« 「シマ/島」への復帰 | トップページ

2025/06/20

『世界の土偶を読む』

 竹倉史人の『世界の土偶を読む』は、土偶のつくられた先史時代はアニミズムの世界であると主張するが、解釈は近代以降に顕著になるナチュラリズム(自然主義)の範囲を出ない。本書の言うアニミズムは装いであって、存在論的にはむしろナチュラリズムの延長にある。

 象徴的なのが、著者が主張する「公理X」である。

 公理X
 身体を持つものには二種類が存在している。
 ひとつは〈最初から人体を所有するもの〉、
 もうひとつは〈人体化の作用によって人体を獲得したもの〉である。

 この構文は、人間と非人間とのあいだに区別を設け、「人間」は最初から「人体」を所有するものとしての地位を与えられている。一方で、それ以外の存在は、「人体化」の作用によって意味ある存在となる。「人体」を所有するものには「神霊」が含まれているが、それもまた人間の思考の産物であり、人間の中心性は変わらない。これは、事象を「文化」と「自然」に分け「文化」を上位に置き、意味や象徴の源を「人間」に一元化するナチュラリズムの思考の型そのものである。

 竹倉は、従来の「擬人化」という語が都市生活者になじみのある観方であるとして、避けようとする。「メタヒューマン」というメタ概念を設定し、あらゆる存在がそこに収斂していく構図を描くことで、「擬人化ではない」とする立場を構築しようとする。メタヒューマンのもとでは、人間を含めすべての存在は人間なのだから、そこに「擬人化」は成立しないとするのだが、それは言葉遊びというもので、動植物を含めて人間とする見方は「擬人化」の拡張であり、ナチュラリズムは相対化されない。
 竹倉はアニミズムを「観測される事象を人格や人体を伴ったものとして認知するような実践的行為」としているが、これはアニミズムを「人間の認知の操作」に還元するものであり、フィリップ・デスコラの定義―「身体は異なっていても内面は連続している」という関係論的存在論―とは異なっている。デスコラのアニミズムでは、非人間的存在はすでに人格を備えた対話可能な他者であり、そこに「人体を付与する」必要はない。竹倉の定義は、アニミズム的世界観の見かけを取り入れながらも、その象徴操作の主体を人間に固定する点で、ナチュラリズムのなかにある。

 たとえば、著者は新石器時代のフィギュアを「発芽したムギ」の人体化と捉える。ここでは、人間が、ムギを人に見立てて意味を与える主体であり、ムギの側に内面や自律性はない。これは、対象が自ら顕現する存在ではなく、人間によって意味化されるモチーフとして扱われている点で、極めてナチュラリズム的である。旧石器時代のフィギュア像についても同様であり、そこに「オークの精霊像」を見出そうとしても、解釈の視座は「人間がそう見た」という場所にとどまっている。

 「人体を所有するもの」と「人体を付与されるもの」とを分ける二項そのものが、ナチュラリズムの構造をなしており、主張されるアニミズムも汎人間中心的なナチュラリズムの思考の反映に見える。新石器時代のフィギュアに「発芽したムギ」を見るのは手応えを感じる一方で、その製作者が近代人と同じく「人間」に主体を置いているの想定に躓く。
 ここは
本来、人体をあらかじめ所有するものと、人体を付与されるものという二分があるのではなく、人体をあらかじめ所有するものはないという前提からスタートする必要がある。人体を所有しないものが、「発芽したムギ」の形を経て人体化の作用を受けている。このように解すれば、旧石器時代のフィギュア像についても、人体化の作用を受けつつあるものとして別の解釈へと、つまりナチュラリズムではない観方を拓くことができる。著者は、「現時点において本書が提示した仮説以上に、 新石器時代フィギュアの形状を合理的に説明するものは存在していないし 、今後も存在し得ないであろうと私は考えている」と書くが、もちろんそんなことはないのである。

 

|

« 「シマ/島」への復帰 | トップページ

コメント

この記事へのコメントは終了しました。