するのはどんな声だろうか。いままで奄美は、特に北奄美は、その言葉にならない叫びを、島唄に託してきた。唄ではなく言葉にするとしたら? 叫びを秘めた言葉をたどたどしくても口に出すこと。小さな声でもいい。そんなことを思い浮かべる。


 

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2009/05/26

「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」

 5月16日、沖永良部島で行われた「ゆいまーる琉球の自治」。南海日日新聞に記事が出ていた。

幅広い観点から島の未来探る
  沖縄への編入求める声も

琉球に住む人々が自治を自分たちの問題として考える「ゆいまーる琉球の自治・in沖永良部島」(特定非営利活動法人=NPO法人=ゆいまーるの自治主催)が十六日、知名町中央公民館であった。農業や道州制問題を含めて幅広い観点から「自治」の在り方を論議。
道州制が実現した場合、「文化などで共通するところが多い」として沖縄州への編入を求める声が多かった半面、「沖縄と一緒になるということは米軍基地を受け入れることができるようになるということ」と慎重な対応を要請する意見もあった。

 集会は地域を担っている人々の発言を受けて意見交換した。農業の可能性について発表した宮内茂喜さんは昨年、知名町役場を退職し、専業農家として再出発した。沖縄のフリーマーケット市場に進出したこと、ユリ球根を鉢植えにして商品化したことを報告、「モノを作って販売するまで自分で考え、道を開くことが大事」と述べた。
 Iターンで就農し十四年目を迎えた多田等さんは農地の確保や初期投資の大きさなど就農の問題点を指摘した上で「自分を知ってもらい、自分から地域に溶け込む努力をした」と報告。東山栄三さんはガソリンを例に、離島商工業の厳しい実情を指摘した。

 道州制問題は皆吉龍馬さんをはじめ多くの人が取り上げ、「沖永良部は文化的にも距離的にも近い」として沖縄州への編入を求める声が多かったが、ゆいまーる琉球の自治の松島泰勝理事長は「政府の提唱する道州制は沖縄に基地を押し付けるためのもの。沖永良部が沖縄になれば基地を受け入れることが可能になる。デメリットも考えなくてはいけない」と問題提起した。

 率直に言うと、農についてこうした議論のできる沖永良部島は豊かなのだと思う。それは永良部の力であり可能性だ。

 もうひとつ率直に言えば、沖縄への編入を求める声が多いというのは、むしろそうした率直さが生まれていることがぼくには新鮮だった。

 しかしそこでは覚悟を求められる。北を向けばそこはかとなき黙殺にあい、南を向けば覚悟を求められる。奄美とはそういう場所だ。帰属を求める限り、やっかい者にしかならない。ゆったり構えて、自立の道を探すしかない、のではないか。


 

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2009/03/21

奄美藩?

 日にちを間違えて、「あまん夕」に行きそびれている。 仕方ない。せめて奄美考。

 「経済危機克服のための有識者会合」で、中谷巌さんは「廃県置藩」を強調。

「廃県置藩」を強調したのは、中谷巌・三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長。中央省庁の機能や官僚を各藩に分散して地方分権を徹底し、本格的な地域おこしにつなげたい考えだ。(経済危機克服へ「廃県置藩」 民間エコノミストらが秘策提言

 日本社会の“健全性”回復のための 2つの提案(pdf)

 藩、という言葉には先入見でいい印象がない。けれど、全国を三百の藩に、ひとつの藩は四十万人の人口が目標、とあると、ちょっと足を止めたくなる。奄美藩、という発想が思い浮かぶから。

 道州制と言われると、浮足立って、奄美はどうなるのか心配になってしまう。沖縄は沖縄だけの単独州を志向するという声が聞こえてくる。すると、奄美は意思表示なく進めば九州(道)の端っこになってしまうか、分裂するかしかないのではないか。そう思うと、元気の出る像を思い描けない。しかし、ゆいまーる琉球自治の松島さんに、道州制自体は国の案であって、琉球にとってメリットがあるかどうかは吟味する必要があると指摘されると、そうだなと、うかうかと道州制の土俵で考えてしまっていたのを反省したことがあった(「沖縄道州制案の問題性」)。

 また、姫路の方は、道州制になって下関と北九州が分離するのはメリットはないと書いていて(「廃県置藩か道州制か」)、なるほど境界的不合理を感じるのは、与論、奄美だけではないのに気づく。

