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2021/06/04

『モーアシビからエイサーへ』(井谷泰彦)

 「モーアシビからエイサーへ」。与論でもはまるで自然発生であるかのように定着したエイサーを面白く思っていたが、「モーアシビから」、なるほどそういうことだったのかと合点した。

 それとは別に驚かされたのは、鳥越憲三郎が鳥居の建立を提言したことだった。島にある不似合いに巨大な鳥居は近代の傷痕のように見える。しかし、それは「鳥居を立てることによって、神殿もない御嶽が壊されるのを防ごうとしたのである」、「鳥居を立てるという、一見同化主義を思わせるやり方が、結果的には琉球神道(御嶽信仰)を守ったのである」。

 まだ原典に当たっていないが、もしそういうことなら、苦々しさが和らぐというものだ。ないものねだりは分かっているが、「方言」もそういうようにやれたらよかった。共通語の習得を方言の禁止なしに行えれば。共通語を習得することが、方言を守ることだという筋道で。鳥越の発想はそういうことを気づかせる。

 もうひとつ、立ち止まらせたのはこういうくだりだ。

 南洋に恋い焦がれたゴーギャンがタヒチの男を描けなかったように、また疫病により人口が三分の一にまで減少して苦しむタヒチを描くことができなかったように。そして未開社会へ向かう文化人類学者たちが、悪霊と戦う神がかりの女性の「参与観察者」として留まり、客観的な合理主義的視点を外すわけには行かない為、呪術に生きる神女の思考を内在的に辿ることができない姿にも似ている。「内側からの眼」の不在である。

 ここは、まだこういう声を聞くことはできるのかという小さな驚きがあった。ちょうど先日も、あるイベントで、本土に持ち帰る研究に対して、ときに白々しくときに厳しい眼を向けていると発言したばかりだった。それは引用のような自問のかけらもない壇上の人の発表に呆れたからだった。

 もちろんわたし自身にしてもそうした視線を向けられる側面を少し持っている。そこでは普遍性に至る深度があるかを自分に問うが、それでも『ハジチ』に取り組んだとき、これは書いていいのだろうか、島の秘密ではないかとためらう個所があった。

 他方で、人類学者のインゴルドが「他者を真剣に受け取ること」(『人類学とは何か』)と書いていて、まだしてなかったんかいと突っ込みを入れたくなったが、こと琉球弧についていえば、現在では「内側からの眼」がすでに希薄化していて、島の自然のように鮮やかなネタを提供するフィールドではなくなりつつある。そこでは、観察される側も、変換の果てのような状態しか見せられない。このとき「参与観察者」が、ともに探究を行う参与の形がありうるのではないかと思う。

 本書では、刺青の消滅についても触れられている。

 刺青の習俗が廃れていった大きな理由は、時代に目覚めた女性たちの意識の変化が介在している。刺青習俗への禁止は、生活習慣の合理化という近代化政策としての要素も大きい。女性が刺青をするには、大変な苦痛を伴った。場合によっては、術後1ヶ月間も手が腫れて仕事ができなかったという。すべての沖縄女性が、喜んで刺青を彫っていた訳ではないのである。「針突をしていないと、ヤマトへ連れて行かれるよ」と脅されながら、彫っていたのが実情である。近代に入り、自分たちの習俗を相対化する眼を獲得した女性たちが、刺青を彫る必要性について疑いを抱きはじめたのである。

 同様に、映像記録のなかでも、嬉しくて見せに行ったという女性の述懐を見ることができる。彫る彫らないの選択の前に、彫った女性のその後に消失への過程は胚胎している。比喩的に言えば、人見知りは他者の視線を過剰に意識する。方言を喋れることは見えないが、刺青は視線に晒される。辛かったろうと思う。

 モーアシビする女性の手にも刺青はあった。モーアシビを継承するのはエイサーだけではきっとないのだと、本書を読んで連想が広がった。

 

『モーアシビからエイサーへ―沖縄における習俗としての社会教育』(井谷泰彦)

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