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2021/06/12

「沖縄における〈非時間性〉」(具志堅邦子)

 副題に「国民年金納付率と参与観察をもとに」とあって、「国民年金」の話ならと避けそうになったが、読んでみるととても面白かった。

 具志堅によると国民年金納付率の低いワースト10の自治体はすべて「沖縄」(奄美を含む)が占めている。これは都市化や経済的格差が原因とは見なされない。そうでないとしたら何か。ここで具志堅は、「夫来という時間意識自体が未成熟なのではないだろうか。そのために未来へ投資することが了解不能なのではないのか」という仮説を立てる。国民年金の納付率は、「沖縄の社会に横たわる非時間性を露出させてしまった」のだ。

奄美諸島から八重山諸島にいたる沖縄の社会は、非時間性を内包した社会であるというこ とがいえるであろう。そのために、未来という時間意識の形成は、未成熟なままにとどまっているのである。

  たとえばバス停では、

地元の利用客たちは行列を作らずベンチで待っているだけだった。通常、並ばずともそれなりの秩序があって、先に乗る者、後に乗る者が暗黙のうちに決定されている。この日は長蛇の列がすべて乗り終えてから、地元客が乗った。

 「白保の旧盆行事」でも非時間性は露出する。

獅子はメタモルフォーゼのための媒体であった。獅子に入るとき、彼らは変身する。獅子を通過することによって、日常性から非日常性の存在へ変身するのである。

 エイサーもそうで、「国民年金納付率の低い地域ほど芸能としてのエイサーの〈切れ〉は鋭く深いのである」。「エイサーという芸能が来訪神信仰を根強く残している芸能ではないだろうか」。

 わたしには、これはどれもそうだと思えた。それと同時に短めの文章でもあり、飛躍も感じられる。ただこれは批判ではない。わたしもよく「飛躍」を指摘されるが、飛躍しているつもりはないので小さく驚くことがあり、具志堅の物言いがわたし自身の飛躍を照らしているように感じられてくる。言ってみれば、飛躍は非時間性への即接続のことだ。

 この小論は、彼我の距離を言い当てていると思う。これは「近代の側から沖縄が語られるのではなく、沖縄の側から近代を語る試み」ともされている。「沖縄の側から」というのはわたしもそうだ。わたしの場合、「沖縄の側から」彼我の距離を無化する言葉を探っていると言えばいいだろうか。

 参照:「沖縄における〈非時間性〉-国民年金納付率と参与観察をもとに」(2008年)

 

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