 しかし藩なら視点をミクロ化できる。薩摩藩なら、No Way!だが、奄美藩なら。奄美藩、ということなら、奄美として沖縄と鹿児島の交流拠点を担うことはできる。奄美の独立性を打ち出すこともできる。でも現在の12万人の集積では藩を形成するのは難しい。そうなったら、奄美の自治のための、奄美に帰ろう運動が必要になるだろうか。などと、「廃県置藩」からはそんな連想が過ぎる。



 

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2008/12/04

沖縄の経営者、単独州支持87%

 沖縄経済同友会の企業経営者の87%は、道州制での沖縄単独州を支持。

 経営者、単独州支持87% 沖縄経済同友会道州制アンケート

「東京と一緒になる」を支持したのは9%、「九州と一緒になる」は2%にとどまった。

 「九州」と一緒より「東京」と一緒のほうが上回るのはなんか分かる。

 奄美はどうするのだろう。少なくとも与論について言えば、ぼくは九州の最南端なんてなるのには希望が持てない。島の人はどう思っているだろう。



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2008/08/31

「沖縄単独州」を支持

 沖縄県が主催した「道州制に関するシンポジウム」で、「沖縄単独州」が支持されたらしい。

沖縄県主催の「道州制に関するシンポジウム」が23日午後1時半から琉球新報ホールで開かれ、約300人が参加した。道州制と沖縄の将来像について考えるのが狙い。沖縄を九州に入れるか、それとも沖縄単独州にするか、奄美大島と一緒にするかという3案があるなかで、国会議員・大学教授・弁護士の3人のパネリストは「沖縄単独州」を支持した。

1.沖縄を九州に入れる
2.沖縄単独州
3.奄美大島と一緒にするか
パネリストは沖縄の単独州を支持 沖縄県主催で「道州制に関するシンポジウム」開く

「奄美大島と一緒にするか」という表現の杜撰さは置くとして、よくみると、3人のパネリストが支持したのが「沖縄単独州」で、民意というのではない。

 これだけを見ると、琉球の歴史より沖縄は戦後の歴史に重きをおいて選択しているように見える。

 来年は薩摩侵略から400年目を迎える節目の年で、県民の間で沖縄の将来像についての関心が高まっている。

 でも、「薩摩侵略から400年」という問題意識のあるあたり、戦後に区切っているわけでもないのだろうか。ぼくは、奄美も含めた琉球州の可能性について、奄美でも充分に議論すべきだと思うが、今後の沖縄の動向に注目していきたい。


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2008/04/19

「奄美人の主体」の解体へ

 昇曙夢の『大奄美史』はまだ読んだことはありません。でも本人が『大奄美史』の「内容を省略した廉価本」として出した『奄美の島々・文化と民俗』は、幸いなことに父が遺してくれた蔵書のなかにあり、読むことができました。

 昇曙夢といえば、「日奄同祖論」を思い浮かべますが、その基本的な考えは、第二章第二節、「奄美人の主体」で開陳されています。

    二、奄美人の主体

 人類学者や考古学者の研究によれば、日本民族は単一の種族のみから成立っているのでなく、固有日本人を中心として、それにいくつかの先住民族の血液が混合されているとのことである。かって無人島であった日本に最初に渡って来たのが、現在北海道の一部に追込められているアイヌであった。アイヌは白哲人種の一つであって、いつとも知れぬ太古に西アジアから東進してシベリアの東端に辿り着き、今から三、四千年前に一部は間宮海峡を渡って日本に入り、一部は朝鮮海峡を経て本州全土に拡がり、南は九州の薩摩にまで延び、更に遠く奄美大島や沖縄まで移住したのである。アイヌの外に南洋方面からインドネシアンが海潮に乗って渡来したが、この種族は九州に渡る途中沖縄や奄美大島にも立寄ったので、その落ちこぼれがこれらの島々にも残っている筈である。

 しかしこれらの種族は決して日本民族の基本をなしているのではない。日本民族の主体をなしているものは、古代において支那の歴史に東胡と呼ばれていた大民族である。これは清洲やシベリアに占拠していて、古代支那を絶えず脅かしていた旬奴と同じ系統のものだと言われている。この種族の日本に渡来したのが、すなわち原日本人または固有日本人という学術名で呼ばれているも…のである。彼等の一部はアイヌとほぼ同じ時期に、やはり間宮海峡を渡って出雲を中心に植民し、最後に最もおくれて、朝鮮半島から対馬海峡を渡って九州に上陸し、日向地方を中心に勢力を張ったのがいわゆる天孫民族であろうと言われている。中でもこの天孫民族が最も優秀な智力と武力とを有する種族であって、その一部がわかれて遠く南の島々に渡ったのが奄美人や琉球人の主体であり、またその祖先である。

