「銀河と夜景」、「亜熱帯と都市」、「雨乞いとインターネット」と、少々強引と思われるようなつなげ方で、与論島と東京または都心的なものが似ていると見なしてきたのだけれど、それはこんな風にも言えると思っています。
1.都市空間や都心的なものが進展すればするほど、琉球弧の過去を遡行するように両者の世界が接近する。
そして、これとは別に与論島や奄美・琉球弧について、ぼくはこんなことをこのブログで考えてきました。
2.与論(奄美・琉球弧)は国家をつくる必然性を持たなかった地域だ。誇るなら、そこを誇りたい。
3.与論(奄美・琉球弧)には、人間が動物や植物などの他の存在と「同じ」だった時代の感覚が息づいている。
4.与論(奄美・琉球弧)を救うのは、「贈与」の論理だ。
ただ、ぼくにとって、これらのことはつなげたいけれどどうつなげればよいか分からないことどもでした。
◇◆◇
こんなことを書くのは、これらがひとまとまりになった言説に出会ったからです。
たとえば、こう、あります。
神話的思考の優しさや思慮深さを見てきた私たちは、そこでつぎのように問うことができます。神話の思考は、流動的知性=無意識の働きを直接に反映してつくられたものであることによって、人間に深い思慮と動物や弱者にたいする思いやりのある態度を生み出すことができたのです。しかし、現代人がもはや神話の思考に立ち戻ることなどは不可能なことですし、資本主義を捨て去ることもできないし、国家以前の状態にいきなり戻ることなども不可能なことです。それならば私たちは、回帰するのではなく、前に進んでいくやり方で、現代世界が陥っている袋小路から抜け出す道を探さなくてはなりません。はたして、そんなことは可能なのでしょうか?
私の考えでは、ただひとつだけ可能性のある道があります。それは、現生人類の(徴)でもあり、その「心」の基
体をつくりなしている流動的知性=無意識の中から直接出現する、新しい知性の形態を創り出していくことです。私はそのような試み自体を、あらためて「対称性人類学anthropologie synmetrique」と名付けようと思います。
かつては神話が、そのような対称的知性の一形態でした。そして、「構造人類学anthropologie structurale」がそのことをあきらかにするための、現代人の強力な知的武器となりました。私たちはいま、その構造人類学の先に出て行こうとしています。神話的思考や宗教や経済活動の内部で、いったいどんなふうにして無意識が作動しているのかを、徹底的に調べあげることによって、高度に発達した技術と資本主義の社会で「よい働き」をすることのできる、かつての神話とは違った新しい知性の形態が生み出されるための条件を、この対称性人類学という学問をつうじて、探っていってみようと思うのです。
「対称性人類学」とは難しい言い回しですが、「同質なものとしてつながりを見いだす」人類学とても言えばいいでしょうか。そして、「同質なつながり」とは、ぼくたちに馴染み深いと考えてきた、人間と植物、動物が「同じ」であるとしてつながりを見いだすことを指しています。
同じであるという感覚はこんな風にも語られています。
先住民の儀礼から一神教の宗教にいたるまで、こういう実例は、枚挙にいとまがありません。どの体験を観察しても、そこに対称性の思考や無意識の働きが関与していないものを見出すことはできません。愛犬をかわいがっている都市生活者が、自分のことを信頼感をこめて見つめる犬の眼を見て味わっている幸福感は、「人間と動物とは昔兄弟だった」と神話を語りだしている狩猟民が、原初の時間に思いをはせながら感じていた至福の感情と、同質のものを持っています。それはさらに、神と人間とのあいだの絶対的な距離を強調する一神教において、神秘家の存在を神の愛の火が破壊し包み込んでいるときに、神秘家が法悦として感じ取っている感情を生み出している構造と、まったく同じ本質を持っています。耐え難い苦痛のなかで、比較を絶した至福感がわきあがってくるのです。
どの場合でも、「心」のなかで対称性無意識の働きが、分離された世界で失われた感情の通路を、ふたたびつくりだそうとしています。宗教においても、日常生活においても、幸福感と対称性は一体です。これまでにもたくさんの「幸福論」は書かれてきましたが、対称性の視点から幸福を論じたものは、ほとんどなかったと言ってよいでしょう。しかし私たちの「魂」の秘密に触れている文化のすべてが、そのことに関わっています。そして、そのなかでも芸術は格別な地位を占めています。
「人間と動物とは昔兄弟だった」というのは、アマンを先祖とみなすぼくたちの祖先と同じ感覚のことを指しています。
その世界では、国家を持つことはなく、人はいつでも無意識の世界と交流することができました。
国家を持たない人々の社会では、「心」のマトリックスをかたちづくっている部分の働きが、社会の表面にまで躍り出して、豊かな活動をおこなっていました。そのひとつの表現のかたちが神話や儀礼でした。そういう社会では、現実の生活を導いている非対称性の論理の働きと、「時間と空間がひとつに溶け合う」神話的な対称性論理の働きとが、バイロジック的に結合した作動をおこなっていたために、人はいつでも簡単に、自分の「心」のマトリックスである無意識に入り込んでいくことができたのでした。
またその世界では、贈与価値が支配的でした。
歴史的には交換よりもずっと早く出現した贈与は、本質的な点で対称性の原理と深く結びついています。贈与は等価交換ではありませんし、贈与される物の「価値」はたんなる貨幣価値に換算できるようなものではない、と考えられています。それは贈与で発生する「価値」が、商品としての使用価値ばかりではなく、それを贈ることで得られる社会的信用とか、獲得される名誉とか、贈り物にこめられる愛情などのようなたくさんの「価値」を「圧縮」して、ひとつの贈り物につめこもうとしているからです。そのため、貨幣価値は一次元の数億で表現できますが(たとえば苛のような形で)、贈与される物に込められている「価値」は多次元的(高次元的)な性質をもつようになります。そこで贈与では交換とちがって、図のような多次元的な関係をとおして、「価値」が発生することになるわけです。
