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2021/06/13

『映画 想像のなかの人間』(エドガール・モラン)

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 エドガール・モランのこの図のなかで、投射(分身化)と同一化(変身)は、人間と非人間に対して行うものと一応の区別はされているが、投射と同一化は行きかうものとしても考えられている。彼の考えがよく表れている個所を引用する。

私たちの用いている意味では、この二つの概念は同一のものとはいえない。それは不幸にも私たちが非常にしばしば擬人化=擬物化という言葉を用いるように強いられているという理由からである。トーテム動物、たとえばボロロ族のオオムは、人間の擬物的な定着物である。全く本心からオオムの真似をする(それは第一に人間の働きかけによりなされるが、たんなる演技ではなく、鳥との同一化をめざすものなのだ)原始人は、祭において模倣しつつ、自らをオオムだと信じかつ感じているのである。同時にトーテム動物のオオムは擬人化される。それは祖先であり、従って人間なのである。だから、人間を事物の世界に類似したものと感じ、世界を人間的属性の相において感じるこの擬人化=擬物化の働きとの関係において、私たちは魔術的な世界を理解しなければならないのである。

 レヴィ=ストロースのトーテミズム批判以前に書かれた文章は伸び伸びしていていい。モランは、ふたつの言葉に強いられているという書き方をしているが、それでも変身と分身の区別は重要だ。わたしの考える「生命の源泉」としてのトーテムは、この擬人化と擬物化が同致するところにある。そしてトーテムからの変身態としての人と、人の行う分身への変身とがある。ここでは分身は人ではなく、トーテムの変身態としての他の生命態になる。

 モランによると、「融即はあらゆる知的な働きのもとにあり、その働きを支えている」。だから、レヴィ・ブリュルのように「前論理」「神秘的」と他者化しているわけではない。この点では、現代人と未開人を区別しないレヴィ=ストロースと同じ態度だ。けれど、「生命の源泉」としてのトーテムという考えは、いささか「野生の思考」を知的な方へ寄せすぎたレヴィ=ストロースより、モランに近しい。あるいはそれは、「未開人」と「原始人」の違いと言ってもいいかもしれない。

 映画は、「融即の夢の偉大な祝祭」というコピーもとてもいい。

 

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2021/06/12

「沖縄における〈非時間性〉」(具志堅邦子)

 副題に「国民年金納付率と参与観察をもとに」とあって、「国民年金」の話ならと避けそうになったが、読んでみるととても面白かった。

 具志堅によると国民年金納付率の低いワースト10の自治体はすべて「沖縄」(奄美を含む)が占めている。これは都市化や経済的格差が原因とは見なされない。そうでないとしたら何か。ここで具志堅は、「夫来という時間意識自体が未成熟なのではないだろうか。そのために未来へ投資することが了解不能なのではないのか」という仮説を立てる。国民年金の納付率は、「沖縄の社会に横たわる非時間性を露出させてしまった」のだ。

奄美諸島から八重山諸島にいたる沖縄の社会は、非時間性を内包した社会であるというこ とがいえるであろう。そのために、未来という時間意識の形成は、未成熟なままにとどまっているのである。

  たとえばバス停では、

地元の利用客たちは行列を作らずベンチで待っているだけだった。通常、並ばずともそれなりの秩序があって、先に乗る者、後に乗る者が暗黙のうちに決定されている。この日は長蛇の列がすべて乗り終えてから、地元客が乗った。

 「白保の旧盆行事」でも非時間性は露出する。

獅子はメタモルフォーゼのための媒体であった。獅子に入るとき、彼らは変身する。獅子を通過することによって、日常性から非日常性の存在へ変身するのである。

 エイサーもそうで、「国民年金納付率の低い地域ほど芸能としてのエイサーの〈切れ〉は鋭く深いのである」。「エイサーという芸能が来訪神信仰を根強く残している芸能ではないだろうか」。

 わたしには、これはどれもそうだと思えた。それと同時に短めの文章でもあり、飛躍も感じられる。ただこれは批判ではない。わたしもよく「飛躍」を指摘されるが、飛躍しているつもりはないので小さく驚くことがあり、具志堅の物言いがわたし自身の飛躍を照らしているように感じられてくる。言ってみれば、飛躍は非時間性への即接続のことだ。

 この小論は、彼我の距離を言い当てていると思う。これは「近代の側から沖縄が語られるのではなく、沖縄の側から近代を語る試み」ともされている。「沖縄の側から」というのはわたしもそうだ。わたしの場合、「沖縄の側から」彼我の距離を無化する言葉を探っていると言えばいいだろうか。

 参照:「沖縄における〈非時間性〉-国民年金納付率と参与観察をもとに」(2008年)

 

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2021/06/11

「アニミズムを真剣に受け取る」

 レーン・ウィラースレフは、現地人が「人間と相互作用するように精霊とも相互作用するのだと主張するときに」、人類学者は「彼らは隠喩に溺れている」と解釈する。「彼らの話は通常の語りとして扱われるべきではなく、象徴的な言明として理解するべきだとされる」。現地人が「精霊に関して文字通りの真実だと考えているものを、本当のところは比喩的にのみ真実なのだと主張している」と、指摘する。