 勿論奄美人の体質中に先住民族、特にアイヌの血を多少共混じていることは争われないが、しかしこれはひとり奄美人ばかりでなく、アイヌを等しく先住民として有する日本人全体についても言われることで、奄美人や琉球人のみに限ったことではない。わが国人類学の泰斗坪井正五郎博士は言っている-

 「我等日本種族の中には少なくともアイヌ・馬来・朝鮮の分子があり、この三大分子の混じて組合わされたものがすなわち日本種族である。アイヌの分子は鬚髯多く、容貌アイヌに革似し、東北地方及び西南地方に比較的多く、朝鮮分子は主として顔細長く、蜃多からず、九州北部より日本海方面に多く、マレイの分子は頬骨高く、鬚髯また少なく、近畿・四国・九州地方の太平洋岸に比較的多い。ただ爰に注意すべきは、その温種別合いに二分八分、三分七分等の割合いはあろうが、直ちに或る特定の人を指してアイヌなり、マレイなりと断定することは誤である云々。」
 

 いずれにしても奄美人の主体が固有日本人であり、特に最後に渡釆した天孫民族の子孫であり、その一支族であることは間違いなく、これについては明治廿七年沖縄に出張して、種々の方面から琉球を研究した帝大講師チャンバレン氏も言っている -

 「彼等(日本人と琉球・奄美人)の祖先は昔て共同の根元地に住んでいたが、紀元前三世紀の頃大移動を企て、対馬を経過して九州に上陸し、その大部分は道を東北に取り、行く行く先住民を征服して大和地方に定住するに至った。その間に南方に彷径しっつあった小部分の者は、恐らく或る大事件のために逃れて海に浮び遂に琉球諸島に定任したのであろう。これは地理上の位置に於ても伝説の類似に於ても、又は言語の比較に於ても容易に立証することが出来る。」

 その他体質人類学、言語学、民俗学、血清学の上からも、また手掌理紋や古人骨や石器の研究からも、日本民族と南島民族の同根同族であることが明らかに立証されているが、ここでは省略することにした。(昇曙夢『奄美の島々・文化と民俗』1965年)

 「日奄同祖論」は、伊波普猷の「日琉同祖論」を下敷きにしているでしょう。「日琉同祖論」が、琉球人は日本民族と祖先を同じくすると主張しているとするなら、「日奄同祖論」は同じように、奄美人は日本民族と祖先を同じくすると主張するものでした。

 いまでは学問の世界では「日琉同祖論」は批判つくされているそうですが、その延長に「日奄同祖論」を批判したいのではありません。「日琉同祖論」も「日奄同祖論」も、それ自体は当たらずとも遠からずと思って済ませてきました。ぼくはそれより、「日奄同祖論」が奄美で持った意味のほうに関心を持ちます。

 昇の「奄美人の主体」を読むと、随分と差別的な内容で戦前の国家主義の環境下にあって書かれたものではないかと想像しますが、そうではなく、この本が出版されたのは昭和三十三年、1958年です。1958年といえば、戦後であることはもちろんのこと、復帰して5年gが経過しています。昇は「奄美大島日本復帰対策全国委員会」の会長も努めていました。つまり、「奄美人の主体」は、復帰運動の思想的なバックボーンとして作用し、復帰後にも昇のなかで生きたということです。

 ぼくはそのことに驚き、躓きます。戦前の国家主義の名の下に展開されたかのような思想が、戦後の復帰運動に機能したということなのですから。本土は戦後でも、奄美はこのときまだ戦時下にあったという見方もできますが、国家主義的な思想が復帰運動のバネになったということは、奄美のこれからを考える上で立ち止まって考え直してみる価値があると思います。ぼくたちがいるのは、復帰と地続きの世界に他ならないからです。

◇◆◇

 昇の言う日本民族は、単一ではなく、先住民族の存在があり、それとの交流のなかで培われたものだとしているのが特徴です。決して単一民族であると強弁しているわけではありません。しかしその代わりに、日本人のなかには「固有日本人」があり、それが日本人の主体をなしていると言います。そして、奄美人の主体も「固有日本人」に他ならない。それが昇の「日奄同祖論」の骨格です。

