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2021/12/15

「精神の考古学」(中沢新一)

 久しぶりに書店を覗いたら文芸誌に中沢新一の連載が開始されていて飛びついた。「精神の考古学」と題されている。

アニミズムの世界では、人間と人間ではいものは互いに分離されない。人間は自然物や動植物の領域につながりを持ち、他者の領域に生成変化をおこすことも可能である。他者の領域でも同じような生成変化が生じているために、アニミズムの世界ではあらゆる存在が相互に嵌入しあっている。そこではどんな個体も自分の確たる境界を持たないので、「わたし」は周囲の世界に曖昧に溶け込んでいる。

 このような流動性をそなえた個体が社会を形成するためには、「トーテミズム」のシステムが必要である。自然物と動植物の世界(非人間の世界)は、色彩や形状や生態の違いを観察することによって、明確な区別(分別)を持つ。この非人間の側の非連続な区別を、人間の社会の区別に利用するのが、トーテミズムである。

 こういう社会で「わたしは鸚鵡だ」と先住民がいうとき、それがその人のトーテミズム的な社会的帰属の場所をあらわしているのだとしたら、鳥社会の分類と人間社会の分類を重ねて、比喩でつないでいることになるから、ここにはまぎれもない「象徴的思考」の萌芽を見てとることができる。しかしこの象徴的思考の背後には、アフリカ的段階のアニミズム的思考が貼り付いている。「わたしは鸚鵡に生成変化する」「わたしは鸚鵡のなかに入りこんでいる」「鸚鵡がわたしのなかに生きている」などの、象徴や記号による思考法とはまったく別の非象徴性知性があって、それがトーテミズムをのちに出現する象徴的思考とは異質なものにしている。

 ぼくはここ数年行ってきた探究の内実をトーテミズムと呼んでいいのか、少々ためらいがある。それは今日言われるような「比喩」ではない。トーテミズムは「比喩」という定義で収まっているとしたら、別の命名が必要になるが、しかしそれは「わたしは鸚鵡だ」と言う言明に内実を与えるものなので、比喩としてのトーテミズムとも深いつながりを持っている。

 言ってみれば、原トーテミズムあるいはプレトーテミズムということもできるが、この言い方では、現在定着しているトーテミズムの定義を前提にして、それに対する位置を指示することになる。ただこんどは現在の概念を起点にガイドすることにはなっても、人類史のなかに位置づけるのに妥当かどうかが問われることになる。

 中沢の言い方も繊細なところを巡っていて、トーテミズムは比喩だが、その背後には「非象徴性知性」がある、としている。いまのところぼくは、新しい命名をするよりは、トーテミズムを「比喩」から解放することに軸足を置くほうへ考えが傾いているが、「精神の考古学」は、この自己問答に応答するものがあるかどうか。久しぶりに文芸誌を定期購入することになるかもしれない。


「新潮 2022年 1月号」

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