『映画 想像のなかの人間』(エドガール・モラン)
エドガール・モランのこの図のなかで、投射(分身化)と同一化(変身)は、人間と非人間に対して行うものと一応の区別はされているが、投射と同一化は行きかうものとしても考えられている。彼の考えがよく表れている個所を引用する。
私たちの用いている意味では、この二つの概念は同一のものとはいえない。それは不幸にも私たちが非常にしばしば擬人化=擬物化という言葉を用いるように強いられているという理由からである。トーテム動物、たとえばボロロ族のオオムは、人間の擬物的な定着物である。全く本心からオオムの真似をする(それは第一に人間の働きかけによりなされるが、たんなる演技ではなく、鳥との同一化をめざすものなのだ)原始人は、祭において模倣しつつ、自らをオオムだと信じかつ感じているのである。同時にトーテム動物のオオムは擬人化される。それは祖先であり、従って人間なのである。だから、人間を事物の世界に類似したものと感じ、世界を人間的属性の相において感じるこの擬人化=擬物化の働きとの関係において、私たちは魔術的な世界を理解しなければならないのである。
レヴィ=ストロースのトーテミズム批判以前に書かれた文章は伸び伸びしていていい。モランは、ふたつの言葉に強いられているという書き方をしているが、それでも変身と分身の区別は重要だ。わたしの考える「生命の源泉」としてのトーテムは、この擬人化と擬物化が同致するところにある。そしてトーテムからの変身態としての人と、人の行う分身への変身とがある。ここでは分身は人ではなく、トーテムの変身態としての他の生命態になる。
モランによると、「融即はあらゆる知的な働きのもとにあり、その働きを支えている」。だから、レヴィ・ブリュルのように「前論理」「神秘的」と他者化しているわけではない。この点では、現代人と未開人を区別しないレヴィ=ストロースと同じ態度だ。けれど、「生命の源泉」としてのトーテムという考えは、いささか「野生の思考」を知的な方へ寄せすぎたレヴィ=ストロースより、モランに近しい。あるいはそれは、「未開人」と「原始人」の違いと言ってもいいかもしれない。
映画は、「融即の夢の偉大な祝祭」というコピーもとてもいい。
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