 現在もぼくたちがいる復帰後の世界で、その復帰の思想的バックボーンをなしたのが、この「奄美人の主体」という考えであったなら、ぼくたちが奄美の未来を構想するときに、まず乗り越えていかなければならないものもここにあると思います。ただ、それは難しいことはではなく、種族間に優劣を持ち込むのは誤りである、と指摘すれば済むと思えます。

 だいたい「落ちこぼれ」と言われると、顔立ちからいってぼくもその「落ちこぼれ」のひとりと思ってしまいます。それに、昇さんの顔だって、

Photo_3













言うところの「おちこぼれ」系、奄美の非主体の側の顔立ちですよ、と言いたくなります。これは意地悪ですが、昇さんが主張している蔑視の意地悪へのささやかなお返しです。

 自分の血のなかには、優性と劣性が混じっているという自己認識はきついものであるに違いありません。こんな自己認識は、自己嫌悪、自己侮蔑を招かずにおきません。そして、この自己嫌悪、自己侮蔑は容易に他者への嫌悪、侮蔑に転化して表出されるでしょう。

 ところで、奄美をめぐる言説を辿ってゆくと、「違う」という主張が多いのに気づきます。曰く。奄美と沖縄は違う。北奄美と南奄美は違う。いや同じ島の中だってシマごとに違う。その厳密な差異の説明を学びながら、ふと、こんなに似ている者同士、どうしてこう、「違う違う」とばかり、差異を強調するのだろう、と不思議になることがあります。

 奄美が自己形成過程にあるからと理解すればいいでしょうか。それなら、自己形成過程においても、自己嫌悪、自己侮蔑的な自己認識はないほうがいいに決まってますから、昇の「奄美人の主体」を過去のものとすることは大切な作業であるに違いありません。

 日本人も琉球人も奄美人もアイヌ人も優劣の差はありません。そもそも日本民族という概念が、国家としての日本を前提にしたもので、だから日本国家を成立させた政治勢力の種族が、優勢であるかのような仮象を生むというに過ぎないでしょう。素朴にいって、「先住民を征服」するのを「優秀」と見なすのには頷くことはできません。

 ぼくたちは、奄美人はどんな人々から成り立って、どんな世界観を築いてきたのか。それを、種族間を等価と見なしながら、奄美人とは何者か、奄美とは何かを明らかにしていくことが、「奄美人の主体」の向こう側へ行くことだと考えることができます。



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2008/04/17

琉球と大和の二重意識

 奄美とは何か。そのことをずっと考えてきました。

 ぼくは、奄美の困難を、二重の疎外と考えてきましたが、それは薩摩の琉球侵攻以降に始まったものではなく、大和朝廷勢力の南下の折に胚胎され、薩摩の琉球侵攻以降に完成したと捉え直しました。

 二重の疎外は、現在も奄美の困難として生きていると思えますが、いま、困難をそれによって生きる奄美人の所与の条件だと見なしてみます。そう見なすと、奄美とは琉球と大和との交流拠点であると素描することができます。

 大和が南下したとき、琉球弧のなかでその交流拠点となったのはどこよりも奄美でした。交流は局所的であったり断続的であったりのゆるやかなものでした。ついで王国としての琉球が北上したときに、交流は希薄化したかもしれません。しかし、それは薩摩藩の琉球侵攻以降にさらに本格化しました。これらの交流は、特に薩摩としての大和が覆いかぶさった期間、激しい痛みを伴うものでしたが、奄美の島人はその美質を失わず、よく生きてきました。

 いまも、琉球か大和か、それが問われる場面では、奄美はどちらにするのか、まるで二者択一の選択肢として現れるので、そのアイデンティティは浮遊せざるをえません。その浮遊感は、自信の無さに結びついたり、優しさとして表出されたりしてきました。また、奄美は大和であるという主張も、奄美は琉球であるという主張も生んできました。これは、共同観念に成長していない以上、他者の見なしに対する反論という形を取らざるをえませんでした。

 奄美とは何か。それは、琉球と大和の二重意識のことです。

 奄美は、亜熱帯ヤポネシアの北部地域に位置し、高島から低島への幅と、森から珊瑚礁までの幅を持っています。そしてその幅は、中南部琉球弧へと反復されます。そして、この振幅のグラデーションは、意識のなかでは、琉球と大和の二重意識のグラデーションとして表出されてきました。この二重意識は、大和にもない琉球にもない奄美固有のスタイルをなしています。

