映画『生々流転』(仲程長治)
氏族の呼称でも比喩でもない、「生命の源泉」としてのトーテムとのあいだのトーテミズムは幻想ではないと言おうとしている者にとっては、仲程長治の『生々流転』は、まさにトーテムとその化身たちの世界だった。ほらここに、ね、と言いたくなるような。
しばしば映画の背景に流れ、石垣金星さんも唄う「井戸ヌパタヌ小蛙誦言」は、トーテミズムの段階から継承されたものとして筆頭に挙げられる曲だ。
井戸ヌバタサヌ アブダーマ(井戸端の水溜まりにいる 小蛙に)
バニバムイ トゥブケ(翅が生えて 飛ぶまで)
バガケラヌ生命(わたしたちの命)
島トゥトゥミ アラショウリ(島とともに あらしめてください)
その世界をこのうえない色で見せてくれる。インタビュアーの声はなく、インタビュイーの声だけがあり、捉える視線ではなく、見られるカメラ視線というような位置取りで、見る者は知らず知らずのうちにこの世界の一員になっている。ドローンで俯瞰した美しい光景を見ることはできるが、ドキュメンタリーといっても、外側から客観的に眺める視線はない。それが心地よくもあれば、都市のなかにいて島にいない自分を不思議にも思わせた。
仲程語彙の「生々流転」に仏教的な色合いはない。スデル(変態、脱皮)して現れ出ずにはいられないという、あふれんばかりの生命の流動なのだ。写真集『母ぬ島』があり、やんばるアートフェスティバルでの「繭-蛹」、そして「蝶の人」のオブジェ(名称はぼくの印象)があり、この作品へといたる。この映画もまた、こういうのが観たかったと唸らずにいられない。
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