そうした二元論を基盤に、精霊は現実には実在せず、現地の人々の想像力のうちでのみそのように構築されているのだとして、我々は安堵するのである。

現地の人々の主張を、概念装置や隠喩だとして単純化するこの手の分析上の企ては、人類学の領域では今でも健在である。実際のところ現代のアニミズム研究のほとんどは、こうしたデュルケーム的な主題の変奏なのである。

 この辺りは、レヴィ=ストロースのトーテミズム言説批判を思い出させるし、著者にもそれは自覚されているだろう。

文化相対主義の主張は、西洋の認識論が土着の理解に対して持つ優位性の基盤を切り崩すのではなく、実際にはむしろ改めて強化するのである。

 ここにもレヴィ=ストロース流が反響している。けれど、「隠喩モデル」を離れようとするところ、レヴィ=ストロースも批判の対象になっているようにも見える。

 他方で、近年の人類学の文献では、「先住民のアニミズムは、西洋社会が失ってしまったとされる世界や他なる存在との根本的な親近性を表象するようになる」とも言われている。

 このことを意に留めると、人類学、でなくてもいいのだが、だれかが「トーテミズムを真剣に受け取る」ところまでもう少しなのかもしれない。

 

『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』

 

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2021/06/04

『モーアシビからエイサーへ』(井谷泰彦)

 「モーアシビからエイサーへ」。与論でもはまるで自然発生であるかのように定着したエイサーを面白く思っていたが、「モーアシビから」、なるほどそういうことだったのかと合点した。

 それとは別に驚かされたのは、鳥越憲三郎が鳥居の建立を提言したことだった。島にある不似合いに巨大な鳥居は近代の傷痕のように見える。しかし、それは「鳥居を立てることによって、神殿もない御嶽が壊されるのを防ごうとしたのである」、「鳥居を立てるという、一見同化主義を思わせるやり方が、結果的には琉球神道(御嶽信仰)を守ったのである」。

 まだ原典に当たっていないが、もしそういうことなら、苦々しさが和らぐというものだ。ないものねだりは分かっているが、「方言」もそういうようにやれたらよかった。共通語の習得を方言の禁止なしに行えれば。共通語を習得することが、方言を守ることだという筋道で。鳥越の発想はそういうことを気づかせる。

 もうひとつ、立ち止まらせたのはこういうくだりだ。

 南洋に恋い焦がれたゴーギャンがタヒチの男を描けなかったように、また疫病により人口が三分の一にまで減少して苦しむタヒチを描くことができなかったように。そして未開社会へ向かう文化人類学者たちが、悪霊と戦う神がかりの女性の「参与観察者」として留まり、客観的な合理主義的視点を外すわけには行かない為、呪術に生きる神女の思考を内在的に辿ることができない姿にも似ている。「内側からの眼」の不在である。

 ここは、まだこういう声を聞くことはできるのかという小さな驚きがあった。ちょうど先日も、あるイベントで、本土に持ち帰る研究に対して、ときに白々しくときに厳しい眼を向けていると発言したばかりだった。それは引用のような自問のかけらもない壇上の人の発表に呆れたからだった。

 もちろんわたし自身にしてもそうした視線を向けられる側面を少し持っている。そこでは普遍性に至る深度があるかを自分に問うが、それでも『ハジチ』に取り組んだとき、これは書いていいのだろうか、島の秘密ではないかとためらう個所があった。

 他方で、人類学者のインゴルドが「他者を真剣に受け取ること」(『人類学とは何か』)と書いていて、まだしてなかったんかいと突っ込みを入れたくなったが、こと琉球弧についていえば、現在では「内側からの眼」がすでに希薄化していて、島の自然のように鮮やかなネタを提供するフィールドではなくなりつつある。そこでは、観察される側も、変換の果てのような状態しか見せられない。このとき「参与観察者」が、ともに探究を行う参与の形がありうるのではないかと思う。

 本書では、刺青の消滅についても触れられている。

 刺青の習俗が廃れていった大きな理由は、時代に目覚めた女性たちの意識の変化が介在している。刺青習俗への禁止は、生活習慣の合理化という近代化政策としての要素も大きい。女性が刺青をするには、大変な苦痛を伴った。場合によっては、術後1ヶ月間も手が腫れて仕事ができなかったという。すべての沖縄女性が、喜んで刺青を彫っていた訳ではないのである。「針突をしていないと、ヤマトへ連れて行かれるよ」と脅されながら、彫っていたのが実情である。近代に入り、自分たちの習俗を相対化する眼を獲得した女性たちが、刺青を彫る必要性について疑いを抱きはじめたのである。

 同様に、映像記録のなかでも、嬉しくて見せに行ったという女性の述懐を見ることができる。彫る彫らないの選択の前に、彫った女性のその後に消失への過程は胚胎している。比喩的に言えば、人見知りは他者の視線を過剰に意識する。方言を喋れることは見えないが、刺青は視線に晒される。辛かったろうと思う。

 モーアシビする女性の手にも刺青はあった。モーアシビを継承するのはエイサーだけではきっとないのだと、本書を読んで連想が広がった。

 

『モーアシビからエイサーへ―沖縄における習俗としての社会教育』(井谷泰彦)

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