贈与はまた、贈る人と贈られる人とを、贈与物を媒介にして人格的に結びつける働きをします。よい贈り物ならば、それを受け取った私たちは、贈り主の愛情や思いやりなどその人の人格の一部が贈り物に付着して、私たちのもとに届けられるような気がします。昔の人たちは、そういう場合に、「贈り物には贈る人の魂が付着している」などと表現して、ゆめおろそかな気持ちでは贈り物などあげなかったし、受け取りもしませんでしたが、その原因は贈与が人と人、集団と集団をたがいに結びつける力をもっていたからです。そのために、贈与には喜びや感動や愛情や信頼など、強いエモーショソ(情動)がかき立てられることがしばしばです。
そのため贈与をとおして成立した信頼がいったん裏切られたとき、たがいのあいだに何もないときには発生しょうもないほど強烈な憎しみの感情がかきたてられることになります。愛情関係のもつれは、たいがいそんな風にしてこんがらがっていくようですよ。
ところが「交換」価値が入ることによって、世界の何かが変わります。冷たく、なるのです。
それにしても、経済の鎮域でも神の領域でも、〈一〉の原理とでも呼ぶことのできる特別な原理がとても大きな働きをしていることを、お気づきになったことと思います。〈一〉の原理が登場してくると、それまで対称性の論理にしたがって動いていたものが、またたくまに非対称な関係につくりかえられてしまうのです。
たとえば、長いこと人間の相互関係のおおもとをなしてきたのは、贈与の原理でした。それは対称的経済関係としての特徴を持ち、ものごとの「価値」を多次元的に決定するデリケートなメカニズムが、人々のあいだに精妙な贈与関係を打ち立ててきたのでした。ところが、そこに〈一〉の原理が忍び込んでくると、たちまち対称性にもとづく贈与関係に変質がおこってしまいます。それまで多次元的に決定されていた「価値」が、単一の価値尺度に還元されて、数で数えられるものにつくりかえられてしまうのです。その瞬間、いままで贈与関係によって結びつけられていた人々のあいだに、冷たい空気が入り込んできて、たがいに結びつけられていたものが分離を体験するようになります。贈与が交換につくりかえられる瞬間です。
こうして生まれた交換と昔ながらの贈与は、長いことバイロジックの関係を保ち続けていました。
ところが、交換の中から出現した貨幣が、社会の全域に行き渡るようになると、交換は贈与の関係をいたるところで破壊して、経済の領域での覇権を握ってしまうことになります。社会の重要な部分が、すべて交換の原理で作動するようになったところで、おもむろに資本主義が登場してきます。資本主義は〈一〉の原理が経済の領域で覇権を振ったことによって、はじめて可能になったメカニズムなのです。
では、対称性人類学の目指すものは何か。
流動的知性=対称性無意識は、私たちの「心」の内部で、いまだに変わることのない働きを続けています。あらゆる領域の形而上学化が進行していって、いまやそれが社会生活や個人の心的生活の深いレベルにまで及んでいることが感じられる今日にあっても、ホモサピエソスである私たちの「心」の基体には、いまだに致命的な損傷は加えられていません。
形而上学化の運動によっては損傷を加えることのできない、高次元的なトポロジーとして、無意識が活動しているからです。すっかり変化してしまったのは経済のシステムや社会の構成原理ですが、それによって社会の表面からは隠されていってしまったとはいえ、「心」の基体をなす対称性無意識の作動は、依然として私たちの「心」の見えない場所で活発に続けられているのです。私たちの「心」の中で古代は生きているとも言えるでしょうし、変装した野生の思考が思いもかけない分野で活動しているのを、人々が気づいていないとも言えるでしょう。
それを引き出してくるのが、対称性人類学のつとめです。私たちは後ろ向きの、過去にノスタルジックな視線を送るような学問をめざしているのではありません。すっかり形而上学化された世界の中に、生きた野生の思考を取り戻すとは、流動的知性を本質として対称性の論理で動く無意識の働きに、創造的な表現の形を与えることにはかなりません。そういう創造的な知性の働きとして、対称性人類学は構想されています。
この「対称性人類学」の構想を思い切り自分に引き寄せれば、未来に琉球弧の原型のエッセンスを見ることに他なりません。ぼくは、この言説を読みながら、自分がしたいと思っていることは、「対称性人類学」なのか、と思ったくらいでした。
◇◆◇
ぼくは、マルクスの自然哲学をベースに、人間と植物、動物を同質に見なした与論(奄美・琉球弧)での世界との関係の仕方を、
人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。
と整理し、一方、第三次産業が主体となる都市の人間と世界の関係の仕方を、
人間は、全人工的自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
全人間は、人工的自然の「像(イメージ)的自然」となる。
と考えました。
※四つの段階と人間と自然の関係
そしてここで面白いのは、第一次産業以前の第零次の世界と第三次の世界の関係式が共鳴しているように見えることでした。
ぼくはこれを、時代の進展とともに、第零次と第三次が共振の度合いを深めると見なしてきました。与論島と東京はどこかで共振していると思ったのです。
ただ、そうなるだろうと思いはしても、どうなるのがよいのか、そのことはなかなかつかめずにきました。それが、「対称性人類学」を見ると、未来に琉球弧の原型を蘇生する、というように読めるので、ひとつのベクトルを得た気がしたのです。
この、「対称性人類学」の視点は、もう少し追っていきたいと思っています。
ところで、『対称性人類学 カイエ・ソバージュ』
は、中沢新一の作品です。

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