 奄美は、この二重意識を基盤に、琉球と大和の交流拠点を担ってきたのです。




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2008/04/16

沖縄アイデンティティ0%超50%以下地帯

 昨年、奄美とは何かと問うてみて、ひとまず「真珠とガラパゴス」と書きました。ただこれは、高島から低島まで、森から珊瑚礁までの自然の幅を表現したもので、本質的な答えにはなりません。これをひと言で言おうとすれば、たとえば、北部亜熱帯ヤポネシアなどと言うこともできるわけですが、これもことの本質を言い当てていることにはなりません。

 むしろ、奄美とは何かという問いに本質的に答えようとすると、自然環境に拠ってしまうところに、らしさが現れています。なぜなのか。それは、問いに本質的に答えるための内在的な素材が希薄だからです。触れるべき内在性が不足しているということ。そしてそれは、奄美が文化的な蓄積を育む環境に無かったことが最大の理由だと考えます。生産物の収奪と古文書の没収は、奄美が、自分たちの歴史を足がかりにしながら新しい何かを付加していく力を著しく損ねたと思うのです。

 奄美とは何か。それに答えるには、答えるための材料に乏しい。そうであるなら、その結果、奄美人はどんな意識構造を持っているのか。そういう問い方をしてみます。

 奄美人のアイデンティティの信憑のひとつの形は、

 奄美は沖縄ではない

 という形をしています。けれど、それだけでは収まらず、この信憑はその反動のように、

 奄美は沖縄である

 という逆の信憑も生んでいます。

 と、ここまでくると、これを「奄美」という表現でくくるのは抽象的になってしまうので、もう個別の具体的な島名で表現するのが妥当に思えてきます。

 たとえばそれは、

 奄美大島は沖縄ではない
 与論島は沖縄である

 という形をしています。

 もちろんこうしても、奄美大島人の全体が、「奄美大島は沖縄ではない」と考えるわけではないし、与論島人の全体が「与論島は沖縄である」と見なしているわけでもありません。

 するとむしろ、

 奄美は、沖縄から鹿児島までである

 と、これまた幅で言うしかないことになります。
 この幅はアイデンティティを捉えたものですが、それなのに「奄美は沖縄と鹿児島の間にある」という地理的な表現と同一になるところ、ここでも奄美らしい落ちに出くわします。

 ところでここで言う沖縄とは県としての沖縄というより、琉球と言っても構わない文化圏としてのそれを指していると捉えて、沖縄アイデンティティといえば、奄美とは、沖縄アイデンティティ0%超50%以下地帯と言うことができます。

 (奄美アイデンティティ)  0%<(沖縄アイデンティティ)≦50%

 0%以上ではない、0%超。奄美は、沖縄アイデンティティが潰える場所ではないから。もうひとつ。50%以下は、50未満ではない。半分以上、沖縄アイデンティティであるという信憑もあるからです。

 この表現もまた奄美の本質的な表現にはなりえませんが、ひとつの補助線として引いておきます。




 

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2008/04/15

山之口獏の「会話」のつづき

 奄美のアイデンティティを考えると、山之口獏の詩「会話」を思い出します。

  会  話

お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ

ずつとむかふとは? と女が言った
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、龍舌蘭と梯梧と阿且とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被って寄り添うてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語ほ通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!

亜熱帯

アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見連が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所
(山之口獏「会話」1938年)

 よく知られている詩「会話」は、好奇心と蔑視の餌食になりたくないために、出自を隠す沖縄人のアイデンティティのありかをよく物語っています。山之口によれば、この詩の発端にはこんなエピソードが控えていました。

 ゴンドラではこんなことがあった。ある役人(ゴンドラの常連)が、沖縄へ出張したが、帰って来てのみやげ話を、ゴンドラでした。「酋長の家に招かれてバナナだのパパイヤだの、泡盛だのを御馳走になって大変な歓待を受けた」というふうな話し方なのである。
 ゴンドラの女将さんはもちろんのこと、ぼくの恋人であるその娘も、そして沖縄人であるぼくも、それをきいているのである。女将さんや娘は、珍しそうに、目を輝やかせて沖縄の話をきいているのであるが、困るのは詩人のぼくなのであった。ぼくにはそのころの詩で「会話」というのがある。(「ぼくの半生紀」『山之口獏』所収)

 これは昭和11年、1938年頃の話です。当時の山之口は「僕の女」にすら言えないというほど、アイデンティティに悩んでいました。そしてその後もこの型のエピソードは再生産され続けます。ぼくも、随分ゆるやかになったとはいえ、鹿児島に転校したとき、同級生に「あそこは何語を話しているの?」という悪意のない質問を受けたものです。近代期南島の島人はこれと似た場面にどこかで出くわし、同じような、あいまいな答えをした心当たりがきっとあるのではないでしょうか。

 そのことを糾弾しようというのではありません。こんなエピソードは、自分の加害の立場になるときがありうる内省なしには、正当に言及できないと思います。ぼくもどこかで誰かに我知らず逆の立場を演じたことがないとは言い切れない気がします。

 ぼくは、この「会話」という詩にあるシンパシーを感じてきました。それというのも、ぼくも、「お国は?」と聞かれて、「ずっと南」とか「亜熱帯」とか「沖縄の方」とかあいまいな言い方を繰り返していたことがあるからです。

 でも理由は、山之口のように、「沖縄」と名指されたくなかったからではありません。与論が「鹿児島」であると見なされたくなかったからです。「あそこ鹿児島なの?知らなかった」という認識されるくらいなら、「沖縄」的であるという行政上の所属は誤解だけれど、文化的には正解のまま漠然とした理解でいてくれたほうが、アイデンティティの居場所を見いだしやすいのです。それだから、後年、与論がリゾート地として脚光を浴びたのに乗じて「ヨロン」と記号化されるや外国の島と見なされたり、昨年の映画『めがね』で、「どこかにある南の島」と住所不明のように扱われたりすることに、むしろ心地よい座りのよさを覚えてきました。

 しかも、山之口のように「沖縄」が表面化されるのを恐れることはなく、「与論」は明示したい強調したいポイントでした。ぼくの場合、与論が所属する場をめぐって、山之口の「会話」が反芻されたわけです。もちろんそれは、「与論」に対する本土からの視線がリゾート地への憧れ含みになっていたから表明できたということに過ぎず、構造としては、「会話」の続きであることに変わりないと思えます。「会話」の悩みを引きずっているわけです。

 ところでこの感じ方は与論一般ではないでしょう。ぼくの弟たちは与論生まれですが、こうしたこだわりは理解できないはずです。理解できないというより、こうしたこだわりのきっかけが彼らには訪れなかったでしょう。だから、ぼくも弟たちにぼくの感じ方が妥当であると主張することもありません。

 それに奄美一般からすれば、ことは逆で、むしろ奄美は鹿児島であることを強調するほうに傾いているのかもしれません。ぼくが、与論は沖縄と漠然と見なされることを期待したとすれば、その漠然とした理解に楔を打ち込むように、奄美は沖縄ではない、鹿児島であるという主張が成り立つわけです。これは人々の漠然とした理解を誤解として退けるために、珍しく自己主張する必要がありました。

 この、奄美は鹿児島であるという主張と、奄美は鹿児島ではないとする見なしは、考えてみれば、奄美の二重の疎外が生み出すアイデンティティの二重性です。大和と沖縄に引き裂かれるという構造が存在する限り、アイデンティティはこの二つの類型を析出せずにおきません。

 この居心地の悪さを、従来、奄美人は、大和人になることで、そして近代以降は、奄美人の琉球的な母型を自己否定して日本人になることで解消しようとしてきました。しかしそれは自己喪失に他なりません。自己否定して大和人・日本人になるのは解決ではありません。

 ぼくの考える二重の疎外の脱出は、外に脱出口を見出すのではなく、内を掘ることに糸口を持つと考えます。

・奄美を内在的に語ること。
・奄美と沖縄の同じところを明らかにすること。
・奄美が大和との交流で果たしてきたことを積極的に評価すること。

 奄美の内実を豊かにすること。奄美の内部が満たされれば、語るべきことが生まれ、外への連結手も自然に伸びてくると思えます。それが奄美のアイデンティティを安定的にする方法ではないかと思います。

 山之口獏の詩から七十年経って、ぼくたちは彼の悩みは半分、終わっていると言うことができますが、もう半分は「会話」の続きの話をつくっていかなければならない気がしています。



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